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2020年12月

【映画評】『滑走路』『天外者』

2020年127日(月)

この日は保育園の個別面談の日。会社を有給休暇にした。以前新宿テアトルに行った時に『滑走路』という映画の前売り券を購入した。航空関係の仕事をしているので,直感的に観るべきだと思った作品。しかし,なかなか観る機会がなく,知らない間に上映劇場も減っていた。この日の面談は14:30。その前に観たいところだが,新宿で終映が13:35。特急停車駅に自転車を置き,急いで向かえば間に合うと判断し,観ることにした。結果的には余裕で間に合いました。

新宿テアトル 『滑走路』
さて,映画ですが,直感が当たり,素晴らしい作品でした。映画は3つの時代で構成されています。1つは中学生が主人公。いじめにあっている幼馴染を助けることで,逆に自分がターゲットに。助けた友達も不登校になる。しかし,一方で主人公はいじめをきっかけに一人の絵描き好きな女の子と仲良くなる。2つ目の時代は大学を卒業して国家公務員になり,厚生労働大臣の下で激務に追われる主人公。不眠の日々が続くので精神カウンセラーに通っています。3つ目の時代は水川あさみと水橋研二演じる夫婦の日常を描く。夫は学校の美術教師,妻は切り絵作家で仕事が増えてきて,パートを辞めて作家に専念しようとする。
何気なくこの3つの時代が入れ代わり立ち代わりで進行する。浅香航大が演じる2つ目の時代の主人公は,厚生労働省に訴えに来た過労死支援団体の人が持ってきた資料に目を止める。過労死自殺をした匿名の自分と同い年の男性が気になり,調べるとそれは1つ目の時代の主人公だった。そう,2つ目の時代の主人公は1つ目の時代で引きこもりになった少年だったのだ。また水川あさみ演じる女性のもとに届く中学の同級生からのSNSメッセージ。それは成田空港に展示してあった彼女の作品をたまたま見かけたという報告だったが,ついでのように,中学の時に仲が良かった男子が12年前に自殺したというお知らせがある。そう,水川あさみ演じる女性は1つ目の時代の絵描き好きな女性だったのだ。それぞれ12年ごとが経過して,13歳,25歳,37歳の3人の姿を描くような仕組みになっている。一時期はこういうのが流行ったが,奇を衒うことなく3つの時代が淡々と進むなかでそれらが歩み寄っていく。37歳の時点ではスマートフォンも登場し,現在と考えて違和感はない。そうなると,13歳の時代は24年前で1990年代半ばということになる。確かに携帯電話も出てこないが,ちょっといじめの描写が古典的すぎるような気がしないでもないが,携帯電話出現以前のいじめはそれほど変わらないか。
久しぶりの水橋研二,ちょい役の染谷将太,圧倒的な存在感を示す坂井真紀,本作が長編第一作のようだが1978年生まれの大庭功陸という監督にも今後注目したい。なお,本作は萩原慎一郎という詩人の作品から発想された作品だという。非正規雇用のなか詩作を続け,32歳で自殺したという。
https://kassouro-movie.jp/

 

2020年1219日(土)

調布シアタス 『天外者』
今年最後に散髪をしようと調布へ。この日の息子は外部グラウンドで終日練習&試合だというので,出発時間の7時過ぎにお弁当をもたせたので,美容院の時間まで調布で観られる作品をということで,エヴァンゲリオンと悩みつつ,三浦春馬君を観ることにした。Wikipediaで調べると9歳の頃から映画に出演している。私が彼を意識し始めたのはいつ頃だろうか。当時はテレビドラマは観ていないので,映画でいうと恐らく16歳の時に出演していた『キャッチ ア ウェーブ』だと思う。加藤ローサ主演で,彼女のことは結構好きで,この作品は観た記憶がある。17歳の時の新垣結衣との『恋空』,そして決定的なのが20歳の時の多部未華子との『君に届け』ですね。それから映画にはそれほど多くは出演していないようですね。次は『こんな夜更けにバナナかよ』『アイネクライネナハトムジーク』くらいかな。
さて,本作は五代友厚の半生を描くものだが,恥ずかしながら私はこの人物を知らない。ということで,この映画から学ぶことは多かった。伊藤博文,坂本龍馬,大久保利通,西郷隆盛というそうそうたるメンバーの中で活躍する。そういう意味でも,本作から幕末から明治維新の細かい歴史を学ぶことは難しいが,雰囲気はなんとなく知ることができる。CGによる歴史的風景再現技術の現状も分かる。配役のなかでも面白かったのがTMレボリューションの西川貴教で,なかなかいい味出しています。しかし,ちょっと唐突だったのは,あれほど女郎に入れ込んでいた五代が,街中で会話を交わしただけの女(連佛美沙子)と結婚し子どもを持つところの展開が早すぎる。まあ,いずれにせよ三浦春馬の生きざまにも重ねて彼の半生を堪能できる作品。
https://tengaramon-movie.com/

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【読書日記】ハルオ・シラネ『四季の創造』

ハルオ・シラネ著,北村結花訳(2020):『四季の創造――日本文化と自然観の系譜』KADOKAWA277p.2,000円.

