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2023年7月

【エンタメ日記】『山女』,田沼武能写真展,高麗博物館,『劇場版Re: STARS』

2023年715日(土)

この日は午前中の支部会議が長引き,観る予定だった映画に間に合うかどうかやきもきしながら電車に乗る。新宿の武蔵野館で上映している『クロース』は完全に間に合わないので,明大前で井の頭線に乗り換えて次の候補であった渋谷に急ぐ。駅に着いてから上映開始まで10分ほどしかないが,急いでみる。

渋谷ユーロスペース 『山女』
元々の予定で恵比寿の東京都写真美術館に行くつもりだったので,都心でなくては観られない作品を選んで,時間と場所でちょうどよかったのがこの作品。なんとか予告編前に間に合った。「18世紀後半の東北の寒村」という設定で,数年日照が足らずに不作が続く時代の苦難を描く。小さな村の中では,わずかな食糧をめぐって足の引っ張り合いがあり,そんななか,山田杏奈演じる女性が,自ら村の人数を減らすために村人でもなかなか入り込まない山の奥へと入り込んでいく。そこで,森山未來演じる山男と出会い,村とは異なった生き方を見出していく。暗~い陰湿な社会の話が,この山男,そして彼に信頼をおいて新しい人生を歩もうとする「山女」の姿になんとなくコメディ的な雰囲気というか,希望を感じさせる面白い作品。山田杏奈さんの存在感もなかなか良かった。現代劇の演技も見てみたい。
https://www.yamaonna-movie.com/

恵比寿東京都写真武術館 田沼武能写真展「人間賛歌」
私が田沼武能さんの作品の研究をしていることはここでも何度も書いているが,昨年の6月に亡くなり,1年が経ったということで,恵比寿ガーデンホールで偲ぶ会が開催されるという案内を受けた。写真展としての偲ぶ会がこの展示である。戦後の東京を写した作品,世界の人々,そして武蔵野の姿。田沼さんが生涯手掛けてきた主要なテーマに沿っての展示だった。写真集はそれこそ何冊もわが家にはあるが,改めてしっかりとプリントされた作品を観ると,やはりこの写真家の偉大さを感じる。それぞれの時代背景やその場所の特徴を写し込み,また被写体の人物の本質を写すような印象を観る者は受ける。どういうシチュエーションで田沼さんがシャッターを切ったのだろうと想像力を働かせるのだが,それが非常に難しい。どうやってこの場に居合わせたのだろうという意味では,写真家としての存在が透明に感じるし,笑顔を向ける子どもたちの表情を見ると,まさにその視線の先に穏やかにほほ笑む田沼さんの姿があったと感じることもある。本展示はテーマに沿って分類されてはいるものの,世界の人々については時代や国をあえてバラバラに,撮影されたテーマに沿って緩やかにまとめられてはいるが,田沼氏が長年変わらない姿勢でカメラと向き合い,世界と向き合ってきたことが分かる展示になっている。特に,私が集中的に研究してきた作品は20世紀のものだが,21世紀に入っても,高齢になっても変わらない精力さで世界をめぐり,さまざまな境遇にある人たちの姿を取り続けた,やはり唯一無二の写真家であることを実感し,そんな田沼さんの作品に研究者として(私自身は批評家だと思いたいのだが)向き合ってきたことを誇りに思った。
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4532.html

 

2023年719日(水)

この日は前期の最後の授業。Twitterで流れてきた情報だったが,関東大震災100周年ということで,その時に起こった朝鮮人虐殺に関する展示があるということで,行きたいと思っていた。水曜日は一時限に国分寺で授業をし,午後の三時限に高田馬場で授業がある。いつも一時間くらいの余裕があるので,その前に新大久保に立ち寄って展示を観ることにした。

新大久保高麗博物館 「関東大震災100年~隠蔽された朝鮮人虐殺」展
新大久保は日本で有数のコリアンタウンになっていることもあり,韓国との物流業者などが集まるビルの7回に高麗博物館があった。本来の展示時間は12時からだったが,30分前に着いてしまった。しかし,館内ではすでに見学されている方もいたので,入ってみると見学OKということで,400円を支払って見学を開始する。すでに見学していた方々は団体でスタッフの解説付きだった。私も一人で見学していると,「これから質問など意見交換をしますので,よろしければ一緒にご参加ください。」と声をかけられたので参加することにした。この団体がどのようなものかは分からなかったが,40代くらいを中心とする女性ばかりの団体だった。
この朝鮮人虐殺はヘイトクライムでありジェノサイドだが,そうした事柄に詳しい方もいたし,日本の政治問題全般に関心がある人もいた。こうした日本人による加害の歴史を侵略戦争の歴史も含めてその教育における問題に関心を持っている人もいたが,素朴に韓国文化が好きで来たという人もいて,さまざまな参会者に対し,案内人であったスタッフの方が全員に一言コメントをお願いした。そのなかには,この史実をあまり知らずに,でも韓国文化が好きで韓国人の友達もいて,この史実を知り今度その友達にどう接すればいいのかと涙ぐむ人もいた。ひとそれぞれの受け止めがある展示だった。個人的にはネットオークションで落札した絵巻物に虐殺のシーンが描かれていたということで,その展示があったこと,それから過去の関連書籍の現物が読めるように展示されていたこと,こちらがすごかった。基本的な展示内容は,500円で販売されているカタログを購入すれば家でじっくり読めます。

 

2023年722日(土)

立川立飛TOHOシネマズ 『劇場版Re: STARS~未来へ繋ぐ2つのきらぼし』
息子も中学校に上がり,ここのところは娘と2人で過ごす休日が多くなった。一番手っ取り早いのは映画を観に行くことなので,この日も調べていたら,全く知らないアニメ映画があったので,早速娘に予告編をみせると,観たくなったとのことなので観に行った。予告編を観ただけだったが,「劇場版」と銘打っている以上アニメでも放映していたようだが,なんとこのアニメは中国製だった。そして,吹替は音楽系(?)YouTuberユニットによるものとのこと。やはりステージのシーンとかがかなり手抜きでうーんという感じではあったが,そこそこ楽しめた。なお,客席は若い女性が多く,そのYouTuberファンなのか,アニメのファンなのかは分からない。
https://re-stars.com/movie/

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【読書日記】阿部 潔『シニカルな祭典――東京2020オリンピックが映す現代日本』

阿部 潔(2023):『シニカルな祭典――東京2020オリンピックが映す現代日本』晃洋書房,176p.2,000円.

