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2024年3月

師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』

師岡康子(2013):『ヘイト・スピーチとは何か』岩波書店,222p.760円.

 

骨折して2ヶ月間も出勤せずにいたが,3月に入ってようやく出勤するようになった。通勤の唯一の楽しみが読書。持参した本が読み終わりそうだったので,退勤後に古本屋を物色。なんといっても,勤務地が神保町なのです。お店に入ってしまうと時間がかかってしまうので,店頭に出されている書棚だけに絞って探すが,それでも迷ってしまう。ようやく,購入したのが岩波新書のこちらの本。100円でした。ヘイト・スピーチに関する書籍は何冊か知っていたものの,2013年に出されたこの本の存在は知らなかった。著者は弁護士とのことだが,知っているような知らないような。

はじめに
第1章 蔓延するヘイト・スピーチ
第2章 ヘイト・スピーチとは何か
第3章 法規制を選んだ社会
第4章 法規制慎重論を考える
第5章 規制か表現の自由かではなく
あとがき
主要参考文献

ヘイト・スピーチについては,YouTube番組の「No Hate TV」を観るようになった,非常に身近な存在になった。その番組でこれまで数多くの事象と議論を聴いてきたので,多くのことを知っているつもりではいたが,一冊の本をしっかり読むということをしてこなかったので,本書を通じて学ぶことが多かった。
本書でも書かれているように,「在日特権を許さない市民の会(在特会)」は2007年に結成され,2009年には京都の朝鮮学校に対するヘイト・スピーチを始めたが,2012年8月頃から,韓国関連店舗が集積する新大久保で,「お散歩」と称するヘイト行進が行われていたという。私が早稲田大学の理工学部で非常勤講師をやるようになって,2023年度で10年となったということらしいので,始めたのは2014年度かららしい。当時は新宿からキャンパスのある高田馬場まで歩いて移動することもあり,新大久保付近も通過していたはずだが,それらしいものは目撃しなかった。この頃にはすでに沈静化していたのであろうか。ともかく,自分の行動範囲のなかで近い時期に,当時撮影された動画をここ数年で見るにつけても本当にひどいヘイト・スピーチ(当時の状況は明らかにヘイト・クライムだといえる)が行われていたにもかかわらず,私はそういうことを全く知らずに生きてきた。
そして,近年ではYouTubeの視聴によって多くのことを知ることになったのだが,こうして時系列的に整理されたものを読むと,本当に数多くのヘイト・スピーチが日本各地を行われてきたことに驚愕とする。よくいわれることではあるが,こうした日本社会の劣化はまさに第二次安倍政権の発足とともに進行して現在に至るということだ。
本書は世界的な動向に日本の状況を位置づけている。日本でいわゆるヘイト・スピーチ解消法(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)が施行されたのは2016年6月とのこと。私はこのことをリアルタイムで追ってはいなかったので,詳しくは分からないが,恐らく2013年頃の在特会の問題を受けて議論され,数年かけて成立までこぎつけたものと思われる。ただ,この法律は昨年成立したLGBT理解増進法と同じように理念法であり,罰則規定はない。川崎市や大阪市などいくつかの地方自治体では罰則規定を有する条例もあるようだが,条例はあくまでも法律以上のものではないし,どうやらそれに続く自治体はあまり出ていないようだ。理念法とはいえ,裁判までもっていけば司法の判断が下されることはあり,この法律の成立前後ではその司法の判断も大分変ってきたと聞く。とはいえ,公的な場でヘイト発言を繰り返しても議員辞職に至らない国会議員や地方議員が多数いるように,やはり包括的な差別禁止法を求める声は大きい。ということもあり,この法律が議論される以前に出版された本書では,日本に先んじてヘイト・スピーチに対して法規制を整備させた国の事例と,議論しながらも法規制には乗り出していない国の事例とを紹介している。
第3章は法規制を行っている国としてイギリスとドイツ,カナダ,オーストラリアを紹介している。イギリスは世界最大の植民地を持っていた宗主国である。近いところでいえばブリテン島内の3王国のイングランド王国による併合,お隣のアイルランド,そして北アメリカ大陸からインド亜大陸を含むアジア諸国まで世界中に及び,各国の独立後は連合王国からの移民を多く受け入れている。サッカー王国でもあるイギリスでは,試合時におけるヘイト・スピーチ,ヘイト・クライムという問題もあった。ドイツはナチスによるユダヤ人迫害という歴史を有するために,差別に対する反省の意識は強い。しかし,一方ではこの差別のピラミッドの頂点であるジェノサイドまで達してしまったことから,その負の歴史を消してしまいたいという歴史修正主義の流れもできているという。カナダとオーストラリアは多文化社会を目指しながら,先住民問題を抱えているという点でも似ており,人権に関する意識は高い。もちろん,こうした法整備がどこも順調に進んだわけではない。次章のアメリカの事例が示しているように,やはり差別を罰する法規制は,差別というものを人権という軸で考えるブレない意志が必要だと思う。
ということで,第4章のアメリカだが,最近のトランス・ジェンダー差別や一昔前の従軍慰安婦問題のように,そうした社会問題を解決しようとする運動を妨害しようとする攻撃は,その考え方と方法の多くをアメリカから学んでいるようだ。先日,「文化戦争」という特集を組んだ雑誌を紹介したが,自由の国を強調するアメリカ合衆国は,ヘイト・スピーチについても表現の自由を擁護する。この辺りについてはようやく私も理解が追い付いてきたようなところがあるが,特定の思想を含む主張の表現に対し,聴くものが思想や意見の相違を抱くのであれば,同じ立場で表現すればいいという考え方。しかし,ヘイト・スピーチを含む差別的表現は,そもそもが対等な立場にはなく,力を持った者が弱い者に対して,攻撃的な言葉を送り付けるものであり,弱い者は打ちのめされ,力と勇気を振り絞って対抗しても,その声は届かず,また圧倒的な圧力によってその声はかき消される,そういう構造にある。弱い者いじめをする言葉に表現の自由はないし,対等な立場に対者同士の関係に議論などは成立しない。アメリカ合衆国はこの本が出された時点でその立場を崩しておらず,おそらくそれから10年経った今でも変わらないのだろう。日本もさすが米国従属の国だけあって,そういうところは米国に学ぶ。公人によるヘイト・スピーチも表現の自由とかなんとか言って野晴らしになっているのが現実だ。とはいえ,近年では右翼団体によるヘイト・スピーチ行進を行っても,守ってくれるのは警察だけで,圧倒的なカウンター(反ヘイトの運動家たち)によって粉砕されている状況が続いているし,個別に裁判に訴えられている事例についても,差別を受けた側がことごとく勝訴している状況にある。しかし,相変わらずヘイト議員は野放しだし,まだまだ課題は多い。

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【読書日記】隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』

隠岐さや香(2018):『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社,253p.980円.

 

昨年,国立大学法人法の改悪をめぐるなかで,改悪反対の立場で声を上げている人のなかで隠岐さや香さんの存在が目立った。たまたま本屋で本書をみつけ手に取った。ちょうど,4月から明治学院大学で「地理学概論」を受け持つことになっていて,これまでは「人文地理学」だったが,今度は人文地理学と自然地理学の両方を組み込まなければいけないと思っていたところだったので,導入にふさわしいと思い,購入して読んだ。
以前ここでも紹介した渡辺憲司『江戸の岡場所』と同じ星海社新書の一冊。

はじめに
1章 文系と理系はいつどのように分かれたか?――欧米諸国の場合
2章 日本の近代化と文系・理系
3章 産業界と文系・理系
4章 ジェンダーと文系・理系
5章 研究の「学際化」と文系・理系
おわりに