 

以前にも書いたが,今私は『人文地理』の「2020年学界展望」の「文化地理」を担当している。2020年に刊行された図書・雑誌で「文化地理」に関わる文献を論じるのが課題だ。他分野まで目を向けると,取り上げるか否かは別として一定の文献を読まなければならないが,あまり手を広げすぎると読み切れない。本書のように「日本文化」というジャンルは決して少なくないが,かといってそれが全て文化「地理」とは限らない。日本文化論に限らず,地域・場所名を冠した○○文化論はあるが,私的な定義では別の地域・場所との関連や,当該地域・場所内の差異について考察しているものが「文化地理」として論じるべき文化論だと思っている。書店で本書を手に取った時,その条件を満たすかどうかまでは分からなかったが,なんとなく感覚的に本書は読むべきだと思い,購入。読み始めるとその直感が非常に正しかったことを実感する。

序論 二次的自然,気候,風景
第一章 歌題と四季の創造
第二章 視覚文化と和歌・連歌のかかわり
第三章 自然の屋内化――花と社会儀礼
第四章 田舎の風景――社会的差異と葛藤
第五章 季節を越えて――護符と風景
第六章 年中行事,名所,娯楽
第七章 季節のピラミッド,パロディ,本草学
結論 歴史,ジャンル,社会的共同体

著者は東京生まれだが,物理学者の父が渡米したため,在米日本人として教育を受けた在米日本人,すなわち移民ということになる。英文学研究のためイギリスに留学した際に日本文学に触れ,『源氏物語』に魅了されたという。個人の根源的なナショナリティを問題にはしたくないが,著者は恐らく日本に対する複雑な感情を有しているが故に,古典的な日本文学による自然の描写を日本人の感情構造と素朴に考えるのではなく,それがいかに作られたのかという冷静な態度へと導いたのではないだろうか。
本書は歴史的な年代をことさら強調する歴史書ではないが,十世紀初めの『古今和歌集』を含む文学作品は都の貴族文化であり,あくまでもかれらが描く自然はかれらの生活で触れることができるものであったという前提に立つ。それは手付かずの野性の自然でもなければ,百姓が日々の生業で向き合っていた田畑で生育する自然やそれを取り巻く環境でもない。日本の都市でも古くから囲われ飼い慣らされた自然であり,またそれを描く文学が規則を作り繰り返し描写したものである。またそれは言語表現だけでなく絵画表現や建築や造園などでも都市生活の一部となる。著者はそれを「二次的自然」と呼ぶ。この呼称はマルクス主義などにもあるが,似ているようで少し異なる。本書においては概念自体がしっかりとした作品分析を基礎としており説得力がある。目次では「風景」という言葉がよく使われていて序論で論じられるキーワードの一つでもあるが,本文ではそれほど印象は残らない。過度に強調しすぎない所がまたいい。ともかく,そんな感じで第一章から大まかに古い順に作品分析がなされる。本書ではしっかりと中国の影響が論じられ,また江戸以前の京都や奈良,そして都と鄙との関係も論じられており,十分に地理学的な研究だと捉えられる。
本書はコロンビア大学出版局から2012年に英文で出版されたものだが,各章10以上の文献が挙げられ,それがいずれも日本語文献であり,日本の文学研究・歴史研究にしっかりと依拠しているところは素晴らしい。例えば,以前読んだなかに,トーマス『近代の再構築――日本政治イデオロギーにおける自然の概念』(原著2001年,法政大学出版局2008年)があるが,検討される文書は日本語で読んでいるが,参照される学術文献はほとんど英語というのもあった。扱う時代で欧米の日本研究の蓄積が違うのかもしれないが,本書のようなものはまれなのだろうか。
それはともかく,角川選書の一冊で決して厚くない本でありながら,1000年ほどの歴史を扱っている本書だが,一つ一つの作品分析は詳細である。時には細かく専門的すぎてついていけない箇所もあるが,だからこそ作品分析を敷衍した議論は説得力を増す。原著タイトルは『日本と四季の文化』という面白くないものだが,翻訳タイトルの「四季の創造」はまさしく本文で主張されている言葉で,「日本は四季があるから自然風景が美しい」というような言い方を,「日本では文学・美学において美を作り出すために四季を創造した」という発想の転換を導いてくれる。その創造される四季の中身も,時代により変化・進展し,各季節の美を支える要素(特に本書では動植物が検討されるが,それはそれらが名前を有した存在であることが文学上の必要条件でもある)も変化する。それは文学上の選択だけでなく,実際に都市に取り込まれる動植物の変化でもある。
一つ一つの史実も紹介したいものがいっぱいあるが,現代に近い江戸時代後期の「本草学」に関する議論はとても興味深い。動植物の画像を生物学的な知識に基づいてより写実的に描くことが始まり,それは浮世絵を変容させ,また文学との関りも持っていたという。
ともかく,本書はいわゆる日本文化の1000年間の歴史を概観することができる,という点でも読むべき本である。日本史の教科書に時代ごとに○○文化として登場する事柄が,個別の暗記すべき事象としてではなく,有機的に結びついて語られる。世界史に関しては,そういう読書経験の悦びをすでに四半世紀味わってきたが,日本史に関してはなかなかそういう経験がなく,いまだに私の日本史に関する知識は貧弱なままである。これを機に,本書に挙げられている文献を手掛かりにそういう読書経験を積んでいけたらと思う。なお,本書は最終章である「結論」で本書の内容が端的に整理されており,さらに「日本の文化的地形図」や「詩歌の地勢図」なんて言葉を使いながらまさに地理学的考察も含まれている。巻末の「日本語版へのあとがき」にいたっては東日本大震災から新型コロナウイルスにまで言及し,結論における近代から現代の議論に続いて今日までを論じている。