 

2020年の4月に発行された前著『東京オリンピックの社会学』に次いで著者から送られてきた本書。前著が本来の東京2020オリンピック開催の直前に発表された,いわゆる事前分析だったのに対し,本書は1年大会延期後,2021年7月に実際に開催された東京2020オリンピックに関する事後分析。前著は中止になった1940年大会と実施された1964年大会にもページを割いていたが,本書は2020年大会に専念し,目的を「こうした東京2020オリンピックをめぐる一連の不可思議な動向と現象を振り返ることを通して,今の日本社会に見て取れる特徴を浮かび上がらせることが本書の主たる目的である。」(p.i)としている。

はじめに
序章 東京2020オリンピックと〈わたしたち〉
第1章 大会のゆくえ――ネット世論とメガイベント
第2章 危機と祝祭の表象――開閉会式パフォーマンス
第3章 祭典のただ中で――不可思議なパラレルワールド
第4章 喧騒のあとで――落ちた「憑き物」
第5章 世論の背景――「もやもや感」の記号論
第6章 シニカルな大会――浮かび上がる〈なにか〉
第7章 オリンピックはユートピアなのか?
終章 シニシズムから脱するために

前著について私は学術雑誌に書評を書いた。もちろん,著者は著名な社会学者であり,多少は文章を読んでいたが,書評を書くにあたって,過去の著作を2冊ほど読んだ。1964年生まれという,私より一世代上の社会学者ということもあり,現代思想や記号論の影響を受け,日本へのカルチュラル・スタディーズの導入に貢献した世代の一人。吉見俊哉が1957年生まれで,若林幹夫が1962年生まれ。都市やメディア,ナショナリズムなどのテーマへの関わり方はそれぞれで,各人個性を持っている。そんな特徴は本書を通じてもよく分かる。
序章では本書の目的を位置づける作業がなされていて,東京2020オリンピックを語りながら,実のところはその合わせ鏡としてのわたしたち日本人を論じる。本書は委最終的にはわたしたちから構成される日本社会を論じるのだが,序章ではその前段階としての〈わたしたち〉を議論している。ただ,ここでいう〈わたしたち〉はカルチュラル・スタディーズ以前または初期のメディア研究がそうであったように,具体像をおびたそれではなく,「大衆」のような形でメディア(=オリンピックというメガイベント)を通して表象される大衆像にすぎない。しかし,本書の面白いところは,かつての大衆像が,著者とは切り離された,そして場合によっては特権的な立場に置かれた著者=研究者から見下されるある種軽蔑的な存在でありがちだったのに対し,本書では著者という唯一の具体的で主観的な実在する人物を中心として肉薄された大衆像であるように私には感じた。研究者としてオリンピックに対峙するという意味では,読者である私自身はある程度著者の立場を共有しながらも,実際として開会式や競技についてはほとんど観ることのなかった私,そして完全に反オリンピックの運動家たちに賛同していた私とは全く重ならない部分もある。
1章は,雑誌『世界』の特集「イベント資本主義」に掲載された論考を基にしていて,大会開催直前までの顛末を,本書の後半へと導かれる議論に沿って簡潔に整理されている。ここでまでは,正直新たに知る事項,また新たな思考を引き出されるような面白みを感じる場面は多くなく,本書について本格的な書評を書くべきかどうか,積極的な意義は見出されなかった。第2章については,著者が1998年の長野冬季オリンピックの開会式について詳細な分析を過去にしていたこともあり,非常に手慣れた感じで開会式と閉会式の様子が報告され,分析されている。
3章は開催直前と開催中について,第4章は開催直後についての日本社会の状況について,第3章では,大会関係者が用いた「パラレル・ワールド」という言葉を用いて,第4章では「憑き物」という言葉を用いて議論している。本書は一貫して,個々の事項について突き詰めてその事実を詳細に確認していくような作業はほとんど行われない。細部について説明し始めるとその説明に紙面を費やしてしまうし,また全体像を見失ってしまう。本書の目的はあくまでもその細部(シニフィアン)に現れる全体像(シニフィエ)の解明に主眼があるものだと理解される。「パラレル・ワールド」とは空港からバブル方式で日本に住む人たちとは疫学的に区別された形で移動し,選手村や競技会場のみで活動することで,新型コロナウイルスの感染拡大を封じ込めるという意味で用いられた言葉だが,最終的にほとんどの競技会場は無観客で実施されることで,遠い国で開催されるオリンピック大会をテレビ中継で観戦するという「いつものオリンピック」を日本(東京)に住む人たちは体験したのだという。しかし,一方ではこの大会のために多大な犠牲を払って建て替えられた新国立競技場で開催されているであろう開会式を少しでも身近に感じたいという市民たちが競技場周辺に集ったという事実は,身近にありながら遠くに感じるその「パラレルな=平行の=いくらいっても交わることのない」二つの世界をなんとかねじれさせて一つにしようという欲望なのかもしれない。「憑き物」というのもなかなか面白い表現である。本来は本人が意識せずとも付きまとって離れないような感じだが,本書では開催中はなんだかんだでテレビ中継に翻弄され,これまでの顛末を忘れるかのように,オリンピック大会を楽しんでしまい,しかし大会終了後は何物もなかったかのように日常生活に戻るという,まさに「いつものオリンピック」だったということ,しかし開催前の顛末があったが故に,日常生活への回帰は遠い国で開催された大会よりもより容易だったという議論はなかなか興味深い。また,ここまでの論調で気になるのは,雑誌『世界』では,2016年の時点で明確に「理念なきオリンピック」と特集号を組んでいて,その他の多くの論者もこの大会を東京で開催する意義などないし,「復興五輪」というスローガンもまやかしでしかないということは明言している。しかし,本書の著者は何度も「…ではないのではないか。」という表現を繰り返し,明言はしていない。もちろん,ものによっては安易に断言せずに問いかけを続けることに意味がある場合も多いが,この点に関しては断言していいと思う。
5章が本書の山場である。「はじめに」でも触れられているが,本書では東京2020オリンピックをめぐる事項を「グレマスの四角形」を用いて分析すると書かれている。「グレマスの四角形」といわれても,記号論にそこそこ詳しい私でも何だか分からなかった。第5章の冒頭にその解説があり,フレドリック・ジェイムソンが『未来の考古学』で,フランスの記号論者グレマスが考案した「記号論的四角形」のことであるという。『未来の考古学』は翻訳もあり,その存在は知っていたが読んでいなかった。ユートピアを主題としてSF作品の分析をしているとのことなので,是非読まなくては。さて,その記号論的四角形は本書の解説を読む限り,「S」と「上にバーがついたS」で表現されている。このSは単にSignSかも知れないが,上にバーがついているのは私の売る覚えな知識ではジャック・ラカンの図式だったようにも思う。Sは主体SubjectSで大文字と小文字とバーありとなしとで図式化されていたような。本書にはその辺りの説明がないので,ジェイムソンを読んで確認したい。どうやらグレマスの著書もいくつか翻訳があるようだ。また,本書の図式の中には「中立項」というものもあり,これまた売る覚えなのだが,ジェイムソンの「消えゆく媒介者」という概念との関係も気になる。
