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2020年7月

現代のバベルの塔

新教出版社編集部編(2020):『現代のバベルの塔――反オリンピック・反万博』新教出版社,193p.2,000円.

 

私は最近Twitterを始めたが,「反五輪の会」をフォローしているため知った本。キリスト教の出版社ということで,少しうがった目線で見てしまったが,反五輪の会の代表であるいちむらみさこさんや,酒井隆史,田中東子,井谷聡子などといった面々が名を連ねているため,購入することにした。
本書は月刊誌『福音と世界』の2019年8月号特集に3編の新規論考,トークイベントの内容を収録して単行本として出版された。寄稿者の有住さんは1982年生まれの神学校非常勤講師,入江さんも非常勤講師,酒井さんは1981年生まれの大学非常勤講師,白石さんは1961年生まれの大学非常勤講師。いずれも著書をお持ちで,本書の文章も優れたものである。オリンピックの矛盾だけでなく,大学や学術研究の矛盾もはらんだ一冊なのだろうか。とはいえ,研究者は大学教員になるのが好ましいという価値観自体もおかしいので,この書き方もよろしくはないが。ともかく読んでみましょう。

はじめに
混乱の民として生きる――オリンピック・万博に反対する〈解放の神学〉:有住 航
生活againstオリンピック――路上のアーティストの見た景色:いちむらみさこ(インタビュー)
参加しない勇気――大阪万博をめぐる断片的省察:酒井隆史
トークセッション 「バベルの塔」なき世界へ:有住 航×いちむらみさこ×酒井隆史
「「古代の廃墟」としての近代」の廃墟:入江公康
オリンピックとカジノ万博は現代のバベルの塔か?――科学技術とプロテスタンティズムの倫理:塚原東吾
その輝きには要注意!――「参加すること」に意義はあるのか?:田中東子
ひとを線引きする――パラリンピックの歴史的変遷から:坂井めぐみ
Decolonialize This!――オリンピックと植民地主義:井谷聡子
これは私のからだではない――モノとのあたらしい関係について:白石嘉治

バベルの塔とは言わずと知れた『旧約聖書 創世記』に登場する逸話。私も2012年のオースター論文で,それについて論じるデリダやベンヤミン,ボルヘスについて検討した。その後も長谷川三千子『バベルの謎』(中公文庫版)なども読んだりした。有住氏の文章でもこの逸話が検討される。これまで私が読んできた論とは異なる論点が提示されていた。それは考えればすぐに分かることだが,実際にそうした塔を建てるのはエジプトのピラミッド同様,奴隷や戦争捕虜による労働だ。そう考えると,まさにこの隠喩は適切で,今回の2020年東京大会においても,新国立競技場建設に際して,建設作業員の過酷な労働や,また建築資材が国際的な調達基準に準していないものなど,さまざまな問題を引き起こしていた。万博についても同様のことを酒井氏が指摘している。そもそも1970年大阪万博において,その会場を作ったのは釜ヶ崎の日雇い労働者だったという。近年の大阪都構想についても厳しい批判がなされている。
アーティストのいちむらみさこさんは反五輪の会のイベントでお見かけしたことがあるが,どんな作品を作っているのか,野宿生活をしながらのアーティスト活動をしているということは知っていたが,その経緯は知らなかった。そこが語られており,非常に興味深い。彼女は自ら望んで野宿生活を続けているという。本書に一貫して主張されているのは「成長」言説の解体である。都市としても個人としても。そして個人としても都市としても,行政としてもこの成長を掻き立てようとするのが,オリンピックや万博といったメガ・イベントである。そういえば,学術的にも「成長マシーン論」でメガ・イベントを扱う研究があった。アーティストとして,良い作品を作ること。それは多くの人に見られる作品,評論家がよい評価を与える作品,高価で取引される作品,美術館やギャラリーで展示される作品,というのが一般的だが,いちむら氏はそこに疑問を抱いている。それはホームレスについても然りである。社会的にはホームレスは単にお金がないためにその立場に甘んじているのであり,お金があれば住宅に住み,職に就き,お金を稼いでお金を使う。まさに労働が国民の義務であり,納税の義務も労働の義務を果たしたからこそ果たし得る。しかし,極力お金を稼がない,使わない,という生活を自らが選ぶことも基本的人権である。「文化的な最低限度の生活」でいう文化的なとは何を意味しているのだろうか。そんなことを考えさせられる。
田中はオリンピックにおける女性参加についてこれまでも書いてきたが,本書においては2025年大阪万博における女性参加について紹介している。もちろん,現段階でそれが万博会場で実現されるわけではないが,現時点で提案されているものとして,「生理体験シート」「陣痛シミュレーター」「妊娠体験スーツ」を挙げ,その女性を極めて特殊な存在に押し込めようとするありかたを批判している。個人的に感銘を受けたのは坂井氏のパラリンピックに関する検討である。私は膨大な量のオリンピック研究を前にして,とりあえずパラリンピックを除外するしかなかった。オリンピック競技自体も競技者を男性と女性に線引きすることが批判されているが,パラリンピックはまさに何重にも人間を線引きし,表立って主張されている「インクルーシブ社会」とは正反対の道へと進んでいる。井谷氏による植民地主義の話は以前から書かれていた。しかし,本書の文章は13ページと短いながら,重要な論点がしっかり出そろっていて,素晴らしくまとめられている。以前にもオリンピックに対しては,学術研究者でも学術的な厳密さを欠いた感情論的な批判が,特に日本では多いと感じている。しかし,本書はその正当な感情がしっかりと基礎をなしていて,学術研究者として云々ということではなく,市民として,人間として正当なことが語られつつ,メガ・イベントに対する批判がなされていると思う。

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スポーツの魅惑とメディアの誘惑

阿部 潔(2008):『スポーツの魅惑とメディアの誘惑――身体/国家のカルチュラル・スタディーズ』世界思想社,281p.2,300円.

