【読書日記】アッシュクロフト・グリフィス・ティフィン『ポストコロニアルの文学』
アッシュクロフト, B.・グリフィス, G.・ティフィン, H.著,木村茂雄訳(1998):『ポストコロニアルの文学』青土社,384p.,2,800円.
ちょっとした依頼原稿から、ポストコロニアリズムを改めて勉強する必要に迫られている。著書を中心に文献を探してみると、魅力的な本がそこそこ出てきて(どれから読んでいいのか分からないほどの量ではないのがありがたい)、全てを購入するわけにはいかないので、非常勤先の大学図書館で借りて読むことにした。どうやら日本においては訳者の木村茂雄さんが重要らしい。ご自身の著書も出されているようなので、後に読むことにしたい。
序章
第1章 場を切り開く ポストコロニアル文学の批評モデル
第2章 言語の新たな位置づけ ポストコロニアル文学におけるテクストの戦略
第3章 テクストの新たな位置づけ ポストコロニアル文学の解放
第4章 十字路に立つ理論 土着的な理論とポストコロニアル批評
第5章 理論の新たな位置づけ ポストコロニアル文学と文学理論
結語 英語よりも〈英語〉を
最近青土社の本から少し遠ざかっていたが、20年以上前に出た本書を読んで、青土社の本をよく読んでいた頃の刺激を思い出した。そして、その依頼原稿のテーマは私には不向きではないかと思っていたが、本書を読みながら編集者の人選はあながち間違っていなかったと思ったりして。
ポストコロニアルをめぐる日本語の表記には不思議なところがあると以前からなんとなく思っていた。コロニアリズムとカナで表記することはあまりなく、植民地主義と表記する。ポストコロニアルという表現は脱植民地や植民地後と表記することもできるが、カナ表記だとポストコロニアル文学やポストコロニアル批評といった文学的な表現になるが、脱植民地や植民地後というと歴史や政治の印象を受ける。一方で、コロニアル文学やコロニアル批評という語はあまり使わないようだ。
植民地をめぐる文学については一時期サイードを読んでいたこともあり、それなりに知識はあるつもりだが、それが正しいのか自身がない。まずは私の知識を確かめておこう。ヨーロッパ諸国が植民地支配をしていた時代、作家たちはそれを意識的・無意識的に作品に記録した。サイードが取り上げていたのは、アフリカ奥地探検を題材としたコンラッド『闇の奥』や、フランスの植民地アルジェリア出身のカミュ『異邦人』、舞台は英国だが遠く英国領での企業経営の話が出てくるオースティン『マンスフィールド・パーク』、それ以外ではフローベールがエジプトへの植民地旅行の記録『フロベールのエジプト』(翻訳、法政大学出版局)などもある。それらには植民地の実態が記録されるだけでなく、ヨーロッパ人の植民地主義的な意識の記録でもある。また、植民地と宗主国の関係性も作品に記録される。そうした、当時としては等閑視された意識を、植民地後の現在から批判的に解釈する。植民地文学のポスコロニアル状況における批評というのが一つのあり方だと思う。一方で、植民地教育を受けた現地の住民のなかから文学作品を制作するものが現れる。そうした作品がポストコロニアル文学だといえる。またそれをかつての宗主国だった国々の批評家が批評する。
こうした理解は近代期の英米文学に限定したものであり、実際には植民地支配は16世紀初頭からスペイン・ポルトガルによるラテンアメリカ、オランダ、イギリス、フランスによるアングロアメリカ、その後のアジア、そして19世紀から20世紀にかけてのアフリカという形で、時代が異なり、宗主国も異なる、現地住民の扱いも異なり、政治的支配か経済的支配かも異なる。独立時期も異なり、その方法も異なる。つまり、植民地支配といってもその複雑性を理解しなければならず、そのなかでコロニアル・ポストコロニアル状況を考えなくてはいけない。この私の単純で浅はかな理解はそれ自体が十分であることを自覚しながらも、本書で明確にその誤りを改めなくてはならなくなった。
そもそも、文学といった場合、私たちはヨーロッパの近代文学、特に小説というジャンルを想定してしまう。近代国民国家の中で整えられる「国語」をそれぞれ使用言語とし、近代的文学形式としての小説を確立し、それをフィクション、それに対置されるノンフィクションとして旅行記やエッセイなどが位置づけられる。つまり、私はあくまでもヨーロッパ的価値観で思考しているにすぎない。私自身にとってもそうだが、ポストコロニアルという発想は文学や批評自体を根底から問い直す可能性において1970年代から議論を重ねてきたようだ。1989年に原著が出ている本書の著者はこれまで聞いたことのなかった3人だが、本書の参考文献から、この分野をけん引してきた研究者のようだ。アッシュクロフトは1978年から3本、グリフィスは1978年に著書1冊、その後も論文3本、ティフィンは1978年に編著1冊、論文3本が文献表に示されている。もちろん、かれら以前にサイードの著書があり、この時期からホミ・バーバやガヤトリ・スピヴァクも活躍しており、そのビッグネームの理論に追随して、世界各地の文学・批評を調査したうえで本書は書かれている。