まあ,その辺りの詳細が分からなくても本書の理解には支障はない。ともかく本書では,東京2020オリンピックをめぐるさまざまな対立項を交差させ,このグレマスの四角形で複雑化させて論じていく。その巧妙な論の展開に思わず唸ってしまう。やはり本書は学術雑誌に書評を書くべきではないかと思い始める。決してページ数が多くないこの第5章の中に,東京2020オリンピックに関連する四角形の図式は6つも示されている。「図5-2 理想⇔現実」「図5-3 賛成⇔反対」「図5-4 祝祭⇔危機」「図5-5 リアル⇔ヴァーチャル」「図5-6 開催⇔結果」「図5-7 憑かれる⇔つかむ」ここでも少し気になるのは,賛成⇔反対の図式で登場する「どうせやるなら」という文言である。「なんとなく賛成」と「なんとなく反対」というとらえ方で,開催直前に反対派の世論が急激に増えたことを説明しているのは非常に説得的なのだが,「どうせやるなら派」というのは小笠原・山本編『反東京オリンピック宣言』で主張されたもので,編者の二人はその後の著書でも繰り返し使っている。もちろん本書では2022年の『東京オリンピック始末記』には言及されているのだが,もっとしっかり言及すべきかと思う。いずれにせよ,一つの図式を詳細に説明せずに次から次へとテンポよく論じていく展開は,冒頭にも書いたように,このメガ・イベントを俯瞰的に解釈するという目的には沿っていると思う。しかし,やはり反対派にコミットしたい私のような読者にとっては,物足りない印象が残る。第5章の最後に「潜在的対抗の失効――「反対」はなぜ力を持ちえないのか」という節があるのだが,本文を読んでも私が納得するような十分な説明はなかった。確かに,反対の声は開催を前に日に日に高まり,日本共産党もこの時期での開催には反対を表明するようになったものの,最終的には予定通りに開催され,大会は終了した。そういう意味では反対の声は力を持たなかったというのは間違いない。しかし,私の肌感覚では(あくまでも反対デモなどの現場に足を運んだわけではなく,TwitterYouTubeといったSNSを通じてだけだが),これはひょっとすると中止に追い込めるかも,と思うほどの勢いがあった。それまでは,反五輪の会による活動が継続的にではあるが細々とやられていて,20197月には都内で国際反オリンピック会議が開催され,米国からのNOlympicLAをはじめとする海外からの参加者があり,反五輪の会が中心となってはいるが,おことわリンクも共同していたし,研究者の多くも参加し,特に留学経験のある井谷聡子さんを媒介としてジュール・ボイコフなどの海外のオリンピック研究者も参加していた。1998年の長野冬季大会の反対運動の中心人物である江沢正雄さんの姿もあった。そうした,この頃には日本中,そして海外の反オリンピック運動家も連帯するようになっている。しかし,国内においてはまだまだ反対運動の拡がりがみえないなか,コロナ禍に突入し,開催が1年延期される。延期が決定された当初はおそらく1年くらい経てば収まるだろうと楽観的な考えだったと思うのだが,第2波,第3波と増減を繰り返すごとにそのピークの感染者数は増えていき,最終的には開催予定の1年後にも緊急事態宣言中だった。そんななか,その状況でも開催準備を進める日本政府,東京都,JOC,大会委員会に対し,多くの市民がしびれを切らしていたと思う。確かに,本書の著者が言うように,これまで「なんとなく賛成」だった者が「なんとなく反対」に回った結果が,世論調査8割の反対だったと思うのだが,先ほどの井谷さんも関わる形で多くの女性・フェミニストたちが街頭で声を上げ,反対を訴えるようになった。医療従事者も同様に声を上げ,とにかく森喜朗による女性差別発言の影響も大きいとは思うが,女性の反対意見が目立っていたように思う。反五輪の会の中心メンバーも女性だったし,そうした女性たちは「なんとなく反対」などという表現に回収できるようなものではなく,明らかに怒っていた。結果的に開催されてしまったことは確かに力を持たなかった結果としか言いようがないのだが,それを今年6月の国会審議で成立してしまった入管法改定案にも言えるのだろうか?いかに正当に反対しようとも,毎日のように数千人規模でさまざまな箇所でデモを行おうとも,結局は国会における数の力で議会を通過してしまう。
同じように,あの巨大なイベントをわたしたちは暴力を用いずに中止させる術はあったのだろうか?どういう「力」を持てば中止に追い込めたのか,逆に教えてほしい。東京2020オリンピックの開催は完全に政治権力と経済権力による反対派の弾圧以外の何ものでもない。先の戦争で日本政府が反戦意見を法律を使ってまでも弾圧したものと何が変わるのだろうか。
さて,本書による「プログラム/プロジェクト」という概念の語源的な違いにヒントを得た考察は非常に興味深い。著者は前著でも,レガシー概念を用いて,あらかじめ約束されたレガシーという考え方のおかしさを指摘していたが,オリンピックをめぐってはさまざまなプログラムとプロジェクトがあるが,プログラムというものは事前に決められたもの,プロジェクトとは事後に拡がっていくものが,語源的な意味合いであり,オリンピックをめぐってはすべてプログラムに収まってしまうものであると指摘する。この議論はとても面白いのだが,同じように本書の結論であり,書名でもある「シニカル」についても十分に議論してほしかった。そもそもシニカルとはどういう態度なのか,手元の『リーダーズ英和辞典』によると「cynical」には「皮肉な,冷笑的な,世をすねた」という語義が掲載されていて,本書での用法は「皮肉な」であることは分かるのだが,他の語義として捉えた場合どうなのか,そんな議論は無意味だろうか。
さて,ここまでで私はやはり本書は学術雑誌に書評を書くことで,上記のような私の立場からの批判を公の場でしておく必要があるようにも徐々に感じてきた。第7章は,本書が依拠するグレマスの四角形の根拠でもあるジェイムソンの著作がユートピアに関するものであることもあり,オリンピックをユートピアと見做した場合の議論を展開する。カール・マンハイムからルイ・マラン,若林幹夫など,数々のユートピア論を参照しながらの議論だが,ここは私がほとんど理解できなかった。そのことから,学術雑誌での書評を書くことはとりあえず断念し,こうしてブログ記事としているわけだが,オリンピック・パラリンピック大会がどのようにユートピアなのか,またユートピアという場合に単なる理想郷なのか,トマス・モアが描いたユートピア国のような一つの社会をイメージしたらよいのか,その辺りの議論の条件をしっかり示してほしかった。先に議論された「パラレル・ワールド」がその手掛かりにもなるのかと思うのだが,他の章との関りも十分に議論されていないようにも思った。
また,本書は東京2020オリンピックを通じて,この日本社会のあり方を照射することが目的だったように思う。確かに,上記で今年前半の国会に関して入管法改定案の話を出したが,日本政府に限らず,さまざまな自治体でも,強権的にさまざまな事項が上意下達で決定され,住民の意思を無視した政治がなされていて,それに対して強い抗議の声を上げ,行動に移す市民が一定程度いる一方で,その動向に反対をしながらも傍観している多くの市民がいて,そうした傍観市民を味方につけ(結局は選挙では自民党,公明党,日本維新の会が多くの票を集めてしまう,あるいは圧倒的多数の投票の放棄がある),数の力で押し切られてしまう。そういう構造は多くの事象とオリンピックとが重なり合うものであるが,そういう議論は本書にない。
最終的にオリンピックに向けられた批判を,著者自身はどのように解決策を考えているのか,そうした点にももう一歩踏み込んでほしかったと思う読書だった。

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【読書日記】講談社編『東京オリンピック――文学者の見た世紀の祭典』

講談社編(2014):『東京オリンピック――文学者の見た世紀の祭典』講談社,396p.1,600円.

