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2019年9月

オリンピック,メガイベント関連文献(英語編18)

Allen, J. and Cochrane, A. (2014): "The Urban Unbound: London's Politics and the 2012 Olympic Games," International Journal of Urban and Regional Research 38 (5): 1609-1624.
オリンピックに関連する都市再生事業には民間企業を含め、さまざまな組織が関わっているため、オリンピックの効果は都市内で収まるものではなく、境界を越えていく、ということが主題のようだ。2012年ロンドン・オリンピック大会を事例としながらも、具体的な説明と同じくらい、学術的な議論が展開されているため、なかなか論旨がつかみにくい。ハーヴェイやマッシィのような地理学者による場所論を用いながらも、コックスのスケールや領域性の議論も展開している。オリンピック開発に関わるさまざまな組織について説明がある。米国ワシントンのアナコスティア川のウォーターフロント再生事業を手掛けた人物や、シドニーのオリンピック公園開発に携わった人物などが、イースト・ロンドンのオリンピック開発に関わっているという。なお、このオーストラリアの会社レンドリース(Lend Lease)は日本法人もあるらしい。
http://www.lljpn.com/index.html
イースト・ロンドンでは住民の転居が行われ、選手村建設のために住居は取り壊された。その選手村は、カタール資本の不動産に売却される。こうした事例は近年の場所論で説明される。アッシュ・アミンの議論も登場するが、領域的な場所ではなく、政治的影響力が移動可能な形式のネットワークとして、結びつきの政治という状況を呈する。バスケットボールのトレーニングセンターはODAOlympic Delivery Authority)によってレイトン湿地に計画され、「レイトン湿地を救う」という団体が反対キャンペーンを行っている。他にも芸術を用いた抵抗運動が行われていたようです。また、アートを中心とした活動も、オリンピック開催時期に実践されていたようです。とはいえ、アンチ五輪という運動というよりは、オリンピックとともに日常生活を送るというようなメッセージのようです。Wikipediaで調べると1996年に設立された市民団体「London Citizens(現在はCitizens UKに改称)」の活動も紹介されています。この団体はODAとの取り決めで、契約者には労働者に対してロンドン生活水準賃金(LLW)を約束させた。また、この団体が活動支援をしているイースト・ロンドン土地トラストという団体も設立し、イングランドで初めての都市共同体の土地トラスト組織だという。まあ、そんな感じで2012年ロンドン大会をめぐっては、開催側もさまざまな組織をアウトソーシングして、また草の根市民グループもいくつかあり、交渉を行うことで自らの権利を主張している。そうした組織・団体はさまざまな規模で、ルーツを持ち、領域的な行政区画の政策に限定されない、スケール横断的な政治が行われる。

 

Ivester, S. (2017): "Removal, Resistance and the Right to the Olympic City: The Case of Vila Autodromo in Rio de Janeiro," Journal of Urban Affairs 39 (7): 970-985.
米国の社会学者による、2016年リオデジャネイロ大会のファベーラの移転を扱った論文。タイトルにあるように、ルフェーヴルの「都市への権利」概念を中心とする考察。とはいえ、ルフェーヴル自体の文献は引用がなく、近年の地理学・社会学の文献を参照しています。私はちょっと前にルフェーヴルの『都市への権利』を読み直し、またハーヴェイによる「都市への権利」論が掲載された『反乱する都市』も読んでみたが、正直言ってこの概念は理解できていない。しかし、この論文では非常に分かりやすくこの概念を定義している。つまり、「都市生活を楽しむ権利、この権利の定義において空間の使用の重要性を強調すること。この権利の基礎と表現としての自己管理」、また「都市への権利は都市居住者の二つの原則的な権利、すなわち参加participationの権利と専有appropriationの権利を含むように洗練される」(p.972)とある。こんな常識的な定義がルフェーヴルのいわんとすることなのだろうか。とはいえ、リオデジャネイロ大会に関する議論は非常に興味深い。中盤では反オリンピック運動の事例がいくつか紹介される。そして、リオデジャネイロの説明に入るが、数あるファベーラのうち、この論文ではヴィラ・アウトドローモが選ばれている。まずは、ここの歴史が概観される。市の西部、ちょっと内陸に入るが、湖畔にある地区。この地区を含むバーハ・デ・チジューカという地域は、1980年代から中流階級のための高層住宅が建設され、レジャー施設や商業施設が開発され、2000年から2010年の間にも人口は倍増している。一方で、低所得者向けの住宅は無視され、低所得者たちは未利用地に勝手に自らのコミュニティを建設した。当初、この地域の建設に関わる労働者も含む低所得者たちは、長距離をバスによって通勤していたが、そのうち近くに住み着くようになり、その後家族を呼び寄せる。ヴィラ・アウトドローモは湖岸にあり、1970年にはF1のサーキットが建設されるが、その周囲に作られたファベーラである。建設労働者やブラジル北部からの移住者によるコミュニティが建設される。元々は湖の漁民たちによるコミュニティがあり、それは1987年に組織化され、コミュニティ内には自動車修理工場やバー、大工、美容室、小さなレストランなどもあった。リオの他のファベーラとはかなり異なっている。1980年代にはこの辺りに音楽フェスを開催する「Rock in Rio」なる施設もあり、にぎわっていたという。1993年からは段階的にこのファベーラの撤去が進み、2007年のパンアメリカン大会、そして2016年にはオリンピック公園として開発されるようになる。住民の組合は市役所の前で抗議活動をするなどし始める。2009年には新しい市長がヴィラ・アウトドローモを含む123のファベーラを撤去することを決める。行政は英国の建築会社にオリンピック公園の設計を委託する。2010年になると、ヴィラ・アウトドローモの地区はメディア・センターとオリンピック・トレーニング・センターになると説明される。その行政による計画(city's plan)に対抗するように、住民たちは近隣の大学の専門家に依頼し、民衆の計画(Popular Plan)を作成する。それによれば、市の計画が全世帯の移住を要求するのに対し、500世帯が残留し、82世帯だけの移住によって成立するという。移住にかかる費用に関しても、市の計画が1世帯当たり63,000レアル(約216万円)であるのに対し、民衆の計画では500万レアルと80倍の金額が試算される。この計画は英国やドイツの大学で受賞し、賞金も得ている。その賞金の一部を住民の声を伝える報道に用いたという。結局、この計画は採用されず、移転を強いられた住民には以前より狭い住居が与えられ、コミュニティは分断された。ほとんどが移転したとはいえ,在留した20世帯については建て替えられた新しい住宅が同じ地で提供された。元々500世帯がひしめき合っていた土地に50戸の住宅である(30世帯はどこから来たのかは不明)。

 

Fussey, P. (2015): "Command, Control and Contestation: Negotiating Security at the London 2012 Olympics," Geographical Journal 181 (3): 212-223.
Fusseyは以前紹介したCoaffeeとともに、ゴールド夫妻『オリンピック都市』に「セキュリティ」を執筆している社会学者。この号の『Geographical Journal』は「メガ・イベントのセキュリティ化」という特集を組んでいる。Coaffeeと同様に2012年ロンドン大会を扱っていている。民族学的調査と40人のセキュリティ専門家に対する半構造インタビューと20人のセキュリティ計画者への追加インタビューから構成される。主に、フーコーの議論に依拠しているが、なかなかすっきりと理解できない。ロンドン大会直前の反対運動と逮捕者の事実がいくつか示される。オリンピック村建設に伴って破壊されたクレイズ・レーン地区の住民や、以前にも別の文献で出てきたバスケットボール・トレーニングセンターの開発地となった湿地における「レイトン湿地を守る」などの活動家、開会式前日の182人のサイクリストが参加した「クリティカル・マス」(自転車を使ったデモ行進のようなもの?)でも大量の逮捕者が出たとのこと。アディダスの低金銀労働に抗議するためのメッセージを集合住宅の壁に投影したりと、さまざまな反対運動が展開され、警察がそれらを取り締まる。オリンピックのセキュリティをカフカの『城』になぞらえて、何が起こるか分からないものに最大限の備えをすることの愚かしさが示されます。
主要なターミナル駅から競技施設までの「グレー空間」についても論じられます。ターミナル駅や空港などはイベントでなくても警備対象で、イベント施設はまたそうですが、その間をつなぐ経路でもセキュリティは重要ですね。と、ここまでわかったように書いていますが、正直言って久し振りに知らない単語の多かった論文。最後にはG4Sという民間の警備会社(といっても日本の警備会社を想像してはいけないかもしれません。最近は軍事的なものまで民間委託される時代ですから)の不備について書かれているが、詳細は不明。ただ、「ほとんどの警備員はオリンピックにはかかわりたくないといっている」(p.221)という従業員のインタビューはなんとなく納得。結論でも書かれていますが、「警備と監視の実践は、場所の偶有性に形付けられ、また形付ける」(p.222)というように、状況によって要求される警備の量や質が、契約後に変更されるようだ。