著者は科学史を専門とするということは知っていたし,目次を見るとヨーロッパにおける科学の長い歴史や日本の近代化におけるヨーロッパ科学の導入という歴史をふまえての議論であることは分かっていた。私自身も地理学の歴史を学ぶ中で,まさに理系と文系を併せ持つ地理学の歴史が,科学における理系と文系の分離とパラレルの関係にあると期待していたのだが,本書はそれほど単純な話ではなかった。正直にいうと,各章がそれぞれ1冊の本になるような重要なテーマを扱っているものの,少しバラバラの印象を持った。その印象は最後に「おわりに」を読んで納得した。「この本を書くことは,私にとって,長い旅のようでした。(中略)数限りない文献はあるけれど,同じ道を行った先人は見つからなかったからです。」(p.251)と書いているように,確かに人文地理学と自然地理学の関係を論じる地理学史の議論に慣れている私にとっては本書のテーマはそれほど目新しいものではなかったが,地理学に限定しない,科学全般におけるこのテーマの本は確かにほとんどなかったのかもしれない。
そして,第1章と第2章の内容は,地理学を中心にではあるがそこそこ私も文献を読んできたので多少分かったつもりでいたが,そんなことはなく,知らないことが沢山だった。しかも,本書はあくまでも新書であり,一つ一つの事柄が懇切丁寧に解説されているわけではなく,もっと詳しく知りたければという形で,参考文献が示されている。そういう意味で,本書は魅力的な文献の宝庫でもある。
なお,本書の終盤である第5章で,著者の専門の話がちょこっと出てくる。著者が専門的に調査・研究しているのはジョージ・サートンについて「科学史の創始者」(p.209)としか記述がない。Wikipediaにも日本語版にはなく,コトバンクには1884年ベルギー生まれで米国で科学史を講じ,1954年に亡くなったとされている。本書で言及されている著者の論文タイトルは「つくられた「科学史の一体性」――G.サートンと20世紀初期フランスの知的文脈」と題されたもので,歴史的な科学者を調査・研究するという意味での科学史研究者というより,科学史というものがどのようなものとして作られたのかを考える研究だといえる。とはいえ,その科学史の業績の調査を通して科学の歴史そのものも知ることになるわけだから,もちろん科学の歴史の専門家である。そういった意味において,第1章,第2章の内容は,欧米には日本のように文系と理系の明確な区分はなかった,とか日本での特殊な事情で文系と理系が教育の領域で過度に区分されるようになった,とか簡単に概観できるような単線的な歴史ではなく,本書の読書を通した私でもその内容を簡潔に説明することはできない。ただ,ここで重要なのは,ヴィンデルバントという人が提唱した個性記述的と法則定立的という区分であろう(p.69)。これは英語圏の地理学においても1950年代に議論されたもので,地理学も法則定立的な科学であるべきだということで,大量なデータを扱う計量地理学なるものが生まれた。
ただ,私自身高校では理系を自負していて,大学も理学部で合格している。ただ,入学して理学部の授業についていけず,本来なら転部などで文系の学部に移るようなものだが,地理学科には文系の研究室としての人文地理学教室があった,という次第である。しかし,大学に入ってみれば,文系と理系という区分が幻想だということは多くのものが気付くと思う。日本の中等教育まででは,国語や英語が得意か,数学が得意か,ということで文系か理系が決まるといってもいい。しかし,文系学部に含まれる経済学部や心理学部の一部では数学や統計学の知識が必要だし,大学の数学なんてほとんど哲学あと思うほど抽象的な思考が要求される。一方で,(こんな言い方は失礼だが)自然地理学なんて数学はおろか物理学の高度な知識も必要としない。工学に至ってはもちろん物理学や化学の基礎的な知識があるべきだとは思うが,どっぷり人間社会の話だったりもする。都市計画なんて分野はとても理系とはいえない。
そういう意味では,科学史を専門とする著者ではあるが,多くの読者にとって関心があるのは第3章以降ではないだろうか。今日でも,文系と理系に分かれる大学の学部において,どちらを卒業した方が就職に有利かなんて話が話題になる。また,第4章で興味深いのは,学部卒と大学院(修士課程か博士課程か)卒の就職に対する関りについても論じていることだ。こうしたことは時代によっても変化するものであり,その辺りの日本の産業界そのものの変容についても説明されている。第5章はこちらも大学の進学率,文系学部と理系学部の在籍率などの男女差に関する有益な情報が詰まっている。科学史というおそらく圧倒的に男性で占められる分野で,そして大学教員として学生の男女差を日々観察するなかで,女性研究者として長らく過ごしてきた著者自身の問題関心が反映されているものと思われる。法律の改定という場面で声を上げる大学人の多くは,すでに定年退職をしていて,社会的にも発言力を持つ名誉教授のような立場の人が多いが,恐らく私と同じ世代で,まだまだ大学でバリバリに研究していると思われる著者がこうして声を上げているのは,本書で書かれているような問題意識を持ってきたからだろうと想像される。
科学史とはもちろん過去のことではあるのだが,それは人類の知識のあり方が自然状態で歴史的に推移してきたわけだはなく,さまざまな社会制度の下で制約を受けてきたり,要請があったりしてきた,ということが本書の前半で理解できる。それはもちろん現代でも然りであり,そうした社会的な制約の下で,科学者は再生産される。特に,現代日本社会においては,本書で論じられたように,ある意味無意味な文系・理系という区分と,これから変えていかなければならない男性・女性の区分という組み合わせによって職業の選択が制限されたり,研究者に進む道に制限がかかったり,また研究費の配分が決められたりするということに対しては,強く訴えていかなければならない。そういうことを考えさせられる読書だった。

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【読書日記】松田青子『持続可能な魂の利用』

松田青子(2023):『持続可能な魂の利用』中央公論新社,273p.760円.

 

『おばちゃんたちのいるところ』に続いて,松田青子の作品を私が読むのは2作目。なお,私が手にしているのは中公文庫であり,単行本は20205月に刊行されている。この文庫版にはエトセトラブックスの松尾亜紀子さんが解説を寄せている。久し振りの成分献血に出かけたが,持参した本が読み終わりそうだったので,近くの書店で購入。ほぼ,献血の間に読み終えた。『おばちゃんたちのいるところ』は短編集みたいなものだったので,長編は初めてだといえる。しかし,こちらも第一部と第二部に分かれていて,また冒頭の「おじさん」の話は,メインの主人公である「敬子」の物語とは少し浮いている。語り手も主要な登場人物の間で交互に入れ替わったり,長編でありながらも緻密な物語構成にはなっていない。
ともかく,ガツンとやられた作品だった。全体としてはこの国のあり方を変えるほど大きな話をしていながら,些細な話も詳しく描く。ミクロとマクロ,リアルとファンタジーの軸が滑らかではなく,偏りがあるわけでもなく,バランスがいいというかともかく発想が自由でいちいち驚く。そもそも,表題が斬新だ。持続可能というのはいわゆるSDGsにも使われるサステナビリティのことで,今日では国連というグローバルなスケールでの公的機関が唱える語となっている。思い返せば30年前,私が所属していた大学院の教員およびその指導を受けていた院生がこの言葉を強調していた。まさにSDのサステナブル・ディベロップメント=持続的発展である。しかも,その対象は非常にローカルで,持続可能な農村というテーマだった。確かに,過疎化や農業従事者の高齢化および後継者不足によって農村の農業は縮小し,農業を行うことで維持されていた「自然」環境(動植物に関わるので自然という言葉を入れたいがそれは人間が管理しての動植物であって自然そのものではないので括弧に括る)が荒廃する傾向になかなか歯止めがかからない状況で,重要なテーマではあった。でも,途上国の経済開発と同様に,どこか上から目線的な違和感を私は持っていた。
脱線が長くなったが,ともかくそうした公的なものの垢にまみれたこの「持続可能」という概念を私たち一人ひとりの手に取り戻そうという意図もこの作品からは感じた。それがまさに表題の続く部分である「魂の利用」である。登場人物の女性たちはさまざまな場面で魂をすり減らしている。その多くは公的な場面,主に職場でである。辛うじて私的な場面で魂を取り戻す活動をするのだが,それすらも場合によっては公的な人間関係によって妨げられることがある。人間は生き続けるためには魂の状態を維持しなければならない。その維持し続けることが「持続可能」であり,特に女性は本作品に出てくる「おじさん」たちによって作られ,運営されているこの社会において,その力に抗いながら自らの魂を持続可能な状態に保たなければならない。それが一人で難しい場合には女性同士で連帯し(シスターフッド)立ち向かう,そんな,まさに現代社会のありようが描かれている作品である。この「おじさん」についてもページをめくるごとに丁寧に説明されていることに気づく。おじさんは男性とは限らない,年長者とはかぎらない。女性にもおじさん的な要素はあるし,若者にもある。ほんのちょっとだけおじさん的要素を持っていながらもなかなかそれに気づけない状態もある。ともかく,ここでいう「おじさん」とは現行の男性中心的に作られた社会を維持させようという力を支えるような意識の持ちようだといえる。属性だけ言えば私は列記としたおじさんだが,自分がおじさんでありたくないと願っている。しかし,圧倒的におじさん的な要素を持つ状況がそこにはあり,それに気づいたり抗ったりすることは大変だ。本書を読みながらその自分のおじさん的要素を探し,是正していく,そういう作品だと思う。
女性が読めば勇気づけられ,男性が読めば反省を強いられる。どんな世代が読んでも気づきがある作品だ。

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【読書日記】『セーファースペース』

皆本夏樹+gasi editorial編著(2023)『セーファースペース』gasi editorial59p.1,000円.

