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2020年11月

【映画評】『ある画家の数奇な運命』と『STAND BY MEドラえもん2』

2020年1122日(日)

川崎アートセンター(アルテリオシネマ) 『ある画家の数奇な運命』
立川のキノシネマで予告編を観て鳥肌が立った。私は2013年に発表した論文でドイツの画家ゲルハルト・リヒターについて書いた。この作品はタイトル通り若き画家が主人公なのだが,予告編の最後で彼が描く絵画,それがまさしくリヒターの「フォトペインティング」なのだ。帰って作品のウェブサイトを見ると,やはりリヒターがモデルとのこと。この作品に気づいた研究者仲間にも教えられたりして是非観なくてはと思っていた。しかし,時は過ぎ,ドイツ留学経験のある研究者がわが家に遊びに来た時,その作品の話になった。すでに,多くの劇場では上映が終了していたのだ。しかし,新百合ヶ丘にある川崎アートセンターではまだ上映中ということで,先週観に行く計画を立てた。しかし,前日に息子が学校で怪我をしたとかで呼び出され,当日の予定は変更になり,映画はキャンセルした。上映時間は遅くなったものの,ようやくこの日に観ることができた。
本作は米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『善き人のためのソナタ』の監督による上映時間3時間の大作。1932年ドレスデン生まれのリヒターだが,1961年に東ドイツから西ドイツに移住するというところは知っていたし,もちろん彼のフォトペインティングはよく観ているが,いろいろ分からないことも多かった。まず,私は彼のフォトペインティングに脱(反)因襲性を読み取っているが,彼はその作品でなした財産をもって自らはブルジョア的生活をしている,というところの意識はよく分かっていない。また,フォトペインティングが実際にどのように描かれているかもよく分からない。もちろん本作はフィクションではあるが,なんとなくその二つの疑問に答えてくれるものだった。映画によれば,第二次世界大戦により父親は職を失い,彼は親せきの家に預けられる。そこでは高校生のいとこ(?)が精神異常と診断され,断種手術をされてしまう。戦後両親のもとに帰るが,父親が自殺。芸術学校でその後結婚する女性と出会うが,作品中ではその産婦人科の父親がまさにいとこに断種の決定をした人物ということになっている。それはともかく,若くして妊娠した恋人に対し,その父親がうまく理由をつけて子どもをおろしてしまう。後に二人は結婚して西ドイツに逃れるが,その手術が原因で子どもができない。まあ,そんな感じの不幸の連続が描かれる。西ドイツでは芸術大学に入学し,そこで年中シルクハット(?)をかぶった教授が登場する。明らかに,ヨーゼフ・ボイスがモデルだと分かる。Wikipediaによれば,ボイスが常にシルクハットをかぶっている理由も映画中で語られていることが事実だと分かる。まあ,ともかく主人公はデュッセルドルフの芸術大学で新しい芸術を模索しているが,ボイス教授の一言で,自分がこれまで描いてきた絵画に立ち戻ることを決意する。しかし,真っ白のキャンバスの前に座る日々が続く。そして何気ないきっかけで生み出されるフォトペインティング。そのペインティングのシーンは,そのなぞを知りたがる鑑賞者にはたまらない。まあ,ともかく本作を見て,なんとなくリヒターのことを少し理解したような気になる。彼についてはドキュメンタリーもけっこう制作されていて,自らのウェブサイトでも公開されているので,暇を見つけて少しずつ見ようか。
https://www.neverlookaway-movie.jp/

 

2020年1123日(月,祝)

府中TOHOシネマズ 『STAND BY MEドラえもん2』
CG
のドラえもん。『STAND BY MEドラえもん』が作られた時から,観はしないのに,あの感動の物語がつぎはぎされてCGで脱臭されて,コミックをこよなく愛するファンへの冒涜だと思っていたが,さらに続編が作られた。しかも,6歳になった長女が観たいのだという。10歳にしてコミック愛も刷り込まれてきた長男はこの作品は観たくないという(でも,一作目は観たいのだそうだ)。観ず嫌いもなんなので,長女を連れて観に行くことにした。公開されたばかりなのに,鬼滅に押されて空席が目立つ。まあ,そもそも子ども向けに制作されたわけではないようで,入場者特典もないし,上映時間も96分と通常の映画ドラえもんより長い(鬼滅は117分だが)。とはいえ,6歳の娘は泣かされどころのシーンで号泣。途中でトイレに立ってしまったものの,しっかりと最後まで満喫してくれたようです。大人ののび太の声を,トヨタのCMの配役と同じ妻夫木聡だったことは嬉しかったし,脚本も悪くなかったけど,やはりCGの表情のぎこちなさは否定できません。
https://doraemon-3d.com/pc.html

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【読書日記】湯澤規子『ウンコはどこから来て,どこへ行くのか』

湯澤規子(2020):『ウンコはどこから来て,どこへ行くのか――人糞地理学ことはじめ』筑摩書房,247p.840円.

 

著者は『胃袋の近代』『7袋のポテトチップス』とここのところの著書が公表の地理学者。話題になっているのは知っていたが,まだその著書を読んでいなかった。基本的には近代期の歴史地理学を専門としているからだが,2020年に発行された本書は,私が担当することになった『人文地理』「学界展望」の「文化地理」で取り上げるべきか判断するために読むこととした。『人文地理』を発行している人文地理学会は,日本地理学会と比べて歴史分野が強いので,「学界展望」にも「歴史地理 近世以前」と「歴史地理 近・現代」とあるので(昔はもっと区分が細かかった気がします),基本的に歴史ものはそちらにお任せしたい。また,地理学者の本が社会一般で話題になるということは珍しいので,そういう本は学会賞で褒めたたえ,「学界展望」でも複数の分野で取り上げるのが恒例だ。そういう意味でも「文化地理」で取り上げる必要はないと思うが,読まずにそういう判断をするのも失礼だ。

