【読書日記】西山 徹『ジョナサン・スウィフトと重商主義』
西山 徹(2004):『ジョナサン・スウィフトと重商主義』岡山商科大学,285p.,価格非表示.
本書は「岡山商科大学学術研究叢書⓺」として出版されている,著者の学位論文とのこと。なので,正直言って難しい。この手の文学研究書は書籍として出版される際に一般向けにそれなりに編集されるものだと思うが(まあ,私が文学畑の者ではないため,一般向けのものしか読んでいないということもあるとは思う),本書はその辺りの配慮はあまりない。引用文献はほとんど英語であり,日本語訳のあるものでも巻末の文献目録に情報はあるが,本文に付されている注にはない。当然のごとく学術雑誌に掲載された学術論文も多く参照されているし,そもそもが歴史的作品に関する研究であるため,一般の人では入手できない18,19世紀の文献も含まれる。
本書は文学研究に作品の時代背景としてある経済状況を組み込むという経済批評を標榜するものでもある。もちろん,マルクス主義批評は文学作品を通じて当時の政治経済状況を論じてきたわけだが,本書がそういう系譜にあるわけでもないようだ。本書では「新経済批評」と表記されているので,マルクス主義とは違う流れの新しい潮流があるようだ。前にも何度か書いたように,非常勤先の授業で旅行記・ユートピア小説の話をしていて,ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の話もしている。しかし,作品自体が内容が豊富なので,作品以外の話としては,富山太加夫『『ガリヴァー旅行記』を読む』程度しか参照しておらず,アップデートしたいとはずーっと思っていた。先日もここで紹介したように,『ロビンソン・クルーソー』のダニエル・デフォーについては一冊研究書を読んだので,同じようなスウィフトに関する本を非常勤先の大学図書館で探した結果,読むことにしたのが本書。さすがに,一般の書店で見ることのない本書に出会えたことはラッキーだったかもしれない。私は基本的にきちんと読む本は購入して手元に置いておきたい質だが,大学図書館ももっと活用したいと思った次第。なお,本書は出版から10年が経過しますが,大学図書館の閉架に入れられていたこの本は私が初めて読んだと思われるほど,きれいな状態だった。
序 拡張する近代世界と重商主義
第一部 重商主義的志向とスウィフト
第一章 重商主義の詩学
第二章 数字のイドラ
第二部 スウィフトとアイルランド経済
第三章 解釈者ドレイピア
第四章 「傷つけられた女」とその友人
第五章 食人国家の悦び
第三部 スウィフトと市場的世界
第六章 「スカトロジカル」詩と性愛の市場化
第七章 『イーリアス』と胡桃の殻
第四部 スウィフトと重商主義的国家
第八章 国家の「信用」問題
第九章 飛行する国家
第十章 国家と鯨
結論
重商主義はウォーラーステインの『近代世界システム』でも16世紀以降のヨーロッパ覇権の拡張において重要な意味を持つにもかかわらず,私の理解が足りていない部分もあった。『ガリヴァー旅行記』に付随する説明として加えられれば,授業に奥行きが出ると思う。とはいえ,本書を読んだ後も重商主義って結局何だったのか,冒頭の用語の解説以上の理解は深まらなかったようにも思う。なお,本書は以前紹介したダニエル・デフォー本,塩谷清人『ダニエル・デフォーの世界』と比べ,スウィフト自身の人生や全作品の見取り図的なものはあまり説明はされない。とはいえ,スウィフトが書いてきた様々なテーマをそれぞれ深掘りしている。『ガリヴァー旅行記』が随所に登場し,スウィフトの執筆生活の中でもかなり代表的で中心的なものであるかが分かる。また,デフォーと同様に政治経済に関する著作もあれば,詩作が多いことも共通している。フィクションとしては『桶物語』というものがあり,ちょうど本書を借りた大学の駅からの通学路にある古書店に立ち寄ったら岩波文庫版『桶物語:書物戦争 他一篇』を入手した。
まず,本書では重商主義を『オックスフォード英語事典』の「貨幣のみが富を構成するという原理に基づく経済理論および法的政策の体系」という定義を挙げながらも,それでは不十分とし,1995年のマグナッサンによる「重商主義とは,およそ1620年から1750年頃の「経済的状況の解釈を提示するとともにその時代の実際的な政治経済政策を扱う相互に関連した一連のテクスト群」としてとらえるべきであるとする。」(p.2)という主張を引用している。普遍的な経済理論というよりは,特定の時代に特定の国々で生まれた言説というわけだ。この定義はある意味「地政学」にも当てはまるのかもしれない。そして,その「特定の国々」というところも重要であり,当時の帝国主義諸国である,イギリス,フランス,オランダのみが行えた政策であり,スウィフトの故郷であるアイルランドは当然重商主義的政策をとれるわけもなく,逆にイギリスの重商主義的政策に飲み込まれる対象であるという点も重要である。
