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2023年4月

【読書日記】岡田章宏『近代イギリス地方自治制度の形成』

岡田章宏(2005):『近代イギリス地方自治制度の形成』桜井書店,280p.5,800円.

 

いくつかの学会誌に投稿したものの掲載にいたらず,2020年に最終的に『空間・社会・地理思想』に掲載していただた私の論文「地名の認識論序説」では,松沢裕作『明治地方自治体制の起源』を取り上げ,日本の近代地方自治制度を概観した。今回縁あってというか,英国の地方自治制度について調べるきっかけがあり,いろいろと論文検索をしていたら本書の著者にたどり着いた。もう18年前の著作だが,高価だったので,大学図書館で検索したら所蔵していたので,借りて読むことができた。
まずちょっと驚いたのが,本書は下記のように三章構成となっているが,この3つの文章は1986~1991年の間に発表された論文であり,基本的にはそのまま掲載しているとのこと。私も単行本はいつか出そうと考えていながら着々と時間は過ぎてしまっていて,一番初めに出した論文から30年が経過してしまった。もちろん,多少手は加えようとは思っているが,基本的にはいくつかの論文を組合わせて書籍化したいと思っているので,本書のような存在には勇気づけられる。とはいえ,本書は歴史研究なので,多少時間が経っても記述内容を改める必要があまりないという事情はありますが。
それはともかく,私が最も期待していたのは第二章。とはいえ,第一章はその前史として,ほとんど知らないイギリスの地方自治制度について知る必要があるし,第三章はその後の重要な展開を論じているので,これもしっかり読まないと,ただの歴史の一時点を知ったにすぎず,現代の理解につながっていない。そもそも,私は英国が住民自治の強い地方自治がなされてきた国だという常識があったことさえ知らなかった。ただ,それは1970年代以降のサッチャー政権によって破壊されたということのようだ。本書の著者である岡田氏以外にも山下 茂という方の論文を読んだが(山下氏にも『英国の地方自治』という著書があり,こちらも並行して読んでいるので,ちょっと記述内容の混同があるかもしれない),そうした1970年までの英国の地方自治が19世紀前半にかけて形成されたというのは共通認識のようだ。その辺りをしっかりと学びたいという読書です。

第一章 前史――「名誉革命体制」気における統治構造
 はじめに
 第一節 「土地財産」を基礎とする社会構造
 第二節 「国会主権」原理の実態――中央政府及び国会の脆弱性
 第三節 「法の支配」原理の実態
 小括
第二章 近代地方政府の形成――「共同利益」を実現する団体から「公共利益」を実現する団体へ
 はじめに
 第一節 1835年以前における都市法人の基本性格
 第二節 都市法人の実態とそれに対する政治的対処
 第三節 1835年都市法人法
 小括
第三章 近代地方政府の始動
 はじめに
 第一節 1848年公衆保健法の成立とそれに対する批判――「地方の自己統治」対中央集権
 第二節 1858年以降の改革動向――「自発性の原則」の成立
 第三節 王立衛生委員会と1875年公衆保健法――「自発性の原則」の制度的定着
 小括
あとがき

ヨーロッパの歴史については,修士課程以降そこそこ学んできたと思っているが,今思うとそれは「思想史」という側面に偏っていて,いわゆる制度史的なものに弱く,世界史の教科書レベルで教わることの中身すらおぼつかない状況だと思い知らされる。第一章でも「名誉革命」が登場するが,私はちゃんと説明できる自信がない。また,この時代の土地の制度においてはエンクロージャーという事柄も基礎的な知識として必要だが,そちらもちゃんとは理解していない。またまた先日観たYouTube動画で白井 聡さんがマルクスに関する自書の説明でごく簡単に触れていたのを聴いてなるほどと思っている程度。まあ,ともかく第二章以降で地方自治に関して論じる前段階として,第一章では当時の国の統治のあり方を説明している。国の法律,国=中央政府と地方政府の関係,そして地方自治の基礎である土地に関する考え方。
さて,私にとってもメインである第二章であるが,節のタイトルにもあるように,1835年というのが重要な年である。章や節のタイトルにはないが,1835年に都市法人法(municipal corporation act)が制定された。上記の山下氏は「都市自治体法」と訳し,他の論者やウェブ記事などでは「都市団体法」という訳もある。原語にある「municipal」とは最近「ミュニシパリズム」という語を浸透させた杉並区長,岸本聡子さんのことを思い出す。彼女は例えば水道民営化に反対し,ヨーロッパでは再公営化の流れになっているという事実を用いて,地方の自治権,公共をしっかりとやっていくことを訴えている。まさに,municipalとは,日本で地方公共団体=地方自治体という意味合いが定着していますが,手元の『リーダーズ英和辞典』では「自治都市の」という訳語が最初にきて,関連語でも「市」や「都市」という言葉が使われています。そもそもヨーロッパでは市民権(civil right)という言い方をして,政治的に与えられた権利というのは都市に住む住人に対してのみだった,という歴史があるし,そもそも国(かつては君主)の支配に対して自治を主張するような人たちはある程度の教養のある人だったので,まあ,municipal=都市と考えてもいいのかな,と納得。そしてcorporationの方だが,おそらく「法人」という訳語が適切だと思うのだが,この言葉を見るとどうしても法人≠行政と思ってしまうが,では,法人=私企業かというとそうではない。日本で法人というと,財団法人のような半分公的な団体や,学会のような社団法人もあるし,やはり法人というのは利益に資さないということなのかもしれない。Corporationで企業を意味する場合もあるがcompanyという語もあるし,いわゆるコープこと生活協同組合はco-operativeなので,少し違うが意味合い的にはやはり近いと思う。
さて,改めて1835年の都市法人法(municipal corporation act)について整理すると,municipalには都市という意味と自治という意味を含むので,都市自治体法という訳語は間違ってはいないが,corporationの意味合いが入らないし,都市団体法という訳語は一応「地方公共団体=地方自治体」という日本語の意味合いを想起すれば正しい意味合いを想起することはできるが,なかなか難しい。都市法人法という訳語は「自治」という意味合いを含まないが,まあこの法律自体が都市に法人格を与えることによって自治をもたせると考えれば,これがいいかなと思える。そして,第二章の副題にあるように,この法律によって「共同利益を実現する団体から公共利益を実現する団体へ」というのがミソのようだ。法人格を与えるからといって私的な領域が強くなるわけでなく,公共が作られるということになる。上に,現代の新自由主義的な資本主義の下で公共サービスの民営化が進み,ここ数十年で再公営化の方向性が出てきたと書いた。そういう話をすると,長い間公共が強かったのか,ということになるけど,これはおそらく先進国で経済成長が落ち着いたころに目指された福祉国家の政策として公共が強められたということであり,その歴史はせいぜい60年くらいだと理解した方がいいのかもしれない。ともかくイングランドでは(どうやら19世紀半ばの行政改革はイングランドとウェールズの組み合わせで行われ,スコットランドとアイルランドを含めたものではなかったようなので,ここではイングランドと表記します),この時代の行政改革によって,国家=中央政府から統一的に公共=行政のあり方が作られ,しかし一方でその担い手は地方の団体に与えられる=地方自治という,現代に通じる国の行政のあり方が形成されたということのようだ。本書では,1835年の都市法人法に加えて重要なのが,1834年の「救貧法改正法(Poor Law Amendment Act)」と1848年の「公衆保健法(Public Health Act)」のようだ。当時のイングランドにおける行政区分はいくつかあるのだが,ここで重要なのが,borough(バラ)というものとparish(パリッシュ)であり,後者は「教区」と訳されるもので,おそらく一つのキリスト教会に通う信者の居住範囲かと思う。キリスト教の教義としての救済ということから,救貧法というのがパリッシュの役割としてあり,貧しい者を救う→貧しい者は病気にかかりやすい→病人に医療を(保健)→居住地に衛生を(公衆衛生)という流れがあったと思う。この背景にはいわゆるエンクロージャーといわれるイングランドの歴史がある。小作農として農業を営んでいた人たちを地主が農地を囲い込んで居場所をなくし,居場所を失った農民たちが都市へ流入して,資本主義(工業)の発達が加速するというものだ。都市は人口が集中し,工業生産に伴い住環境が悪化するということも貧民を生み,衛生状態を悪化させたということにつながる。そして,本来の救貧の場であったパリッシュ=農村だけでなく,貧困や衛生状態が都市部で拡大したということにもなる。一方,バラの方は語源的には要塞都市を意味するもので,都市名の語尾にも残っている。イングランドのバラは国王から特権を与えられて市場を開催し,その使用料を徴収することなどを財政の収入源として自治に充てていたということのようだ。市長がいて裁判所があって(この裁判所というのが少し厄介で,明治期の日本もそうだが,現代的に理解する裁判というものより範囲が広いようだ),本書でもバラには「自治邑」の訳語をあてている。バラはギルドの商業的利益の保母を目的とした特権も有していいたという。まあ,つまりパリッシュの農村部とは違った共同の役割があったということだが,経済的利益の政治的介入ともいえるありかたで,腐敗も進んだようだ。それはともかく,法人格というところをもう少し理解したい。法人というと,その団体のメンバーとそれ以外とが明確に区分され,またそのメンバーの中で従うべき規則(規約)がある,ということになろうか。現代の地方公共団体は市長がいて議会があり,役所で働く役人がいて住人がいる。国の法律以外にも自治体独自の条例があり,住人は住民税を払い,住民税を収入として,住民が必要とする公共財の提供をする。そんなイメージ。本書にも「法人格の付与」という節があるが,バラにはすでに14世紀末に法人格が与えられていたという。14世紀には黒死病の流行などの危機があった。そもそも法人格というのは,個人でない団体に人格を与えるということで,当初は宗教法人などに対して考えられたもののようだ。しかし,この時代において宗教的性格のない団体としてのバラにそれを与えたというが,いわゆる自治的な性格よりも国王によって与えられるという意味合いが強かったようだ。ここでブラックストーンという研究者の法人の定義が引用されている。「普遍的継承を維持し,ある種の法的不変性を享有しうるような人為的人格」(p.105)。と,私なりの説明を進めているが,コモン・ローに関する理解など,まだまだ追いつかず,なかなか切りがないが,1835年の法律制定に先だって,「王立委員会報告」が18353月に内閣に提出されたという。その中身は「個々の都市に関する膨大な根拠に裏付けられつつも,急進派の視点から見たと思われる詳細な現状評価が示されている」(p.129)という。おそらく,ここで調査対象となった「都市」とはバラのことであり,この法律に基づいて,当時246あったバラのうち,178のバラの存続が認められたとされている。そして,ここでいう急進派とはホウィッグ党のことであり,保守派のトーリー党と対立していたというのはジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に組み込まれた政治的風刺としては知っていたが,19世紀まで続いていたんですね。ともかく,この法案は急進派の目論見が強いということらしい。ともかく,本書でもこの法律の制定過程について詳しいが,なかなかきちんと記憶されていることは多くなく,またページをめくりながら説明するのも疲れてしまったので,またの機会にしたい。
第三章は1835年都市法人法以降の動向として,先ほど触れた1848年公衆保健法のことや1875年にもこの法律が改定されていること,1858年には地方政府法(Local Government Act)という形で都市法人法が昇華し,バラとパリッシュ,都市と農村の区別なく地方自治が一体化していって,現代にいたるという展開のようだ。この辺りも含め,山下 茂『英国の地方自治』の読書日記でまた詳しく解説したい。