プロローグ
第一章 ウンコとは何か
第二章 世界がウンコに求めているもの――一番身近なSDGs
第三章 宝物としてのウンコ――近世日本の下肥
第四章 せめぎあうウンコの利用と処理――近代における「物質循環」の再編
第五章 都市でウンコが「汚物」になる――産業革命と大量排泄の時代
第六章 消失するウンコの価値――地域固有の清掃行政と戦後下水道物語
第七章 落とし紙以前・トイレットペーパー以後――お尻の拭き方と経済成長
第八章 ウンコが教えてくれたこと――世界の分岐点についてのダイアローグ
エピローグ

著者が初めて公にした著書は2009年で,結城袖に関する近代産業研究だ。近代期の産業化で農村から都市へと大量に人口が移動し,都市ではそれだけ胃袋が増え,食料が必要になる,というのが本書に書いてある前2書の位置付けであり,本書は胃袋が増えればそれだけ排泄も増えるという論理で位置付けられる。新書であることもあり,さまざまな表現のある人糞を「ウンコ」と総称し,私たちに身近だったものがそうではなくなっている現状を確認し,その変化を紐解いていくのが本書ということになる。第二章までの,読者を少し馴染みのない歴史研究に導いていくその語りは,「食文化」というように排泄にも「文化」がある,ということで「文化地理」で取り上げる価値は十分にあるように感じた。しかし,第三章以降の歴史記述はやはり歴史研究家の本領発揮的な雰囲気になってきて,私は読者の一人として少し追いついていくのが億劫になる。「やはりこれは歴史地理にお任せしようか」と思いながら読んでいたが,徐々に現代に近づき,やはり結末は本書が新書であることで現代について最も詳しい読者の関心に近づけていく。
と,ここで気になる記述に出会うことになった。副題の「人糞地理学」というフレーズはすでに西岡秀雄『トイレットペーパーの文化史――人糞地理学入門』(1987年)で用いられていたものだが,本書では「人糞」が辞書で「人文」の次に来るからという理由ではないと書き,「人文」が「人類の文化」を意味する以上,人文地理学が人類において共通しながら様々な扱いをしてきた「人糞」を扱うのは理にかなっている,そういう書き方をしているのである。私が非常勤で教えている大学でも,時折「人文地理学」という初めて見る講義名に惹かれて,「人間の文化を研究する地理学に興味があって」と来る人がいる。人文地理学はHuman Geographyの訳だから,別にここに文化があるわけではない。水文学,天文学と並んで,かつては地文学なんていいかたもしていたし,なんて説明をしていた。しかし,人文地理学を専門とする研究者がそんないい加減な間違いはしないと思い,辞書の話も出てきたので,辞書で「人文」を調べてみた。すると,「人類の文化」という意味が出てくるのだ。書店に行ったついでに紙の辞書も確認したが,どこかの辞書にはこの用法の事例で「人文地理学」とされていた。さすがに『広辞苑』では人文地理学をこの用法には含めていなかったがやはり「人類の文化」という意味は最初の方に掲載されている。この意味がどこから来ているのか調べる必要はありそうだ。水文とは水の文化なのだろうか。人類以外に文化はあるのか,という問いでは確かに動物にも文化があるという節はありそうだが,やはり判然としない。
さて,わき道にそれてばかりだったので,本書の内容にも触れておこう。とはいえ,本書はいろんなところで取り上げられているので,本書の意義とか内容の要約とかは不要だろう。日本でも経済成長前には都市においても循環型社会が成立していたということは身近な社会学者の研究などである程度知っていたので,著者による胃袋と排泄の論理は容易に理解できる。ただ,もちろん本書から学んだことも多い。まずは下肥という概念すら知らなかったが,本書に出てくる言葉として漢字の字面である程度理解できるが,英語でNight Soilと表現するのは面白い。で,この概念は要するに人糞も農業用の肥料になるということだが,実はただ人糞を畑にまけば勝手に肥料になるわけではないという認識は私にはなかった。また,人糞が肥料として避けられるようになる大きな要因として都市における感染症の流行があるというのも知らなかった。要は人間の排泄物は危険なものになったのだ。そして尿と糞の肥料としての用途や処理の仕方も異なるということ。また,バキュームカーの開発をした糞尿処理行政の先駆が東京市ではなく川崎市だったというところへの着目はさすが地理学者。水木しげるや手塚治虫の作品のウンコ論や1964年東京オリンピックの議論もあり,面白かった。そういう意味ではやっぱり文化地理かなあ。

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【読書日記】ベーリンガー『スポーツの文化史』

ベーリンガー, W.著,高木葉子訳(2019):『スポーツの文化史――古代オリンピックから21世紀まで』法政大学出版局,566+122p.6,200円.

 

著者はドイツ人で近世史の専門家となっている。本文でも「近世」という時代区分が出てくるが,Wikipediaで調べると,英語で「early modern period」とあり,本書はドイツ語からの翻訳なので,ドイツ語では「Frühe Neuzeit」というらしい。著者は1990年から多数の著書を出版していて,日本語に翻訳されているもので『魔女と魔女狩り』(刀水書房),『トゥルン・ウント・タクシス』(三元社),『気候の文化史』(丸善プラネット)がある。関心は多岐にわたり,本書も序文で自身が多くのスポーツを実践してきたが,スポーツの歴史を概観できる本がないため,自分で書いてしまったという。注も含めて600ページを超える本は久しぶりに読んだ。

序章 まず,スポーツをしないこと!
第一章 古代の競技
第二章 中世の馬上槍試合(トーナメント)
第三章 競技のルネサンス
第四章 スポーツの発明
第五章 われわれの時代のスポーツ
第六章 エピローグ――スポーツとは何か

