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2023年10月

【読書日記】塩谷清人『ダニエル・デフォーの世界』

塩谷清人(2011):『ダニエル・デフォーの世界』世界思想社,422+55p.4,600円.

 

非常勤先でやっている授業。『旧約聖書 創世記』から始めて,マルコ・ポーロ『東方見聞録』,コロンブス航海誌,トマス・モア『ユートピア』,ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』など,旅行記・ユートピア文学を通じて,ヨーロッパの世界観を歴史的に辿り,地理学者ともされるアレクサンダー・フォン・フンボルトの南米旅行とその博物学・地理学的仕事までを題材とした授業を,かなり長くやってきた。今年,とある大学で半期のみ教えることになり,少しアレンジしようと思い,ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』とスティーヴンスン『宝島』を追加する予定。
文学の授業ではないので,作品をより広い歴史的文脈に,そして地理的な含意を論じる必要があるので,補足的に文献を読み込まなければならない。ジョナサン・スウィフトについてはこれまで作者に関する文献は読んでこなかったが,今回は読んでおこうと思い,大学図書館で検索した。デフォーについては何冊か所蔵があったが,どれもそれなりに分量があり,複数冊読むのは諦めた。本書は書名や目次からも分かるように,かなり本格的に伝記的な内容を含むもので,第六章だけ読もうかとも思ったが,単著を部分だけ読むということができない質であることもあり,普段ではなかなか手を出せない分量の読書に手を出した。
とはいえ,モアやスウィフトもそうだが,これらの著者は現代の感覚で小説家や文学者とはいえない多岐にわたる活動や執筆をしていることは知っていたが,かれらがどのように生計を立てていたのかなど,私自身知識不足な点が多く,学生に対してもうまく説明ができなかったので,ひとまずデフォーについては生い立ちから知っておいても良いと思った次第。

はじめに
序章 デフォーの時代
第一章 幼少期から青年になるまで,王政復古期の状況(1660年から)
第二章 結婚,反乱軍への参加,商売の失敗,著作活動へ(1678年から)
第三章 アン王女の治世:政争と宗派対立の波(1702年から)
第四章 政治の世界,変節者か?(1708年から)
第五章 新しい時代,しかし最悪の時期(1714年から)
第六章 小説家デフォーの誕生(1719年から)
第七章 最後の奮闘,そして死(1724年から)
あとがき

