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2021年3月

【映画評】『聖なる犯罪者』『映画ヒーリングっどプリキュア』『トムとジェリー』

2021年313日(土)

立川シネマシティ 『聖なる犯罪者』
旋回紹介した日本映画『すばらしき世界』は出所した暴力団の男性を描いたが,ポーランド映画である本作は少年院から出た若者を描く。ある意味で非常に似ているが,正反対の要素もあり,比較すると面白い。こちらも主人公は生来の暴力的人間。『すばらしき世界』では,本人がまともに生きたいのに周囲がそうさせない社会を描いたが,本作は本人は窮屈だった少年院から脱し,自由に生きたいのに,偶然に導かれて基本的に大きな犯罪に手を染めない。最終的に,本人にどれだけ信仰心があるのかは分からないが,一つだけ確かなのは彼の信仰心は学び取ったものがすべてではなく,きっかけとしては少年院に通っていた神父の影響があるが,神への信仰を自分の勝手な解釈に置き換えている。そこがまた面白い。
http://hark3.com/seinaru-hanzaisha/

 

2021年320日(土)

府中TOHOシネマズ 『映画ヒーリングっど♥プリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!』
この週末は土曜日に娘と二人で,日曜日に息子と二人で同じ映画館に映画を観に行った。娘はそれほどプリキュア好きではないが,映画は好きなので,最近の作品は連続して観ている。前に感想を書いたが,プリキュア映画は音楽を含む効果音が地味なのが面白いが,本作に関しては他の子ども向けアニメ作品と同様ににぎやかだった。ヒーリングっど♥プリキュアの主人公たちが住むのが日本のどの地方かは分からないが,本作では東京旅行をする設定になっている。そして東京はVRを一定の範域の現地で楽しめるような技術が発展していて,ペンダントをつけるだけで,本人の希望が可視化される半仮想現実を体験できるという,突っ込みどころはあるが面白い設定。なかなか脚本も考えられています。
https://2021spring.precure-movie.com/pc/

 

2021年321日(日)

府中TOHOシネマズ 『トムとジェリー』
「トムとジェリー」は子どもが幼い頃,IKEAの子どもの遊び場「スモーランド」の待合で流れていたので,特に長男はよく観ていた。ということもあり,今回誕生80周年記念作品として制作された実写(トムとジェリーはアニメ)映画に長男は飛びついた(長女は関心なし)。人間の主演はクロエ・グレース・モリッツ。公開されて初めての週末でしたが,けっこう席は埋まっていました。幼い子ども連れの親子も多かった。息子は十分に楽しんだ様子でしたが,私的にはやはりアクションが大げさというか,アニメでは通用する大げささが実写との組み合わせでちょっと無理があるような印象がありました。問題となるウェディングパーティを開催するセレブ新婦がインド人女性って点は少し好感が持てましたが。
https://wwws.warnerbros.co.jp/tomandjerry-movie.jp/

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広沢タダシについて

私にはいろいろなチケットを取っておく習癖があり、映画はそれこそ20歳の頃からチケットを取ってある。最近はさすがに前売り券で購入することがなくなってしまったが、20年位前までは、映画を観る当日にチケット屋に前売り券を買いに行って、いわゆる絵入りの前売り鑑賞券で観て、半券を取っておいたものだ。それは音楽ライブについても同様で、取ってあったチケットをエクセルで管理し始めたのが2001年以降。
その頃行っていたのは、BONNIE PINKleyona、アナム&マキと遠藤賢司程度だったが、アナム&マキを聴くために、下北沢の440などには行ったことがあった。2003年の12月に渋谷AXで開催された佐野元春のイベントに行った。佐野元春は高校生の頃によく聞いていて、ライブビデオもレンタルしたことがあったくらいだが、コンサートに行ったことはなかった。そのイベントでは佐野元春のステージはほとんどなく、彼が最近注目するシンガーソングライターを招き、1曲一緒にセッションして、後はかれらのステージを自分のファンに見せるというものだった。それに出演していたsaigenjiのインパクトが強く、当時彼を目玉にさまざまなイベントを開催していたイベンター「orbit blender」のイベントに行ったのがやはり440だった。そのイベントにsaigenjiは参加していなかったが、そこで知ったリトルハンセンやビューティフルハミングバード、そして次のイベントで知ったarione toneのライブに行き始めたのが、30歳代の私の生活を一変させることになる。
ともかく、2004年には年に100回、2005年には200回、2006年には250回、2007年が最盛期で、311回のライブに行っている。そんななかで2005729日の川崎クラブチッタで初めて広沢タダシの存在を知った。ライブには通っていたが2000年前後にメジャーデビューをしたミュージシャンを知っていたわけではない。広沢タダシは2000年にインディーズアルバム『愛の時代』を出していたが、そこに収録された11曲のうち6曲を含む11曲入りアルバム『喜びの歌』が東芝EMIから2002年に発売されている。ということで、メジャー・シンガーとして2003年にアルバム『理想郷』を出し、同じ年にはこれまでの曲を彼と近しい豪華なミュージシャンとセッションする『FRIENDS UNPLUGGED』を発売している。と偉そうに書いたが、この頃の彼を私は知らない。彼の歌声に惚れて、過去のCDを買い集めたのだ。ともかく、私が知った頃の彼はレコード会社との契約が切れ、自らのレーベル「Atomic Monster Records」を立ち上げているが、私の持っているもので、2006年のシングル『右手に夕焼け 左手に朝焼け』から2008年に押尾コータローとのデュオで出したシングル『Babym it's time』までは発売元はAVEXになっている。それはともかく、その私が彼の歌声を初めて聞いた川崎クラブチッタのイベントの他の出演者は私のデータに記録されていない。どういう形でそのイベントに行くことになったかは不明だが、ともかく81日に発売されるそのCD『流れ星が消えるまでに』が初めてライブ会場で販売されたのだろうか。彼を目当てに来たお客さんの列ができ、私もそこに並び、CDを購入し、サインをもらったことになる。
ということで、そこから20109月まで、彼を見に行ったライブは以下の通り33回となる。

