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2022年1月

【読書日記】中澤高志『経済地理学とは何か』

中澤高志(2021)『経済地理学とは何か――批判的立地論入門』旬報社,219p.1,800円.

 

同世代の日本の地理学者で何人かはかなわないなと思う人がいる。中澤さんはその一人。彼とは以前少し関わることがあった。私にしては珍しく複数の研究者たちと密に関わる機会があった。関東都市学会という,非常に小さな学会に若手研究者の会みたいなのがあって,たまたま知り合った文学研究者に誘われて学会員でもないのに参加したのだ。何年か活動して,そのうち1,2年は会員にもなったのだが,そろそろ新しいメンバーも欲しいよね,的なことで紹介したのが私と共著論文もある香川雄一氏だった。彼は大学院を東京大学で学び,この研究会に入って間もなく就職が決まり,東京を離れることになった。そこで,彼が紹介したのが同じ東京大学の中澤さんだった,ということだったように記憶している。
ということで,私はその頃からこの研究会からはなんとなく抜けていったので,中澤さんと直接話をする機会は決して多くはなかったが,とても研究に対するエネルギーに溢れていて,何よりも正直な人間であるという印象が強かった。実は彼の文章はこれまであまり読んでいなかったのだが,彼の研究テーマ自体には関心があった。最近の私の非常勤先の授業では,日本の地理学者の実証研究を利用させてもらっていることが多く,本書も経済地理学全般について利用できるかと思い,軽い気持ちで購入した。しかし,副題から分かるように,本書で扱われるのは主に立地論であり,実際には授業で使うことはなかった。しかし,それ以上に私自身が地理学について考えさせられる内容だった。

はしがき
第1章 経済地理学の自分探し
第2章 立地論の導入――演繹的に考えるということ
第3章 チューネンの農業立地論――A=√apへの歩み
第4章 ウェーバーの工業立地論――ある挫折の記録
第5章 クリスタラーの中心地理論――逸脱の軌跡
第6章 空間的相互作用と人口移動――アナロジーについて
第7章 立地論を超えて
あとがき

目次を見れば分かりますが,経済地理学全般に関する教科書ではなく,古典的な立地論の批判的な検討を通じて,経済地理学の本質を考えるという内容。はしがきやあとがきに顕著に表れているが,著者の実直な語り口は本書全般に貫かれている。地理学専攻の学部時代には一通り習う,チューネン,ウェーバー,クリスタラーですが,著者も言うように教科書的には習うが,それを実際の研究で応用するようなものは今日ではほとんどない。単に古い理論だから使えないということで終わらせず,それがなぜなのか,使えないものを習う意味があるのか,そんな問いかけが本書にはある。そして,驚くのが本書のきっかけの一つに,おそらく彼は集中講義で受けたのだと思う杉浦芳夫氏の授業があるのだという。著者は私よりもいくつか年下だと思うが,私はその杉浦芳夫氏の在籍していた東京都立大学で学部から大学院まで過ごしているので,同じような授業を受けていたことになる。杉浦氏は私が入学した1989年に『立地と空間的行動』という教科書を出版しており,それに基づく講義が都立大学だけでなく,杉浦氏が集中講義で教えに行っていた各大学でなされていたようだ。しかし,やはり後に経済地理学を志すことになる中澤氏と,文化地理学を志した私とでは受け取り方が違かったようだ。
それはともかく,本書はその古典たる立地論テキストに立ち戻るだけでなく,それが日本でどのように受容されたのか,日本ではどんな経済地理学の教科書が出版されてきたのかというところもしっかり押さえている。確かに,日本の人文地理学ではやはり経済地理学の層が一番厚く,教科書も各時代で各種出ている。そして,著者の論じ方はそれら歴代の経済地理学の教科書を網羅的に整理するのではなく,それを自身の関心に貫かれた本質を議論することで論理的に展開しており,論じられている各論は経済地理学に関することだが,総論的には地理学自体の本質を考えることを読者に要請する。なかなか,こうした地理学本質論的なものを議論できる人は多くないので非常に刺激される。そして,チューネン,ウェーバー,クリスタラーについても教科書で取り上げられるようなものだけでなく,彼らの個人史を含めてその古典的テキスト全体がどのようなものであるのか,彼らの研究者人生のなかでそのテキストがどのような位置づけであるのか,そのような周囲を固めた上で,教科書に載るような学説がどのような意味があるのか,特にその現代的意義を見据えて議論している。とはいえ,そのような詳細な議論になると古典的テキストの原典にあたって,原語で議論するような研究の方向性もあるが,著者はそこには踏み込まず,とはいえ特定の概念については原語と訳語のニュアンスの違いにも気を配るが,学説そのものに,学生が議論できるレベルで,しかし議論のレベルは低いところに合わせるわけではなく,解説し,問いかける。なかなかこういう教科書は書けないし,そういう授業を受けている学生を羨ましく思う。

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【読書日記】『Νύξニュクス創刊号』堀之内出版

『Νύξニュクス創刊号』(2015)堀之内出版,257p.1,800円.