ダニエル・デフォーは1660年のロンドン生まれ。本書によれば,「30歳までの資料はあまり多くない。」(p.28)とのこと。世界史では,この頃のイギリスについて,ピューリタン革命(1642-49)や王政復古(1660-)などを習うわけだが,その内実までは理解していない。本書にもたびたび登場するトーリー党とホイッグ党は,スウィフト『ガリヴァー旅行記』のリリパットとブレフスキュで揶揄されたものだということで知ったが,本書でもたびたび登場する。以前,イギリスの地方自治制度についていくつか文献を読んだ時に少し理解が進んだような気がしていたが,本書では,政治的対立軸としてのトーリーとホイッグという軸が,議会派と国王派,都市派と農村派というさまざまな軸とも交差することを知り,より複雑でまた分からなくなった。
それはともかく,ダニエル・デフォーという人物は,若い頃はさまざまな商売に手を出しては倒産してを繰り返し,若くして結婚して子どもも多く,という人生を送っていたが,1681年頃から執筆活動を始めており,「著作活動が目立ってくるのは1690年代後半からである。」(p.59)という。この頃はスペイン継承戦争というものもあり,各国の国王が他国出身のものとなったりと,現代の感覚ではよく理解できないが,とにかくヨーロッパ内部で国と国との交流というか競争というか,そういう関係性が深まっていく時期のようで,デフォーのような著作家が書くテーマは必然的に政治的情勢に関わるものであったのかもしれない。1701年には『生粋のイギリス人(イングランド人)』という本を書く。タイトルからするとナショナリスティックなものを想起するが,「狭量な愛国心批判をしている。」(p.79)とのこと。そうしたパンフレットをいくつか書きながら(本書ではデフォーの作品の多くを「詩」と表現している),1704年からは『レヴュー』という雑誌をほぼ一人で執筆するものとして発行し,それが1713年まで続いたという。本書はすなわち,その雑誌を中心として,デフォーが遺した言葉を,当時の時代背景の下で丁寧に整理したものだといえる。
デフォーは長らくロバート・ハーリーという政治家と共依存関係にあった。本書にも詳しい記述があるが,断片的でなかなか整理できないのでWikipedia(日本語版では「ハーレー」と表記)に頼ってもかなりの分量である。最終的には議会の長にもなった人物で,1713年にユトレヒト条約を結ぶなど,歴史的にも名を残した人物で,Wikiの冒頭には「デフォーとスウィフトのパトロン」とも書いてある。ともかく,デフォーはハーリーの政治的主張を代弁し,ハーリーは苦境に陥った際にデフォーを財政的に支援するという関係だったようだ。本書のそうした英国の複雑な政治状況とそのデフォーの関りについての記載はなかなか読む進めるのが大変だったが,前半にジャーナリズムに関する説明があり,デフォーが刊行していた「レビュー」という雑誌の位置付けなどの記述は興味深く読めた。今日のジャーナリズムの大半は目先の事象に囚われて,「ニュース」という言葉に象徴されるよう新しさの価値が優先され,その事象の理解を時間をかけて追及するということがなかなかできない(この辺りはブーアスティン『幻影の時代』の分析はまだまだ有効だと思う)。世界の出来事が伝えられる速度が速くなればそれだけそういう傾向になるのは仕方がないので,速度が遅かったこの時代には人々は社会のありよう,あり方についてじっくり考える余裕があったのだと思う。そして,中盤も政治的な記述が多く,理解が及んでいないが,後半に入ってくると,政治的な内容といっても,イングランドの併合に関する記述があり,地理学者として興味を引かれていく。イングランドとウェールズに加え,1707年にスコットランドが併合されることで,「ブリテン」という名称が使われるようになり,デフォーもその時期にスコットランドに派遣され,現地の様子をレポートするなどの活動をし,排除ではなく包摂の論理を訴える。非常に今日的な感覚を持った政治理論家だったといえる。とはいえ,論壇では大学出の知的エリートでもあったスウィフトに対して,デフォーは学のない論者という位置づけだったようだ。
そして,徐々に『ロビンソン・クルーソー』が1719年にデフォーが59歳に時に書かれる時代背景へと話は展開していく。先にユトレヒト条約について書いたが,これはスペイン継承戦争を終結させるものであり,複雑でまだ理解は及んでいないが,スペインとイギリス,そしてスペイン王国の継承者をフランスから(ルイ14世の孫フィリップがフィリペ五世に)とオランダ,と覇権を争う4国関係の問題が論じられる。そして,この4国は東インドと西インドと双方において植民地競争もしており,この地理的問題はヨーロッパのみならず,すでにグローバルな問題になっていた。南北アメリカの植民地をめぐっては三角貿易が形成されるなかで,アフリカを巻き込んだ奴隷貿易が問題となり,三角貿易の展開に伴って,英国のインド関係が変化していく。英国の産業といえば毛織物だが,インドでは綿織物が盛んで,気候的にも毛織物は売れない。一方で,英国が欲しがるインド産物は多く,その貿易においてヨーロッパの金銀が流出するという状況。むしろ,逆にインドの綿製品(キャラコと呼ぶらしい)が英国に流入して,流行し,英国はキャラコ着用禁止令まで出す始末。しかし,その後北米植民地で黒人奴隷を用いて綿花を栽培し,英国で綿製品を生産するようになる。また,熱帯地方のプランテーションではサトウキビを栽培し砂糖を生産する。
そんな背景を存分に取り込んだフィクションとして,『ロビンソン・クルーソー』が出版される。私が持っている岩波文庫版は,上下巻だが,原作は三部作だとのこと。岩波文庫版の上巻が第一部で,正式なタイトルは『ロビンソン・クルーソーの生涯と不思議な冒険』で1719年に出版された。皆が知っている無人島でのサバイバル生活を描いた作品。下巻が第二部で『ロビンソン・クルーソーおさらなる冒険』も同じ年に出されている。無人島から帰国した後,また航海に出て自分の島に戻ってから漂流し,「ブラジルから南アフリカ,マダガスカル,ペルシャ湾,さらには極東の中国まで来てアジア大陸,シベリアを横断し,モスクワ経由で帰国するという大旅行」(pp.305-306)である。第三部は『ロビンソン・クルーソーの生涯と不思議な冒険中の真面目な省察』としてよくとしの1720年に出され,「敬虔,敬神といった精神論」(p.306)だという。私も今回とりあえず上巻を再読したが,なかなか興味深い。ロビンソンは家族から離れるように航海に出るが,何度も船で難破に遭う。アフリカのギニア商船に乗り,砂金を持ち帰り,一儲けする。その後,トルコ海賊船に襲われ奴隷生活を二年過ごす。主人の親戚のムーア人と同じ奴隷の少年と魚釣りに何度か出ていたが,その機会を使って逃亡を図る。ムーア人を海に投げ出し,奴隷の少年とともにアフリカ北西部の海へと逃げる。ここでライオンと格闘したりしながら漂流していると,ポルトガル船に助けられる。その後,ポルトガル領のブラジルに到着し,ブラジルでしばらく農園の経営をして生活する。煙草や甘蔗(サトウキビ)といったいかにも植民地の商品作物のプランテーションだ。そこではヨーロッパ人の召使まで雇っている。その後,黒人の奴隷貿易に手を出し,その航海の途中に難破して無人島に一人たどり着く。その後のことはよく知られているように,サバイバル物語。自分が乗っていた船も同じ船に座礁していたため,物資を少しずつ島に運び,自分だけの住処を作り,畑を耕し家畜を飼い,生活の基盤を作り上げる。その闘いは単なる自然の中を生き延びるものではなく,あくまで人間が創り出した文明を維持するものであり,また中盤からは防衛も含むことになる。その島には多くの人間が時折上陸していたことが分かる。それはカヌーでやってくることができる人たちで,捕らえられた数人を,捉えた多数の人間が殺して食べるという儀式を行うためにその島を利用していたのだ。コロンブスの時代からカリブ海やキューバと名付けられたこの付近には,ヨーロッパで伝えられたカニバリズム=食人の言説になぞらえられて,食人種が住むと信じられていた。コロンブスの時代から200年以上が建っているが,その場面が目の前で展開されるというフィクションが描かれている。まあ,随分文字数を使ってこの物語を説明してしまったが,とにかくロビンソンが過ごしたその島は架空の島ではあるが,現在のベネズエラに位置するオリノコ川の沖に浮かぶ島とされている。まあ,要は当時の植民地貿易の状況を色濃く反映し,まさにその地域を舞台にした小説だということである。本書には第二部の分析はあまりないが,「この小説の後半は冒険譚の色合いが濃い。当時に評判は第一部ほどではなかったが,18世紀中は第一部,第二部併せて出版されることが多かった。これらの版にはクルーソーの行路を示す世界地図もつけられ,世界を視野に収めるイギリス人の気概も感じさせた。」(p.306)とある。
デフォーの作品は『ロビンソン・クルーソー』以外にも『ペスト』が中公文庫から出ているが,本書で知った他の作品もけっこう翻訳があるようだ。上述した『生粋のイングランド人』は2020年に音羽書房鶴見書店から出ている。2015年にユニオンプレスから出ている『名高き海賊船長シングルトンの冒険一代記』は本書では『キャプテン・シングルトン』で原著出版年は1720年とのこと。『疫病流行記』は2020年にオンデマンド版として復刻した現代思潮新社であり,『ペスト』と同書か。本書では『疫病の年の記録』という1722年の作品がある。『ヴィール夫人の亡霊』というのも世界怪談名作集として1929年に改造社から出ているとのこと。『モル・フランダーズ』(1722年)は上下巻で岩波文庫から1968年に出ている。『イギリス通商案――植民地拡充の政策』は2010年に法政大学出版局から出ているが,本書の『完璧なイギリス商人』(1725年)のことだろうか。『イギリス経済の構図』という本も1975年に東京大学出版会から出ている。これは本書にも同じタイトルで言及がある(1728年刊)。本書では最後の小説とされる『ロクサナ』(1724年)も『ロクサーナ』として1980年に槐書房から出ている。Amazonで調べるだけでも,けっこう日本語訳があることが分かる。
本書ではその他にも,『信仰に基づいた求愛』(1722年)『夫婦間の淫猥』(1727年)『ジャック大佐』(1722年)という小説があることが分かる。特に1722年には集中して執筆・出版をし,本書では「奇跡の年」と呼んでいる。そして,第7章では小説以外の晩年の作品が紹介され,上述した『完璧なイギリス商人』や『イギリス経済の構図』といった貿易・経済論が展開される。デフォーは若かりし頃にさまざまな事業を起こしているし,執筆業で多くの収入を得た時期にもさまざまな商売に手をかけていたようで,当時としてはかなり先駆的な経済感覚を持っているし,また女性や奴隷などの人権問題についてもなかなかバランスの取れた感覚を持っていた。しかし,ジョナサン・スウィフトなどと比較される際には学のなさ(教育水準の低さ)を揶揄されることが多かったようだ。
この最終章で,地理学的に興味深いのは『グレイトブリテン全島周遊記』(1724年)や『世界新航海記』(1724年)を出していることだ。「『周遊記』はイギリス国内の繁栄を称える旅行記であるが,『世界新航海記』はイギリス貿易のための新航路,ならびに新植民地発見の旅である。」(p.367)と本書では紹介されている。純粋な地誌書ではなく,イギリス本位に立ったものではあるが,地理的なものに大いなる関心を持っていたことは興味深い。また,『ロビンソン・クルーソー』の第二部はそうした彼の関心が反映したものだといえる。ともかく,デフォーの著作は多く,多いときは年に何冊も執筆している。とはいえ,現代とは著作権の状況などは異なるため,実名で発表していないものも多く,どの文章がデフォーの手によるものなのかを特定するところからの時代考証がベースにあるようで,本書はそこまで踏み込んだものではない。とはいえ,それらに目を通して一冊の本にまとめるという著者の労力には敬意を表したい。いずれにせよ,こうしてデフォーという17世紀から18世紀を主に執筆家として生きた人間のあり方を学ぶ貴重な読書だった。

