« 2023年4月 | トップページ | 2023年6月 »

2023年5月

【読書日記】小出裕章『フクシマ事故と東京オリンピック』

小出裕章(2019):『フクシマ事故と東京オリンピック』径書房,149p.1,600円.

 

以前紹介した『東京五輪がもたらす危険』の読書日記で言及した本書。この本には本書の要約が掲載されていたが,実際に読んでみると,文章は決して長くない。著者によるマニフェスト的な文章を,英語,ドイツ語,フランス語,スペイン語,ロシア語,中国語,アラビア語に翻訳して併記し,それに加えて福島の写真が多数掲載されているものである。
著者は1949年生まれで,幼少期の経験から核の平和利用を夢見て東北大学工学部原子核工学科に入学する。しかし,原子力について学べば学ぶほどその危険性に気づき,京都大学原子炉実験所の教員となっても,原発をなくすための研究と運動を続けている,と著者のプロフィールには書いてある。福島原子力発電所の事故以降,著書が多く,『隠される原子力・核の真実――原子力の専門家が原発に反対するワケ』(2011年,創史社)などを出している。
本書は「2018年7月…ひとりの日本人女性からの依頼を受け,「フクシマ事故と東京オリンピック」と題する文章を書いた。その後それは英訳され,同年10月,世界各国のオリンピック委員会などに書簡として送られた。本書はその原稿を基に一部加筆・修正したものである。」(p.8)とある。表紙には「真実から目を逸らすことは犯罪である。」とあり,帯には「忘れていませんか?この国は,現在も,100年経っても,「原子力緊急事態宣言」化にあることを――。《世界に告ぐ》東京五輪は即刻中止!」と書かれている。
本書がオリンピックに反対する理由は,基本的に『東京五輪がもたらす危険』と同じであるが,原子力の専門家とはいえ,本書で詳しい説明をしているわけではない。一気に読めるような短い文章で,力強い文章で福島原発から発せられた放射能がどれだけ強力なものでそれらに対処するには,オリンピックなぞにお金や尽力を注いでいる余裕などなく,まさに国を挙げて注力する必要を訴える。とはいえ,その大事業は,日本に現在住む人が誰一人生きている間に目撃できないような,時間がかかるものである。
『東京五輪がもたらす危険』の読書日記で,書こうと思っていて忘れていたことが一つある。本書では見開き2ページを使って大きな文字で書かれているが,「日本国政府が国際原子力機関に提出した報告書によると,その事故では,1.5×10の16乗ベクレル,広島原爆168発分のセシウム137が大気中に放出された。」(pp.34-35)とある。しかも,溶け落ちた原子炉内には約8000発分のセシウム137が存在し,大気中の168発分に,海に放出されたものを加えると約1000発分が現在までに環境に放出されたという。
私は1970年生まれで,冷戦の時代に育った。第三次世界大戦が起これば核戦争になり,全世界が滅びるという言説が溢れていたし,実際に第三次世界大戦,核戦争後の時代を描いた漫画なども多かった。でも,変な言い方だが,実際に人間が住む街に落とされた原爆は広島と長崎という都市を壊滅させたが,変な言い方をすれば当時の原爆の威力はその程度である。もちろん,当時であっても投下された原爆の威力はその規模の都市を壊滅させるだけの容量に設定されていたのかもしれないし,現在の原爆はそれ以上の威力を持つのかもしれない。しかし,原爆で一つの国を全滅させるには何発必要なのだろうか,世界を滅ぼすには全世界にある核兵器でできることなのか,素朴な疑問がわいた。下記のサイトで「世界の核兵器保有数(2021年1月時点)」が示されている。それによれば,1発の威力は広島原爆に比べてどの程度かは分からないが,13,400発の核兵器を保有しているとある。
https://hiroshimaforpeace.com/nuclearweapon2021/
1945年に広島に原爆が投下された当時,疎開などで移動していた人も含め,広島市内には35万人の人口があったという。もちろん,壊滅といってもその人口が全て死亡したわけではないのだが,例えば現在の世界人口を80億人とする。現在の原爆の威力で50万人を死亡させられるとすると,全人口を全滅させるのに単純計算で16,000発が必要となる。そう考えると,現在保有されている核兵器の保有数でほぼ全滅することができる。とはいえ,核兵器の殺傷能力は主に爆発によるもので,放射能によるものは付随的なものであり,78年前に被曝して,現在もご存命の方もいる。また,都市部での爆発は効果的だが,人口密度が低い場所での爆発による殺傷能力は低い。なので,この計算はまったくもっていい加減ではあるが,そんな思考実験は行える。
話はそれたが,私が漫画で学んでいたような核戦争後の世界は,確かに全ての核兵器保有国が全ての核弾頭を使えば世界全滅は可能であるといえる。しかし,核兵器を用いた戦争が始まり,全ての核弾頭を使うような事態は想像しがたい。それはもうやけくそになって地球を滅亡させようという意図のもとでしかありえない。しかし,一方で,上記福島原発の放出したセシウムを考えると,原子力発電所は爆発による即座の殺人は行えないものの,放射能の量としては原爆の8000発分というのだから,世界にある全ての原子力発電所が核兵器によって攻撃されるということを考えたら,かなり恐ろしいことにはなるだろう。
いずれにせよ,本書は一人の読者である私にこんなことを考えさせるような文章の力を持っており,東京五輪はほぼ無観客ではあったものの開催されてしまい,そこに投入されたお金と資材と労働力の一部は福島原発事故の後始末に投じられるべきものであったことは確かであった。まだ東京五輪が終了して2年が経たないが,この「復興五輪」の教訓はもうかなり忘却の彼方へと追いやられている。国会では,原発の再稼働や可動年数の延長,さらには新規増設までも目論んでおり,軍事費増額の財源として震災復興のための資金からの横領まで議論されているという。私たち市民は何度でもこの事故のことを訴え続けていかなくてはならないのだろう。

| | コメント (0)

【読書日記】江沢正雄ほか『長野五輪 歓喜の決算』

江沢正雄ほか(1998):『長野五輪 歓喜の決算――肥大化五輪への批判と提言』川辺書林,269p.1,750円.

 

1998年長野オリンピックに関しては,すでに天野恵一編(1998)『君はオリンピックを見たか』(社会評論社)を読んでいる。この本には1988年の名古屋招致の際に反対運動をしていた岡崎 勝さんも寄稿していて,本書の筆頭著者である江沢正雄さんもさまざま雑誌に掲載した記事を再録している。江沢さんは長野在住の染物職人だったと思うが,現在続いている札幌冬季オリンピック招致反対運動にも連帯しているし,もちろん2020年東京オリンピックの際にもたびたび反対集会に参加していた。彼自身,長野大会については単著『オリンピックは金まみれ』を書いているが,今回はまずこちらを読んでみた。今読んでみても,本当に冬季オリンピックの問題が,考えられる限りに網羅的に論じられている。オリンピック批判というのは実のところ本当は昔から繰り返されているのだが,ほとんどの批判や主張,提言は無視され,暴力的なメガ・イベントとして今日まで生きながらえ,突き進んでいるともいえる。それこそ原子力発電所はドイツで完全に停止したが,核兵器のように,戦争そのもののようになくすことが難しいのかもしれない。

知らぬは県民ばかりなり!~招致から開催までの経緯と諸問題:江沢正雄
シンポジウム報告
1 議論と批判報道を欠いた長野五輪~リレハンメルと長野における民主主義の差異:ダグ・レオナルゼン
2 スポーツマフィアIOCサラマンチのご濫行~IOC委員の腐敗構造:谷口源太郎
3 地元が背負った施設建設費はスポンサー負担に~生態系および地域社会に関する調査と提言:ピーター・バーグ
4 実行なき基調植物の移植~ミヤマアオイ・ラン科植物にみる移植の実態:矢崎利和
5 「大政翼賛」から「体制翼賛」へ~区(自治会・町内会)にみる翼賛性と全体主義:徳武正司
6 戒厳令下の奇妙な「平和の祭典」~外国人労働者と長野五輪:中村葉子
7 五輪は災害の芽をつくった~小谷村土石流・浅川ダムの災害と長野五輪:内山卓朗
歳出10%カット以外に借金返済の途はない!~長野市の財政運営と招致運動の実相:今井寿一郎
●現地報告1●長野市編
環境五輪が生んだエネルギー消費都市の後始末~五輪によるエネルギー消費の増大と環境施策のお粗末さ:野池元基
●現地報告2●大町・白馬編
上意下達の巨大イベントから内発的地域づくりへ~認識を欠いた「費用対効果」と「優先順位」:寺井篤樹
●現地報告3●山ノ内編
岩菅山へのこだわりと16日間~子どもたちとボランティアを見つめながら:千葉明日香
●現地報告4●北信編
まったく達成されなかった「自然との共存」~北信地域の環境変化と自然観:渡辺隆一
●現地報告5●南信編
お祭り騒ぎを支える貧しきスポーツ文化~雰囲気づくりキャンペーンの内実:清川博明
●シナリオ&コラム●
判断を放棄したままの「感動」~市民生活とオリンピックの中身:友田三津夫