 

またご登場を願う分倍河原のマルジナリア書店。ここは図書館のように,不要本の「ご自由にお持ちください」というのをやっている。この雑誌もカバーか帯かが欠損しているようで,その箱に入っていた。特集が二つとも興味深かったので持ち帰った。堀之内出版は2019年の斎藤幸平『大洪水の前に』がかなり売れたと思うが,2015年の本誌創刊号でも斎藤氏がピケティ論文の解題をしていて驚く。なお,この書店には『大洪水の前に』のサイン本やこの出版社の他の雑誌もそろえている。この書店の店主は以前出版社の編集者だったとのことだが,堀之内出版だったのか。それはともかく,無料でいただいたものでありながら,この読書には大きな収穫があった。

第一特集 〈エコノミー〉概念の思想史――アリストテレスからピケティへ:主幹・佐々木雄大
〈エコノミー〉概念史概説――自己と世界の配置のために:佐々木雄大
教父哲学におけるオイコノミア:土橋茂樹
『天使』への序論:ジョルジュ・アガンベン(岡本源太訳)
 解題――ジョルジュ・アガンベン「『天使』への序論」を読むために
修辞学における「エコノミー」――実践・配置・秩序:星野太
『百科全書』と啓蒙思想からみた「エコノミー」:隠岐さや香
「経世済民」から「経済」へ:板東洋介
エコノミー,経済統治,あるいは自然均衡――オイコノミアからの複線的伏流:深貝保則
不平等の長期的趨勢:トマ・ピケティ/エマニュエル・サエズ(西 亮太訳)
 解題――トマ・ピケティは「保守」か,「革新」か?:斎藤幸平
経済Économie――『アドラシオン』より:ジャン=リュック・ナンシー(メランベルジェ眞紀訳)
 解題――ジャン=リュック・ナンシーの「エコノミー」:柿並良佑
 「救済のエコノミー」についての注記:ジャン=リュック・ナンシー(柿並良佑訳)
「搾取」と「自由」――剰余価値論の精神分析的展開:荒谷大輔

第二特集 現代ラカン派の理論展開:主幹・松本卓也
ラカンのディスクール理論からみた普遍精神病:マリー=エレーヌ・ブルース(松本卓也訳)
 解題――<父の名>の後に誰が来るのか?:松本卓也
セクシュアリティの帰趨と症状の可能性――「一般化倒錯」という観点から:河野一紀
後期ラカンの精神病理論から読み解く症例アンネ・ラウ:小林芳樹
スキゾフレニーから自閉症へ:松本卓也
自閉症について:向井雅明