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【読書日記】ジョニー・シーガー著『女性の世界地図』

ジョニー・シーガー著,中澤高志・大城直樹・荒又美陽・中川秀一・三浦尚子訳(2020):『女性の世界地図――女たちの経験・現在地・これから』明石書店,212p.3,200円.

 

この本の話題になった時,訳者の一人である荒又さんから「読みますか?読むのであれば差し上げます。」と言われ,この本の編集担当者が,荒又さんと私も翻訳に関わった本と同じ人だったので,後日その方から送られてきた。もう3年が経過してしまったが,ようやく読みました。
というのも,現在非常勤先の授業で,原書房の『地図で見る日本ハンドブック』という本を使っているのだが,そろそろ違うネタにしたいなと思っていたところ。原書房のハンドブックシリーズは魅力的なものがいろいろあって,それらにしてもいいんだけど,本書を使うのもいいかなと思いいただいた次第。そして,数年経って,そろそろかなと思い,読み始めた。非常勤での講義は2001年度から始めたので,もう23年目になるのだが,当初は教養の授業にもかかわらずかなり難解な話をしていた。それでも,当時の学生には骨のある人も多く,ついてこれる人も多かったので続けていたのだが,近年になるにつれて反応が悪くなり,もっと基礎的な話をするようになった。しかし,そういう基礎的なものを避けてきた私自身が学ぶことはとても多かったので,そういう授業も今は大切だと思っている。ともかく,地理学の授業ではやっぱりデータに基づく地図を用いることが有効だと感じている。なので,原書房の「地図で見る」シリーズは魅力的だし,本書のようなアトラスも魅力的。地図にこだわらなくてもやはりカラーの図版が多い書籍は教科書として活用すべきだと思うようになった。