近世史の専門家ということだが,古代に関してもかなり詳しく記述されている。マカルーン『オリンピックと近代』にもそこそこ古代ギリシアのオリンピアについて記載があったが,比べ物にならないほど詳しい。また,ギリシア以前でもエジプトなどのオリンピア以前のスポーツについて記載されている。ギリシアについてもオリンピア以外のスポーツ実践について解説され,ローマ時代も論じられる。そのなかで,「パンとキルクス競技」と題された項目がある。「パンとサーカス」というフレーズは現代のオリンピック批判でもよく用いられるもので,サーカス=見世物という意味合いだが,サーカスの語源がこの「キルクス競技」ということのようだ。これは紀元前300年代のローマ共和政時代に季節ごとやイベントごとに開催される神々などを祀る行事として行われた競技会で,戦車競技,運動競技,闘獣競技などさまざまであったという。それとともに,ローマ時代はそうした競技を行う専用の施設の建設もなされた。また,やはり古代で思い浮かぶのは映画『グラディエーター』で描かれたような残酷性(映画は観ていないんですけどね)である。実際に選手が命をかけて戦ったり,また猛獣を相手に戦ったり,逆に猛獣を嬲り殺す場面を観客が喜んで楽しんだり。この頃から,わざわざライオンなどを輸入していたという事実には驚く。古代を論じた第一章の最後には「アジアとアメリカ」と題した節もある。「日本語版への序」では,本書がヨーロッパ中心になったのは著者の言語的制約であって,できることなら日本や中国の歴史も加えたかったと書いている。
第二章で重要なのは馬上槍試合であり,それを「トーナメント」というそうだ。日本でトーナメントというと勝ち抜き戦という大会で優勝者を決める方式のことを言い,総当たりで決める方式をリーグ戦と言ったりする。しかし,本来トーナメントとは「大会」程度の意味で方式の種別ではないという(Wikipedia)。まあ,それはともかく,スポーツ競技を単体ではなく,個別の試合から成る総体として捉える見方が中世のヨーロッパに現われ,その代表格が馬上槍試合だったようだ。しかし,一章を割いて詳しく説明している割にはこれがどういうものかはイマイチ分からなかった。日本でいうところの「流鏑馬(やぶさめ)」のようなものか。ともかく,この時期のスポーツは戦術の延長線上にあり,メディチ家のような権力者の存在が大きい。第三章で描かれるように,やはりルネサンスはスポーツという分野においても転換点になったようだ。規則や礼儀作法が定められ,闘いそのものよりもその見せ方が重要になり,スポーツ医学が発展していく。
第四章から近代期に入る(著者としてはここがまさに近世か)が,「スポーツの発明」と題されているように,さまざまな制度化がなされる。1792年には雑誌『スポーティング・マガジン』がロンドンで創刊される。同時期に医学雑誌のような専門誌が出たという文脈に位置づけられるという。この時期にギリシアにおける考古学的な調査が行われ,オリンピアの発掘が行われ,古代オリンピックを模した競技大会はルネサンス期にもあったが,この時期に急増するという。また古代オリンピックを模さずとも,ヨーロッパ各地で地域的な祝祭を兼ねたスポーツ競技会が行われていた。
第五章は現代に入るが,グローバル的な視点から,大英帝国の世界的影響下においてスポーツもイギリスが覇者であったとしている。そして,クーベルタンとIOCによる近代オリンピック競技会に関してかなり詳しく論じられる。しかし,元来が近世史を専門にすることや,自身が現代のスポーツ実践者であることなどのせいか,選手やナショナルチームの成績,国別のべダル数,そういう細かいデータの提示(しかも図表ではなく本文で)で終始してしまっている。失礼ながら,そういう箇所は読み飛ばしてしまった。しかし,それを補うように終章のエピローグでは,これまでの長いスポーツ史が簡潔に整理され,現代に関しては,ホブズボウム&レンジャーの「創られた伝統」論からアドルノ,フーコー,グラムシ,ブルデューを「スポーツと権力」論の文脈で論じていて面白い。また,終章にきて,「スポーツとは何か」という根本的なテーマを論じている。IOCによる近代オリンピックはその採用競技をめぐって,一つのスポーツの定義を示し続けているのだが,ころころと競技を新規採用したりやめたりというその趣味一貫のなさも指摘されている。そもそもが,その語源に立ち戻り,スポーツとは誰もにとっての気晴らしであることが一番だと指摘し,本書を閉じている。

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2020年の「文化地理」関連文献06

青砥和希 (2020). 写真による福島県西郷村川谷地区の地域表象研究―開拓誌の写真と家族写真の比較を中心に―. 理論地理学ノート, 22, 125-146.

冒頭で、写真と地理学の関わり、地理学における写真研究、写真史研究を簡単に辿り、近年注目されている「ヴァナキュラー写真」へと話を収束させ、自らの事例研究を位置づける。先行研究として、岐阜県のダムに沈んだ村の増山たづ子(1917-2006)という人が1977年から撮り続けた70,000枚の写真に関する研究を挙げる。この素人写真家は生前からメディアに注目され、写真展も行われているものである。それに対して、この論文の事例は論文タイトルにあるように、福島県の戦後開拓が行われた村である。二種類の写真資料が検討され、1つは入植者自身が編纂した『白河報徳開拓誌』(1978年)であり、189点の写真が収録されているという。また、地元の中学校を通じてインタビューを行った2つの家族の家族写真である。前者は開拓民というある種の共同体の中で編纂されたその土地の記憶であり、後者は同じ時空間を共有しながらも私的な家族の視点で記録された写真である。この論文の著者は前者がこの地域を内的に表象したもので、後者は個人的な人間関係の広がりを想像させるもので外部に開かれた表象であるという。

 

鈴木晃志郎・于 燕楠(2020)怪異の類型と分布の時代変化に関する定量的分析の試み.E-journal GEO15(1)55-73
第一著者はダークツーリズムに関しても研究業績があり、この論文もその関心に位置づけられると思われる。妖怪に関しては、地理学でも佐々木高弘をはじめとして、民俗地理学ともいえる分野で蓄積がある。しかし、この論文は妖怪そのものではなく、「怪異」とし、「その現象が生起する場所としての心霊スポット」(p.55)とすることで、民俗地理学にこだわらない分布論的な地理学の対象として設定している。前半では国内外における怪異に関する研究を整理し、真面目な研究対象として扱われにくい現象でありながら、まずは超心理学的な対象としての蓄積が整理される。続いて、社会・文化の表象としての怪異研究が整理され、文化人類学における成果が議論される。そうした研究には研究蓄積のある分類学的アプローチと、未開発な空間論的アプローチがあり、分類学的なアプローチは中国でも研究が進んでいるという。さらに、欧米やアジアでの研究、うわさや都市伝説に関する研究と整理し、最後にこの論文の実証部分につながる空間論的アプローチに触れる。そこでは境界理論が重要となる。事例では、富山県を対象とし、大正期の新聞紙上の怪談に関する記事と、現在のインターネット上の怪奇現象に関する情報を比較検討している。大正期は72件、現代は280件のサンプルを用いている。大正期と現代の怪異の出現についてGISを用いて地図化している。その結果、平野部の市街地では出現率が低く、平野部と森林地帯との境界部に出現が多いことが分かる。そして、単なる分布図の提示だけではなく、記事の内容に関しても分類学的アプローチを用いて分析している。