いつものように,各論文詳しく紹介していきたいところだが,それにもまた私の時間が費やされてしまうので,今回は地理学とは直接関係ない(とはいいながら,次に紹介しようと思っている地理学の本に大いに関連する)ということもあるので,控えめにしたい。
経済に関する第一特集と,ラカン精神分析に関する第二特集は,目次を詳しく見ると分かるように,つながるように編集されている。荒谷氏による経済特集最後の論文は,前半でピケティに言及する経済論でありながら,ラカン精神分析の観点からの議論である。私は知らなかったが,ラカン自身が「資本主義のディスクール」を論じているというのだ。ということで,なんとなく第二特集から書いていこうか。ラカンについては,『エクリI』と『精神分析の四基本概念』は読んだ。『エクリIII』と『精神病 上・下』も持っているが,読んでないかもしれない。という具合で,興味はあるがなかなか理解には及ばず,確か論文で言及したのは一度だけだったと思う。そんな私なので,ラカンを歴史の文脈(ラカンの個人史)で考えたことはなく,この特集で学んだことは多い。まずは,小林氏の論文タイトルにあるように,後期ラカンについて。そもそもこの特集がなぜいま必要なのか,というところで,ブルースの翻訳論文にある「普通精神病」が重要だとのこと。こちらの概念についても,改めて読み返さないと正確な説明はできないが,後期ラカンにあった「普通精神病」という概念から現代フランスの精神分析が展開しているのだという。精神病の脱施設化については以前別の本の紹介で書いたが,そういう大きな時代的な世界的な流れと呼応するように(先んじて?),ラカンの理論も展開したのだという。社会から隔離すべき特別な病と考えることから,社会のなかで患者を受け入れる方向へ。そして,この特集最後の向井氏の論文が自閉症を扱っているように,一般的に治療して社会に戻していくという発想ではなく,そのままのかれらを扱えるように社会の成員の意識を変えていくということ。今回,いくつかの論文を読んで,ラカンのいう「父の名」の意味合いが少し分かったような気がするし,向井氏の自閉症の説明が非常にしっくり理解することができた。かれらが他人(親も含む)に対して言葉を発しないのは,言葉というのが根本的に社会的なものであり,それを習得することで,徐々に他人同化し,何にも代えがたい自分自身が失われていくことに抵抗する行為なのだという。この理解はバフチンの言語観とも一致していて,また,ポール・オースターが『ガラスの街』で展開した,自分の息子に言葉を与えず,自ら生みだす独自の言葉を採取するという言語学者の実験とも一致している。
さて,第一特集のエコノミー概念に移ろう。私の経済理解は,かつて山田晴通氏が口頭で(私に向けてではなく,その場に居合わせた学生・院生に対して)何度か語ったものどまりであった。それはすなわち,economyとは,ギリシア語のオイコス(家)+ノモス(数える)であり,家計を基礎とするものである。そこから,私の想像も含めて,国家がその字のごとく,国という巨大な社会組織を家になぞらえる形での統治が始まり,それによって家計が国民経済に拡張され,歳入と歳出,貿易というものとして計測されるようになった,というような理解である。しかし,本書によれば,古代ギリシアの時点ですでにソクラテスの弟子クセノフォンが『家政論』という書物を残しており,この語からも分かるように,単に家計の収支という現代的な経済的側面だけでなく,家の統治という政治的側面も含んでいたという。そういえば,山田晴通氏の話はさらに続き,最近はマルクス主義の政治経済学が近代経済批判としてもてはやされているが,それは逆であって,そもそも経済というのは政治と分離しておらず,政治経済であり,それを近代経済学が政治から分離させたとも。
まあ,ともかくこの辺りのことは本書では単にギリシアの過去だけでなく,そこから連綿と続く歴史とそこに介在するキリスト教の役割が論じられている(編集者佐々木氏の論文の最後に関連年表が掲載されている。pp.36-37)。その際に重要な文献がジョルジュ・アガンベンの『王国と栄光』であることを知る。ということで,アガンベンの文章も翻訳されており,訳文にはそれぞれ解題が付けられている。
概念史だけでなく,『21世紀の資本』で一躍有名になったトマ・ピケティの論文も翻訳されている。解説によればピケティはその書でマルクス『資本論』を意識させるがマルクス主義者ではないという。この論文でも分かるように,長期的な経済動向が把握できるデータを重視している(どうやら,自分で整理したデータは全て自分のサイトで公開しているという)。データに基づいて理論を組み立てるというのは,サッセン『グローバル・シティ』やフロリダ『クリエイティブ資本論』(フロリダもマルクス主義者ではない)と似ていて,21世紀の社会科学の特徴なのかもしれない。そして,ピケティに批判的なマルクス研究者である斎藤氏が解説を書いている。
続いて,ジャン=リュック・ナンシーの「経済」と名付けられた著書の一部の翻訳が掲載されている。この文章は『アドラシオン』という書名で翻訳されているとのこと。そして,こちらも訳者でない柿並氏による解説が付けられ,ナンシー本人への問いかけに対する回答も併せて翻訳掲載されている。とはいえ,この議論は私には難解である。最後に一言だが,上で経済におけるキリスト教の役割と一言で済ませてしまったが,目次からも分かるように,それは救済との関係であり,経済が単なる理論ではなく,資本主義経済か社会主義経済かという社会に対するあり方を問うものであり,そこには政治的な介入≒統治の問題も関わる。また,ちなみにタイトルだけでは分からないが板東氏の論文は日本語への翻訳語としての「経済」の議論であり,中国の経済思想とヨーロッパのeconomyを日本という国がどのように咀嚼したのかという意味でも興味深い。

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【読書日記】菊地夏野・堀江有里・飯野百合子編『クィア・スタディーズをひらく1』

菊地夏野・堀江有里・飯野百合子編(2019)『クィア・スタディーズをひらく1――アイデンティティ,コミュニティ,スペース』晃洋書房,262p.2,300円.