2005/7/29 川崎クラブ・チッタ 広沢タダシ
2005/9/17
 新宿タワーレコード  広沢タダシ
2005/10/8
 川越鶴川座 NUU/鈴木亜紀/humbert humbert/ハシケン/東京60watts/広沢タダシ
2005/11/12
 赤坂graffiti 広沢タダシ
2005/12/20
 渋谷SPUMA life/広沢タダシ
2006/4/29
 渋谷B.Y.G 広沢タダシ/リクオ
2006/5/4
 赤坂GRAFFITI 竹仲絵里/広沢タダシ/浅田信一
2006/5/31
 渋谷O-West 広沢タダシ
2006/6/18
 新宿タワーレコード 広沢タダシ
2006/7/1
 下北沢440 寺岡呼人/広沢タダシ/矢野真紀
2006/7/30
 本八幡3rd stage carwatching/広沢タダシ/POP CHOCOLAT/base ball bear
2006/8/28
 渋谷O-East 新宿フォーク/東京60WATTS/広沢タダシ/baby boo
2006/9/8
 赤坂GRAFFITI こじまいずみ/矢野真紀/広沢タダシ
2006/12/13
 渋谷O-West 広沢タダシ
2007/1/14
 代官山晴れたら空に豆まいて 酒井ヒロキ/リクオ/広沢タダシ
2007/2/6
 渋谷BOXX 椎名純平/松崎ナオ/染谷 俊/kengo/広沢タダシ
2007/5/9
 渋谷O-West 広沢タダシ
2007/6/24
 原宿LAFORET MUSEUM 広沢タダシ
2007/6/29
 逗子音霊SEA STUDIO 斎藤 誠/広沢タダシ/矢野真紀
2007/7/16
 新宿タワーレコード 広沢タダシ
2007/9/6
 渋谷BOXX 広沢タダシ/寺岡呼人/リクオ
2007/10/31
 渋谷duo music exchange            Yu:ki/芙咲由美恵/広沢タダシ/千綿偉功
2007/12/21
 渋谷AX 広沢タダシ
2008/4/27
 入間so-so 広沢タダシ
2008/6/29
 原宿ラフォーレ・ミュージアム 広沢タダシ
2008/9/13
 渋谷duo music exchange 広沢タダシ/岡野宏典/東京60WATTS
2008/10/5
 吉祥寺井の頭公園西園 広沢タダシ/竹仲絵里
2008/12/22
 赤坂BLITZ 広沢タダシ
2009/8/12
 横浜THUMBS UP 広沢タダシ/矢野まき
2009/9/19
 渋谷duo music exchange 広沢タダシ
2009/9/30
 高田馬場club phase 竹仲絵里/広沢タダシ
2010/4/4
 横浜THUMBS UP 広沢タダシ
2010/9/14
 代官山晴れたら空に豆まいて 佐藤 歩/岡野宏典/sowan song/広沢タダシ

ご存じの方もいると思うが、同じ亀田誠司プロデュースということで、矢野真紀(現在は矢野まき名義で活動しています)さんと仲が良く、この2人が共演したライブにも4回ほど行っている。なかでも、逗子の海の家はよく覚えている。海の家ということで、居心地の良い楽屋がないことを知っていて、当時広沢タダシだけでなく共通に聞くミュージシャンが多かったことで仲良くしていた友人がいたので、一緒に出待ちをしたのだ。矢野真紀さんのCDを持って行ってサインをもらうつもりで。案の定真紀さんが出てきたので、ひとしきりお話した記憶がある。といいながら、隣に広沢君がいたかどうかは覚えていない。ただ、ステージ裏から観客を見下ろすことができる場所があり、そこで仲良く話をする広沢君と真紀さんの姿はよく覚えています。
それ以外では、東京60wattsとは仲良くしていたようです。また20067月のライブは寺岡呼人さんの「呼人の部屋」というイベントで、そこにも招待されていて、呼人さんやリクオさんなど、一回り上の世代のミュージシャンからもかわいがられていたようです。矢野真紀さんともう一人気になるのは竹仲絵里さんです。竹仲絵里さんも私はよく聴いていますが、そのきっかけは2006年の赤坂GRAFFITIで広沢さんと共演した時だと記憶しています。他にもこの2人の共演は2度も聞いていたようです。
それはともかく、私は2009年に結婚し、201010月に長男が生まれます。ということで、2011年からはほとんどライブに行くことがなくなり、長男が生まれる前に発売されたアルバム『雷鳴』で、私の広沢タダシ暦も一区切りしたように思います。子どもとともに家族で生活していると、毎日のようにCDでも聴いていた音楽は聴かなくなるんですね。そういうことで、ふと思い出して2011年に発売された『ジャメヴ』はなんとか購入してたまに聞いていましたが、それ以降は新譜の情報を得ることもなくなりました。
転機はコロナ禍ですね。毎日の通勤がなくなり、自宅での勤務が続きました。これを機に、手元にある大量のCDを一通り聴くことになりました。在宅勤務も10ヶ月が過ぎ、2021年を迎える頃に一通りのCDは聴き終えました。在宅勤務では、手元にタブレットCDを置いて、プライベートなメールチェックなどもしていたのですが、何気なくこれまで避けていたYouTubeで、好きだったミュージシャンの名前を検索するなかで、広沢タダシさんがYouTubeで無料の配信ライブをしているのを知りました。はじめにしっかり見たのは、昨年発売されたアルバム『Night Songs』発売記念として、録音スタジオから配信されたライブのアーカイブ映像でした。11曲の配信映像は多くのミュージシャンがやっていますが、2時間近いライブを無料で一気に配信するのは今でもあまり他に出会っていません。ともかく、それを機に、広沢タダシのYouTube配信ライブ「ナイト・ソングス」のアーカイブを続けて見る生活が続きました。20203月から平日は毎日配信され、7月のアルバム発売をもって一区切りし、そこからは水曜日のみの配信です。しかし、その間にも週末の特別配信や特別企画などもありました。残念ながら午後10時からの生配信を聴くことができませんでしたが、先週の99回までの配信をアーカイブですべて見てきました。
『ジャメヴ』以降も広沢さんは数枚のアルバムを出している。そして、最近は「ライブレコーディング」と称して、メジャー時代のアルバムは今は手に入りにくくなっていることもあり、その収録曲をライブレコーディングするという作業をしていて、こちらも数枚の作品が、彼のサイトの通販で発売されている。それらを聞きたかったが,ちょうどその頃妻が15年以上前に購入して使ってきたCDコンポが故障し,CDが聞けなくなっていたこともあり,CDの購入をためらっていた。しかし,しばらくして新しいCDコンポを買うことになった。実はわが家には大量のレコードがあり,またレコードプレーヤーもある。これらを眠らせているのももったいないので(子どもが小さいうちはレコードをかけるという行為自体が非常に危険だったが,今なら大丈夫),接続できる機器を探していた。一度は近くのビックカメラで相談したが,中途半端なものを買っても満足する音は出ません,といわれ保留していたのだが,サンスイの真空管ハイブリッドタイプのコンポの存在を知り,購入した。こちらは見つけた当初は25000円だったが,購入を真剣に検討し始めた頃,21000円台に値下げされていた。手持ちのレコードプレーヤーのAUX端子を直接接続でき,レビューを読んでも「いくつか難点はあるもののこの値段でこの音は他にはない」ということだった。まあ,ともかく良い買い物だった。早速,最新アルバムの『Night Songs』とライブレコーディング第一弾『喜びの歌』を購入した。本人のサイトにある通販でしか購入できないが,サインを入れて送ってきてくれる。『Night Songs』に収録された新しい曲は,配信ライブでも何度も聴いていたが,やはり録音は格別だ。また,最近のレコーディングの歌声はライブのそれとは少し違っていて,こだわりがあるようだ。ライブレコーディングの音源も素晴らしく,彼の音に対するこだわりを強く感じる。最近の作品を少しずつ集めていくことにしよう。ともかく,最近の広沢タダシとの再会で,音楽に対して色々考えさせられることがあった。本当はそれについて,さらにつらつらと書きたいところだが,今回はこの辺りにしておきたい。