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オリンピック,メガイベント関連文献(日本語編3)

稲葉奈々子(2015):東京オリンピックと都営霞が丘アパート.寄せ場 27: 61-75
国立競技場の南側に約300戸の霞が丘都営アパートがある。戦前からある「旧霞」と1947年に建設された「新霞」とがあり,いずれも1964年東京オリンピックの際に,新しく建て替えられた都営アパートへの住み替えか,建て替え時の移転かをさせられた。2013年にオリンピックの開催地が東京に決まるが,それ以前に2019年ラグビーのワールドカップに向けて,国立競技場の建て替えが決まっていたようで,この霞が丘都営アパートの住民には20127月の時点で移転の通知がなされている。その後,2013年にオリンピックの開催が決定し,住民に対して新宿区内のいくつかの都営アパートが移転先として提示されたが,論文執筆当時当時約230世帯が住んでおり,2013年の早期移転に100世帯が応じたという。201411月には東京都住宅局が移転の説明会や「意向調査」を行った。自治会の合意をもって全住民の合意とし,移転計画が進行する。20152月には移転を希望しない住民有志が都に要望書を提出する。
この論文は,著者が20146月に住民に対して行ったアンケートの結果と,アンケート回答者のうち,インタビューに応じた10名の方のライフストーリーが説明される。アンケートはポストが閉鎖されていたもの以外への全戸に投函され,43世帯の回答を得ており,回答率は24.7%とされている。このアパートは2DKの間取りでほとんどの世帯が高齢の夫婦世帯か一人世帯かである。移転を促された別の都営アパートは1DKが多く,荷物を処分しなくてはならないことや,そもそも高齢で引っ越し作業や新しい土地での生活の不安などが転居をとどまらせる大きな要因であった。また,ライフストーリーの聞き取りからは5080年間その土地で暮らしてきたことから生じるふるさと意識が大きいとされている。この論文で引用されているいくつかのインタビューは「反五輪の会」が行ったもののようだ。そして,都が行った意向調査には「転居しない」という選択肢はなく,また当時の舛添知事の定例記者会見での応答など,不誠実な対応もかれらに怒りと憤りを感じさせたという。なお,現在アパートは取り壊されている。

 

阿部 潔(2001):スポーツ・イベントと「ナショナルなもの」――長野オリンピック開会式における「日本らしさ」の表象.関西学院大学社会学部紀要 9086-97
まず,メディア研究者である著者はオリンピックをメディア・イベントとして捉え,自らの研究テーマの一つであるナショナリズムに関して論じる,というのが大きな目的である。対象は1998年長野大会の開会式であるが,開会式のテレビ放映を詳細に検討するようなメディア研究ではない。開会式はどういうものであったのかという事実を前提とし,それをめぐっての,主催者側の発言,開会式を批判するさまざまな人の意見(それらは各種雑誌などで発言され,メディアであるとはいえる)を検討し,開会式で表現される記号内容を検討するというもの。ある意味,古典的な記号論的メディア分析といえよう。近代オリンピックの始まりからして,世界中の多くの人が参加し,国対抗で競技が行われるという意味で,コスモポリタニズムとナショナリズムが共存しているのがオリンピック。開会式においても,それは新旧大会でいわれてきたことだ。まあ,それを1998年長野大会の各論として,日本のナショナリズムとして例証したのがこの論文。開会式のプロデュース側も,それを批判する論者も,結局日本のナショナリズムを否定するよりも擁護しているところは同じであるということを確認し,グローバル化によってナショナリズムが消滅するというかつての幻想を否定するという,ありがちな結論にはなっていますが,こういう基礎的な研究は必要です。

 

阿部 潔(2016b):先取りされた未来の憂鬱――東京2020年オリンピックとレガシー.小笠原博毅・山本敦久編 『反東京オリンピック宣言』航思社,40-58
阿部は同じ年に所属する大学の紀要に書いた論文タイトルを「東京オリンピック研究序説」としているように,2020年東京オリンピックに関する研究を着実に進めている。この論文では副題にあるように,組織委員会が2016年に公表している「アクション&レガシー・プラン中間報告書」を丹念に分析している。この中間報告書では,1964年東京大会のレガシーだけではなく,返上・中止になった1940年大会にも触れているという。1940年大会については戦時期のことでもあり,研究では批判的に語られ,公的にはあまり言及されていなかったが,ここにきて,戦争の記憶を消し去ったうえで,來田も指摘しているように,3つの大会に共通する「復興」というスローガンのみが,2020年大会との連続性のために利用されている。これを阿部は「歴史認識・解釈の修正主義」と呼ぶ。1964年大会についても,その過度な開発・高度成長に伴って生じた負の遺産である「公害」には全く触れないという。この中間報告には①スポーツ・健康,②街づくり・持続可能性,③文化・教育,④経済・テクノロジー,⑤復興・オールジャパン,世界への発信,の5本柱がある。それらには政策的な目標があり,①医療費の削減,②エネルギー・観光負荷の抑制,③ナショナリズムの高揚,④セキュリティ技術を通じたテクノ・ナショナリズム,⑤総動員体制,日本の観光資源化。当然,こうしたプラン=計画は市民参加的なものではなく,政府主導のものである。とはいえ,スポーツや文化を盾とすることで,戦時下のような国民への政治的強制ではなく,国民が自ら楽しみをもって自主的に参画するものであることが演出されている。しかし,その達成するところは経済的なものが主である。ここにも阿部はやはりナショナリズムの変容を読み取っている。最後にレガシー概念の語源を示す。この語はもともと「宗教的な権威と使命のもとに派遣された人物(特使)が,その赴任地において果たすべき営為(ミッション)であった」(p.55)という。最後に長くなるが,著者なりの本書表題に関わる引用をしておこう。「2020年東京オリンピックに向けて作り上げられるレガシーは,あらかじめ「先取りされた未来」の姿を描き出そうとする。だが,偶有性に満ち,不確実でもある「社会」を自ら引き受ける勇気を持ち続けようとするならば,私たちはレガシーに潜む暴力に抗い,それを断固として拒否する意思と自由を示さねばならない」(p.58)。

 

西山哲郎(2015):範例的メディアイベントとしての2020 東京オリンピック・パラリンピック大会の行方について.マス・コミュニケーション研究 86: 3-17
冒頭でまず,1964年東京大会が,テレビ時代の到来を早め,国民のほぼ全員に同じ映像体験を提供したことに成功したメディアイベントだったとする。そして,2020年までに生じている「長期的な情報空間の変化」(p.4)に目を向けるべきだという。中盤では,2020年東京大会の問題をうんぬん語り,2012年ロンドン大会が模範例になるだろうという。一例として自転車文化の活性化を挙げている。日本選手の障がい者スポーツでの活躍を論じ,「そういう意味で「国威高揚」ができるなら,2020東京オリンピック・パラリンピック大会は,真の意味で豊かな社会を日本に実現する機会として利用できるだろう。」(p.10)と書いているが,その真意が読み取れない。メディアコンテンツの話は「最後に」とされてしまう。メディアイベントにおける歴史的な新聞社の役割を指摘し,テレビ時代には広告代理店が,インターネットとスマートフォンの時代にはどうなるのか。リアルタイム性を議論している途中で,なぜかオリンピックの放映権料の話が挿入され,テレビ以外の多様なメディアで今後どうなるのか,結論がないまま終わってしまう。