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【読書日記】大山エンリコイサム『ストリートの美術』

大山エンリコイサム(2020):『ストリートの美術――トゥオンブリからバンクシーまで』講談社,281p.1,900円.

 

本書第二部に収められた「フローの感覚――バスケットボールの経験から」は初出がここでも紹介した論文集『スポーツ/アート』に掲載されたもの。著者は2020年に何冊か評論を出しているが,『人文地理』「学界展望」で取り上げるのは本書だけにしておきたい。

はじめに
第一部 都市
〔都市と歩行〕〔都市と表現〕〔都市と建築〕〔都市と景観〕〔都市と文化〕
第二部 美術
〔美術とストリート〕〔美術と制度〕〔美術と匿名〕〔美術と前衛〕〔美術と文化〕
第三部 ストリート
〔ストリートと感性〕〔ストリートと歴史〕〔ストリートと倫理〕〔ストリートと文脈〕〔ストリートと情報〕

こうして目次を転載しようとすると,本書がかなり一般的な学術系図書の体裁を逸していることが分かる。上に書いたのはあくまでもアウトラインで,本書に収録されているのは新聞記事も含む,彼がさまざまなところに書いてきた評論であり,数ページのものから,一番長いのは「ゼロ年代とライブペインティング」という文章で50ページに及ぶ。そして初出はウェブである。評論集としては,変わった体裁ではないと思うが,講談社メチエもこういうのを出版するようになったのか,と思う。著者は1983年生まれのイタリア人とのハーフ。エアロゾル・ライティング(本書ではいわゆるスプレー缶による落書きをこう呼ぶ)のアーティストであり,同時に評論を書いている。自身のことは本書にも書いているように,彼はストリート・アートにどっぷり浸かってきたわけではなく,ある種その文化に自身が含まれることに葛藤をかかえながら,むしろさまざまな知識を得ながら参与観察をしているような,そんな立場でアーティスト活動をしているようだ。
それが故に,その状況を経験として知るだけでなく,経験としては知り得ないものも知識として身につけている。本書の副題にある「トゥオンブリ」を私は知らなかったが,ロラン・バルトが取り上げたことで知られる,1950年代以降に活躍した芸術家である。落書きに近い作風で,ポップアートに影響を与えた作家であるということで,本書に取り上げられたようだが,いわゆる一般的な美術批評も本書には含まれている。一つの文章は,日本で有名なクリスチャン・ラッセンが未来の2050年代に再評価されたという設定で書いており,20世紀には日本で人気を博し,そういう意味での先見性があったが,いわゆる美術界では彼の作品は酷評されたという事実に基づく部分も丁寧に論じている。
一方で,先ほど書いたように,自身もエアロゾル・ライティングの作家としてさまざまなアーティストに,またその集団に関わりながら活動してきた,経験ないしは参与観察にもとづく報告がある。学術的な研究ではないので,特定の時間と場所が記され,アーティストは当然実名(本名ではなくアーティスト名)で登場する。ゼロ年代の日本では,さまざまなライブペインティングの実践が行われていたようだ。ライブペインティングとは,私も音楽を目的にいくつか参加したことがあるが,ライブ会場で,その演奏時間に音楽に合わせた作品を制作するというものだが,本書ではあくまでも美術の方が中心なので,音楽の方の詳細な記載はない。また,写真が掲載されたものもあるが,場合によっては生の演奏ではない可能性もあるかもしれない。どのような音楽が使われたのか,もっと知りたかった。
