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2019年11月

オリンピック,メガイベント関連文献(英語編22)

Ren, X. (2017): “Aspirational Urbanism from Beijing to Rio de Janeiro: Olympic Cities in the Global South and Contradictions,” Journal of Urban Affairs 39 (7): 894-908.
要旨の冒頭から,「メガ・イベントに関する批判地理学的学究のほとんどは,略奪による蓄積の概念を採用している」という。「略奪による蓄積」とはハーヴェイの『ニュー・インペリアリズム』での有名な概念だが,この概念によって開発による立ち退きやジェントリフィケーションという負のレガシーを論じるのが定番であり,その状態を乗り越えようという試みであり,タイトルにある「熱望的アーバニズム」というキーワードを用いている。事例としては2008年北京大会と2016年リオデジャネイロ大会であり,以前に紹介したShin氏の論文と同様にグローバル・サウスの大会(中国は北半球だが)と位置付ける。熱望的アーバニズムはグローバルな熱望(グローバル・シティの一員になること)とローカルな現実(経済的不安定,不法居住の増殖など)のギャップを強調し,分析的視野を広げるものだと定義される。この観点においては,各都市の歴史的背景が重要で,オリンピック招致前後の都市マスタープランの変化とメガ・イベントの位置付けを辿っています。中国とブラジルの比較を通じ,国家の介入の度合いなども比較の対象になります。メイン・スタジアムの建設や開会式などさまざまな違いがあります。リオの場合は,ファベーラという都市における負の側面がありますが,近年においては外国人観光客の訪問地となったり,ファベーラの商品化も進んでいるといいます。北京の場合も城中村というインフォーマルな居住区があり,オリンピック関連開発に伴う立ち退きなどありましたが,それを覆い隠して一党支配の国家が強く介入してきれいな都市をグローバル社会に示す中国と,論文中では「脈動する民主主義」と表現され,負の側面もまるごとその都市の個性として表現するブラジルとで,メガ・イベントをめぐる,都市・国家のありかたの違いが出てくるわけです。

 

Sanchez, F. and Broudehoux, A-M. (2013): “Mega-events and Urban Regeneration in Rio de Janeiro: Planning in a State of Emergency,” International Journal of Urban Sustainable Development 5 (2): 132-153.
この論文はブラジルのフルミネンセ連邦大学の「グローバル化と首都」研究室,リオデジャネイロ連邦大学の「国家,労働,領域,自然」研究室という共同研究の成果の一部とのこと。リオについてはかなり論文を読んできましたが,1992年の環境サミットから,2007年のパンアメリカン大会,2010年世界都市フォーラム,2013年世界ユースデイ,2014FIFAワールドカップ,そして2016年オリンピック大会と数多くのイベントを開催している。そんな中で,再民主化といえる政治的変容や,都市政策のネオリベラル化などを経てきている。なお,この論文ではボイコフは引用されていませんが,クラインの「参事便乗型資本主義」やアガンベンの「例外主義」というボイコフと同じ参照を通じて,メガ・イベントに乗じた都市政策・開発のあり方を論じています。なお,2007年パンアメリカン大会における費用は過去最大で,かつ民間の投資額は20%にすぎなかったという。また,ワールドカップ開催時は,スタジアム周辺ではスポンサー企業以外の飲食物は排除された。読み終えてから少し時間が経過してしまい,長い論文なので,さーっと眺め返してみても,他の論文と違う論点があまり思い出せません。著者の一人Broudehouxはよく見る名前ではありますが,ちょっと残念。読んでいる時はもう少し得るものがあったような気もします。

 