さて,1988年名古屋オリンピック招致反対運動の書である『反オリンピック宣言』(風媒社,1981年)には,招致反対の運動をしていた組織体の情報や,その運動に関する年表が示されていたが,本書にそういう情報はない。本書は目次にもあるように,シンポジウム報告と現地報告という体裁を取っていて,これを文字通りに理解すれば,かなり大規模な集会が開催されたことになっている。本文には著者の所属が書いてあるので,書き出してみよう。

江沢正雄:オリンピックいらない人たちネットワーク
ダグ・レオナルゼン:リレハンメル大学教授(1998221日)
谷口源太郎:スポーツジャーナリスト(1998221日)
ピーター・バーグ:プラネット・ドラム協会理事(1998214日)
矢崎利和:オリンピックを考える会・諏訪(1998214日)
徳武正司:市民オンブズマン長野の会(1998215日)
中村葉子:信州外国人人権ネットワーク(1998215日)
内山卓郎(目次と本文で「郎・朗」の表記が違う):浅川ダム住民訴訟原告団・団長(1998214日)
今井寿一郎:市民オンブズマン長野の会・長野大学講師
野池元基:ルポライター
寺井篤樹:大町市議会議員
千葉明日香
渡辺隆一:信州大学教育学部助教授
清川博明:オリンピックをみつめる飯田の会世話人
友田三津夫:無所属新人

このように書いてくると,シンポジウム報告には日付がついていて,3日間にわたって行われたことが分かる。そして現地報告には日付がない。谷口源太郎さんに関しては,『日の丸とオリンピック』という著書を1997年11月に出していて,長野に関する記述もある。レオナルゼンという人は,『スポーツ社会学研究』にも1998年にリレハンメル大会に関する論文を寄せている(レナードセンという表記だが)。反オリンピックの市民運動という観点で見ると,矢崎さんが諏訪で,清川さんが飯田で活動をしていて,反オリンピックのための組織を特別に作らないものの,人権団体やオンブズマンのような既存の組織内で運動をしていた人もいるのかもしれない。そうした長野県内の運動体を組織したのが江沢さんだといえるだろう。
まず,巻頭で江沢さんは特にお金の問題を中心に1998年長野大会の問題を総括している。今でも大きなものとしていわれるのは,大会後長野市に大きな負債を生じさせたこと,招致決定に賄賂等の不正疑惑があること,大会開催に向けて整備された長野新幹線と高速道路,一校一国運動(レガシーとして語られることが多いが,学童動員としても批判されている),競技施設建設による環境破壊。これら大枠を江沢さんの文章で確認し,さらに突っ込んだ議論が次章以降で繰り広げられます。
レオナルゼンさんはリレハンメル大学教授ということで,長野の前の大会だった,1994年リレハンメル冬季オリンピック大会との比較で論じている。いずれにせよ,このメガ・イベントが開催されてしまったということにおいては,リレハンメルも同罪というか,必ずしも手放しで称賛されるものではないことは前提としなくてはいけない。しかし,リレハンメルでは,環境保護,子どもの問題,女性の問題を扱った三つの反オリンピック運動があったという。しかも,この運動には政府の資金援助があったという。しかし一方で,ノルウェー政府はオリンピック開催の可否に関する住民投票は行わなかった。大会開催前に住民を含めた形で,オリンピック開催に伴う社会への影響を分析し,また施設の開催後の利用について,また資金の使われ方についても議論されたというのが,長野とは異なる点である。
谷口さんの報告はタイトル通り,当時のIOC会長サラマンチのことを書き,IOC委員のことをスポーツマフィアと呼んでいる。ピーター・バーグという人は「プラネット・ドラム協会理事」という肩書になっている。協会については「地域社会の持続可能性に観点を置きながら,草の根レベルでエコロジー運動・地域づくりにアプローチするために1973年に設立されました。」(p.67)とある。1995年に初めて白馬を訪れ,勉強会などを通じ地元の人と交流し,「見張りキツネの眼」と名付けた視点で市民の人たちと,大会組織委員会が主張する「環境に配慮した大会」づくりがなされるかどうかを観察したという。調査結果に基づき,この協会は主に「生態系の復興について」と「地元社会および生活様式について」という二項目で報告書を作成し,IOCと大会組織委員会に声明文を送ったりするなどの活動をしている。矢崎さんの報告もタイトル通りで,競技施設の建設に伴って,貴重な植物が移植されたとのことだが,その経過をたどっている。現在進行形で行われている沖縄辺野古のサンゴの移植と同じように,とても専門家の手による丁寧なものではなく,ほとんどの移植が成功していないという。徳武さんの報告は短いもので,長野市における自治会・町内会の実態とオリンピックにおける役割を論じていますが,事後報告的な簡単なもの。中村さんの報告も短く,大会前の施設建設に必要な労働者の一部を外国人が担ったことを知らせてくれます。フィリピン人が3000人,その他タイ,スリランカ,インドネシア,バングラディシュなどの人々が「開会式場,選手村,オリンピック道路,新幹線,その他これに付随する工事に関わったと思われます。」(p.95)という。その上で,長野県警は「ホワイトスノー作戦」と題し,暴力団・薬物・売春の取り締まりを強化したという。
内山さんの報告は少し込み合っていて,簡単には説明できない。長野県は山間の土地ですから,スキーなどの冬季競技に向いているわけですが,ダムが建設される場所でもあり,オリンピックに向けて道路も新設される。そんななか,1996年12月6日に土石流が発生し,建設労働者14人が死亡する事故になったという。今井さんの報告は長野市の財政に関するもので,1987年に県議会議員に当選し,初期の招致活動に関わったという。県議会議員の中で唯一,オリンピック招致に反対し,議会の一般質問として招致反対の意見を述べた。その後は方々からバッシングを受けたという。その後も今井氏は長野市議会議員なども努め,招致反対を訴え続けたが,当時は日本共産党も含め反対の意見はなかったという。
現地報告の1として,野池さんはオリンピックに伴うエネルギー消費を訴えている。開会式会場自体はもとより,そこにつながる道路沿いには無用なほどの街灯が設置され,道路を必要以上に煌々と照らしているという。どの施設にどの程度の電力が使われたかまでは分からないが,長野市の決算書を調べ,大会開催前後で電気代もガス代も倍増していることを示している。その一方で,市民には節電を呼びかけ,大会自体も環境やエコを訴える。また,オリンピック関連施設の建設に伴って,農地が減少したことも指摘している。現地報告の2は大町市議会議員の寺井さんが「大町・白馬編」として,主にオリンピックが地元に何をもたらすかという観点から論じている。こういう時に長野県の地図が欲しいが,長野県全体として,長野市を中心に開催されるオリンピックが,長野市とそれ以外との地域に何をもたらすのか,あるいは中央の企業と地元企業に,大企業と中小企業に何をもたらすのか,そういう観点から論じている。オリンピック関連の施策として,大会開催期間(前後を含む)に長野県内の入湯税を免除するというものがあったらしい。外国人はもとより,県外から動員された警察官などもその対象という。まあ,そういうくだらない話から,オリンピックで県内のスキー客が増えるかというと,実際には混雑を避けて減少しているという。などなど,オリンピック開催に伴って税金の使用額は増えるものの,地元に落とされる消費は大して増えなかった。
現地報告3の千葉さんによるものは,強い批判の言葉はありませんが,まさに日常の人の高さの目線から見えるものを描くことで,生活者が抱く,オリンピックのような大きなものへの違和感を強く感じさせる文章です。現地報告4の渡辺さんは,信州大学教育学部の教員ということですが,自然科学者の視点からデータと現地調査に基づいて環境変化を論じています。現地報告の最後は「南信編」として,会場のある長野市からかなり距離のある飯田市からの報告です。日常的に生活しているとそのお祭り騒ぎもほとんど感じることもないが,メディアを通じ,同じ長野県内ということで協力すべしという圧力がかかる。テレビニュースにしめる五輪関係の割合などを地元放送局を含めて算出していて面白い。巻末には,開会式当日に行われた,150人が参加したという五輪反対デモの様子が写真で掲載されている。

 

| | コメント (0)

【読書日記】東京五輪の危険を訴える市民の会編『東京五輪がもたらす危険』

東京五輪の危険を訴える市民の会編(2019):『東京五輪がもたらす危険――いまそこにある放射能と健康被害』緑風出版,213p.1,800円.