 

西村 弥(2018):東京オリンピック開催準備における政府間関係・組織間関係に関する考察.明治大学政経論叢 86 (34): 43-74
2020
年オリンピック・パラリンピック競技大会は20139月に開催都市を東京に決定した。20141月には東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が設立された(20151月に公益財団法人に移行)。201310月には政府内にも2020年オリンピック・パラリンピック東京大会推進室を設置した。20157月には「平成三十二年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法」が成立し、201510月には文部科学省の外局としてスポーツ省が発足する。著者は政治学で博士を取得し、行政学を専門分野としているようだが、この論文では「集権・分権/融合・分離」モデルを援用するという。
まずはオリンピック憲章から関わる諸組織の権限について確認している。実際の大会開催は開催国のNOCが運営するが、オリンピック競技大会に関するすべての権利はIOCが所有するものとされている。あらゆる側面においてIOCは最高権限を有している。権限の観点からは、オリンピックにおけるIOCJOC、組織委員会の関係は「集権・分離型」と整理される。ここで面白いのが、オリンピック関係組織と開催都市(東京都)という自治体との関係を論じる前に、オリンピックを招致するという行為における民主的正当性の有無を確認している点である。これは「地方自治法等で想定されている自治事務といえるのかどうかという点についても疑問が残る」(p.54)としている。20117月に石原都知事が立候補の意思表明をJOCに提出したとされる。9月には招致委員会が発足するが、東京都議会が正式に決定するのは10月になってからだという。ただ、結論的には手続き上は問題ないとされ、それ以上は論じられていない。東京都内に設けられた「オリンピック・パラリンピック準備局」の定員は265人、一方NPO法人である組織委員会の職員は11,33名だという。それらの多くは他の機関、団体からの出向者でまかなわれ、34%が都職員、民間企業から31.3%、地方自治体から18.4%、国から3.4%、その他12.9%だという。大会時には7000名規模に拡大される予定だという。都と組織委員会との関係は「分権・融合型」だという。上記した国のオリンピック・パラリンピック推進本部は、関係機関や関係団体に対して意見や協力を提供するのみだという。大きな権限は有していない。また、新たに設置されたスポーツ庁に関しては、庁内に「オリンピック・パラリンピック課」があるが、実質的な役割はない。ちなみに、スポーツ庁の定員は120名である。と、ここまで興味深い事実を確認しているが、結論としては「集権・分権/融合・分離」モデルでの分類を確認することで終わってしまっている。

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オリンピックのすべて

パリ―, J.・ギルギノフ, V.著,桝本直文訳・著(2008):『オリンピックのすべて――古代の理念から現代の諸問題まで』大修館書店,399p.2,500円.

 

本書も先日紹介した『オリンピック教育』とともに、最近存在を知った訳本。日本のオリンピック研究者としては有名な桝本直文が訳している。そして、ただ訳しているだけではなく、日本の状況である第4章と、自らの専門である映画に関する第13章を書き足しているのだ。「訳著者あとがき」には「原著の章と差し替えてある」(p.387)と書かれているが、原著からどの章が除かれることになったかは書かれていない。

序章
1章 オリンピズムという理念
2章 古代のオリンピック
3章 近代オリンピック競技大会の復興
4章 日本のオリンピック・ムーブメント(桝本直文)
5章 オリンピックとメディア
6章 オリンピック・マーケティング
7章 オリンピック大会の経済的・環境的インパクト
8章 オリンピック大会の開催
9章 オリンピック大会の政治学
10章 スポーツの倫理とオリンピズム
11章 薬物とオリンピック
12章 スポーツ、芸術、オリンピック
13章 オリンピックと映画(桝本直文)
14章 パラリンピック
15章 オリンピック教育――オリンピックの祝福

本書はこれまで私が読んだなかでなかった内容がいくつか含まれている。まずは、古代オリンピックについて。オリンピアの遺跡は、1766年に英国人が発見し、1829年にフランスの考古学者たちが訪れたとされ、本格的に発掘調査が始まったのは1875年だという。その調査に基づき、紀元前に行われていた古代オリンピックの内容が解説されている。私的には特に興味はないが。
4章は訳者の桝本氏による日本の事情についての説明だが,自らが関わっている日本オリンピック・アカデミーでの仕事を活かしたような内容であり,あまりアカデミックな文献は参照されておらず,詳しいのはオリンピック教育について。前半は圧倒的にオリンピック推進派の著書だと思っていたが,オリンピックがもたらす負の側面にもしっかり向き合っています。第58章の経済的側面や,第9章の政治的側面はそこそこ有体の記述ですが,第10章はこれまで読んできたものよりもかなり突っ込んでドーピングなどに関連した話が論じられています。この章を読むと,冒頭でオリンピズムに関して詳しく解説していた意味が分かります。まず,第10章では暴力について,スポーツに必然的につきまとう攻撃性と暴力との関係が論じられます。第11章では薬物について,基本的な薬物反対派の意見を挙げながら,それらがいかに根拠がないかを論証しています。とはいえ,決定的な批判意見は出しておらず,暗に「ルールはルール」というIOCの立場を意味のないものとしています。第12章の文化・芸術へのこだわりもやはりクーベルタンの理想を汲んでのものですが,かといってクーベルタンの思想を理想化しているわけではありません。この章に乗じて桝本氏は第13章を加筆し,全大会の記録映画について論じています。これはありがたい。特に,多くのオリンピック公式記録映画を手掛けていながら日本ではあまり知られていないバド・グリーンスパン監督の作品を詳しく紹介しているのはありがたいです。オリンピック研究は非常に蓄積があり,パラリンピックまで含めてしまうと収拾がつかないので,あまり読んでいませんが,本書では分量的に多くはないものの,丁寧に記述されており,その本質を理解するのに役立ちます。著者の2人はこれまで知りませんでしたが,最近読んだ英語論文の中で本書が引用されていて,そこそこ読まれている本なんだなと確認しました。

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今日は久しぶり一人の休日

2019年94日(水)

吉祥寺アップリンク 『メランコリック』
久しぶりに一人で行動。どこで何を観るか,とりあえず最近お気に入りの吉祥寺アップリンクの上映作品を調べると,『火口のふたり』も上映していたが,迷った末,もう少しマイナーな作品を選択。皆川暢二という俳優が演じる,東大卒でありながらさえない人生を送っている男が主人公。ど近眼眼鏡をかけてまさにさえない男を演じているが,眼鏡をはずすとかなり男前,そしてこの作品のプロデューサーでもあるという。監督は田中征爾というが,こちらも初長編作品だという。たまたま行くことになった銭湯でバイトを募集していて,働き始めると,その先頭で夜中,殺人が行われていたという展開。床屋で殺人が行われたというアメリカ映画『スウィーニー・トッド』を思い出す。主人公が初めて銭湯に行ったときに,吉田芽吹という女優が演じる高校時代の同級生と再会し,さりげなくアタックされて付き合うようになってしまうところとか,かなり不自然な物語展開もありますが,そこそこ楽しめる作品。個人的には最後のシーンがとても良かった。
https://www.uplink.co.jp/melancholic/

 

2019年916日(月,祝)

