師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』
師岡康子(2013):『ヘイト・スピーチとは何か』岩波書店,222p.,760円.
骨折して2ヶ月間も出勤せずにいたが,3月に入ってようやく出勤するようになった。通勤の唯一の楽しみが読書。持参した本が読み終わりそうだったので,退勤後に古本屋を物色。なんといっても,勤務地が神保町なのです。お店に入ってしまうと時間がかかってしまうので,店頭に出されている書棚だけに絞って探すが,それでも迷ってしまう。ようやく,購入したのが岩波新書のこちらの本。100円でした。ヘイト・スピーチに関する書籍は何冊か知っていたものの,2013年に出されたこの本の存在は知らなかった。著者は弁護士とのことだが,知っているような知らないような。
はじめに
第1章 蔓延するヘイト・スピーチ
第2章 ヘイト・スピーチとは何か
第3章 法規制を選んだ社会
第4章 法規制慎重論を考える
第5章 規制か表現の自由かではなく
あとがき
主要参考文献
ヘイト・スピーチについては,YouTube番組の「No Hate TV」を観るようになった,非常に身近な存在になった。その番組でこれまで数多くの事象と議論を聴いてきたので,多くのことを知っているつもりではいたが,一冊の本をしっかり読むということをしてこなかったので,本書を通じて学ぶことが多かった。
本書でも書かれているように,「在日特権を許さない市民の会(在特会)」は2007年に結成され,2009年には京都の朝鮮学校に対するヘイト・スピーチを始めたが,2012年8月頃から,韓国関連店舗が集積する新大久保で,「お散歩」と称するヘイト行進が行われていたという。私が早稲田大学の理工学部で非常勤講師をやるようになって,2023年度で10年となったということらしいので,始めたのは2014年度かららしい。当時は新宿からキャンパスのある高田馬場まで歩いて移動することもあり,新大久保付近も通過していたはずだが,それらしいものは目撃しなかった。この頃にはすでに沈静化していたのであろうか。ともかく,自分の行動範囲のなかで近い時期に,当時撮影された動画をここ数年で見るにつけても本当にひどいヘイト・スピーチ(当時の状況は明らかにヘイト・クライムだといえる)が行われていたにもかかわらず,私はそういうことを全く知らずに生きてきた。
そして,近年ではYouTubeの視聴によって多くのことを知ることになったのだが,こうして時系列的に整理されたものを読むと,本当に数多くのヘイト・スピーチが日本各地を行われてきたことに驚愕とする。よくいわれることではあるが,こうした日本社会の劣化はまさに第二次安倍政権の発足とともに進行して現在に至るということだ。
本書は世界的な動向に日本の状況を位置づけている。日本でいわゆるヘイト・スピーチ解消法(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)が施行されたのは2016年6月とのこと。私はこのことをリアルタイムで追ってはいなかったので,詳しくは分からないが,恐らく2013年頃の在特会の問題を受けて議論され,数年かけて成立までこぎつけたものと思われる。ただ,この法律は昨年成立したLGBT理解増進法と同じように理念法であり,罰則規定はない。川崎市や大阪市などいくつかの地方自治体では罰則規定を有する条例もあるようだが,条例はあくまでも法律以上のものではないし,どうやらそれに続く自治体はあまり出ていないようだ。理念法とはいえ,裁判までもっていけば司法の判断が下されることはあり,この法律の成立前後ではその司法の判断も大分変ってきたと聞く。とはいえ,公的な場でヘイト発言を繰り返しても議員辞職に至らない国会議員や地方議員が多数いるように,やはり包括的な差別禁止法を求める声は大きい。ということもあり,この法律が議論される以前に出版された本書では,日本に先んじてヘイト・スピーチに対して法規制を整備させた国の事例と,議論しながらも法規制には乗り出していない国の事例とを紹介している。
第3章は法規制を行っている国としてイギリスとドイツ,カナダ,オーストラリアを紹介している。イギリスは世界最大の植民地を持っていた宗主国である。近いところでいえばブリテン島内の3王国のイングランド王国による併合,お隣のアイルランド,そして北アメリカ大陸からインド亜大陸を含むアジア諸国まで世界中に及び,各国の独立後は連合王国からの移民を多く受け入れている。サッカー王国でもあるイギリスでは,試合時におけるヘイト・スピーチ,ヘイト・クライムという問題もあった。ドイツはナチスによるユダヤ人迫害という歴史を有するために,差別に対する反省の意識は強い。しかし,一方ではこの差別のピラミッドの頂点であるジェノサイドまで達してしまったことから,その負の歴史を消してしまいたいという歴史修正主義の流れもできているという。カナダとオーストラリアは多文化社会を目指しながら,先住民問題を抱えているという点でも似ており,人権に関する意識は高い。もちろん,こうした法整備がどこも順調に進んだわけではない。次章のアメリカの事例が示しているように,やはり差別を罰する法規制は,差別というものを人権という軸で考えるブレない意志が必要だと思う。
ということで,第4章のアメリカだが,最近のトランス・ジェンダー差別や一昔前の従軍慰安婦問題のように,そうした社会問題を解決しようとする運動を妨害しようとする攻撃は,その考え方と方法の多くをアメリカから学んでいるようだ。先日,「文化戦争」という特集を組んだ雑誌を紹介したが,自由の国を強調するアメリカ合衆国は,ヘイト・スピーチについても表現の自由を擁護する。この辺りについてはようやく私も理解が追い付いてきたようなところがあるが,特定の思想を含む主張の表現に対し,聴くものが思想や意見の相違を抱くのであれば,同じ立場で表現すればいいという考え方。しかし,ヘイト・スピーチを含む差別的表現は,そもそもが対等な立場にはなく,力を持った者が弱い者に対して,攻撃的な言葉を送り付けるものであり,弱い者は打ちのめされ,力と勇気を振り絞って対抗しても,その声は届かず,また圧倒的な圧力によってその声はかき消される,そういう構造にある。弱い者いじめをする言葉に表現の自由はないし,対等な立場に対者同士の関係に議論などは成立しない。アメリカ合衆国はこの本が出された時点でその立場を崩しておらず,おそらくそれから10年経った今でも変わらないのだろう。日本もさすが米国従属の国だけあって,そういうところは米国に学ぶ。公人によるヘイト・スピーチも表現の自由とかなんとか言って野晴らしになっているのが現実だ。とはいえ,近年では右翼団体によるヘイト・スピーチ行進を行っても,守ってくれるのは警察だけで,圧倒的なカウンター(反ヘイトの運動家たち)によって粉砕されている状況が続いているし,個別に裁判に訴えられている事例についても,差別を受けた側がことごとく勝訴している状況にある。しかし,相変わらずヘイト議員は野放しだし,まだまだ課題は多い。
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