 

オリンピックに関する文献調査は2020年に発表した2編の論文で一区切りつけ,その後日本語で出版された書籍について気になるものは読み,そのなかの3冊ほどは書評を書いた。しかし,最近またちょっとした執筆の機会があり,日本のオリンピック関連書籍について,1988年大会に対する名古屋招致の際に書かれた『反オリンピック宣言』から,名古屋,大阪,東京,札幌と続くオリンピック招致および大会に反対する立場の人々の記録を残しておきたいと思った。すでに日本語への翻訳が2冊あるジュール・ボイコフが,2020年東京大会についても批判的な立場から論じた論文があることは知っていたが,きちんと読んでみた。また,同様の論文が他にあるか検索してみるとGanseforthという人の文章もみつかり,短い文章だったが,私の知らない日本語文献も出てきたりした。本書もそうした一冊。

第1部 東京五輪の危険を警告して発言する科学者・医師・市民
 第1章 国際オリンピック委員会IOCへの公開状:鴈屋哲(石津望・渡辺悦司翻訳)
 第2章 2020年東京「放射能」オリンピックを警告する:IPPNWドイツ支部(梶川ゆう翻訳)
 第3章 ドイツにおける反被爆・反東京五輪の運動:桂木忍・川崎陽子
 第4章 米カリフォルニアでの東京オリンピック反対の行動:石津望
 第5章 真実から目をそらすことは犯罪である――フクシマ事故と東京オリンピック:小出裕章
 第6章 「今生きている人間のすべてが……」:ノーマ・フィールド(渡辺悦司訳)
 第7章 アーニー・ガンダーセン著『放射能被害へのぬり薬』紹介:渡辺悦司
 第8章 東京オリンピックを返上せよ:村田光平
 第9章 オリンピックのために原発事故被害者を切り捨てるな:山田知惠子・岡田俊子
 第10章 「チェルノブイリ法日本版」と東京オリンピック:柳原敏夫
 第11章 トリチウム汚染水の海洋放出に反対する科学者と市民の活動:山田耕作
 第12章 放射線の見えない脅威:落合栄一郎
 第13章 福島原発事故に猛威を振るう「知られざる核戦争」――「放射線による健康被害は一切ない(安倍首相)」の背後に死亡率大量増加:矢ヶ﨑克馬
2部 東京五輪での被爆が危険なこれだけの根拠
 第1章 福島事故の放射能放出量――ネバダ核実験場近傍でオリンピックを開催するに等しい:渡辺悦司
 第2章 不溶性放射線微粒子の特別の危険性――1個でも吸入・沈着すると長期にわたるリスクがある:渡辺悦司
 第3章 放射線影響の受け易さ・放射線感受性には個人差が極めて大きい:本行忠志
 第4章 トリチウムの特別の危険性:渡辺悦司・山田耕作
 第5章 原発事故健康影響「全否定」論の新展開とその自滅的本質:渡辺悦司
 第6章 政府の「被害なし」主張の根拠――国連科学委員会(UNSCEAR)報告は信用できない:藤岡 毅
 第7章 被災地の苦悩と「黒い物質」「環境循環」について:大山弘一
 第8章 首都圏の水道水中のセシウム汚染を測定:鈴木優彰・下澤陽子
 第9章 「放射能でのおもてなし」――東京オリンピックは国際社会に対する犯罪である:大和田幸嗣
3部 避難者たちが体験した被爆影響と症状
 第1章 『新ヒバクシャ』に『能力減退症』が始まっている:三田茂
 第2章 がん,白血病・血液がん,子供の発達障害の多発:渡辺悦司
 第3章 東京電力福島第一原発事故後の子ども達の尿を測定:斉藤さちこ
 第4章 避難者の被爆影響と思われる症状:福島敦子・羽石敦・下澤陽子・園良太・鈴木絹江
編集者あとがき

目次がかなり詳しいので,各章の細かい説明はしません。端的にいうと,本書は2011年3月の東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故とその後の被害に関する詳細な説明がなされているものであり,あくまでも東京オリンピックについては,これだけの放射能の被害の可能性があるなかで,東京で開催すべきではないということであり,オリンピックそのものに関する詳細な検討をするものではない。もちろん,本書にも安倍元首相の「アンダーコントロール」発言を詳細に批判した内容も含むし,「復興五輪」という建前のスローガンに対する怒りの声もある。しかし,この辺りのことはすでにジャーナリズムでもアカデミズムでも十分に議論されており(特に,笹生心太(2022)『「復興五輪」とはなんだったのか――被災地から問い直す』大修館書店),個人的にはこれ以上の議論は必要ないかなと思っていた。しかし,本書はどっぷりと福島原発事故の影響の観点から五輪反対を訴える貴重な本だといえる。とはいえ,ほとんどの内容はオリンピックとは関連が薄く,科学的見地に基づいた放射能に関する議論なので,すっとは頭に入ってこなかった。ということで,この読書日記では,オリンピックに関連する箇所で重要な論点に絞りたいと思う。
まず,本書の前半は記録的な価値がある。第1章は漫画『美味しんぼ』の作者である鴈屋哲氏が2013年10月3日の日付でIOCに充てた英文公開書簡の日本語訳を掲載している。内容としては,IOCが東京での開催を決定した際に影響したとされる安倍元首相の「アンダーコントロール」発言を含む安倍氏の福島の状況をめぐる発言のほとんどが虚偽であることを説明する内容。第2章はIPPNW(核戦争防止国際医師会議)のドイツ支部による声明文の日本語訳。第3章はタイトル通り,ドイツにおける反東京五輪運動を解説したもので,いずれもが福島事故による東京の被爆の可能性を理由としている。第4章では米国カリフォルニアにおける反東京五輪運動だが,ボイコフが『オリンピック反対する側の論理』で論じたロサンゼルスの団体とは異なるもので,反原発団体によるもの。第5章は小出裕章氏の『フクシマ事故と東京オリンピック』(径書房,2019)の内容を要約したもの。第6章はこの小出氏の著作を解説したノーマ・フィールド氏の文章を翻訳したもの。ノーマ・フィールド氏は『天皇の逝く国で』で知られる日本文学研究者。第7章はアーニー・ガンダーセンという活動家の『放射能被爆へのぬり薬』というウェブサイトに公開されている文章の紹介文。内容的には東京オリンピック大会への不参加を呼び掛けるもの。第8章は元スイス大使へのインタビュー記事(雑誌『月刊日本』に掲載されたもの)の転載。第9章には,2019年5月11日に新宿で行われたデモ行進「被ばくを隠してオリンピックやるの!」の写真が掲載されている。その他,第1部には,福島原発事故以降に日本各地で起こされた運動体からの発言が収録されている。
第2部は放射能の人体への影響をかなり数値的な形で示している論考が多い。端的に放射能といっても,さまざまな物質があり,その濃度の基準はさまざまであり(報道されているように,大抵は国際的な基準に対して,福島事故後日本で示された基準値がかなり小さいわけだが),その影響も個人差が大きいという漠然としたことは理解できますが,細かいところは理解が及んでおりません。ただ,第2部の後半,第5章と第6章では,日本政府の見解を丁寧に検討しており,勉強になる。
第2部まで読み続けるのがかなり苦労しましたが,第3部はようやく市民目線の話になり,学ぶことが多かった。第2章では,冒頭で水泳選手の池江莉花子さんの白血病の話があり,私には唐突な感じがしたが,被災当時の彼女の練習場所は足立区にあり,当時彼女は10歳。幼い頃に被ばくすると発症する確率が高く,被爆から発症までには時間がかかる,そして個人差が大きいなどの条件を示されると,あながち突飛な話ではなく,私たちがあたり前と考えてしまうような思考を再考させる記述だった。実際に本書の寄稿者たちは,ほんの一時期だけ東京にやってきてスポーツ競技をする世界中のトップ・アスリートが,未だ収束していない福島第一原発から発せられる放射能にさらされるという危険を訴えているわけだが,そのことの理由が徐々に説得的に読者に迫ってくる。事故後のがんの発生率の増加や,水道水の調査結果などが示される。そして,最後の第4章は被災者の状況が語られる。日本国中を移動しながら非難する人(特に子ども)の症状からは,確かに本書が主張するように,放射能からの避難には,福島と東京という距離感ではなく,関東地方と近畿地方という距離感での避難が必要だということを知らされる。こういうことを実感として味わった人にとっては,やはり東京でオリンピックを開催するということは狂気の沙汰としか思えないだろう。

| | コメント (0)

【読書日記】『Over』vol.04

Overvol.0420233月,183p.1,760円.