府中TOHOシネマズ 『天気の子』
今回はあまり積極的に観たいと思っていなかったが,4歳の娘が観たいというので,あまり乗り気でなかった8歳の息子と3人で観に行くことにした。上映開始からかなり経っていますが,まだ14回の上映で,私たちが観た11時台の回もほぼ満席でした。本作もそこそこヒットしているようですね。今回もネタバレでいきます。
息子が乗り気でなかったのは,拳銃が出てくるシーンがあること。案の定,はじめのシーンでは「だから観たくなかったんだよ」とシートに顔をうずめていました。幸い,主人公は銃を捨てて,物語は進行したので,そのまま見続けましたが,まさかの再び銃の登場。息子は号泣しながら悶えていました。かわいそうに。観終わった後私も本作における銃の存在について考えましたが,あのアイテムは必須条件だったのでしょうか?単に盛り上がりを作るためだけだったような気がします。改めて息子の感受性の強さを感じましたが,彼には悪いことをしました。銃が登場した2回目のシーンでは娘ももらい泣きをしてしまいましたが,『ライオン・キング』に続いての長編映画を,今回はトイレに立つことなく,観ることができました。子どもたちの記憶にどんな形でこの作品は残るのでしょうか。
さて,私の評価ですが,観る前にちょっとした評論文を読んでしまいました。相手役の女性の描き方が男性の欲望の反映だというもの。まさにそういう感じはありましたね。主人公を中心とした予定調和的な印象は否めません。ちなみに,今回は山本二三さんも参加しているようですね。気象に関する知識や,今回は古い神社に伝わる人柱の話は,『言の葉の庭』の時と同じように,古い日本文化への参照ということでしょうか?そして,近年のゲリラ豪雨や異常気象といわれる将来的なものへとつなげていく視点は,右翼化が進む現代日本に必要とされるものかもしれません。そういえば,外国人労働者やLGBTのような視点は全く欠如していますね。今回も舞台は『言の葉の庭』以降監督がこだわっている新宿・代々木付近で,今回はオリンピックも近いということで,千駄ヶ谷も含んでいて,建設中の新国立競技場がこれ見よがしに登場していました。それにしても,最後のシーンはよく考えると現実味がない。東京では3年間雨が降り続くとある。これは局地的なものであり,元々のゼロメートル地帯や,何らかの形での液状化や地盤沈下が起こるということはあり得るので,東京湾付近の一部が水没するという可能性はあると思う。しかし,映し出された上空からの風景は,明らかに海水面が上昇した場合の状況だ。局地的な雨が海水面を上昇させるわけではない。
https://tenkinoko.com/

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オリンピック教育

ナウル, R.著,筑波大学オリンピック教育プラットフォーム・つくば国際スポーツアカデミー監訳(2016):『オリンピック教育』大修館書店,285p.,円.Naul, R. (2008): Olympic Education. Aachen: Meyer & Meyer Verlag und Buchhandel GmbH.

 

読んでも読んでも出てくるオリンピック文献。筑波大学は体育系というのを東京師範学校の時代から持っていて、現在でもオリンピック研究者を輩出している。実際に2010年から監訳者となっている組織が付属学校でのオリンピック教育の実践を行っているとのこと。そんなことでドイツの研究者による英語の研究書が翻訳されていた。オリンピック教育はけっこう重要だが、地理学的観点からはちょっと遠いのでどこまで首を突っ込むか悩んでいたが、英語論文をあまりフォローしていないこともあり、日本語になっているものは読むことにした。

序論
I部 オリンピック競技大会-オリンピック教育-オリンピック教育学
 第1章 オリンピックとオリンピック教育
 第2章 オリンピック教育とオリンピック教育学
 第3章 国際オリンピック委員会によるオリンピック教育推進のための5つの段階
II部 オリンピック教育の歴史
 第4章 オリンピック教育の父と祖父――19世紀
 第5章 オリンピック教育の父と子たち――20世紀
III部 オリンピック教育の推進
 第6章 国際オリンピック委員会
 第7章 国際オリンピック・アカデミー
 第8章 国内オリンピック・アカデミー
 第9章 高等教育委機関とオリンピック研究センター
IV部 オリンピック教育の教育学的概念と教授法
 第10章 各国の体育カリキュラム
 第11章 オリンピック教育の教育学的概念
 第12章 オリンピック教育を行うための教授学的アプローチ
V部 オリンピック教育の評価研究
 第13章 オリンピック教育と教師・生徒のオリンピックに関する知識の評価
 第14章 オリンピックの理念とスポーツ活動での達成動機の評価
 第15章 オリンピック教育の普及プログラムと教授法の評価
結論

II部で分かるように、オリンピック教育とはクーベルタンが発案したオリンピズム(オリンピック理念)と深く関係しており、文化プログラムと同様に、スポーツ競技大会の付属物ではない。むしろ、クーベルタンはスポーツ競技を手段として、目的は教育的な側面にあった、ということは事前に知っていた。本書の前半では、そのことの詳細を知ることができる。まず、そういう訳で、クーベルタン自身は「オリンピック教育」という言葉はほとんど使わなかったという。むしろ、教育(education)ではなく、教育学(pedagogy)という語は使われていたようだ。第II部ではその歴史として、クーベルタンが英国のパブリックスクール、特にアーノルドの教育に影響を受けていたというのは、本書でも言及されているマカルーンの『オリンピックと近代』に詳細が書かれているし、有名な話である。本書では、それをさらに深堀し、またドイツの研究者であるという利点を活かし、ドイツのグーツムーツという人物が18世紀末に発表していた考え方にさかのぼることができるという。とはいえ、本書の探求はその起源探しではない。アーノルド流のスポーツを使った教育法というのは英国の独占物でもなければ、19世紀の発明品でもないということが示されている。そして、第5章では、クーベルタン以降の人たちが、その考えを現代に伝えている様子が、またドイツも含め辿られる。
III部では、オリンピック教育に関わる組織に関する説明となっている。本書の冒頭では、一般の人々にはあまりなじみのない「オリンピック教育」という言葉が、招致をめぐる賄賂やドーピング問題などと関連付けられる悪いイメージがあると書かれている。ということもあり、関連する組織としてアンチ・ドーピング機構(WADA)が挙げられ、その他にオリンピック・ミュージアムと重要なのが、国際オリンピック・アカデミー(IOA)である。この組織も歴史的には前身となる組織がいろいろあるが、この組織は1961年の開設とされている。その役割は、オリンピック研究や教育の国際センター、国際フォーラムの場、各国のオリンピック・アカデミー(NOA)との協力、などとされる。ということで、第8章は各国のオリンピック・アカデミーが説明される。1978年に設立された日本オリンピック・アカデミーは初期の設立である。日本については、開設後あまり活動が活発でなかったが、1998年の長野冬季大会以降、活動が活発になり、特に「一校一国」運動が有名になった。NOAはアジア、アフリカにも存在する。第9章では、オリンピックに関する学術研究を行う大学のオリンピック研究センターが示される。日本では筑波大学と高知大学が挙げられている。高知大学は知らなかった。前田という名の研究者がいることになっているが、特定できず。主要な研究者の名前が掲載されているが、私が読んできたオリンピック研究者の名はない。各大学のオリンピック研究センターが発行している雑誌などの情報も得られなかった。
IV部では、各国での体育カリキュラムが議論され、それとオリンピック教育との関連が論じられる。オリンピックの理念は全人教育であり、本書の言葉を用いれば、オリンピック教育とは人生哲学である。ということで、突き詰めればオリンピック教育は学校における体育という教科に限定されるものではないが、実際には限定されるのは仕方がない。p.193には興味深い表が掲載されている。オリンピズムに関わる教科領域には、スポーツでの努力、社会的行動、道徳的行動、オリンピックの知識という4つの領域があり、それぞれについて、性質・行為・態度という項目に対して、規範と価値観が示されている。オリンピック教育は体育・スポーツ教育とも関連し、やはり体を動かすこと、ゲームのルールを学ぶことを通して、規範を身につける。それを社会的行動や道徳的行動につなげる。オリンピック教育=スポーツ教育ではないから、オリンピックに関しては、クーベルタンに関すること、オリンピック憲章に関すること、また過去の大会に関することや開催都市に関することを知識として学ぶことも要求される。第V部は資料として興味深い。オリンピック教育を実施しているヨーロッパでは各国で、日本では中学生にあたる年齢の男女に対して、オリンピックの基礎的な知識に関するアンケートを実施している。その国別差異や、年齢、性別の差異について結果が報告されている。他にも、好きなオリンピアンや嫌いな選手、オリンピック・チャンピオンになりたいかなど、面白い質問がある。どうやら日本でも、岡出(おそらく岡出美則という研究者)という研究者が国際的なシンポジウムで長野でのアンケート結果を報告しているようだが、日本での報告は見つからない。
ともかく、本書を通じてオリンピック教育に関する幅広い知識を得ることができる。しかし、Lenskyjのような批判的な議論は全く参照されておらず、また体育・スポーツ、とにかく体を動かすことに抵抗がある人、また身体的な問題から体育・スポーツに関われない人、そういう人はあらかじめ除外されていることは否めない。

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〈東京オリンピック〉の誕生

浜田幸絵(2018):『〈東京オリンピック〉の誕生――1940年から2020年へ』吉川弘文堂,281p.3,800円.