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【読書日記】金田章裕『タウンシップ』

金田章裕(2015):『タウンシップ――土地計画の電波と変容』ナカニシヤ出版,214p.2,000円.

 

著者は日本を代表する地理学者である。専門が歴史地理学なので,ほとんど読んだことがなかったが,『人文地理』の「学界展望」で「文化地理」を担当していた関係で,2020年に出版された『和食の地理学』を読んだ。この本についても読書日記を書いたが,多分に自伝的な内容を含むもので,著者の長い研究歴のなかで,滞在したり訪問したりした外国での経験を含めて書かれていた。著者の専門は日本の歴史地理だが,国際学会などでの海外訪問も多いのだろう。そうした機会で訪れた土地で日本で行ってきた専門領域と重なる部分で関心を持ち,再度訪問したりして知見を深める,そういう態度には頭が上がらない。著者はアラン・ベイカーという英国の地理学者による『地理学と歴史学』という大著の翻訳も手掛けている。
私は訳あって,急に英国の地方自治について調べることになった。boroughという地域区分の単位については知ってはいたがどういう性格のものかは知らなかった。それだけでなく,countyは何となくわかるものの,全く知らなかったparishhamletlordship,名前だけは聞いたことのあるtownshipなど,少しずつ調べ始めた。今回は時間がなく,一人で位置から調べるのも大変だったので,英国での研究歴のある地理学者に連絡を取ってたずねたりもしてみた。そんななか,紹介されたのが本書。この本のことは知っていたが,いわゆるアメリカ合衆国などのタウンシップ制がメインだと思っていたが,紹介してくれた人によれば,この本の中にイングランドのことや,townshipだけでなく,parishについても記載があると聞き,読むことにした。本書はナカニシヤ書店の「叢書 地球発見」という地理学者が執筆するシリーズの一冊で,私もすでに4冊を購入して読んでいた。
著者は条里制についての研究を長らくやっている。そういうものをしっかり読んでいないのでいい加減なことしか書けないが,条里制とは土地を縦横直角に交わる等間隔の境界線によって区画されたものである。典型的なのは平城京とか平安京など(現在も京都市に残る街並み),都市部でのものを思い描いていたが,むしろ農村部に拡がるものが重要らしい。そういう意味でも,アメリカ合衆国の開拓時に行われたタウンシップ制は条里制と地図での見た目はよく似ていて,その辺が著者の探求心に火をつけたのかもしれない。

はじめに
序 土地区画の歴史への視角
I 英国領北米植民地の土地区画
 1 ニューイングランドへの入植
 2 中部大西洋岸の植民地
 3 南部大西洋岸の植民地
II アメリカ合衆国のタウンシップ
 1 西部(ウェスターンランド)
 2 統一的タウンシップシステム
III カナダの領主制とタウンシップの土地区画
 1 ロウワーカナダ属州
 2 アッパーカナダ属州
IV 英国におけるタウンシップの変容
 1 イングランドにおけるパリッシュとタウンシップ
 2 ウェールズ,スコットランド,アイルランド
V 太平洋西方へのタウンシップの伝播
 1 オーストラリア東部
 2 オーストラリア西・中部
 3 北海道で変容したタウンシップ
おわりに