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【読書日記】法政大学江戸東京研究センター編『風土(Fudo)から江戸東京へ』

法政大学江戸東京研究センター編(2020):『風土(Fudo)から江戸東京へ』法政大学出版局,288p.3,600円.

 

オギュスタン・ベルクは日本の研究もしているフランスの地理学者だが,多くの著作が地理学者以外の訳で筑摩書店などから翻訳されており,その風土学が和辻哲郎の『風土』の考察から得られていることもあり,日本では人気が高い。そんなこともあり,ベルクの書籍は継続的に日本語訳が出版されているし,ベルクの議論を受けた日本の哲学者による環境論の著作も多く出ている。2020年としては,法政大学で2018年に開催された国際シンポジウムの報告として本書が出版されている。

序――なぜ風土(Fudo)なのか(安孫子 晋)
第一部 和辻『風土』における東京
「風土」から見た都市「東京」の珍しさ(星野 勉)
和辻風土学で解く江戸東京の特質――皇居・武家屋敷・宗教空間(田中久文)
和辻哲郎の「江戸城」発見――「城」(1935)における壕と高層建築の対比(橋本順光)
和辻哲郎にとっての東京――田舎あるいは古代という対立軸から(衣笠正晃)
第二部 風土からFudoへ,ベルクの視点をめぐって
〈脱中心化〉と〈再中心化〉――風土学の本質的契機(木岡伸夫)
都会の蛍――和辻哲郎とオギュスタン・ベルクとともに都市の風土を考える(ジャン=フィリップ・ピエロン)
不可能のパリとしての東京――「都市の風景」批判(チェリー・オケ)
風土と雰囲気――都市のための二つの概念(エリー・デュ―リング)
第三部 風土と江戸東京
荒野と名前のない海と――江戸東京の原意味(河野哲也)
文化的景観と風土,その担い手(福井恒明)
水性の東京――映画に対する風土学の試み(クレリア・ゼルニック)
イノヴェーションに直面する風土――戦後日本の都市の近代化をめぐる言説に見る風土の消失についての考察(アンドレア・フロレス・ウルシマ)
総括――風土(Fudo)と「珍しさ」の諸相(陣内秀信)

第一部は日本の研究者によって,和辻『風土』における「東京」に関する記述の検討がなされている。私も『風土』は読んだが,それ以外の和辻の作品を読んだことはない。そういう意味でも,第一部は地理学的な風土(和辻からベルク)への関心には欠けているものを提供してくれる。和辻哲郎は1889年生まれで,『風土』の出版は1935年ということで,彼の作品を純粋に哲学的対象として考察するというのは少なく,思想史のなかで位置付けるということが多いように思われる。第一部には4編の論考があるが,お互いに事前の調整があったわけではなく重複も多い。『風土』は和辻がヨーロッパ滞在のために触れた外国との出会いから日本を捉え直すなかで発想されたものである。しかも,この渡欧は教授資格を取るために必要なものであり,和辻自身は非常に消極的で,渡欧してからも積極的にヨーロッパに馴染もうとはせず,計画を中断して帰国したこと,また当時の渡欧は当然船旅であり,『風土』にあるように,和辻にとってはヨーロッパとの出会いよりもその途中の中近東の風景との出会いが『風土』にとっては重要だったという。第一部のなかでも,私的には橋本順光なる私と同い年の人物が書いた論考に刺激を受けた。本書のテーマは風土の日本ではなく,対象は江戸東京ということで,関西出身で長らく京都に住んでいた和辻が,1934年に東大教授に就くために上京してからの東京都の出会いについて多くの論考が言及している。そんななかでも橋本の論考は当時の東京の表象について,文章のみならず写真やイラスト,映画など,特に外国人の描写を考察し,江戸という城下町である近世都市の特性と,東京独自の近代化のありかたを考察していて非常に興味深い。
第二部は各章ごとに書いていきたい。とはいえ、章番号がないから書きにくい。木岡伸夫という人物は留学してベルクに師事し、ベルク風土学を哲学の立場から展開している。本書のもととなったシンポジウムでは、参加者というよりは招聘者的な立場で短い文章を寄せている。自著で展開した「ベルク風土学の本質を「〈脱中心化〉と〈再中心化〉」(p.127)として概観している。このシンポジウムに参加している外国人は一人を除いてみなフランス人(一人はドイツ出身か?)であり、かなり視野の広い議論を展開している。まず、ピエロン「都会の蛍」では、まず「「風土」概念が国家主義的イデオロギーをもった考察に利用される可能性があるために、用心が必要である。」(p.142)という認識を示す。そのうえで、風土概念を通じて都市を考えるということで、より実践的な都市計画に焦点を合わせる。といっても、工学的な意味における考察ではなく、人類学者フィリップ・デスコラの議論と対比している。私はこの人類学者を知らなかったが、2020年に彼の『文化と自然を超えて』という本が水声社から翻訳されていて、知ることとなった。残念ながらこの翻訳書は2月に出たものの、今は入手困難な状況らしい。とにかく、人類学における文化―自然二元論を乗り越えようという重要な本のようだ。ともかく,ベルクの風土学はデスコラと同様に,西洋における自然/人間,あるいは自然/文化,そして主観/客観,主体/客体の二元論を克服しようという思考だという。続く,チェリー・オケなる人物の「不可能のパリとしての東京」は副題にもあるように,ベルクの都市論批判である。ベルクが日本に長期滞在した1980年代にちょうど日本では都市論なるものが流行した。ベルクの『都市の日本』はその時代の槇 文彦,陣内秀信,藤森照信,奥野健夫という人たちの仕事を振り返りながら,時にはパリと東京を比較しているという。この論文でも,そのベルクの知的足跡をたどりながら,また他の論者のベルク批判を紹介しながら論を進める。後半ではパリについてはベンヤミンのパサージュ論を,東京については考現学や路上観察学,銀ぶらなどに言及しているので,その辺が著者の好みのようだ。都市は一枚岩的に論じられるべきものではなく,その複雑性や細部に注目すべきだという主張。「風土と雰囲気」を書いたエリー・デュ―リングはドイツ語の文献も引きながら,こちらはベルクの議論を積極的に評価している。「雰囲気」という概念を中心に,主客二元論を克服する道を探りながら都市を論じる。
第二部がかなりまとまった分量の読み応えのあるものであるのに対し,第三部はそれぞれが短い報告=文章で,内容的にもかなり散漫な印象。河野哲也の「荒野と名前のない海と」は冒頭で日野啓三作品を論じる必要性を主張するが,自分がきちんと論じるわけではない。江戸という地名が川(江)の出口(戸)だということから始まり,東京が長い期間を経て埋め立てられた土地だということを意識させる。福井恒明の「文化的景観と風土,その担い手」は法律用語としての文化的景観を,葛飾柴又の事例で論じる。クレリア・ゼルニック「水性の東京」は副題にもあるように,東京映画論である。古い時代から最新まで,かなり自由な議論できちんとはついていけない。アンドレア・フロレス・ウルシマによる「イノヴェーションに直面する風土」はオリンピック研究でも取り上げられることのある,1960年の「東京世界デザイン会議」について論じ,これに参加した日本人たちが描く東京のヴィジョンを類型化している。総括は法政大学に長らく勤めている陣内秀信が行っている。まあ,いわゆる思い出話と総括だ。