 

オリンピック関係の文献を探しているときに突如見つかった著者の論文群。しかも、その一本は私が非常勤講師をしている東京経済大学の紀要『コミュニケーション科学』に2010年に掲載されたものだった。どうやら、東経大の博士課程を修了しており、現在は島根大学法文学部に勤めている。彼女の博士論文はミネルヴァ書房から2016年に『日本におけるメディア・オリンピックの誕生:ロサンゼルス・ベルリン・東京』として刊行されている。ただ、彼女の研究はグローバルな視点を有しているが、あくまでも歴史的研究であり、論文は読んだが、この高価な著書はまだ読んでいない。一方、本書は一般の書店でも売っていて、発売当初に中身をみていた。こちらも歴史的研究がメインながらも、やはり2020年大会をにらんでいることが分かったので、読むことにした。本書に著者略歴が書かれており、学部は成城大学を出ており、修士で英国のラフバラ大学に行っているということが分かり、なんとなく納得。失礼な言い方だが、東京経済大学だけでここまでの研究者が育つとは思えない(優秀な研究者はとても多いのですが)。

プロローグ――三つの東京オリンピック
1章 オリンピック招致運動前史――西洋のスポーツ・イベントと日本
2章 「東洋」初のオリンピック開催へ
3章 〈東京オリンピック〉の残像
4章 戦後の国際社会への復帰とスポーツ
5章 〈幻の東京オリンピック〉の実現――「世界の祭典」を開く日本
エピローグ――1964年から2020年へ

実は、本書を読み始めて納得したことがある。何度も書いているが、私は今国内外のオリンピック研究を読み漁っているが、きりがないので、2000年以降に限定して読んでいる。1964年東京大会にまで手を広げると収拾がつかなくなると思ったからだ。しかし、研究というのは継続的に行われるもので、ある時点の研究は過去の研究を参照する。そういう意味でも、過去の重要な研究があればその存在に否が応でも気づかざるを得ないはずだ。しかし、1964年大会後に記された目立った研究にはあまり見当たらない。本書によれば、1964年東京大会に関しては、各論的なものはあるものの、総論的な研究はさほど多くないのだという。そして、1940年の幻の東京大会を含めて、複数の東京でのオリンピックを検討する作業は実はあまり踏み込んでなされていないという。本書はそれをメディア研究の観点から行おうとするものである。
プロローグでは,近年の日本語で読めるオリンピック研究を概観し,国際化とグローバル化について議論している。著者によるオリンピック研究の面白いところは,常に日本のオリンピックとの関りを題材にしながらもそれをしっかりグローバル化の視点でとらえていること。地理学者はそこにこだわってしまうが,彼女は必然的にそこに目が行くというところは,地理学が学ぶことは大きい。第1章は1908年ロンドン大会に初めて日本人記者や文化人が参加し,新聞を通してそれを日本に報道したところから,2012年ストックホルム大会に選手が参加し,1940年大会に東京が立候補するまでの経緯を,歴史的資料を丹念にたどることで明らかにしている。とはいえ,日本は19世紀末にもオリンピックを新聞記事にしたことがあるという事実もしっかり示されている。また,論文ではなかなか紙面を示すことは難しいが,本書は要所で紙面の画像が掲載されていて,当時の雰囲気を知ることができるのも嬉しい。日本人がそもそもオリンピックが何なのかを理解することは容易ではないことが丹念に示される。こういうところはメディア研究の強みだ。本書は単なるメディアの調査だけではなく,それ以外の歴史資料もしっかりと押さえていることに特徴がある。帯に「「国際」と「グローバル」をキーワードに,連続性を読み解く。」とあるように,オリンピックが国内で完結するイベントではもちろんなく,だからこそ国外に向けられた目,国外から向けられた目を常に意識して,常に意識していたことが分析されている。そして,帯の「連続性」というのは冒頭にも書いたように,返上した1940年大会と1964年大会だが,第2章で1940年大会の返上までが整理され,第3章は返上後の動向,第4章は戦後の状況と1964年招致までが整理される。1940年大会の返上後,日本各地で聖火リレーをまねたイベントが行われたことは既に著者の雑誌掲載論文で読んでいたが,それ以外にも国際学童オリンピックなど,国内でも体育大会が盛んになった。また,1936年ベルリン大会の記録映画の日本での上映について語られたり,歴史資料の調査を楽しんでいる著者の様子が伝わるような記述が続き,読者までもがこの時代の疑似体験をしているようだ。戦後についても,さまざまなオリンピック読本や教科書に記載されるオリンピックなど出版物におけるオリンピックが整理される。1964年大会の聖火リレーについてはいくつか研究があり,そこそこ知っていたが,本書には当時作成されていた聖火リレーコースの地図が掲載されたりして,より現実味を持って理解できる。1964年大会時もやはり小中学生向けの教材など,かなり多くの出版物を通してオリンピックが宣伝されていることが分かる。テレビ中継については,著者の別の論文でも別の大会についても詳しく論じられているが,本大会に向けてCMがどうだったとか,現在のように事前の特集番組がどうだったのか,その辺も知りたかった。大会が始まると,こぞって小説家をはじめとする文化人が開会式をはじめとする大会評を新聞を中心に発表していたことがこの時代の特徴でもある。それはもちろん,肯定的なものだけではなく,否定的なものもあった。特に,アジアで開催された初のオリンピック大会であったのに,アジアからの参加国が少なかったという点を指摘する意見は少なくなかったようだ。それはもちろん,戦争の影響によるところが大きい。オリンピックに合わせて数多く制作された音楽作品についても語られる。これは現代も一緒ですね。しかも,1940年大会と1964年大会の大きな違いは戦中と戦後であるにもかかわらず,1940年大会のために制作された,戦時中を強く意識した楽曲が何の反省もなく蘇るなど,いかにも日本らしい。1964年大会でも芸術展示が行われた。
結局,2020年大会についての議論はエピローグまで持ち越されるが,思いのほか著者が熱く語っていることに驚く。最後の言葉を引用しておこう。「2020年東京オリンピックを経て,日本社会とその首都東京,そして19世紀末に人類が編み出したスポーツ・イベントは,一体どこへ向かうのだろうか。」(p.260

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転換点にたつオリンピック

新都政をつくる会編(2014):『意義あり!2020東京オリンピック・パラリンピック 転換点にたつオリンピック』かもがわ出版.