 

前号vol.03の特集「サヨナラ反知性主義」で初めて買った,「肉屋を支持するブタにならないためのクィア・マガジン」と銘打った本誌。今号vol.04も「クィアを,取り戻す。」という特集に,迷わず購入した。久し振りに成分献血をするということで,本誌を持参していたが,1時間強ベッドの上で献血をしながら一気に読んでしまった。

特集:クィアを,取り戻す。
映画『エゴイスト』主演 鈴木亮平インタビュー 浩輔を通じて考えたこと
映画『エゴイスト』ポストカード:カナイフユキ
鈴木亮平と斎藤浩輔:ミヤタ廉
その婚姻届のゆくえ:木津毅
写真:Lin Jaihang / Ting-Wei.Zheng
対談 ゲイ・カルチャーの未来:北丸雄二×千葉雅也
同性パートナーシップ制度で我慢すべきなのか?――「婚姻もどき」からの誘惑の罠:鈴木賢
誰が「悪い本」を決めているの?:ティーヌ
インタビュー 川野邉修一

「ホームパーティーが終わったら」
QUEER LOREA
「道をつくる2022」韓国クィアの今,その声のいくつか
インタビュー 宮田信「チカーノカルチャーとゲイカルチャー,マイノリティという戦術」
「熱狂の中で差別に抗す言葉を持つ」編集後記:矢部真太
かみつけのくにとはずがたり 贋作・雨ニモマケズ:BAKU
新宿二丁目で亀山郁夫『謎解き『悪霊』』を読む。
インタビュー 小倉東 a.k.a. マーガレットが語る「ゲイ・カルチャーを伝えていくこと,そして女王失踪事件の真相」
プライドパレードにクィアを取り戻す!:畑野とまと
写真「WAIFUTRANS MARCH AFTER-PARTY
入って五分で精神崩壊「まぼろし博覧会」とはなんなのか?
インタビュー 武田崇元が左翼に喝!民衆の力で統一教会をぶっ潰せ!
執筆者紹介
編集後記

結局,映画『エゴイスト』を観ることはできなかったが,鈴木亮平さんのいくつかのインタビュー記事をさらっと読んでいて,その本気度は知っていたが,本誌のインタビュー,そしてこの映画のLGBTQ+インクルーシブディレクターを務めたというミヤタ廉さんの記事を読んで,鈴木さんの徹底ぶりに驚いた。この映画を観る機会があれば,今度は逃さないようにしたい。
さて,本特集はクィアを銘打っていますが,基本的にはゲイに限定された話が多い。私がよく見ているYouTubeチャンネル「デモクラシータイムス」でも番組を持っている北丸雄二さんが千葉雅也さんと対談をしている。千葉雅也は東京大学の表象文化論出身で,フランスに留学もしているようです。いずれにせよ,東大出身の研究者で論壇人になっている人には抵抗があり,彼の文章は読んだことがないが,彼が小説を書いていて,それが北丸さんに評価されるようなものだったとは。
同性パートナーシップ制度に関する話題はこの手の雑誌や論文集での議論も読んできたが,ここでもいくつかの訴訟を用いて,台湾の制度も踏まえて明治大学教授の鈴木氏が論じている。インタビュー記事のある川野邉修一氏は映画監督とのこと。初長編作品『ボクラのホームパーティー』について語っている。すでに「全国順次公開中」と書いてあるので,もう観られる機会はないと思うが,監督の名前と作品名は覚えておきたい。
2022
10月に渋谷パルコで開催されたイベント「道をつくる」について紹介している。初回の今回は韓国のクィア・カルチャーがメインということで,いくつかの映画上映とトークイベントが行われたようだ。なかなかこういうイベントに足を運ぶことはかなわないが,こういうイベントはどんどん開催してほしいし,こうした雑誌の記事を通して,その断片でも知ることは続けたい。
宮田信という人のインタビューが掲載されているが,この人物は音楽イベントを開催したり,『チカーノ・ソウル』という本を翻訳したり,とチカーノ(米国で生まれ育ったメキシコ系子孫)文化の発信を行っている人物。宮田氏は大学時代にチカーノ文化に興味を持ち,米国に留学したらホストファミリーがゲイカップルだったということで,こんなインタビューの内容になっている。
その他も,表舞台から消えてしまった,日本のドラァグ・クイーンのマーガレット(小倉東)さんのインタビューや,商業化しつつあるプライドパレードと距離を置きながらも参加せざるを得ないという畑野とまとさんの話,伊東にある「まぼろし博覧会」の館長「セーラちゃん」へのインタビューなど,興味深い魅力的な記事が続きます。

| | コメント (0)

【読書日記】権 学俊『スポーツとナショナリズムの歴史社会学』

権 学俊(2021):『スポーツとナショナリズムの歴史社会学――戦前=戦後日本における天皇制・身体・国民統合』ナカニシヤ出版,341p.3,200円.

 

著者の経歴は詳しく書いていないが,1972年韓国生まれで現在は立命館大学の教授とあり,博士課程を修了したのも横浜市立大学とある。ニューカマーとして家族で幼い頃に来日したのか,どこかの段階で留学という形で来日したのかは分からないが,オールドカマーの在日というわけではない。著者名で出身や経歴を想定して著書の評価をするというのは正当ではないが,本書は素晴らしく熱量がある研究で,かといって私情を挟まず冷静な学的探究により,スポーツという民衆と結びついたものがいかに戦前・戦後日本の軍国主義的な意識と結びつくナショナリズムに貢献したのかということを明らかにしている。第二章は書きおろしということだが,それ以外は2005年から2018年にかけて書かれた論文から構成されている。私が取り組むにはあまりに大きなテーマであり,すぐに投げ出してしまうだろうが,著者は15年以上をかけて目標に向かって着々と積み重ねて本書を作り上げた。通読して,自分自身こんな本が書けたらその研究人生に悔いがないだろうと思えるような素晴らしい読書体験だった。
もちろん,私のように著者名から多少著者の経歴を思い浮かべるだけで冒頭から予備知識なしに読んでもいいのだが,第十一章を読むと,本書の意義が納得できる。著者は2001年に「戦後日本保守政治家の歴史認識と韓日関係」という論文を書いている。北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』が2005年で,第十一章自体にも日本における嫌韓意識の高まりの大きなきっかけを2002年の日韓合同開催FIFAワールドカップとしているので,2001年に歴史修正主義による嫌韓意識の高まりを論じた(論文自体はまだ読んでいませんが)この論文はかなり早い時期のものだと思う。とはいえ,著者は本書の前,2006年に『国民体育大会の研究』という本を出しているので,元々スポーツ研究を専門にしていたようではある。ともかく,本書は歴史の古い順に構成されてはいるが,21世紀の日韓関係の悪化の根源を,歴史を遡りながら理解していったと想像することもできる。
ともかく,目次順に,日本の歴史を辿っていくことにしよう。

はじめに
第一部 天皇制国家における大衆の国民化とスポーツ・身体
 第一章 近代日本における国民形成と兵式体操
 第二章 皇室のスポーツ奨励と明治神宮競技大会の誕生
 第三章 近代日本のラジオ体操と「身体」の政治
 第四章 「幻の東京オリンピック」の祝祭性と政治性
 第五章 戦時下における国民体力の国家管理と健兵健民
 第六章 植民地朝鮮における皇国臣民化政策と秩序化された身体
第二部 戦後日本におけるナショナリズムとスポーツの諸相
 第七章 戦後初期スポーツ改革政策と国民体育大会の開催を通した戦後復興・民族再建
 第八章 1964年東京オリンピックの国民統合と国家意識の高揚
 第九章 戦後自衛隊のスポーツを通した国民浸透作戦と勝利至上主義
 第十章 国民総スポーツ運動の歴史的意味と国民主義エートス
 第十一章 日本スポーツにおける異質な「他者」と排外主義
 第十二章 2020年東京オリンピック・パラリンピックの政治性と国家主義
おわりに
参考文献
あとがき