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2020年の「文化地理」関連文献16

金 雪梅 (2020). 詩人尹東柱における故郷―生まれ育った場所「北間島」を中心に―, クァドランテ, 22, 197-212.
この論文は1917年生まれの朝鮮の詩人、尹東柱の作品をタイトル通り、その故郷から解釈するものである。彼の故郷北間島は現在の中国と北朝鮮の国境付近に位置する。前半では彼が20年間を過ごした時期の北間島について概観する。現在も中国の領土であり、清朝の時代には朝鮮からの移民を受け入れる場所で、尹の祖父がその初期の移民だという。知られるように、1910年には朝鮮を日本が併合し、その後は満州国が建国される。そんな時代に小学生として過ごすが、1929年に中国共産党の影響下で小学校が人民学校になり、尹一家は籠井に居を移し、ここで中学校生活を過ごす。ここでキリスト教と民族教育を受けた尹は平壌の専門学校に進学し、大学は日本の立教大学へ、そして後に同志社大学に進学する。だが、在日中に特高警察に逮捕され、そのまま福岡拘置所で死因不明の最期を27歳で遂げる。そうした、彼の故郷の地政学的な状況と個人史とを重ね合わせた上で、これまでの研究であまり注目されていなかった作品を、故郷という観点から解釈する。トゥアンも引用しながら、その故郷感は少し素朴だが、孤独な詩人を支えた郷愁というのはある程度普遍的なものなのかもしれない。

 

石井久生 (2020). 文化の祝祭にみるエスニック資源と地域活性化―スペイン・バスク州ドゥランゴにおけるブックフェアの事例―. 地理空間, 13(3), 197-214.
地理空間学会の学会誌『地理空間』の20203号はオンライン版で、「地域活性化におけるエスニック資源の活用」という特集を組んだ。編者は昨年の『人文地理』学界展望「社会地理」を担当した山下清海であることもあり、特集論文の多くは「社会地理」で取り上げてもらうことにしよう。テーマ的にはツーリズムで取り上げるべきものもあるかもしれない。そんななかで、この論文はぜひとも「文化地理」で取り上げたい。石井さんのスペイン研究は、私も2020年の『空間・社会・地理思想』に掲載してもらった論文で批判地名学研究としていくつか取り上げた。実際に読んでみると、やはりとてもしっかりした議論の展開で安心感がある。この論文はスペインのバスク州、ドゥランゴという都市で毎年開催されているブックフェアについて論じている。ブックフェアといっても、本だけでなくCDなど音楽作品も取り扱い、当日会場ではコンサートなども開催されるという。前半では、主催者が実施した来場者710人から回収したアンケートを利用している。このイベントは観光に結び付くようなものではなく、本とCDといっても、バスク語によるもののみを扱い、同じ州でもバスク語利用者の多い県からの来場者が多いという特徴を持つ。また同時に、若い年齢層、高い教育水準を特徴とする。中盤では、スペインにおけるバスク地方の歴史が概観され、このブックフェアの存在意義を論じている。これはある意味では閉じられたナショナリズムを喚起するイベントであるが、それと同時にグローバル社会のなかである意味マイノリティとしての文化資源を発信していく場になっているという。

 

今回で2020年「文化地理」文献の紹介は終わりにしたい。結局,このブログでの文献紹介は35,000字余りに達した。取り上げる論文は最終的に42編となり,書籍は17冊となった。書籍のブログ記事もあわせればかなりの文字数となろう。本文の方が今のところ英語表現付きの文献表も入れて12,000字程度となっている。

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【読書日記】エリザベス・グロス『カオス・領土・芸術』

エリザベス・グロス著,檜垣立哉監訳,小倉拓也・佐古仁志・瀧本裕美子訳(2020)『カオス・領土・芸術――ドゥルーズと大地のフレーミング』法政大学出版局,192p.2,600円.