タウンシップの発症はイングランドである。そういう意味では,歴史的に古い順にこの本を構成した方がわかりやすいような気もするが,前半は英国による北米大陸への植民地支配の歴史を概観している。英国の,と書いたが,当初はオランダによる入植があり,現在ニューヨークと呼ばれる都市はニュー・アムステルダムであり,その辺りはニュー・ネザーランドと呼ばれていて,セントローレンス川を渡ったあちら側はフランス領で,ニュー・フランスと呼ばれていた。東南アジアと同様に,北米でもヨーロッパ列強による植民地競争が行われていた。それはともかく,本書では北米の初期植民地である北東部のマサチューセッツ州やコネティカット州の開拓の過程を丁寧に辿っている。当然,植民地支配のため,ヨーロッパ人は大西洋を横断し,海岸から入植する。それはまず川沿いに開拓されていき,内陸へと続いていく。日本の場合にも北海道開拓に屯田兵というのが用いられたが,英国の場合も退役軍人を送り込み,4マイル四方,8マイル四方という方形の土地を給付していった。そうした方形の土地区画で開拓を進めていくのがタウンシップである。その後,目次にあるように大西洋岸を北から南へと拡張し,さらにIIにあるように,西部へと進めていく。場所によってはフランスの入植者が先行して開拓を行い,その場合は川に沿って,川に垂直に短冊状の土地区画などがなされており,この方形に土地を区画していくというタウンシップが一律に実施されているわけではなく,場所場所によってバリエーションがあるところが地理学的である。あ,ちょっとIIIの内容を先取りしてしまいました。いずれにせよ,ところ変われば品代わる的な詳細な検討で,ちょっと私のような読者には退屈な記述が続きます。
ということで,私の目的はIV章。これから読書日記で紹介していきますが,英国の地方自治に関する文献も読み進めていますが,それらには出てこなかった「ハンドレット」という土地区分が登場する。シャイアやカウンティという,一般的に「郡」と訳される土地区分は日本にもあり,分かりやすいが,それらを細分するハンドレットというのはその名の通り100家族を要する土地の単位であり,中部・北部イングランドでは「ワッペンテイク」とも呼ばれていたとのこと。ここは覚えておきたい。またの機会に調べてみよう。基礎的な地域区分の単位としてイングランドでは「パリッシュ」というものがある。ここで,「地域区分」と書いたが,「区分」と書くとトップダウン的に地域を分割していくイメージだが,また土地利用が粗放的だった中世の農村地域では,むしろ区分されない土地の拡がりに対して,パリッシュの場合は教会の管轄を,タウンシップの場合は農家集団が共同して管理する農地の範囲を示し,その境界で画定された範囲の外側には未利用地が広がっていたのだと思う。しかし,III章までで議論されていた植民地では,タウンシップの範囲は隙間なく画定されていて,まさに宗主国が植民地を面的に拡大していくために利用されたと思う。私自身はイングランドの「バラborough」という地域区分を知りたかったのだが,本書にはほとんど登場しなかった。とはいえ,タウンシップについてはイングランドとスコットランド,ウェールズ,アイルランドの違いにまで言及している。
V
章ではさらなる英国の植民地としてのオーストラリア,そして日本の北海道について検討される。北海道(蝦夷)の植民地支配については,一時期それなりに勉強したつもりだったが,開拓地の拡がりというまさに地理学的な観点の知識は不足していたので,本書から学ぶことは大きい。この時期に北米ではタウンシップによる土地区画が進められていて,北海道でもお雇い外国人の指導や米国に留学した日本人技師たちによって,方格状の土地区画が行われた。他のところでは書かなかったが,どうやら方格に土地を整備していくという方法は測量的にも都合がよかったようだ。北海道といえど日本の地形は起伏が多いが,本書に掲載された当時の地図などを見ると,川沿いに拡がる低地にくまなくグリッドが引かれ土地区画がなされている様子に驚く。
本書は副題にあるように,単に平面的な土地の管理の仕方の一つとしてタウンシップを論じているだけでなく,イングランドで生まれた土地管理の技術が,その植民地であった場所に移植され,その土地土地の状況に合わせて制度や技術も変更されていったということを論じている。つまり,タウンシップの伝播と変容であり,文化地理学の大きなテーマであった文化伝播の実証研究でもある。とてもコンパクトながら見事にまとめられた一冊。ただ,見事にまとめられていて忘れそうになるが,植民地支配の負の側面についてあまり論じていないという不満が残らないことはない。まあ,確かにその辺を入れ込んでしまうと,きれいにまとめることが難しくなる気はするが,やはりポストコロニアル研究の成果を入れ込んだ考察があれば,私のような読者にはより刺激的なものになったように思う。

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【読書日記】反トランス差別ZINE編集部『われらはすでに共にある』

反トランス差別ZINE編集部(2022):『反トランス差別ZINE――われらはすでに共にある』81p

 

最近,魅力的なZINEが多く出版されている。ZINEについては以前も何度か書いたが,要は,枠にとらわれない出版物だといえる。なので,国の法律に基づいた出版物につけられるISBNコードもなければ,定価表示もない。最近私が紹介したものはタバブックスが関わっているものが多かったが,この本には著者や発行者の記載もない。おそらく,この本は国会図書館には所蔵されないのだろう。一般の書店での販売も多くないだろうが,やはり最近増えている独立系書店で私は入手した。
さまざまな電子化の波で出版業界が厳しいといわれて何十年か経つが,さまざまな形で出版は生き残ろうとしているし,別に電子化の流れなど関係なく書籍を物理的に手に取り,読み続ける人がいる。レコードだって廃れていないし,残るものは残ると思う。
さて,本書は素敵な装丁に文字のフォントも美しく仕上がっている。物理的に所有することが嬉しくなってしまうという点でも,書物を愛する人に好まれる本である。書物を愛する人はかなりの確率で知識も愛する人であるといえるだろう。近年,LGBTQ+のような言葉が市民権を得,国会でも理解促進法案などが議論にもなっている。しかし,言葉が流通する一方で,その理解は追いついていなく(だから「理解促進」なのだが,この法案は本当に方便だけであり,それすらも議論の余地があるなど提出すらされなさそうな雰囲気),無理解に基づいた性的少数者に対するバッシングというか,理解を進めようとすることに対するバックラッシュなどが盛り上がっている。そういうものに加担しようとする人は,この問題を理解しようともせずに,理解しない人が流したデマに流され,それをすごい勢いで再流通させ,それを根拠に当事者やその支援者を叩き潰そうとする。そういう行為を推し進めるエネルギーとは何なのだろうか?
まあ,それはともかく,性的少数者は全人口の1割程度いるとかいないとかで,知っているか否かを別にして身近なところにいる可能性があるということは広く知られていると思う。しかし,LGBTQ+を構成するひとつであるTことトランスジェンダーについては全人口の1%程度だといわれていて,大多数の人は接する機会がない存在であるらしい。かくいう私も性的少数者については直接的,間接的な知り合いでは存在する。しかし,トランスジェンダーの方の知り合いはいない。とはいえ,100人いれば1人はいる計算だから,身近なところにいる可能性は大きい。つまり,実感として意識することは難しいが,何かの機会で出会う可能性は十分にある。本書のタイトル「われらはすでに共にある」という言葉は,日本に住む外国人問題にもよく使われる。日本は移民政策もろくに取っていないし,のほほんと暮らしている人は,日本が島国で単一民族国家だと思っているかもしれないが,生活の身近に外国人は住んでいる。一時的に観光旅行で訪れた外国人も多いし,留学生として,あるいは本当の意味での技能実習生として,本国に帰る計画で日本に滞在する人も多い。しかし,日本に生活の基盤を築いている外国人も非常に多い,ということを忘れてはならない。グローバル化の時代において,すでに多様な属性の人によって社会は成り立っているのであって,性的少数者などとはいうが,性的多数者というのも幻想にすぎないと思う。個々人は誰とも違う個性を持っているのであって,それこそが多様性の源泉であり,むしろわれわれは一緒などという意識が何らかの形で作られたものにすぎない。
すっかり前置きばかりが長くなってしまったが,本書は多様な著者による短いエッセイ集である。なので,今回は本の内容を紹介するような読書日記ではない。