本書は本当に各章が重要な議論をしていて,きちんと紹介するとかなりの文字数と私の労力を要するため,ごく簡潔に説明することとします。関心を持った方は実際にお読みいただくことをお薦めします。本書は既存の研究をしっかり確認しながらも過度にそれらに寄らず,適宜原資料にあたっており,研究者の態度としてもとても真摯なものを感じます。
第一部の前半は戦前のラジオ体操がメインの主題ですが,第一章ではそれに先んじる兵式体操なるものが議論されています。そして,クーベルタンが母国フランス男子の体力のなさを慮って,イギリスの教育で取り入れられていたスポーツを取り入れることを願ってオリンピックなるものを復活させたように,日本でも森有礼なる人物が,イギリスとアメリカの留学を経験し,文部大臣となり,日本の教育において身体訓練を導入しようと努力する。しかも,この時代といえば当然ではあるが,個々人の楽しみの運動ではなく,軍事訓練としての男子の身体鍛錬の方法をとったものである。まさにクーベルタンと同様に,日本の男子が欧米と比較して貧相で体力がないということを改善すべく,教育政策の改善に打ち込んだ。第二章では,そうしたなか,日本でも徐々にいわゆるスポーツに対する機運の高まりが生じてくる。日本のオリンピック参加は1912年のストックホルム大会が最初で,1924年に日本体育連盟が組織され,全国体育デーが文部省によって開催され,内務省は明治神宮競技大会を開催する。そうした中で,このスポーツなるものを国民に広く知らしめるために皇室が関わってくる。秩父宮ラグビー場の名前などはそうした皇室のスポーツへの関わりの痕跡である。第三章は第一章に続いて,兵式体操が1925年に開始されたラジオ放送という新しいメディアに乗って,1928年にラジオ体操に姿を変える。ラジオ体操に関しては学術研究を含めていくつもの著作が出ているが,なかには戦前と戦後を地続きでとらえているものもあるようだが,著者はそこには一定の留保をしている。戦前はやはりどうしても上から半強制的に与えられた形で軍事色が強いが,戦後はむしろその経験が基礎にありはするが,草の根運動てきな意味合いがある。それはともかくラジオ放送の影響は大きく,また単に軍人としての男子の体力増強という意味あいだけでなく,逓信省簡易保険制度との関わりが指摘されていて非常に興味深い。保険というのは当然健康と深い関わりがある。そして,ラジオ体操は学校の現場へ,そして「ラジオ体操の会」という組織が急速に広まり,集団化するという。現在でも工場のような場では残っていると思うが,戦後でも職場で朝礼と併せてラジオ体操をするようなところが少なくなかったようだ。そして,ラジオ全般の役割でもあったが,労働者の時間規律にラジオ体操は大きく貢献し,さらにはナショナリズムへとつながっていく。
第四章は,開催が決定されていたものの,返上・中止となった1940年の東京オリンピックを論じている。この「幻の1940年東京オリンピック」についてはそこそこ研究の蓄積があるが,それらを踏まえた上で丹念な史料を検討している。第五章は「厚生省」という国の組織について解説している。日本でも産業化が進み,都市人口が増えてくると衛生行政が重要となってくる。「衛生省」の構想が陸軍主導で進められたようだが,最終的には1938年に「厚生省」と名前を変えて設置される。同じ年に民間の団体として「日本厚生協会」が設立されるのだが,この「厚生」という言葉は「レクリエーションの訳語」(p.120)として与えられたものだという。つまり,行政側の衛生政策と,人民の体力向上,そしてそのために民間から積極的にレクリエーションとして運動をするという思惑が交差するところに厚生省と日本厚生協会とが作られ,国家主導のスポーツ大会が実施されていく。神宮大会については既に言及したが,1911年にはすでに大日本体育協会があり,日本各地で開催されていくスポーツ競技大会によって各競技団体が大日本体育協会に加盟していく。第六章では,当時日本が植民地として統治していた朝鮮半島の状況も解説しているのは,著者のこだわりでもあるが,とても重要である。当時の朝鮮は貧しい社会であり,日本以上に人々の体格は貧弱で健康状態も良好ではなかった。その後,朝鮮半島の人々は日本の侵略戦争や,各地の労働現場に連行されるわけだが,そういう意味でも一定の体格と体力,健康が求められるというのは当然かもしれない。日本本土で普及した体操は,朝鮮半島でも「皇国臣民体操」として学校を中心に広められた。ラジオ体操も1931年から始められたという。この章の最後には「戦後韓国社会への連続性」という節もある。
第二部は戦後の話に移るが,本書のサブタイトルの「戦前=戦後」という表現に注意をしたい。もちろん,戦前の状況と戦後の状況とが「=(イコール)」といいたいのではないと思うが,その連続性を強調したい気持ちはよく分かる。著者は私とほぼ同じ年代で,幼少期は韓国で過ごしたかもしれないが,成人してから長い時間を日本で過ごしていれば(そして常に韓国との強い関係性を保っていればなおさら),特に近年の軍事国家に回帰しようという政府の動きを目の当たりにすれば,戦前の国家意識=ナショナリズムが,自民党は戦後の1955年にできた党であるにもかかわらず,戦後の国家運営に色濃く反映していると考えるのがふつうである。端的にいえば,日本は国家として先の侵略戦争に対する謝罪をしておらず,反省をしていない。ましてや,部分的には歴代政権で謝罪の言葉があったり戦後補償をしたにもかかわらず,それを無化するかのように歴史修正主義の運動によって侵略戦争を正当化し,そうして修正した歴史を教育現場で強制するような事態にも陥っている。とはいえ,民間レベルのスポーツという意味合いにおいては,当然敗戦によってそれが全く途絶えた時期があった。国は米国の占領下におかれ,国民は日々命をつなぐので精一杯であった。しかし,なんと戦後直後の1946年から大日本体育会(戦後になっても「大日本」という名称を維持していたのは驚くほかないが,1948年に日本体育協会に名称変更された)が国民体育大会(国体)を実施したという。そして驚くことに,戦前に皇室がスポーツとの関りを深めたということは既に書いたが,戦後のスポーツは象徴となった天皇が地方を巡幸するのに合わせ,地方で国体を開催し,天皇が出席したという。1947年に開催された第二回の石川国体の様子が伝えられているが,開会式に参加した天皇を前に,当時は禁じられていた日の丸が掲揚されると,二万人の観衆が涙を流して君が代を斉唱したという。恐るべき天皇の存在と君が代・日の丸(なお,本文には「国家掲揚」(p.162)と書かれているが,敗戦によって国家と国旗の指定は日本にはなかった気がする。改めて指定されたのは1999年とのこと)。そして,戦後も皇室はスポーツと関りを持ち続ける。天皇一家がテニスのようなスポーツを(避暑地で)たしなみ,各競技の大会には「天皇杯」が次々と持ち込まれる。
第八章では1964年の東京オリンピックを論じる。こちらも既存の研究が多いので,本書ではナショナリズムに関わる側面に注力している。特に本書が強調するのは,オリンピックはどれだけ多くの国旗掲揚と国歌斉唱を公衆の面前で行えるのか,という点において存在する,と断言するほどだ。聖火リレーにも多くのページを割いている。ここでも沿道の日の丸や,沖縄,広島の扱い,テレビ放映で日本全国を映し出すこと。オリンピック自体は東京という一都市で開催されるにすぎないものだが,まさに国を挙げて行う国家イベントとしての印象づけるのに聖火リレーは相応しい。第九章は,1964年東京オリンピックに向けて,自衛隊の関りを論じていて,非常に興味深い。そもそも,戦力不保持を謳った日本国憲法によってスタートした戦後日本社会において,自衛隊の存在は国民にとっても(今とは違って)歓迎すべき存在ではなかった。そのマイナスのイメージを払拭するためにオリンピックが利用された。オリンピック以前から,自衛隊は民衆に良いイメージを持ってもらおうとする試みを展開する。音楽隊を結成し,講習を前に演奏を披露し,医療現場や力仕事を要する現場で支援にあたる。その極めつけがオリンピックという巨大なイベントへの支援であるが,それだけではなく,自衛隊員自体がオリンピックの出場するのだ。1961年には防衛省内に「自衛隊体育学校」が設立し,選手強化事業が行われる。実際に馬術や射撃などでは現在も自衛隊の選手が出場することが多いが,1964年で良く知られるのは円谷幸吉というマラソン選手だ。しかも,マラソンの1960年ローマ大会で(結局,1964年東京大会でも)優勝したアベベというエチオピアのマラソン選手が軍隊出身だったということが,日本で自衛隊員からオリンピック選手を育成するということのきっかけの一つとなったらしい。そして,円谷選手の自死で知られるように,国家を背負わせた勝利至上主義がその後蔓延する。現在でも自衛隊員選手に限らず,世界各地で開催されるオリンピックに出場する選手たちは金メダルを手にしないと祖国に帰れない,ようなプレッシャーを抱かせられている。
その一方で,第十章は市民が草の根的にスポーツを欲する姿が描かれており,ナショナリズムというものが上から強制されるだけのものではなく,下から醸成されるものでもあることを示している。日本社会は戦後に高度経済成長期を経験し,生産中心から消費へ,労働から余暇へと意識の大きな変化がみられる。公害の発生と住民運動,革新自治体の誕生,という時代の流れのなかで市民が自らの権利を主張するようになり,その権利の一つとしての余暇活動を要求し,その延長線上にスポーツ要求がある。政府側から作られた体育団体に対し,1963年に「全国青年スポーツ祭典」の第一回が横浜で開催され,1965年に「新日本体育連盟」が結成される。この時代は労働組合も強かったこともあり,1964年には「労働者スポーツ大会」も開催されたようだ。
第十一章は日本のスポーツ界における排外主義について論じている。オリンピックが国対抗のスポーツ競技大会であり,その出場資格には国籍が必要である。そしてオリンピックにかかわらず,そうした傾向は各競技で根強い。ここで取り上げられるのは,まず「在日韓国人四世で2007年に日本の帰化したサッカー選手李忠成」(イ・チュンソン)(p.260)である。サッカーにおいては,2002年に日韓合同で開催されたFIFAワールドカップ大会が日韓にとって非常に重要だったと論じている。一方では,お互いの国民がお互いの国の文化に関心を持ち,相互にファンを作り出したが,もう一方では特に日本側に嫌韓の意識を高めた。李選手の活躍に対する浦和レッズサポーターによる「JAPANESE ONLY」の横断幕が2014年のことで,サッカーにおける嫌韓は未だに続いているという。続いてが,相撲界である。こちらについては私もよく知っている事柄ではあるが,都合のよいように国技としての相撲という競技の中に外国人性をもちこんだり,排除しようとしたりが繰り返されている。そしてそれは相撲が単なるスポーツとしてではなく,日本的な伝統的儀式の一つとして,これまた都合の応じて扱われるという事情による。その他にも在特会(在日特権を許さない市民の会)やネット右翼に関する議論など,決して分量は多くないが,スポーツと関りの薄いが重要な解説があり,スポーツの分野で出現する排外主義的な動きの文脈がしっかり理解できるように解説されている。最終章は2020年東京オリンピック・パラリンピック大会の批判に充てられており,こちらも石原元都知事のナショナリスティックな思惑による招致継続から,安倍元首相による虚偽スピーチ,オリンピックを口実として共謀罪の成立など,オリンピックと国家との結びつきを中心に論を進める。オリパラ教育にもページを割き,小中高と作成されたオリンピック読本の内容をナショナリズムの観点から丹念に解説している。
本書には阿部 潔『彷徨えるナショナリズム』(2001年,世界思想社)に言及し,同じようにスポーツとナショナリズムの関係を論じているこの本からの影響は少なくないと思う。阿部氏のナショナリズム論はある意味で分かりやすく,ナショナリズムという感情について質的に論じたものである。しかし,本書はそれをかなり社会科学的に実証したものであり,とても説得的なものである。本書でも日本におけるスポーツとナショナリズムに関して十分に論じられていると思うが,「おわりに」では残された課題について,これまた非常に的確に論じている。確かに本書においてジェンダーの視点は十分でなかったと思う。そうした,将来的な展望についてもすでに明確に示されていて,後はいかに資料に基づいて論証していくかという時間と労力の問題ともいえる。それらの仕事について,著者は確実に進めていくだろう。

