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2024年2月

【読書日記】山本敦久『ポスト・スポーツの時代』

山本敦久(2020):『ポスト・スポーツの時代』岩波書店,278+6p.2,200円.

 

著者の山本さんは1973年生まれ。最近では小笠原博毅さんと2020東京オリンピック関係の仕事が目立っていたが,1968年の小笠原さんと,やはりオリンピックに関して文章を書いていた1969年生まれの有元 健などは私は以前から知っていた。1990年代前半に日本にカルチュラル・スタディーズが積極的に導入された。その頃はかなり大々的に外国からゲストを招聘して大学の大講堂を用いたシンポジウムなどが開催され,吉見俊哉氏などがその牽引役だった。その後,かれらの世代に教育を受けていた世代が中心となって,形式ばらない学会形式で2003年に開催されたのがカルチュラル・タイフーンで,毎年開催され,今では学会という組織にまで発展している。私は早稲田大学で開催された第1回の時と,下北沢の高校を会場とした2006年に参加している。ここで名前を挙げた3人以外にもカルチュラル・タイフーンの時に名前を覚えた研究者は何人かいるが,いずれも今では優れた研究者になっている。
当時から,サッカーを中心としてスポーツをカルチュラル・スタディーズの枠組みで論じるものがあったことは覚えていて,研究対象としてスポーツを捉える発想が全くなかった当時の私にとってはかなり刺激的だった。その後,ここ数年はオリンピック研究に関わるようになって,スポーツ研究が多少なりとも親しいものとなったのだが,本書はまさにスポーツど真ん中で,かつカルチュラル・スタディーズの影響が非常に強く,しかも第1回カルチュラル・タイフーンから20年が経過して,カルチュラル・スタディーズの取り込み方も年季が入っているというか洗練されているというか,非常に刺激のある読書だった。

序 ポスト・スポーツとは何か?
I部 競技者とは誰か
1章 ポスト・スポーツの時代――ビッグデータと変容するスポーツ競技
2章 前―個体性のスポーツ――制御される偶発性とテクノロジーに繋がった「身体図式」
II部 転回するハビトゥス
3章 ハビトゥスなきハビトゥス――ポスト・スポーツの身体と現代におけるコミュニケーション
4章 視覚のハビトゥス――「黒人の身体能力神話」と「身体論ナショナリズム」
III部 アスリートたちの闘い
5章 批判的ポスト・スポーツの系譜――抵抗するアスリートと「ソーシャル」の可能性
6章 記憶と身体の「ポスト・コロニアル」――モハメド・アリ,CLR・ジェームズ,黒い大西洋
IV部 スポーツの未来
7章 「横乗り文化」と変容するライフスタイル――スノーボードの批判的滑走身体