 

エリザベス・グロスは2014年に『人文地理』に書いた論文で1本の論文を取り上げた。その頃は日本で彼女を紹介した事例もほとんどなく、Groszという名前のカナ表記も自信がなかった。その論文は1994年に刊行された論文集に収録されたもので、フェミニズムの文脈でプラトン『ティマイオス』のコーラ概念を論じたものだった。本書は2000年代に発表されたいくつかの文章を収録したもので、2008年に出版されている。

第一章 カオス――コスモス・領土・建築
第二章 振動――動物・性・音楽
第三章 感覚――大地・民衆・芸術

謝辞の冒頭に「私は自分の著作すべてにおいて、そしてとりわけこの本においては、リュス・イリガライに、返済不可能なほどの大きな知的恩恵を受けている。」(p.vii)と記されているものの、文献には一切イリガライの著作はない。副題にドゥルーズの名前があるように、本文ではドゥルーズへの参照が非常に多い。ガタリとの共著である『千のプラトー』、『哲学とは何か』、そして単著の『意味の論理学』などが多く引用されている。第一章はほぼドゥルーズの著作から芸術に関する記述を抜き出して解説している印象で、芸術といっても特定の形式に限定していない。第二章では動物に関する議論になるように、第一章でも芸術を人間の根源的な行為とみなした議論が展開する。本書で登場する領土や大地という概念は、そういうことで、近年のランドアートのような芸術と環境との関わりを論じるものではない。もっと人間の動物的な根源的な自然との関わりを芸術とみなしているといえる。カオスとは人間が知覚する自然環境そのままであり、それを人間は芸術=技法を用いて秩序立て、コスモスを読み取っていく、そういうことだ。私はまだ読んでいないがドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』における領土化・脱領土化・再領土化のような議論は多くの者が援用し、時には比喩表現として用いられているが、本書においてそれは比喩ではない。大地そのものを画定していく作業、それがフレーミングであり、画定されるとそれが領土となる。
第一章からダーウィンは登場するが、著者は上記の議論をダーウィンの自然淘汰や性淘汰の概念とともにとらえている。本書ではあまりフェミニズム的議論は登場しないが、根底において性が強く意識されていることは間違いない。そして、第二章は音楽に限定して議論が展開される。そして、それは人間によるものだけでない。むしろ、鳥の鳴き声など動物と性の問題などが論じられる。そして、ダーウィンとハーバート・スペンサーなど、当時の思想史に関する議論もあり、面白い。この議論はドゥルーズと無関係ではなく、かれらが参照しているユクスキュルというエストニアの生命記号論者の議論が詳しく紹介されている。しかも、このユクスキュルの1957年の著作は岩波文庫に『生物から見た世界』として2005年に翻訳されているというから驚きだ。まあ、ともかく鳴き声のような狭義の音楽だけでなく、ダニやミツバチ、蜘蛛に関する話もあり、その単純な生命の営みに根源的な芸術を読み取っているといえよう。
第三章は第二章の音楽=振動から、それを受け取る人間側の感覚へと議論を進める。そしてドゥルーズが論じているフランシス・ベーコンを含めた20世紀以降の現代芸術を取り上げ、特定の芸術形式についても論じている。ここで地理学的な記述を引用しておこう。「シュトラウスは、地理と風景の対立という観点から、知覚と感覚の区別について説明する。地理とは地図の空間であり、測定可能な抽象的座標によって統制されたものであり、ドゥルーズとガタリが条理空間あるいは定住的空間と呼ぶもの、すなわち、そのロケーションや領域が生きられた質から中傷された空間である。」(p.124)。話は徐々にアボリジニの芸術へと移行する。著者自身はその芸術に関して専門的に調査・研究しているわけではないと断り、またその先住民の営為をその場から切り離して西洋的価値で評価し、西洋世界の展示空間に移動して展示するという問題についても理解したうえで、積極的に論じている。また、その芸術表現のなかにも、植民地化の痕跡が刻み込まれているということも重要である。後半では特定の2人のアーティストを取り上げる。さまざまな歴史を経て、現在では一つのジャンルとして成立している感もあり、しかしながら、その複雑な芸術家活動と芸術表現の考察は非常に興味深い。

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【映画評】『すばらしき世界』『秘密への招待状』

2021年220日(土)

立川シネマシティ 『すばらしき世界』
西川美和監督最新作。役所広司演じる極道の男が出所してその生きづらさの中で奮闘するという物語。予告編からは,なんとなく根は善人なのだが生まれ育った環境から極道を生きる術とするしかなかった男が出所後に社会貢献していく,という物語だと誤解していたが,まさに誤解だった。実際は逆で,根は極悪人だが,周りの人たちになだめられ,諭されながらなんとか一般人として生きる術を模索していくというもの。役所広司の演技はさすがとしかいいようがない。そして長澤まさみはほんのちょっとしか出てこない。この作品を西川美和作品としてじっくり味わうことを考えてみた。どの辺が彼女らしいのだろうか,その問いに答えるのは少し難しい。よくできているのは間違いないが,最近の日本映画はよくできているものも少なくない。円熟期の作品だといえばそれまでだが,もう少しどこかにインパクトが欲しかったのかもしれない。それはともかく,今回は音楽をピアニストの林 正樹さんが担当し,これが素晴らしい。徳澤青弦さんのチェロも聴けます。
https://wwws.warnerbros.co.jp/subarashikisekai/

 

立川キノシネマ 『秘密への招待状』
2006
年のデンマーク映画『アフター・ウェディング』のリメイク。それとは気づかずに,ミシェル・ウィリアムズとジュリアン・ムーアの共演ということで観ることを決めた。『アフター・ウェディング』は私も当時観ていて,素晴らしい作品だったことは覚えているが,細かい物語は覚えていない。オリジナルは男性二人の設定を本作では女性二人に変更していることもあり,余計オリジナルを思い出せない。ただ,結末を知った時の驚き自体は何となく経験したものであるようにも思う。それはともかく,素晴らしい作品。オリジナルに外国での慈善事業への支援という設定があったかどうかは分からないが,この女性,そしてこの女優のコントラストを際立たせる役割を果たしている。久しぶりに映画2本立てでしたが,やはり映画館で映画を観るという経験は何にも代えがたいです。
https://afterthewedding.jp/

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【読書日記】河合洋尚『景観人類学入門』

河合洋尚(2020)『景観人類学入門』風響社,97p.900円.