 

村山にな(2020)房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス―地域の前進性とアートの後進性の擦り合わせ―.芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要、1117-31
この雑誌は年に1冊で、この号は2019年度の発行として、20203月に出ている。これを2020とすべきか悩む。とりあえず、読んだので、まとめておこう。近年日本でも盛り上がりをみせる地方でのアートプロジェクトであるが、地理学の成果が増えているわけではない。しかし、芸術分野では少なからず地理学的な視点も有する優れた研究が出ているので、網羅的にとはいわずとも、代表的なものは取り上げたい。この論文は千葉県市原市の小湊鉄道沿線地域を会場とした「中房総国際芸術祭いちはらアート×ミックス」という芸術祭を取り上げている。この芸術祭は2014年度に第1回が開催された。第1回は北川フラムという人物を中心に企画され、当時地元で地域密着型の展示企画などが行われていたものの、地元の内輪受けにさせない「アート」を保持するため、地元との結びつきは限定的だったという。この論文では、廃校などの地元では荒廃していく資源をアートによって再生させるような力を評価しながらも、ノスタルジーという価値観で資源を商品化してしまう事態を「再魔術化」の議論とともに批判しながらも、一方的な批判にとどめない深い議論を進める。ともかく、第1回目は広報活動の不足により、来場者数阿予測を下回った。第2回目は2017年に市の予算削減の中、市民を中心に開催されたが、月並みな市民文化際に陥ってしまったという。第3回目は2020年の東京オリンピックに向けて開催される予定だったが、やはりこちらも延期が決定され、20213月からの開催を予定している。小湊鉄道をはじめとする民間企業と、支援する市原市、そしてNPO法人の産官学の連携が目指され、再び北側を総合ディレクターに迎えたという。この論文はこのイベントの良し悪しを判断するような評論ではなく、このイベントに限定されない、アートをめぐる社会的文脈や、それを活用とするこの地域の実態を含め、さまざまな思考と対話を喚起するような「批評」のあり方を模索しているように思われる。

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【映画評】『星の子』と『空に住む』

2020年118日(日)

テアトル新宿 『星の子』
芦田愛菜主演作と話題になっていたが,私はその予告編を観た時の共演者に驚き,観たいと思った。主人公の父親を演じるのが永瀬正敏ってのは,「最近出すぎじゃない?」と思ってしまうが,母親役が原田知世ってのが面白い。しかも,緑色のジャージを着て夫婦で怪しげな宗教にはまっているというのだから。そして,その教団の若き指導者(?まあ,団員にすぎないが)として高良健吾と黒木 華,主人公の学校の先生に岡田将生を配する。監督は大森立嗣だから,安心して観られると思った。
しかし,座席をネットで予約するときから何となく不安を感じた。この日の予定はなかなか確定できなかったから,最終的には当日の朝,予約した。すると,上映数時間前だというのに,予約は私だけ。劇場についてもお客さんはパラパラ。実際には話題性に人気はついてきていないようでした。まあ,それもそのはずというか,芦田愛菜ちゃんをはじめとして,中学生を演じる俳優たちは頑張っていましたが,上に挙げた出演者は特にこれといったかがやきを放ってはいなかった。個人的には岡田君が珍しく美男子を売りにする役どころで,熱血教師としてもよく演じていたとは思うが,人柄は薄っぺらだった。原作通りかもしれないが,登場人物の内面が感じ取れない,そんな作品。そして,結末も「で,どうなの?」というところで終わってしまう。まあ,そういう終わり方は有体のハッピーエンドよりもリアルでいいとは思うが,どこにこの映画の意義を感じたらよいかは正直わからなかった。
https://hoshi-no-ko.jp/

 

新宿ピカデリー 『空に住む』
結論からいうと,この作品も同じような印象。多部未華子主演ということで,前売り券を買って臨んだが,油断している間に近場の劇場では上映回数が減っていて,『星の子』と1日に両方観るとなると新宿までくるしかなかった。久しぶりのピカデリー。しかし,高層マンションを舞台にするこの作品を11階にあるスクリーンから観るというのはいいかもしれない。
本作の監督は青山真治。多部未華子と青山真治という組み合わせはいいと思うが,相手役は岩田剛典で,しかも自分で主題歌も歌っているという商業主義まるだしの感じ。そういう類の映画に対抗するような作品制作をしてきた監督だと思っていたので,少し意外。でも,2010年以降は少し路線変更しているようですね。それはともかく,まあ多部未華子ちゃんを満喫できる作品ではあります。そして,設定が少し面白い。渋谷にあるとされるタワーマンションの39階に住むことになった主人公。しかし,勤務しているのは郊外の一軒家にある小さな出版社。渋谷から東急線で多摩川を越えるシーンが何度も登場します。私が知っている自由が丘の出版社「ミシマ社」を彷彿とさせます。とはいえ,この出版社のことをよく知っているわけではありませんが,社長がこだわりのある人で,一冊一冊の本は編集者が全て企画したもので,著者による持ち込みには応じていないと聞いたことがあります。と思っていたら,やはりクレジットに名前が出ていました。タワーマンションに住むのが場違いという設定だと思うが,主人公はファッショナブルな装いに変わっていく。このマンションに住むにはその位頑張らないとということなのか,単なる作品中の演出なのか,やはり分からない。岩田剛典演じる有名俳優も単なる女ったらしなのか,そこには哲学的な芯(信念)があるのか,そこも判然としない。この作品にも永瀬正敏がちょっと出演していて,これまた少し出演している大森南朋は『星の子』監督の弟だったり共通性もある2作品でした。
https://soranisumu.jp/

