Joanne P. Sharp(2009):Geographies of Postcolonialism.Sage: London, 158p.
ジョアンヌ・シャープは私が大学院生の時代(1994年くらい)から注目している地理学者。初めて読んだ論文は政治地理学の雑誌に掲載されたもので,大衆地政学を銘打った『リーダーズ・ダイジェスト』における米ソの記述を分析したものだった。それは拡張されて,2000年に『Condensing the Cold War: Reader’s Digest and American Identity』というタイトルで書籍化されている。こちらは『現代地政学事典』で言及したがまだ読んでいません。また彼女はフェミニストでもあり,同じ2000年に『entanglements of power: geographies od domination/resistance』という論文集を共同編集していて,これは読んだ。また,1990年代に文化地理学の雑誌に掲載されたサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』を分析した論文は,タイトルにポストナショナリティとあるが,当時地理学ではまだあまりなされていなかったポストコロニアル批評の先駆けだったと思う。本書に自身の過去の論文は引用されていないが,本文に何度かラシュディに関する記述があり,そのテーマの継続的な研究の集大成といえる。
はじめに
I. コロニアリズム
1章 世界を想像する
2章 知と権力
3章 権力の景観
II. ポスト-コロニアリズム
4章 新秩序?
5章 コークあるいはメッカ-コーラ:グローバル化と文化帝国主義
III. ポストコロニアリズム
6章 サバルタンは語ることができるか?
7章 ポストコロニアル文化
8章 肘掛椅子から離れて?
この目次構成からも分かるように,著者はポストコロニアリズムをハイフンありとハイフンなしとに区分している。かつて,geo-graphyとか,geo-politicsなどとハイフンなしの単語にハイフンをつけることはデリダ的脱構築,あるいはハイフンによって読者の注意を喚起する異化作用があると私は理解していたが,本書におけるポストコロニアリズムが逆の意味合いがある。まずは,本書における定義を紹介しよう「ポストコロニアリズムは想像力と知識,権力の地理を通して構築されるものであり,そうした地理は本書の中心となるだろう」(p.3)。「植民地主義は常に他の場所に関係する人びとによってある土地が物理的に占有されることと仮定される」(p.3)。ハイフンありのポスト-コロニアリズムは植民地後の現代においても残っているその物質的痕跡である政治的,経済的,文化的支配であり,ハイフンなしの「ポストコロニアリズムは植民地主義を分析する批評的(批判的)アプローチであり,世界の代替的な説明を提供しようという探求である」(p.4)。特に,植民地支配については政治や経済の次元で論じがちだが,ポストコロニアリズムは植民地主義の文化的産物の重要性を考慮する。ここでいう文化的産物とは「小説,歌,芸術,映画,広告といった世界に関する知識を形成するものである」(p.5)。そして,「地理(学)はポストコロニアリズムにとって非常に重要である」(p.6)と主張する。
I.の1章では,ヘリフォード図やアリストテレスの宇宙論に始まり,サイードの『オリエンタリズム』を解説する。フーコーの知/権力についても言及し,「言説」と題されたコラムもある。「オリエンタリスト芸術」と題して数点の絵画作品が分析され,最後に『オリエンタリズム』に向けられた批判を整理している。2章では植民地支配を推進し正当化した思想について論じ,前半でフンボルトの探検旅行を取り上げるなど,アカデミアと植民地主義の問題を議論し,先住民に関する調査・研究を通じ,人種差別主義,社会ダーウィニズムといった支配の原理としての優劣に基づく価値観を整理する。続いて旅行記の分析に移り,女性旅行家の話題としてフェミニズム批評を挿入する。次に万国博覧会における植民地展示,1968年の『Carry On Up the Khyber』という英国のコメディ映画を分析する。3章のテーマは景観で,「コロニアル景観とは秩序立って,清潔で,調整に従順で,経済活動の流れを円滑にするよう構築されている」(p.56)ものだという。そして,フーコーの議論からベンサムの一望監視システムの話に転じ,19世紀植民地におけるコーヒー・プランテーションも同様の構造であると論じる。プランテーションに代表される植民地の景観は「抽象的空間」と化し,そこで働く現地人たちは労働者としての抽象的身体と化す。一方で宗主国からの植民者たちは植民地で贅沢な豪邸を建て,そこをホームとする。植民地で宗主国からの旅行者たちが宿泊するために建設された贅沢なホテルなどもこの議論には含まれよう。
