【読書日記】周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』
周司あきら・高井ゆと里(2023):『トランスジェンダー入門』集英社,229p.,1,056円.
昨年はLGBT理解増進法なる法律が国会で議論され,その様子を国会中継で見ていたので,トランスジェンダーについてはさんざん考えさせられた。著者の一人である高井さんはTwitterを通じて多くの情報発信をしていたので知っていたし,またショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』の翻訳もしていたので,こちらも読みたいと思いながら,そこそこ厚かったので,手を付けられずにいた。そんな時に本書が出て,こちらもそのうち読まなきゃなと思っていたが,少し経って入手する機会があり,新書ということもあったのでさくっと読んだ。
はじめに
第1章 トランスジェンダーとは?
第2章 性別移行
第3章 差別
第4章 医療と健康
第5章 法律
第6章 フェミニズムと男性学
おわりに
私がジェンダーについて意識したのはいつ頃だろうか。おそらく大学院の頃だと思う。大学院の頃はかなり社会学にかぶれていて,図書館の閉架で『現代思想』の関心がある論文をコピーして読んでいた。とはいえ,『現代思想』には社会学ど真ん中の論文はそれほど多くなく(大澤真幸さんの論文はそこそこ読んだ),それよりも私は東京都立大学にいたので,大学の紀要である『人文学報』を読んでいた。読んでいたといっても,江原由美子さんの論文がほとんどだった。江原由美子さんといえば上野千鶴子さんと並んで(?)フェミニスト研究者の先駆的な存在だと思うが,思い返すとそういう関係の論文を読んでいたわけではない。江原さんはそのころシュッツ研究をして,また都立大内にあったエスノメソドロジー研究会のメンバーでもあった。なので,私がジェンダーに関心を持ったのはそこではないらしい。そういえば,月刊誌『地理』では当時「社会地理学とその周辺」なんて特集や連載が組まれていて,そこでジェンダーの話題があったかもしれない。ジャクソン&スミス『社会地理学の探検』の目次にはジェンダーの文字はないが,その頃の社会地理学といえば,人種・ジェンダー・エスニシティが大きなテーマだった。日本でも神谷浩夫さんを中心にジェンダー地理学の日本への紹介は進んでいた。でも,なんとなくしっくりこない。私が地理学経由でジェンダー概念を考えたわけではない気がする。ジェンダー地理学はあくまでも男女の性別を根本的に考えるわけではなく(もちろん,そういう研究もあったし,そのなかのいくつかは『空間・社会・地理思想』に訳出されていた),性別の問題を地理学的分析に取り入れるというものだった(男性中心主義的な地理学にとってはそれすらも新しかった)。私自身は当時ポスト構造主義というか,社会構築主義にかぶれていて,ジェンダー概念というのは,単に性的二元論(男か女か)を乗り越えて多元論にするというより,全てを相対化して区別をなくすものと私は考えていた。ジェンダーというものは社会が私たちにその区分を押し付けるものであり,幼い頃から私たちは積極的にどれかの区分を受け入れるのであって,ジェンダーに関して学び,考え,論じることでその受け入れ方について自らが決定していくことができるものだという,かなり相対主義的な考えを持っていた。そういう私にとってトランスジェンダーという存在は,なかなか理解はできないでいる。ノンバイナリーはまさにそうした考え方に合致していて理解しやすいが,トランスジェンダーは最終的に当事者が男女どちらかの性に帰属しようとするものであり,相対主義的な考えでは理解できない。相対主義的なジェンダー概念というものも,言ってしまえば机上の空論であり,この考えによって個々人が性差というものから完全に解放されるわけではない。
そういう意味において,トランスジェンダーという存在は,私のジェンダー概念を根本から突き崩し,再考させようとしている。それはまだ完全に突き崩されておらず,再考を何度も繰り返すことの必要性を痛感する。例えば,誰しも自分の身体への違和感というか,不満なところは多いと思う。背が低い(高い),痩せている(太っている),目が小さい,一重である,鼻が大きい(小さい)といった外見上のもの。目が悪い,鼻が詰まりがち,運動が苦手などの行動上のもの,また私は男性であるので女性のものは思いつかないが,早漏などの性的なものまであるだろう。そうしたもののほとんどは自分の力では変更できず,場合によっては整形手術などで変更する人もいる。『ドラえもん』のなかには顔のパーツを福笑いみたいに取り替えたり,お互いに体のパーツを交換したり,レンタルの身体のパーツがあったり,というエピソードがいくつかある。自分の気に入らない体の部分を交換するのだ。しかし,それぞれ長所と短所があり,交換しても完全に満足できるわけではなく,結局は自分のものが一番良いという結末になっている。それはそれで非常に保守的で現状維持的な考え方を植え付けるものだとは思うが,本人が身体的な部分に不満を持っていたとしても,その不満を解消するような部分に交換しても悩みが解決するとは限らないということは伝えてくれる。そういう意味でも,多くの人はそうした短所も自分の一部だとして一生付き合っていくのだと思う。