ともかく,目次に書いたように,この芸術分野は都市と大きく関わっている。香港のネイルハウスの話は芸術とはほとんど関係ない。ネイルハウスとは,開発地区で立ち退きを拒否した住民の住居を残して周囲を掘り起こしてしまうという,日本でかつてあった地上げよりひどい状況。また,建築模型の評論もあり,落書き芸術と東京オリンピックとの関係なども論じている。ちなみに,落書きとはグラフィティというが,この語が語源的に刻み込む書き方をするのに対し,スプレー缶(エアロゾル)はその語源と一致しないことから,本書では一貫して「エアロゾル・ライティング」と表記している。本書を一読して,都市というのはその文化の根底にあるものの,本書はそれを前面化して論じているわけではない。目次で私のような地理学者が受ける印象と,読後の印象はかなり違う。最後に副題にあるバンクシーだが,本書ではいくつかバンクシーに関して論じたものがあるが,全く知らなかったのはバンクシーが造ったディズマランドという娯楽施設である。といっても,いわゆる遊園地やテーマパークを批判的に揶揄して作られたものであり,反-遊園地といってもいいもののようだ。この評論もなかなか興味深い。

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2020年の「文化地理」関連文献07

安室 知 (2020). 民俗学における周圏論の成立過程―言語地図から民俗地図へ―. 非文字資料研究, 19, 89-117.
この論文は完全に民俗学の歴史に関わるものだが、副題にある「言語地図」は言語地理学とほぼ同義でもあるため、取り上げるべきかもしれないということで、読んでみる。それにしても長い。タイトルには出ていないが、この論文は柳田国男の周圏論の成立の背景を論じるものである。キーパーソンとして言語学者の伊波普猷と東条操がいるという。周圏論とは簡単にいうと、言語が社会の進展とともに変化するのだが、その変化が大きな社会構成体(例えば国家)の中心で遂げやすい。一方周縁では、古いままの言語の形が残る、そういうものである。それは柳田の時代にも決して目新しい考えではなかったが、そこには沖縄との出会いがあり、沖縄に限定されないスケールで、また言語に限定されない文化現象を思考したことは、民俗学の成立にも関わることだといえる。柳田は1920年に東京朝日新聞の客員となり、沖縄・奄美旅行を実施したという。さらに周圏論の発想を実証するために朝日新聞を利用した全国規模のアンケートを実施している。また、その直後に国連統治委員としてヨーロッパに合計1年半ほど滞在している。上記の2人に加え、もう一人の言語学者上田万年がいる。上田はヨーロッパにおける「Wave Theory」を日本で論じ、それが柳田に影響を与えた。「Wave Theory」とはまさに言語のような文化が中心から波及・伝播していく理論である。ヨーロッパにおける柳田の言語地理学との出会いも詳細に説明されている。1927年に論文として発表された「蝸牛考」が1930年に書籍『蝸牛考』として発表される間に、「周圏論」の語が確立され、全国規模の方言に関するアンケートに基づいて作成された民族地図が掲載され、言語学理論の模倣から民俗学理論の確立へと移行したという。方言に関する言語地図は柳田より先んじて1900年代から言語学分野で作成されていたが、柳田はその一つの理論である方言区画論を批判していたという。また、『蝸牛考』は改定される際に民俗地図が削除されたという。

 

