2020年の「文化地理」関連文献15
小林直樹 (2020). 長野県伊那市における昆虫食の実態と多様性. E-journal GEO, 15(2), 332-351.
地理学における昆虫食の研究といえば,野中健一氏の研究で知られる。私は野中氏のいくつかの論文を読んだだけだが,野中氏の研究は民俗学に依拠していたわけではないが,それと似たような雰囲気を持ち,今回のこの論文でも海外のものも含め「民族昆虫学」と位置付けられている。日本に関してはちょっと珍しい食文化が地方に残っていて,徐々に廃れつつある,という論調であった。しかし,この論文では冒頭で「昆虫の飼料および食料資源としての可能性」によって,「昆虫は新たな食資源として注目を集めている」というところが新しいように思う。この論文では伊那市の3つの地区(全体で948世帯)で住民にアンケート調査を行っている。世帯単位で調査票を配布したことで,回答者の年齢が上がってしまい,最近の若い世代の昆虫食の実態はあまり把握できていないが,数十年前との違いも聴き取っていている。伊那市における昆虫食は,現在でも食されているのはイナゴ,ハチの巣,ザザムシ,カイコのサナギの4種類ということで,これらの生産から消費までの形態の違いを明らかにするのもこの論文の目的となっている。いずれに関しても,生産・消費それぞれで縮小傾向にあるというのは予測できるが,イナゴに関しては地域だけでなく国内でも需要に対する供給が追い付かずに中国から輸入しているというのは驚いた。また,カイコに関しては養蚕業との関係が深いというのも納得する。この論文の著者は金沢大学の院生で,伊賀聖屋さんは2014年に金沢大から名古屋大に移ってしまったが,伊賀さんの影響でこの先進められれば,面白い研究になっていくように思う。
池田彩乃・淡野寧彦 (2020). 愛媛県鬼北町における座敷雛の発祥と地域的特色. 地理空間, 13(2), 73-85.
第一著者の卒業論文を指導教官が加筆・修正して論文化したもの。淡野は観光地理学を専門とするため、冒頭のレビューは地域文化を観光資源として捉える研究がし紹介されているが、この論文の事例はそれほど観光的要素とは結びつかないもののようだ。前半では、この鬼北町における座敷雛展示の訪問者に対するアンケート調査を行っている。全体の訪問者は分からないが、アンケートの回答者は130人で、9割以上が愛媛県内で、鬼北町内よりも近隣の宇和島市の方が多い。淡野はこの座敷雛の製作過程を単独で別論文にしているが、この論文でもこのイベントの保存会のメンバーについての記述がほとんどを占める。地理学雑誌には掲載されたものだが、正直言って地理学的考察がなされているとはいえない。
坂本優紀・渡辺隼矢・山下亜紀郎 (2020). 長野県上伊那地域における奉納煙火の現代的変容. 地理空間, 13(1), 43-57.
この論文は地域文化の一つの事例として長野県の上伊那地域で行われている「三国」という煙火を取り上げる。煙火というのは1m強の紙筒から直接火薬を噴射するもので、基本的には神社のお祭りで奉納されるものである。煙火自体はこの地方で広く行われるものだが、「三国」という名称を有する形態は南部に限定されているという。その中から三地区を選定して詳細に調査することで、三国という形態の細かい違いとその関係性を把握し、それを文化伝播という観点から考察している。1930年代の折口信夫らの民俗学や、近年の内田忠賢氏のよさこい祭の研究、レイモンド・ウィリアムズのなぜか『長い革命』が参照されて議論されている。確かにこの論文は文化地理学的な研究だといえるが、何か物足りなさを感じる。
木戸 泉 (2020). クロアチア紛争後のコメモレーションによるナショナル・アイデンティティの強化と継承. E-journal GEO, 15(1), 74-100.
東京学芸大学で修士課程を終えて企業に就職した人の修士論文とのこと。実際にフィールドワークを行った調査報告で、良くまとめられている。前半では非常に複雑なバルカン半島の歴史と旧ユーゴスラヴィア紛争から各国の独立までを簡潔に整理し、クロアチア国内のヴコヴァルという都市における紛争に関連する行事やモニュメントを分析している。既存の研究もよく整理されていて、アンダーソンの『想像の共同体』をはじめとして、ナショナル・マジョリティのアイデンティティに関わる議論が多いが、この論文では、セルビア国境に近いヴコヴァルを選定することで、クロアチア人とセルビア人との関係を議論している。モニュメントに関してはクロアチアでマイノリティであるセルビア人のものもあるものの,圧倒的にはクロアチア人のナショナリズムを喚起させるものであり,逆にセルビア人のものはクロアチア人の反発を呼ばないようなひっそりとしたものであることを確認し,後半ではマイノリティに焦点を当てて議論している。ここは主に文献に依拠した考察だが,そんななかでも現地で知り得た情報(ヴコヴァルでは幼稚園・小学校がクロアチア人とセルビア人とで完全に分離している)も踏まえて記述されている。また,最後には両民族の橋渡しをするような草の根運動に関しても触れている。
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