 

東京オリンピックが開催された1964年の12月に刊行されたという本書。二回目の東京オリンピック開催が決定した2013年9月の後,2014年1月に「講談社文芸文庫」として,高橋源一郎の解説をつけて再版されている。
本書については,2020年大会に向けたオリンピック関連書籍のいくつかで言及があり,特に今回の大会を2016年大会時から招致していた石原慎太郎が,本書の中では1964年大会について,当時のIOCの会長ブランテージが言っていたという,表彰式の際に国旗掲揚・国歌斉唱をやめるという意見に賛成していたというのだ。確かに,「優勝者のための国旗掲揚で国歌吹奏を取りやめようというブランテージ提案に私は賛成である。」(p.33)とあり,国対抗のオリンピックのあり方に対して,この文章では疑義を呈している。この文章は10月11日,開会式翌日の読売新聞の記事である。しかし,10月16日の同じ読売新聞には,同じ意見を再び書きながら,「なぜならば,こう他人の国歌や旗ばかり仰がされたのではやりきれないから――。」(pp.274-275)などと書いていて,さもありなんと感じた。
まあ,ともかく読んでみないと分からないことはよくあるので,とりあえず読んでみることにした次第。なお,構成は下記の通りで,ともかく多くの人たちが新聞・雑誌に意見を寄せているのは,やはりインターネット以前の世界だなとしみじみ思う。

一,開会式
二,競技
三,閉会式
四,随想

石川達三が開会式について翌日の朝日新聞に書いた記事で,「日本でオリンピックを開催することについては,批判的な意見も少なくなかった。時期尚早という説,お祭り騒ぎだという説,もっと他にすることが有るだろうという意見。」(p.26)と書いているが,同じような記述は多い。しかし,本書にはおそらく開会式以前の記事は収録されておらず,具体的にだれがどのような「批判的な意見」を言っていたか,その情報源は本書だけでは特定できない。
私はその批判的な意見を探すために本書を読んだわけだが,基本的には目次にあるように,実際にオリンピックを見た人たちがそのことについて具体的な感想を述べるものになっている。2021年にオリンピックが開催された時点で私は新聞を取っていなかったし,テレビも見ていない。Twitterはやっていたが,開会式などについて文句を言うツイートは多かったが,実際の競技自体がどうだったのか,そういう情報は一切得なかった。今ですら,日本が金メダルをいくつ取ったとか,どの競技で優勝したとか,そういう情報ですらほとんど知らない。なので,今回の大会と1964年の大会を比較することなどまったくできないのだが,当然のことながらインターネットと程遠い1964年という時代に,やはり作家というのは今でいうところのインフルエンサーとなって,新聞・雑誌を中心とするマス・メディアはかれらの言葉を大衆に運ぶ役割を十分に果たしていたように思う。本書に書いている人たちの多くは実際に国立競技場や各競技場に足を運んでいる。当時の入場券の販売システムがどういうものだったかは分からないが,何となく,新聞社が事前に購入してあったチケットで観戦していたようにも思う。例えば,三島由紀夫は開会式と閉会式はもちろんのこと,競技についてもボクシング,重量挙げ,レスリング,水泳の飛び込み,陸上競技,競泳,体操,体操,バレーボール,と9競技について,朝日新聞と報知新聞に記事を書いている。他にも,石原慎太郎は6編の記事を,小田 実は5編,菊村 到も5編,大江健三郎が4編など多数の記事を執筆している者もいる。
読む限りにおいて,私は名前も知らない執筆者もいるが,既に名だたる作家という人も多く,オリンピック推進派に「忖度」するような文章はほとんどないように思う。それは時代の雰囲気もあるし,すでに開催前には批判的な意見を述べたが,などと前置きもする記事も少なくないが,そうしたところで言論弾圧を受けるような雰囲気も感じない。とはいえ,まだおそらくプロ野球も大リーグとの選手交流(助っ人外人はいつからきているのだろう)もさほどないし,サッカーなんて日本ではほとんどやられていなかった時期だと思う(そもそも野球もサッカーもオリンピック種目ではないが)。柔道はすでにこのオリンピックで話題になっているが,日本選手権などはテレビ中継されたり新聞で報じられたりしたのだろうか。ともかく,相撲やプロレスが一定の人気を持っていたことは想像できるが,こうした文学者であっても競技場で直接世界トップレベルの競技を目の当たりにするのは初めてだったのではないかと思われる。そういう意味でも,執筆者たちは素直に競技に興奮し,感動しているように思う。私もオリンピック研究を始めて,スポーツ競技を素直に観戦できなくなってしまったが,実家にいた頃はそういうものを積極的にテレビで見ていた父親と一緒に素直にスポーツ競技に感動したものだ。
なので,ここではそういうものを逐次論じない。否定的な記述だけを断片的に引用したいと思う。

「オリンピック反対論者の主張にも理はあるが,きょうの快晴の開会式を見て,私の感じた率直なところは「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」」(p.29,三島由紀夫10月11毎日新聞)
「僕は,自分でスポーツをやっている立場から,また,国家社会という批判すべき組織を考える立場から,今度のオリンピック開催に対して,しばしば疑問を提出して来たが,開催をしてしまえば,いうことはない。」(pp.94-95,有馬頼義10月15日朝日新聞)
電車の「周囲の乗客の会話。――オリンピックが終わると,自殺する人間がふえるよ。オリンピックまではと,思って生きてきた連中と,オリンピックの後の一億層虚脱でぐったりした連中が!」(p.221,大江健三郎11月8日サンデー毎日)
「オリンピックと聞いて嫌な顔をして,いろいろ悪口を言っていた人も,始まってみれば,案外,テレビの前を離れられないでいるのかも知れない。」(p.239,小林秀雄11月1日朝日新聞)
「「政治」は後者のヒルネ組をまるで「非国民」扱いをする。ヒルネ組の住まうところをないがしろにする。」(p.243,小田 実10月7日共同通信)
「オリンピック関係者はこの四年間,ずいぶん困難な事情もあったことだろうが,ともかくそれを押し切って,あらゆる面にわたって,東京オリンピック開催へ向かって,闘ってきたのである。」(p.246,井上 靖10月10日毎日新聞)
「オリンピックは太平洋戦争時のナショナリムズと,オーバーラップしてぼくたちには記憶されている。ぼくたちがオリンピックに複雑な気持ちを持つのは当然だろう。」(p.263,奥野健男10月14日読売新聞)
「オリンピックになれば,どこか東京をはなれて,いちばん純粋な形で競技そのものだけを楽しもうというのは,もう一,二年も前からの心づもりであった。」(p.268)「これだけの金,これだけの努力が,もしこの十年国民生活の改善,幸福の方へ向けられていたら,どんな結果が生まれていたろうか。」(p.270,中野好夫10月16日朝日新聞)
「実際はそうではないだが,オリンピックの日本開催がきまってから,われわれ東京に住む者には,随分,長い,うるさい毎日が続いたような気がする。国民の総意でもないのに,こういうものを押しつけるのは怪しからんという意見もあった。」(p.307,遠藤周作10月24日朝新聞)
「やはりオリンピックは,やってみてよかったようだ。富士山に登るのと同じで,一度は,やってみるべきだろう。ただし二度やるのバカだ。」(p.314,菊村 到10月24日読売新聞)
「二十億でメダルが十六個!約一個一億に千五百万円という計算になる。私はそれを,やはりムダづかいだと思うのだ。そんな浪費が社会で許されていいわけはないと思う。なぜなら,これは人間の生命にかかわる問題ではない。たった一人に二十億かかろうとも,グアム島の生き残りを救い出すためなら意味がある。」(p.356,曽野綾子11月9月号週刊サンケイ)