はじめに
エッセイ
三木那由他「くだらない話がしたい」
ただの沼「べつの言葉で」
青本柚紀「クィアな自認の時間性――あなたにそれが届くまで」
山中千瀬「言葉がほしい」
さとう渓「トランスジェンダーは難しくない」
水上文「シスジェンダーとは何か」
かがみ「「キラキラしたトランスジェンダリズム」ってなんですか?」
福永玄弥「わたし(たち)は忘れない」
高島鈴「その声には応答しない」
近藤銀河「シスターズへ トランスジェンダー差別の嵐が透明にするトランスジェンダー差別について」
堀田季何「メモ・ノワール」
榎本櫻湖「声について」
山内尚「熊で鹿で兎でそして」
呉樹直己「セックストイと自炊飯」
清水晶子「背を向けて,彼方を見つめて,向き合って」
岩川ありさ「雑踏の中でも見つけられる」
トランスジェンダー映画ガイド
児玉美月「世界のトランスジェンダー映画5選」
共にあるためのブックガイド
水上文「私たちの問題――「トランスジェンダー問題」を捉え直す」
中村香住「トランスジェンダーとフェミニズムの共闘点」
近藤銀河「ハンマーの共鳴音を探る トランスジェンダー差別の批評のために」
青本柚樹「割り当てられた性を出てゆく 経験としてのトランス」

私は学術研究を続けているということもあるが,文字に限らない表現に対して,本名を用いない,あるいは文学作家やミュージシャン,俳優のように本名でないにしても,バンドなど団体名を除いて,人の名前として認識しにくいものには抵抗がある。子どもの影響で,また漫画を読むようになったが,よく分からない作者名が多い(とはいえ,私の時代にも「ゆでたまご」や「吉田戦車」などの名前はあったのだが)。文学作家でも人の名前とはかけ離れたものが多く戸惑ってしまう。本書に寄稿した執筆者の中にもそうした著者名が多い。しかし,当初よりは漫画や小説,ミュージシャンなどの名前から抵抗感がなくなったこともあるし,本書に関してはそこは抵抗をなくさないといけないと思った。トランスジェンダー当事者として執筆している人は,親から与えられた名前は,生まれ持った生物学的性と結びついている場合が多く,そこから逃れたいという意識がある。また,普段の生活者として,自分で決めた名前で人間関係を築いている場合,その名前で執筆することでカミングアウトしていない人にまで自分の存在を知らしめてしまうこともある。また,どちらの性にも自分を当てはめようとしないノンバイナリーの場合には,そもそも普通の名前が男女差を前提としている(男の子らしい,女の子らしい名前)ということもある。文字のみの書籍の場合,どうしても私たちはその著者名で,それを書いた人物が男なのか女なのか,日本人なのか外国人なのか,などと区別したくなってしまうが,そういう判断も括弧に入れる必要性を感じる。
この本にはトランスジェンダーの当事者の経験,意見がさまざまに書き込まれている。性転換の手術前後の詳しいことも書かれているし,マスターベーションの記述もある。今回,私が改めて知った(おそらく以前にも触れたことはあったと思うが,きちんと記憶していなかった)ものの一つに,雑誌『現代思想』が20203月号のフェミニズム特集に,千田有紀という人の「「女」の境界を引きなおす」という論文が掲載され,これがトランス差別的な内容であった。フェミニズム専門家内部にもトランスジェンダーの存在を認めずに,差別的扱いをする意見があるというのは聞いたことがあったが,その典型的な一例のようだ。こうした理解を深める知識人からもそうした意見があり,またそれが一定の説得力を持って広がっていくということに,この問題の根深さがあるとのこと。
前半の文章で,私はトランス差別の典型的なものは反知性主義によるものだということを主張したかった。反知性主義とは,知らないということを恥だと感じないことだと私は思っている。もちろん,無知を恥だと思うことが必要だと私が考えているわけではない。物事を知らないことは多いし,それ自体が非難される理由はない。全ての知識を手に入れることは不可能だし,だからこそ知識にはさまざまなものがあり,どの知識を手に入れるべきかの判断をすることも重要である。全くすべての知識の入手を断念している人はおそらく誰もいなくて,自分の生活に直接関係する知識や,自分の人生に重要だと思っている事柄に関する知識はおそらく誰もが積極的に入手するのだと思う。しかし,性に関わるものは自身の性と自身の恋愛対象としての性に関わる知識があれば十分だと考える,シスジェンダーかつホモセクシュアルな人がマジョリティなのだろう。
なんだかんだで長くなってしまった。しかも,まとまりがなく書くべきではないようなことも書いてしまったかもしれない。まあ,でもともかく脳みそが活性化させられる読書だった。この本から分かることは,属性として同じ名前(例えば「トランスジェンダー」)が与えられていても,その個人個人は非常に多様であり,そこから何か一般論として語れるわけではないし,またそこから何か「分かった」という確証が得られるわけではない。そもそも,私自身50年以上の人生を私自身とともに歩んできて,私がどういう人間なのか,人に説明することはできないほど多様であり,その多様性を強制的に統制するようなことはしていないし,そんなことはしたくもない。ともかく,人間とは多様であり不可解なものである,ということを前提として,想像力をはたらかせて他人を慮ることが必要だと思う。

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【読書日記】インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ』

インゴルド, T.著,筧菜奈子・島村幸忠・宇佐美達朗訳(2018):『ライフ・オブ・ラインズ――線の生態人類学』フィルムアート社,317p.2,800円.

 

インゴルド『ラインズ』は昨年読んで,このブログにも読書日記を書いたが,さらにラインについて,そして歩くことについて考える必要性が生じて,続編である本書を急遽購入して読んだ。序文で前著から本書にいたる過程が描かれているが,本書は線=ラインに関する考察において,天候(weather)を主題に据えるという。まあ,環境に関する著作もあるインゴルドだから,それ自体は驚かないが,天候と線=ラインとがどう結びつくのか,謎。そして,このタイミングで本書を手に取ったことを喜んだのが,二つ目として歩くこと(walking)も本書で論じられるということ。こちらに関しては「一連の思いがけない出来事の成果」(p.10)とあるが,歩く時空間の軌跡は線を描く(『ラインズ』の読書日記にも書いたが,時間地理学の時空パスという概念とライン学との相性はいいはずだと思っている)ので,ワクワクする。

第一部 結び目を作ること
1
 ラインとブロブ
2
 タコとイソギンチャク
3
 対象のない世界
4
 物質,身振り,感覚,感情
5
 結び目と接ぎ目について
6
 壁
7
 山と摩天楼
8
 地面
9
 表面
10
 知識
第二部 天候にさらされること
11
 つむじ風
12
 道に沿った足跡
13 風-歩行
14 天候-世界
15 大気=雰囲気
16 滑らかな空間の中で膨らむこと
17 巻きつくこと
18 空の下で
19 太陽の光の筋とともに見ること
20 ラインと色
21 ラインと音
第三部 人間になること
22 人間であるとは一つの動詞である
23 人間発生論
24 行なうこと,経験すること
25 迷路と迷宮
26 教育と注意
27 服従が先導し,熟練が追従する
28 一つの生
29 あいだのもの
30 ラインの調和