Becerril, H. (2017): “Eviction and Housing Policy Evolution in Rio de Janeiro: An ANT Perspective,” Journal of Urban Affairs 39 (7): 939-952.
続いてリオデジャネイロの論文。こちらはロンドン大学で博士論文を取得したメキシコ大学の研究者によるもので,博士論文をもとにした論文。タイトルにあるように,アクターネットワーク理論(ANT)を援用してリオにおける立ち退きと住宅政策を論じたもの。こちらは,アクターネットワーク理論はともかくとして,住宅政策を政権の変化とともに丁寧にたどっているところに特徴がある。アクターネットワーク理論については,私がまだラトゥールを読んでいないこともあり,よく分からないこともありますが,公共政策文書(うまく訳せませんが,public policy InstrumentsPPIと略されています)の政治社会学にも依拠すると書かれています。セザール・マイア市長時代(1993-1996)にリオデジャネイロ市当局は住宅政策を作成し始めた。その時は新たな住宅建設よりもファベーラの都市化(インフラ整備=近代化ということか)を重視していた。住宅とは単なる住居ではなく,日照やインフラ,交通,教育,健康,余暇を含む都市構造の統合である,と1994年の市の文書に記載されている。ファベーラ対策重視の政策をFavela-Bairroと呼んでいた。このプログラムには建築家協会やファベーラの住民組織,建設会社などが関わり,銀行からの融資も受けていたようです。マイアの同胞であるコンデ市長時代(1997-2000)にもこの方針は継続した。2000年の市長選挙で,再びマイアが当選するが,この時代(2001-2004)に「新しい」住宅局長のアマラルによって,ファベーラの改良よりも住宅建設が重視されるようになった。それが州知事との対立をもたらす。この時期にファベーラにおける暴力や麻薬取引などが問題になり,立ち退きが論争の的になる。マイアの第三政権時代(2005-2008)には住宅局の予算が削減される。連邦政府のルーラ政権時代(2003-2010)の成長加速プログラム(PAC)は以前も紹介したことがありましたが,これが2007年で,リオデジャネイロのパエス市長時代(2009-2012)には,選挙時の公約に都市無秩序に抗する「秩序の衝撃」なるものがあったようで,やはりスラムの改良よりも住宅建設や立ち退きが優先される。2009年には2016年オリンピック大会のレガシー計画として住宅政策が重視された。さまざまな取り組みがなされたようですが,バス・ラピッド・トランジットやケーブルカーなどの建設に伴う立ち退きや移転などもありました。

 

Hiller, H. H. and Wanner, R. A. (2015): “The Psycho-social Impact of the Olympics as Urban Festival: A Leisure Perspective,” Leisure Studies 34 (6): 672-688.
英語圏のオリンピック研究のレビュー論文を『経済地理学年報』に投稿したものはすでに脱稿してしまいました。ヒラーの論文は以前から紹介していますが,この論文は共著者とともに,継続的に行われているもので,2010年バンクーバー大会に関する住民意識調査を論じた2011年の論文はしっかり読みましたが,この論文ともう一本はきちんと読まずに言及してしまった。ようやくきちんと読みました。今回は2010年バンクーバー大会と2012年ロンドン大会の比較ということになっています。バンクーバーでは自らしっかりと設計された調査をしているのに対し,ロンドンでは民間によるいくつかの調査がなされているようで,この論文ではそれらを利用しています。結果的には,開催が近づくにつれて住民の関心が高まり,ネガティブなものからポジティブなものン変化していくという有体のものですね。なので,この論文は調査結果の報告よりも後半の考察に力が入れられている。それは,ヒラーが1990年に書いた1988年カルガリー大会に関する論文で主張されていた,オリンピック大会が開催都市にもたらす正の側面を強調するものである。オリンピック大会は開催都市でのレジャーの時間と空間を拡大し,またその概念をも拡大する。また,ここではいわゆる日本ではパブリックビューイングと呼んでいる「live sites」にも言及している。私のレビュー調査ではオリンピック研究にパブリックビューイングを扱ったものがないと結論したが,どうやら英語圏ではありそうだ。この論文ではオリンピックの都市にもたらす正の側面をフェスティバルという概念でまとめている。この概念もお祭り騒ぎ的な意味では否定的にとられがちだが,賑わいや活性化という点では,やはり重要なんでしょうね。

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在野研究ビギナーズ

荒木優太(2019):『在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活』明石書店,286p.1,800円.

