【読書日記】山本敦久『ポスト・スポーツの時代』
山本敦久(2020):『ポスト・スポーツの時代』岩波書店,278+6p.,2,200円.
著者の山本さんは1973年生まれ。最近では小笠原博毅さんと2020東京オリンピック関係の仕事が目立っていたが,1968年の小笠原さんと,やはりオリンピックに関して文章を書いていた1969年生まれの有元 健などは私は以前から知っていた。1990年代前半に日本にカルチュラル・スタディーズが積極的に導入された。その頃はかなり大々的に外国からゲストを招聘して大学の大講堂を用いたシンポジウムなどが開催され,吉見俊哉氏などがその牽引役だった。その後,かれらの世代に教育を受けていた世代が中心となって,形式ばらない学会形式で2003年に開催されたのがカルチュラル・タイフーンで,毎年開催され,今では学会という組織にまで発展している。私は早稲田大学で開催された第1回の時と,下北沢の高校を会場とした2006年に参加している。ここで名前を挙げた3人以外にもカルチュラル・タイフーンの時に名前を覚えた研究者は何人かいるが,いずれも今では優れた研究者になっている。
当時から,サッカーを中心としてスポーツをカルチュラル・スタディーズの枠組みで論じるものがあったことは覚えていて,研究対象としてスポーツを捉える発想が全くなかった当時の私にとってはかなり刺激的だった。その後,ここ数年はオリンピック研究に関わるようになって,スポーツ研究が多少なりとも親しいものとなったのだが,本書はまさにスポーツど真ん中で,かつカルチュラル・スタディーズの影響が非常に強く,しかも第1回カルチュラル・タイフーンから20年が経過して,カルチュラル・スタディーズの取り込み方も年季が入っているというか洗練されているというか,非常に刺激のある読書だった。
序 ポスト・スポーツとは何か?
第I部 競技者とは誰か
第1章 ポスト・スポーツの時代――ビッグデータと変容するスポーツ競技
第2章 前―個体性のスポーツ――制御される偶発性とテクノロジーに繋がった「身体図式」
第II部 転回するハビトゥス
第3章 ハビトゥスなきハビトゥス――ポスト・スポーツの身体と現代におけるコミュニケーション
第4章 視覚のハビトゥス――「黒人の身体能力神話」と「身体論ナショナリズム」
第III部 アスリートたちの闘い
第5章 批判的ポスト・スポーツの系譜――抵抗するアスリートと「ソーシャル」の可能性
第6章 記憶と身体の「ポスト・コロニアル」――モハメド・アリ,C・L・R・ジェームズ,黒い大西洋
第IV部 スポーツの未来
第7章 「横乗り文化」と変容するライフスタイル――スノーボードの批判的滑走身体
本書における「ポスト」とは,ポスト・モダンやポスト・ヒューマン(この議論は正直言ってほとんど知らないが)と同様に,分かりやすいものではない。そもそも,スポーツという概念自体(語源を調べたことはないが)が近代的な意味合いが強いように思われ,当初からある程度資本主義のシステムに組み込まれた側面があると思うし,それこそ近代スポーツの最高峰であるオリンピックは古代のそれに対して,近代オリンピックと称している。その商業化は一般的に1984年のロサンゼルス大会以降とされているので,それ以前は商業化の度合いは高くなかったともいえる。とはいえ,スポーツ自体が商業化していなかったのではなく,プロ化が進んでいくスポーツ界のなかで,近代オリンピックという場は表面上のアマチュアリズムを謳っていた,ということだろう。ともかく,本書では第2章の後半でeスポーツの議論もあるように,商業化のその先にあるスポーツのあり方も議論の対象となるが,まず第1章で取り上げられるビッグデータとの関連が非常に興味深い。
第1章は野球が題材である。私自身,少年野球を小学3年生から中学3年生までやっていた。その頃の打撃の指導方針はとにかく,上から叩け,転がせばセーフになる可能性はいくらでもあるが,フライを上げたらほとんどアウト確実だ,という論理である。さて,それから40年が経過し,私の息子が小学3年生で同じように小学校の野球クラブに入部した。結局,指導者たちがあまりにもひどい人たちで,息子もそれを感じ取ってくれたのか,5年にあがった頃に退部した。それはともかく,一時期は良心的なコーチに最近の少年野球の技術的な側面について教わっていたのだが,それによれば,上から叩きつけるバッティングは最近はほとんど教えることはなく,基本は水平,下から突き上げる打法すら,本人が希望するのであればやらせているという。その時は,確かに上から叩きつけるバッティングは,ランナーの塁を進めるとか犠牲によるチームプレイという側面が大きく,最近ではもっと個人の意思を重視したのびのび野球が推奨されるものと理解していた。