一通りは読んだが,本書の読書日記を書くというのは非常に難しく感じる。どうしても読みながら,その記述がどう「ライン=線」と関係するのかを読み取ろうとしてしまうのだが,それが間違いだったのかもしれない。そして,本書のタイトルは「ライフ・オブ・ラインズ」であり,ライン=線そのものが対象だともいえない。とはいえ,ラインズ・オブ・ライフでもないというところも注意しないといけない。前著『ラインズ』では確かに,生命にかかわる線,例えば樹系図の話もあった。本書の副題は邦訳書で追加されたものではあるが,「生態人類学」とあり,天候という自然現象を扱うこともあり,ライフのなかに生命体も含まれると思うが,この書名はそこに限定されずにライン=線の生命を意味していると思う。なので,本来ならばもっと柔軟な意識をもって読まなければいけないのかもしれない。
目次を見て分かるように,翻訳で300ページ程度の本書は30の章に分かれている。テーマごとに三部構成になっている。前著『ラインズ』も決してまとまりのある構成ではなかったが,本書はさらに断片化されていて,なかなかとらえどころがない。ただ,本書ではJ.J.ギブソンが何度も参照されていて,やはり環境の生態学的知覚という問題が関心の中心にあることが分かる。「歩くこと(walking)」については,本書の前にいくつかの文章や論集を発表しているようだが,本書でも13章を含めて何度か議論されている。どういう議論がされていたのかを簡単に説明することは難しいが,インゴルドが歩くという人間行為から多くのことを志向しようとしていることはよく分かる。歩くとは人間が自らのみの力によって移動することであり,速度には制限がある。その速度で周囲の環境の中を移動するということはその近くのあり方がゆっくりと変化する。その移動が屋外であれば,地上付近の大気を頬で感じ,吸い込む。自分の身体の移動が周囲の空気をかき分ける。歩き続けることで発汗し,大気へと蒸発していき,熱を帯びた息が外気に混じる。目に映る風景は移り変わり,視野が時間軸を有して立体に見えてくる。足の動きは接する地面の微地形を感じて,それを掴みながら,身体が垂直を保つように調整する。ともかく,歩くということは時空間上の線を描くことであると同時に,周囲の環境を感じ,自分自身の身体が感情の一部となる。
ここまでは勝手に私自身が考えていることの一部を書いたが,そこから第三部のテーマでもある「人間になること」の議論にもつながる。この主題をインゴルドはオルテガ・イ・ガセットやアンリ・ベルクソンなどの哲学者からだけでなく,第18代米国大統領であるグラントや,500年以上前のラモン・リュイ(ルルスと聞くと,フランシス・イエイツの著作に出てきたかなあ,とかすかに思い出す)などからも示唆を受けている。人間とはあるという存在ではなく,なるという生成であるという発想。それこそが,生の線としての人生を考えるということですかね。
全く,この本に書かれていることを説明していませんが,読後に私自身が思考し,この本のモチーフに関連づけることでなんとなく,消化できてきたような気もします。この時点から再読すると得られることが多いかもしれないな。

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【映画日記】『ジョージア,白い橋のカフェで逢いましょう』『生きるLIVING』『わたしの見ている世界が全て』

2023年48日(土)

吉祥寺アップリンク 『ジョージア,白い橋のカフェで逢いましょう』
ジョージアのクタイシという街を舞台に繰り広げられる摩訶不思議な物語。設定自体は現実味がないし,そもそも冒頭の二人の男女の出会いはあまりにも芝居がかっているし,なのだが,作品全体は舞台であるクタイシという街のリアリティが溢れていて,愛さずにはいられない映画。一つ一つの描写がとても丁寧で,この街に住む老若男女の姿が描かれている。住人の住居のさまざまな施設,日常品,部屋のインテリア,街の土木施設,どれもが真新しくなく使い古されているのだが,それがどれもいい味わいを醸し出している。それは私が日本で生活しているから,ジョージアの生活を当事者としてではなく眼差してしまうということも一つの原因かとは思うが,日本で同じようなことがあると,欠けている茶碗とか,建付けが悪い玄関ドアとか,縁石が欠けている道路とか,そういうものがみすぼらしく感じ,早く修繕してほしいと感じてしまう。でも,おそらく根本的にそれは社会の雰囲気の違いであり,何を生活の優先順位とすべきかの基準が違うのではないかと感じた。この作品で描かれる社会では,人の見た目とか,男女差とか,年齢差,場合によっては人間と犬の違いさえも,どちらが優れているとか力を持っているとかそういう価値観をあまり感じさせず,お互いがお互いを尊重し合い,いろんなものを許容する,そんな社会のように見える。
https://georgia-cafe.com/

 

2023年49日(日)

府中TOHOシネマズ 『生きるLIVING
黒澤 明監督の1952年の映画を,カズオ・イシグロによる脚本で,主演をビル・ナイが演じるという魅力的な作品を中学生になった息子と観に行った。この黒澤映画作品を私は知らないが,舞台を一昔前の英国に移し,違和感なく仕上げられた良質な作品。たまたま19世紀のイングランドの地方自治について調べているが,英国の法体系や行政はなかなか複雑で理解できていない。主役は役人であるということだが,まあそこまで正確な理解は必要ではないが。
この物語は余命を宣告された年老いた役人が,自らの人生を振り返り,反省し,残された時間でやるべきことを見つけ実践するというもの。彼が死んだあと,じわじわとその功績が周囲の人に評価され,未来に向けての指針となる,と希望のある結末になるかと思いきや,そうでもない。その辺りにリアリティがある。実際に,最後の残された時間ではよいことをした主人公だが,それ以外の人生では決してそうではなく,いわゆるお役所仕事を慣例に従って行い,しかもそれを周囲に強要していた人物である。そもそも,自分がなぜそうなったのかも分からず,人生の最後になって気づくのだが,最後に取り戻したものよりも長い人生で失ったものの方が多いと思う。そんなことを考えさせる作品。
https://ikiru-living-movie.jp/

 

2023年413日(木)

立川キノシネマ 『わたしの見ている世界が全て』
予告編はちゃんと見ていなかったが,4人兄弟が喪服姿で立ちすくむというチラシの写真は,西川美和の長編初監督作品『蛇イチゴ』を思い出した。なんだか素敵な映画の予感。予感は的中した。私が知っている俳優は一人も出演していないが,どの役どころも味わいがある。いろんな場面で日本社会の問題を描いているのだが,いわゆる報道ベースで名前が出るようなものはあまりない(「パワハラ」は出てきます)。
一応,次女が主人公。うだつの上がらない食堂&売店を経営する実家と折り合いが悪く,都心でビジネスを成功させた次女だったが,ちょっとした会社との不和から,独立して起業することを目指す。そこにチャンスとばかり母親が亡くなる。実家を売却すれば起業の資金が手に入るということで,父親の葬儀にも参列せずに6年も実家に帰っていなかった次女は,突然帰省し,兄弟たちに家を売ることを提案する。食堂を切り盛りする長男は農家の若い娘と交際中。離婚して実家に戻ってきた長女は近所のリサイクル店店主となれ合いの関係を続け,食堂を手伝っている。次男は大学卒業後も職には就かず,実家で暮らしている。きょうだい3人ともこの実家がないと生活が成り立たないのだが,次女はそれぞれの人生が前に進むようにおせっかいをし始めるが,どれもうまくいかず,自分の起業すらもままならない状況に進展していく。
しかし,当初は自分の目先の利益を目的とした,きょうだいへの介入で,皆が迷惑を被っていたものの,徐々にそれが違う方向にも流れていく。ここから学ぶことは多い。確かに,人は人生において保守的で,ある程度状態が悪くても,その状態がさらに悪化することがないのであれば現状維持を望む。改めて新たな状況へと踏み込むことでこれまで築いたものが崩れてしまうことが怖いのだ。だから,決して仲が良いといえない家族の間でも本質的な議論は避け,差しさわりのない会話でお茶を濁す。しかし,そこから思い切って踏み出すことによって,事態が変わることが決して悪いことではない。とはいえ,思った通りに進展しないことが多く,どうなるかは分からない。私にも母親や兄と正面からぶつかりあえる時がくるのだろうか。
https://tokyonewcinema.com/works/wataseka/