 

本書は先日ここで紹介した『SPECTATOR』と一緒に書店のネット通販で購入した一冊。注文するときは気づかなかったが,私が持っている『反「女性差別カルチャー」読本』と『フェミサイドは,ある』と同じ,発行元がgasi editorialで,発売元がタバブックスになっている。しかも,編著に名前を載せている皆本夏樹さんは『フェミサイドは,ある』の著者でもある。皆本さんは『フェミサイドは,ある』でちょっとしたきっかけから社会運動を始めた人でもあるが,最近では伊藤忠にイスラエルの武器製造企業との取引をやめさせる運動の先頭に立っていて,すっかりアクティビストに成長している。そんなことから,目次にも書いたように本書でも本人名義で執筆はしていないものの,パレスチナ連帯イベントに関するコラムがある。
巻頭は日本のフェミニズムにおける代表的な論者が寄稿しているように,本書はフェミニズムをベースにしている。よって,本書タイトルに用いられている「スペース」には特定の意味が込められているように思う。思い浮かぶのは「女性スペースを守る会」がスペースという語を用いていることである。この団体は端的にいえばトランスジェンダー差別を公然と行う団体である。女性トイレや銭湯という「スペース」を女性が安心に使えるようにという名目で,男性から女性に移行したような人物を排除しようとしている。本書はそうしたトランスヘイトを批判しながらも,女性にとって安心できるスペースを確保するという,この団体の目的も果たそうとすることで,ある意味でトランスヘイトによって女性が分断させられるということにも抗っていこうとしているともいえる。私たちに必要なのは誰にとっても安心できる場所をつくることである。
そう,ここであえて「場所=プレイス」という語を用いたが,かつて人文主義地理学は,場所=プレイス概念を中心に置き,空間=スペースをその対抗軸においた議論を展開した。空間は誰もが利用できる開かれたものであり,場所はある程度閉じられたものであるがゆえに安心を与えるものである。それが故に,空間は可変的な可能性を有するが,場所は固定的である。よって,安心できる場所に対して,そこに帰属意識を持つ者は特定の意味(思い入れ)を与える(場所愛)。この考え自体はその後,さまざまな立場から批判を浴びたが,特に重要なのはフェミニスト地理学からの批判である。人文主義地理学のいう場所は家父長制における家庭を彷彿とさせ,そこを守るのは女性であり,安心した居心地の良さを感じることができる特権を有するのは男性であるという意識の現れである。
ちょっと概念にこだわった議論をしてしまったが,ちょっと学術っぽいサード・プレイスという概念や,日常語としてのキッズ・スペースなんて語もあるので,一般社会では場所と空間という言葉の使い分けはそれほど明確ではないとは思うが,やはり何となく使い分けをするというところも重要だとは思う。とはいえ,キッズ・スペースも今回のセーファースペースにしても,特定の個人がその場所に対して特定の思い入れをしたり所属意識を持ったりするのではなく,ある程度の不特定ということで,やはり表現としては空間が相応しいのかなとは思ったりする。

セーファースペースとは:樫田香緒里
集合的なスナップとセイファー・スペース:清水晶子
コラム1:セーファースペースステッカーアクション
セーファースペースをつくる
 本屋lighthouse
 本屋メガホン
 ケルベロス・セオリー
 本と喫茶 サッフォー
 集まるクィアの会
 Chosen Family Shobara
 NAMNAMスペース
コラム2:「読む」から始めるセーファースペース
コラム3:セーファースペースでのパレスチナ連帯イベント
クラブカルチャーとセーファースペース
 WAIFU@SUPER DOMMUNE #4イベントレポート

さて内容ですが,冒頭の寄稿者である樫田さんは『生きるためのフェミニズム――パンとバラの反資本主義』の著者であり,そこから本書タイトルの用語解説をしている。「セーファースペースとは,差別や抑圧,あるいはハラスメントや暴力といった問題を,可能な限り最小化するためのアイディアの一つで,「より安全な空間」をつくる試みのことを指す」(p.4)。セーファーという比較級を使っているのは,絶対的な安全を確保できることを保証するのではなく,より安全なという意味あいである。本書の「セーファースペースをつくる」でその実例がいくつかあり,本屋が目立つが,施設を有するものだけでもない。もちろん本屋は不特定多数の人が入れる空間なわけだが,上記の用語解説にあるように,差別をする人,暴力を振るう人が入れる空間ではなく,場合によってはそうした人の入場を拒否することができる。警察のキャラクターを使った「ピーポ君の家」なんてものもあり,それを貼りだしているお店もあったりするが,ここで紹介されるのは店主が,差別や抑圧の対象となりがちな少数者に対して理解を示している,というところが大きい。本屋にはさまざまな書籍という商品があるが,それ自体が差別や抑圧を引き起こす場合がある。物質的な施設としての本屋という空間がいくら安全であっても,精神的な安心を得られないのであれば,セーファースペースとはいえない。本屋の他にもイベントの主宰者や緩やかなコミュニティなどもある。
裏表紙の言葉を引用して終わりたい。「書店やアート・音楽空間などを「セーファースペース」にしようとする動きが増え,そうした場が注目されている。ジェンダー,セクシュアリティ,障害の有無,人種,国籍,階級,年齢,能力などに基づく差別や抑圧,ハラスメントや暴力をできるだけゼロに近づけ,さまざまな属性を持つ人がお互いを尊重し合える空間をつくる試みを紹介。あらゆる空間をより安全にしていくための一冊です。」

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【映画日記】『カラフルな魔女』『落下の解剖学』『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』

2024年229日(木)

恵比寿ガーデンシネマ 『カラフルな魔女』
『魔女の宅急便』の作者,角野栄子さん。名前は知っていたが,作品自体をちゃんと読んだことはない。ただ,この映画を知って,予告編など観たら,なんと私の母親の一歳年上。うちの母も元気な方だが,さすがに最近はかなり衰えてきて,畑仕事は続けているようだが,それ以外は特にやることがないというか体が思うように動かない,そういう生活だと聞く。それに対して,角野さんはバリバリの現役であり,毎日のように朝から夕方までパソコンに向かって執筆活動をしている。前半はそういう今でも精力的な制作活動を見るだけで楽しかったが,後半はやはり盛り上げる展開が待っていた。角野さんは結婚間もなく,ブラジルに移住したのだ。1950年代後半の話である。
結局移民生活は数年だったということだが,そこで出会った少年のことを描いた『ルイジンニョ少年』という作品が彼女のデビュー作となる。そして,何十年もその少年とは音信不通だったのだが,最近連絡が取れ,そして彼が来日して再開するという形で,本作は展開する。まあ,その辺りはドキュメンタリーらしいクライマックスだが,やはり本作の魅力は鎌倉での彼女の生活を追う,そのほのぼのとした日常風景だろう。ともかく,なかなか彼女の作品に触れる機会はこの先も多くはないと思うが,非常に魅力的な作品をこれまで260点も制作しており,特に近年はそのブラジルに渡航した頃の自分をモデルに『イコ トラベリング』という作品を描いているそうで,こちらはトラベル・ライティング研究の題材として興味を持った。
https://movies.kadokawa.co.jp/majo_kadono/

 