本書における「ポスト」とは,ポスト・モダンやポスト・ヒューマン(この議論は正直言ってほとんど知らないが)と同様に,分かりやすいものではない。そもそも,スポーツという概念自体(語源を調べたことはないが)が近代的な意味合いが強いように思われ,当初からある程度資本主義のシステムに組み込まれた側面があると思うし,それこそ近代スポーツの最高峰であるオリンピックは古代のそれに対して,近代オリンピックと称している。その商業化は一般的に1984年のロサンゼルス大会以降とされているので,それ以前は商業化の度合いは高くなかったともいえる。とはいえ,スポーツ自体が商業化していなかったのではなく,プロ化が進んでいくスポーツ界のなかで,近代オリンピックという場は表面上のアマチュアリズムを謳っていた,ということだろう。ともかく,本書では第2章の後半でeスポーツの議論もあるように,商業化のその先にあるスポーツのあり方も議論の対象となるが,まず第1章で取り上げられるビッグデータとの関連が非常に興味深い。
第1章は野球が題材である。私自身,少年野球を小学3年生から中学3年生までやっていた。その頃の打撃の指導方針はとにかく,上から叩け,転がせばセーフになる可能性はいくらでもあるが,フライを上げたらほとんどアウト確実だ,という論理である。さて,それから40年が経過し,私の息子が小学3年生で同じように小学校の野球クラブに入部した。結局,指導者たちがあまりにもひどい人たちで,息子もそれを感じ取ってくれたのか,5年にあがった頃に退部した。それはともかく,一時期は良心的なコーチに最近の少年野球の技術的な側面について教わっていたのだが,それによれば,上から叩きつけるバッティングは最近はほとんど教えることはなく,基本は水平,下から突き上げる打法すら,本人が希望するのであればやらせているという。その時は,確かに上から叩きつけるバッティングは,ランナーの塁を進めるとか犠牲によるチームプレイという側面が大きく,最近ではもっと個人の意思を重視したのびのび野球が推奨されるものと理解していた。しかし,そうではなく本書によれば,試合の全ての打球がデータ化されることで,どういう打球が安打になり,また得点や勝利に結びつくのかという,確率的な結果により,叩きつけてゴロにするよりも打ち上げる方がそうした確率が高く,またその打ち上げる角度や打球速度などが割り出されていて,それらを再現するためのトレーニングがなされているのだという。ヤクルトの野村克也氏が監督をしていた頃もデータ野球ってのがあった。しかし,今はデータはデータでも「ビッグデータ」なので,単なる頭脳の問題ではない,ということだ。投手の投げるボールの回転数とかそういうレベルでデータされ,しかもそれを投手自身が再現するようなピッチングの練習をするというのだから驚きだ。もう,私の知っている野球ではない。まあ,そんな感じで変容を遂げているのが,昨今のスポーツで,ポスト・スポーツと称されるゆえんである。そして著者の専攻がスポーツ社会学であるように,これは単なるスポーツの問題ではない。野球などの団体スポーツは,そこに社会が存在するわけだが,個人競技者の連携としての団体スポーツというよりも,チームという組織で戦う要素の一つとして個々の選手がいる。チームと個々の競技者との関係を社会と個人の関係という社会学的な問いとして考えるために,第I部は「競技者とは誰か」と名づけられている。それに関連して,一時期長距離走で話題になったナイキの厚底シューズに関する議論もある。競泳の水着や,障害者陸上の義足など,アスリート本人のみでなく,道具の技術発展に関しても,ポスト・スポーツという枠組みは深い考察を提供する。
第II部は意外にもフランスの社会学者,ブルデューの概念「ハビトゥス」が登場し,けっこう社会学史というか社会学理論の話が第3章では展開する。それは,黒人アスリートの話へとつながっていくのだが,そもそも欧米社会における黒人の歴史についての議論をベースにしているのが,単なるスポーツ論に終わらない奥行きの深さを本書に与えている。第4章はこれまでもよくあった「黒人の身体能力の高さ」という言説分析がこういう背景の下で展開される。
第III部は,著者が『反東京オリンピック宣言』に収録された論文で展開した,1968年メキシコ・オリンピックでの黒人陸上選手の話を含め,アスリートによる社会運動についてさまざまな事例を論じていて,本書の最も魅力的な部分である。第6章ではモハメド・アリやC・L・R・ジェームズが登場する。ここでも,やはり社会と個人の関係がテーマの一つとしてあり,オリンピックにおける代表選手と国家の関係,スポンサー企業と有名アスリートとの関係,ジェームズは最近(2015年)に本橋哲也さんの訳で『境界を越えて』が出版され話題になったが,ジェームズとは1901年に当時の英国領トリニダードで生まれた人物で,クリケット選手でもあった。1933年に英国に渡り,その後は米国で活動家として生きたようだ。つまり,ここでは植民地主義の問題としてスポーツが論じられる。
本書はポスト・スポーツを論じることで,いわゆる近代スポーツを懐かしむわけでもなく,また逆に近代スポーツ批判を展開するわけでもない。もちろん,第I部の議論はそれに近いところもあるが,第III部以降では,アスリートの主体性の復権,それはポスト・スポーツで失われたものをスポーツで復権するというよりは,スポーツ以外の場での主義主張や運動に着目しているということである。そして,それも含めて批判的ポスト・スポーツという表現もしている。第IV部では,そうしたアスリートの運動がもたらす積極的なスポーツの未来像を論じるために,スノーボードを取り上げている。『反東京オリンピック宣言』でも,オリンピック出場を拒否したスノーボーダーであるテリエ・ハーコンセンの文書を著者が訳出しているが,そこで論じられたのは,そもそも社会的規範の規律・訓練を是とする近代スポーツに抗う形で登場したスケートボードやスノーボードがまさに近代スポーツの象徴であるオリンピックに丸め込まれたことに抵抗するトップアスリートという話だった。本書ではそれとは異なり,スノーボードというスポーツを一つのライフスタイルとして実践している日本の人たちを紹介している。アスリートは政治的な発言などせずにスポーツに専念してろ,みたいな意見がよくあるが,それとは全く相容れず,かれらはスポーツを自分の生活や人生に組み込んでいる。もちろん,多くのアスリートもスポーツが人生みたいな言い方をして自身のアイデンティティの多くの部分を占めるのであるが,それはあくまでも職業人としてのそれであり,生活者としてのそれではない。この議論はスポーツ分野に限らず,あらゆる人間が考えるべき存在であり,多くの人がそうした生き方を選択できるようになったら,それこそ持続可能な社会となるだろう。