 

2020年の文献として,著者の「フードスケープ」という論文を読んでいたが,たまたま見つけたのが本書。関西学院大学の「現代民俗学・文化人類学リブレット」の一冊として2020年に出版された小冊子である。はずかしながら「景観人類学」という分野は知らかなかったが,著者は既に中国の事例をとりまとめた『景観人類学の課題――中国広州における都市景観の表象と再生』を2013年に発表し,2016年には『景観人類学――身体・政治・マテリアリティ』という編著を発表している。ともかく,本書はその辺りの著書の概要版ということで,本書の存在に気づけて良かった。

はじめに
第一章 景観実践の人類学
 一 人類学と景観
 二 記憶と〈場所〉
 三 運動とマテリアリティ
第二章 景観問題の人類学
 一 文化・科学・権力
 二 世界の景観問題
 三 文化遺産と景観保護
コラム 景観史の人類学
課題と展望――応用科学としての可能性を考える
 一 景観の応用人類学
 二 景観の公共人類学

本書によれば,景観が人類学で扱われるようになったのは1990年代であるという。英語圏では1995年の論文集が代表的なもので,その後フランスでも非人間主義の人類学にとって景観が注目されているという。この分野を日本で牽引しようという著者はその研究動向を,「景観実践の人類学」と「景観問題の人類学」と便宜的に分類し,本書もそれに従って構成されている。
景観の理解は他分野と比べて独自なものというわけではないが,本書を通読した印象では,環境や場所という概念と厳密に使い分けられているわけではなく,むしろ現時点では新しい可能性を見出せるものであれば,何でも許容するという感じである。ただ,冒頭で環境概念との区別は論じられており,あくまでも景観は主体と客体の関係性であることが確認される(それに対して環境はあくまでも客体)。景観人類学の先駆けとして,認識人類学と建築人類学とが挙げられている。確かに,認識人類学は地理学にも影響があり,ある意味で景観研究と近いものがあるかもしれない。目次にもあるように,「景観実践の人類学」には〈場所〉の考察も含まれている。ここで地理学の場所論が参照されることはなく、マルク・オジェの「非―場所」論に言及されているが、人文主義地理学も外界への人間の主体的関わりを論じるのに場所と景観を同等に扱っていたので、同じような段階といえるかもしれない。2016年の編著でも副題に身体やマテリアリティとつけているように、本書でもマテリアリティを目次に持ってきている。マテリアリティ=物質性は地理学でも一時期盛り上がりをみせたが、人類学ではより物体を強調しているようにも思う。人類学で景観を議論するということはやはり人間以外の物質≒物体を強調するというのは分かりやすい。とはいいながら、ここでイマジネーション=想像力の議論が出てくる。最近翻訳が出て広く知られるようになったティム・インゴルドが登場し、景観人類学の先駆者の一人とされる。実は私も2013年に『地理学評論』に発表した風景論文でやっていた文献調査でインゴルドの論文を一本読んだ。その内容は難解でよく覚えていないが、その後急に何冊も翻訳されるようになって驚いた(決して若い人類学者ではない)。
第二章「景観問題の人類学」の冒頭はステレオタイプや表象について議論している。表象概念については「集団の一部の「事実」を全体化し、その集団を代表するイメージ(ステレオタイプ)をつくりあげていく技法として使われるようになった」(p.36)とあっさり済ませている。景観問題を扱った研究といえば,国内のものでは,景観法を巡る訴訟の問題などを扱う法学的研究,マンションなどその建築物を扱う工学(建築)的研究,それらを含め住民運動などを扱う社会学的研究などがあるが,地理学の研究は少ない。同じような問題は日本以外にもありうるが,そういう意味で人類学の研究対象となる。そして,同じ景観問題といっても国によって事情は違う。先進諸国であれば日本国内と似通っているとも想像できるが,人類学が対象とするような地域ではやはりかなり違う。そして,著者のフィールドが中国であるということも大きい。地理学でも名がよく知られている風水研究者である渡邊欣雄に何度も言及があるのも少し新鮮に感じる。
コラムでは歴史の問題を議論し,終章では景観問題を議論した人類学がその先にめざすのが応用研究であり,また公共へのフィードバックであるという。ここは工学系の景観研究と問題意識が近いともいえる。逆に景観研究の歴史の長い地理学では,応用への指向はあまりないといえるかもしれない。ともかく,日本語で読める知らなかった文献が多いことに今更ながら気づいて,良い読書だった。

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【読書日記】老川慶喜編『東京オリンピックの社会経済史』

老川慶喜編(2009):『東京オリンピックの社会経済史』日本経済評論社,299p.4,200円.

 

本書はこれまで読んできたオリンピック文献にも時折言及されていたし,非常勤先の東京経済大学の図書館で現物も見ていた。しかし,オリンピックの文献調査を開始した当初は1964年東京大会に関する研究まで遡るのはやめておこうと思っていたし,目次を見て,オリンピックそのものを論じるよりもその時代背景を分析したものと判断し,そのうち読もうと思っていた。しかし,そのうちに大学には行けなくなってしまい,読む機会がなくなっていた。
文献調査が進むと,意外に1964年東京大会に関するきちんとした研究がないことに気づく。最近出版された吉見俊哉『五輪と戦後』でも,同じような問題意識から1964年東京大会に関する考察に重心を置いている。また,東京経済大学の紀要である『コミュニケーション科学』に掲載してもらった「日本のオリンピック研究」を英文の論文集のために書き換える作業をしているが,1964年東京大会から,1988年大会への名古屋招致に向けて書かれた『反オリンピック宣言』(1980年)までの間のオリンピック研究はどうなっているのか,というところが気になって,1964年大会のみに焦点を合わせたこの本を思い出し,購入することにした。

はしがき(老川慶喜)
第1部 東京オリンピック
 第1章 東京オリンピックと日本万国博覧会――消費される祝祭空間(関口英里)
 第2章 東京オリンピックと渋谷,東京(上山和雄)
 第3章 「消費は美徳」の経済思想――新たなオリンピック行進曲をめざして(篠崎尚夫)
 第4章 ロンドン・オリンピック――慌しく開催された二つの大会(道重一郎)
第2部 東京オリンピックの時代
 第5章 住まいの理想と現実――高度経済成長期の東京(小野 浩)
 第6章 ベビーブーム世代の進学問題(大島 宏)
 第7章 東海道新幹線の開業――十河信二と国鉄経営(老川慶喜)
 第8章 湘南海岸をかけめぐった東京五輪――「太陽の季節」から「若大将」へ(大矢悠三子)
 第9章 「防衛博」から「フラワーショー」へ――1960年代と郊外遊園地(水江雅和)
 第10章 貿易・資本の自由化と花王の流通システム合理化戦略(佐々木 聡)