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【読書日記】大山エンリコイサム『アゲインスト・リテラシー』

大山エンリコイサム(2015):『アゲインスト・リテラシー――グラフィティ文化論』LIXIL出版,248p.2,700円.

 

私は『人文地理』の2021年学界展望「文化地理」で,大山エンリコイサム氏の『ストリートの美術』を取り上げた。大山氏は慶応義塾大学在学時にさまざまなライブ・ペインティングのイベントに出演するなどアーティスト活動も行い,東京藝術大学の大学院に進学し,修了している。芸術大学の大学院がどういうことを学ぶのかは詳しく知らないが,おそらく博士論文にあたるのは創作作品だと思う。ただ,教育大学で研究論文の他に教育に関する補助論文が必要になるように,文字による批評的な論文も必要なのかもしれない。ともかく,大山氏はアーティストであると同時に執筆家でもある。それは批評分野だけでなく,かなりアカデミック寄りの文章も書ける人物でもあるということである。
グラフィティ研究は地理学者による有名な論文もいくつかあるので,読んでみた(一つは読み返した)。1本目は地理学者にとっては伝説の論文の一つともいえる社会地理学者デヴィッド・レイによるLey, D. and Cybriwsky, R. 1974. Urban Graffiti as Territorial Markers. Annals of the Association of American Geographers, Vol. 64, No. 4. pp. 491-505.。想像以上にすごい論文だった。フィラデルフィアにおける黒人とプエルトリコ移民のギャングたちが自分たちの縄張りマーキングをするために落書きをしているということ。落書きを特定し,分布図を作成するというものだが,1974年の時点で発表されたと考えるとスゴイ。そして,白人もそうしたギャングの落書きに「WHITE POWER」と上書きするのだ。もう一つは私がちょうど場所について考えていた学生時代に発表されたこちら。Cresswell, T. 1992. The crucial ‘where’ of graffiti: a geographical analysis of reactions of graffiti in New York. Environment and Planning D: Society and Space, Vol. 10, pp.329-344.この論文は後に『In place/out of place』という本に収録されるが,ニューヨークのグラフィティに関する新聞報道を分析し,グラフィティがいかにその場所にそぐわないか,ということを主張する語り口を明らかにしている。後半はキース・へリングやバスキアなど,グラフィティ・ライター出身でアーティストになっていった人たちのことを追い,今度は芸術界(ギャラリーなどの展示空間)でグラフィティがその場にそぐうのかそぐわないのか,という評価について整理している。
こうした地理学的視点によるグラフィティの理解を,本書の同様な記述と対比させ,その理解を相対化できるような読書だった。いずれにせよ,上記二つの地理学論文はグラフィティをめぐる長い歴史と複雑な状況については詳説していないので,非常に勉強になる読書となった。

プロローグ
ターミノロジー
1 作家論
 バンクシー・リテラシー――監視の視線から見晴らしのよい視野へ
 BNE――水の透明なリテラシー
 レター・レイサーズ――ラメルジーと武装文字の空気力学
 絵画とスピード違反――サイ・トゥオンブリとホセ・パルラ
 誘拐と競売――ゼウスと有名性について
 ストゥーンとストリート・アートの「新しいはじまり」
 バリー・マッギーの「界面」
 Obey Me――横断と支配の論理
2 都市と落書きの文化史
 [I]前史(1862-1967)
 [II]グラフィティとプロテストの落書き
 [III]地下鉄の時代とそれ以降
3 現代日本との接点
 スタイル化するシミュラークル――グラフィティ文化とオタク文化
 日本の視覚文化とライヴ・ペインティング的なもの
 匿名性の遠心力――震災から考える
4 美術史に照らして
 アゲインスト・リテラシー
エピローグ
文献リスト