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姉妹都市関連文献01

ホストタウンを直接扱う学術論文は今のところ限られている。しかし以前、佐藤智子『自治体の姉妹都市交流』を紹介したように、姉妹都市研究という文脈もホストタウンの理解には十分役立つと考えている。よって、そうした文献についても、記録しておこう。意外にもこちらには地理学者が関わっています。

 

豊田哲也(2016)「姉妹都市提携の変容と展望」『国際教養大学 アジア地域研究連携機構研究紀要』2巻、9-22頁.
冒頭には姉妹都市の歴史が概観されている。その起源は戦後欧米で展開した平和運動にあるという。ヨーロッパでは仏独間で、日本では日米間という、第二次世界大戦の枢軸国と連合国間の交流として展開した。日本では1957年の姉妹都市締結が最初で、1964年までに78件、うち米国都市とが57件だとのこと。その後、日本での展開は縮小するが、その後、文化・教育交流と経済連携の2つの意義を持って、新たな展開を見せる。バブル期には国際化、国際交流が一つのキーワードでもあったが、潤沢な地方自治体の予算を使って、市民を海外旅行させる、そんなのが姉妹都市交流であって、バブル崩壊とともに縮小したという見方があるという。ただし、新規の姉妹都市締結は1990年代で最も多く、実際の動向としてはそう単純ではない。一方で、中国は経済戦略の一環として、1978年から姉妹都市提携を積極的に進め、それは日本の諸都市との提携としても展開した。日本でも極東ロシアとの姉妹都市提携は経済的連携を目的としたものであった。そんななかで、ウラジオストクと秋田市が1992年に姉妹都市提携を結んだという。秋田県の自治体が結んだ姉妹都市関係は1982年に始まり、22を数える。それらの経緯について説明しているが、2つの都市が関係を結ぶきっかけについてはあまり詳細が分からない。大潟村とオランダのドロンテン市については干拓を通じた結びつきがあるものの、秋田日独協会や秋田県ハンガリー友好協会という組織がきっかけとはしているが、なぜ秋田県にそういう組織ができたのかは不明。米国についてはミネソタ州立大学が1990年に秋田校を開学していたからだというが、なぜ秋田にという疑問は残る。TDKの発祥地が秋田県の旧仁賀保町であり、その米国工場の立地するショウニー市との結びつきというのは分かりやすい。一つの結論としては「地方都市が経済戦略の一環として姉妹都市提携を行うことが有効な状況は限られている。」(p.19)としている。

 

古性摩里乃・諸井克英・天野太郎(2016a)「地域社会における「姉妹都市」提携の機能と直面する課題(1)――「姉妹都市」提携の歴史と広がり」『同志社女子大学生活科学』第50巻、13-18ページ.
この論文の前半でも姉妹都市の歴史と日本での状況が整理されている。特に、姉妹都市提携を支援している組織「自治体国際化協会」が公表しているデータをまとめているのは有用である。それによれば、姉妹都市交流事業は以下の9つに分類されるという。①教育交流、②文化交流、③スポーツ交流、④医療交流、⑤経済交流(農業)、⑥経済交流(工業)、⑦経済交流(商業)、⑧行政交流、⑨その他。そして、近年では地域ブランドの発信や地域活性化の手段として観光へ活用しようとする事例があるという。中盤では欧米における歴史を整理し、移民によって結ばれた地点間の交流があると指摘しており、日本においてもハワイと山口県周防大島町との提携を紹介している。

 

古性摩里乃・諸井克英・天野太郎(2016b)「地域社会における「姉妹都市」提携の機能と直面する課題(2)――小田原市の事例」『同志社女子大学生活科学』第50巻、19-23ページ.
なんと、(1)の論文の次のページから(2)が続いている。別にする意味があるのだろうか。まあともかく、(2)は事例研究である。対象の神奈川県小田原市は1981年に米国カリフォルニア州のチュラビスタ市と姉妹都市提携を結び、30年以上にわたって民間を中心とする交流が行われているという。しかし、その事業が青年交流事業と市民訪問団派遣に限定され、交流の広がりがないのを問題視している。青年交流事業は年齢制限や自己負担の大きさから募集人数が減っているという。その他、この事業を担当する小田原市の文化政策課の職員が4人にすぎないこと、またチュラビスタ市の成長が目覚ましく、30年間で人口規模が逆転してしまったという。その一方で、小田原市は1991年からオーストラリアのマンリー市と友好都市提携を結んでいて、市からの補助金を使った活発な交流が行われているという。著者たちは市民130人にアンケートを行い、市民側の認知と関心の高さを把握している。要は事業の見直しを行い、今後も継続・発展させていくべきだと結論している。この論文は第一著者の卒論だとのこと。

 

古性摩里乃・諸井克英・天野太郎(2017)「地域社会における「姉妹都市」提携の機能と直面する課題(3)――Adelaide 市と姫路市との「姉妹都市」提携事業として姫路市立動物園に寄贈されたウォンバットの事例」『同志社女子大学生活科学』第51巻、17-25ページ.
何と第一著者はその後大学院に進学したようで、卒業論文の一部を大幅に加筆修正して翌年も同じ紀要に掲載している。今度は兵庫県姫路市が事例である。姫路市は米国、ブラジル、ベルギー、韓国、オーストラリアの5都市と姉妹都市提携を結んでおり、その他中国の1都市と友好都市提携、フランスの城と姫路城とが姉妹城提携を結んでいるという。この論文で調査されたのはオーストラリアのアデレードとの友好都市によって、姫路市立動物園に寄贈されたウォンバットについてである。姫路市とアデレード市は1982年に姉妹都市提携を締結し、動物園はオーストラリアの動物を迎え入れる設備投資をし、1984年にウォンバットとカンガルーを迎え入れた。ウォンバットは当初は地元メディアなどで大きく取り上げられたが、結果的に見ると入場者の増加にもつながらず、繁殖も失敗して、2匹のウォンバットは14,5年で死んでしまう。姫路市の事例は失敗だったが、なぜか最後に池田市が同様に姉妹都市のオーストラリアからウォンバットを譲り受けた成功例を示している。なぜ失敗例を事例としたのだろうか。