 

本書は編者である団体の機関誌に、20141月から8月にかけて掲載された「2020年東京オリンピックを考える」という連載をベースにして作成されたものである。2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の開催が東京に決定したのは20139月だから、かなり早い段階で、さまざまな異議を申し立てる団体がいたことに驚かされる。本書においてはまず、招致段階での開催計画を検討し、それがいかにIOCの「アジェンダ21」に反しているかを告発する。さまざまなオリンピック批判の論調としては、IOCが各国のオリンピック委員会、ないしは組織委員会に求める要件が厳しいことから、IOCにも批判の矛先を向けるが、本書の論調はそうではない。「アジェンダ21」をまずは肯定した上で、東京大会の開催計画がいかにひどいかを訴えるのだ。
湾岸地区は特に「世界都市博覧会」の開催予定時期を頂点としたバブル期に投資・開発されたが、その後日本経済の失速により負の遺産となったもので、今回のオリンピックでようやくそこに再投資できるという目論みを指摘しているところは、これまでもあった議論である。その上で、本書では湾岸地区は災害時に液状化や津波の危険があり、もしその対策をするとすればさらに高額な公的資金が投入される、という認識の下、1964年のレガシーである駒沢競技場をなぜ活用しないか、にこだわっている。開催計画では、選手村から半径8kmに収まるコンパクト大会を謳っているが、その中途半端な8kmという距離は、単に国立競技場を含む距離であるという。駒沢まで含めれば10kmでいいのに、国立競技場は含めるが、駒沢は含めないという論理で8kmが決まったと推測している。なぜ、10kmの駒沢を差し置いて、それより遠方の調布(武蔵の森総合スポーツプラザ)に新設するのか。
本書で初めて知って驚いた事実は、国立競技場に関するものである。オリンピック開催が決定する前に、ラグビーワールドカップの開催が決まっており、その時点で国立競技場を立て替える計画になったということはしっていたが、ラグビーワールドカップの開催が決定する前の2011年段階に、解体された国立競技場の改修計画がされていたということである。しかも、ネット時代の怖いところで、久米設計が行ったという改修計画の報告書抜粋版がネットで公開されているのだ。
https://architecturephoto.net/33850/
それはともかく、2014年初めの時点で、開催計画は大きく見直され、その計画変更に市民団体の訴えが効いているという。当初、葛西臨海公園内に計画されていたカヌー会場は、日本野鳥の会の訴えによって隣接する駐車場内に建設されることになった。以下の目次でも示されているが,この本でもロンドン大会を手本にするようなところもある。ロンドン大会への批判までは至っていないことは確認できる。また,〈データ編〉にある札幌市の住民アンケートの資料が非常に興味深い。これは今進んでいる冬季大会の招致の話ではなく2020年夏季大会に対する招致に関するものである。こんなことをやっていたのに,冬季大会は招致に向けて進んでいるように思えるのはどういうことなのだろうか。ともかく,いろいろ勉強になる本でした。

はじめに
Part1
 民意なき立候補
 異議続出の開催計画
 計画から外された駒沢競技場
 アベノミクス゛第4の矢”
 偽装されたコンパクト
 施設見直しを実現した都民の力
 曲がり角に立つオリンピック
 東日本大震災から3年置き去りにされる被災地
Part2
 酷暑の中のオリンピック
 東京大改造計画で東京は
 はじまった施設見直し
 ロンドン大会に学ぶこと
 オリンピックの改革
(各界からの提言)
  2020オリンピック・パラリンピックを考える都民の会
  日本野鳥の会東京
  新建築家技術者集団東京支部
  神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会
〈データ編〉
 2020オリンピック・パラリンピックを考える都民の会 施設見直し提案
 オリンピック憲章とアジェンダ21(抜萃)
 招致活動の経緯
 都議会オリンピック推進対策特別委員会資料
 札幌市広報招致アンケート
 新国立競技場関連

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親子で読む!東京オリンピック!ただし、アンチ

自由すぽーつ研究所編(2018):『親子で読む!東京オリンピック!ただし、アンチ』ジャパンマシニスト社,200p.1,800円.

 

本書はれっきとした単行本ですが、一応雑誌ということになっています。編者は先日紹介した影山 健さんの著作を編集した自由すぽーつ研究所の3人。団体名にはスポーツを謳っていますが、愛知教区大学での影山氏の教え子ということで、教育者であります。本書は「おそい・はやい・ひくい・たかい」という雑誌名の103号ということになっています。
https://japama.jp/oha_ichiran/
本書も単なるアンチオリンピック本ではなく、アンチの精神を子どもに教えるというコンセプトで書かれていて、他の号も子育て、学校、発達障害などのテーマが並びます。ちなみに、私は今、息子の通う小学校でPTAの役員をしています。このPTAでは、広報の第1号が役員紹介と教員紹介に充てられています。毎年テーマを決めて、プロフィール代わりに一言を入れていますが、今年度は「オリンピックに出場するとしたらどんな競技がいい?」という質問だった。私は迷わず「反オリンピック運動」と書いた。これが広報委員の中で物議をかもしたようで、会長経由で修正を要求された。子どもの夢を壊すから、みたいな言い方で諭されたのだ。まさにこれが影山氏のいう「オリンピックのイデオロギー」であり、本書もこうした世論に真っ向から対立するために執筆・出版されている。詳細目次を示したように、基本的には子どもの立場では思いつかないだろうが、子ども目線の素朴な質問に、編者たちが応えていくというスタイルをとっている。質問(Q)に対する答え(A)として、見開き2ページで簡潔な文章があり、ページをめくると「もっとくわしく知りたい人へ!」と題して4ページ程度の説明が続く。

はじめに 一度立ちどまって、冷静に見つめ直すために(岡崎 勝)
1
時間め 「オリンピック」ってなんだろう?
 Q1 オリンピックって、いつから始まったの?(山本芳幹)
 Q2 どうして最初、女性は出られなかったの?(岡崎 勝)
 Q3 オリンピックの選手って、どうやって決めるの?(岡崎 勝)
 Q4 オリンピックをやると、お金が儲かるの?(土井俊介)
 Q5 オリンピックは「平和の祭典」だって……ほんと?(土井俊介)
 Q6 ほんとうに「参加することに意義がある」の?(山本芳幹)
 Q7 ドーピングは、どうしてなくならないの?(岡崎 勝)
 Q8 オリンピックの種目は、どうやって決めるの?(山本芳幹)
 コラム① オリンピックに反対しづらい理由(岡崎 勝)
2
時間め どうなる? 「東京オリンピック」
 Q9 二〇二〇年のオリンピックは、どうして東京に決まったの?(土井俊介)
 Q10 東京オリンピックで、景気はよくなる?(山本芳幹)
 Q11 東京オリンピックが、学校生活にあたえる影響は?(岡崎 勝)
 Q12 ボランティアを募集しているけど、やったほうがいいの?(土井俊介)
 Q13 「おもてなし」って、なんだろう?(山本芳幹)
 コラム② 東京オリンピック、最大の問題は「予算超過」(土井俊介)
3
時間め 「スポーツ」に必要なことって?
 Q14 スポーツブランドが、かっこよく見えるのはなぜ?(岡崎 勝)
 Q15 スポーツは、小さいころからやっていたほうが有利?(岡崎 勝)
 Q16 勝つためなら、ちょっとくらい反則もOK?(岡崎 勝)
 Q17 やっぱり、スポーツは「結果」を出さないとダメ?(岡崎 勝)
 Q18 スポーツには「根性」が必要?(土井俊介)
 Q19 スポーツ選手がテレビCMにたくさん出ているのは、どうして?(山本芳幹)
 Q20 スポーツをすれば、健康になるの?(土井俊介)
 コラム③ 時代とともに変わってきた「スポーツ」(山本芳幹)
4
時間め 「障害」と「スポーツ」を考えよう
 障害者とトップアスリートに共通する生きづらさ−レクリエーションスポーツの可能性(熊谷晋一郎:小児科医)
 学校生活とパラリンピックに見る「平等」「公正」って?(山田 真:小児科医×岡崎 勝)
参考文献