沼崎一郎 (2020). ロバート・レッドフィールドにおける「文化」と「文明」―「郷民社会」論から「人類史」論へ―. 東北大学文学研究科研究年報, 69, 242-211.
私が『空間・社会・地理思想』に訳出した、「文明と文化」の著者エミリー・ヴォグトも人類学者だったが、事例としてはフランスとドイツで社会学や政治学に近い立場で書かれたものだった。西川長夫『国境の越え方』にも近い議論がなされていたが、この論文はまさに人類学で展開した文明と文化の両概念に関する学史的研究である。人類学における文化概念は西川氏も翻訳しているクローバーとクラックホーンのものは私も知っていたが、この論文で論じられているレッドフィールドという米国の人類学者は知らなかった。しかも、シカゴ大学の社会学者ロバート・パークの娘と結婚した人物で、パークの同僚であるルイス・ワースとの関係のなかで、類似した文明・文化の概念を論じている。そして、人類学者でありながら、都市と農村、そして未開の村との関係で文明・文化を論じているというのが非常に興味深い。
まず、時代背景として1920年代のエドワード・サピアという人類学者による文明・文化論を紹介し、これがまた興味深い。人類学においても早くから文明概念との対比で文化概念を議論していたんですね。まあ、よく考えたら当たり前の話で、普遍的なものとしての文明と化した西欧社会から人類学者たちは、文明に汚されない未開な社会に真なる文化を求めて調査に出かけたのだから。『国境の越え方』にも読み返せばそんなことは書いてあるかもしれない。サピアから直接的な影響下で登場するのが、マーガレット・ミードとルース・ベネディクトという2人の女性人類学者だという。それはともかく、社会学者の影響もうけたレッドフィールドはメキシコ調査から人類学的研究をスタートする。英仏のようなその植民地に未開社会が残っている宗主国とは異なり、メキシコはかつてのスペインの植民地であり、当時住んでいた人々は植民者の末裔である。そういう意味でも、その対象は未開社会ではない。彼は調査対象の人びとをfolkと呼び、この論文の著者はそれを「郷民」と訳す。メキシコでも米国の影響下で、都市部では文明化が進み、単一の文明が都市から農村に伝播し、農村にある複数の文化を変容させる。農村には「正しき人々」と「無知なる人々」が存在し、複雑に変容していく。こんな調子で紹介していくときりがない。戦後、レッドフィールドの文明・文化論は徐々に変化していくという。1930年代に調査したユカタン半島のチャンコム村を戦後に再度調査し、その変容を目撃する。そこから、文明がもたらす技術が、社会の道徳を変容させていくということを論じていく。また、当時の考古学者チャイルドによる「都市革命論」にも影響を受けているという。そうした文明と文化の検討から、レッドフィールドは倫理的判断の二重基準を持ち出すことによって文化相対主義に関しても再検討を要求している。ともかく学ぶことの多い論文。

 

大阪大学の文学研究科、芸術学・芸術史講座内にある民族藝術学会が刊行してきた学会誌『民族藝術』が、本号からリニューアルして『民族藝術学会誌 arts/ 』と改名したとのこと。
とはいえ、この学会の存在も私は知らなかった。本号に寄稿した濱田琢司さんが、手元に複数部あったものを送ってくれた。なお、本誌の英語表記は「Journal of the Society for Arts and Anthropology」となっている。
前半は「特集1 「arts"/"」の問題圏と題し、「越境」、「コミュニティと〈伝統〉」、「接続」と3つの項目に分け、11編の論文が掲載されている。『人文地理』「学界展望」で取り上げるとしたら、「接続」に含まれる以下の2編くらいかな。

日髙真吾 (2020). 災害と地域文化―研究者が果たす役割―. 民族藝術学会誌 arts/ , 36, 42-45.
地理学にとってはそもそも「地域文化」という概念が怪しげですが、いずれにせよ「文化地理」が考えるべき問題だとは思う。この論文では「地域文化は地域の長い歴史のなかで、そこに住むさまざまな人々が育んできたものである。」(p.42)と定義される。そして、続いて「したがって、地域文化とは地域のアイデンティティそのものであり、地域住民がこのアイデンティティを認識することで、地域再生への象徴となり住民が団結することができる。」となる。著者は民俗文化財の研究者であり、この論文では「文化財レスキュー」なる実践が紹介される。基本は災害時の物質文化の保護であるといえる。しかし、続いて無形文化遺産の支援活動の報告もある。とはいえ、実際の無形文化の担い手は地域住民であり、研究者ができることは、その舞台を整えることである。