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【読書日記】『エトセトラ』Vol.10,特集「男性学」

周司あきら特集編集(2023):『エトセトラ』エトセトラブックス,Vol.10,特集「男性学」,125p.1,400円.

 

この読書日記でもたびたび紹介しているように,『エトセトラ』はここのところ私が毎号購入しているフェミニスト季刊誌。ほとんどの号で事前に読者アンケートを取っており,その結果を掲載している。単純な読者アンケートではなく,毎号の特集テーマに沿ったもので,回答者の言葉がそのまま掲載される。アンケートの性別集計によれば,本誌はフェミニスト雑誌だが,アンケートへの回答者に限定してだが,決して女性読者が多いわけではない。むしろ性的マイノリティの割合が,実社会における割合より圧倒的に多いのが特徴である。今回の特集でも,執筆者の多くが,必ずしもLなのかGなのかと宣言しているわけではないが,性的マイノリティ当事者であり,トランスジェンダーの当事者が多いように思う。実際にトランスするかどうかは別にして,完全なシスジェンダーではないというか,シスジェンダーであっても成長の過程でその男性性に戸惑い,悩みした経験などが語られている。

特集のはじめに
【年表】男性史・女性史:周司あきら
【エッセイ・論考】
ラップに耳をすませば:マルリナ
『男らしさの崩壊』の先にみる絶望とかすかな希望:麦倉哲
誰も好きになってはならない:五月あかり
自分を終わらせて、自分へと生まれ戻ろう――場としてのメンズリブ、心としてのメンズリブ:小埜功貴
『俺』を取り戻す旅:瀬戸マサキ
ノイジー・マスキュリニティ:仲芦達矢
傷と言葉――仲芦達矢『ノイジー・マスキュリニティ』のための補足:Y・N
男にとって『恥』とは何か――仮性包茎の現代史から:澁谷知美
異物のように、宝物のように:森山至貴
そして誰が排除されるのか?――百合ジャンルにおけるミサンドリーの問題:水上文
男たちの帝国と東アジア:福永玄弥
男性が特権/差別を克服するために――被抑圧者の解放と自らの解放との結びつきを捉える:遠山日出也
【小説】父(ちち)と、娘/息子(こ):勝又栄政
【漫画】山田さんの生活:中村一般
【座談会】男である自分を好きになる――90年代日本のメンズリブ運動:水野阿修羅✕小埜功貴✕周司あきら
【読者アンケート】男として生きること、男扱いされることの喜びを考えてみる
特集のおわりに
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【寄稿】
『HEAR. ME. OUT.』制作日誌:もちづきゆきえ
独立運動から続く道をたどって〜おしゃべりソウル旅行記〜:伊藤春奈(花束書房)
【漫画】目ざせ!! 𝑫𝑰𝑽𝑨に殺されない元カレ:とれたてクラブ
【連載】
「編集長フェミ日記」2023年8月〜9月
「祖母の話」/#2 川﨑那恵「ムラの女たちのあいだで」
「アート・アクティヴィズム」北原恵/〈98〉「関東大震災100年を記憶する現代アート:2023夏、韓国」
「LAST TIME WE MET 彼女たちが見ていた風景」宇壽山貴久子
私のフェミアイテム:下山田志帆
NOW THIS ACTIVIST :山田亜紀子
etc. bookshop通信