2024年33日(日)
立川キノシネマ 『落下の解剖学』
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歳の息子を持った夫婦の物語だが,なんと13歳の息子と観に行った。私がこの手の作品を観るようになったのは大学生になってからだが,この方面ではあまりに早熟だ。さて,予告編でも観られるが,その家族は妻が作家,夫は教師をしながら小説を書こうとしている。息子は4歳の時の事故で視覚障害を追ってしまい,彼を慕う犬と一緒に暮らしている。ある朝,犬の散歩から帰ってきた少年は家の前に倒れている父親を発見する。雪深いロッジに住む家族だが,最近屋根裏部屋の改装を父親はやっていた。何らかの事故で落下したのか,自らの意志で飛び降りたのか,あるいは息子が不在のなか家に一緒にいた妻が殺したのか。物証と息子と妻の証言のみをめぐって裁判が行われるという物語。
この作品を観て,内容的には似ているところは多くないが,西川美和監督作品『永い言い訳』を思い出した。『落下の解剖学』で死んでしまった男が,妻と言い争いをするシーンがある。自分は小説を書きたいのだが,家事や育児に追われ,家計のために教師の仕事を続けている。その一方で妻は作家として成功していて次々と作品を出している。ただ,その作品だけで豊かな生活がおくれているわけではないようで,妻も傍らでドイツ語の翻訳の仕事もしている。なお,妻はドイツ人,夫はフランス人で夫婦は英語で会話をしている。この夫の言い分に私は自分の姿を見るようなのだ。私は大学に常勤の教員職を得られずに,研究は家計のための仕事と家事・育児の合間を縫って行っている。自分自身としては納得のいく研究活動ではあるが,この歳になってまだ一冊も自分自身の本を出せていない。論文は断片化された小さな時間の積み重ねで書けるが,一冊の本となるとまとまった時間が欲しいと思っている。とはいえ,本当に一冊の本が断片化された小さな時間の積み重ねでできるかどうかをやったこともないのだ。そう,『永い言い訳』の主人公もそうだが,自分がやりたいことをできない言い訳はいくらでも言えるのだが,じゃあ,本当にそのやりたいことというのに命がけで取り組んでいるのかといわれるとそうではない。むしろ日々の生活の雑事を言い訳にして,やりたいことを先延ばしにしているにすぎないのだ。まあ,そんなことを考えさせられた作品でした。
フランス映画にしては,非常に理路整然としていて,分かりやすく,息子も楽しんでくれたようです。
https://gaga.ne.jp/anatomy/

 

2024年310日(日)

府中TOHOシネマズ 『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』
毎年恒例となっている子どもたちとのドラえもん映画鑑賞。中学一年生になった息子もまだ付き合ってくれました。とはいえ,BUMP OF CHICKENを中心に日本の男性ロックバンドをよく聴いている息子にとっては,誰が主題歌を歌うのか,劇中の音楽,またエンディング・テーマの流れ方,そういうところにも映画を観る楽しみがあるようです。今回はVaundyというアーティストが主題歌を担当。劇中にも少し登場したり,エンディングもなかなかいい曲だった。さて,映画の内容ですが,「ストーリーはいいけど,いちいち陳腐なセリフがイマイチだった。」という息子の感想だけで十分。劇中で音楽が使われているというのも反則というか,いちいち涙腺にきますね。
https://doraeiga.com/2024/

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【読書日記】吉岡 乾『現地嫌いなフィールド言語学者,かく語りき。』

吉岡 乾(2019):『現地嫌いなフィールド言語学者,かく語りき。』創元社,302p.1,800円.

 

どこかで本書の書評を読んだ。書評かどうかよく覚えていないのだが,いずれにせよ,優れた編集者のおかげで本書が世に出た,ということを覚えていた。何となく知人にそんな話をしたら,「その本持ってますよ。一読したけど二度は読まないので,よろしければ差し上げます。」ということで,わが家に来た本。まあ,フィールド調査が嫌いでやらない地理学者である私にとっては,何となく読みたいタイトルの本だったので,いただいたのだが,何と私よりも先に中学一年生の息子が読んだ。
息子は母親が買ってきた『言語沼』という本に,まさにはまってしまい,この本の著者二人がやっているポッドキャスト「ゆる言語学ラジオ」を毎日のように聴いている。そんなことで,言語学には相当興味を持っている。私も日本の地理学者のなかでは言語学に関心を持つ数少ない一人だと自負しているが,私が言語学総論を志向しているのに対し,息子はどうやら言語学各論への関心のように思う。私の書棚にある言語学関係の書籍には大して関心を持たない。そういう意味でも,本書は彼の関心に近いので,読むこととなった。
私が読む前に息子に感想を聞いてみたが,「けっこう面白かったからお父さんも読んでよ。」程度のことしか言わなかったので,もう少し突っ込んで質問してみた。こういう本はもちろん,調査してきた言語に関する説明が多いと思うけど,その言語を調査して最終的に何を目指しているのか,例えば話者が少数の言語は今後消滅する可能性があるけど,消滅を防ぐためなのか,また記録を残すためなのか,はたまた言語の系統(その言語の起源を辿るなど)を明らかにするためなのか,という感じの内容の質問をした。どちらも歯切れの悪い回答だったが,それが彼の理解不足によるものなのか,本書がそういう側面には触れていないものなのか,よく分からないのでとりあえず私も読むこととした。

地図・言語分布図
調査地へのアクセス
0.
遥かなる言葉の旅,遥かなる感覚の隔たり
表記と文字のこと
1.
フィールド言語学は何をするか
インフォーマント探し
ブルシャスキー語――系統不明の凡庸な言葉
POC
からスマホへ
物語が紐解くは
異教徒は静かに暮らしたい
ブルシャスキー語の父(笑)
ドマーキ語
――諺も消えた
インドへ行って,引き籠もりを余儀なくされる
2.
好まれる「研究」と,じれったい研究
バックパッカーと研究者
コワール語
――名詞は簡単で動詞は複雑?
文字のないことば
カラーシャ語
――アバヨー!舌の疲れることば
フンザ人からパキスタン人へ
言語系統と言語領域
カティ語
――挨拶あれこれ
3.
なくなりそうなことば
ドマー語,最後の話者
動物と暮らす
シナー語
――街での調査は難しい
出禁村
ジプシー民話
カシミーリー語
――変り種の大言語
五〇〇ルピーばあさん
ウルドゥー語
インフォーマントの死
「はじめに」
あとがきに代えて
参考文献
プロフィール

目次の構成をみればわかるように,けっこう手の込んだ編集。そして,表紙も含めけっこうイラストが掲載されている。巻末のプロフィールにも名を連ねる「マメイケダ」というレシピ本を中心とした業績のあるイラストレータである。著者のフィールドは巻頭に地図があるようにパキスタンの北部,アフガニスタンやインド,中国にも国境を接している地域で,ペシャーワルというところを中心に,インドにも足を運ぶそうだ。本書を読んでいる時にはほとんど参照しなかったが,このイラスト的な地図は,隣国との関係が分かる広域地図と,訪れた場所とその交通が分かる拡大地図,そして調査の対象である言語の分布図が示されていて,読後に参照すると分かりやすい。著者が調査しているのは主に7つの言語だという。
上述したように,本書の構成は凝っていて,冒頭から読み始めると,私のような読者には疑問ばかりが思い浮かぶ。まず,現地が嫌いならフィールド言語学など専攻しなければいいのに,というタイトルに惹かれて読み始めた読者なら必ず思い浮かぶ素朴な疑問である。特に,やはりフィールドが不可欠と言われている地理学に属しながらフィールドが嫌いだからフィールドを必要としない地理学のあり方を模索しているような私にとってはなおさらである。言語学はフィールド言語学以外にもたくさん選択肢はあるはずだ。しかも,そのフィールドがパキスタンとくれば,政治的にも安定していないし,日本からの交通の便も悪いし,現地での生活も厳しそうだし,というマイナスの面が思い浮かぶ。そもそも,どういう動機でこういう場所の言語を調査・研究しようと思ったのか,疑問が次々と出てくる。
その疑問は読み進むにつれて一つ一つ晴れていく。著者はなんだかんだいって真摯な研究者なのだ。本書の帯の背の部分にある言葉に「無駄な研究などないのだ。」とある。大きな話として,日本政府は(まあ,世界的には日本に限った話ではないが)昨今より一層,すぐに役立つ研究にしか国家予算を充てないようになってきている。著者はそういう風潮に抗いたいと考えている。一般の人に「そんな研究何の役に立つのか」と問われることに腹を立てながらも,そういう問いをたてられるような研究をしていることを誇りに思ってもいる。そして,その問いへの短絡的な答えは,消滅してしまいそうな言語を記録にとどめ,できれば消滅しないように働きかけをする,と言えると思うが,この答えは短絡的であり,そんな簡単なものではないということが本書では論じられる。とはいえ,例えば絶滅危惧の生物種が,動物園で飼われていたことで,完全なる絶滅を免れるといったような意義もなくはない。それから,私が息子に問いかけた,言語の系統ということについても論じられている。こちらも,理念としては言語の系統というものがあるが,実際の言語を調査しているとそう簡単には位置付けられないものでもある。すなわち,息子がこうした私の問いに十分に明確な返答ができなかったのは,息子の理解が不足していたわけではなく,著者が慎重に明確な答えを出していなかったからのようだ。いずれにせよ,著者は真摯に研究に向き合い,その研究に必要だからこそ困難に直面しながらも現地に足を運んでいる。そこでは,もちろん不愉快なことも多いが,研究者としての楽しみを十分に感じている。そういうように思わせる仕組みになっている本だと思う。