青嶋 絢 (2020). サイトスペシフィックな音楽/音の表現―場と音を接続する―. 民族藝術学会誌 arts/ , 36, 50-54.
音楽研究を専門とする著者によるこの論文は、音楽のサイトスペシフィックアートを論じる。トゥアンのトポフィリア概念を援用してサイトスペシフィックの意味合いを論じている。事例の紹介は冒頭にすぎないが、京都府京丹後市で鉄道の車内を利用したART CAMP TANGO『音のある芸術祭』(2017)を紹介している。

本誌中ほどでは「シンポジウム」と題し、ヴェネツィア・ビエンナーレ2019日本館で開催された「《Cosmo-Eggs|宇宙の卵》:アートと人類学の好転から考える」の様子が報告されている。
後半は「特集2 民族藝術と「地域」」と題し、濱田氏の巻頭言に続いて3編の論文が掲載されている。「地域」という意味ではいずれも地理学でも取り上げるべき論文だが、民俗学にとっても地域は基本的なテーマであり、特に地理学で取り上げる必要性を感じるわけではない。ここでは、地理学者でもある濱田氏の論文のみを取り上げよう。

濱田琢司 (2020). 創作の工芸と地域性―農民美術の継承をめぐって―. 民族藝術学会誌 arts/ , 36, 127-136.
この論文でも冒頭に「地域文化」が論じられているが、観光人類学者である橋本和也氏の議論を受けて、地域文化を所与のものではなく、創造されたものととらえている。サブタイトルに挙げられている「農民美術」とはちょうど100年前の1919年に運動として開始されたものであり、ロシアのペザントアートの影響を受けているという。この運動は長野県の神川村(現:上田市)で実践され、小学校内に農民美術練習所を開設した。この運動に関してはすでに研究が複数あるが、それらではあまり触れられていない戦後への展開をこの論文では注目する。農民美術は当時の民俗学や民芸運動の担い手によって、その地域性のなさを批判されていたが、上田市では一定程度の地域性を獲得しているという。農民美術運動は線前期に一度衰退するが、上田市の実践は戦後に復活し、現在まで続けられている。しかし、100年が経過して一定の地域性を獲得するというよりは作者の制作意欲を優先させ、個人による個性が先んずるような状況だという。そんななかで、尾澤千春という作家の木彫り作品を最後に紹介している。

本誌は特集に続いて「論文」を3編、「報告」を5編、「評論」と題した展示会紹介を12編掲載している。なんと260ページにわたる立派な雑誌である。

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【読書日記】中尾拓哉編『スポーツ/アート』

中尾拓哉編(2020):『スポーツ/アート』森話社,425p.3,200円.

 

大山エリンコイサムの『ストリートの美術』の読書日記を書いているときに,その所収論文の初出である本書の読書日記を読み直そうと思ったら,書いていないことに気づいた。こういうこと,あるんですね。もう読後かなり経ってしまったので,思い出せないものもありそうです。
本書は執筆者の暮沢さんから教えてもらったもの。大きな書店でも見かけるものですが,初めて聞く出版社でもあり,教えてもらわなかったら手に取って読むことはなかったかもしれない。しかし,内容的には非常に興味深いもので,教えてもらったことにまず感謝したい。こんな書き方をするのはなんだけど,暮沢さんはお会いしたことがなく,メールでのやり取りを何度かしている関係にすぎない。そして,私の知り合いのなかでは有名というか,ご自身の著書を含め,執筆に忙しいと思われる人物だが,こちらからメールをすると素早く丁寧に返信をいただける,とても誠実な人である。それはともかく,私が2013年の風景論文で取り上げたドイツの画家リヒターがオリンピックと関係していたという事実を知っただけでも大きな収穫です。


01 スウィングとスピン――「アート」としてのスポーツ,「スポーツ」としてのアート:北沢憲昭
02 オリンピックとスタジアムの変遷:暮沢剛巳
03 バランスをとること――ゲルハルト・リヒターとリンキー・パレルモのミュンヘンオリンピックのスタジアムへの提案をめぐって:鈴木俊晴

04 スポーツ映像の美学と政治――レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』をめぐって:渋谷哲也
05 熱狂の頂――日本におけるパウル・ヴォルフの受容と戦前のスポーツ写真:打林 俊
06 スポーツ漫画映画とナショナル・ボディ――戦前期日本のアニメーション表現に見るスポーツ的身体:渡邊大輔
07 イヴ・クラインの柔道:中尾拓哉
08 観念と絵画の狭間に打ちつける拳:栗本高行
09 フローの感覚――バスケットボールの経験から:大山エリンコイサム