II.は植民地後の状況の実態を明らかにする。4章の中心的な議論は第三世界論である。世界地図の空白はなくなり,植民地は独立を果たす。新しい世界に秩序をもたらすのは経済発展であり,ロストウの1960年の著作『経済成長の諸段階』などが論じられ,冷戦時代の近代世界を資本主義の第一世界,社会主義の第二世界とし,それ以外を第三世界とした議論の形成と時代的背景が整理される。5章の議論の中心は文化帝国主義。冒頭で登場する「メッカ・コーラ」の存在を私は知らなかった。Wikipediaによると,メッカ・コーラは2002年にフランスでチュニジアの事業家によって開発された商品で,コカ・コーラやペプシ・コーラの代替品として,パレスチナを支援するために販売されたという。確かに,コカ・コーラの工場はイスラエルにあり米国資本がイスラエルを支援する形になるからという理由でのコカ・コーラ社製品の不買運動があるというのを耳にしたことがある。ということで,初期の文化帝国主義の議論は帝国側の支配の論理の話が中心だったが,近年ではそれに抗う抵抗の話も展開している。この章の前半では映画『インディー・ジョーンズ』やベネトンの広告,雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』,観光産業などが分析される。後半では「文化帝国主義の地理」と題し,マッシーの「権力の幾何学」論が紹介され,インターネットアクセスの割合を世界地図で示したり。なお,本書には各章の最後に「Further reading」が記載されているが,この章の最後にはソープ・オペラ(メロドラマ)に関するアブー=ルゴドの論文が紹介されている。アブー=ルゴドは『ヨーロッパ覇権以前』の著者として知られるが,世界都市論の分野でも業績があり,翻訳された論文集にも寄稿している。2013年に亡くなってしまったが,そんなエジプトのテレビ番組に関する論文もあるんですね。
III.の6章は,スピヴァクの書名で知られる「サバルタンは語ることができるか?」のタイトルだが,冒頭の写真が衝撃的だ。イランからオランダへの移民の男性が,目と口に針で糸を通して閉じたまま横たわっている。これはオランダで新しく改訂された難民法に抗議するためだという。スピヴァクが提起したこの問題はポストコロニアル批評の肝となる。1960年代辺りのフランス現代思想で議論された表象概念はもちろん重要で,一部の人から大衆へというマス・メディアのあり方を問い直した。しかし,メディアの担い手と大衆とが同じ国民で同じ言語を用いるという点では狭い話で,それを旧植民地であり現在では英語を国家語とする米国に移植されるときにも簡単なものではなかった。それこそスピヴァクがデリダを訳したり,カナダの批評家ノースラップ・フライの存在があったりした。スピヴァクが論じるのは植民地を経験したグローバルな次元での表象の問題であり,本書の本章でも「他者に対して,他者として語ること」と題している。マット・スパークというカナダの風刺画家の作品が掲載されている。裁判の一場面で裁判官の机には大量な資料が積み上げられ,証言台の先住民の女性は自分たちの言葉で何かを語っている。スピヴァクの話から議論は「ポストコロニアル・フェミニズム」と題し,ムスリム女性のヒジャブ(髪の毛を覆い隠すスカーフ)を事例に女性の問題が議論される。続いてフランツ・ファノンを通じた暴力の議論に移るが,ここは理解するのが難しかった。ファノンは『黒い皮膚・白い仮面』は読んだものの,『地に呪われたる者』は途中で断念した。7章はラシュディ『悪魔の詩』を含めたポストコロニアル文学・批評の分析が中心だが,こちらも難しい。そもそも,『悪魔の詩』もシャープの論文を読む際に,翻訳を読んだのだが,途中でついていけなくなった経験がある。ある程度,ポストコロニアル文学に読み親しんでいないと難しいかもしれない。後半はセネガルの作家,センベーヌ・ウスマン(1923-2007)の1973年の作品『Xalaハラ(不能者)』という作品が分析されている。この作品は1974年に自らの手で映画化されているようだが,日本語にはなっていない。最終章である8章は「ポストコロニアリズムと開発」と題された節で非常に短いものである。ポストコロニアリズムは確かに西洋的な価値観を脱中心化する根本的な思考の転換であるが,やはりその先としては現実世界の問題解決へと向かわなければならない。そういう意味でも喫緊の問題は第三世界の開発・発展の問題であり,それは世界全体の脱成長の問題である。文学批評の次元での価値観の転換と脱成長という思考の転換とをどう結び付けていくのか。そこが課題であろう。
最近のコメント