このように,部分的には素晴らしい意見もある。しかし,総体的には多くの記事がオリンピック大会を目のあたりにして賛美しており,否定的意見にも寛容な時代的雰囲気だったにすぎないようにも思う。とかく,この時代の文学者は政治的発言もできてなんぼという感じもしないでもない。振り返って,2020年大会時の文学者はどうだったのだろうか。ミュージシャンが政治を持ち込むな,とかそういうのは聞かれたが,文学者たちはどうだったのか,改めて考えてみたいと思う。

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【映画日記】『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』『1秒先の彼』

2023年624日(土)

府中TOHOシネマズ 『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』
私が沿線に住む京王電鉄で盛んに宣伝していた作品。駅にポスターが貼ってあったので,何気なく見ていたら,美波さんが出演していると知り,観に行った次第。まあ,ルーヴルがタイトルにあるので,フランスでのロケがあり,フランス在住の美波さんが出演しているのは納得。荒木飛呂彦原作ということで,ヴィジュアルにはかなり凝っているという意味では楽しめる作品だった。訳ありな感じで,ルーヴルのスタッフを演じる美波さんの存在もよかったし,まあ,ストーリー的にも面白い。ただ,このストーリーを実写というのは少し無理があったとは思う。飯豊まりえという俳優さんは,あまり好きな感じではないが本作では非常に重要な存在のように思った。ああいうキャラクタをしっかり演じるというのは意外に難しいのかもしれない。
https://kishiberohan-movie.asmik-ace.co.jp/

 

2023年529日(月)

立川シネマシティ 『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』
最近,娘と映画を一緒に観る機会がなかった(適切な作品がない)ので,いろいろ作品探しをしていて見つけたのがこちら。「青春ブタ野郎」は何か聞いたことがあり,本作もシリーズものなんだろうけど,予告編を観たら娘も関心を持って,私が観た限りでもこの作品単独として見ても理解できそうだったので,2人で観に行くことにした。なお,娘は公式ウェブサイトにあった動画を色々見ていた。
さて,映画館につくと,アニメファンの男性たちによって座席は埋め尽くされていました。なかには男女カップルの姿もあり,また年齢的にも若い人が多かったような気もしますが,娘のような子どもはほとんどいませんでした。主人公(?)の高校生男子は,同じ高校に通う先輩の女性とお付き合いをしているが,その女性は俳優をしている。男性には妹がいて,両親とは離れて2人で暮らしている。妹は中学を不登校になってしまい,高校受験に悩んでいるが,兄の恋人やアイドル活動をしているその妹の協力の下,高校受験を頑張る,といったストーリー。本作だけ観ると,この姉妹の関係や,妹がなぜ不登校になったのか,そしてこの兄妹の母親の存在と,なぜ両親と離れて暮らしているのか,さまざまな状況が気になるが,そこでふと考える。
そういうフィクショナルな作品中で作中人物の事情を知りたがるというのは,そういう情報をこれまで長きにわたって提供してきた近代小説が読者に与えてきたからであり,そうしたことが芸能人のゴシップに対する私たちの関心につながっているのではと思えてきた。そうした関心を私たちは隣人などにも向ける。そういう顔見知りの相手にはそういうプライベートなことを聞くことをためらうのだが,相手は全くこちら側を知る由もない芸能人とかフィクションの作中人物に対しては,その関係の不均等さから,プライベートの侵害という事柄から免れている(フィクションの場合はその通り)という錯覚に陥っているのではないか。だから,フィクションだからといってそうした情報を読者・鑑賞者にすべて提供する必要はなく,読者・鑑賞者を全知の第三者(神)にする必要もないのだ。近年の作品はそういう傾向にあるともいえ,そうしたのぞき見趣味的な私たちの感覚も少しずつ変化すればいいと思う。
https://ao-buta.com/

 

2023年79日(日)

府中TOHOシネマズ 『1秒先の彼』
息子が最新のインディ・ジョーンズ映画を観たいといってきたが,私は予告編でげんなりして観たくはなかったので,同じ時間に上映していた別の作品を観ることにして,息子には一人で観てもらうことにした。ということで選んだのは,2020年の台湾映画『1秒先の彼女』のリメイク版。脚本を宮藤官九郎が担当し,監督は山下敦弘。山下作品の『天然コケッコー』で主演した岡田将生と清原果耶のダブル主演で男女を入れ替えている。
主人公たちに起こった不思議な一日を,前半は男性の視点,後半は女性の視点で描く。岡田将生さんは比較的好きな俳優だが,京都を舞台とした本作では,冒頭から岡田君が発する京都弁がちょっと残念。こういう役どころってところなので仕方がないが,感情移入できずに後半へ。清原果耶さんは京王電鉄の高尾山のポスターに起用されていて,目にすることが多いが,『宇宙でいちばんあかるい屋根』という主演映画から注目している。大阪出身ということで,京都弁にも違和感はなく,表面的な人間として描かれる男性主人公に対して,内面的な人間として描かれる女性主人公には感情移入できる。話が進むにつれ,岡田さんの演技は清原さんの引き立て役に徹していたようにも思えてくる。そしてなによりこの二人の間を取り持つ役割を果たしていく荒川良々さんの存在が何とも言えない。久し振りにスクリーンで観て,白髪は増えたけど相変わらずの風貌で安心。
いい作品だとは思うけど,私には相変わらずがっつり好きになる感じにはならない山下監督作品。ネタバレになるが,時間が止まった一日についても,花火大会の後片付けをするシーンがあるのは設定上おかしいし,ちょっと無理のある箇所もあるが,まあいいか。
https://bitters.co.jp/ichi-kare/#

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【読書日記】渡辺憲司『江戸の岡場所』

渡辺憲司(2023):『江戸の岡場所――非合法〈穏売女〉の世界』星海社,302p.1,400円.