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【読書日記】伊藤 守編『東京オリンピックはどう観られたか』

伊藤 守編著(2024):『東京オリンピックはどう観られたか――マスメディアの報道とソーシャルメディアの声』ミネルヴァ書房,247p.4,500円.

 

オリンピック研究を出がけるようになり,書き上げた論文を,参考文献に入れた論文の著者に送るという行為を続けている。なんだかんだで,これまで5本の論文になっているので,何度も連絡をした人もいる。一度だけメールをいただいた人や,まったく応答のない人もいるが,著書を送っていただくことも少なくない。本書もそんな経緯で,執筆者の有元さんから,出版前に連絡をいただき,送りたいから住所を教えてほしいということで発行日前に送っていただいた。3,000円を越える本はなかなか買えないので,非常にありがたい。
本書は編者を代表者とする科学研究費の共同研究として2019年から取り組まれた成果の一つだという。伊藤さんは意外にもあまり文章を読んできていないが,一世代上のメディア研究の代表的な社会学者であり,土橋さん,有元さん,山本さんは私と同世代のカルチュラル・スタディーズの影響を受けた社会学者である。清水さんが日本のオリンピック研究では避けて通れない先駆者の一人である。本書ではじめて名前を目にする人たちは1981年生まれの堀口さん以外は1990年前後の生まれの若い研究者。とてもワクワクしながら読み始めた。

はじめに:伊藤 守
 序章 ソーシャルメディア時代の「オリンピック経験」と「世論」:伊藤 守
第I部 オリンピック開催をめぐる世論の変化とメディア接触行動
 第1章 開催の賛否にゆれる世論:伊藤 守
 第2章 オリンピックのニュース経験――大学生のケーススタディ:土橋臣吾
第II部 オールドメディアと〈五輪神話〉
 第3章 オリンピック報道の「神話」とその揺らぎ――新聞報道を中心に:伊藤 守
 第4章 テレビ的「神話」に飲み込まれるニュース番組――開会式前後の争点に着目して:田中 瑛
 コラム 東京2020における「文春砲」のレトリック:堀口 剛
第III部 ニュースサイトとソーシャルメディア上の言説
 第5章 オリンピックと「怒り」のプラットフォーム――Yahoo!ニュースに着目して:有元 健
 第6章 SNSにみる情動的なネットワーク形成――「森発言」問題となでしこジャパンバッシングを事例に:加藤穂香
 コラム じょぼいね 東京五輪2020+1の現地生態系観察記/フィールドワーク:高原太一
第IV部 アスリート政策とメディア・スポーツの生態系
 第7章 スポーツ立国に向けた政策展開とアスリート:清水 論
 コラム メディアに現れるアスリートと元アスリート:小石川 聖
 第8章 オリンピック・リアリズムとアスリートの政治――「ソーシャルなアスリート」がつくる新しいメディア生態系:山本敦久
おわりに
資料

本書は公的な研究費が用いられた共同研究ということもあり,時間と労力を要するオリジナルデータがいくつか収集されている。その一つは第1章で分析されているもので,その結果は巻末に資料として掲載されている。それは,2012年5月にIOCが行ったもの,2013年8月に朝日新聞が行ったもの,2015年8月に内閣府が行ったもの,2020年7月に共同通信が行ったものなど,東京大会の開催決定に関わるものも含め,それから時系列的に行われた開催の賛否を問う世論調査とも整合させる形で2020年11月に行われている。アンケート総数は600件で,その後2021年6月にも調査が行われ,そちらのアンケート総数は1,000件とのこと。これらのアンケートは,東京大会開催の是非に関するもので,その理由まで尋ねている。開催の賛否については上記にあげたようにさまざまな時期にさまざまな主体によって実施されているが,アンケートの個票に当たれるわけではないので,実施主体が公表する集計結果しかデータがない,という意味において本書で独自に実施されたアンケートが基礎データとなり,次章以降の議論にも関わってくる。なお,このアンケートの独自項目としては,賛否を評価するデータソースが何かを回答させる設問があり,本書のテーマであるオールドメディアとしてのマスメディア(テレビや新聞)とニューメディアとしてのソーシャルメディア(ネットニュースやSNS)の対比があり,それが回答者の年代とリンクされる。
第2章は過去に数本の論文を読んだきりの土橋さんの文章ということで期待したが,大学生にオリンピック関係のニュースへのアクセスに関する調査をベースとしたもので,その分析に対する困難に直面した様子が感じられる。前半で,第1章と同じアンケート結果の年代分析があり,若い年代ほどニュースメディアやSNSを利用するということで,そこに焦点を合わせ,より詳細に大学生22名に2日間の状況を記録してもらうという調査をしている。なかなかすっきりとした結果も出ておらず,得られた知見は有体のものだったようにも思う。後半ではツイート分析もおこなっているが,面白い結果は出ていない。私もオリンピック開催前からツイッターはよく見ていたが,まあ私のアカウントに流れてくるという非常に偏ったものではあるが,オリンピック開催反対のさまざまなツイートが流れてきて,それこそ本当に中止に持ち込めるのではないかという勢いを感じたが,この分析ではそんな勢いはかけらも示されていない。
第II部はオールドメディアに焦点を合わせたもので,第3章は新聞報道に限定した分析を行っている。東京2020大会については,中村祐司(2021):『2020年東京オリンピックの変質』がほとんど新聞記事を資料に時系列的に整理しており,この本は新聞記事を批判的に分析しているわけではないが,第3章はその概要を新聞記事の表象分析という形で論じたものといえ,あまり新鮮味はない。逆にいえば,私たちの東京2020大会の大まかな理解はマスメディアによって形成されたともいえる。第4章はテレビに限定した分析となる。ただ,第3章と同じレベルでテレビを分析したものではなく,開会式をめぐる顛末を追ったもので,また,かなり定性的な分析となっている。
第III部はニューメディアとしてのネットニュースとSNSに焦点を合わせる。第5章はネットニュースとしてYahoo!ニュースを取り上げている。Yahoo!ニュースといえば,よくコメント欄への差別的書き込みがすごいということくらいしか知らなかったが,この論文からそのメディアとしての位置付けについて学んだ。本章では,トップページにあがってくる記事を取り上げ,そこにつけられたコメント数とその内容,そしてそのコメントにつけられたGoodの数などを分析対象としている。私はYahoo!ニュースをそれとして意識して見てこなかったし,コメント欄などもきちんと読んでこなかったので,その状況については学ぶことが多かったし,こういう分析ができるというのはニューメディアに対する学術的調査のあり方として学ぶこともあった。とはいえ,本章がオリンピックというテーマにおいてめざましい成果が得られたかというとそうでもないように思う。まあ,こういう試行錯誤が重ねられてニューメディア研究が発展していくのだろう。ただ,本章は編者の伊藤氏も近年テーマとしてきた「情動」という主題を一貫したものとして論じているのはさすがだ。第6章も同様に,Twitterを対象とした調査・分析をしたものである。著者の加藤さんは第5章の著者である有元さんの所属大学である国際基督教大学の博士課程に在籍しているということで,有元さんの指導もあったのかもしれない。ここではSocial InsightというSNS投稿分析ツールを用いているという。そんなツールがあることも知らなかったが,特定のハッシュタグによるツイートがやはり特定の有名アカウントを中心に拡散していく様子が,その投稿内容も含めて分析されている。そして,そこにネット右派に関する分析も加えていて興味深い。
ここまでは少なくとも,本書のテーマであるオリンピックとメディアの関係を,オールドメディアとニューメディアの差異に着目しながら調査・分析が試みられてきたが,第IV部は残念ながら本書のテーマにしっかりと沿ったものにはなっていない。上述したように,第7章の著者は日本におけるオリンピック研究を牽引してきた研究者であるが,メディア研究における業績はほとんどないように思う。それはしかたがないが,第7章はメディアというテーマを一切気にかけていない内容のように思われた。第8章は,先日このブログでも紹介した『ポスト・スポーツの時代』の著者であり,オリンピック研究のなかでもアスリートに着目している稀有な存在である。この章でも「ソーシャルなアスリート」という興味深い概念を提示していて,この章単独としては非常に興味深い論考である。しかし,やはり本書のメインテーマに関しては,「メディア生態系」という概念は提示しているものの,第III部までの具体的な定量・定性的データに基づく調査・分析はなされていない。
ということで,本書は期待して読み始めたものの,残念ながら有用な知見を得られるものではなかった。とはいえ,ソーシャルメディアに関する調査・研究は本格的に始められたところであり,またソーシャルメディア自体が次々と形を変えていくという難しさも持っている。