そんなこともあり,今回は個々の文章についてコメントしていくのではなく,総論で語っていきたい。いつも雑誌の読書日記は目次を手入力しながら,個々の文章を思い起こすのだが,今回はウェブサイトからのコピー&ペーストです。読了してからかなり時間が経っているので,本文に則した形での文章になるかどうかわからないが,その辺りはご了承願いたい。
とはいえ,いくつか具体的に学んだこともある。澁谷知美さんは私が非常勤で教えている東京経済大学の教授だが,日本における「仮性包茎」の現代史を整理している。まさに私が生まれる時代に日本では多数派であり,手術をする必要のない仮性包茎が,恥ずかしいものだと思わされ,手術が推奨された。その一役を担っていたのが高須クリニックなのだという。高須院長は未だに差別的発言を繰り返す人物だが,この包茎手術というビジネスで一儲けしたことである種の経済権力者としてメディアでの発言権を有しているということだ。編集の周司あきらさんの手書きによる「男性史・女性史」年表も面白い。座談会で辿られる1990年代のメンズリブ運動についてもほとんど知らず,学ぶことが多かった。
今回の特集は,さすがに男性学というテーマであるだけに,私自身が当事者として考えさせられることが多かった。私が20歳の時に亡くなった父親からきちんと聴いたわけではないが,その後母親から,父が本当は第二子は女の子を欲しかったということを聞かされたことがある(私は二人兄弟で兄がいて,私が第二子)。ただ,それすらもうる覚えで,どんなシチュエーションで聴いたのかもよく思い出せない。ただ,私の第二子が女の子だった時に(第一子は男の子),孫の顔を見に来た母親が,「うまく男女産み分けたね」といったことは鮮明に覚えている。これまた根拠のあるではないが,親が実際に生まれた性別でない性別を望んでいた場合,直接伝えなくても子どもはその望んだ性別に近づくなんてことを聞いたこともあり,何となく自分のなかで納得したこともある。いずれにせよ,私はやせ形で身長も高くならなかった。小学3年生から中学3年生までは野球をやっていて,小学校高学年からは坊主頭だったが,男子独特の仲間意識(いわゆるホモソーシャルな)には馴染めなかった。友だちがいないわけではないが,女子とも分け隔てなく遊んでいた小学4年生が一番楽しかった記憶が強い。小学5年生になると,男女間の関係は恋愛関係になってしまい,一対一の関係になってしまうのが残念だった。とはいえ,私自身は女性を過度に恋愛対象として見る,しかも今から思えば圧倒的にルッキズムだったわけだが,自身のなかに男性としてのヘテロセクシュアリティは確実に育っていったと思う。というよりは,自分のなかに植えついたヘテロセクシュアリティと女性美に対する憧れ的なものがないまぜになって,それはマジョリティとしてのシス男性×ヘテロセクシュアルとして私のなかでは消化された。私は野球部に入っていたこともあるが,中学生からは(それこそ子どもを授かる40歳まで)せっせと筋トレに励んで,そこそこの筋肉を蓄えていた。自分の男性器にも違和感を抱かなかったし,髭や体毛についても積極的ではないが受け入れた。そういう意味では,私は間違いなくシスジェンダーなのだが,20歳台後半に髪の毛を背中まで伸ばしてみたり(結果的には私の顔に長髪は似合わないことを思い知らされたわけだが),50歳台の今でもヘアスタイルに関してはいわゆる男性的なものにはしていない。また中学生の頃は,女子の間で流行っていた,ワンサイズ,ツーサイズ大きめのジャージ上を着てお尻を隠す(私の場合は明らかに前を隠していたわけだが,それはいわゆるもっこりする男性器を恥ずかしいと思ったわけではなく,むしろ自分の男性器の小ささを隠していたのかもしれない)ことをやっていた。
なんか,また自分のことばかり書いてしまったが,要は本書でつづられているのは,そうした男性,女性という性別二元論が社会には大きな二分法として存在するわけだが,その中身は多様で,男性であっても男性的なものを嫌ったり抗ったりする人が少なくないということだ。男性的なもの,女性的なもの,というのは単にそれが実際の男性と女性と短絡的に結び付けられるということだけではなく,価値観として個々人がそれを是とするか非とするかというものでもあると思う。そういう意味でも,私は男性的なもののなかで嫌いなものは見につけないし,女性的なもののなかで好きなものには憧れを抱くが,嫌いなものもある。そういう,個々人が些細な自分の感情や価値観をしっかりと判断しながら,自分の性的アイデンティティを確立していけばいいのではないか,そして,そうした個々人のアイデンティティ確立に対して他人が口をはさむべきではないと思う。