例えば、これを私の息子(小学3年生)と一緒に読んだら、彼は理解してくれるのだろうか?実際にやって見なくては何とも言えないが、なんとなく完全には理解してくれないように思う。巻末の参考文献には、1972年から最新のものまで、一部関連書籍もあるが、オリンピックに関する日本語で出版された書籍が50以上も挙げられている。そのうち私が読んだのは8冊にすぎない。本書は学術書ではないし、これら参考文献の全てが学術書なわけではない。しかし、教育的言説の基本として、本書は一つ一つの事実に対し、その根拠となる文献を明示しているわけではなく、そして断定的な書き方をしている。本書の主張に私はほとんど賛同するが、この点のみは躊躇せざるを得ない。どうしても教育者の語り口として、断定的に子どもたちに教え込むという印象を感じてしまう。おそらく著者たちは教育現場ではそういう教師の立場性を軽減するような実践をしているのだと思うが、オリンピックというテーマに関しては、研究者ですら断定的に物事を語ることが難しい複雑さがあるなかで、仕方がないのだと思う。しかし、やはりこれまでの教育分野での実践を本書にも活かし、子どもとともに考えるオリンピックという立場を反映してもよかったのだと思う。

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批判的スポーツ社会学の論理

影山 健著,自由すぽーつ研究所編(2017):『批判的スポーツ社会学の論理――その神話と犯罪性をつく』ゆいぽおと,214p.2,000円.

 

本書は影山 健氏の遺稿を含め、いくつかの文章をその教え子たちが編集したものである。影山 健(1930-2016)は、1988年夏季オリンピックに名古屋が立候補していた時に反対運動をしていた学者であり、体育学や教育学を専門としていた。1981年に出版された『反オリンピック宣言』の第一編者であり、編者には本書の編集に携わった岡崎氏が名を連ねている。本書に書かれた経歴を見ると、東京教育大学(現:筑波大学)の体育学部を卒業し、東京大学大学院の教育学で修士号を取得している。終了後は文部省の事務官を務めた後、名古屋大学、東京都立大学、愛知教育大学で教鞭をとっている。本書は以下目次に発表年あるいは執筆年を記したが,1980年代の文章に加え,2020年東京オリンピック招致中の2013年に書かれた文章を収録している。前半はオリンピック批判だが,後半は著者なりの批判の根拠となる,体育・スポーツ批判で構成されている。

はじめに(岡崎 勝)
I
 オリンピックそのものを問う
 第一章 東京オリンピック招致をめぐる問題点について(20135月)
 第二章 日本の社会とオリンピック(19848月『体育の科学』)
 第三章 「オリンピック」に反対する名古屋市民の論理と行動(19819月『朝日ジャーナル』)
 〈補録〉反オリンピックをテーマとした研究と実践の記録――『アンチオリンピックス』創刊号より
 ■オリンピックをぶっ飛ばせ!工作者影山健教授の歴史的軌跡(土井俊介)
II
 批判的スポーツ社会学の論理
 第四章 スポーツに未来はあるか(19832月『体育科教育』)
 第五章 チャンピオンシップスポーツと学校体育(19811月『学校体育』)
 第六章 協働的ゲームについて――ある実験結果の紹介(19857月『月刊高校生』)
 ■研究があり、実践がある。その高いレベルでの両立をいまこそ学ぶべき(山本芳幹)
III
 体育を根本から問う
 第七章 いまこそ、批判的体育学を!(1989年「批判的体育・スポーツフォーラム」原稿)
 ■影山体育学の核心とは何か(岡崎 勝)
◇書籍解説(土井俊介)
おわりに(山本芳幹)

1980年代前半の体育の状況といえば,ちょうど私がスポーツに打ち込んでいた時期に重なる。私は小学3年生から少年野球をはじめた。8歳の頃だから1978年だ。中学校3年間も野球部に所属していたので,15歳になるまで,1985年までやっていたことになる。まさにこの頃は,体罰あたり前,水分を取るのは休憩時間だけ,先輩・後輩の上下関係という風潮がスポーツを支えていた。学校でも悪いことをした反省には廊下に正座など,そういう指導がまかり通っていた。私の父親はテニスをしていたが,スポーツ全般をテレビで観戦するのが好きで,野球は子どもがやっていたので当然のこと,テニスや趣味でたまにやっていたゴルフ(わが家は階級的にはそういう部類ではないのですが),マラソン・駅伝や相撲もよく観ていました。サッカーはまだ主流ではありませんでしたが,バレーボールなども含め,テレビで放映されるスポーツなら大抵見ていた記憶があります(スポーツに限らず,将棋や囲碁も)。私が小学生の頃はまだナイキは主流ではありませんでしたが,アディダスやプーマといったスポーツウェアが流行りだして,スポーツをやる子でなくても,ジャージを競って購入して着ていたものです。1930年生まれの著者にとって,1970年代後半からは競技スポーツがメディアを通して社会に浸透し,商業化された競技によって海外のスポーツメーカーの商品が日本に氾濫するのを目の当たりにして,ある種の危機感を抱いたのかもしれません。
そして,著者は単に学術的な立場を極めるだけではなく,自分が対象とする「体育・スポーツ」というものが広く子どもたちに関わるものであるがゆえに,大学を飛び出し,教育の現場に関わり,さらには市民団体に参画しながら,一定の論理を持って批判的な立場を貫いたといえそうです。第三章の〈補録〉によれば,彼を中心に日本でも『アンチオリンピックス』なる雑誌が発行されていたようで,これは探してみる必要がありそうです。彼は愛知教育大学に属し,愛知県で長らく活動をしていて,愛知万博などにも関わっていたようです。そんな活動がありながら,東京の招致活動に対して,私自身も含めて人々は何をしていたのだろうか。開催側も過去の調査・研究,活動から何も学んでいませんが,市民側も一部の人を除いて過去の遺産が継承されていなかったのでしょうか。私が関心を持って知ることが遅すぎたようです。そんなことを痛感させてくれる本でした。

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2020年東京オリンピックの研究

中村祐司(2018):『2020年東京オリンピックの研究―メガ・スポーツイベントの虚と実―』成文堂,177p.3,800円.

 

著者の論文はいくつか読んでいたが、非常勤先の大学図書館でそれらをまとめたものが著作化していることを知り、入手して読むことにした。装丁が非常に地味でアカデミック色が強いと思いきや、読み始めるとそうではないことに気づく。まあ、ともかく政治学専攻の著者による、観点としては他の文献とは異なるので、読み進めることにしよう。

1章 2020年東京五輪招致とスポーツ・ガバナンスの変容
2章 復興五輪事業をめぐるスポーツ行政の役割
3章 東京五輪とスポーツグローバル公共圏の形成
4章 東京五輪と日中韓スポーツ・ガバナンスの特質
5章 スポーツ・ガバナンスの新展開――スポーツ庁の設置と東京五輪
6章 新国立競技場建設における意思決定の歪み
7章 東京五輪施設のコスト分担をめぐる摩擦と調整
8章 五輪研究における知見と事例の接合
9章 東京五輪の説明責任――批判とコスト負担のあり方
10章 国家による東京五輪の管理と統制