 

『アルコールと酔っぱらいの地理学』でお世話になった明石書店さんの本は最近何かと目に入るようになり,気になっていた本書。私は「地理学関連科目を担当する大学非常勤講師の雇用実態と意識」(2017年,E-Journal GEO 12: 280-293)なる論文も書いていて,最近は独立研究者を名乗るようにしたので,読みたいと思った次第。翻訳の際にお世話になった編集者にお願いして購入した。

序 あさっての方へ
第一部 働きながら論文を書く
 第一章 職業としない学問(政治学・酒井大輔)
 第二章 趣味の研究(法学・工藤郁子)
 第三章 40歳から「週末学者」になる(批評理論・伊藤未明)
 インタビュー1 図書館の不真面目な使い方・小林昌樹に聞く
 第四章 エメラルド色のハエを追って(生物学・熊澤辰徳)
 第五章 点をつなごうとする話(活字研究・内田 明)
第二部 学問的なものの周辺
 第六章 新たな方法序説へ向けて(専門なし・山本貴光+吉川浩満)
 第七章 好きなものに取り憑かれて(民俗学・朝里 樹)
 第八章 市井の人物の聞き取り調査(文学研究・内田真木)
 第九章 センセーは,独りでガクモンする(宗教学・星野健一)
 第一〇章 貧しい出版私史(文学研究・荒木優太)
 インタビュー2 学校化批判の過去と現在・山本哲士に聞く
第三部 新しいコミュニティと大学の再利用
 第一一章 〈思想の管理〉の部分課題としての研究支援(専門なし・酒井泰斗)
 第一二章 彷徨うコレクティヴ(共生論・逆巻しとね)
 第一三章 地域おこしと人文学研究(哲学・石井雅巳)
 インタビュー3 ゼロから始める翻訳術・大久保ゆうに聞く
 第一四章 アカデミアと地続きにあるビジネス(哲学・朱 喜哲)

編者も第10章を執筆しているが,とにかく変わっている。私以上にコミュニケーション能力がないようで,誰とも話さずに済む清掃労働で収入を得,両親のもとで生活をしている。1987年生まれということなので,私もまだ結婚していない歳だが,恋愛などもほとんど必要としないとのこと。とはいえ,ネットでの発信をきっかけにこうして紙の出版物を依頼されて出しているので,私より恵まれている(?優れている?)といえるかもしれない点はある。私も最近はもっぱら研究に関する書き込みを続けているブログをもう15年近くやっているが,出版社などからお声がかかったことはない。ただ,自虐的にそんなクソ人生でも「よく自分の書いたものを読み直す。読み直してつくづく「いいものを書いたな」と思う。」(p.180)というのは私と同じだ。その位の幸せを感じても罰は当たらないだろう,という。ともかく,そんな編者から生まれた,他13人から成る在野研究者の声を集めた重要な論集である。
在野研究とは,第6章や第11章でもかなり詳しく論じられているが,概していえば,大学などの研究機関に所属せず,自力で研究生活を続けている人のこと。ただ,14人いれば,本当に人それぞれである。私のように大学の非常勤講師という形で大学とわずかながらつながっている人はこのなかにはほとんどいない。私のように,大学常勤職への就職を諦めきれないような人物はあえて含めていないのかもしれない。そんな多様な在野研究者の姿を一人一人紹介したくなる本だが,それは別の機会にとっておこう。おおまかに共通する問題は,研究に費やす時間とお金の問題だ。とはいえ,それに関しては大学の常勤教員であっても同じらしいということは各人も認識しているが。
本書が重要なのは,在野研究者の実態が分かるからだけではない。そもそも,研究者が自分の研究生活について語る機会などないのだ。書きたいことを書いている私のブログすら,本書で書かれているようなことまでは記録していない。時折それに類似したことを知り合いの研究者について書いたりすると,お叱りを受けたりする。研究者としては大学を通じて公的に名の通った人間(大学教員)はプライベートをネットなどで公表してはいけないらしい。ともかく,本書には文献の探し方,インタビューの仕方,研究時間の作り方,研究仲間の作り方,学会の学術会議がどういうものか,学術誌の投稿の問題,学術出版の状況,など,詳しいものもあればそうでないものもあるが,在野に限らない研究者社会の実態をある程度明らかにしてくれる。とはいえ,在野だからこそ,大学に勤めるアカデミアには当たり前であることに苦労する,という意味でそういう些細なことが特筆に値するのだ。また,在野だからこそ研究に注がれた愛を十分に感じることができる文章でもある。第2章の執筆者である工藤郁子さんは,学術研究をオタク的感覚で捉えている。オタクというのはあまり表現的にふさわしくないかもしれないが,論文を読む行為を音楽を聴いたり,マンガを読んだりするのと同じように,そして,特定の作品(論文)について同人と熱く語り,その著者=研究者に会うことはアーティストと会うような感覚。この感覚,私にも分かります。
このブログを借りて,そして本書の読書日記という体裁を借りて,私自身が本書の執筆者に選ばれたとしたら何を書くかを書こうと考えていたが,今はその時間を割けないのでやめておく。研究者は単著を書くとなにかと家族への謝辞を記すことが多い。しかし,私は家族からの協力は得られていない。家事と育児の本の隙間で執筆活動をするしかないのだ。幸い,通勤時間は長いので読書時間だけは確保されている。しかし,そこでインプットしたものをこうしてblogでアウトプットすることを私自身の研究活動の責務としているため,読むペースでしか書けない。また,今は講義期間中真っただ中で,そちらの準備に取られる時間もある。ということで,この辺にしておきます。
あ,最後に一つだけ。本書の書名はちょっとどうかなと思いました。本書を手に取ってもらうためには「ビギナーズ」っていい響きですが,決して本書は初心者向けではない,と私は思う。