第2章の言語に関する議論も刺激的だった。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』でも,宗主国でもあるヨーロッパの国民国家における国家語が植民地に移植され,出版資本主義と呼ぶ印刷された言語が流通し,その植民政府・行政に携わる現地エリートたちがその語を学び,それによって意思疎通が可能になった人々による独立運動に向けたナショナリズムの高揚が論じられている。その過程は行政官やエリート,独立運動家だけではなく,現地の文学者も同様であることを気づかされる。特に原著が英語で書かれ,文献一覧にもほとんど英語の文献が並ぶ本書においては,英語が特別な位置づけとなる。本来のイングランドの言語としての英語(English)とクレオール化した〈英語(english(es))〉の議論はある程度想像できるものだが,本書では,英国の植民地であった,アメリカ合衆国,カナダ,オーストラリアをも「旧植民地」として扱っているところが私にとっては盲点だった。確かに,バーバラ・ノヴァック『自然と文化:アメリカの風景と絵画1825-1875』を読んだ時に同様の刺激は味わっていた。風景画はヨーロッパとアメリカではだいぶ違うのだ。そう考えると確かにアメリカ文学は独自の発展を遂げている。批評においてもデリダやフーコーのヨーロッパ思想は北米に輸入されている。カナダの批評家ノースラップ・フライもそういう扱いだ。訳者のあとがきによれば,著者たちはオーストラリアの研究者であり,自らの立場に自覚的であるという。その一方で,そうした現在では欧米と一括りにされている旧植民地と,アフリカのような旧植民地とを同列に扱って議論する立場を普遍主義として批判する議論もあるようだ。その批判点はよく分かるが,一度はアメリカ,カナダ,オーストラリアもかつて植民地であり,ヨーロッパの言語,文学,批評,理論を追随しているという観点を入れておくのは重要だと思う。
第3章は個別の作品を論じていて,本書の大きな特徴であり,魅力であるといえる。取り上げられるのは,南アフリカのルイス・ンコーンの『交配する鳥』(1986年),トリニダードのV・S・ナイポール『ものまね人間』(1967年),トリニダードのマイケル・アントニーの短編「サンドラ・ストリート」(1973年),カナダのティモシー・フィンドリーの『航海の余計者』(1984年),ニュージーランドのジャネット・フレイムの『アルファベットの外縁』(1962年),インドのR・K・ナラヤンの『菓子売り』(1967年)。ナイポールなどよく知られた作家もいるが,ここで取り上げられた作品はいずれも英語で書かれているにもかかわらず日本語訳がない(本訳書には丁寧に本書で取り上げられる作家の解説が,翻訳の有無も含めて載せられている。)。この作品ごとの解説は場合によっては冗長で,場合によってはなかなかすんなりと理解しがたいものもあるが,それも含めてポストコロニアルの状況でこれまでのヨーロッパ文学(これも一枚岩的に語れない多様性を持っていると思うが)にはくくれない多様な試みが登場していることがうかがえる。そして,同時にもちろんヨーロッパの文学作家が同時に批評家ともなりえるが,ポストコロニアルな状況においては文学生産と批評,そして社会運動がない交ぜになっていることもよく分かる。
第4章以降はさらに,文学理論の話に移行する。上で私の素朴な理解を書いたように,近代文学がヨーロッパに本家があって,植民地政策の中でその言語と文学形式を学んだエリートたちが自分の言葉で語りだし,それをヨーロッパが評価して自らの文学の発展に反映する,という理解はいかにもヨーロッパ中心的である。実際にはポストコロニアル文学・批評・理論はそもそもヨーロッパにおけるポストモダン思想やポスト構造主義とも並行したもので,差異を重視し,優劣の上下関係を転覆することでもある。とはいえ,これまたポストモダンやポスト構造主義に特権を与えることも間違っているが,ともかくヨーロッパの思想家,文学者,批評家もそうした立場性には自覚的だが。第5章では「ニュー・クリティシズム」に関する議論に大分ページを割いている。私も文学地理学の新しい動向を学んでいた時に多少かじったことがあったが,改めてその位置付けを知ることができた。
ともかく,本書を読んで,まあ,もともと文学少年ではないが,世界にはまだまだ知らない広大な文学世界が広がっていることを思い知らされ,だからこそそこを航海する新たな楽しみとこれからやるべきことを知ることができた。


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