世界の女性たち
女は女の場所に置いておく
出産にまつわる権利
身体のポリティクス
健康・衛生
教育とつながり
財産と貧困
権力
出典
索引

本書はかなり特徴的な本である。図版の多い本でも,本文の記述を補足するために図版を用いるということが多いが,本書はそうではない。統計データに基づく図版に語らせようとするもので,文字による記述は最低限にとどめている。「はじめに」は3ページ,上で示した目次のタイトルページには1ページの文字だけによるページもあるが,フォントの大きさを変えた他書からの引用も含め,何かを論理的に説明するような文章ではなく,断片的な文章の組み合わせになっている。著者による論理的な説明で読者を説き伏せるような,ある意味男性的な方法ではなく,多様な事実や意見の断片をなるべく多く提示することで,読者に思考を促すような本だといえる。
前半では,女性差別,ジェンダー・ギャップ指数,同性愛,婚姻,離婚などニュースでも取り上げられる,女性と関連の深い事象の地図が提示されるが,ここで興味深いのが「児童婚」。本書は単に女性の置かれた状況を示すだけではなく,やはり世界全体の格差の問題を考えさせるものになっていて,その格差が女性に過度にのしかかるということを読者に伝えている。児童婚とは要は親の選択によって幼くして結婚させられるという風習とその法制度が遺されている地域の存在が明示される。続いて世帯規模,貧困,難民と続くが,次に転じて女性の活躍に光が充てられる。平和に貢献しようとする女性,フェミニズム,#MeToo運動。とはいえ,「女は女の場所に置いておく」というタイトルに特徴的なように,イスラーム社会に代表されるように,女性に対する法も含む行動制限がいまだに多くの地域で残されている。そのために,DVが横行し,女性シェルターが開設される。なんと,レイプを犯罪にしないために,レイプ犯と結婚される法律を有する国もあるという。レイプにもさまざまな種類があり,戦時中,婚姻関係にある相手から,そのまま殺害されてしまうなど。なお,「殺害される女性」という項目には日本についても記載されていて,「平均して女性は3日に1度親しいパートナーに殺されている。」(p.55)とある。アフリカ,中東の「ミソジニー集団」。本書に掲載されているのは必ずしも量的な数値データによって図化されるものだけでなく,質的な情報も示されている。続いて,近年はリプロダクティブ・ヘルス・ライツという言葉もよく見かけるようになったが,「出産にまつわる権利」と題し,出産,避妊,家族計画,出滓による子どもと妊婦の死亡,中絶。ここで興味深いのは「男児選好」である。出生児のデータを見ると,男女比が男子に偏っている国がある。それはさまざまな理由をつけて生まれくる女児を制限しているということだ。それは中国とインドで顕著で,アジアからアフリカにかけての地域に存在する。
「身体のポリティクス」ではオリンピックの話題もある。続いてミスコンテスト,化粧品をめぐる美ビジネスから女性器切除の問題まで。性犯罪からセックス・ツーリズム,性的人身売買,ポルノ。インターネットが主流になったポルノ産業だが,どのようなものを好むかを示す検索ワードの中に「日本人」が多く含まれることは興味深い。「健康・衛生」では,乳がん,HIV,結核,マラリア,と決して女性特有なものに限定されず,むしろ男性特有なものがある場合にそれを示していることもある。衛生という分野では,水,トイレ,公害,有害物質,大気,汚染された魚,など。
ちょうど中ごろに「仕事」の項目があり,われわれに身近な男女格差のテーマが位置付けられている。労働力としての女性割合,収入,職種,女性経営者,産休・育休,失業,パートタイム,無償労働(家事・育児),そしてまた児童労働のデータが示される。アフリカに特徴的な水の運搬という労働,農業労働,移民ではフィリピンに特徴的なケア労働,家庭内労働。続いて教育の問題。就学期間,学歴,高等教育,識字率,読み書き力。ちなみに,リテラシーという語はこれまで「読み書き能力」とよく訳されていたが,やはり「能力」というと教育による成果というより個人が生まれ持ったものという印象を与えかねないので,「読み書き力」と訳しているのかもしれない。コンピューター,インターネットへのアクセス,SNS利用,インターネット・ハラスメント,携帯電話所有。続いて「財産と貧困」。法的な財産権,農地保有,住宅保有,相続,貯蓄,貧困はいわゆる途上国だけでなく,ヨーロッパや米国のデータも示される。そして銀行口座の保有も重要。
最後に「権力」という項目で,選挙権の話から始まるが,続いて軍隊の話題に移るところが興味深い。世界各国ではやむなく女性隊員の割合を増やしているが,いずれそのことが軍隊という男性中心的な組織の論理を変更していくことになるのかもしれない。国政,内閣,クオータ制,そして最後のページはフェミニズムと女性の行進のデータ提示に充てられている。
こんなに詳しく内容を紹介するつもりはなかったが,女性の置かれた状況をデータで示すことができる情報というのはけっこうあるということに驚かされる。そして,巻末にはそのデータソースが丁寧に示されているところは,構成はかなりポップだが,本書はあくまでも学術書であることを認識できる。文章は多くないので,この分量でも5人で訳すとなるとそんなに大変ではないかなと思ってしまいがちだが,文字が少ない分,訳の表現にはさまざまな工夫があったとは想像できる。授業の教科書としてそのまま使うのは難しいかなというのが現時点での感想。これを授業のために使うには,自身の勉強がかなり必要だなと思う。いずれやってみたいとは思うが,その頃にはデータが古くなってしまうため,この種の本の利用方法は悩ましい。

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【読書日記】栗原 康『アナキズム』

栗原 康(2018):『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』岩波書店,261p.860円.