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「不法」なる空間にいきる

本岡拓哉(2019):『「不法」なる空間にいきる――占拠と立ち退きをめぐる戦後都市史』大月書店,238p.3,200円.

 

著者の本岡拓哉氏は1979年生まれ,関西大学で地理学を専攻し,大学院は大阪市立大学へと進学し,博士を取得している。こういう経路を取る人は関東に住み,大学に所属していないような私にもその存在は知られることになるが,なかなか接点はなかった。とある研究会で顔を合わせる機会もあったが,直接接する機会は,彼の学会発表で私が質問して以降のものだった。私自身も名前は知っているものの,彼の論文を読んだことはなく,その学会発表で初めてその研究に触れたが,その頃はすでに河川敷居住者を対象とした研究に移行していた。質問後,丁寧なメールをいただき,それ以降はなぜか私はそんなに頻繁に学会に顔を出す人間ではないが,学会に行けば顔を合わせるようになった。彼の奥さんも地理学者だが,彼女とは以前から面識があったことも,お互いに親しみを感じさせるきっかけだったかもしれない。ともかく,そういう次第で,出版早々に送っていただいた本書をようやく読むことができた。以下に本書の構成を示す(カッコ内は初出の出版年)

第1章 「不法」なる空間のすがた(2015年)
第2章 「不法」なる空間の消滅過程(2007年)
第3章 「バタヤ街」を問いなおす(2019年)
第4章 河川敷居住への行政対応(2018年)
第5章 立ち退きをめぐる空間の政治(2006年)
第6章 河川敷に住まう人々の連帯(2015年)
第7章 集団移住に向けた戦略と戦術(2016年)