本書の編者,寄稿者はその他のオリンピック文献を書いていない。そこが本書を読まなかったひとつの理由でもある。研究者は一般的に同じテーマについて継続的に調査・研究を行い,複数の文献を発表している。それがないということは,たまたまあるテーマについての執筆依頼がきて,それを書いたらはいおしまい,という感じがあるからだ。しかし,実際に読んでみると,本書にそういう片手間感はあまりない。確かに,1964年の東京オリンピックを直接的に扱っている文章は少ないが,寄稿者は各自自分の専門分野から,この時代におけるオリンピックの影響を検証しようというのが本書だといえる。ということもあり,本書は2部に分かれていて,1部は直接的に東京オリンピックを扱い,2部はオリンピックとの関りはかなり間接的だといえる。
第1章は,「メガ・イベント」の語を使っていないものの,オリンピックと万国博覧会とを同類のものとして扱う視点を有していて,単に固有の1964年東京オリンピックと1970年日本万博(一般的には大阪万博というが,オリンピックとは異なり,万国博覧会の開催主体は都市ではない,ということで正式には日本万博と呼ぶそうだ)との連続を考えるのではなく,欧米におけるオリンピックと万博の歴史を踏まえ,アジアで開催されるようになった両者とその舞台としての日本を捉えようとしている。当然,それは1940年に両方の同時開催を目論んだ日本についても言及していて,なかなか興味深い論文になっている。本章を貫く視点が第3章にもつながるが,1964年東京オリンピックを機に,高度経済成長を遂げた日本が,東京という都市を中心に産業社会から消費社会へと移行していく過程ととらえ,その象徴として後半では1964年東京五輪,1970年日本万博のテーマソングを扱い,それが三波春夫によって担われたことに注目していく。とはいいながら,実は両イベントで制作された楽曲は著作権フリーとされ,多くの歌手がそれぞれのレコード会社から同じ曲を発表していたという。そのなかでも,代表的なものとして後世に残されていたのが三波春夫の「東京五輪音頭」と「世界の国からこんにちは」であったことに注目して,三波春夫という存在について考察している。なお,この2つの楽曲の歌詞はいずれもさまざまな実績はあるもののプロの作詞家ではない人の作品が採用されたという。
第2章はタイトルに渋谷とありますが,戦後からオリンピックに向けて復興・整備されていく東京の姿を,オリンピックの主会場となった選手村から代々木公園辺りを中心に考察したもの。冒頭に渋谷駅前の区画整理の話もありますが,当初朝霞に計画されていた選手村に関する顛末など,それほど渋谷にこだわっているわけではありません。第3章は,1960年に池田勇人内閣下で閣議決定された「国民所得倍増計画」に冒頭で触れ,東京オリンピックに向けて日本国内の経済が生産中心から大量消費へと移行する過程をたどっている。1950年代後半には日本社会で「経営学」がブームになるという。私の時代にもテレビに登場していた竹村健一の著書が1960年代はじめにベストセラーになったようで,活字からテレビへとマス・コミュニケーションの形は大きく変わるが,それですべてを説明してしまうのではなく,学者や評論家の言葉からその辺を跡付けているのが面白い。第4章はなぜかオーソドックスなオリンピック研究。しかも,東京大会ではなく,1908年と1948年のロンドン・オリンピック。本書の刊行は2009年で,まだ2012年大会を経験していないが,史上初の三度目の開催ということで,過去2回のロンドン大会を顧みるというのは実はけっこう貴重な論文。2012年ロンドン大会に関する研究はかなり多く,そういう意味ではそれ以前のロンドン大会は影が薄くなってしまったともいえるが,この章では,そこをしっかり記述している。組織だった大会としては初といえる1908年大会,そして戦後初めて開催された1948年大会は戦後の混乱の中で,準備期間は2年間しかなかった。ある意味,どちらも慌ただしく開催された大会でありながら,それらを成功させたロンドンはさすがかつての帝都ということでしょうか。
第2部は1964年という時代の雰囲気をしっかりと論証しています。第5部は東京を中心とした住宅事情ということで,高度経済成長期の住宅需要と供給についてまず把握し,住宅供給側について各種統計を用いて丁寧に説明されています。この手の研究は探せばけっこうあると思いますが,そういう既存の研究からではなく比較的入手が容易な統計資料で分かりやすい解説になっています。第6章はタイトル通り,1964年を高校生で迎えるような戦後のベビーブームの子どもたちの進学について考察しています。子どもの数がうなぎ上りに増えていく中で,その親世代は高度経済成長を支える労働者であり,その結果達成された所得増を消費へと向かわせ,その一つが子供の養育費・教育費である。所得が高いほど子どもの進学希望率は高くなり,というのは容易に想像できますが,それにこたえるには当然学校側の整備が必要です。それに対しては国や知事隊の動きもあり,法整備も含めてこの章では丁寧に説明されています。第7章が本書の編者による執筆。この辺りが専門のようですね。東海道新幹線が1964年東京オリンピック開会式の9日前に開業したというのはよく知られた話で,最近では新幹線が五輪のためにできたという神話はあまりないと思うが,オリンピックに間に合わせるために急いだというのはそれらしい。その辺りを1955年に国鉄総裁に就任した十河信二という人物に焦点を合わせて,その頃さまざまな形で危機を迎えていた国鉄の立て直しの一環として新幹線建設があったということを議論している。就任当初は高齢のために批判も多かったというが,一期目が終了する時点ではその4年間に達成した成果が評価され,再任されたが,1964年の新幹線開業を前に総裁からは辞しているという人物。こちらも適宜データを示しながらの説得的な論説です。ただ,この論文集では新聞記事が史料として用いられていることが多く,その辺りは少し気になります。
第8章は素朴に楽しめる内容。1955年に『文学界』に発表された,当時一橋大学の学生だった石原慎太郎の小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞し,その後彼の作品の多くが映画化され,湘南地域を中心に「太陽族」と呼ばれる問題を起こす若者たちが増えたという話。作品に描かれた「有閑階級の不良少年」は瞬く間に同じようなファッションに身を包むより下層な階級の若者たちも指すようになり,社会問題化し,映画自体が制作規制に追い込まれるという事態は知らなかった。太陽族の騒動は数年で落ち着き、その後1964年東京オリンピックのヨット会場に湘南地区を承知していく。またこの時期に湘南海岸公園を整備する計画が進展していく。その計画は戦前からあったが、それが具体化し、急増する海水浴客に対応するように整備される。1961年からh加山雄三が主演する映画「若大将シリーズ」が始まり、太陽族で負のイメージがついてしまった湘南地域がスポーツを軸とする健康な正のイメージに置き換えられていったという。第9章は向ケ丘遊園の歴史を辿る。前半は日本の遊園地史のなかに位置づけられるが,タイトルにあるように,向ケ丘遊園にとってのターニングポイントである防衛博からの展開が面白い。かつての遊園地が入園料と遊具料が別になっていたのは,園内の遊具は遊具会社に運営を委託していたからだというのは少し驚く。さて,防衛博は1962年に開催されたが,なんと防衛庁が園内の大規模な土木工事を請け負うことで会場設営をし,そのおかげでそれ以降大規模な遊具を設置できるようになったのだという。ともかく,この一回性のイベントで集客が過去され,このイベントのための特別料金をその後の通常料金に据え変えるという手法で入園料収入を伸ばしたという。その後,向ケ丘遊園はプールとスケートリンクを作ることで閑散期の集客を達成し,継続的なイベントとしてフラワーパークを見出したという歴史。閉園に向けての衰退時期の説明はありませんでした。第10章は正直言って、東京オリンピックとの関連がかなり薄れている。経営学で花王の企業研究をしてきたような人によるもので、なぜ本書に含まれているのかよくわからない。とはいえ、タイトル通り、日本における戦後の貿易・資本の自由化が進展するなかで、1964年という時代をとらえる必要性はあるのかもしれない。段階的に自由化が達成されるなかで、日本の企業も生き残り戦略を余儀なくされ、花王のような石鹸・洗剤業界も、P&Gやジョンソン&ジョンソンといった外国の企業が日本に参入する。企業によっては取り込まれたり、提携を結んだりするなか、花王は独自の流通、卸売り、小売りと流通業界に参入することで対応したという。細かいことはちょっと読み飛ばしたが、まあ、そんな経緯が1964年前後にあったということだ。