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【読書日記】三橋順子『これからの時代を生き抜くためのジェンダー&セクシュアリティ論入門』

三橋順子(2023):『これからの時代を生き抜くためのジェンダー&セクシュアリティ論入門』辰巳出版,252p.1,760円.

 

著者は『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書,2018年)という著書があり,その存在は知っていた。しかし,どっぷり地理学者で,学会に行けば会えるという存在ではなく,少し遠い存在だった。本書を書店で見かけ,彼女の本を読むのであれば,上記の新宿本が先だと思うが,ペラペラと立ち読みをすると,本書は彼女が教えていた非常勤での講義の講義録だというし,かなり彼女の人となりが書かれていることを確認して,購入することにした。

はじめに
第1講 「性」を考えることの意味
第2講 ジェンダーを考える
第3講 セクシュアリティを考える
第4講 「性」の4要素論
第5講 「性」の多層構造論
第6講 「性」の多様性論
第7講 日本初のトランスジェンダーの大学教員として
おわりに

目次にあるように,著者は「日本初のトランスジェンダーの大学教員」としてかなり有名な存在のようだ。私はそのことを全く知らなかった。著者は1955年生まれということで,今ではかなり年配である。そして,「大学教員」とあるが,経歴にもあるように「非常勤講師」である。ただ,この世代の女性での大学教員は非常に難しく,地理学分野でも(もちろん年配で教授をされている(た)女性の地理学者は何人もいるが)多くの業績をもちながら,常勤の大学教員になっていない人は多くいる。私は勝手にそう捉えていたのだが,本書で知った著者の経歴はなかなかすごかった。男性として生まれ,育った著者は,性に違和を持ちながら生きてきて,歴史学の分野で大学院に進学していた。その後,古書店で出会った女装雑誌『くいーん』をきっかけに,36歳だった1990年に女装クラブなるものに通い,女装家として有名になったという。その後のことは本書では省略されているが,新宿歌舞伎町でホステスをしていたようだ。1995年頃からはトランスジェンダー当事者として社会的な発言の機会が増え,1998年に中央大学の矢島正見という研究者と出会い,「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」が1999年に発足し,研究対象者から研究者としての歩みが始まったようだ。残念ながら,本書からは地理学との接点を見出せなかったが,私よりも一世代上の一トランス女性の生きざまの一端を知ることができる読書だった。
本書はジェンダー&セクシュアリティ入門ではなく,「論」入門であることが意外にも面白い。私は決してこの手の入門書を多く読んだわけではないが,LGBTQ当事者についてはよく言われることではあるが,LはLで同じ,TはTで同じ経験をしてきている同質な集団として捉えられはしない。似たような経験はあるにしても,個々人が個別の存在だといえる。そういう意味で,当事者がLGBTQを意識した形でジェンダー論やセクシュアリティ論をする際,それは基本として抑える知識は共通しているものの,その論じ方はそれぞれ個別のものであるはずであり,またそうあるべきだと思う。そういう意味で,本書は独自な議論をしているように思う。その一つには彼女が生きてきた時代の影響もあるように思う。まだ「女装」という形でした自分のジェンダーを表現できず,職業選択としてもホステスが少ないなかの選択肢だったのかもしれない。しかし,著者はその時代・世代の影響下でのみ独自なわけではない。本書に書いてあるように,「ジュディス・バトラーも出てこないジェンダー論」ではあるが,それは直接バトラーの議論を紹介していないだけで読んでないわけではないし,恐らく著者は貪欲に最新の理論を摂取し,LGBTQをめぐる最近の状況については本書のなかでもしっかりと押さえている。例えば,身体的な特徴としての男女差については丁寧に論じている。それは自身としての感覚(例えば女装するに際して,どうしても男性的な骨格が男らしさの痕跡を残してしまう)からくるものなのか,学生の素朴な問いに応えるという配慮からなのかは分からない。ただ,こういう議論はとかく生物的性別の存在を絶対視しているとみなされかねないので,そうではない立場のジェンダー論では避けがちのようにも思う。ただ,グラフで「連続体としての生物学的性のイメージ」(p.112)も示しているので,丁寧で慎重な議論ではある。そして,第5講がやはり著者の独自の性の多様性の理解だと思う。性を特徴づける要素を4つと最小限に絞り,その組み合わせでジェンダーとセクシュアリティの「性」を16に分類する。さらにその組み合わせが層状に人間を構成しているという議論だ。
実は私も20年ほど前に担当していた「メディア表現」という授業で,広告の話をするときにジェンダーの説明をしていた。当時は時代的にも生物学的性別:セックス,社会的性差:ジェンダー,性的志向:セクシュアリティという3つの次元で,男・女(・それ以外)という組み合わせで8種類あるという説明。本書ではそれに「性同一性(性自認)」が加わって16種類(それ以外を加えればさらに増える)。こういう思考は何となく男性的だし,著者と私は人世代違うが,なんとなく中年以上の思考のようにも思う。また,第3講は著者の専門でもある日本の歴史を踏まえた議論で,こちらは純粋に楽しめる。
一応,講義録の体裁をとっている本であり,毎回の講義修了後の受講生の質疑応答も収録しているのがとても面白い。また,昨年成立したLGBT理解増進法の話題も入っていて,もちろん書籍化するということで盛り込んだ可能性もあるが,10年以上続くこの講義は毎年アップデートを重ねていることも分かる。受講者300人以上という羨ましいような,成績をつけるのが大変で気の毒のような。だが,間違いなく当の本人は学生とのやり取りも含めて楽しんでいるんだろうな,とそんなことが伝わる本だった。

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【読書日記】ジョン・アーリ『モビリティーズ』

ジョン・アーリ著,吉原直樹・伊藤嘉高訳(2015):『モビリティーズ――移動の社会学』作品社,493p.3,800円.