一つ書き忘れました。地理学には村田陽平さんという男性学の先駆者がいるのです。彼の初期の研究の集大成がこちら。
村田陽平(2009):『空間の男性学——ジェンダー地理学の再構築』京都大学学術出版会.

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【映画日記】『ゴールデン・カムイ』『大室家dear sisters』『ダム・マネー』『名探偵コナン vs 怪盗キッド』

年末にもう一本映画を観た気がするが,何の作品をどこの映画館で観たのかが思い出せないので,悔しいが省略する。そもそも,この映画日記は手元にある映画の半券が大体3枚たまったらまとめて書くようにしているのだが,最近は映画の半券がなく,QRコードで入場という方式が定着してしまっていることが原因だ。
今年は年始早々足の指の付け根の骨を折ってしまい,その後娘が新型コロナウイルスに感染するなど,外出ができない・しにくい状況が続き,映画をなかなか観られなかった。娘が登校できるようになり,私も松葉杖が外れて,ようやく伸び放題だった髪の毛を切りに行くついでに息子に映画に付き合ってもらった。

2024年128日(日)

府中TOHOシネマズ 『ゴールデン・カムイ』
最近完結し,いろいろ賛否両論があるのは知っていたが,マンガの原作はあまり読んでいない。だけど,この作品がアイヌをどう描いているのか,少し知りたいと思い,息子も観たいといっていたので,観に行くことにした。『キングダム』に続いて山崎賢人君が主演だが,相手役のアイヌ少女を演じるのが山田杏奈さんてのがいいかもしれない。私は映画『山女』くらいしか観ていないが,少し似た感じの役どころ。まあ,エンタメ映画なので多くは望まないが,冒頭が旅順における日露戦争の戦闘シーンということで,関心が高まった。最近,太平洋戦争をはじめとして,戦争の知識を持ちたいと思うようになったが,日清戦争,日露戦争については,どこが戦場になったのかもあまり理解していなかったことを痛感した。
そして,日露戦争と北海道の関りについて,そして日本と蝦夷,和人とアイヌとの関係についてもこの作品で考えさせられることが多いかもしれない。とはいえ,原作は全31巻ということで,本作も登場しなかった別のキャストも登場する次回作が予告されていたように,何部作かを予定しているようだ。息子も楽しんだようなので,継続的に観るようにしよう。立川まんがぱーくなどに行った時に,原作も少しずつ読み進めよう。
https://kamuy-movie.com/

 

2024年24日(日)
府中TOHOシネマズ 『大室家dear sisters
短いアニメ作品なので,鑑賞料金2,000円が1,600円の特別料金になっているのはありがたいが,通常料金が1,000円の中学生以下も一律1,600円というのはやめてほしい。ともかく,小学生の娘と,通常2人で3,000円のところが,3,200円かかってしまった。
それはともかく作品だが,私のツボにはまるほのぼの系アニメ。年の離れた,小学2年生,中学生,高校生の3姉妹の日常を描く。次回作も予定されていて,今度は「dear friends」だという。本作でも各人の同級生も数人登場したが,そうした友達メインになるのか。6月公開なので,こちらも楽しみにしたい。
https://ohmuroke.com/

 

2024年210日(土)