 

阿部氏の著作を遡って読むことにしました。オリンピックものに続いてスポーツもの。阿部さんは自身がテーマとしているものについての個人体なきっかけを書いてくれる人である。本書の「あとがき」にも「子供のときから,スポーツとメディアが好きだった」(p.275)とある。具体的にどのスポーツをやっていたかについては書かれていない。私は小学校3年生から野球を始め,中学校の部活まで続けていた。高校に入って野球はやめてしまうが,より自主的なスポーツを,ということでバドミントン愛好会に所属した。
果たして私はスポーツが好きだったのだろうか?私の父はスポーツが好きだったのだと思う。自身はテニスをし,ゴルフも人並みにたしなんだ。平日も早めに帰宅し,野球のナイター中継を見ながら家族で夕食を取った。相撲の場所が始まれば見ていたし,高校野球も然り。テニスの大会,ゴルフ,バレーボールのワールドカップ。サッカーはまだJリーグ設立前でテレビで放映される機会は少なかったが,ラグビーも見ていた気がする。ともかく,テレビで中継のあるスポーツはほとんど見て,それ以外にも囲碁や将棋といったNHKのチャンネルもよく見ていたうちの父親。それが標準かどうかは分からないが,そんななかで育った私は好き嫌いとは無関係にスポーツとメディアに囲まれる日々だった。確かに,私もメディア研究を志したが,スポーツを研究するなどほとんど思いついたことはない。体が小さいだけで,水泳以外,学校で行われる競技のほとんどで並み以上の成績をおさめていた私だが,おそらく今日の私を知る多くの人は私のことを文科系の運動音痴と思っていることだろう。
かなり私的なわき道にそれました。読書に入りましょう。

プロローグ
第I部 「身体」をめぐるナラティブとしてのスポーツ/メディア
 イントロダクション
 第1章 「スポーツする身体」への眼差し
 第2章 アスリートを語る「声」の攻防
 第3章 ホモソーシャルな関係の魅惑
 第4章 感動を喚起する「物語」の文法
第II部 「国家」をめぐるポリティクスとしてのスポーツ/メディア
 イントロダクション
 第5章 スポーツにおける「ナショナルなもの」の表象/代表
 第6章 「日本らしさ」の自己遂行
 第7章 「民族」のリアリティと「歴史」の現在
 第8章 オリンピック・スペクタクルの過去/現在
 第9章 グローバルな祝祭とセキュリティへの不安
 エピローグ

本書の存在は知っていたが,思った以上にオリンピックを扱った部分が多いことに今更ながら気づき,日本のオリンピック研究のレビュー論文で取り上げなかったことを後悔。本書に収録された既出論文が,ジェンダー関係の論文集やテレビ視聴に関する論文集に掲載されたものもあるように,本書のなかにジェンダーを論じた割合は大きい。またテレビ番組の解読もよく登場する。著者としては,カルチュラル・スタディーズを強く意識して編んだ本でもあり,表象や言説といった概念についても丁寧な説明が加えられている。
第2章では1996年アトランタ大会の女子マラソンで,金銀銅に輝いた3選手,ロバ,エゴロワ,有森裕子を取り上げたNHKスペシャル『女子マラソンメダリストの証言』を見事に分析する。ジェンダー論にメディア論,ナショナリズム論にグローバル論も含めた手堅い分析。第3章はよく思うことではあるが,学術界できちんと論じていることに安心する,スポーツ界での男同士の絆,ホモソーシャルな関係を,特に日本のプロレス界を事例に,こちらもドキュメンタリー番組の分析によって論じている。これらを通して,第4章ではドキュメンタリーの語りの手法について検討し,2000年シドニー大会の女子マラソンに出場した(しなかった)日本選手のドキュメンタリー番組を事例にしている。ここでは,番組を制作したプロデューサーへのインタビューも行い,分析に深みを与えている。
後半は前著(『彷徨えるナショナリズム』)でテーマとしたナショナリズムへと移行する。第6章の1998年長野大会の開会式についての分析は既出論文で読んでいた。こちらは開会式のテレビ放映を元にした分析だとは思うけど,ここでのメディア演出に関しては問われない。ここでは,開会式後に発表されたさまざまな人のメディアを媒体とした反応を分析している。まあ,ある種の受容分析といえるか。第7章では2000年シドニー大会の開会式を事例にするが,ここでは南北朝鮮の合同行進を取り上げている。こちらも,その物自体やその表現ではなく,日本のテレビにおけるコメンテイターの意見,そして大学生・大学院生を使ったグループディスカッションを行ったその結果の分析である。表題にあるように,「民族」と「歴史」がテーマとなる。日本国内の問題から,東アジア,そして第8章では,世界を対象とし,1964年東京大会,1984年ロサンゼルス大会,2004年アテネ大会の開会式の分析を通し,世界がどのように表象されるかを分析する。
こうして本書を通読して,本書は著者の研究者としての資質が非常に良い形でつぎ込まれているように思う。阿部氏は文献派ではない。本書では,モーレーとロビンスの翻訳されていない著書についてページを割いて説明しているが,それは珍しい例であり,大抵は○○の言うところの「△△」みたいな感じで,有名な論者の学説のエッセンスのみを使う感じ。また,事例研究のなかでも他人が行った研究を活用するような場面は少なく,自身によるメディア視聴,それに加えた調査を行い,分析をする。分析についても意識調査の集計程度の数値化はあるが,何か特別な技法を使った分析は少ない。字数の限られた学術雑誌では難しい,文字による丁寧な説明が特徴といえるかもしれない。事例研究を利用して難解な理論へと接続するような志向ではなく,むしろ難解な理論のエッセンスを利用して事例研究を通して現実社会を理解する,そういう研究者だと思う。最後に,オリンピックに関して本書の多くの部分が語られていたが,いずれも事後的な研究である。先日紹介した『東京オリンピックの社会学』は開催前の研究であり,そういう意味では決定的に異なる,ということに注意しなければならないだろう。

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五輪と戦後

吉見俊哉(2020):『五輪と戦後――上演としての東京オリンピック』河出書房新社,366p.2,600円.

 

本書の存在を知った時にはいくつかの驚きがあった。まず第一の驚きは,吉見氏の最近の仕事について私はきちんと読んでいなかったが,大学のなかで偉い立場に立つようになり,最近は大学論などもよく書いていた。その一方で,愛知万博に積極的に(?)関与し,社会学者として強調していた「メディア・イベント」に対して一線を引いた立場を取れなくなっていたように感じ,東京オリンピックに関しても広告代理店のお偉いさんとの対談などでも,批判的な態度などみじんも感じさせず,21世紀のこのメガ・イベントをいかに成功させるかを講じていたように思う。そうした態度は下の世代の社会学者からも批判されていた。そういう吉見氏が東京オリンピックに対して,かつての手法で取り組むということが意外だった。一方で,そういう立場でありながら自らの原点回帰のような地道な分析を含むこうした実証研究の大著を仕上げられるというところは敬服するしかない,という意味での驚き。
そう考えれば,私が『経済地理学年報』に掲載した英語圏のオリンピック研究レビュー論文で触れたように,メガ・イベント研究の初期の対象が万国博覧会であり,万博に対して継続的に取り組んできた著者がオリンピックを対象とすることは驚くべきことではない。そして,『都市のドラマトゥルギー』で見せた手法はまさにオリンピックを論じるにはふさわしく,日本の戦後を米国との関係で論じてきたことも本書に動員されるということは想像に難くない。
ちなみに,本書のタイトルを見て,反省することがあった。私は日本のオリンピック研究についてもできる限り網羅的にレビューしたつもりだったが,論文検索のキーワードに「五輪」を入れたことはなかったことを後悔。それだけでなく,本書に引用されている地理学者の松村嘉久さんの北京大会に関する文章を知らなかったことも大きな後悔。