 

アナキズムには以前から興味があった。ロシアのクロポトキンやフランスのルクリュというアナキストが地理学者でもあったというのが具体的なきっかけではあるが,そもそも「無政府主義」と訳されるその語感の響きになぜか憧れを持っていた。特に今,この国の政府は滅茶苦茶である。米国や財界従属という,強いものに逆らえないという,親分には逆らえないので子分をいじめる的な構図は理解できないでもないので,仕方がないと思いつつも,そこに大きな力を貸していたのが統一協会という,合同結婚式や霊感商法という一時期は世間を席巻した団体であることが判明した時点で,少なくともある程度のダメージは与えられると期待したものの,そうはならなかったという時点で,残念ながらこの腐敗した政府の何十年にもわたり政策によって国民の大多数がそれに逆らえないように訓練されてしまっていたことが露呈した。
はっきりいえば,これこそが諸悪の根源,政府というものの正体だと確信を持てる。米国民は決して悪い人ばかりではないのに,国家(米国の場合は州=ステイト(国家)であり,米国自体はそれを束ねる連邦政府である)となると軍事力を用いて覇権にしがみつく最低の国家だ。フランスだって,いいところがいっぱいあるのに国家といえば決して小さくない軍隊を持っている。米国の場合はその軍隊の存在は明らかに軍事複合体という利権構造(国内の銃の存在だって利権だ)があり,分かりやすいのだが,フランスの場合もやはり核兵器も含めた軍隊はやはり利権なのだろうか。あれだけ知的な国民が多いと思われながらもオリンピックも中止できないでいるし,植民地関係から移民に関する問題も多い。どれもこれも行ってしまえば諸悪の根源は政府という存在にある。
もちろん,人間存在は社会的なものであり,何らかの組織を必要とするというのは理解できる。組織があればそれを束ねる長ができるのも仕方がない。ただ,やはり組織といってもお互いの顔と名前が一致するとまではいわないが,覚えることができる機会がそこそこある程度の人数の組織であるべきだと思う。それこそ,数万人とかの規模では不可能なので,1億人の組織=日本国家など信じられない。もちろん,政府の存在でこの社会に不可欠になっているものに公共サービスがある。その多くが実際には民間企業が運営しているとはいえ,当初は国家が主導して作り出しているので,国家事業であるといえる。前置きが長くなってしまっているが,公共サービス問題も含めて,政府をなくしたらどうなるのか,一から考えてみたいというのが,私のアナキズムに対する関心である。
そういうアナキズムに密かな憧れを持ちながらも,読書はできていない。クロポトキンを大杉 栄が翻訳した『相互扶助論』は読んだことがあるが,なんだかピンと来なくて,それ以降読んでいない。クロポトキンもその他数冊,ルクリュも1冊買っているのだが,まだ読んでいないのだ。その一方で,本書の著者である栗原さんや高祖岩三郎さんという,日本にはこの人の本を読んでおけば間違いない(と私が勝手に思っている)というアナキズム研究者がいるし,また,デヴィッド・クレーバーというアナキスト人類学者も最近出てきているようなので,出版界ではそこそこアナキズムが熱いので,今のうちに読むべきだとは思う。そういう時期に本書を古書店で見つけて,とりあえず買っておいた。そうしたら,YouTubeでたまたま白井 聡さんがメインのチャンネルに栗原さんと島田雅彦さんが出演している動画があり,思わず見てしまった。すると,栗原さんは現在でも月10万円くらいで生活している(大学の非常勤3コマ程度だろうか)ようで,また栗原さんの著書を読んだ島田さんが「漢字少ない!」などと力説していて,ともかく栗原さんが面白いということは分かったし,また白井さんと栗原さんが早稲田の学生時代からの付き合いだ,などと著書を読むだけでは分からないような情報が色々あって面白かった。ということで,手元にあった本書を読むことになった次第。

序章 アナキズムってなんですか?
第1章 自然とは暴動である――エコ・アナキズムの巻
第2章 ファック・ザ・ワールド――アナルコ・キャピタリズムの巻
第3章 やられなくてもやりかえせ――アナルコ・サンディカリズムの巻
第4章 われわれは圧倒的にまちがえる――アナルコ・フェミニズムの巻
第5章 あらゆる相互扶助は犯罪である――アナルコ・コミュニズムの巻
おわりに