 

ある書店でふと見つけ,買わずにいられなかった。私は研究者を志した30年前から「場所」なる概念にこだわってきた。英語圏の地理学でplaceなる概念に関する議論が展開されていて,そこに関心を持っていたからである。しかし,その訳語としての「場所」という概念が思ったよりも厄介であるという思いをずっと抱いていた。その地理学によるplace論の一部は,日本語の「居場所」という概念に対応するように思うが,この概念はplaceが地理学以外にも拡大している典型のようなもので,サード・プレイス論なども含め,なんでもありような感じもする。
そこで,私はこの「場所」という言葉自体がどう使われるのか,というところに敏感になりたいと思っている。それにはやはり語源を辿ることが重要なのだが,日本語の場合,語源を辿る作業はそう簡単ではない。ということで,古い「場所」の用法として,「場所請負制」に注目している。また,相撲の「場所」という用法についても,相撲の歴史をそのうち学びたいと思っている。そして,本書によって私が初めて知った言葉である「岡場所」,これについて本書で学んでいきたい。
ちなみにこの出版社,星海社って初めて知ったけど,本書は「次世代による次世代のための武器としての教養」と銘打って2011年から始められた星海社新書の一冊。一般的な新書よりも横幅があるが,なかなか素敵な大きさで装丁も素敵。他にどんな本があるのか,書店で気にかけてみよう。
https://www.seikaisha.co.jp/

はじめに
第一章 岡場所とは
第二章 岡場所黙認の時代
第三章 岡場所禁圧の時代
第四章 岡場所活況の時代 その一
第五章 岡場所活況の時代 その二
第六章 深川雑考
第七章 遊里品川
第八章 北関東の玄関千住
第九章 岡場所根津盛衰史
第十章 夜鷹哀史――岡場所壊滅

さて,まずは岡場所の説明から。端的にいうと江戸時代の都市には遊郭と呼ばれる場所があった。私は観ていないが『鬼滅の刃』にも「遊郭編」とあるので,最近は有名な概念かもしれない。本書の序文(はじめに)は「吉原中心の遊郭史は,権力者側からの視点だ。」(p.3)という文章から始まり,本文ではあまり「遊郭」という言葉は使われない。本書は出たばかりの新刊であり,新刊を読んだら私の所属する学会の雑誌に書評を投稿したがるのが私だが,本書は私の立場では書けないなと思った。それは,後半をうまく咀嚼できていないと思ったからでもあるが,地理学内にも遊郭研究があり,それらをしっかり読まないと,気軽に本書について分かったようには書けないなと思った次第。ということで,遊郭とは何かという説明についても簡単にはできない。大雑把にいえば日本にも古くから買売春の文化はあり,公的に認めながらも,都市の一角に閉じ込めることで多くの人の眼には触れないような措置がとられていた。その一角を一般的に遊郭といい,江戸(東京)におけるその代表格が吉原ということになるが,本書において吉原とは「管理売春総師の名を権力に与えられた」(p.3)とされ,「ことに太夫とよばれた高位の遊女との交際は,高級社交場としての多くの人々の憧憬の対象となった。」(pp.3-4)とされる。それに対して,「江戸の盛り場の至る所に根を張り庶民の支持を受け,独特の文化土壌を育んだのが,吉原以外の買売春地域〈岡場所〉である。」(p.4)と端的に説明されている。端的にいえば,吉原は公的に認可された遊女である公娼が働く場であり,岡場所は認可されていない私娼が売春行為を行う場所である。5年前に読んだアラン・コルバン『娼婦』にも同じような議論があったと思い,自身の読書日記を辿ってみたが,ろくに本の中身を書いていない,あまり優れた読書日記ではないな。いずれにせよ,フランスでも売春を管理するために娼婦を登録制にするわけだが,そうなるといろいろとお金がかかり,買春する利用者の方も価格が上がる。登録者も無期限に増やすわけにもいかないため,登録をせずに安価で売春する私娼が増え,公娼と私娼,それは当人たちだけでなく,それをとりまく業者同士の軋轢の原因にもなる,そんな議論があったような気もする。
http://geopoliticalcritique.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-ed1f.html
さて,本書は帯に「江戸遊女史研究の第一人者がひもとく本邦初の岡場所入門の決定版!」とあるように,前半はとても丁寧で,私の知りたいことは大抵説明されている。「岡場所は,幕府後任,官許の吉原に対して吉原以外の非公認・黙認の遊里のすべてをいう。品川・千住・内藤新宿・板橋の四宿は,準官許で飯盛女を置くことが許されたので,岡場所から除くといった考え方もあるが,そこにいた遊女の多くは,黙認の形が多く生活実態も岡場所と同様であったと考える場合が多い。本書でも,四宿は岡場所として扱った。」(p.19)とある。最終的には「岡場所」という表記が一般的になるが,「岡」とは吉原の「外(ほか)」「他(ほか)」であるとか,「岡目八目の岡と同じく局外の意である。」(p.18)と説明される。そして「傍(おか)」という「わきの意味から転じたという節もある。」(p.18)という。実際の表記の実例も挙げられ,1779(安永8)年刊の『深川新話』に「岡場所の公界しらず」といった表現があり,「公界しらず」という表現については,1623(元和9)年刊の『醒酔笑』に「汝がやうなる公界知らずには,ちと仕付を教へん」という語例もあるという(p.19)。「岡場所」という言葉の定着についてもしっかりと書かれている。1756(宝暦6)年刊の『風俗八色談』に「言葉遣も吉原と踊り子と岡場所といりまじり,半分づつ物をいふを粋と覚へ,座つきこころばへまで野鄙に成しなり」(p.24)という記述を引用している。他にもいくつも用法を列記し,18世紀中ごろには「岡場所」という言葉が上記の定義の語義として定着していたという。
そうした,時代背景と本書のテーマである岡場所という事象と言葉の成立とを確認した上で,その岡場所の変遷を時代区分して話を展開していく。
岡場所黙認の時代:16世紀後半から17世紀前半までの約70年間。散娼から集娼への進展
岡場所禁圧の時代:17世紀後半から18世紀初頭までの約60年間。新吉原の開設(1657年)
岡場所活況の時代:18世紀初頭から18世紀末までの約70年間
岡場所壊滅と放縦の幕末の時代:18世紀末から19世紀後半の明治維新までの約80年間
ということで,目次はこの区分に沿っていて,古いところから始まります。
ここで,新吉原と書いたように,それ以前にあったものを旧吉原と呼んでいる。本書によれば,通説では1605(慶長10)年に庄司甚内なる人物が幕府に遊郭の設置を願い出て,1618(元和4)年に日本橋葺屋町の東隣に遊郭を開業したとされている(p.34)。これは,その当時から江戸に遊女屋が散在していたことから,「江戸の風俗の乱れを正す」(p.36)という目的から,管理売春を目的としたことから設置された遊郭が吉原ということになる。買売春の管理という話は人身売買という話に展開していく。そこで,なかなか興味深い記述がある。「17世紀の東アジアのグローバル化はすさまじいものがあった。その仲介的な役割を果たしたのがキリシタン商法である。キリシタン弾圧という非人道的な宗教政策を念頭に置かなければならないが,きわめて多くの女性たちがキリシタン商人の手によって奴隷として海外に流失したともいわれている。」(p.40)吉原は当初「葭原」と表記されていたようだが,営業時の1618(元和4)年に吉原と改名されたとのこと。「吉原の歴史の始まりは,新たな私娼史,岡場所史の始まりを告げるものであった。」(p.42)
あまり詳しく解説してもきりがないので,後は大まかに紹介することにするが,上記の時代区分に従う岡場所の変遷も常に吉原との関係とともにある。吉原という公式な遊郭がありながら,高価でそこには行けない買春する男たち,そして公娼にはなれないが売春をする私娼たち,そうした需要と供給の原理で吉原以外に買売春する場が生まれたということだ。自然発生であれば,「場所」として集まる必要はないのだろうが,現代でも映画館や演劇場,本屋などが自然に集まって立地するように,やはり売り手にとっても買い手にとっても,ある程度ここに立地すれば商売が成り立つ,といったような「場所イメージ」とも呼べるようなものがメディアの発達以前にもあったのかもしれない。本書では「湯女」という存在が説明されている。現代に続く銭湯のようなものではないようだが,有料の風呂で,「髪をすいたり垢をかいたりするなまめいた女性が,2,30人もならんで居た」(p.43)とされるようだ。現代のソープランド(行ったことはないので,実際にどんなサービスなのかは知らないが)に近いのだろうか。やはり現代の性風俗産業にもさまざまな形態があるように,吉原というフルサービスの買売春以外のさまざまなローコストサービスを提供する性風俗産業は成立していたというのは納得できる。しかし,そうした役割分担はいつでもお互いに干渉せずにすみ分けられるわけではない。特に,買売春を管理するために吉原を設置した幕府としては,そうした岡場所を黙認し続けられるわけでもない。とはいえ,その取り締まり方も面白い。端的にいえば,岡場所の私娼や業者を罰してやめさせるというのではなく,吉原に抱え込むのだ。そんなことをして,吉原が娼婦や業者で混み合ったりサービスが低下しないのかと気になるが,その辺りはさほど説明されていなかったように思う。ただ,上の時代区分で書いたように,禁圧の時代の後に活況の時代が来るわけで,そういう意味では岡場所への取り締まりというのは成功しなかったといえる。
とはいえ,岡場所活況の時代は18世紀に入り,江戸という都市自体が膨張していく時代であったことも大きいのかもしれない。第四章の冒頭では,内藤新宿という現在の新宿一丁目から三丁目に開発された宿場町の様子が語られる。なお,伊勢丹のある交差点が「追分」であると説明されていて,確かそこには「追分だんご」の店舗があったよなと思い出す。そういえば,時代劇などでも必ず宿場にはだんごやがあり,なんて想像をしてみたり。ともかく,「江戸の繁栄は拡散していた。江戸の庶民の郊外への行楽,レジャー文化は確実に広がりをみせていたのだ。新宿は,新興のレジャー基地の役割を果たしていた。」(p.93)という。活況時代の「その二」である第五章の前半は,この時代の飢饉を語り,1787(天明7)年の打ちこわしにも言及する。その影響で吉原も衰微の一途をたどったとされ,客層も遊女も格差が広がったという。1968年に出された岡田甫という人物の「江戸娼婦雑話」という文章では,江戸時代の娼婦の数は吉原に3,000,60箇所の岡場所に3,000人,夜鷹など4,000人,合計1万人と概算している。その詳細については著者が意義を申し立てているが,120万人ほどの人口の1%,1万人程度の売春婦が江戸のいたということは「あながち的を外れた数ではない。」(p.131)といっている。第五章の後半では,岡場所一覧として,19ページを使って,99箇所の岡場所について,過去の資料に基づいてそのランクも含めて丁寧に記載されている。そんな総論を踏まえ,第六章では深川,第七章では品川,第八章では千住,第九章では根津と,各論として各場所の事情を説明している。
上に出てきた江戸時代に4,000人いたという夜鷹については,『日本国語大辞典』を引用して,「特に,夜間に街頭に出て客を引く低級な売春婦」(p.270)と説明されている。個々人の売春婦かと思いきや,「吉五郎は夜鷹の差配の主人といった存在である。夜鷹の売価は,24文というのが通例である。そこから4文をピンハネして大儲けして獄門になったという話である。」(p.275)という人物もいたようだ。そして,「夜鷹とは組織的隠売女であった。本拠を本所・鮫ヶ橋などあるきまった場所に置き,夜店に出張として出向いたのである。」(p.276)とも説明されている。幕末に吉原も衰退し,「新政府は公認遊郭をさらに拡大し,疑似吉原は,全国に広がる。遊女たちはさらに深い闇の近代社会に閉じ込められていったのだ。」とし,「吉原の変質とともに岡場所の歴史もまた閉じた。近代の公界は暴力的に岡場所を取り込み〈苦界〉を広げたのである。」(p.295)と本書は結ばれている。