| | コメント (0)

【読書日記】『POSSE』2022年12月号,vol.52

POSSE202212月号,vol.52NPO法人POSSE203p.1,400円.

 

以前から気になっていた雑誌『POSSE』。今回の特集は「奨学金を帳消しに!立ち上がる借金世代」ということで,初めて購入してみました。ちなみに,販売は堀之内出版がやっています。最近,本当に魅力的な雑誌が多い。中身も広告はほとんどなく,一つ一つの文章も多く,とても読み応えがある。決して安い金額ではないと思うが,文庫や新書も1,000円近いものが多くなってきたことを考えるとお得感はある。
こうした雑誌の出版事情はよく分からないが,読んだ感じだと代表格の数人は若手が多く(せいぜい30歳代まで),編集自体にはそんなに多くの人の手はかかってなさそうな気はする。発行回数は年に4回程度で決して多くはないが,これだけ中身が充実したものであれば,十分だと感じる。とはいえ,経営としてやっていけているのだろうかという心配はないでもない。

巻頭インタビュー
 パンデミックとジェネレーション・レフト:キア・ミルバーン
特集「奨学金を帳消しに!立ち上がる借金世代」
 「サラ金」化する奨学金――歴史的視点から制度の根幹を問い直す:小島庸平
 自己破産は権利!――返済できない場合には積極的に活用しよう:岩重桂治
 立ち上がる借金世代――なぜ私たちは奨学金帳消しプロジェクトを立ち上げたのか:岩本菜々
 奨学金帳消しプロジェクトメンバー座談会:自己責任では生きていけない!借金世代のリアルと社会運動
 奨学金「過払い」の闇――相談事例から見るJASSOの問題点:本誌編集部
 債務者よ,団結せよ!恥以外に失うものはなにもない:アストラ・テイラー
 奨学金問題から見えてきた新しい貧困運動の形――「被害者救済」運動を超えて:青木耕太郎
単発
 ジェンダーから労働・貧困を考える――「整理の貧困」と「更年期離職」:谷口歩実×青木耕太郎×竹信三恵子
ミニ企画「『貧困理論入門』刊行記念 反貧困の理論と運動をアップデートせよ」
 貧困理論から生存権を問い直す――生活保護引き下げ訴訟は何と闘っているのか?:喜田崇之×志賀信夫
 貧困理論は「20世紀型」から脱却できるのか――優生思想ではなく,連帯による自由の平等を:志賀信夫×渡辺寛人
単発
 若者の貧困の現状と生存戦略の変容:今岡直之
連載
 父の過労死 会社と闘ってきた10年間 第4回 苦しみながら戦った裁判:高橋優希
 映画のなかに社会を読み解く 最終回 ファッション映画に社会を読み解く:西口想×河野真太郎
 スポーツとブラック企業 第13回 アントニオ猪木とブラック企業経営者:常見陽平
 『資本論』体系と資本主義システムの形態変化 (3)恐慌論の体系からポスト資本主義の体系へ:佐々木隆治
POSSE最新ブックレビュー

販売を堀之内出版が手掛けていることもあり,関連する内容も多い。関東インタビューのミルバーンは堀之内出版から『ジェネレーション・レフト』の翻訳が出ている英国の政治理論家である。ミニ企画は『貧困理論入門』の出版記念であり,連載の佐々木隆治氏はやはり堀之内出版から『マルクスの物象化論 新版』を出している。
さて,特集の内容に入ろう。特集の冒頭は,『サラ金の歴史』(中公新書,2021年)を出版した小島庸平氏によるもので,サラ金の歴史を辿り,現在の奨学金のあり方がまさにサラ金のあり方と一致しているという。続く岩重氏は弁護士で,奨学金返済に困ったら弁護士に相談し,自己破産するという選択肢を考えてほしいという。とはいえ,奨学金の場合は家族に保証人となってもらう場合が多いので,注意が必要だという。一番いいのは保証人=家族とともに弁護士に相談することだという。POSSEで「奨学金帳消しプロジェクト」を立ち上げた岩本氏のことはTwitterで知っていた。そのプロジェクトを立ち上げる背景についてもすでに彼女の投稿などで知っていたが,その気持ちはとてもよく分かる。そしてその若さで運動を立ち上げるということに対しては敬意しかない。私の場合も大学4年生から博士課程3年まで6年間奨学金を借り,総額は600万円台となった。私の場合は幸運なことに,非正規でありながら大学院修了後に一人暮らしにしては十分すぎる給料をもらっていた。それ以前から,大学院時代も週3日で比較的時給の高い職場でアルバイトを続けていたので,借りた奨学金自体をコツコツと貯めていたこともあり,一部繰り上げ返済もしながら,既に完済することができている。
続く座談会では,このプロジェクトに参加しているメンバー4人が自身の状況を報告しているのだが,これがなかなかすごい。私の時代には学部生で一人暮らしの場合でも月額3万5千円だったが,現在は10万円を借りられる場合もあるようだ。大学院まで進学すると総額1千万近い借金となっている人もいる。しかも,現在では正規社員となったとしても,昇給は約束されない。そういう状況でどのように奨学金を返済するのだろう。順調に返済していた私ですら借金を残したままでの結婚はためらったし,そういう状況で家を買うとか,子どもを育てるとか,そういう選択肢は人生設計には入れられない。さらには返済方法に関してもいろいろ問題があるということが,続く編集部の文章の中にいくつかの事例が示されている。続くテイラーという人物の文章(これは『ニューヨーク・タイムズ』記事の翻訳である)では,米国の状況が報告されている。その報道は私も目にしたが,米国でバイデン大統領が一部の学生ローンを朝敬氏にするという案はあったようだが,それは市民たちの抗議運動によるものだという。よく知られているように,ヨーロッパでは大学の学費が無料であったり安かったりという国が多いが,米国は高い。状況としては日本に近い。ヨーロッパ諸国と比較して日本は異常だという風潮もあるが,比較の対象を米国に求めるとまだましなのだ。医療費なども米国に比べてしまうと日本なんてましなのだ。まあ,ともかくだから諦めろということではないが,何もしなければこの状況は変わらない。だからこそ米国では抗議運動が起こり,日本でもこのプロジェクトが立ち上がった。特集最後の寄稿者は,次のミニ企画との間に挟まれたトーク・イベント記事にも関わっている青木氏だが,奨学金問題を貧困問題と関わらせ,奨学金だけでなく,生理の貧困という女性の問題,更年期という壮年期の問題とも貧困という共通の話題として整理している。
ミニ企画は上述したように,『貧困理論入門』刊行記念として,その著者である志賀信夫氏との対談が二編収録されている。志賀氏はプロフィール写真だけでなく,対談の様子の写真も掲載されているが,いずれも髪型が違っていて,短髪から長髪まであり,スケボーとかやってそうな印象を受けるが,単なる学術研究だけでなく,テーマがテーマだけに活動家としての一面もあるようで,何となくだが納得。この本は英語圏の貧困研究を受け,日本の状況をどうするかという視点で書かれているようで,非常に興味を引かれる。なお,二つ目の対談は下北沢の本屋B&Bでのイベントの様子とのこと。こういう形で活字化されることもあるんですね。続く,POSSEスタッフの今岡氏による文章も貧困の話で,POSSEとして相談を受けた方々の状況が報告されている。連載もどれも魅力的な内容で,冒頭から最後まで単行本を読むように読んでしまった。この雑誌ももう52号ということで,魅力的な特集のバックナンバーを探して少しずつ読んでいきたい。