冒頭から度肝を抜かれます。本書は岩波新書ですが,岩波新書でこんな文体ありか!という感じです。冒頭を少し引用しましょう。「チャンチャンチャンチャーン,…♪」(p.3)という感じで始まり,「そんでね,でてきた映像がすげえんだ。」という感じで,進みます。島田さんが笑いながら「漢字が少ない」といっていた意味が分かりました。要は,書き言葉ではなく,かといって対談や講演調の話し言葉でもなく,ようは友人を相手にした日常的な話し言葉ですね。栗原さんは,本書にも出てくるアナキスト,大杉 栄や伊藤野枝の伝記なども書いているので,全てがこういう文体ではないと思いますし,いきなりこの種のテーマでこの文体で書籍が出版できるとは思えない。まあ,少なくともYouTubeで栗原さんが主にお話をする動画を2つ観ただけではありますが,多くの人が栗原さんの人柄に魅せられてしまい,こうした彼のありのままの特性が反映されたこの文体をそのまま受け入れられるのではないかと想像しました。
この文体そのものがアナキストの本質を表しているようにも思います。もう,各章の内容を詳しく説明する必要も感じなくなりましたが,要はアナキズムは反資本主義であり,親フェミニズムであり,親エコロジー(?)であり,親コミュニズムである。一つ耳慣れないサンディカリズムとは端的には労働組合主義なのだという。フェミニズムの章では,翻訳もあるエマ・ゴールドマンという女性について詳しく語り,日本では大杉 栄のパートナーでもあった伊藤野枝について詳しく語っています。アナキズムが親コミュニズムと書きましたが,共産主義のあり方に関しても色々考えさせられる読書でした。例えば,日本共産党は暴力革命を目指している党だという非難に対して,それを否定しています。実際,共産党の議員を含めて,先の国会で議論していた入管法の改定に対して徹底的に批判していたわけですが,最終日の採決が行われる国会内の法務委員会で,委員でもないれいわ新選組の山本太郎氏が,委員長に飛び掛かって物理的に採決を阻止しようとしましたが,共産党の議員がそう発言したかどうかは確認していませんが,少なくとも立憲民主党の議員は暴力はいけないと主張していたように思います。私は山本氏の行為は非難されるべきではない(実際に彼は大勢の,これまた委員でも何でもない自民党の議員かどうかも分からない人たちに阻止されて,物理的に採決を阻止することはできなかった)と思う。何が言いたいかというと,ある意味現代の共産主義者たちは暴力革命を望んでいないし,人権擁護という意味においてはあらゆる暴力に反対すると思う。それに対してアナキズムは暴力は否定しない。場合によっては必要なものだが,それはクソ真面目な暴力とも違う。暴力というより破壊行為というべきであろうか。とにかく,アナキズムには基本的にルールがない。もちろん,確たる信念はある。その信念さえあれば,その信念に貫かれた行動に細かい制約は立てない。社会主義には団結が不可欠だが,それすらも必要ない。もちろん,団結すればそれは力強いし,歴史に名を残した,本書で語られるアナキストたちは多くの仲間がいたが,それこそ本書が強調している緩やかなコミュニズムであり,強固な団結とは違う。意思を同じくして団結するのではなく,お互いの差異を許容しつつ,お互い助け合う(相互扶助)のだ。
そこに,アナキズムの可能性を感じる。日本共産党が目指す社会主義社会の実現は正直気の遠くなりそうな時間がかかるように感じる。この党は1922年に結党され,昨年100周年を迎えた。もちろん,戦前に訴えていたことが戦後の日本国憲法で実現するなど,結党当初は政府に認められていなかった存在だった党が,今では一定の支持者がいるなど,獲得してきたものも多い。しかし,日本国憲法で獲得したこの国の不戦の誓いも今では蔑ろにされるなど,獲得したものが奪い去られようともしている。暴力革命ではなく,今ある制度で支持を拡大し,社会を変えていくというのはなかなか難しいというのが正直思うところで,自分が生きているうちに社会主義社会が実現するというのは不可能に近く,その前に獲得するべき民主主義社会というのもそう簡単に手には入らないように思う。一方で,アナキズムの実践は個人でも,今すぐにでもできるのだ。もちろん,その実践はおそらくこの社会では排除され,弾圧されるだろう。しかし,その一つ一つの実践が着実に社会を変えていっているという実感は得られるのかもしれない。目指す社会像がないが故に,お手軽でもある。日本共産党が掲げる科学的社会主義は一定の知力と学習が必要である。それに対し,アナキズムは本書に出てくる幾人かの活動家がそうであったように,机上の学習というより,人生で学ぶことが重要であるといえる。常に周囲にアンテナを張り巡らせ,何が正しいかの気づきと信念を持てればよい。その感覚的な信念はいつでも変更可能で,アップデートすればよい。間違ったことをしたならば謝り,次の行動に活かす。もちろん,アナキズムにも難しい理論もたくさんあり,学習できる領域も広い。そういう意味でも,やはりアナキズムは手軽な社会改革の手段だといえるのかもしれない。私も少しずつアナキズムについて学び,その態度を血肉としていければと思う。

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【映画日記】『プリキュアオールスターズF』『オオカミの家』『バーナデット ママは行方不明』

2023年923日(土)

府中TOHOシネマズ 『プリキュアオールスターズF
プリキュア映画はここでも何度か紹介しているように,娘と何度か観に行っている。そこでも説明しているが,毎回観ているわけでもなければ,娘がプリキュア大好きなわけでもない。でも,何となく映画館の入場特典でもらえるライトは欲しいようで,今回は観ることになった。
やはり客席の年齢は若く,騒がしい雰囲気はなんだか懐かしさを感じる。今回は,オールスターということで,メインとなるプリキュアもこれといってなく,むしろ適役が中心のようだ。最近のアニメは異世界ものが流行っているし,実写のSFでもAIものなどが多いが,その辺りを意識しながらも,完全に異世界ものでもAIものでもなく,そして悪の描き方も変わってきているように思う。多分,プリキュアは特定の支持者の間で再生産され続け,再度大きな波としてファン層が拡大するということはないような気もするが,映像表現としては強い支持層の期待を裏切らない安定さに加え,そこそこ新しい要素を取り込むということを続けていくのではないだろうか。
https://2023allstars-f.precure-movie.com/

 

2023年927日(水)

立川シネマシティ 『オオカミの家』
先日,時間ができた時にいろんな映画館の上映作品を調べていて見つけた作品。南米はチリの作品だということだが,予告編で衝撃を受けた。一応,アニメ作品といっていいと思うが,いわゆる作画のアニメだけではなく,クレイアニメやチェコのカレル・ゼマンの人形劇的アニメなど,多様なものがあるが,本作はそんなアニメ界の新ジャンルを築きそうな作品。言葉で説明するよりも一度予告編を観ていただいた方が早いのだが,ほとんどが室内で撮影されている。壁面のペイントで表現されているのだが,壁面に描かれた人物(や豚)が次々と描かれる位置を変えて,これまで描かれていたものは塗りつぶされていく。壁面は別の空間表現で描かれる。また,人形も登場するのだが,いわゆる張りぼての人形で,表面にテープが巻きつけられ着色される。その解体と制作過程がそのまま連続的に撮影されて人形の動きを表現している。ともかく,その表現方法に驚かされる作品。ストーリー的にも意味不明で難解ということもあり,観ながら何度か意識を失う(寝てしまう)場面もあった(当日は3時に起きてしまった)が,素晴らしい作品。はるばるチリからきて日本で上映されたことに感謝したい。
http://www.zaziefilms.com/lacasalobo/