しかし,そうではなく本書によれば,試合の全ての打球がデータ化されることで,どういう打球が安打になり,また得点や勝利に結びつくのかという,確率的な結果により,叩きつけてゴロにするよりも打ち上げる方がそうした確率が高く,またその打ち上げる角度や打球速度などが割り出されていて,それらを再現するためのトレーニングがなされているのだという。ヤクルトの野村克也氏が監督をしていた頃もデータ野球ってのがあった。しかし,今はデータはデータでも「ビッグデータ」なので,単なる頭脳の問題ではない,ということだ。投手の投げるボールの回転数とかそういうレベルでデータされ,しかもそれを投手自身が再現するようなピッチングの練習をするというのだから驚きだ。もう,私の知っている野球ではない。まあ,そんな感じで変容を遂げているのが,昨今のスポーツで,ポスト・スポーツと称されるゆえんである。そして著者の専攻がスポーツ社会学であるように,これは単なるスポーツの問題ではない。野球などの団体スポーツは,そこに社会が存在するわけだが,個人競技者の連携としての団体スポーツというよりも,チームという組織で戦う要素の一つとして個々の選手がいる。チームと個々の競技者との関係を社会と個人の関係という社会学的な問いとして考えるために,第I部は「競技者とは誰か」と名づけられている。それに関連して,一時期長距離走で話題になったナイキの厚底シューズに関する議論もある。競泳の水着や,障害者陸上の義足など,アスリート本人のみでなく,道具の技術発展に関しても,ポスト・スポーツという枠組みは深い考察を提供する。
第II部は意外にもフランスの社会学者,ブルデューの概念「ハビトゥス」が登場し,けっこう社会学史というか社会学理論の話が第3章では展開する。それは,黒人アスリートの話へとつながっていくのだが,そもそも欧米社会における黒人の歴史についての議論をベースにしているのが,単なるスポーツ論に終わらない奥行きの深さを本書に与えている。第4章はこれまでもよくあった「黒人の身体能力の高さ」という言説分析がこういう背景の下で展開される。
第III部は,著者が『反東京オリンピック宣言』に収録された論文で展開した,1968年メキシコ・オリンピックでの黒人陸上選手の話を含め,アスリートによる社会運動についてさまざまな事例を論じていて,本書の最も魅力的な部分である。第6章ではモハメド・アリやC・L・R・ジェームズが登場する。ここでも,やはり社会と個人の関係がテーマの一つとしてあり,オリンピックにおける代表選手と国家の関係,スポンサー企業と有名アスリートとの関係,ジェームズは最近(2015年)に本橋哲也さんの訳で『境界を越えて』が出版され話題になったが,ジェームズとは1901年に当時の英国領トリニダードで生まれた人物で,クリケット選手でもあった。1933年に英国に渡り,その後は米国で活動家として生きたようだ。つまり,ここでは植民地主義の問題としてスポーツが論じられる。
本書はポスト・スポーツを論じることで,いわゆる近代スポーツを懐かしむわけでもなく,また逆に近代スポーツ批判を展開するわけでもない。もちろん,第I部の議論はそれに近いところもあるが,第III部以降では,アスリートの主体性の復権,それはポスト・スポーツで失われたものをスポーツで復権するというよりは,スポーツ以外の場での主義主張や運動に着目しているということである。そして,それも含めて批判的ポスト・スポーツという表現もしている。第IV部では,そうしたアスリートの運動がもたらす積極的なスポーツの未来像を論じるために,スノーボードを取り上げている。『反東京オリンピック宣言』でも,オリンピック出場を拒否したスノーボーダーであるテリエ・ハーコンセンの文書を著者が訳出しているが,そこで論じられたのは,そもそも社会的規範の規律・訓練を是とする近代スポーツに抗う形で登場したスケートボードやスノーボードがまさに近代スポーツの象徴であるオリンピックに丸め込まれたことに抵抗するトップアスリートという話だった。本書ではそれとは異なり,スノーボードというスポーツを一つのライフスタイルとして実践している日本の人たちを紹介している。アスリートは政治的な発言などせずにスポーツに専念してろ,みたいな意見がよくあるが,それとは全く相容れず,かれらはスポーツを自分の生活や人生に組み込んでいる。もちろん,多くのアスリートもスポーツが人生みたいな言い方をして自身のアイデンティティの多くの部分を占めるのであるが,それはあくまでも職業人としてのそれであり,生活者としてのそれではない。この議論はスポーツ分野に限らず,あらゆる人間が考えるべき存在であり,多くの人がそうした生き方を選択できるようになったら,それこそ持続可能な社会となるだろう。
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