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【読書日記】『仕事文脈』vol.22特集「NO!論破!」「通勤は続く」

『仕事文脈』2023年,vol.22,タバブックス,131p.1,000円.

 

毎号楽しみにするようになった雑誌『仕事文脈』。今回の特集は「NO!論破!」ということで,雑誌のタイトルとはあまり関係なさそうだが,もう一つの特集が「通勤は続く」ということで安心する。こちらでも,特集の目次は付けるが,連載の目次はやめておいた。

特集1 NO!論破!
 わたしのミクロな平和活動:碇雪恵
 ひろゆきとブルシット的虚無:杉田俊介
 つながりと感情が武器化される時代に「論破」「冷笑」憎悪から距離を取る:礦波亜希
 Twitterから離れてみる
  情報や目にしているものがある時から固定化していた:すんみ
  差別発言でツイートを拡散するユーザーを手放せない仕組みに疲労:篠原諄也
 座談会「右傾化した父を持っている」について問い続ける
 小さな差別を聞き流さないことから『ヘイトをとめるレッスン』読書会
 「思想が強い」と冷笑する前に:竹田ダニエル
 「論破」はどこからきてどこへ行くのか ~世界NO論破~
特集2 通勤は続く
 通勤の破壊と創造:丹野未雪
 空白のビルボードを見つめて:小林美香
 浅草橋・天使の詩:オルタナ旧市街
 アンケート「通勤中の過ごし方」
 インタビュー 通勤がなくなった

このタイミングで論破といえばやはり「ひろゆき」。特集の冒頭の文章「わたしのミクロな平和活動」は論破と真正面から向き合うというものではないが,著者のいうミクロな平和運動とはZINE作りであり,「ZINE作りは,論破カルチャーに対抗するひとつの手段!」と結論付ける。そう,ひろゆきについて私はあまり知らないが,彼は書籍も多く書いているようだが,基本的にはTwitterYouTubeという短い書き言葉と,話し言葉での発信が特徴。それに対して,短くて基本的に自費出版的で発行が早い紙媒体であるZINEによる発信がほどよい時間の速度と文章の長さという特徴が,論破カルチャーとは相容れないものとして語られる。
ひろゆきに対する批判はいろんなところで目にし,耳にしていたので,この特集から新たに学ぶことは多くはなかったが,Twitterから離れてみるという試みや,座談会,そして韓国本の翻訳である『ヘイトをとめるレッスン』という著書の紹介という,この特集の後半から学ぶことは多かった。
そして,個人的には2つ目の特集である通勤の話が面白かった。私自身,大学入学時から2年間都心を経由する長時間通学というのを経験し,その後もさまざまな時間,経路の通学・通勤を経験してきた。入学時の長時間通学は辛いものだったが,それを何とか楽しみに変えて,音楽を聴く,読書をする,乗り換えを増やして鉄道に詳しくなったり,と自分なりにやむを得ない電車移動をポジティブに捉えるようになった。今回のこの雑誌における特集は,やはりコロナ禍でリモートワークがある程度進み,これまで当たり前に行っていた通勤という行為を考え直す機会になったということだ。こちらのアンケートやインタビューも興味深い。私がアルバイト勤務する会社でも,月に3,4回は出社するようにしているが,私が乗る通勤電車はコロナ前と変わらない水準まで混雑度が回復している。リモートワークを経験し,通勤の無意味さ(そのなかでも読書など意味を持たそうと努力する人は一定数いる)を知ったにもかかわらず,また多くの人が通勤に戻ってしまっているというこの現状。人々はどういう思いで混雑電車に揺られているのだろうか。
本号の連載記事も面白かったです。