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2020年の「文化地理」関連文献15

小林直樹 (2020). 長野県伊那市における昆虫食の実態と多様性. E-journal GEO, 15(2), 332-351.
地理学における昆虫食の研究といえば,野中健一氏の研究で知られる。私は野中氏のいくつかの論文を読んだだけだが,野中氏の研究は民俗学に依拠していたわけではないが,それと似たような雰囲気を持ち,今回のこの論文でも海外のものも含め「民族昆虫学」と位置付けられている。日本に関してはちょっと珍しい食文化が地方に残っていて,徐々に廃れつつある,という論調であった。しかし,この論文では冒頭で「昆虫の飼料および食料資源としての可能性」によって,「昆虫は新たな食資源として注目を集めている」というところが新しいように思う。この論文では伊那市の3つの地区(全体で948世帯)で住民にアンケート調査を行っている。世帯単位で調査票を配布したことで,回答者の年齢が上がってしまい,最近の若い世代の昆虫食の実態はあまり把握できていないが,数十年前との違いも聴き取っていている。伊那市における昆虫食は,現在でも食されているのはイナゴ,ハチの巣,ザザムシ,カイコのサナギの4種類ということで,これらの生産から消費までの形態の違いを明らかにするのもこの論文の目的となっている。いずれに関しても,生産・消費それぞれで縮小傾向にあるというのは予測できるが,イナゴに関しては地域だけでなく国内でも需要に対する供給が追い付かずに中国から輸入しているというのは驚いた。また,カイコに関しては養蚕業との関係が深いというのも納得する。この論文の著者は金沢大学の院生で,伊賀聖屋さんは2014年に金沢大から名古屋大に移ってしまったが,伊賀さんの影響でこの先進められれば,面白い研究になっていくように思う。

 

池田彩乃・淡野寧彦 (2020). 愛媛県鬼北町における座敷雛の発祥と地域的特色. 地理空間, 13(2), 73-85.
第一著者の卒業論文を指導教官が加筆・修正して論文化したもの。淡野は観光地理学を専門とするため、冒頭のレビューは地域文化を観光資源として捉える研究がし紹介されているが、この論文の事例はそれほど観光的要素とは結びつかないもののようだ。前半では、この鬼北町における座敷雛展示の訪問者に対するアンケート調査を行っている。全体の訪問者は分からないが、アンケートの回答者は130人で、9割以上が愛媛県内で、鬼北町内よりも近隣の宇和島市の方が多い。淡野はこの座敷雛の製作過程を単独で別論文にしているが、この論文でもこのイベントの保存会のメンバーについての記述がほとんどを占める。地理学雑誌には掲載されたものだが、正直言って地理学的考察がなされているとはいえない。

 

坂本優紀・渡辺隼矢・山下亜紀郎 (2020). 長野県上伊那地域における奉納煙火の現代的変容. 地理空間, 13(1), 43-57.
この論文は地域文化の一つの事例として長野県の上伊那地域で行われている「三国」という煙火を取り上げる。煙火というのは1m強の紙筒から直接火薬を噴射するもので、基本的には神社のお祭りで奉納されるものである。煙火自体はこの地方で広く行われるものだが、「三国」という名称を有する形態は南部に限定されているという。その中から三地区を選定して詳細に調査することで、三国という形態の細かい違いとその関係性を把握し、それを文化伝播という観点から考察している。1930年代の折口信夫らの民俗学や、近年の内田忠賢氏のよさこい祭の研究、レイモンド・ウィリアムズのなぜか『長い革命』が参照されて議論されている。確かにこの論文は文化地理学的な研究だといえるが、何か物足りなさを感じる。

 

木戸 泉 (2020). クロアチア紛争後のコメモレーションによるナショナル・アイデンティティの強化と継承. E-journal GEO, 15(1), 74-100.
東京学芸大学で修士課程を終えて企業に就職した人の修士論文とのこと。実際にフィールドワークを行った調査報告で、良くまとめられている。前半では非常に複雑なバルカン半島の歴史と旧ユーゴスラヴィア紛争から各国の独立までを簡潔に整理し、クロアチア国内のヴコヴァルという都市における紛争に関連する行事やモニュメントを分析している。既存の研究もよく整理されていて、アンダーソンの『想像の共同体』をはじめとして、ナショナル・マジョリティのアイデンティティに関わる議論が多いが、この論文では、セルビア国境に近いヴコヴァルを選定することで、クロアチア人とセルビア人との関係を議論している。モニュメントに関してはクロアチアでマイノリティであるセルビア人のものもあるものの,圧倒的にはクロアチア人のナショナリズムを喚起させるものであり,逆にセルビア人のものはクロアチア人の反発を呼ばないようなひっそりとしたものであることを確認し,後半ではマイノリティに焦点を当てて議論している。ここは主に文献に依拠した考察だが,そんななかでも現地で知り得た情報(ヴコヴァルでは幼稚園・小学校がクロアチア人とセルビア人とで完全に分離している)も踏まえて記述されている。また,最後には両民族の橋渡しをするような草の根運動に関しても触れている。

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