 

2020年の1月にオープンした,最近よく行っている,分倍河原の独立系書店がある。マルジナリア書店といって,「よはく舎」という名前の出版社でもある。狭い店内だが,カフェスペースもある。店主が女性ということもあり,子ども向けの本もあるが,フェミニズム系の書籍が充実している。そこで初めて購入したのが本書。オリンピック関係でジェンダー研究にまた触れることが多くなり,今更ながら,シス・ジェンダーなる概念を初めて知ったり,学び直しをする中で,クィア・スタディーズにはどこからはいればよいのか悩んでいたので,最適な論文集をみつけた。書名に「1」とあるように,三巻本で企画されているようだが,まだ2巻以降はお目にかかっていないが,1巻にはタイトルに「スペース」の語もあって,地理学者としても期待が膨らみます。

序章 クィア・スタディーズとは何か:菊地夏野・堀江有里・飯野百合子
1章 1970年代以降の首都圏におけるレズビアン・コミュニティの形成と変容――集合的アイデンティティの意味付け実践に着目して:杉浦郁子
2章 クローゼットと寛容――府中青年の家裁判はなぜゲイ男性によって批判されたか:風間 孝
3章 女性同性愛と男性同性愛,非対称の百年間:前川直哉
Column
 イスラエルの戦争犯罪に共犯する東京レインボープライドとわたしたち:小野直子
4章 コミュニティを再考する――クィア・LGBT映画祭と情動の社会空間:菅野優香
5章 教育実践学としてのクィア・ペダゴジーの意義:渡辺大輔
Column
 学校でLGBTをどう扱うか――十年間の経緯と,これから:遠藤まめた
6章 クィアとキリスト教――パトリック・S・チェンによるクィア神学の試み:朝香知己
Column
 同性愛の発見と発明――米軍におけるセクシュアリティの歴史:高内悠貴
7章 怒りの炎を噴く――クィア史におけるアジア太平洋系アメリカ人のアクティヴィズムを記念して:エイミー・スエヨシ(佐々木裕子訳)
Column
 厳しい政治的条件下で手段を尽くして運動を進める中国のLGBT:遠山日出也