 

| | コメント (0)

【読書日記】山下 茂『英国の地方自治』

山下 茂(2015):『英国の地方自治――その近現代史と特色』第一法規,299p.2,800円.

 

先日紹介した岡田章宏『近代イギリス地方自治制度の形成』に続いて本書を読んだ。総ページ数はあまり変わらないが,本書は横書きで1ページあたりの文字数が大分多いので,圧倒的に分量がこちらの方が多い。しかも,本書の元になっている論文からすると,本書はその簡易版ともいえ,詳しいことは原著論文にあたってほしいと書いてある。原著論文は雑誌『自治研究』に1977年12月から1988年6月の12年に46回にわたって掲載されたとのこと。元の文章が古いのは岡田氏の本と共通しているが,同じ分野でこういうのって,珍しいのか一般的なのか。しかし,これだけ研究領域がダブっているのにお互いに文献参照をしていないのもおもしろい。なお,最後の方を読んでみると,本書は意図的に日本での英国地方自治に関する研究を参照していないと書いてある。日本の研究を踏まえた上で,というスタンスではなく,あくまでも英国で入手した資料に基づいてということ。
タイトルにはないが,本書は所々でフランスとドイツの状況と比較しながら論が進む。そして,最終章ではそれに加え,日本とアメリカとの比較もある。残念ながら,全般的に私の知りたい地方自治体の地理的境界という側面については驚くほど関心が少ない(もちろん行政にとっては,他の自治体との境界線の画定というのは一つの重要な仕事であり,本書にも「境界検討委員会」的な組織の存在には言及はある)。
岡田氏の著作の紹介の時に,多少本書の意義について書いてしまったが,改めて読み進めると,「地方自治の母国」という一般的な英国に対するイメージは間違っていて,サッチャー以降の新自由主義的な民営化路線にあっても,基本的に地方行政のあり方は大きく変わっておらず,元々英国で地方自治が強かったわけではない,と後半で主張している。しかも,英国では地方自治が強いというのは日本独自の通説であり,戦前の日本の数人の研究者の意見がそのまま現代まで引き継がれたのだと,細かく論証している。
なお,著者は自治省の役人であり,政府派遣として英国に留学,地方自治体の職員もしていたようで,和歌山県の副知事までやっている。最終的には明治大学の教員となり,本書は「明治大学社会科学研究所叢書」として出版されている。

序章 英国地方制度の法的枠組みと1970年代時点の状況
第1章 19世紀はじめの地方における各種行政と行政主体
第2章 救貧法行政と都市自治体の改革―1830年代の動向―
第3章 公衆保健衛生と地方制度改革
第4章 1870年代の地方制度改革―体系的な保健衛生行政体制の整備―
第5章 地方行政組織の簡素化と民主化―1880~90年代の改革―
第6章 19世紀末におけるイングランド地方制度
第7章 19世紀における地方制度改革の思想的背景
第8章 地方公営企業の展開―19世紀における発展と公営化をめぐる論争―
第9章 20世紀前半における地方制度
第10章 第2次大戦―戦時下の地方行政―
第11章 第2次大戦後から1950年代における動向
第12章 ロンドン郡制の改革
第13章 1974年地方制度改革
第14章 英国地方自治の特色