立川キノシネマ 『ダム・マネー ウォール街を狙え!』
観たい映画はけっこうあるはずなんだけど,自由になる時間が限られているので,上映場所と上映時間も重要な要素。そんななかで,選んだ作品。事実に基づく金融系作品ということで,あまり私の好みではないが,ポール・ダノ主演ということで観ることにした。思った通り冒頭の展開はなかなかついていけなかったが,ようは米国では,富裕層の投資家が,中小企業を弄ぶように株価を操作し資金を蓄積している状況にある。まあ,それはコロナ禍にあっても大企業は業績好調という日本の場合も例外ではなく,株によってまさにグローバルな経済格差が拡大しているのは間違いない。そこで,この作品では一人の個人投資家が,実店舗でゲームを販売するという時代遅れな企業の株を大量に買い,またその下部の魅力をYouTubeで訴えるうちに徐々に賛同者が増え,株が買われ,株価が上昇していき,最終的には富裕投資家が大きな損失を生むというストーリー。なかなか面白かった。小口の投資家たちの姿はほとんどフィクションだと思うが,その詳細な描き方がまた良い。
https://dumbmoney.jp/

 

2024年211日(日)

立川シネマシティ 『名探偵コナン vs 怪盗キッド』
名探偵コナンの映画はここ数年,娘と欠かさず観に行っている。もともとテレビシリーズもろくに見ていないし,コミックは娘が購入した数冊あるだけなのだが,毎回長編映画の前に,こうしてその映画の主たる人物を取り上げたテレビ総集編を映画館で上映しているのでありがたい。今回も,上映時間的には娘と観るには少し無理があったが,翌日が休日だったので,観に行った。怪盗キッドについては,これまでの作品でも登場していたのでそれなりに知っていたが,この総集編は基礎的な情報が詰まっていて,勉強になった。4月から始まる映画版も楽しみにしたい。
https://www.conan-movie.jp/2024/tvspecial/index.html

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【読書日記】佐久間裕美子『Weの市民革命』

佐久間裕美子(2020):『Weの市民革命』朝日出版社,229p.1,500円.

 

本書はそのポップな装丁と,ちょっと変則的な大きさの版で目立っていたので知っていた。読もうか読もうかと思っている頃,過去の動画を観まくっていたYouTubeの「とことん共産党」に著者が出演していた。プロフィールで「文筆家」と名乗る著者は話も面白く,外見もかなり独特(そして年齢不詳)。なんだかんだで大分経ってから読むこととなったが,読み終わって少し経ったら,これまたYouTubeでDialogue for Peopleが配信している「Radio Dialogue」のゲストで著者が出演していた。
著者は一応ニューヨーク在住ということだが,「とことん共産党」もスタジオ出演だったし,時折日本に帰国し,特にコロナ禍においては一度帰国するとなかなか渡米ができない感じで,デモの現場などにも目にすることが多かった(といっても,デモの配信で見たということです)。細かくは覚えていないが,入管法やLGBT理解増進法などの国会前でのデモなどでスピーチしていたように思う。文筆家とはいえ,本書のような内容を書いている人なので,アクティビストでもあるということだろう。

はじめに
01 消費はアクティビズムになった
02 インディペンデントは生き残れるのか
03 コロナが前進させた社会のシフト
04 自分ごとのサステイナビリティ
おわりに