著者の専門は政治学で、第1章でも私が読んだ2018年の論文でも「ガバナンス」という言葉が強調されている。第1章ではガバナンスを「組織統治」とし、オリンピックに関連するものを、日常的なスポーツ・ガバナンスとは一定の関係にありながら、かなり特殊な状況における非日常的なスポーツ・ガバナンスとしている。オリンピック・パラリンピック競技大会の開催にあたっては、さまざまな組織が関わっており、その理解は欠かせない。そういう意味でも、本書から学ぶことは多い。そして、営利団体ではないそうした組織は政府から独立しているものの、公的資金によって成立している。そうした資金の流れも把握したい。第1章は序章的なもので、全体を概観している。第2章はオリンピックそのものとは直接関係しないと思われるが、東日本大震災後の復興事業にスポーツが関連するものを列記している。第3章はアレント=ハーバーマス的な概念(とはいえ、引用は全くなし)「公共圏」を使って、オリンピックのようなスポーツイベントは特定の人々を対象にしたものだが、公的資金が投入されると同時に、スポーツ施設だけではなく、それに関連するインフラ整備がハード面・ソフト面においてなされるため、公共的な意味合いが強いと主張する。この章は後の章の各論に対する総論的な意味合いがある。第4章は今となっては、悪化の一途をたどっているが、執筆当時の2016年においては、2018年平昌大会、2020年東京大会、2022年北京冬季大会と続くアジアでのオリンピック開催に期待を込めている。第5章は政府組織の話。最終的にスポーツ庁は設立したが、著者はスポーツ省の設立を提案している。文部科学省内のスポーツ省ではなく、各章を横断する内容を含むため、内部組織ではなく、独立組織とすることに期待を込めていた。第6章ではタイトル通り、新国立競技場建設をめぐる顛末が整理されている。第7章もタイトル通りで,開催決定時の猪瀬氏から舛添氏,そして20168月から小池氏へと次々と都知事が代わり,選挙時にさまざまなパフォーマンスを行った小池氏は,オリンピックの開催計画に対し,さまざまな変更を行った。その変更による費用の増減を丁寧にたどっている。
ここまでは学術研究への参照はほとんどなく,ほとんどの情報源が新聞記事という形で論が展開してきたが,第8章の前半では「五輪研究における知見」ということで,英語圏の文献がいくつか紹介される。多岐にわたる研究を紹介した上で,話はまた第7章の続きで,2020年東京大会の費用分担に戻る。知見がどう事例に接合されているのかは不明。第9章では第7章,第8章の東京大会の計画・費用の説明を受けて,ようやく自身の専門分野(政治学,ガバナンス)の話に展開することが期待される。しかし,この章でも前半には英語圏の文献の紹介がある。今度はオリンピック批判と反オリンピック運動に関するもので,小笠原・山本編『反東京オリンピック宣言』の各章も丁寧に紹介される。この本で紹介される英語文献は,私が読んできたものはわずかしかなく,論文を読んだことがある研究者の著作が数冊あるほかは,ほとんどが論文集に収録されているもので,学術誌を中心に読んでいる私とは重複しない。この章では,そうした学術的なオリンピック批判を受けて,2020年東京大会について,復興五輪,IOC,日本国内の費用負担,大会関連経費,それに対する東京都の説明責任という議論が展開される。ここはなかなか説得的だが,でもやはり政治学の専門的研究への言及はない。第10章は総括として,2020年東京大会が抱える問題群を,中枢(コア)問題群,中位(ミドル)問題群,周縁(マージナル)問題群と分け,それぞれに国家が果たす役割を論じている。
一部を除き,参考文献がないことを学術的な価値がないと決めつける必要はないが,私が看につけた価値観からは高く評価はできない。ただ,評価したいのは行政の説明責任を一方的に問うだけでなく,自らを含む研究者の説明責任についても言及しているところだ。とはいえ,小笠原・山本両氏が岩波書店のブックレットという形で反オリンピックをさらに広めようとしているのに対し,いかにも流通の悪そうな想定と価格で訴える本書はどれだけの人に読まれるのだろうか。それはともかく,学術研究者の意見も学術雑誌ではなく新聞記事から引用しているのも含め,これだけ2020年東京オリンピックに関する国内の新聞記事を集めているものは他にみていないので,そういう意味での資料的価値が本書にはある。ただ,本書自体がメディア研究になっていないので,本書を資料として用いたメディア分析が期待できる。

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夏休みの映画

2019年724日(水)

新宿武蔵野館 『長いお別れ』
前期の大学講義最終日は午後の授業だけだったので,午前中映画を観る。蒼井 優の結婚報道があった後だったが,元々彼女の作品はよく観ているし,山崎 務が認知症を演じるというのは見逃せない。後で分かったことだが,監督は『湯を沸かすほどの熱い愛』の中野量太。この日は本来の上映予定期間を延長しての上映だったので,上映後に監督の舞台挨拶があった。そこから先に書きましょう。監督は恐れ多くも山崎氏に出演を依頼したとのことだが,山崎氏は事前に原作を読んでいて,この作品の映画化の話があれば,自分に出演のオファーがあると確信していたとのこと。
さて,作品ですが,やはりとても丁寧に撮られていますね。日本アカデミー賞の各賞を受賞したという『湯を沸かす』を観た時もそう思いましたが,秀作という言葉がよく似合う作品です。これといって,特別な芸術性とかそういう驚くべき体験をさせてくれるような映画ではありませんが,これはこれで映画の神髄というか,スタンダードな映画の良さを伝えてくれます。蒼井 優ちゃんの魅力も存分に楽しめます。
http://nagaiowakare.asmik-ace.co.jp/

 

2019年728日(日)

府中TOHOシネマズ 『ペット2
前作『ペット』を私は観ていないが,妻と息子で観にいったこともあり,息子が観たがって,娘も連れて観に行った。特に前作はあまり観たい感じではなかったが,今作は少しスケールアップしていて,それでいて前作を観ていなくても十分楽しめる内容だった。とはいえ,この辺りの作品群はすでにおとぎ話化している感があり,普遍的な物語展開というか,悪く言えば紋切り型の物語という言い方もできる。
https://pet-movie.jp/

 

2019年810日(土)

渋谷シネクイント 『さらば愛しきアウトロー』
この日は妻が子どもたちを連れて自分の母親の家に連れて行っていたので,久しぶりに一人の自由行動。久しぶりにライヴでも行こうかとも思ったが,家族旅行を前に金欠だったので,映画1本にしておくことにした。久しぶりに渋谷の街でも散策することにしよう。シネクイントはパルコ・パート3の上階に入っていた映画館だが,何となくそうじゃないかなと歩いて行ったら,やはりパルコは全巻建て替え中。スマホを持たない私は途方に暮れて一通り歩いて駅前の交番で聞いたら,丁寧に教えてくれました。かつての「シネパレス」がシネクイントになったんですね。選んだ映画はロバート・レッドフォードが俳優として最後の作品にしたというもの。実在した老人窃盗団を描く作品。スリを繰り返す老人というのはよく報道でも出てきますが,こちらは銀行強盗。しかも,被害に遭った行員は皆声を合わせるように,その紳士的な犯行に感心している。とある刑事がこの小さな銀行強盗を負い始める。最終的には彼を追い詰めていくわけだが...ロマンスあり,刑事の家族の物語あり,主人公のとんでもない人生ありの飽きさせない展開。そして,まさしくレッドフォードの俳優人生にも置き換えられるような,演技の集大成。そういえば,この作品はNHKの朝のラジオの土曜日版の一コーナー,緒川たまき「シネマ指定席」で紹介されていました。

2019年91日(日)

府中TOHOシネマズ 『ライオン・キング』
実写の「ライオン・キング」なんて,と予告編を観た時は思いましたが,なんと今年小学3年生の息子が学校の学習発表会で,学年の演劇の内容が「ライオン・キング」となった。ディズニーのアニメ版もあるようだが,わが家で契約している動画サービスでは配信されていないようだし,せっかくこの時期に上映しているので,実写版を観に行くことにした。娘も行きたいというので,上映時間2時間の作品に初挑戦。
実写ということだが,当然実際の動物に演技をさせるわけではない。しかし,何をどうやって作っているのか全く分からないほどの技術で動物たちが違和感なく演技をしている。もちろん,子連れなので観たのは吹き替え版であり,時折ミュージカル仕立ての本作で,そこに違和感が全くないわけではない(とはいえ,吹き替えの歌声もなかなか素晴らしかった)。私はストーリーを全く知らなかったが,コメディ要素も多いんですね。その主要人物(動物?)の吹き替えが佐藤二郎だったりして,こちらも楽しめました。案の定,娘が事前にトイレに行ったのに,予告編からジュースを飲みすぎて,途中でトイレに行ったことが残念でしたが,とても楽しめる作品でした。
https://www.disney.co.jp/movie/lionking2019.html

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