10 人が運動に従属する時:山峰潤也
11 運動を見るという運動――スポーツと芸術の観客身体論序説:木村 覚
12 見下ろすことの享楽:原田裕規
13 つくるスポーツ/するアート:犬飼博士・吉見紫彩
あとがき:中尾拓哉

本書の内容は多岐にわたりながらも,しっかりと編者の方針に基づいて13人が寄稿しているという論文集のありうべき姿。こういう論文集を読むたびに,日本の地理学における論文集のお粗末さを感じてしまう。本書は各寄稿者がさまざまな事例を取り上げ,アートを取り上げてそれをスポーツへと接近させていく,またその逆もあるが,しっかりと各自の方法でスポーツとアートの関係の本質に迫っていく。地理学の多くの論文集はテーマに辛うじて関わっている程度の寄稿者が集められ,確実は編者の方針に寄り添うこともなく自身の過去の研究を反復するだけ,そんな印象を受けてしまう。
まあ,そんな愚痴はおいておいて,本書の内容を見ていきましょう。01では,「アート」という語を深掘りしています。西欧語のartは芸術であり,美術である一方で,技法であり術である。そんな素朴な事実から,日本で外来語としてカナ表記されるアート,そしてその歴史的展開を辿っています。タイトルにある「スウィング」でジャズを語り,「スピン」はフィギュアスケート。スポーツと芸術の多様性とその連続性が論じられます。02の暮沢さんの章はタイトル通りのオリンピックスタジアムを建築技法に着目して整理している。03はリヒター(とパレルモ)という芸術家による1972年ミュンヘンオリンピックとの関りを論じているが,彼らによるスタジアムの装飾計画があったらしい。その他にもスポーツを主題としたリヒターのフォトペインティングなどが紹介されていて面白い。
04はこれまでもオリンピック研究のなかで取り上げられてきた,1936年ベルリン・オリンピックの公式映画である,リーフェンシュタールの『オリンピア』の分析である。執筆者はドイツ映画を専門としているということで,その分析は詳細で学ぶことは多い。05は日本でのライカ受容における重要人物が1936年ベルリン大会で活躍したカメラマンであり,ライカの受容が日本へのスポーツ写真の導入も並行していたという話。ライカは私が研究していた田沼武能の師匠である木村伊兵衛が使っていたことで知られ,ここで検討されているその人物,パウル・ヴォルフのことは1930年代なので,つながる話でもある。06は副題が示すように,戦後日本のアニメーションにおけるスポーツ表現をテーマにしている。私も全く知らない村田安司というアニメーション作家は1896年アテネ大会の年に生まれ,返上・中止になった1940年東京大会に向けて日本でも高まっていたスポーツ熱のなかで,そして一方ではディズニーの受容で日本でも行われるようになったアニメーション制作を背景として独自の作品を村田は1930年代に制作したという。
本書を冒頭から順に読んでいて,その斬新さに驚いたのが編者である中尾氏が執筆した07である。1928年生まれのフランスの画家イヴ・クラインを評しているのだが,クラインは一方で柔道に夢中になり,フランスでの柔道が物足りず,1952年に来日して嘉納治五郎が創設した講道館で修業し,四段を取得して帰国するが,フランスではそのことが評価されない。その一方で,芸術家活動も行っているが,当然柔道の影響は作品にも表れていく,ということを丹念にたどった論文。08はボクシンググローブをはめて,壁に貼った白紙にグローブにつけた墨を打ち付けていくという独自の手法で作品制作をした篠原有司に関する評論。私はこの人物も知らなかったし,また,上記の手法だけ聞いてもほーとしか思わないが,彼がそういう手法に至った背景や経緯が丁寧に説明されていて,現代芸術への理解がまた深まる。09は大山エリンコイサムによる章で,自身の作品を,自身がかつてやっていたスポーツであるバスケットボールの身体運動が影響しているのではないか,と自信を振り返るような内容。
東京都写真美術館,金沢21世紀美術館,水戸芸術館という名だたる美術館でキュレーターをしてきた山峰という人物による10も興味深い。連続写真を用いて馬の走り方を記録したという有名な話から始まり,さまざまな技術を用いて身体運動の記録・視覚化を利用した作品を検討している。11はスポーツ/アートといっても選手/作家の立場から,観客へとその視点を移した考察。とかく批評家は作品に真摯に向き合うが,観客は「適当」であるということを至極真面目に論じたもの。12は近年サッカーの判定で用いられるようになったドローンを用いたVARを中心に,芸術にとっての「見下ろすこと」を論じている。13はこれまでとは多少形式も異なり,主題はeスポーツである。後半ではeスポーツプロデューサーなる人物と画家との対話で構成されている。eスポーツという新しい形式によって将来はスポーツとアートの境界線が揺らいでくる,みたいな話。
という感じで,本書の読書体験を思い出しながら簡単に書きましたが,非常に刺激的な読書でした。やはり芸術分野は日々進歩していて,その進歩はまた社会の変容を敏感に察知しながら,また社会の変容を先取りしてさらなる変容の契機ともなっていくんですね。