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【読書日記】『エトセトラ』9号:伊藤春奈(花束書房)特集編集「NO MORE女人禁制!」

伊藤春奈(花束書房)特集編集「NO MORE女人禁制!」『エトセトラ』20239号,エトセトラブックス,141p.1,400円.

 

おそらく,エトセトラブックスの松尾さんが雑誌『文藝』を出している河出書房新社にいたことから,この雑誌でも「責任編集」という表現がとられていたが,前号から「特集編集」に変更された。単なる表記の問題のようにも思うが,個人的には「責任」という表現の強さが気になっていたので,フェミニスト雑誌としてはちょっとインパクトは薄れるが,この方がいいと思う。
さて,今回の編集長はこの雑誌でまさに「女人禁制」という連載を書いてきた伊藤春奈さんによるものです。過去にも紹介しましたが,伊藤さんは花束書房という出版社も主宰しており,と書きつつ,ここでいう出版社というのも私たちが思い浮かべる意味よりもおそらく広義であり,伊藤さんは場合によっては個人としてではなく,ある意味コレクティブ的な意味でこの名称を用いるのかもしれない。ともかく,女人禁制もこれまでの特集では個別具体的に語られてきた狭義のものだったが,本号ではさまざまな著者がさまざまな観点から女人禁制なるものを捉えることで,それは家父長制的な社会全般に当てはまるもので,フェミニスト雑誌にふさわしい特集であると同時に,地理学的にも興味深い。さらに言えば,昨今話題になっている「女性スペース」問題とも密接に関わり合う(実際に本号には女性専用車に関する論考もある)。

特集のはじめに:伊藤春奈
読者投稿:あなたが知っている「女人禁制」
〔天皇制〕「女人禁制」と天皇制:源 淳子
女人禁制「大峰山」への質問
〔寺〕インタビュー① 性的マイノリティも地元の人も誰もが入れる「みんなの寺」:性善寺・柴谷宗叙
〔寺〕インタビュー② 寺という場所から仏教やフェミニズムをちょっとずつ開く:ナモナ寺・野世阿弥
〔山〕「山の神」と「女芸人」に求められてきたもの:堀越英美
〔ラーメン〕ラーメンいちから作ってみたら自然と腕組みしちゃってた記:柚木麻子
〔古典文学〕「女人禁制」と『源氏物語』と出家,ついでに私:山崎ナオコーラ
能・卒都婆小町と私:はらだ有彩
〔落語〕インタビュー まっすぐ自分の声が出せるように:桂 二葉
〔祭り〕博多祇園山笠このホモソーシャルな世界:佐藤瑞枝
〔近代公娼制度〕〈女性の穢れ〉と近代公娼制度:林 葉子
〔部落〕「アナーカ部落フェミニストの会」設立への呼びかけ:山﨑那恵
〔キリスト教〕性への忌避――キリスト教の女性嫌悪・同性愛嫌悪をめぐる断想:堀江有里
〔モロッコの家父長制〕家父長制はマザコン生成装置なのか――現代モロッコの嫁姑問題から:鳥山純子
〔女性専用車両〕女性専用車両の存在は何を意味しているのか:牧野雅子
特集のおわりに:伊藤春奈

前まで,『エトセトラ』の紹介は特集以外も目次に書いていたし,各論考に対してかなり詳しく紹介・論じていたが,なかなかその労力もかかるものなので,そんなに力まずにいきたい。ともかく,連載当時から女人禁制をめぐる伊藤さんの議論は非常に考えさせられるものだったが,さらにその考えを深めさせられる特集だった。
伊藤さんが連載中に主に取り組んでいたのが,山と寺だ。どちらも宗教と関係する。宗教というのは,独自のルールがある社会であるともいえるので,女性やセクシュアリティといった人権に関わる問題は治外法権的だともいえるが,宗教自体が信者集団以外の社会の一部でもあるので,社会全体のルールを無視するわけにもいかないということで,遅ればせながら変化はしていく。ということで,そこに踏み込んで,女人禁制を続ける寺に質問状を投げたりするそのバイタリティに感服する。また,寺の中でもその状況を内部から変えようとする人がいることをしっかりと伝えてくれることも素晴らしい。キリスト教内で同性愛の権利を訴える人もいます。
連載の中には確か,相撲の土俵という話題もあったが,同じように女性の少ない落語界,男性中心の祭り,天皇制というテーマにも切り込む。そうかと思うと,女の園と思われがちな公娼制度や現代の女性専用車両も取り上げる。近代公娼制度を取り上げた論考は,女性専用車両が女性を犯罪被害から守るための手段であるのに対して,遊郭という場は決して女性にとって安全な場所ではないという議論を展開する。現代に至っても性交渉をめぐる問題は購入側であり加害側である男性の責任は問われない。性感染症についても然りである。女性専用車両に関する論考は,少し女人禁制というテーマからは離れる。しかし,女性専用車両が導入されてから20年経って,繰り広げられた議論やその効果などについて説得的に論じており,「女性専用車両の存在は,女性が優遇されていることではなく,この社会は女性が安全を保証されて当たり前に存在できるところではないことの表れに他ならないのだ。」(p.95)とまとめており,強く納得させられる。
私が今回の特集で一番印象深かったのが,山﨑那恵さんによる「「アナーカ部落フェミニストの会」設立への呼びかけ」という文章である。2022年は日本共産党設立100年ということだったが,全国水平社も創立100周年だったらしい。そして,2023年は婦人水平社の設立100周年なのだという。そんなことで,山﨑さんは今年,アナーカ部落フェミニスト宣言をしようというのだ。部落の問題に女性問題を重ね合わせたこの論考の議論をうまくまとめることなど私にはできないが,「アナーカ」とは「アナーキー=無政府主義」と通じる言葉のようだが,この文章では著者自身による明確な定義はなく,村上潔氏によるアナーカ・フェミニズムの定義が注釈で引用されている。アナーカの方が国家と資本主義に対して,フェミニズムは家父長制と性役割に対する抵抗運動だという。被差別部落という問題はまさに国家のあり方と国家が戸籍という手段によって家庭に付けた刻印だといえるという点において,山﨑さんの主張に大いに賛同したい。

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