先に結論めいたことを書いてしまったが,目次の通り,本書は4部構成になっている。1部は大山氏がアーティストとして影響を受けた歴代のアーティストについて,既にある批評を踏まえた上で,議論している。トゥオンブリという人物は知らなかったが,大山氏の『ストリートの美術』の副題も「トゥオンブリからバンクシーまで」とあるように,大山氏にとっても重要な人物のようだ。そして,この人物についてはロラン・バルトも論じており,そのバルトの論評を受け,ロザリンド・クラウスも論じているということで,大山氏自身の批評を過去の批評家の系譜に位置づけるという意味でも重要。とはいえ,芸術に詳しくない私にとっては,各アーティストの作品画像が提示されないまま議論が進むので,かなり消化不良なところはあります。しかし,おかげでバンクシーに関してはかなり理解が進んだような気はします。
上記のような目的から,私にとっては2部がいちばん読み応えがありました。確かに,単なる「落書き」という意味では,人間の根源的な表現の一つといえるかもしれない。著者はグラフィティの起源を「前史」として,人間の長い歴史の中での落書きについても論じている。面白いのは,日本の江戸時代における「席画」というのもその歴史の一部に含めていることだ。レイの研究のように,ギャング同士の抗争の象徴という側面についても言及し,地理学者の論文にも登場するTAKI1183はもちろんのこと,地理学者の論文には出てこない,TAKIと同時代のライターに関してもしっかりと説明されている。そして,ニューヨークでの本格的なグラフィティ文化の拡大を,「地下鉄の時代」としている。確かに,街の壁への落書きは場所固定的で縄張りの主張には適しているが,地下鉄への落書きはそれと違った意味を獲得する。それが,グラフィティのアート化へのきっかけの一つといえるのかもしれない。地下鉄は移動するギャラリーのように,そのグラフィティは不特定多数の人の目に触れるようになる。クレスウェルも描いているように,1970年代前半のニューヨークはこの地下鉄のグラフィティをめぐり,それを一掃しようとする行政とグラフィティ・ライターをギャラリーなどに囲い込んでいこうとするアート業界とが同時並行的に進んでいく。
著者は当然,アートへの流れとしてグラフィティを考えているので,その図像の方に関心を向ける。グラフィティの多くは本名ではなく,ライターとしての署名でもあった。古くから絵画はそれが誰によって描かれたのかを示す書名が付けられていたが,グラフィティは署名そのものが作品であり,また作品の作者であるという意味で同一化しうるのみの名前であり,作者という実際に生活する人間と結びつく必要はないものである。まさにボードリヤールのシミュラークル概念に適したもので,著者もボードリヤールを引きながら論を展開する。しかし,そこで興味深いのはボードリヤールのような論者も実際にグラフィティについて言及していることである。グラフィティ・ライターの署名はTAKI1183のように,名前+数字の組み合わせが多い時代があり,この数字は番地など特定の場所に結びついたものが使われていたようだ。しかし,徐々に数字の利用はなくなり,文字の図像自体も抽象度を増し,装飾されていく。そして,しまいにはステッカーを作ってベタベタと貼っていくところまで達する。
議論は既に3章に入ってきてしまっているが,そこではグラフィティ文化とオタク文化の類似性について,東 浩紀の「動物化」に議論に即して論じている。私は東 浩紀のデリダ論は読んだものの,その後の議論にはついていけず,「動物化」の議論に関しては読まず嫌いというか,ちょっとした嫌悪感で読めないでいる。なので,ここでの議論が正しいのか,私自身に対して説得的なのかもよく判断できない。それはともかく,日本での新しい時代の話に移り,『ストリートの美術』でも論じられていたライブ・ペインティングに議論が進む。日本のいわゆる路上でのグラフィティの話をもう少し知りたいのと,路上でのグラフィティとライブ・ペインティングの関係にも興味がわいた。路上でグラフィティを描くという行為は基本的に誰にも見られてはいけない。それはまさしく違法行為であり,すぐに捕まってしまうからだ。一方,ライブ・ペインティングは描くところを観客に見せるわけだから,そういった意味では正反対だといってもいい。ただ,どちらも即興性は共通している。見る側に立てば,ライブ・ペインティングというのはアーティストが作品制作をしている姿を見られる貴重な機会であり,それがストリート・アートであれば,上記したような理由でなおさらではないか,とも考えられる。
アーティストにとって,2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は大きなインパクトを与えている。大山氏も5月に南三陸町を訪れていてその際に発見した,がれきの中のエアロゾルによるアルファベットの落書きについてあれこれと考察している。そして,最後に自身のモチーフであるクイック・ターン・ストラクチャーについて説明していて,それがなかなか興味深い。
さて,読後思い出しながらこの読書日記を書いたこともあるが,本書は目次を見ると理路整然と組み立てられているように思われるが,実際には書いてあったと私が記憶していることを改めて本の中に見つけ出すことは難しく,私の誤った記憶で書いている部分があるかもしれない。また,本書は著者の初めてのまとまった著作であり,そういう意味では『ストリートの美術』と比べて粗削りな印象を受けた。まさに,私自身が昔の論文を読み直すような感覚である。記号論的な解釈の印象が強く,私自身もそこから論文を書くということを始めたわけだが,徐々に興味・関心が移っていることもあり,記号論的な解釈に違和感を覚えることも少なくなかった。とはいえ,本書は日本語でグラフィティに関して書かれた初めての本であり,学術的な意味でも大きな価値があると思う。本文中でも英語で書かれた主要なグラフィティ論・研究書を何冊も参照しているし,それ以外にも巻末にはグラフィティに関する文献リストが丁寧に作成されて掲載されている。しかし,ここまで文献調査をしていながら,上述のレイやクレスウェルといった地理学者の文献が抜けているのは残念というより不思議だった。

 

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【読書日記】安田浩一『団地と移民』

安田浩一(2022):『団地と移民――課題最先端「空間」の闘い』KADOKAWA270p.920円.

 

本書は2019年に出版された単行本に加筆修正し,角川新書として出版されたもの。著者の安田浩一さんは,私がここのところよく観ているYouTubeチャンネル「NO HATE TV」に野間易通さんと2人でやっているノンフィクションライター。以前は女性週刊誌で下世話な記者をしていたそうだが,2001年にフリーになって,日本中に巣食うひどい話を中心にジャーナリスト活動をしている。
そんな安田さんは静岡県出身だが,親が転勤族でいろんな場所に住んだという。そんななか,町田市の山崎団地に住んでいたことがあるという。本書の冒頭に,2019年自身の母親とともに42年ぶりに山崎団地を訪れた時のことが記されている。「団地の生活にもっとも溶け込んでいたのが彼女だった。」(p.15)と書く。もちろん彼女は母親のこと。私も団地で育った。山崎団地ほどではないが,私の育ったわしの宮団地は3街区まであり,私の住む2街区が一番大きく,42号棟まであったので,全部で100近い建物があり,棟によって戸数は違うが私の住む棟は階段が5つあり,左右5階までで10戸,合計50世帯が住む。3~4千世帯は入居できる団地だったのではないだろうか。団地の子どもたちだけが通う幼稚園と小学校に通い,同じような家族構成が多く,子どもを通じて家族ぐるみの付き合いがあったのは間違いない。当時は本当に勝手に友達の家に上がり込んで過ごしていた。私は小学校を卒業した長男を育てているが,小学校低学年までは放課後に友達と遊ぶ約束すら,親同士の連絡(しかもSNSなどでつながってなくてはならない)が不可欠で,お互いの家に遊びに行こうものなら大変だ。
まあ,ともかく1964年生まれの著者,そして1970年生まれの私にとって団地は特別な想いのある場所なのだと思う。近年,団地を題材とした映画が多い。実写のフィクションがあれば,ドキュメンタリーもある。アニメ作品も最近は増えている。それは,本書にも書かれているが,60年前に戦後復興の希望として登場したいろんな意味で新しい生活を体現した「団地」という存在が,古臭くなり,憧れどころか高齢者の吹き溜まりとなり,そして外国人たちが集住する場所となる,というように変容したことにある。当然のことだが,変容が悪いわけはない。しかし,語り口としてはまさにそれが問題であるかのように語られ,そう語られることで実際の問題が起きてしまう,という側面もある。ともかく読んでいこう。

まえがき――団地は「世界」そのものだった
第一章 都会の限界集落――孤独死と闘う
第二章 コンクリートの箱――興亡をたどる
第三章 排外主義の最前線――ヘイトへ抵抗する
第四章 パリ,移民たちの郊外――レッテルを塗りつぶす
第五章 残留孤児の街――歴史の中に立つ
第六章 「日本人」の境界――差別と分断に屈しない
あとがき――団地は,移民のゲートウェイとなる
新書版あとがき――差別を打ち返す言葉の銃弾
主要参考文献