私自身も本書のような研究を読むのにちょうどよい時期なのかもしれない。オリンピック関係の文献をよむなかで,evictionという言葉が「立ち退き」を意味し,オリンピックのようなメガ・イベントではかつてから立ち退きが行われ,最近でこそ強制立ち退きというのが行われにくくなってきたが(とはいえ,最近でも日本は新国立競技場建設に関連する立ち退きを行っている),それがオリンピック研究の一環としてかなり取り組まれているのだ。
一方で,本書で著者が取り組むのは副題にあるように,歴史的に行われた立ち退きである。容易に想像はつくが,冒頭でこの種の研究の少なさが指摘され,また本書で明らかにしたいことも明記されているのだが,それを解明するための史料の少なさに苦しめられている様子がよく分かる本である。第1章はそんななかでも,1957年に東京で行われたまとまった調査である『東京都地区環境調査』を丁寧に整理している。まずは入手可能な貴重なデータに関しては十分に活用するという態度は重要ですね。きれいな地図も作成されています。また,個々の不法占拠地区の土地利用の変化については,過去の住宅地図から地図上で確認する作業もしています。ただ,この作業はあまり実りが多くなかったように思える。図版として掲載されたものが明確に立ち退きを表現していないからだ。一方で,いくつか掲載されている空中写真は見事に立ち退きの実態を示している。私も2008年北京オリンピックに関するShin氏の研究を確かめるために,GoogleEarthなどで過去の空中写真を辿ってみたが,それは驚きだった。第2章は著者の出身地である神戸に舞台が移る。神戸市は著者の出身地というだけでなく,戦後バラックが街の規模が最大であり,またその対策でもその実績が高く評価されていたという。この章では,各行政資料に加え,市議会議事録や新聞記事なども活用されている。本書では後半に広島市の事例があるが,比較的広い河川敷をもつ広島市の太田川に比べ,神戸市の都市河川の不法占拠は,新聞記事の文章を読むだけで,衝撃的だ。自然堤防を挟んで緩やかな高低差を想像する一般的な河川(うちの近所の多摩川など)と比べ,人口堤防を挟んで,住宅地のはるか下を流れる都市河川。そんな縁に住宅を建て,糞尿などを宙に浮いた住宅部分から河川側に落とす,そんな図を勝手に想像してしまった。ともかく,神戸市では,周辺住民の匂いと不衛生状態の訴えの解消として,バラック撤去の政策が急務になったことがうかがえる。第3章では,再び『東京都地区環境調査』に立ち戻り,舞台は東京へ。一般的に用いられる「バタヤ」という概念を考察する。不法占拠の人々がどんな生業で生計を立てていたのか,バタヤの言葉はもの拾いと結びつく。宮内洋平氏の南アフリカ研究でもそうした下層の人々の生活は一般的だが,当時の日本でも一定の割合の労働者がいたということは知っている。私と同年代の社会学者である,下村恭広氏もそんな研究をしていた。この章では新聞記事の分析もあり,また別の資料を用いて,特定のバタヤ部落の消滅過程も辿っている。
第4章からは河川敷居住に焦点を合わせていき,まず全国的な傾向をつかみ,先行研究のある代表的な河川(熊本県の白川,静岡県の安部川,横浜市の鶴見川)などの状況が確認される。そして,第5章で再び神戸に戻る。特にここでは,どの不法占拠地区でも一定数存在していた朝鮮人部落について詳細な考察がなされる。この辺りからは元住民へのインタビューなども含まれている。章のタイトルには「空間の政治」とあるが,この詳細な事例研究を踏まえた何かしらの考察が欲しかった。第6章,第7章は広島市の事例に移る。広島市全体が太田川の扇状地だが,海に流れ出す河川流を人工的に処理すべき戦前から国の直轄事業として放水路の事業が始まる。しかし,周知のごとく広島は爆心地であり,事業の中断と,不法居住者の増大が生じた。本書の終盤ではその経緯と最終的にかれらが立ち退かされる過程を詳細に描いている。正直,これまでの読書はもどかしい気持ちにさせられてきた。史料に基づく誠実な分析であることが本書の特徴でもあるが,確実に書けないことは書けないという態度でもあるので,本書のタイトル「空間のいきる」という不法住宅に住む人のなまの生活がありありと描かれるわけではないのだ。もちろん,そういう人たちが積極的に記録を残すわけではなく,また行政側も撤去のために調査をする必要はあっても,それを積極的に保管するわけでもない。だから,復元するのは難しいことは分かる。第7章では,行政側の不良住宅地区の移転という政策に対して,そこに住む住民のために交渉を行った活動家たちの姿が丁寧に描かれている。残念ながら,住民の姿は最後まで断片的な写真でしか見ることはできないが,この読書は,戦後日本の都市を必死に生き抜いた人たちの姿に少なくとも地理空間というスケールで思いを馳せることができる経験だったと思う。
本書は「序論」の最後にドリーン・マッシーの『空間のために』における空間論を踏まえての考察とされているが,ここはちょっと気になる。マッシーはこの著作以前に「場所は静的で固定的なものではない」という場所論を展開していたが,『空間のために』はさらにそれを超えていく著作だと私は理解しているからだ。確かに,本書は場所論ではなく,空間論を軸にしていて,そういう意味では『空間のために』を踏まえるの正しいと思うが,もう少し丁寧な考察が必要だと思うし,序論で述べるだけでなく,結論でどのように「踏まえた」のかを最後に記してほしい。また,ド・セルトーの「戦略と戦術」を本書の後半で利用しているが,これに関しても文献にあるように,森 正人氏の議論の受け売り感が否めない。今更この形骸化した議論を繰り返すのではなく,原著に立ち戻った深い議論を展開して欲しかった。とはいえ,本書を読んで,学術書であろうとも著者の人柄がこんなにも溢れるものであるのだと強く感じた。

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