本書はともかく目次が細かい。上では章のタイトルしか書かなかったが,14章まであり,節(1-1),項(1-1-1)のその下((1))まで細かく書かれていて,目次だけで17ページとなり,さらには本書に登場する法令が年表にされていて,本書で言及されている箇所が示される索引が8ページ,といった具合。なお,本書では地方自治単位を,Local Government Units(LGUs)と呼ぶ。英国ではlocal authorityと呼ぶそうだが,言葉通りの地方に権限はなく,あくまでも中央政府の出先機関的な意味合いが強く,本書では自治を強調する意味でgovernmentの語を用いている。
まずは私が知りたかった行政単位のことを整理しておこう。パリッシュ(parish)は「19世紀初頭のイングランドで一応は普遍的に存在した地方行政単位」であり,「イングランド国教会…の教区」(p.25)である。パリッシュは封建制の崩壊の過程で,16世紀頃に「単なる教会の担当区域である以上に,地域住民による宗教的自治組織としての性格を強めた。」(p.25)とある。岡田氏の読書日記の際にも書いたが,キリスト教の教義の一つである救済に従うものである貧民救済(救貧)を中心的な行政サービスとして,17世紀には公共道路の管理も担っていたという。その業務を担う委員や役員も生まれ,法案も作られるなど,行政組織としての性格を強めていく。1832年に「中央政府は,「救貧法に関する王命委員会」を設立し,実態調査と改革の提言を求めた。」(p.29)。その報告書を受けて,「新しい行政区域は教区を統合して,地理的・行政的な便宜を主とすること」(p.29)ということだが,地理学者としてはこの辺りがもっと細かく知りたいところ。
カウンティ(county)は「パリッシュより広域の地方行政の単位」(p.30)であるが,この行政単位としての語は英国の植民地をはじめとして世界で広く認められる単位のように思う。イングランドでは同様にシャイア(shire)という語もあり,地名の語尾に用いられているものも多い。本書ではカウンティが州と訳されることが多く,日本的には府県に当てはまるとしているが,米国のこともあり,広さはともかく何となく「郡」の訳語が私的にはしっくりくる。カウンティの起源は「11世紀のノルマン・コンケストの頃には,イングランド全域が「シャイア」とか「カウンティ」と呼ばれる区域に区分されていた。」(p.30)という。英国の植民地では,タウンシップが輸出され,本国とは異なり,隙間を埋めるような方形状の区画で入植地を広げていったわけですが,本国イングランドでも侵略の文脈ではトップダウンの地域区画が行われるのだろうか。
続いて,バラ(borough)というご行政単位になるが,「「バラ」の地位は,ある程度の都市的形態が整った町に,その資産の提供と引き換えに国王が発する勅許状(Royal Charter)によって付与された。」(p.32)とあり,パリッシュとは異なり,都市的性質を持つということが重要である。そして,「国会の庶民院(House of Commons)に議員を送り出す権利が与えられたこと」(p.33)も重要のようだ。私の関心は岡田氏の読書日記の際にも書いたように,1835年に制定された都市自治体法(Municipal Corporation Act:岡田氏の訳は「都市法人法」)にあるが,これがバラと大きく関係しているという。バラは国会議員の選挙における重要な単位だが,1832年に選挙法が改正されている。また,この時期の法制改革は急進派のホイッグ党によって推進されたものであり,1833年に「都市自治体に関する王命委員会」が設置され,「都市におけるガバナンスの「欠陥」の調査に乗り出し」(p.35),1835年に報告書が公刊される。簡単にいうと,パリッシュは善によって成り立っている地方団体だとすれば,バラの方はそもそもが資本主義と結びついた人たちによる閉鎖的で特権的な団体で,それが故に腐敗が進んでいたようだ。
このように,イングランドの行政単位は,広域のカウンティがあり,その下部組織として出自の違うパリッシュとバラがあったということのようだが,それぞれが提供する行政サービスの種類も異なり,どちらもが管轄しない領域を「アド・ホックな地方行政主体」がカバーしていたとのこと。現代日本では,役所にさまざまな部署があり,それぞれが担当領域の行政サービスをし,地方自治体はそれらを一体として管理しているが,19世紀前半のイングランドではそうでなかったということだ。しかし,このバラを中心とする1930年代の改革に加え,救貧を中心にしていたパリッシュ側の行政サービスも拡大をみせる。貧困者救済というものと,医療に関わる領域とはどちらも人命にかかわるものだが,医療の領域は,この時代にあって,健康や衛生と強く関わるようになり,それは同時に農村から都市へと人が移動し,過密状態で産業が発展することで住環境が幾重にも悪化し,そこに感染症が拡がる,ということもあり,貧困者救済の領域が都市に及び,また医療や健康の領域が都市衛生という土木の領域へと拡大していく。そういうなかで,救貧=パリッシュ,都市整備=バラという境界も徐々に失われていったのだと思われる。この時代の地方行政改革は救貧法(1834年に改正される)と都市自治体法という両輪によって進められ,それは同時に都市自治体法側の選挙制度の改革によって国=政府との結びつきも強めていく。1860年代には公衆保健衛生法というのが作られるようになっていくが,その際に水道や埋葬,下水などさまざまなインフラのための法整備がなされるようになり,さらにはそうした改革は教育にも及んでいく。
1888
年には地方自治体法(Local Gorvenment Act)が制定され,その過程で,バラがカウンティに含まれる下部行政区分として,カウンティ・バラ(CBs)となるものも出てきて,現代日本の都道府県-市町村のような二層構造ができあがってくる。ただ,田園部では,非カウンティ・バラというのが作られるものの,別でディストリクトという区分も作られ,市街地ディストリクトと農村部ディストリクトという区画ができ,パリッシュはこの農村部ディストリクトに含まれるという,まだまだ複雑な地区区分が19世紀後半でも存続していた。
ここまで19世紀イングランドの地方行政改革について説明してきましたが,第7章は打って変わって,当時の地方自治改革を支えた思想的背景について論じていて,とても読みやすくなった。フーコーがそのパノプティコン(一望監視式監獄)を論じたことで有名になったベンサムは他の論文でも取り上げられていた。ベンサムの功利主義の存在がこの時代には大きいようだ。ベンサムの功利主義をきちんと学んだことはなかったが,行政組織を無駄なく合理的に遂行できるようなものにするこの思想は確かに現代に向かってますます重要だと感じた。また,本書ではJ.S.ミルの『代議政治論』(1861年)が紹介されていて,中央-地方関係についても論じられていて興味深い。
8章は「地方公営企業」というのがテーマだが,この章がまた興味深い。岡田氏の読書日記の際に論じたが,20世紀後半から世界的に進展した新自由主義の下,多くの行政サービスが民営化した。日本ではその傾向がまだまだ進行形だが,先んじていたヨーロッパでは近年再公営化の動きがあるということを書いたが,なんとイングランドでは19世紀に公共が強かったわけではないらしい。岡田氏の著作の中に「共同から公共へ」という流れが19世紀前半にあったということを書いたが,その改革を受けても,現代と同じような公共サービスにすぐに移行したわけではないらしい。それが,本章で論じられる「地方公営企業」というものだ。際に公衆衛生の議論をしたが,公衆衛生を実現するために,現代に通じるインフラ整備がなされるわけであり,ガスという新しい技術,エネルギーが登場する。1835年に都市自治体法が制定されたが,岡田氏の訳では都市法人法であり,都市=バラに法人格が与えられたということは説明した。法人とはcorporationであり,企業に近いものでもあり,営利目的ではないものの,地方公営企業とはそういう形で水道やガス事業を行っていたということになる。日本ではまだ多くの自治体で水道やごみ収集などは(事業自体は委託されていたりするが),公共サービスとして行われているが,電気やガスは元々民間企業で,電話や郵便,鉄道などは順次民営化された。そういう意味では,こうした公益部門というのは行政だったり民間企業だったり,それぞれの事情があるが,当時のイングランドでも地方公営企業が増えてくる中で,さまざまな意見があったようだ。そんななかで,「都市社会主義(Municipal Socialism)」なるものも勃興したりと,なかなか興味深い。
9章以降は20世紀以降の話で,英国に加えて,フランスとドイツについても,第二次世界大戦から戦後にかけての話が整理されている。英国では1974年に大きな地方制度改革がなされた。現代に向けて制度が複雑化し,なかなか理解できないので,この読書日記はこの辺にしておきたい。

| | コメント (0)

【映画日記】『ロストケア』『名探偵コナン 黒鉄の魚影』『若き仕立て屋の恋』

2023年415日(土)

調布シアタス 『ロストケア』
松山ケンイチと長澤まさみが出演する作品。積極的に観たいと思う作品ではなかったが,たまたま空き時間に上映時間の都合も良かったので観ることにした。原作があるので,成田悠輔氏の「高齢者は集団自決」発言とは直接関係ないが,相模原の障害者施設での事件などと併せて,『PLAN75』などと同様の作品と位置付けることもできるが,映画としてはかなりエンタテイメント性をもって仕上げられている。まあ,ここまでで十分ネタバレもあるが,高齢者介護サービス企業で働く松山演じる男性。そのサービスを受けていた高齢者の一人が強盗殺人,そしてその企業の社員もその場で亡くなっているという事件から,その施設でサービスを受けていた高齢者の死亡が多いことが判明する。その事件を追う長澤と,被疑者として浮かび上がる松山とのやり取りが一つの見せ場。要は,介護訪問サービスを利用しながらも働きながら(さらに子育てしながら)高齢の親を介護する人の苦しみ,また家族に負担をかけているという思いから介護を受ける親,そうした人たちをその苦しみから救う(ことになる第三者による殺人)を松山演じる主人公は「ロスト・ケア」と名付けているというお話。小説としては,ある意味理にかなったこの殺人を正当化できるのか,それでもやはり殺人はいけないのか,その辺りを考えさせる作品だといえるが,こうして映画化されるとその辺りの深みが薄らいでしまうような気もしないでもない。それにしても,柄本明の演技はさすがだと思った。
https://lost-care.com/

 

2023年416日(日)

府中TOHOシネマズ 『名探偵コナン 黒鉄の魚影』
名探偵コナンシリーズに関しては,兄妹で完全に好みが分かれた。兄は幼い頃から幽霊や殺人など,一般的に人が怖がるようなものを避ける子どもで,妖怪ウォッチすら怖くて見られなかった。一方妹は少女漫画の幽霊ものやイジメものなど,お化け屋敷などは苦手のようだが,ある程度までは好んで読むような子どもである。なので,テレビシリーズの名探偵コナンはほとんど観ないのだが,近場の映画祭で再上映していた作品から,気に入ったようで,毎回劇場版は観るようになった。兄も一度は一緒に付き合ったし,妹が数冊買ったコミックは好んで読んでいるのだが,劇場版には付き合ってくれなくなった。ということで,今回も父娘の2人で観ることとなった。
劇場版名探偵コナンは当たり外れがあるような気がするが,今回はかなり当たりだった。けっこうグローバルに展開する劇場版コナンだが,今回はグローバルに展開しつつも日本が舞台ってのが親しみやすくてよいし,灰原哀が活躍するものはストーリーが引き締まるような気もする。娘も気に入った様子。当分,劇場版は2人で観続けることになりそうだ。
https://www.conan-movie.jp/

 

2023年51日(月)

新宿シネマート 『若き仕立て屋の恋』
短編集『愛の神,エロス』の1編として,2004年に公開されたウォン・カーウァイ監督作品が,ロング・ヴァージョンとして公開されているということで,妻と2人で観に行った。2004年に日本で公開された際に観に行ったはずだが,さすがに20年経つと覚えていない。20年前というと妻とも出会っていないし,その後結婚して子どもが産まれ,その子どもが中学生になってということだから,まあ仕方がない。ただ,かなり新鮮な気持ちで観ることができました。独身時代はかなりエロティックな作品も好んで観ていたので,この短編集も当時としてはそんなに刺激的に感じることはなかったが,改めて,しかも妻と一緒に観るというのは少し抵抗がある。でも,なんだか本当に新鮮な映画体験だった。
https://eiga.com/movie/99259/

| | コメント (0)

« 2023年4月 | トップページ | 2023年6月 »