「とことん共産党」では,トランプ大統領が当選した大統領選挙の時のバーニー・サンダース人気に象徴されるように,近年の若い世代の間での社会主義の指示が高まっているという話があったように思う。しかし,本書の内容は,ニューヨークにおけるコロナ対応の実態解説を含んでいることもあるが,私が期待したような内容とは少し異なっていた。
「Radio Dialogue」を聞いた後なので,私自身の読書体験を再び文字化するのは難しいが,本人もこの配信で別のいい表現がないかとここ3年間考え続けているといっていたが,消費アクティビズムに関する議論の印象が強くなってしまっている。つい最近でも,イスラエルの武器製造会社と業務提携を行っている伊藤忠グループ(ファミリーマートの自社製品,プリマハム,アンダーアーマー,エドウィン)などの不買運動が盛り上がっていて,そういう意味でも消費アクティビズムが私のなかでもここ数年で当たり前のものになり,私のTwitter界隈でもかなり浸透しているので,私自身はそれこそ数年前まではそんな発想は全くなかったのに,本書のメッセージがそれほど新奇なものに感じなくなってしまっている。とはいえ,02ではニューヨークのジェントリフィケーションにまつわる状況を知ることができる記述も多く,勉強にはなった。
そもそも,この消費アクティビズムというのは,日本社会に住む私たちがとかく思いがちな,政治との距離感を縮める役割を果たしているということは間違いなく,この考え方,発想は多くの人に知ってもらいたいし,また実践してほしいと思う。とはいえ,恐らくこういうことに弱いのも日本社会の特徴かもしれない。消費の場の政治を持ち込むな!とか,普段の買い物にそんな難しいことを考えてられるか,的な。私は昔から政治的なことは時に考えず,似たようなことはしてきた。毎日の買い物でレジ袋は何度も再利用して,受け取りを断っていた(それこそ昔は勝手に袋を入れられたので,断るタイミングが難しかった)。洋服屋などでは店名の入った紙袋を持つことが広告効果があるというのも分かっていたので断りづらかったが,あの過剰包装には常に後ろめたさがあった。しかし,この行為は単に,家にゴミが増えるのを避けたかっただけだ。また,ディズニーランドに行かないとかマクドナルドでは食べないとか,それこそ売れている音楽は聴かないとか,そういうこともしていた。それは現代資本主義のあり方が過度な富の集中をもたらすことに抗いたいというそういう意図を持った行動だった。お金持ちをさらに儲けさせるのではなく,なかなか儲けが出なくて頑張っている人を応援するという気持ち。確かに,規模の経済というか,大企業の製品は安定していて安価で,大量に流通しているので購入しやすいのは確かで,そうでない製品が割高なのは間違いない。結婚前は経済的に余裕があったので,そういう購買活動ができたが,やはり子どもができるとそうはいかないという事情もある。
また自分のことばかり書いてしまったが,本書で論じられていることはもっと高度なことで,そこには環境危機の問題もあるし,購買先の企業が単に大企業か中小企業かということではなく,企業として社会のことを考えているかどうかという「エシカル」=倫理や道徳という観点から企業を選ぶということだ。それは,単に消費者としてだけではなく,労働者としてもそうすべきだと思う。そういう意味では私も不甲斐ない労働を長年続けていて,それは家計を支えるという経済的な側面が大きいのだが,政治的な側面から即刻今の会社を辞めて次のライフステージに進みたいとは思うのだが,なかなか思うようにはできない。

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【読書日記】北原モコットゥナシ著,田房永子漫画『アイヌもやもや』

北原モコットゥナシ著,田房永子漫画(2023):『アイヌもやもや――見えない化されている「わたしたち」と,そこにふれてはいけない気がしてしまう「わたしたち」の。』303BOOKS179p.1,760円.

 

手元にJCBギフトカードが数枚あったため,カードの使える書店で息子に欲しい本あったら買ってあげるねと言っていた時に息子が持ってきた本。隣駅の個性的な喫茶店に『ゴールデン・カムイ』の漫画本が置いてあり,息子も数巻読んでいたし,中学校の歴史でもアイヌのことは学んでいると思う。また,彼は「ゆる言語学ラジオ」にかなりはまっているので,アイヌ語の話題も多いのかもしれない。
ともかく,こういう社会問題を漫画を活用して分かりやすく解説する書籍は大歓迎なので購入することにした。息子はその日のうちに読み終えてしまったので,私も漫画をパラパラめくっていたところ,最終的には全部読むこととなった。

はじめに
登場人物紹介
第1章 言い出しにくいんです
第2章 差別・ステレオタイプ
第3章 アイデンティティ:私らしさとアイヌらしさ
第4章 マジョリティの優位性
北原モコットゥナシ×田房永子 特別対談
これまでのできごと年表
参考文献