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【映画評】『映画プリキュア』と『朝が来る』

2020年1031日(土)

府中TOHOシネマズ 『映画プリキュアミラクルリープ みんなとのふしぎな1日』
ようやくTOHOシネマズも一席空けを解除してくれました。ただ,今度は座席でものを食べることができなくなり,まだ親子一緒にポップコーンは食べられない(気にせずに持ち込む人たちはいましたが)。本作はもともと320日に公開予定だったのが,延びに延びて,こんな時期になりました。娘はそれほどプリキュアのファンではありませんが,最近の映画は観るようにしています。また,1時間程度の上映時間なので,自宅でもNETFLIXで過去の作品をけっこう観させています。毎年映画はやっていて,恐らく根強いファンはいるのだと思うけど,公開はじめての土曜日の割には席はだいぶ空いています。過去2作を映画館で観ていますが,いずれも地味な印象があります。もちろん,主人公たちは華やかなのですが,音楽とか効果音が控えめなんですよね。しかし,本作は地味ではありませんでした。ストーリーもしっかりしていて,ハッピーエンドで,やはりとてもよく出来ていると思います。そして,次回作の宣伝もしっかりありました。本来の公開日のちょうど1年後ということで,20213月です。プリキュア映画は最新のプリキュアに歴代のいくつかが登場するのがいいですね。また娘と観に来たいと思います。
https://spring.precure-movie.com/pc/

 

2020年113日(火,祝)

立川立飛TOHOシネマズ 『朝が来る』
今,私は東京オリンピックの研究をしている。オリンピックには公式映画がつきもので,1964年の東京オリンピックの際には市川 崑監督が撮って,いまだに話題になる名作だったようです。そして,今回はなんと河瀨直美さんが監督をつとめます。まあ,世界的に有名で,ドキュメンタリーも取っていて,年齢的にも円熟しているということで,他に適任はいないのかもしれません。ただ,個人的にはこの監督は世間を少し斜めに見るところがあるので,権力者の祭典であるオリンピックの公式映画というのはそのプロモーションも兼ねているので,どうなのかな,という気持ちもある。ただ,市川作品も結局は大会組織委員会には納得されなかった作品なので,まあ指名された後は監督の裁量に任されるという理解でもいいかもしれません。すでに,延期が決まった時に,河瀨監督は,この顛末も含めて既に制作は始まっているといっていたので,期待することにしましょう。
さて,本作は辻村深月の原作に基づくもの。主人公夫婦を井浦新と永作博美が演じるというのも魅力的。もう一方の主人公の女性を演じるのは『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の蒔田彩珠。観終わって,原作が読みたくなった映画。登場人物同士のコミュニケーションのあり方がとてもリアル。近しい人ほど本音をいえないときってありますよね。夫婦間とか親子間とか。この夫婦は長らく子どもをつくらずにいるが,ある日子づくりの決心をする。「子どもが欲しい」ということ,これは夫婦の共通認識であるとは限らない。相手のことを気づかう間柄であればあるほど,自分の希望を一方的に押し付けることをためらう。この夫婦は決心をしたものの,なかなか授からない。次のステージは不妊治療。今では十何人に一人が体外受精の赤ちゃんだといわれるが,無痛分娩ほどおおっぴらでもない。そこに踏み出すにも一つのハードルがある。そして,次は始めた不妊治療をいつ終えるかということ。ここがかなり難しい。この映画ではそのシーンが素晴らしい。そして,この映画では不妊治療を諦めた先に養子縁組の話が来る。原作もそうだと思うが,この辺りの描き方が雑だと観る者は一気に冷めてしまう。かなりの取材を行い,リアリティをもたせていることが垣間見られる。ここで登場するのが浅田美代子。彼女の存在はこの映画で非常に重要である。そして,最後の変りぶり。
また,前半は夫婦を中心に話が進み,蒔田彩珠演じる,今夫婦に子どもを提供することになる中学生の少女は少ししか出てこないのだが,途中から一転して少女の物語となる。若い男女にベッドシーンをさせるのもさすが河瀨監督。こちらは家族の物語。一般的な家族として描かれるが,中学生の娘が妊娠した途端,悲劇の家族となる。一般的で幸せそうにみえる家族が仲良くお互いのことを理解できているとは限らない。この出来事によって,この家族には亀裂が生じ,少女は居場所を失っていく。幸い,親が探してきた,浅田美代子が運営する「ベビーバトン」という施設で出産までの時を過ごし,そこでいくつかの出会いを経験し,少女は成長する。夫婦と少女の出会いについても,含みを残した形で描かれていくので,観る者はそこに憶測を含めて想像し,両者の間の埋められない溝を感じるが,最後にこの溝は見事に埋められる。唐突なラストシーンで,そこで映画はブチっと終わってしまうが,これはこれで,小説も映画もフィクションであることを感じ,現実に引き戻されながら,そこに希望を感じる,という物語だ。
http://asagakuru-movie.jp/

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私の論文一覧

何となく整理したので,ブログにも載せておきます。

成瀬 厚 1993. 商品としての街,代官山.人文地理 45: 618-633

成瀬 厚 1994. わが国の地理学における文化研究に向けて.地理科学 49: 95-108

成瀬 厚 1996. Hanako』の地理的記述に表象される「東京女性」のアイデンティティ.地理科学 51: 219-236

成瀬 厚 1996. 現代吟遊詩人の声を聴く─―甲斐バンド『英雄と悪漢』の分析.地理 41 (12): 46-52

成瀬 厚 1997. 地政学的意識と批評.地理学評論 70A: 156-166

成瀬 厚 1997. レンズを通した世界秩序――世界の人々をテーマにした写真集の分析から.人文地理.49-1:1-19

Naruse, A. 1997. A note on the concept of place. Geographical Reports of Tokyo Metropolitan University 32: 59-68.