序章 東京五輪という呪縛――シナリオが綻びるとき
第I章 ポスト戦争としてのオリンピック――舞台
第II章 聖火リレーと祭典の舞台――演出
第III章 メダリストたちの日本近代――演技
第IV章 増殖する東京モデル――再演
終章 ドラマトゥルギーの転位――「速く,高く,強く」からの脱却を

それにしても,さすがとしか言いようのない,のが読了後の感想。主張な著書だけでなく,優れた雑誌論文にはしっかり依拠して,それを自分の議論に組み込み,地道なデータの整理,メディア言説の見事な取捨選別とそれを自在に組み込んで自身の論を展開する技。そして,まさに『都市のドラマトゥルギー』の若かりし頃とは違い円熟した形での本書全体の構成をその枠組みで構成し,本書自体が一つの脚本のように読者を引き寄せる。簡単に内容を辿ると,本書の前半は1964年大会に関する考察である。まあ,まさに1964年大会はタイトルにある戦後そのものであり,まずその舞台設定として,戦時期および占領期の軍事施設が元になって,オリンピックに必要な規模のスポーツ施設が作られる。まずは,都市の観点の考察。第II章は主にナショナルな観点から聖火リレーについて語られる。第II章の最後には再び都市の観点で,都市計画としての競技施設配置の問題を論じ,それに関わった建築家,駒沢公園と代々木との対比がなされる。
第III章はいったん地理的な観点から外れ,マラソンランナー,女子バレーボール,オリンピック映画という主題が論じられる。そこにもナショナル・アイデンティティや当時の産業・企業・労働者といった社会学的な考察は忘れません。
第IV章は都市→ナショナル=日本ときて,グローバルなテーマに拡張します。東京大会から始まったオリンピックが冬季札幌大会,名古屋招致,冬季名古屋大会と,1964年大会が複製・増殖し,それと並行して1988年ソウル大会,2008年北京大会と,アジア初のオリンピックモデルが拡張していきます。吉見氏も「地政学」の語を時折使う人ですが,地政学的な考察が第IV章だといえましょう。
実際に愛知万博に関わり,ある意味そうしたイベント開催に際しての国の立場,国際組織の立場,地元行政の立場に翻弄されたのだろう,オリンピックに対しても2020年東京大会を含め,政府や行政に対して厳しい意見が本書には数多く含まれている。本書が後半にいくにつれ,では2020年東京大会に対して,どのような態度を取り,どのような意見が書かれているのか期待は高まる。しかし,1964年東京大会に向けて整備された首都高速道路を一つの事例に,そういうものを作り上げた1964年に対して,2020年は「日本橋周辺の景観を取り戻すために,効果の高速道路を取り払って地下化しようとの計画」を「喜ばしいこと」とし,日本橋近辺だけでなく日本橋川全体に広げればいいとも主張する。最後に来て,やはりこれが最近の吉見氏の考えなのだなと思う。一方で,東京西郊を発展させた1964年大会に対し,2020年大会を契機に東のエリアを盛り上げたいという気持ちもあるようで,それは吉見氏の弟子といっていいのかは分からないが東大出身の社会学者,南後由和に同様の考え方は受け継がれているような気もする。いずれにせよ,オリンピックをめぐる政府や行政の対応を吉見氏は批判しているが,オリンピックそのものについては,中止や廃止を考えることはなく,新しい形で継続していることを望んでいるようだ。

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東京オリンピックの社会学

阿部 潔(2020):『東京オリンピックの社会学――危機と祝祭の2020JAPAN』コモンズ,275p.2,200円.

 

突然出版社から送られてきた本書。といっても,もちろん著者から送られてきたのだが。私も東京経済大学の紀要『コミュニケーション科学』に掲載した「日本におけるオリンピック研究」のPDF版が公表されてすぐに,引用させていただいた研究者のうち,eメールアドレスが分かる方たちに,メールで送信していたので,それでご著書を送っていただいたのかと,eメールでお礼を書こうと思ったら,なんと阿部さんのメールアドレスは不明で,送っていませんでした。私は以前からオリンピック研究をしていたわけでもないのになぜ,と思いながらもさっそく読み始めました。

プロローグ 2020オリンピックは「”それ”が見られず,終わり。」となってしまった
第1章 東京にオリンピックがやってくる――なにが問題なのか?
第2章 希望の未来へ――「オリンピック・レガシー」という先物取引
第3章 栄光の過去へ――「1964年」というノスタルジー
第4章 「幻」からの問いかけ――皇紀二千六百年オリムピックの実像
第5章 「現在」からの誘い――ソーシャルメディアという共振
エピローグ オリンピックを迎える〈わたしたち〉――どこへ向かうのか?
おわりに――”それ”はやってこのかったのか?

著者は2016年に所属する大学の紀要に「東京オリンピック研究序説」という文章を書いている。それ以前からオリンピックに関しては継続的に研究をしていたので,2020年大会が東京での開催に決定してから,「東京オリンピック」という具体的な対象に対して舵を切るということは予想でき,またその成果が一冊の本となるということは期待していたことでもある。といいながら,私は著者の文章をそう多く読んできたわけではない。特に単著はこれまで読んでこなかった。本書に関してはきちんと書評を書いてみようと思っているが,この読書日記では,ひとまず他の著書を読んでいない状況での印象にとどめておきたい。
第1章は上述した「東京オリンピック研究序説」を元にしており,第2章,第3章も既出論文を元に加筆・修正した内容となっている。とはいえ,論文を読んだ時の記憶が呼び起されない程度に書き換えられている。ともかく,前半は2020年東京大会についての基礎的な事実と問題が語られ,第3章で2020年大会が過去の東京大会である1964年大会との対比の元で語られることの問題が提起される。そして,本書の書下ろしである第4章では,なんと返上・中止になった戦時中の幻の大会である,1940年東京大会へと検討が進むのだ。