著者の北原モコットゥナシさんの最後の「シ」は小さく表記するそうだ。アイヌ当事者でありながら,この本の漫画に登場する高校生のように,東京生まれとのこと。現在は北海道大学のアイヌ・先住民研究センターの教授をされているということで一応信頼が置けそうだ。こうした一般書の怖いところは,著名な研究者が名前を出しているものの,「監修」などとなっていて,実際には出版社の編集者などが執筆している場合も多いが,本書に関してはしっかりと「著」と書かれているし,漫画を担当されている方もアイヌや先住民問題に関わってきた人ではないようだが,上野千鶴子さんとの共著もあるということで,研究者との共同作業の実績もある。本書に関しても,著者と漫画家の対談が巻末に掲載され,北原さんの方から,田房さんの作品を読んで依頼をしたということ,また漫画作品の制作に関しても両者の共同作業となっているようだ。
本書の漫画には3組の複数人の組み合わせが登場する。まずは,著者の体験を踏まえたものだと思われる,東京に住むアイヌにルーツを持つ男子高校生。大学生の姉と,結婚して妊娠中の姉,北海道に住んでいるおばあちゃんが登場する。次に,北海道の役所に勤める男性職員で,文化振興課に配属され,時折アイヌ関係のイベントに関わる。和人としてアイヌ文化に関わることのやりがいを感じていたところ,自分もアイヌのルーツを持つことを知る。三番目の登場人物はアイヌの女性と結婚した男性とその家族。そのパートナーが1番目の高校生の姉なわけだが,この男性の父親と会うと,自分は差別はないと言いながら,アイヌに対するステレオタイプを持って接してくることが多い。
そんなありがちなシチュエーションの漫画は全体の1割もない。一つ一つの用語や事柄について丁寧に解説さえ,必要なデータも示されている。用語としてはまずルッキズム。アイヌは体毛が多いというステレオタイプを引き合いに出し,それを単純に否定するのではなく,眉毛の形を整えたりムダ毛を処理したりという女子大生の普通の悩みとして漫画に語らせる。第2章のタイトルは「差別・ステレオタイプ」だが,よく言われる「差別は悪意のない人がする」というところを丁寧に漫画で描き,「マイクロアグレッション:ありふれた言葉,行動,または環境によって伝えられるもの」,「マイクロインサルト:無礼で配慮のない物言いやステレオタイプへの当てはめ」,「マイクロインバリデーション:相手の感情,経験を排除,否定,無化すること」(pp.81-83)という私も聞いたことがなかった言葉で説明する。差別については,何気ない悪意のない日常的な発言から,現在ガザで行われている民族浄化であるジェノサイドまで段階的に移行してしまうという「差別のピラミッド」についても説明されている(p.130)。登場人物の祖母の経験ということで,アイヌの歴史やその歴史の中で受けてきた差別についても説明されている。いわゆるアイヌ史という大きな歴史で語るのではなく,想像上の人物という想定ではあるがあくまでも個人史という小さな歴史で語ることで,読者に身近な問題として提起している。
本書は日本社会に生きるマイノリティとしてのアイヌの存在に関して,読者がその存在を遠いものとして考えがちなものを身近なものとする啓蒙的なものである。一方で,第4章に込められたのは,このマイノリティの存在を通じて,読者自身のマジョリティ性に自覚的にあってほしい,あるいはマジョリティ性を当たり前のものではないものとして問い直すことによって,よりマイノリティへの思考が進むと考えているように思う。私たちはアイヌに対してそうでない自分自身を日本人と表現してしまいそうだが,アイヌも日本人である。アイヌに対するのは和人であり,本書では和民族である。日本人と表記すると慣れ親しんだような気がするが,和人といわれると,自分自身に対してよそよそしさを感じるかもしれない。自分自身を当たり前に考えていたことを,そうでなくすることによって,この日本社会で圧倒的な特権を持ってきた和人の特権性について思考を開始する,そんな仕組みもなされている。
そのように,本書は単なる事実の伝達ではなく,読者がこの先どう生きていけばいいのか,と書くと大げさだが,生活のごく一部でも気に留めるようになることによって差別のない社会を目指そうとするものでもある。なので,「アクティブバイスタンダー:積極的に被害を止める第三者」(p.160)などの用語も解説される。巻末には参考文献もそこそこ掲載されており,読者はさらなる学びを続けられる。

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