 

2023年930日(土)

立川シネマシティ 『バーナデット ママは行方不明』
リチャード・リンクレイター監督作品。最近は『6才のボクが,大人になるまで。』という2014年の実験的な作品が代表作という感じだが,私にとっては何といっても1996年の『恋人までの距離(ビフォア・サンライズ)』だ。米俳優イーサン・ホークと仏俳優ジュリー・デルピーのラブ・ストーリーだが,2004年に『ビフォア・サンセット』,2013年には『ビフォア・ミッドナイト』(私は未見)を同じキャストで撮るというところも実験的。そして,何よりもこれらの作品はほぼ俳優たちの会話だけで成り立っているという極めて演劇的なシチュエーションであり,このどこにも逃げられない二人による対話によって,人間関係の本質が描かれるという点においてリンクレイター作品の神髄をみることができる。2001年に立て続けに発表された『ウェイキング・ライフ』では実写で撮った映像をアニメ化するという新しい手法があり,『テープ』では密室での二人演技という対話手法がもっと極限まで達している。そして,これらの多くにイーサン・ホークが配役されている。
Wikipedia
などを見ていると,いろいろ思い出がよみがえって語りたくなるが,それでも結局観ていない作品もかなりあることに驚いたりする。本作は実は2019年の作品ということだが,私が彼の監督作品を観たのが『6才のボクが,』以来なので,もう10年近くたってしまった。いずれにせよ,まだまだ魅力的な作品を撮ってくれていることを喜びたい。しかし,コロナの影響もあろうが,配給会社にももう少し頑張ってほしい。
本作は,日本語訳もされている原作があるとのこと。マリア・センプルの『バーナデットをさがせ!』というタイトルで昨年の11月に出ているようだが,映画のタイトルは原著と同じとのこと。主演のケイト・ブランシェットは私より1つ年上なのだが,本作でも本当に美しい。そして,作品のサイトによると,原作を読んで出演を本人が希望したとのこと。いやいや,本当に素晴らしい演技を見せてくれています。そして,なんといっても中学生の娘役を演じるエマ・ネルソンという俳優さんがとても魅力的。役どころとしても,建築家の母親とマイクロソフトのエンジニアの父親という才能あふれた,しかし親としては欠陥のある両親のもとで育った魅力的な中学生を演じている。愛すべき映画作品。
https://longride.jp/bernadette/

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【読書日記】松橋崇史・高岡敦史編『スポーツまちづくりの教科書』

松橋崇史・高岡敦史編(2019):『スポーツまちづくりの教科書』青弓社,229p.2,000円.

 

私は2020年東京オリンピック大会のホストタウンに関していくつかの文章を書いてきた。その過程で,松橋崇史さんと笹生心太さんという2人のホストタウンを研究している研究者とメールでのつながりができた。以前から松橋さんには仲間たちと本を作っているという話を聞いていたが,それが今年『ホストタウン・アーカイブ』という本として出版された。この本については,学会誌に書評を投稿しようと思っているのだが,同じ著者たちによる本書をベースに,かれらはホストタウンを「スポーツまちづくり」の契機として捉えているところから,本書を読まなければならないと思った次第。
なお,『ホストタウン・アーカイブ』という書名にあるように,読んだ感じではこの本は学術的な探求に重きを置いていない。あくまでも533の自治体が取り組んだ事業ということで,その全ての基礎的データと,執筆者たちが調査してきたいくつかの多様な事例を記録する,という意味合いを持たせているように思う。しかし,それだけではなく本書を読むと分かるのだが,著者たちはスポーツまちづくりを進める自治体に積極的に関与する。まちづくりには人的ネットワークが非常に重要なわけだが,研究者自身がそのネットワークに組み込まれることによって,まちづくりを推進していこうという意識が感じられる。建築畑の都市計画やまちづくりがそうであるように,当事者とは完全に距離を置いた形でのまちづくり研究というのはありえない。
そういう意味では,研究対象に積極的に関与してこなかった私の立場・態度を反省させられると同時に,やはり一定の違和感を抱いていることも否めない。根本的に何に対しても批判的態度を貫こうとする私だが,本書のような研究でそれは基本的にあり得ない。ある地域で行われている実践がうまくいかない場合,客観的にその状況を分析して,「これだからだめなんだ」と訴えても何も意味はない。むしろ「うまくいかないのはこういう理由だから,いまくいかせるにはこうしなくてはいけない」のような原因に基づく提言がないと研究自体が意味をなさない。そういう意味でも,本書を貫く態度は非常にポジティブで,学ぶことは多い。