ちょうど同じ時期に,著者より少し年上の社会学者である吉見俊哉氏が『五輪と戦後』を出版した。近代史も専門とする吉見氏に対し,阿部氏はもっぱら現代について語ってきた。そういう意味でも,本書の1/3の分量を占める第4章の考察が1940年大会に向けられるとは意外であった。1940年大会に関してはそこそこ研究の蓄積がある。その上で歴史分析を得意としない著者がそこに挑むにはそれなりの訳がありそうだ。1940年大会は1936年ベルリン大会がナチス・ドイツのプロパガンダに利用されたという一面的な解釈に引きずられて,日独伊同盟を組んでいた日本が国際社会に対してその強さをアピールするためにアジア初のオリンピック開催を目論んでいたが,自国の侵略戦争もあり,開催を辞退,最終的に大会自体が中止となる。そういう,一般化した理解を覆すことが,著者の挑戦のようだ。
第4章では,当時の文芸誌や広告界の雑誌などを丹念にたどることによって,1930年代にもオリンピックに対して多様な意見があったことを知らしめてくれる。ただ,冷静に読むとこれでいいのかな,って思わないこともない。端的にいうと,当時の数あるオリンピックに対する多様な意見を取捨選別はしているのだろうけど,そのまま紹介しているだけのようにも思えるのだ。何かしらの分析や考察があるとはいえない。同じように,雑誌記事を扱うにしても,著者が現代のものを扱う時のように,また歴史資料に慣れた研究者が過去のものを扱うような感じはない。素朴に資料そのものに出会ったときのおどろきがそのまま文章になっている感じ。第4章の後半では,1940年大会を2020年大会に近づけようとし,第5章では2020年大会の時代背景を浮き彫りにするために,著者の専門でもある「ナショナリズムの今日の姿」の解説にページを割く。ここはさすがに説得力を持って論が進められるのだが,今度は逆にオリンピックから徐々に議論が離れていくような印象を受ける。
エピローグではここまでの考察を,2020年東京大会に絞って深めていくかと思いきや,NHKの意識調査に始まり,著者独自に行った意識調査の分析へと移ってしまう。もちろん,この調査は非常に貴重なものだが,読者としてはまた新しい情報,観点になってしまい,本書の総括を仕切れない感じ。当然,この時期に出版されたものとして避けられないが,「おわりに」では新型コロナウイルスの話に乗っとられてしまう。

ということで,一読は本書を手に取った時の期待とは違った印象を私に与える。この印象を払拭するには,著者の過去の著書を読む必要があると痛感する。つまり,2008年の『スポーツの魅惑とメディアの誘惑』と2001年の『彷徨えるナショナリズム』である。オリンピックやスポーツに限定されないナショナリズム論と,オリンピックに限定されないスポーツ論,あるいは東京大会に限定されないオリンピック論を経て,著者は本書の東京オリンピック研究へとたどり着いたわけだから,その軌跡をたどる必要があろう。

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2020年前半に観た映画

これだけblogをお休みしていれば,紹介していない映画もさぞかしたまっていると思う人もいるかもしれませんが,4つしかありません。しかも,そのうち一つは懐かしの作品の再映です。

 

2020年25日(水)

立川キノシネマ 『嘘八百 京町ロワイヤル』
前作『嘘八百』はファンである今井雅子さんの共同脚本作品ということで楽しく観た。いつの間にやら続編ができていて,また観に行くことにした。今回は原作を読む前に観ることになりました。地味な作品ながら続編ができるということで,副題「京町ロワイヤル」や,広末涼子がマドンナ役など,気合の入りようが分かるが,あまり気合が入りすぎると空回りする可能性あり。
と,こちらは気楽に観てみると,程よい塩梅で,気合の入れ具合のちょうどよさが大人映画ですね。大人映画といっても基本はシリアスではなくコメディですから,肩の力を抜いて楽しめる映画です。とはいいながら,実は地味にシリーズ化を狙っているような雰囲気も醸し出しています。気長に待ちましょう。
https://gaga.ne.jp/uso800-2/

 

2020年38日(日)

調布シアタス 『天空の城ラピュタ』
もう忘れてしまったが,調布シアタスで映画祭っぽいイベントの一環で,宮崎 駿の『天空の城ラピュタ』が再上映されることになった。前回2月に映画館に行った時とは違って,コロナ騒ぎが始まって,ちょっとものぐるしい雰囲気のなか,イベントは中止にはならずに上映された。ちょうど巷でマスクが品薄になっていて,入場に際しマスクの着用は義務付けられなかったし,この頃は一席空けてという配慮もなかった。ただ,イベント主催者が希望者にはマスクを配布しており(このことをSNSなどでアップしないでくださいといわれていた。さすがに4ヶ月すぎているのでもういいですよね),私も受け取っておいた。
さて,この作品の公開は1986年。私が高校生の時ですね。おそらく,私はこの作品はスクリーンで観ていない。しかし,実は公開前に今はなき渋谷パンテオンで開催された記念イベント(試写会ではなかったはず)に参加したのだ。埼玉県鷲宮町に住んでいた私は,渋谷に行くのはほぼ初めて。イベント参加券を握りしめ,今思うと渋谷駅周辺は複雑なので,駅近くの映画館でありながら,散々迷った挙句たどり着いた。どんなイベントだったかは思い出せないが,ともかくイベントに行ったことだけは覚えている。
さて,今回はやはり子どもたちにこの作品をスクリーンで観させてあげる絶好の機会と思い,チケットを購入した。司会のイベント主催者が,熱い思いを語り始める。私よりかなり年下で,ようはこの作品をリアルタイムで知らず,ビデオやテレビで何度となく鑑賞したのだという。彼自身もスクリーンで観たいがためにイベントを開催したみたいな話でした。やはり5歳の娘にはストーリーは難しかったし,一部怖かったシーンもあったようですが,2時間近い上映時間をしっかり観きりました。一方で,十分に楽しんでいる10歳の息子はいつも通り,かなりの頻度で奇声を上げ,展開を予想するような語りをし,前に座っていた女性に何度も「しーっ」と怒られていました。

 

2020年314日(土)