成瀬 厚 1997. 『地と図』を読む.地理科学 52: 107-117

成瀬 厚 1999. 小説の時空間分析――クンデラ『冗談』をテクストに.地理科学 54: 81-98

成瀬 厚 2000. マトリックスから何が生まれるか?――映画『マトリックス』の場所論的解釈.地理科学 55: 107-116

成瀬 厚 2000. 東京生活のススメ――女性週刊誌『Hanako』が提供する賃貸住宅情報の批判的解読.季刊地理学 52: 180-190

成瀬 厚 2001. 東京・武蔵野・江戸――写真による地理的表象と自我探求.地理学評論 74A: 470-486

成瀬 厚 2001. この部屋を見て!!――女性一人暮らしのカタログ.理論地理学ノート 12: 39-46

成瀬 厚 2002. 拾い集めて都市と成す――泉 麻人の街歩き.10+1 29: 117-126

成瀬 厚 2004. 場所の文法――地理学における隠喩論と都市ガイドの分析.地理科学 59: 98-114

成瀬 厚・杉山和明・香川雄一 2007. 日本の地理学における言語資料分析の現状と課題――地理空間における言葉の発散と収束.地理学評論 80: 567-590

成瀬 厚・香川雄一・杉山和明 2008. 言説概念を介してみる人文地理学者のアイデンティティ――日本の地理学者に対する意識調査の解釈から.空間・社会・地理思想 12: 13-20

成瀬 厚 2010. 他所と同一化する――写真家が旅で発見した故郷.人文地理 62: 478-492.

成瀬 厚 2012. 街で音を奏でること――2005年あたりの下北沢.地理科学 67: 1-23

成瀬 厚 2012. 歩きて街に文字を刻む――ポール・オースター『ガラスの街』の間テクスト分析.コミュニケーション科学 35: 153-177

二村太郎・荒又美陽・成瀬 厚・杉山 和明 2012. 日本の地理学は『銃・病原菌・鉄』をいかに語るのか――英語圏と日本における受容過程の比較検討から.E-Journal GEO 7 (2): 225-249

成瀬 厚 2013. 地名を用いた公共施設のプロモーション――空港名の愛称化を事例として.E-Journal GEO 8 (1): 78-95

成瀬 厚 2013. 遠近法主義に抗う現代風景芸術――芸術を対象とする景観研究.地理学評論 86: 413-435

成瀬 厚 2014. 場所に関する哲学論議――コーラとトポス概念を中心に.人文地理 66: 231-250

成瀬 厚 2016. 表象を忘れない――新聞記事の地理学的研究を通じて考える.コミュニケーション科学 43: 85-106

成瀬 厚 2017. 音楽的星座:徘徊し,集うミュージシャンとオーディエンス.神谷浩夫・山本健太・和田 崇編『ライブパフォーマンスと地域――伝統・芸術・大衆文化』ナカニシヤ出版,86-105

成瀬 厚 2017. 地理学関連科目を担当する大学非常勤講師の雇用実態と意識.E-journal GEO 12 (2): 280-293

成瀬 厚 2020. 日本におけるオリンピック研究.コミュニケーション科学 51: 117-160

成瀬 厚 2020. 地名の認識論序説.空間・社会・地理思想 23: 3-12

成瀬 厚 2020. 地図とは,地理学者にとって崇高な対象である.ユリイカ 52 (7): 78-86

成瀬 厚 2020. メガ・イベント研究からオリンピック研究へ――地理学的主題の探求.経済地理学年報 66 (1): 3-28

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2020年の「文化地理」関連文献05

『人文地理』の今年の第3号が届いた。毎年3号には「学界展望」が掲載されている。『人文地理』の「学界展望」は毎年,昨年の地理学文献を,現在は21の分野であらかじめ決められた21人の執筆者が担当してレビューするものである。今年の8月に私に来年の執筆依頼(2020年に発表された文献)があり,受諾した。第3号には来年の執筆担当者が掲載されているので,これを以て情報解禁である。私は「文化地理」の担当である。以前は「民族・文化」という分野名だったが,私が前回担当した2000年(1999年の文献)から「文化地理」に変更になった。ということで,21年目の担当である。

 

今里悟之 (2020). 田畑一筆の通称地名の変化と継承―長崎県平戸島の事例から―. 日本民俗学, 301, 35-66.
私が1997年に地名の固有名論を英文で書いた時,1998年の学界展望「地誌・地名」で取り上げられることを期待したが,取り上げられず,苦い思い出として記憶に残っている。それからすぐに「地名」を冠した分野は消滅してしまったが,そのことに気づかなかった。私は今年も「地名の認識論序説」という文章を発表したが,地名を扱う分野がない今,「政治地理」で扱ってくれるだろうか。それはともかく,何かをきっかけに私のことを思い出してくれたのだろうか。今里さんからここ数年の抜き刷りが送られてきた。彼の小地名に関する研究は2010年から継続的に行われている。送られてきた時,学界展望の地名を扱う分野がなくなったことに気づかなかった私は,この論文を「文化地理」で扱う必要はないと思っていたが,どうやら扱わなくてはならないだろう。地名はともかく,民俗学的な研究は人類学的な研究とともに,やはり「文化地理」の主要な部分だと思う。この論文は民俗学の学会誌に掲載されているということで,彼の継続的な小地名に関する研究の民俗学的な意義を冒頭で整理している。相変わらず明確な論旨で「民俗語彙」に関する研究に精通していない私のような読者でも納得して読み進むことができる。調査は大変だろうが,研究自体は極めて明快。それなりに広い耕作地で水稲の栽培を営む農家に対し,畔で区切られた田圃を一枚とか一筆と数えるが,筆ごとにつけられた名前(筆名)について,3つの農家の状態を調べている。2010年から継続的に2018年まで調査し,1975年の状態と2010年の状態への変化を復元している。その他にも地籍図や空中写真なども使って,名前の付けられた一枚一枚の田の同定を行っている。代々受け継いだもの,親戚などから借り入れたもの,土地利用の変化,工作物の変化などを通してその筆名は継続されたり変更されたりする。その一般性と特殊性を明らかにしようと,事例研究を重ねている。

 