はじめに:高岡敦史
第1章 スポーツまちづくりの枠組み:松橋崇史
第2章 地元企業・団体のエネルギーを生かす!
 1 老舗企業が主導するスポーツまちづくり――新潟県三条市の事例:松橋崇史
 2 地元密着型ボウリング場の挑戦――宮城県気仙沼市の事例:笹生心太
第3章 地元で盛んなスポーツを生かす!
 1 常勝によってつくられた「バスケの街」を支えるまちづくり――秋田県能代市の事例:岩月基洋
 2 国際大会から波及した「自転車のまち」――栃木県宇都宮市の事例:関根正敏
第4章 トップチームのエネルギーを生かす!
 1 スポーツ=モノづくりを起点としたまちづくり――下町ボブスレーネットワークプロジェクト(東京都大田区の事例):束原文郎
 2 スタジアムを核としたプロ野球球団と地方自治体のパートナーシップ――北海道北広島市/福岡県筑後市の事例:松橋崇史
 コラム よそでおこなわれていないスポーツを振興していたら,まちづくりにつながった!――育つべくして育ったカーリング娘:束原文郎
第5章 外発的開発のエネルギーを生かす!
 1 補助金獲得を足がかりにした地元発のスポーツまちづくり――岡山県新庄村の事例:高岡敦史
 2 「若者」による中山間地域を舞台にしたスポーツまちづくり――新潟県三条市下田地区の事例:松橋崇史
第6章 ネットワークであれもこれも生かす!
 組織を超えるネットワークが支えるスポーツまちづくり――岡山県岡山市の事例:高岡敦史
第7章 スポーツまちづくりのFAQ――ノウハウ編:松橋崇史/高岡敦史/笹生心太/束原文郎/岩月基洋/関根正敏
第8章 スポーツまちづくりの進め方――事例比較からのインプリケーション:松橋崇史
おわりに:高岡敦史
あとがき:松橋崇史/高岡敦史

さて,目次をかなり詳細に書いたが,北から北海道,宮城県,秋田県,栃木県,東京都,新潟県,岡山県,福岡県,と8道県にまたがる多くの事例調査を含んでいる。オリンピックについて文献調査をしている際にも,オリンピックというスポーツ・メガイベントが,スポーツという分野に限定されずに多岐にわたることに驚かされた。地方自治体にとって,スポーツというものは公的な施設としてのスポーツ施設を立地管理させるという基本的な関りがある。またホストタウン関連で自治体に問い合わせをする際に,その問い合わせ先の多くが教育委員会の下部組織だったことが多かった。つまり,公的な意味でのスポーツとは体育であり,学校教育における体育という教科はどの自治体も有するスポーツとの関わり合いだといえる。そして,その延長線上に生涯教育に生涯スポーツが含まれる。市民のスポーツ参加度を高めることは個人の健康維持につながり,それが結果的に医療費の削減につながって,財政の支出を少なくさせる。もちろん,健康であれば労働力となり,税金=財政の収入が増える,と自治体にとってはいいことづくめだと言える。また,スポーツはさまざまなものと関りを持つ。施設建設であれば不動産と建設業者,ネーミングライツなんてやれば他の業種との関りもできる。もちろん,民間のスポーツジムや各競技団体。スポーツ・イベントをやれば協賛企業や運営団体などなど。つまり,スポーツというのは包括的な存在であり,まちづくりの中心に位置づけることもできるのだ。ということで,本書のように「スポーツまちづくり」という一つのテーマになる。
本書では,分析の枠組みとして「スポーツまちづくりCUBE」というものを提示する。つまり,①社会的ネットワーク,②スポーツインフラ,③事業性の3次元で,まちづくりの状況を評価しようというものだ。私はこれを見て,メガイベント研究者のPreussが提示した「レガシー・キューブ」を想起した。これは,オリンピックのレガシー(遺産)というものを,①有形-無形,②ポジティブ-ネガティブ,③計画的-偶発的という3次元で類型化しようとするものである。そういう意味では,意味合い的に「スポーツまちづくりCUBE」と一致するものではないが,著者たちはPreussの議論からヒントを得ているわけではないのだろうか(あるのであれば,文献参照をすべき)。Preussのレガシー・キューブは必ずしも価値体系に結びつくものではない両極の軸を3つ用意しているものだが,「スポーツまちづくりCUBE」は達成度0%から100%までを想定させるような軸で,しかも,事例に基づく各章の扉ページにCUBEの図を示し,多くの事例では,全ての軸が0の状態から,全ての軸が100になるような矢印が示されている。つまり,各事例のスポーツまちづくりには発端があり(場合によっては,あらかじめスポーツ施設があることで,スポーツインフラが0でないということもあるが),そこから努力を重ね,100までいっているもの,まだ100にはたどり着いていないもの,といった具合に示されている。まあ,どうしても仕方がないとは思うのだが,「達成度」のような基準で事例を評価していて,また完全に失敗に終わってしまった事例はほとんど提示されていない。
まあ,それはともかく,私は父親がスポーツ好きで,各種スポーツをテレビで鑑賞して育った人間であり,小中は野球をやり,高校でも愛好会ではあったがバドミントンをやっていた。そんな人間ではあるが,日本各地の特定のスポーツ競技が盛んな地域など,そういう知識は全くなく,バスケの街,秋田県能代市といわれても全くピンと来ない。そういう意味でも,自分の無知を思い知らされ,また学ぶことの多い読書だった。ただ,気になったのは,ホストタウンのことを調べて気づいたことだったが,日本全国に公共のスポーツ施設が立地しているというのは多分の国の政策の蓄積によるものが大きく,また国民体育大会の都道府県持ち回りの開催という存在が大きいように感じている。そうした国の政策の歴史,またそれが故に都道府県内のスケールでは,あの市で国民体育大会が開催されて各種競技施設が作られたおかげでこの市にはあまりない,みたいなことがあるのかないのか,まあその辺りは本書の議論とは直接関係ないが,そんなことが気になった次第。
本書は,本づくりという意味ではよく考えて作られている。6人の共著であるということもあるが,日本の地理学ではとかく編者が勝手に編集者と構成を考え(しかも,あまり工夫はない),執筆者は原稿を提供するだけ,というのを私も何度か経験しているが,本書に関してはFAQの章を入れていることも含め,とても読者目線で構成されているところが素晴らしいと思う。

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