吉祥寺アップリンク 『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』
まだ映画館が臨時休業に入る前,半日一人で過ごせる時間があったので,お気に入りのアップリンク吉祥寺へ。とはいいつつ,アップリンクがワンマン社長のパワハラが蔓延していたとは知らなかった。それはともかく,魅力的なラインアップではあったが,決め手に欠け,この作品を選んだのは上映時間の都合や,何となくその日の気分で邦画よりも洋画,ホンワカ系よりもすっきり,みたいな感じで,サスペンス的な作品を選んだ。
オルガ・キュリレンコが出演していたのも大きいかもしれない。本作は世界的ベストセラー作品の各国同時翻訳をめぐるお話。なかなか設定が面白い。世界同時発売をするために,フランス語の原著を発売する際に,各国も同時発売をするということで,内容が外部に漏れないように,世界中から選ばれた9人の翻訳家が監禁状態で作業をするという設定。原作者自身が社会的にその存在を謎とされていて,そこも最後はどんでん返し的なストーリー。なぜか,こういう物語最近作られないですね。小説としてはあるのだが,映画化されないだけなのか。
https://gaga.ne.jp/9honyakuka/

 

2020年613日(土)

新宿シネマカリテ 『燕Yan
オフィスシロウズ制作のこの作品。実は私の妻が縁あってこの会社の制作作品のお手伝いを何度かしたことがあって,今回は出演者の一人,一青窈さんの言葉の指導をしている。日本での仕事だったが,この映画自体は日本と台湾とを行き来する。私の妻は台北出身だが,映画では高雄が舞台。
一青窈さん自身も台湾人の父,日本人の母に生まれている。本作では日本人の男性との間に2人の男児を生み,兄と台湾で暮らし,弟は父と日本で暮らし,父親は再婚するという設定。弟が父からの書類を届けるために高雄の兄を訪れるというストーリー。主演は水間ロンという大連出身の俳優。兄を演じるのは山中 崇。監督はカメラマンだという今村圭佑ということで,写真家らしい言葉より映像で見せる映画。妻の名前はちゃんとエンド・クレジットにも大きく映し出されました。
http://www.tsubame-yan.com/

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今年公表された研究成果をまとめて紹介します

先ほど久しぶりの読書日記を投稿しました。前回は2月でした。この『Olympic Cities』は借りている本で,読み終わったのですが,読書日記は細かく書きたいなと思いつつ,それが中断してしまい,なんとなくblog自体から遠ざかってしまっていました。

その間に,新しい論文がいくつか公表されたので,お知らせします。

成瀬 厚 2020. 日本におけるオリンピック研究.コミュニケーション科学 51: 117-160
このblogでもさんざんオリンピック研究を紹介してきましたが,それがようやくまとまりました。こちらは日本語文献のレビューで,非常勤先の紀要にのせてもらいました。
http://hdl.handle.net/11150/11434

現代地政学事典編集委員会編 2020. 『現代地政学事典』丸善
こちらは,3項目で執筆させていただいています。
「地政学と言説・表象」(380-381),「メディアと大衆地政学」(406-407),「ポストモダン地政学」(410-411
https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b303600.html

成瀬 厚 2020. 地名の認識論序説.空間・社会・地理思想 23: 3-12
いくつかの学会誌で掲載不可になり,最終的にこの雑誌に引き取ってもらいました。単著で掲載していただくのは初めて。
http://lit.osaka-cu.ac.jp/geo/Space,%20Society%20and%20Geographical%20Thought.htm

成瀬 厚 2020. 地図とは,地理学者にとって崇高な対象である.ユリイカ 52 (7): 78-86
4
月初旬に執筆依頼があり,5月下旬に出版されるというスピード。素晴らしい特集に参加させていただきました。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3437

成瀬 厚 2020. メガ・イベント研究からオリンピック研究へ――地理学的主題の探求.経済地理学年報 66 (1): 3-28
オリンピック科研のメンバーを中心に特集を組んでもらい,経済地理学会会員ではありませんが,書かせていただきました。こちらは英語文献のレビュー
http://www.economicgeography.jp/journal/nenpo-66-1/

今年は実りの多い年でした。単著論文を全て「筆者」ではなく「私」で書いたことも大きな収穫。

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Olympic Cities

Gold, J. R. and Gold, M. M. eds. (2017): Olympic Cities: City Agendas, Planning, and the World’s Games, 1896-2020 third edition. London and New York: Routledge.

 

オリンピック研究者にはよく知られた論文集。英国の地理学者ゴールドが夫妻で編集しています。2007年の初版に続き,2011年に第2版が,そしてこの第3版が2017年に出版されている。4年に一度の改定を目指しているのだろうか。寄稿者のプロフィールを読むと意外に地理学者が多いことに気づく。私が文献調査の中で読んだことがある研究者は,Essex,Preuss,Coafee,Fussey,Kassens-Noorと意外に少ない。引用されている文献にも未読の読むべき文献がたくさんあって,私の文献調査もまだまだだと思い知らされる。

1章 Introduction はじめに(Gold, J. R. and Gold, M. M., 1-17)
I部 The Olympic Festivals オリンピックの祭典
 2章 The Enduring Enterprise: The Summer Olympics, 1896-2012 不朽の事業:夏季オリンピック大会1896-2012(Gold, J. R. and Gold, M. M., 21-63)
 3章 The Winter Olympics: Driving Urban Change, 1924-2022 冬季オリンピック大会:都市改編の推進力1924-2022(Essex, S. J. and de Groot, J., 64-89)
 4章 The Cultural Olympiads 文化オリンピアード(Garcia, B., 90-113)
 5章 The Paralympic Games パラリンピック大会(Gold, J. R. and Gold, M. M., 114-135)
II部 Planning and Management 計画と経営
 6章 Olympic Finance オリンピック財政(Preuss, H., 139-160)
 7章 Promoting the Olympic City オリンピック都市をプロモートする(Ward, S. V., 161-179)
 8章 Olympic Villages オリンピック村(Sainsbury, T., 180-202)
 9章 Security セキュリティ(Coafee, J. and Fussey, P., 203-216)
 10章 Urban Regeneration 都市再生(Smith, A., 217-229)
 11章 Olympic Tourism オリンピック観光(Weed, M., 230-252)
 12章 Olympic Transport オリンピック交通(Kassens-Noor, E., 253-265)
III部 City Portraits 開催都市素描
 13章 Berlin 1936 ベルリン1936(Meyer, M., 269-286)
 14章 Mexico City 1968 メキシコシティ1968(Barke, M., 287-300)
 15章 Munich 1972 ミュンヘン1972(Meyer, M., 301-316)
 16章 Sydney 2000 シドニー2000(Freestone, R. and Gunasekara, S., 317-332)
 17章 Athens 2004 アテネ2004(Gold, M. M., 333-358)
 18章 Beijing 2008 北京2008(Cook, I. G. and Miles, S., 359-377)
 19章 London 2012 ロンドン2012(Evans, G. and Edizel, O., 378-399)
 20章 Rio de Janeiro 2016 リオデジャネイロ2016(Silvestre, G., 400-423)
 21章 Tokyo 2020 東京2020(Aoyama, Y., 424-437)