序章は初学者向けに「クィア」の語の説明が丁寧になされている。元々この語は侮蔑的な語として,「異常な」というような意味合いで,ノーマルに対する性的な逸脱的存在を指す言葉であった。しかし,1980年代のマイノリティ運動のなかで,当事者たちが自らを指し示す言葉として使うようになり,他者による否定的な呼称から肯定的な自称へと変化する。ちなみに,LGBTQという表現があるが,ここに並列にQueerを使うと,性的マイノリティの一種として捉えられてしまうが,クィアにはLGBTを包含するような意味合いもあることから,本書ではLGBTQという表現はしていないようだ。
本当に本書を読んで初めて知る事実は多い。考えてみれば当たり前だが,性的マイノリティの問題は時代とも地域とも関係なく常にどこにもあり,むしろ近代史はそれを不可視化する抑圧の歴史であった。そういう意味で,日本にも身近にあったはずだ。第1章では私が幼少期を過ごした1970年代以降,私は東京大都市圏の縁辺で育ったが,その東京でのレズビアン・コミュニティについて考察している。前半で簡単に世界を含むレズビアンの動向を概観し,日本におけるレズビアン関係の出版物,ミニコミ誌とそれを支える団体について整理している。ミニコミ誌を扱っていることもあり,ここでの「コミュニティ」という語の使用は慎重である。1960年代以降のレズビアンの描き方は女性同士の性行為に対するのぞき見趣味的なものが多く,1970年代はそうしたイメージを払拭するために当事者たちが発信していく。しかし,そのなかでもバイセクシュアルやトランスジェンダーを認めるのか否かという,コミュニティの境界構築というところにエネルギーが費やされてしまう。
2章のタイトル「クローゼット」はセジウィックの『クローゼットの認識論』を想定しているようだが,広く使われているようだ。私もこの本は読んだけど,イマイチ「クローゼット」の意味合いが分かっていなかった。ここでは,クローゼットにしまうこと=不可視化のような分かりやすい意味合いで使われている。府中青年の家裁判とは,1990年に起こった出来事で,東京都府中市にある宿泊できる施設でゲイとレズビアンの会が合宿を行ったことに起因する。利用団体がお互いを紹介する場面で,この団体が説明をおこなったことで,施設側が同性愛者の利用を断り,そのことに対してこの団体が裁判を起こしたという。裁判は第二審まで6年かかり,管理者の東京都がこの団体に損害賠償をすることで終結した。ここで論じられるのはこの裁判をめぐる言説の分析である。そのなかには自称おかまの映画評論家おすぎや,ゲイ雑誌『薔薇族』の編集長などの発言も含まれる。性的マイノリティの当事者の発言でありながら,その態度の多様さはお互いに攻撃することにもなりうる。この章のタイトルのいわんとすることは,当時の日本はゲイという存在に対して,表に出てこないかぎり(クローゼットに閉じこもる),寛容であって,ことさら差別的攻撃はしないという社会。それにしても,1990年といえば私が埼玉から府中にほど近い川崎市多摩区で一人暮らしを始めた年。まだジェンダーという言葉も知らなかったが,身近でこんなことがあったとは。
3章もレズビアンを扱った第1章と主にゲイを扱った第2章についてさらに考えさせられる内容。同じ同性愛者でも,男女によってその扱いは違う。本当に,マイノリティ(よく言われているように,単に数からいえば女性は決してマイノリティではない)にとっては何重にも差別・抑圧を受ける構造をした社会だということを思い知らされる。そして,本書はコラムも充実している。イスラエルについて書いた小野さんは著者名の後に(フツーのLGBTをクィアする)とある。東京のLGBTパレードである東京レインボープライドにイスラエルが協賛しているという。近年はイスラエルが〈中東で唯一〉ゲイ・フレンドリーな国としてアピールしているのだという。そうして,パレスチナへの侵略戦争という国際的な非難をかわそうということで,グリーンウォッシングならぬ,ピンクウォッシングとして非難されている。こういう些細なことだが重要な事実を知ること,その気づきが非常に重要だと思う。本書は副題で「スペース」を掲げているが,章のタイトルに「空間」を掲げた第4章がひとまず地理学者として一番期待していたもの。私自身,青山のスパイラルホールで開催された当時のゲイ・レズビアン映画祭に行ったことがあった。今考えると不謹慎だが,少しのぞき見趣味的な感覚と疎外感を抱きながら,会場をウロウロ・キョロキョロしていた。とはいえ,この章で論じられるのはそうした大都市の映画祭ではなく,愛媛LGBT映画祭などを例に挙げ,地方の問題も議論している。しかし,本章の大半は理論的な考察であり,タイトルにあるように,スペースよりはコミュニティ概念に関する議論が中心のようにも思う。また,地理学でも一時期流行った「情動」概念が登場する。地理学の議論は森正人氏がいくつか紹介しているが,よく理解できていなかった。最近,スピノザ研究者でもある國分功一郎氏の議論で少し理解できるようになったが,スピノザのドゥルーズ・ガタリによる再評価を経由して流行ったようですね。
5章とそれに続くコラムはLGBT教育の話題である。これは小学生の子どもを持つ親としてもとても興味深い内容。批判教育学というのもあるんですね。地理学でも一時期,川田 力さんという人がブルデューらの影響下で批判的な意味合いを持った教育社会学の影響下で教育地理学(地理教育とは一線を画す)を標榜していたが,さすがに一人で推し進める限界を感じたのか,日本で取り組む人はいなくなってしまいました。この章は単に現行の日本の教育のLGBT理解の遅れを嘆くのではなく,出版界ではLGBT理解を促進する多くの絵本が出版されているということや,実際に素晴らしい教育実践をされている方の紹介などにページを割いていて,非常に生産的。続く遠藤まめたさんのコラムは当事者に寄り添ったもので,最後に「大人ができること」という提言がある。
6章はキリスト教とクィアの関係を議論している。ここでは『ラディカル・ラブ』という本訳書もある米国カトリック教会のパトリック・S・チェン神父のクィア神学を紹介している。本文には「有色」と表記されているだけで明確には書かれていないが,チェンという名前で中国系と想像できるが,人種的にもマイノリティであるこの人物が,いかにクィアを主張しているのか。キリスト教は救済を訴える傍らでさまざまな逸脱者への抑圧を生みだしてきた極めて不寛容な宗教だとは思うが,歴史的にキリスト教社会が行ってきたことと,教義そのもの,個々の聖職者の考え方,そしてそれを支えると同時に変化していく思想でもある神学という,私の理解を越えた複雑な関係が論じられている。続くコラムでは,米軍の女性兵士の同性愛について紹介されている。これも知られるべきだが,なかなか知る機会がない気付きを得られる文章。
7章は米国研究者による文章の翻訳ですが,スエヨシという名前から日系人かもしれません。ここまで,理論的な話もありましたが,具体的な事例の説明が多く,比較的読みやすかったのですが,第7章はやはり読みにくいです。内容的にはアメリカにおけるクィアの歴史において,アジアからの移民,その子孫による活動があまり知られていないが非常に重要だと主張している。最後のコラムは中国のLGBTに関する貴重な報告である。この論文の文末にもありますが,日本は中国,韓国との関係がすっかり冷え切っていますが,韓国発のフェミニズムものが日本で多く出版されているように,こうした国境を越えた運動が連帯することで関係修復につながっていけばいいですね。