 

ジョン・アーリが日本の地理学で注目されるようになったのは,『観光のまなざし』の翻訳が出た1995年以降だった。本書ではそれ以降にアーリ社会学に注目してきた吉原直樹さんが非常にわかりやすいアーリ社会学の解説をつけているが,そこにもあるように1981年の著作『経済・市民社会・国家』が法律文化社から1986年に翻訳が出ているように,以前から日本でも知られた存在ではあった。
『観光のまなざし』の日本語版刊行当時,修士課程から博士課程に移ろうとしていた私は,観光研究をやっていこうという計画はすでに変更していたが,この本は刊行当時にしっかりと読んでいる。そして,同じ年に原著が出た『場所を消費する』についても,1996年に観光研究をベースにした卒論を論文化する際に最初の方だけ読んでいた。1996年に『地理科学』に掲載された私の論文では,内田順文さんの「場所の記号化」論を批判的に継承して,「場所の商品化」論を展開していたので,まさに語り口としてはアーリに近かったのだ。2003年になって『場所を消費する』は吉原さんの手によって翻訳が出たわけだが,期待した知見が得られず残念だった記憶が大きい。そもそも,『観光のまなざし』についても当時フーコーを読んでいなかった私にとっては「まなざしgaze」概念の含意も分からなかったし,私なりに考えていた観光の本質を先取りして議論されていたわけでもなく,アーリ社会学にそれほど傾倒することもなかった。
『場所を消費する』のなかでも社会学論があったように,その後翻訳される著作は,『社会を越える社会学』や『グローバルな複雑性』と,何となく読む気はせずに,実際今でも入手していない。しかし,地理学者のスリフトが共同編集者として名を連ねる『自動車と移動の社会学』は,スリフトだけでなくエデンサーやメリマンなどの地理学者も執筆しているので,読んだのだが,これがとても面白かった。そのタイトルにある「移動」がモビリティなわけだが,確かにアーリのみならず近年はモビリティ研究というのが流行っているようだというのは知っていた。地理学でもクレスウェルがかなりその分野で活躍していて,ただ日本語で読めるものがなく,とりあえず本書を読んでみようと思った次第。というよりは,目次を見た時に「歩くこと」が入っていたのが本書を読む直接的な動機だ。ただ,久し振りに分厚い本で,外出先に持ち運ぶのには抵抗があり,自宅で歯磨きなど限られた時間で読み進め,多分昨年の5月くらいから読んでいたと思うがようやく読み終わった。そして,アーリの本としては非常に充実した読後感を得るものだった。さらに,吉原さんの解説により,本書も『場所を消費する』のように,議論があちこち散漫な本だと思うのだが,それらがきちんと結びついていること,そして吉原さんが書いているように,アーリの長年にわたる研究関心に貫かれたものであるということも理解できた。

I部 モバイルな世界
1章 社会生活のモバイル化
2章 「モバイル」な理論と方法
3章 モビリティーズ・パラダイム
II部 移動とコミュニケーション
4章 踏みならされた道,舗装された道
5章 「公共」鉄道
6章 自動車と道路になじむ
7章 飛行機で飛び回る
8章 つながる,想像する
III部 動き続ける社会とシステム
9章 天国の門,地獄の門
10章 ネットワーク
11章 人に会う
12章 場所
13章 システムと暗い未来
日本語解説 アーリの社会理論を読み解くために:吉原直樹

厚いは厚いが,とはいっても500ページにはならない本で,13章に分かれているので,1章1章が長いわけではない。正直にいえば,どの章も非常にうまく整理されて終わっていてすっきりと読み終えることができるが,さらに一歩進んだ議論,著名な社会学者だから踏み込める領域,あるいは誰も思いつかない発想の議論,そうしたものが必ずしもあるわけではない。とはいえ,これだけ多方面の領域について,既存の研究を書籍のみならず,個々の学術論文にもあたって,整理しているのはさすがとしかいいようがない。また,実際に自身が共同執筆者として発表している論文の多さ。その共同執筆者はどういうつながりなんだろうか,教え子などもいたりするのだろうか,そんなところも調べてみたくなる。
さて,レベッカ・ソルニットの『ウォークス』はまだ読んでいないのだが,私は20年くらい前から「歩くこと」について書いてみたいと思っている。それ以前から,ベンヤミンの遊歩=フラヌール,すなわち都市で歩くことについてはさまざまなことが書かれていたし,私自身も2002年に『10+1』に泉 麻人の街歩きについて書いたことがある。その頃,英語圏の地理学でwalking(カタカナのいわゆるウォーキングよりも広義)に関する興味深い論文がいくつも発表されて,それに感化されていたということもあった。それよりも,歩くことについては色々考えることがあった。身体的な障害を持つ人には失礼に当たるかもしれないので,なかなか本格的に公表できない考えなので,これまでどこにも書いたことがないが。私は歩くのが好きである。携帯電話が普及すると(スマホ以前からあった),今では歩きスマホといわれる人たちが急増した。私はこれがたまらなく嫌いである。私は普段の生活で時間効率というものをかなり考えてしまう。会社で仕事をしたりしていても,周りの人がいかに非効率に時間を使っているのかを見て苛立ってしまう(最近はそういうことはない)人間である。大雑把な印象ではあるが,多くの人が時間効率というものに対して気を配ってなさそうなのに,歩く時間を使って別のことをしているというのに腹が立ってしょうがなかった。要は,そんなこといまやらずに暇な時にやれよ!という感じ。私はかつてはかなり歩くのが早く,移動するのにも時間の効率を考えている人間だったが,それでも歩く時は歩くという行為自体を楽しむようにしていた。それに比べ,高齢者や足などに障害があり,歩行に多くの労力と時間,そして転んだ時の危険を回避するために多大な集中力を要する人の補講する姿を見るたびに,自分の補講に対する意識を改められている。また,たまたまではあるが今年のはじめに足を骨折し,松葉杖をつく機会があった。松葉杖が取れても右足のつま先立ちができないので,歩行速度は小さく,一歩一歩をまさに踏みしめる日々が続く。そういう経験をすると,なおさら歩くという日常の何気ない行為があたり前のものではなく,蔑ろにするべきではないと強く感じる。しかも,その行為は自分の身体の素晴らしいバランス感覚とそれに対応する運動能力によって成し遂げられるものであるということ,そしてそれは本書でもアフォーダンスとの関連が議論されていたように思うが,まさに歩道の傾斜や細かい凸凹といったものに身体が反応しながら行われるものであり,また前方に向けられた視野に移る景色が一歩一歩移動するごとに変化し,また身体の位置を変えることによって聞こえる音風景も刻一刻と変化する。そうしたものをも楽しむことができる。楽しむだけでなく,他人との関係や危険を察知したり,まさに周囲の環境に包まれた自分自身の存在を確認できる,そういう行為だと実感するのだ。
まあ,そんなことを日々考えながら歩くことに関する文章を書きたいなと思っているわけだが,第4章は私の書きたいことがことごとく書かれていた。「踏みならされた道,舗装された道」というそのタイトルは,「歩くこと」の議論が田園のような場所(イギリスでは湖水地方)と都市(ベンヤミンのパリ)とでなされているが,そこに連続性があるというのは私もようやく分かってきたところ。40ページ足らずの歩くことに関する章だが,さすがの整理にうなってしまう。そこから,鉄道,自動車,飛行機と論が展開するが,著者が参照する数多くの文献の中で,数としてはわずかではあるが,翻訳されているものもあることを知る。それぞれの交通機関だけで一冊の本になるほどの充実さだが,それを続く第III部のテーマと結び付けるべく,モビリティーという主題に沿ってテンポよく論は進む。特に自動車については上述した編著である『自動車と移動の社会学』ですでに魅力的な議論が展開されていたが,公的な移動手段から私的なものへという大きな転換であったところが強調されていて,私自身が自動車という移動手段を選ばない理由とともに納得することが多かった。そして,飛行機に関しては私が長らく非正規ながらも勤める職場が航空関係ということもあり,こちらも興味深く読んだ。
ところで,移動という観点からこのグローバル社会を考える際に,社会学者の多くは「移民」という存在の重要性を論じるはずだ。しかし,本書は移民に関しての議論はほとんどない。それはおそらく時間スケールの問題だと思う。移民というのは短い時間スケールでいっても一人の人間の人生という数十年のスケール。そして,日本人のブラジル移民みたいな話であれば百年,ヨーロッパ人のアメリカ大陸移民であれば数百年,
そして,第II部は第8章を挟んで,モビリティを基礎として築かれる人々の緩やかなつながりを主題とする第III部へと移行する。第III部の前半ではブルデューなどを参照して「ネットワーク資本」の議論がなされる。いわゆる身体の移動を可能にするモビリティ=交通手段だけでなく,それこそ携帯電話=モバイル・フォンなどのコミュニケーション・ツールにも焦点を合わせ,そうした時代の変化に応じた人間関係のあり方の推移にも目を配りながら,とはいえそうしたコミュニケーション・ツールの発達によって人間関係のあり方が地域共同体的なものから広域・柔軟なゆるやかな共同態へと移行した,というような短絡的な説明はほとんどない。ゆるやかな人間関係はかつてからもあったし,地域共同体的なものが完全に解体したことを嘆くようなこともない。ともかく,人間関係のあり方が多様になり,そのような中から重要な関係は資本となる,そうした論調である。ここが,私が読まなかった本訳書でアーリが論じていることなのだと気づいた,というか吉原さんの解説に書いてあったこと。すなわち,アーリは社会のあり方がモビリティやコミュニケーション技術の発達によって複雑になり,複雑系としての社会関係が社会そのもののあり方を変容させてきたということ。そして,『グローバルな複雑性』という書名にあるように,その複雑性はこのグローバルな現在において世界規模に及んでいるということ。プリゴジンらの自然科学の複雑系システム論は,30年前にもウォーラーステインが世界システムの枠組みに用いていた。アーリの『グローバルな複雑系』はまだ読んでいないが,本書を読む限りでは,マクロな視点,そして時間スケール的にも16世紀以降のウォーラーステインのアプローチに対して,アーリの方は一人ひとりの人間関係というミクロで,時間的にも通勤や出張,会合など一日から週間,月間,年間というスケールでのアプローチはやはりかなり異なるように思う。第12章は「場所」と題されてもいるので,やはりアーリは他の著書も含めて改めて参照する必要がありそうだ。