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【映画評】『佐々木,イン,マイマイン』『泣く子はいねぇが』

2020年1129日(日)

最近保育園年長の娘が毎週のように特定の同級生と遊んでいる。さすがに未就学児を当人たち同士で遊ばせるわけにはいかず,しかも女子同士なので付き添う保護者も母親同士になる。ということで,週末一人で過ごせる時間が増えた。一方で,恐らくコロナの影響か,11月になって封切られる日本映画が多いような気がする。とにかく,一作でも多く観ておきたい。

府中TOHOシネマズ 『佐々木,イン,マイマイン』
この日も娘は母親と過ごす。息子の方は野球だが,冬に入ってきて公式戦はなくなり,この日は午後に親子大会(試合形式で子どもの投げる球をその親が打ち,また攻守交代もする)なので,お弁当を朝出るときに持たせ,親子大会に間に合うように,近場で映画を観ることにした。既に予告編で注目はしていたが,TOHOシネマズでやっていて,しかも時間的にもちょうどよいのでこの作品を選択。
片田舎の男子高校生4人組の日々を描き,その10年後離れ離れになった(特に主人公は上京している)彼らを描く。作品のウェブサイトで監督へのインタビューが掲載されている。佐々木を演じる細川 岳が自分の知り合いをモチーフに温めていた作品を,監督の内山拓也が共同作品でフィクションとして仕上げた作品とのこと。佐々木はある意味『霧島部活辞めるってよ』の霧島的存在。しかし,霧島とは違って,作品中佐々木はいっぱい登場する。予告編で十分雰囲気は伝わるので,作品について詳細を説明するのはやめておく(説明し始めるときりがない)が,とてもいい作品だと思う。出演者のなかで知っているのは村上虹郎と映画監督でもある鈴木卓爾くらいだが,どうやらこれからそれなりに活躍しそうな俳優たちが集結しているようだ。あ,ちなみに本作の監督はPFFアワード観客賞を受賞しているとのこと。PFFとは「ぴあフィルムフェスティバル」のことで,私の中では,ここでの受賞者は質のいい作品を撮ります(残念ながら,それが商業的成功とは必ずしも結びつかないのがこの世界の厳しいところですが)。
https://sasaki-in-my-mind.com/

 

2020年121日(火)

立川シネマシティ 『泣く子はいねぇが』
この日は息子の小学校の保護者会。ちょうど映画サービスデーだったので,仕事をお休みにして午前中は映画。こちらも予告編でインパクトのある作品。主演の仲野太賀はインパクトのある作品への出演が多いような気がするが,実は彼の主演作はあまり観ていない。本作はなまはげがモチーフで秋田県男鹿市が舞台になっている。秋田県出身で知られる柳葉敏郎がなまはげ保存会の会長役で出演し,主人公の兄を山中 崇,母親を余貴美子が演じる。それにしても,この女優さんはどこの方言でもそつなくこなすな。相手役は吉岡美帆。授かり婚で若くして主人公と結婚するが,生まれて間もないある日,なまはげで大失態を犯し,その償いの日々を描く作品。吉岡美帆も長瀬智也主演ドラマの相手役として(ドラマはほとんど観ていないが)印象深い女優さんだったが,ちゃんと演技を観るのは初めてかもしれない。やはり存在感がありますね。なんと,この作品,企画が是枝監督とのこと。淡々と描く雰囲気は『佐々木,イン,マイマイン』とも共通しますが,ある程度是枝作品の影響があるともいえるかもしれませんね。そして,なんと佐々木を演じた細川 岳が居酒屋で主人公と居あわせて喧嘩を売る人物としてちょっと出ています。そして,本作の監督,佐藤快磨もPFFアワード映画ファン賞と観客賞を受賞しているとのこと。しかし,主人公のダメダメさはあまり描かれず,なぜ彼がこんな仕打ちに遭わなければならないのか,と思い一方で,実際の人生もそんなもんかな,と思ったりもする。
https://nakukohainega.com/

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