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【映画日記】『偶然と想像』『弟とアンドロイドと僕』『ユンヒへ』

2021年1230日(木)

渋谷文化村ル・シネマ 『偶然と想像』
『ドライブ・マイ・カー』が世界各地の映画祭での受賞が続く濱口竜介監督作品だが,本作は東京でル・シネマのみ上映ということで,久し振りに渋谷に出向く。ル・シネマでの鑑賞も久し振りだ。単独監督の短編集というのは日本では珍しいがもっとあっていいと思う。『ドライブ・マイ・カー』と感想にも書いたが,この監督は非常に良質な映像表現をする。フランス映画を彷彿とさせる美学をもつので,開館当初はフランス映画をよく上映していたル・シネマにはよく似合う。その頃よくル・シネマに通っていた私なら本作を大絶賛しただろうが,今の私はちょっと素直には楽しめない作品だった。代官山から青山,六本木という東京の街とそれを思い起こさせる風景のなかで,こぎれいな男女が立ち振る舞う第一話「魔法(よりもっと不確か)」。『ドライブ・マイ・カー』の舞台練習風景に感情をこめない読み合わせというシーンがあるが,第二話「扉は開けたままで」の渋川清彦のセリフはそんな感じ。そもそも,この短編における2人のやり取りは演劇の二人芝居的であり,面白い。この話は人権を優先するばかり窮屈になっていく大学社会を象徴として,現代社会を描いていると思う。第三話「もう一度」は単純に面白い。人間関係の本質をえぐる,こちらも二人芝居。こういう哲学的な試みは面白い。リチャード・リンクレイター作品を思い出させます。舞台が仙台というのがいいですね。なんだかんだで文句があるのは第一話だけで,十分楽しんだようです。
https://guzen-sozo.incline.life/

 

2022年110日(月,祝)

立川キノシネマ 『弟とアンドロイドと僕』
阪本順治監督のオリジナル作品で,豊川悦司主演ということで,期待した。主人公とうり二つのアンドロイドがどのように制作され,それがどのようなもので,何をするのかという素朴な興味もある。映画のなかでは常に雨が降っている。こういう演出はよくあるが,あまり好きではない。古風な雰囲気で仕上げられた作品という点はとても良いが,脚本・演出共にオリジナリティはあるが,何となくそこも古風な感じがしてイマイチ新鮮味に欠ける。アンドロイドが思ったよりもその制作過程の詳細が描かれないのと,活躍しない所も残念。せっかくなので,もう一歩踏み込んだ奇抜さが欲しかった。
https://movie.kinocinema.jp/works/otoutoandroidboku

 

立川シネマシティ 『ユンヒへ』
韓国に住む,離婚した母子が中心の物語。大学進学を目前にした女子高校生が,母親あての手紙を開封してしまうところから話は始まる。手紙の差出人は中村優子演じる,小樽に住む女性ジュン。木野 花演じる,喫茶店を営む叔母と二人暮らしをしている。ユンヒというのは韓国にすむ母親の名前で,幼い頃韓国に住んでいたジュンと仲が良かったという。ここからはネタバレがあります。作品中では明確にはされていませんが,ジュンが20歳頃まで住んでいた韓国で,二人の女性は恋仲にあった。ユンヒが周囲からの冷たい視線に耐え兼ね,二人は分かれ,ちょうどジュンも両親の離婚があって,日本人の父親とともに帰国し,離れ離れになる。お互い過去の記憶と同性愛者であることをひた隠しに生きてきた。ジュンが投函することのなく何度も書いていたユンヒあての手紙を,ふとしたことで伯母が投函してしまう。叔母とユンヒの娘の仲介によって二人が再開するまでの物語。雪景色の小樽を背景に,ゆっくりと進むストーリーがとても素敵な作品。
https://transformer.co.jp/m/dearyunhee/

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