トランスジェンダー当事者による話のなかで,第二次性徴期に生じる変化に耐えられないというものがある。それはトランスジェンダーに限らず誰にしも起こりえるもので,私はそうしたものや,またトランスジェンダーの人が感じる違和が,上述したようなシスジェンダーの人の多くも感じている自身の身体的部分への不満とどこが根本的に違うのか,程度の問題ではないかと思っていた。しかし,シスジェンダーが第二次性徴期に感じる戸惑いは,第一次性徴を受け入れた上でのものだが,トランスの場合は,第一次性徴で違和を感じつつ育ってきた上での決定的な違和であると考えることもできる。シスジェンダーの場合は戸惑いを感じながらもそれを受け入れたりのりこえたりしていく一方で,トランスジェンダーはこれまでも戸惑いながらどうにもできずに生きてきての第二次性徴であるために,これ以上耐えられない,ということかもしれない。
すっかり前振りが長くなったが,本書はそうした私のもやもやを完全に解消するものではないが,基礎的な知るべき事項を淡々と説明してくれる。まさに帯にあるように「最初に知ってほしいこと。」なのだという。「知るべきこと」と他人からの上から目線ではなく,当事者のお願いとして説明されている。そして,重要なのは,まずは「トランスジェンダー」という概念を提示して,それについて知ること,考えることがまずくるのだが,その先にはトランスジェンダーと同じ言葉を使うにしても,個々の当事者の状況はそれぞれであり一般化するのも難しいということを認識すること。それはもちろんシスジェンダーについてもいえることなのだが,それを相対主義的にシスからトランスへと切れ目ないグラデーションとして捉えるのではなく,あくまでもトランスの人びとはシスには見えない風景を見ているということに思いをはせることも重要だと思う。どこからがシスで,どこからがトランスだという明白な区分線を引くことは難しいかもしれないし,意味のないことかもしれないが,個々の当事者にとってはおそらくその区分は明白なのだろう。
さて,また本書で主張していることから外れてしまったが,個人的にハッとさせられた部分がある。35ページに太字で書かれている部分。
一つ目は,「女の子として/男の子としてこれからずっと行きなさい」という課題。
二つ目は,「女の子は女の子らしく/男の子は男の子らしく生きなさい」という課題。
二つ目のことは私がジェンダー概念としてこれまで考えてきたものである。これは「らしさ」を自分で定義することでのりこえることができる。しかし,一つ目のことは自分ではどうにもならない。性別は生物学的に決定されている,と私が主張したいわけではない。生物学的に男女を区別するのは難しいということはある程度知っている。しかし,まさに性別というのは人間社会で生物学的に判断されているわけではなく,社会的に他人から判断されるのだ。自分がこうあろうと外見の決定権を持って作り上げても,周囲の社会が自分の思うように判断してくれるとは限らないし,自分がいかに性別・性差にこだわらない生き方をしようが,周囲は性別・性差で判断しようとしてくるのだ。その軋轢によって,社会の視線が差別となって当事者を襲う。そこから逃れるために,「性別移行」という手段が当事者にはあり,社会の側には「法律」がある。とはいえ,法律だけで全てが解決するわけでもなく,社会全体の理解を深める一つの方法として学問があり,「フェミニズムと男性学」がある。トランスジェンダーの問題はまさに,これまで主に女性が担っていたフェミニズムのみで解決するものではなく,この社会のマイノリティとして機能してきた男性が担うべき男性学が考えていかないといけない問題だ。とはいえ,アカデミックのみで議論を費やしても社会全体にはなかなか進展しない。本書では目次を別にして議論はされていないが,アクティビズムとしてのさまざまな団体の活動が非常に重要である。冒頭に触れたLGBT理解増進法の国会での議論においても,そうした活動団体の方が参考人として答弁をしていたが,なんとそこにはトランス差別をしている団体も入っていた。活動団体といっても必ずしも当事者に寄り添うものとは限らないというのも難しいところだ。


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