冒頭からなんとなく読みにくい。これまで英文のオリンピック研究文献を数多く読んできて、頻出するワードやオリンピックに関する事実の知識も身についてきたと自負していたが、編者たちによる序章から1章にかけての文章はすっと頭に入ってこない。序章の冒頭は2020年東京大会の話題から始まる。新国立競技場の設計案が撤廃されたという話題だ。ついで、2024年大会に立候補していたボストン市が立候補を撤回したということ。そして、2022年冬季大会が北京での開催が決定した経緯。こうした直近の事例をあげながら、近年はオリンピック開催に関してさまざまな問題が噴出し、継続することの困難が指摘されている。1990年代以降にIOCも次々と、環境や持続可能性を訴えるアジェンダ21、レガシーという概念を中心としたアジェンダ2020を発表し、改革を進めている。ということで、本書の目的を次のように提示している。「本書は、オリンピック都市の経験、そして1896年の競技大会の復活から2020年の東京大会計画までの成功と失敗のバランスシートを考察することで、(引用者:オリンピックと開催都市の柔軟で象徴的な)関係を探求する。」(p.12)とされている。
2章も編者2人による夏季大会の概観。各論であるIII部の目次をよく見ると,1936年ベルリン大会の次が1968年メキシコ大会であり,1972年ミュンヘン大会から一気に2000年シドニー大会へと飛んでいる。そういう意味でも,全大会を概観できるのがこの章。クーベルタンによる近代オリンピック大会前史についてもけっこう詳しく説明されています。近代オリンピックの時代区分は以下の通り。1896-1906:生きながらえる展示市(うまく訳せませんが,第1回アテネ大会以外は万博内での開催でした)。1908-1936:デザインによるオリンピック,1908年ロンドン大会の競技場の写真,1928年アムステルダム大会のプールの写真が掲載されています。戦後間もない1948-1956年は「質素」と名付けられている。そういえば,ゴールドブラット『オリンピック全史』でも同じような位置づけだった。1952年ヘルシンキ大会のスタジアムの写真が掲載されています。1960-1976年は「触媒」で,1964年東京大会も含まれるが,都市開発や国土整備のきっかけともなるようになった。ここでは,大きな負債を生んだ1976年モントリオール大会のスタジアムの写真。1980-1984年は米ソによるボイコット合戦ということで「イデオロギー大会」と名付けられている。1988-1996年は「移行する地平」と題され,1992年バルセロナ大会のオリンピック村の写真が掲載されている。2000-2012年は「持続可能性とレガシー」と題され,アジェンダ21からアジェンダ2020へとIOCの改革として位置付けられる。2004年アテネ大会のスタジアムの写真が掲載されているが,持続可能やレガシーという理念とは程遠い利用されていない施設の代表。2012年ロンドン大会からは選手村のあったイースト・ビレッジの社会住宅地区の写真が掲載されている。
3章は冬季大会の概観である。執筆者は2004年に別の共著者と冬季大会の概観的な論文を、2002年ソルトレイクシティ大会まで書いているので、それが2022年北京大会まで拡張された感じ。冬季大会の始まりは1924年、フランスのシャモニーで開催されたものとされている。1992年までは夏季大会と同じ年の開催であったが、テレビ放映権が軌道に乗ってきた1994年に、夏季大会の中間年に冬季大会が開催されるようになっている。第2章、第4章と同じように、冬季大会についても時代区分がなされている。第1段階は1924年から1932年レイクプラシッド大会までとされ、「最小限のインフラ投資」とタイトルがつけられている。以前に紹介した論文の中でも、冬季大会はそこで行われる競技自体が、自然の中でのスポーツから、基準を満たすように規格化されることで、競技施設に要求される形状、雪や氷の管理、悪天候対策としての室内化、ということで徐々に競技施設に必要な開発が大規模化している。ただ、1924年大会の屋外スタジアムの写真が掲載されていて、けっこう立派なスケートリンク(?)であることが分かる。1932年に続いて1980年にも開催されている米国レイクプラシッドに関しては、競技施設の分布図が2時点で示されている。第2段階は1936年から1960年までで、「インフラへの要求の登場」と題される。第3段階は1964年から1980年までで、「地域開発の道具」と題されており、この時代から人口の少ない村の山岳リゾートから、それなりの規模の都市へという移行がみられるようになり、1972年札幌大会もここに含まれる。1984年から1998年の第4段階は「大規模への展開」と題され、1998年長野大会が含まれる。最後の第5段階は、2002年から現在までの時代で、「持続可能な開発とレガシー計画」と題され、アジェンダ21からアジェンダ2020に至るIOCの改革が冬季大会にも適用される。2006年トリノ大会や2014年ソチ大会については、地図が掲載され詳しく論じられる。近年では国際空港のある都市に室内競技場とオリンピック村を整備し、そこから鉄道などを整備して山岳のスキー等会場までアクセスするという形が一般的となる。「将来に向けて」と題された節では、執筆当時に開催前だった2018年平昌大会について、地図が示されている。2018年以降は新たな段階に入ると想定されている。2022年は北京での開催が本書の刊行時点で既に決定していたが、軒並み立候補を取り下げる都市が出てきたという経緯があり、この時代は「先進国でのオリンピック大会を招致することの不本意」と題されている。今更ながら近年環境問題への関心が広まるなかで、冬季大会の開催は夏季大会以上に難しくなってくるのだろう。
4章は、第二版では編者の一人、ゴールド妻が共著で書いていた。第三では英国の文化資本を専門とする研究者が執筆している。しかも、オリンピックの文化イベントに関する研究をかなり手掛けており、2012年には『オリンピック大会と文化政策』、2013年には『ロンドン2012の文化オリンピアード教育』なる単著を発表している。第二版でも、近代オリンピックの当初から文化的な次元への想いがクーベルタンにはあるということで、その歴史的経緯にページが割かれていたが、第三版でも初期大会における状況が説明されている。ここでも時代区分による歴史の概観がなされ、区分としては、1952ヘルシンキ大会から1988ソウル大会までを「オリンピック芸術展示と祭典」とし、1992年バルセロナ大会から2012年ロンドン大会までを「文化オリンピアード」としている。1964年東京大会で作られたピクトグラムを、1968年のメキシコシティ大会では文化オリンピアードについても作成していたとのこと。1992年バルセロナ大会辺りから、4年間の文化オリンピアードを利用して、多くの芸術作品が屋外に設置され、現在に残されるようになってきた。