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【読書日記】エンゲルス『空想より科学へ』

エンゲルス, F.著,大内兵衛訳(1946):『空想より科学へ――社会主義の発展』岩波書店,150p.500円.

 

この読書日記は2022年11月に書いたものだが,blogにアップしていなかった。読んでいけば分かるように,書きかけだ。再度残りの部分を読み直して書くというのもまた時間がかかってしまうので,とりあえずアップさせてもらう。

出先で持参した本が読み終わってしまい,短い時間だったが立ち寄った古書店で購入した。エンゲルスは『自然の弁証法』(岩波文庫上下巻)を途中で挫折し,『住宅問題』(岩波文庫)は読んだが,あまり印象に残っていない。マルクス主義についてはなんだかんだで理解を先送りにしていたので,ちょうどよい。
読み始めると,本書はエンゲルスの大著『反デュ―リング論』から3章分を抜き出し,政治パンフレットとして非常に多く流布したものだという。はじめ,1880年にフランス語訳として出版され,1882年にドイツでも出版された。本訳書には各版の序文も掲載されているように,1892年には英語訳が出版されたという。フランス語版のタイトルは『空想的社会主義と科学的社会主義』であり,ドイツ語版は日本語版のタイトルとタイトルを逆にしたものである。なお,「空想的」とは原語が「ユートピア的」である。

訳者序
フランス語版へのマルクスの序文
ドイツ語第一版〔1882年版〕への〔エンゲルスの〕序文
ドイツ語第四版〔1891年版〕への〔エンゲルスの〕序文
空想より科学へ――社会主義の発展
1 〔空想的社会主義〕
2 〔弁証法的唯物論〕
3 〔資本主義の発展〕
英語版への序文(史的唯物論について)

非常勤先の授業で,長らく英国のトマス・モアが1516年に記した『ユートピア』を論じている。この作品は私有財産がなく,かなり計画的な経済・政治体制が取られていて,私たちが思い描きやすい共産主義が描かれている。学生の反応は,貧富の差がないのはいいが,住民に選択の自由がなく,個性がないのが監獄のような印象を与えるという。実現した社会主義国家であるソ連や中国を想像していい印象にないのだとは思うが,このかなり周到に考えられた空想の国家の在り方は実際にはどうなのだろうか,という疑問は常にあった。
モアはプラトンの『国家』の影響下で『ユートピア』を書いたともいわれているが,『国家』は今のところまだ読んでいないので何とも言えない。共和国というあり方は古代からあるわけだが,今日の多くの国名にも使用されているこの共和国というものがどういうものか,よく分かっていない。ともかく,1516年という時期に描かれたこの共産主義的な社会をどのように理解したらよいのだろうか。そうした上で,本書の存在は知っていて,その書名にヒントがあるようには思っていた。
実際,読んでみるとその通りで,社会主義という理想は以前からあり,それが理想国の在り方として想像されたのがモアの『ユートピア』だといえる。なお,目次の〔〕は訳者の補足であり,もともとは章にタイトルはついていない。1章の冒頭に,「近代社会主義は,その内容からいえば,なによりもまず,一方では今日の社会にある有産者と無産者,資本家と賃金労働者の階級対立を,他方では生産における無政府状態をみた上で生まれたものである。」(p.31)とある。本書で「無政府状態」とあるのは,アナーキズムという意味での政治的立場ではなく,資本主義経済に対して政治的介入をしない,いわば「自由放任主義」の意味だと私は理解した。フランス革命で目指された「この理想の王国というのは実は理想化されたブルジョアジーの王国に外ならない」(p.33)とその限界を指摘する。実現したのは「ブルジョア民主主義的共和国」(p.33)であったという。「こうした未成熟な階級の革命的叛乱と並んで,それにふさわしい理論的表現が現われた。すなわち,16世紀及び17世紀には理想的社会状態の空想的描写があり,18世紀にはすでに直接共産主義的な理論(モレリーとマブリー)が現われた。」(p.34)とある。この16世紀の例として,モアの『ユートピア』(1516年),そして17世紀の例としてカンパネッラ『太陽の都』(1602年)が訳注として挙げられている。あくまでも訳注による記載であるが,確かに岩波書店の「ユートピア旅行記叢書」や,最近読んだ,北村直子 2014. ユートピア旅行記における固有名と視点人物――文学ジャンルの物語戦略的考察.人文学報 105: 35-67.という論文では,私の知らない無数のユートピア文学が,トマス・モア以降の時代に多く表れていることを知ることができる。『ユートピア』と『太陽の都』を一緒に語ることには違和感があるが,もっと大きなテクスト群で考える必要があるかもしれない。また,エンゲルスは理想社会のユートピア的描写といっていて,しかも「理論的表現」といっているので,翻訳の「空想的社会主義」から受ける日本語的印象には注意が必要だ。
弁証法と唯物論,この二つはマルクス主義の理解にとって欠かせないものだ。それがまた関連本をいくつか読んだが,まだ自分のなかでしっかりとした理解にはいたっていない。あえていうならば,弁証法とはマルクス主義にとっての思考の形式,あるいは方法論であり,唯物論とはその思考の根底にある認識論だと思う。ということもあり,この両者についてのガイドラインが示されているものと期待して読んだがそうでもなかった。冒頭は弁証法の歴史が語られ,長い歴史をもつものの(プラトンの対話篇),徐々にその対極にある形而上学的思惟方法が優勢になり,弁証法が劣勢になるという。弁証法はカントを経てヘーゲルにいたって完成し,マルクスの弁証法はヘーゲルのそれであるが,ヘーゲルは唯物論ではなく観念論に陥ってしまったので,マルクスの場合には唯物論に基づく歴史観が重視されたという(史的唯物論,ないし唯物史観)。
唯物論については本文では語られず,本日本語訳に収録された英語版への序文で論じられている。やはりここでも唯物論の歴史が語られる。それは,唯物論がイギリスで生まれたにもかかわらず,現代のイギリスでは唯物論が軽んじられているという事情から,英語版の読者に特に唯物論のことを訴えたかったものと思われる。ベーコンとホッブスによってイギリスで唯物論が発達したが,18世紀に入り,唯物論の中心はフランスの百科全書派となるという。この序文の後半は各国の近代史を辿りながら,歴史と唯物論との関係が論じられる。唯物史観とは唯物論の観点で歴史を語るだけでなく,歴史における認識論の役割という側面もあるのかもしれない。
本書に収録された三つ目の文章は資本主義の発展に関するものであり,分量的にはここが一番多い。史的唯物論の観点から資本主義社会を捉える場合は,ブルジョアジーとプロレタリアートという階級関係から人間を見,生産を中心にその生産物の交換としての物流と卸売・小売という形で,生産過程=職業と消費=日常生活という形で人間社会の行為が論じられる。


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