本書は学術書ではない。基本的に研究者が書く一般向けの新書とは異なり,団地とは何か,その歴史についてもまえがきで簡単に辿られている。第一章はまず高齢化問題。本書には団地に住む人々の属性に関する統計データなどは出てこない。ただ,統計データなどで語られる全体の状況では把握できないような,当事者の声を聞き取っているのがジャーナリストによる団地論である。団地建設の初期から長年住み,高齢者になった住民への聞き取りを行い,入居当初の憧れやその新しい生活が,今では単身高齢者の孤独死が大きな問題となっている。本書の面白いところは,そうした問題を抱えながらも当事者たちがなんとかその状態を打開しようとしている姿をも描いていることだ。孤独死をなくそうと,さまざまな取り組みをしている人の話がある。第二章では日活ロマンポルノの「団地妻」シリーズについて詳しく追及しているところも面白い。
第三章は団地に外国人が多く済むようになった問題を論じている。元々日本人が住んでいた団地が高齢化し,空き部屋に外国人が住むようになって生じた問題を,日本人/外国人の軸としてだけではなく,世代間の問題としていることが重要である。引退し,一日のほとんどの時間を団地で過ごす日本人高齢者に対し,労働者として来日した外国人は日中は働いており,団地にはいない。団地という街は私が育った団地がそうであったように,建設された時期に小さな子どもを持つ同じような世代が一斉に入居し,そのまま年老いており,いわゆる世代の混成は起こらなかった。そこに多国籍の混成が起こってしまうのだから,問題は複雑だ。そして,反ヘイト運動にも与する著者が特に強調しているのは,団地のみの問題ではなく,そうした外国人が集住するというところに付け込んで,ヘイトスピーチを行うようになった右翼集団の存在である。団地に住んでいる日本人高齢者の困りごととは別次元で,かれらは「外国人はこの国から出ていけ」と叫び,それが報道され,SNSで拡散され,全国のネトウヨたちの支持を受け,日本中の団地というものがそういうものであるように認識されていく。しかし,当の団地では日本人居住者たちが,外国人との相互理解を促進するような活動も行っていることが知らされる。
第四章で,著者は何とパリへも取材に行っている。私もパリの郊外団地の移民の若者を描いた『憎しみ』のような映画も観ていたが,基本的に移民政策のない日本と違って,旧植民地から大量の移民を受け入れざるを得なかったフランスではアルジェリアを中心とするアフリカ諸国からの移民が多く,かれらもまた郊外の団地に集住しているのだ。北アフリカのマグレブ諸国はイスラーム教徒も多く,そのなかからはイスラーム過激派に影響を受け,フランス国内のテロ活動に身を投じた者もおり,問題は深刻だ。ある意味では日本とは比較にならない。フランスの中でもそうした団地は危険視されているが,著者は実際に取材のために訪れ,そうした訪れたことのない人たちが流布するイメージとは異なり,ごく平凡な日常生活が営まれている風景が広がっていたという。とはいえ,当然問題がないわけではない。移民の多くは貧しく,職を得られていない人も多い。政府や自治体からの支援も薄く,支援団体がかれらの生活を支えている。この取材にはフランスをフィールドとする日本人社会学者が協力しているという点は面白い。また,この章では中国人が集住する団地についても取材をしており,そちらも興味深い。
第五章は広島の再開発団地の話である。地理学者の本岡拓哉氏の『「不法なる」空間に生きる』は戦後の日本で,住む場所もない人々が焼け野原にバラックを建てて生活をしてきた姿が多く描かれている。そうした人たちには帰還兵や植民地からの引揚げ者,そして植民地からさまざまな形で日本にやってきた人たち,そんないわば日本政府から日本国内に住むことを歓迎されない「棄民」が多い。広島は扇状地に拡がる都市で,海に注ぐ川が多い。戦後の広島といえばもちろん原爆によって破壊されたわけだが,河川敷というのは本岡氏の研究でも重要な土地で,バラックを建てる人たちがここなら人の迷惑になりにくいだろうと積極的に選び集まって暮らしてきた土地である。そういう意味で,広島でもそうした地区は多く,ごみや排泄物はそのまま川に落とされた。そういう人々の必死な生活空間は,復興してきれいになっていく都市行政にとっては邪魔者以外ではなく,さまざまな形でかれらを追い出し,再開発がなされていった。広島でも例外なく,バラック街を撤去し,そこに1978年に最高20階建ての基町アパートが建設された。本書ではこのアパートの清掃員として30年以上働くガタロという方の話を聞き取っている。清掃員をしながら雑巾などの事物を描く画家でもある。またこのアパートは中国残留孤児の受け入れともなったとのことで,近くの公民館で日本語教室が開かれていたなどの話が展開する。
最終章は愛知県の保見団地の話でまとめられている。役所広司が主演する『ファミリア』という映画があったが,トヨタ関連の労働者として日系ブラジル人が集住するこの辺りの地域がモデルとなっているように思われる。保見団地はそうしたブラジル人が多く住む地区で,政府による移民政策の日系人の扱いなどの歴史が説明され,現地で起こっている問題を,それを実際に住民がどう解消しようとしているかなども含め報じている。本書の副題に「課題最先端空間」とあるが,彼が人生の一時期住んでいた「団地」に彼が現在ジャーナリストとして取り組んでいる日本の問題が,凝縮しているということを訴える一冊だ。学術書と違って,メディアなどでイメージ的に語られる「問題」の実態を明らかにしようとするのではないが,イメージとは違う側面を強調しようとしている。その違う側面の重要なひとつのことは,問題といわれているものを解決しようとしている人たちの存在である。そこにある種の希望を見出し,可能なら自らのジャーナリスト活動もその希望の位置役を担いたい,そんな本だと思う。

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【映画日記】『オットーという男』『グリッドマン ユニバース』『妖怪の孫』

2023年330日(木)

立川キノシネマ 『オットーという男』
小学校を卒業する息子が観たいといっていて(まだ一人で映画は行けないようです),観に行ったトム・ハンクス主演作。実は,トム・ハンクスはなぜか少し苦手。私も中年男性でありながら,クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』と似たような,一人身になり生きる礎を失った高齢男性が周囲のおせっかいによって再起するような物語も,なんだかんだでマスキュリンな雰囲気で苦手。思った通りの展開だったが,終盤でなぜか泣かされてしまった。息子は「普段使わない涙腺が緩んだ」なんて12歳とは思えない感想だったが,なんだかよくわかる。こみあげてくる涙というよりも,力を抜いて物語を受け入れた時に自然と流れる涙という感じ。古くからの黒人の友人と新しく来たメキシコ系移民という設定はいいと思う。
https://www.otto-movie.jp/

 

2023年41日(土)

府中TOHOシネマズ 『グリッドマン ユニバース』
春休みの映画サービスデー。子ども二人と観に行ける作品あるかなと前日に発見した作品。男女差と年の差が徐々に離れてきた兄妹の二人とも予告編で,これだったら観てもいいということになり,近所の映画館へ。円谷が絡んでいるアニメ作品で,これまでのアニメ作品のさまざまな要素が合体したような,いわゆる「世界系」といえるのかな。ともかく,展開が奇抜でついていけない。というか,物語の筋や設定を理解しようとしてはいけないのかもしれない。こちらの作品も自分のなかの抵抗感をなくして素直に受け入れることが重要ということか。
https://ssss-movie.net/

 

2023年44日(火)

新宿ピカデリー 『妖怪の孫』
菅前首相を追ったドキュメンタリー『パンケーキを毒見する』のスタッフたちによる安倍元首相を,その祖父である岸 信介元首相にまで遡って描くドキュメンタリー。『パンケーキを毒見する』も一緒に観に行った息子と観に行った。劇場で観られないかもと思っていたが,なんとか観ることができました。平日の昼間でしたが,劇場はほぼ満席。そして年配の方が多かったです。前半は安倍元首相の悪事について整理していますが,正直言って新鮮味はありませんでした。しかし,タイトル通り,昭和の妖怪の異名を持った岸 信介のことからその娘婿である安倍晋太郎(その父親も国家議員),その息子である安倍晋三という系譜については知っていることもあったが,本作の一番の見どころは,安倍晋三を子どものころから知っているジャーナリストの語り。家庭環境のことや,大学時代の友人へのインタビューなどを通じ,安倍氏の政治がいかに個人的な歪んだ心情によって中身がないものとして行われたかがよく分かる。そして,この作品の監督の制作動機が「安倍はなぜそんなに選挙で強かったのか」という素朴な問いにあることは,この統一地方選挙が行われている時期に上映されていることと併せてしっかりと考えなければならない。安倍氏は死去し,それに伴って自民党と統一協会の癒着関係が追及されてはいるが,その後の選挙でも自民党の支持が急激に下がったわけではない。監督はそのことを非常に深く憂慮し,一種の諦めの境地にも立っている。本当にこの国を滅ぼさないために私たちは何ができるのだろうか。
https://youkai-mago.com/

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