第三版の特徴としては、夏季大会だけでなく、冬季大会やパラリンピック大会の文化オリンピアードについても考察されている点だ。今日ではかなり一般化してきた「パブリック・ビューイング」だが、2006年トリノ大会ではそれを含む、競技を中心としながらも競技場での観戦に参加しない人々が集える場所として「ライブ・サイト」と呼ばれるものが設置されていた。2000年シドニー大会から本格的に行われるようになったパラリンピック大会の文化プログラムにも触れられている。こちらはやはり障碍者芸術が中心なんですね。前半は当初の文化的理念から芸術競技,文化展示,オリンピアード,プログラムという制度的な推移を辿っているが,後半は展示される芸術そのものの水位が論じられる。1964年東京大会などは日本文化の紹介的な側面が強かったが,徐々に前衛芸術的な時代の雰囲気に迎合する。主たる目的なスポーツと芸術というテーマがあるが,スポーツよりも芸術に重心が移る。1950年代までは文化的,1960-1980年代は政治的,1990年代は経済的,2000年以降は社会的という大胆な区分をしている。経済的というのは都市イメージの向上だったり,観光客誘致であったり,エンタテイメント性だったりする。
5章はパラリンピックを編者2人が概観したものである。はじめの方に「起源」と題された節があり、19世紀後半に障碍者スポーツに関する動きがあり、まずはろうあ者のスポーツクラブが1888年にベルリンで設立し、1924年にはベルギー、チェコスロバキア、フランス、英国、オランダ、ポーランドで国の競技連盟ができ、1924年にパリで国際競技大会が開催され、それ以降4年毎に「ろうあ者のための世界大会」が行われるようになり、「デフリンピック」などと呼ばれていたようだ。しかし、直接的にパラリンピックのルーツとなるのは、英国のストーク・マンデヴィル病院を中心とした障碍者スポーツである。現在でも、スポーツが障碍者や患者のリハビリに用いられるが、治療の一環としてスポーツが活用されたことが始まりにあるようです。1948年に、ロンドンオリンピックの開会式に合わせて行われたストーク・マンデヴィル競技大会はすぐに国際的な広がりをみせ、オリンピックと平行して4年おきに開催される大会という意味で「パラ」という言葉が登場する。1960年ローマ大会、1964年東京大会では、オリンピックと同じ開催都市で開催されたが、その後は1988年ソウル大会まで、オリンピック本大会とは別の都市で開催された。冬季大会については、1976年から開始される。1992年アルベールビル大会からが、オリンピック開催都市での開催となっている。1984年まではストーク・マンデヴィル病院で組織されたが、1982年に「世界のスポーツ組織を調整する委員会(ICC)」が設立され、この大会を主催するようになり、国際パラリンピック委員会(IPC)が設立されるのは1989年である。私のオリンピックに関する文献調査では、パラリンピックにまで手を伸ばすことはできなかったが、障碍者が参加する大会をオリンピックとともに開催することは、開催都市にとっても大きな意味がある。といっても、まだまだパラリンピックに関する私の理解も十分ではないが、まず競技施設が障碍者も利用できるものにする必要がある。もちろん、施設だけではなくそこへのアクセスも含めてだ。そして選手だけでなく、観客への配慮も必要である。もちろん、物理的なものだけでなく、社会的包摂という概念はあまり積極的には使いたくないが、人々が集う都市を、そうした観点から見直す機会ともなる。とはいえ、この章でもパラリンピック競技がオリンピック競技とおなじ施設で行われるようになったのは比較的最近であり、確か1988年ソウル大会からだったように思う。この章の最後には「ロンドン2012」と題された節があり、やはり2012年ロンドン大会はこの分野でも先駆的な大会だったようだ。
第二部「計画と運営」に入り、第6章「オリンピック財政」はレガシー概念の先駆的論文の著者として知られるPreussが執筆している。オリンピックといえば、予算や財源、支出など経済関係に関する関心は高い。しかし、いわゆる計量経済的な費用対効果分析のような視点ではなく、質的なあるいは社会的な価値というところに焦点が合わせられている。まずは、オリンピック研究でよく登場する「利害関係者stakeholder」に関する整理がなされ、そもそもオリンピック開催都市に立候補することが、その都市に関わる人々にとってどんな動機があるのか、という素朴な点が整理される。都市イメージの向上なのか、物理的な開発、経済効果、観光客の誘致、国家におけるその都市の重要性、投資効果、スポーツ開発などなど。利害関係者には、政治家や企業経営者、消費者団体、環境団体、各種組織、スポンサー、銀行などさまざまな人・組織がある。また、利害関係者とは異なり、shareholderという概念が登場する。辞書で調べると「株主」と出てくるが、ここではおそらくそういう狭義ではなく、本来の意味である、ある事業に対して多くの人たちが少額ずつ投資して、損益や危機を分散させ、権利を共有するという意味合いだと思われる。具体的にこの章ではIOCのメンバーがそれに当たるようだ。具体的に議論される利害関係者は、IOCメンバーの他、開催国、開催都市とその政治家、建設産業と観光産業、スポンサー、報道、各国のオリンピック委員会と国際競技連盟であり、オリンピック大会の主たる収入源となっている放映権とスポンサー料がどの団体にどのように分配されるのかが図式化されている。
7章は編者であるGold1994年に『Place Promotion』という編著を出しているWardによるもの。その後Ward1997年に『Selling Places』という単著も出版している。私が「場所の商品論」なるテーマで論文を書いていた時期に、英語圏地理学ではこうしたテーマが一部で流行っていた。社会学者のアーリが『場所を消費する』という本を出したり、地理学者ハーヴェイによる「空間から場所へ、そして再び」という論文も当時はよく取り上げられた。私が読んだオリンピック英語文献の中にもそういう文脈での議論もあったが、1990年代にこの議論をしていた人物が、20年後にその文脈でオリンピックを論じるというのも面白い。この議論は後に「場所のブランド化」の議論に移行したと私は考えているが、著者はあまりその辺の理論的な経緯を繰り返したりはせず、オリンピックの議論に集中しているところは好感的だ。まず、「誰がオリンピック都市を販売促進するのか?」と題し、その主体を特定する。1936年ベルリン大会におけるヒトラーや、1976年モントリオール大会や1992年バルセロナ大会における市長の役割などがまずある。米国大会における私企業の役割も重要である。次に販売促進のプロセスである。初期のそれは招致運動であり、そこからメディアの役割は大きい。それをメディアが駆り立てるという訳ではないが、招致段階では開催することによる経済的なメリットが強調される。ロゴ付きのTシャツや旗、風船、ペンやキーホルダーなどの小物も重要。地元のスポーツ文化イベントも行われる。