なかなか本書に関するまとまった意見を書くほど理解できていないので,断片的に書いていくことにしたい。まず,前半では,スウィフトの記述,そして当時の重商主義的な言説は国体=国家という政治体を,この日本語の表記のように身体のメタファーでとらえる傾向にあるという。まあ,これは国家有機体説として地理学にもなじみ深く,かなり一般的なメタファーだといえるが,ちょうどこの頃に発表された,体内の血液循環を明らかにしたハーヴィーの『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』(1628年)の影響などを論じている。人間の身体も食物の摂取という収入と,消化=消費し,栄養分が血液で体中に分配され=流通,さまざまな運動で利用され,残余分は排泄される=支出とで成り立っている。収入>支出であれば,黒字で身体は成長する=増大する。逆の場合はやせ細っていく。そんな具合。第二章はアイルランドについてで,デフォーのスコットランドとは少し事情が違うが,イングランドへの視線が斜めからであるところは興味深い。要するに,アイルランドはイングランドにとって女・子どもであり保護する存在,征服する存在であるという議論だが,第五章の食人の議論がなかなか衝撃的だった。スペインによるカリブ海植民地の議論では食人の話題は欠かせず,そのなかでもヨーロッパの伝統としての子どもを食べるという話があった記憶はある。本書に登場する,貧民における子だくさんと食糧不足を解決する方策としての食人という話は,どれだけ事実に基づくものなのか,比喩にすぎないのか,分からないがいずれにせよグロテスクだ。
第六章で登場するスカトロジーの話題は,富山さんの本でもかなり重要なものだった。それは,実際に当時のロンドンが非常に不衛生で,しかも性の乱れが横行していたという論点だったが,本書では女性に関する当時の言説を細かく紹介していてなかなか興味深いが,簡単に要約できない。ただ,本書ではこのスカトロジカルな描写を売春婦の性産業と結び付けて議論する。売春婦という職業は以前から存在するが,この時代にまさに資本主義市場にしっかりと組み込まれ,性愛産業としてその主たる商品である女性が,特にその特別な価値を持った女性は,排便と結びつくことで価値を落とす(現代では,アイドルはうんちはしない的な)。
第三部は個人的に非常に興味深かったものの,重商主義というテーマとは少し離れた気がするが,第四部でがっつりと戻ってきて,どの章にも「国家」が冠されている。第八章は「信用」がテーマだが,ここでいう「信用」はいわゆる金融用語でのクレジットだ。アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』でも13世紀とかかなり早い時期に資本主義的な制度ができてきていたことを知ったが,そもそもが元手のない経済活動に株式という形で事前に資金を集めたり,信用という形で支払いを遅らせたりという形で,経済活動の基本である貨幣の交換を今ここから,いつか・どこかでに変更することで,貨幣が時空間を超えて移動することを可能にしたのだと思う。そういう意味でも,信用はクレジットというカナ表記では矮小化されてしまう意味合いを本書では詳しく論じている。資本主義というシステムがそもそも人間の信用=他人への信頼を奪ってきたように思える一方で,それをうまく利用してきたという矛盾が面白い。そして,個別には個人間の信用だったものが重商主義政策においては国家そのものへの信用とも繋がっているのだ。第九章はイマイチよく理解できなかったが,宮崎 駿によって日本では特に有名になった『ガリヴァー旅行記』に登場する空飛ぶ島=ラピュータが論じられる(裏表紙にもその挿絵が使われている)。ラピュータは科学技術の力で空中を浮遊する都市だが,常に地上のバルビバーニという島の上空を浮遊し,少数である科学者と軍隊,富裕層が乗り,地上の貧困層を含む大多数の一般市民の生活を脅かしている。このラピュータとバルビバーニの関係はイングランドとアイルランドの関係を揶揄したものでもあるが,ラピュータがバルビバーニの特定の地域の上空に滞在することで太陽光線を遮り,飢餓と病気で苦しめるという制裁は手の込んだものだ。最終章である第十章に持ってこられた鯨の話は私がもっとも関心を持ったものである。そもそも,世界のエネルギー事情の歴史を調べていた時に,現代では日本の捕鯨を批判する西洋諸国がかつては鯨油を採取するために,鯨の乱獲を行っていたことを知り,竹田いさみ『海の地政学』でも鯨に一章を割き,海の覇権争いに捕鯨が大きく関わっていることを知った。本書ではそれに加え,鯨が多様な意味合いを持っていたことを伝えている。まずは,『ガリヴァー旅行記』の良く知られる前半にある,小人国の海岸に巨人となったガリヴァーが打ち上げられるシーン。それは海岸に打ち上げられた鯨を想起させるという。人類ははじめから海中での鯨の存在や生態を知っていて捕鯨を行ったわけではなく,鯨は長らく西洋人にとって海獣として謎に包まれた存在だった。しかし,一方では一定の頻度で死体となって海岸に鯨が打ち上げられる。それを解体することからこの生物体の理解が始まる。本書の表紙に掲載されているのはブリューゲルが1557年に描いた「大きな魚は小さな魚を食らう」というもので,鯨の腹を裂くと,なかから魚が出てきて,その魚の腹を裂くとそこからまた小さな魚が,というもの。食物連鎖の事実とともに,人間社会の資本主義経済,そして植民地主義政治のあり方も揶揄するものでもある。いずれにせよ,海獣と思われていた鯨という存在は,さまざまな貿易で海上を存分に活用した国際市場経済と重商主義政策の中で大きな財産という位置づけに変わっていく。そもそも聖書の中で,鯨という海中の怪物はレビアタンと呼ばれるもので,後にトマス・ホッブスが『リヴァイアサン』(1651年)として書名に用いるものであり,そこではよく知られる表紙の挿絵のように,国体としての国王の身体が無数の民衆から成り立っている。鯨の腹から出てきた小魚のように,国家は民衆たちを食らって存続するのだ。まあ,ともかく大学図書館で何気なく借りてきた本でありながら多くの刺激を得た読書だった。著者のその後の研究についても調べてみたいと思った次第。


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