相馬拓也 (2020). 遊牧民と動物,地図生成への導きのコスモロジー. ユリイカ, 52(7), 275-283.
私も執筆した『ユリイカ』の地図特集に,ブックガイドで執筆した加藤政洋氏の他に,もう一人地理学者を自称する人がいた。モンゴルの遊牧民の調査研究をしている人のようで,地理学と同時に民族学を名乗っている。この論文では,狩猟採取を行う現代の遊牧民の姿に,人類古来の動物を介した人間-環境関係を探っている。特に地図特集に寄せられた論考ということで,人間と動物のすみわけなど,人間の行動範囲の判断・確定の問題を論じている。ユキヒョウやイヌワシ,オオカミなど中欧ユーラシアのいくつかの事例を取り上げ,「野生動物が人間の地理観念の形成に導き手として介在し,地図以前の世界でそのポジショニングが果たした役割は大きい。」(p.281)と結論する。また,一定のサイクルで広い範囲を周回して移動する遊牧民の生活を論じ,その際も動物を介して自然環境の状況を知り,柔軟に移動先を変更することが,自然から最低限の食糧を得て生きるかれらの生きる術だという。

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酒場の京都学

加藤政洋(2020):『酒場の京都学』ミネルヴァ書房,232p.2,500円.

 

前にも書いたように,2020年の特定分野の地理学研究をフォローしなくてはいけないということで,今年出た地理学者の著作についてもアンテナを張らなければいけない。著者は2002年の『大阪のスラムと盛り場』以来多くの著作を世に出している,同年代の地理学者のなかでも多作な人である。多すぎて私は読むのが追い付いていない状況。私たちが昨年『アルコールと酔っぱらいの地理学』という本訳書を出したこともあり,本書は訳者仲間の間でも必読書となった。

はじがき
序章 裏町の酒場から
第1章 〈茶屋酒〉の系譜学
第2章 酒場の登場
第3章 洋酒酒場と花街
第4章 歓楽街の誕生
第5章 《裏寺町》の空間文化誌
終章 〈会館〉という迷宮

著者は自身の著書執筆に関して大阪や京都の近代都市研究を中心に据えながら,アカデミーでは,ソジャの翻訳をし,ハーヴェイやベンヤミンなどにも精通している。まあ,ベンヤミンなどはまさに近代都市論だから何も矛盾はないのだが,以前から私は何となく違和感を抱いている。
本書はけっして学術色が強いものではなく,本書では自分のことを「わたし」と表記し,京都の大学に勤務して酒場が好きであると宣言するなかで本書のテーマなので,自伝的な意味合いも含むといっていいかもしれない。また,本書執筆の動機についても書かれていて,1971年の文章に,京都で気軽に酒が呑める店があまりない,という記述を発見し,その事実を歴史的に紐解くことが本書の目的である。それにしても,本書は洗練されている。私の論文を「素人が撮影したyoutube動画」だとしたら,本書は「大手広告代理店が手掛けたCM」といった感じだろうか。常に学術的な意義を有しながらも一般読者を想定した書籍の文体はこれまでの経験を通じて(初めから彼の文体は古風で優れていました),本書は滑らかな流れるような文章で構成されている。それは個々の文章だけでなく,本書の構成にもいえることで,その他にも装丁や細かい注釈の入れ方,資料の扱い方,いずれも私には届かない次元にある(目指してはいないが)。
そこで,一つ気が付くことがある。最近はブラタモリ人気で,ある意味こうした書籍が少なからず多く出版されている。地理への関心が密かに盛り上がり,歩行者の速度と目線で世の中を眺めるということの価値が増しているように思います。このことは,時代背景は全く違いますが,1980年代の都市論を彷彿とさせます。とはいえ,当時の都市論はある意味で,知識人や作家という文化特権的な立場が否めませんでしたが,最近のものはどうでしょうか。本書に限ってみると,類似点としては文学作品を自在に引用しながら都市を論じるという点にありますが,テーマが庶民の酒呑みというところにありますので,特権的な視点というのはないのかもしれません。
著者はアカデミックな場では,都市における弱者の抑圧,分かりやすい所ではスラムクリアランスのようなものを論じてきました。最近の著者の著作がそういうテーマをどう扱っているかは分かりませんが,本書にそうした視点は少ないようです。もちろん,全くないわけではなく,それこそベンヤミンの名前も登場するし,時折批判的な立場をのぞかせる記述もあります。
さて,本来やるべきことが後回しになってしまいましたが,本書は冒頭に書いた疑問に答えるように,現代では飲み屋のいっぱい立ち並ぶ京都という都市が半世紀前にはいわゆる居酒屋のように,調理されたつまみを食べながら,のんびりお酒を飲めるような場所がなかったか,そういう店がどういう経緯で,京都という都市のなかのどういう場所にできてきたのかを順を追って明らかにしている。第1章では本居宣長まで遡り,日本で自宅以外でお酒を飲める場所の歴史を辿っています。基本的には「茶屋」と呼ばれる場所で,まあ東京でも「三軒茶屋」という地名がありますね。明治期に「酒場」が登場しますが,基本的には高級な料理屋が一般的だった。本書で取り上げられるのは第三高等学校の学生たち。学生たちといえば今でも居酒屋を盛り上げる重要なお客たちですが,さまざまな形で京都の都市と酒に関わります。その頃登場するのが「カフエー」である。また特定の酒造メーカーの酒を扱う酒場(正宗ホール)などもあり,京都の酒場でありながら神戸は灘のお酒がよく飲まれたそうです。ちょっとこういう説明をしているときりがないが,ともかく明治期以降の京都における酒の消費というテーマを地理学的観点から,文学作品を主要な資料として辿った本である。
終章は短いながら,地理学者の読者である私にとって興味深い文章になっている。しかし,この興味深い都市地理学的考察が終わると,「さて,このように堅い文章で論じてしまうと,〈会館〉の面白さを伝えるどころか,読者の皆さんの興味を失せさせてしまうのではないかと,いささか不安になる。」(pp.228-229)と書かれている。これが,一般書を書き続けている著者の経験なのだろうか。私も少なからず執筆依頼をうけることがあり,その時はその雑誌の読者を考えて書き方を考えるが,それでも,自分が面白いと思う文章しか書けない。

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