ロゴやマスコットも重要なのは、2020年東京大会の過剰な露出によっても明らかだ。東京大会については反オリンピック運動の欠如が指摘されている。1996年大会のキム・ベイシンガー、2000年シドニー大会のニコール・キッドマンと当時の夫トム・クルーズなどの話も出てきます。開催都市の決定をめぐって賄賂などの疑惑が何度も取りざたされ、IOCの役員が自分の意思で候補都市を訪問することは禁じられたようだが、その辺りの駆け引きも書かれている。候補都市は都市内の高級ホテルのスイートルームを確保し、さまざまな接待に対応する。IOCメンバーに対するものとは限らないが、酒やたばこ、香水のような贈り物も重要である。そういうロビー戦略も含めて「おもてなし」というのだろうか。2020年東京大会についても後続の高円宮妃久子が開催都市を決めるIOC総会に登場したことが触れられている。と、やはり招致段階の話が中心ですね。東京大会については福島の問題にも触れられている(Gibsonという記者のThe Guardian誌の記事が用いられています)。
8章はスペインの地理学者ムニョスによるオリンピック村に関する2本の論文への参照を示しながら、2012年ロンドン大会のオリンピック村の責任者が筆を執っている。前半ではオリンピック村の歴史についても説明があり、クーベルタンが示した、競技施設は集中させた方が好ましいという「オリンピック都市」に原型を求めている。1912年ストックホルム大会が、そのクーベルタンの想いを実現しようとしたものと位置付けられる。とはいえ、時代は第一次世界大戦へと突入していく。1920年アントワープ大会では、米国の選手団が移動に用いたクルーズ船で大会期間中宿泊したというのは、この大会に限らず有名な話で、それがのちの選手村に近いともいえる。2024年パリ大会では、オリンピック村を建設する計画があった。とはいえ、3千人の選手に対して、600人収容だから、数的には少ない。本格的なものとしては、1932年ロサンゼルス大会、1936年ベルリン大会から本格的な選手村が建設されるようになる。ムニョスの論文は1本読んだが、その配置計画や建築様式に焦点を当てているので、本章はそれとは異なり、大会後の利用などにも触れられていて、読みごたえがある。1956年メルボルン大会から、大学施設や社会住宅などある程度の規模の選手村を大会後の利用も考慮して建設されるようになる。1968年メキシコ大会からは都市再生の手段としても活用され、1984年ロサンゼルス大会では大学との連携も行われる。2008年北京大会の選手村は積極的に評価され最後は2012年ロンドン大会で締められる。
9章のセキュリティは2015年に『The Geographical Journal』誌のオリンピック・セキュリティ特集でも執筆している2人、CoaffeeFusseyによる執筆。2001年の同時多発テロ以降、オリンピックのようなメガイベントがテロのターゲットとして明確に認識されるのは2015年のパリ同時多発テロかもしれないが、ともかくオリンピックのセキュリティはかなり重要度の高い事項となっている。歴史をさかのぼれば、1972年ミュンヘン大会の選手村でのテロが有名で、次の夏季大会である1976年モントリオール大会への影響も大きかったという。1980年代の大会も冷戦の影響によるボイコット合戦という政治的対立があったためにセキュリティは重要だった。1988年ソウル大会でもかなり警備は強化された。1992年バルセロナ大会も1991年湾岸戦争後であり、1996年アトランタ大会まえにも米国でいくつかテロ事件があった。
10章はアンドリュー・スミスという英国の研究者で、2012年に『イベントと都市再生』という著書があり、本章「都市再生」を担当している。2020年東京大会も含め、オリンピックのようなメガ・イベントが脱工業都市における都市再生への希望とみなされるのは一般的である。「本章の目的は、オリンピック競技大会がなぜ、そしてどのように都市再生に対する乗り物となり得るのかを探求すること」(p.217)とある。まず、都市再生とは実践やその結果であると同時に一つの言説だという理解を示している。そもそも「再生」という語を都市に当てはめること自体が修辞法である。ただ、他の章と同様に、概念的な再考を冒頭で促しながらも、オリンピックに関する具体的な記述が続くなかで、その批判的な観点は薄れていくという印象は否めない。はじめの方では、ある一定の敷地面積をオリンピック村として整備したシドニーとロンドンの事例が登場する。いずれも、大会開催後をにらんだ他機能的な開発が行われた事例である。選手村を大会後に社会住宅として活用するというのは一般化しており、本章でも1992年バルセロナ大会、2000年シドニー大会、2010年バンクーバー大会、2012年ロンドン大会の写真が掲載されている。オリンピックは開催都市に元々あったマスタープランの実行を加速させる役割も果たす。近年ではその方法として都市企業家主義的な、官民連携の手法が用いられる。オリンピック関連開発を事後的に評価する研究もある。事例としてバルセロナが取り上げられている。概してこの大会は成功事例とされるが、住民にとっての社会的な意義という点では批判的に捉えられる。また、最後の方ではバンクーバーの事例が取り上げられ、開催前にあっても、そのオリンピック関連開発に対する反対運動が存在する。
11章「オリンピック観光」はまさにそのタイトルの著書(2008年)があるスポーツ学の研究者マイク・ウィードが執筆している。その著書の中で、スポーツ観光を以下の5つに区分している。イベント・スポーツ観光、スポーツ参戦観光、スポーツ訓練観光、贅沢なスポーツ観光、補足的なスポーツ観光。なお、私は現在2020年東京大会における日本のホストタウンの調査をしている。ホストタウン事業自体は多岐に渡るが、中心的なのは外国選手の事前キャンプである。この区分では、スポーツ訓練観光に含まれているが、本文中にその記載は残念ながら多くない。本章では、オリンピックにおける観光を盛り上げるための戦略や、オリンピック観光における都市の役割などが論じられる。事例としてまず冬季大会を挙げ、2020年ソルトレイクシティ大会、2006年トリノ大会、2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会が考察される。ソルトレイクシティでは、勝ち組がホテルやレストラン、商業施設、そして観光客となっており、負け組が業務、金融、スキーリゾート、交通、建設、ビジネス客とスキー客とされている。オリンピックを優遇したがために、それ以外がしわ寄せを受けたということだろうか。夏季大会についても、2000年シドニー大会以降2012年ロンドン大会までが考察され、簡単な結論に至っている。結局、総論については著書で論じたから、本章は各論に終始するということだろうか。

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