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【読書日記】ジョン・アーリ『モビリティーズ』

ジョン・アーリ著,吉原直樹・伊藤嘉高訳(2015):『モビリティーズ――移動の社会学』作品社,493p.3,800円.

 

ジョン・アーリが日本の地理学で注目されるようになったのは,『観光のまなざし』の翻訳が出た1995年以降だった。本書ではそれ以降にアーリ社会学に注目してきた吉原直樹さんが非常にわかりやすいアーリ社会学の解説をつけているが,そこにもあるように1981年の著作『経済・市民社会・国家』が法律文化社から1986年に翻訳が出ているように,以前から日本でも知られた存在ではあった。
『観光のまなざし』の日本語版刊行当時,修士課程から博士課程に移ろうとしていた私は,観光研究をやっていこうという計画はすでに変更していたが,この本は刊行当時にしっかりと読んでいる。そして,同じ年に原著が出た『場所を消費する』についても,1996年に観光研究をベースにした卒論を論文化する際に最初の方だけ読んでいた。1996年に『地理科学』に掲載された私の論文では,内田順文さんの「場所の記号化」論を批判的に継承して,「場所の商品化」論を展開していたので,まさに語り口としてはアーリに近かったのだ。2003年になって『場所を消費する』は吉原さんの手によって翻訳が出たわけだが,期待した知見が得られず残念だった記憶が大きい。そもそも,『観光のまなざし』についても当時フーコーを読んでいなかった私にとっては「まなざしgaze」概念の含意も分からなかったし,私なりに考えていた観光の本質を先取りして議論されていたわけでもなく,アーリ社会学にそれほど傾倒することもなかった。
『場所を消費する』のなかでも社会学論があったように,その後翻訳される著作は,『社会を越える社会学』や『グローバルな複雑性』と,何となく読む気はせずに,実際今でも入手していない。しかし,地理学者のスリフトが共同編集者として名を連ねる『自動車と移動の社会学』は,スリフトだけでなくエデンサーやメリマンなどの地理学者も執筆しているので,読んだのだが,これがとても面白かった。そのタイトルにある「移動」がモビリティなわけだが,確かにアーリのみならず近年はモビリティ研究というのが流行っているようだというのは知っていた。地理学でもクレスウェルがかなりその分野で活躍していて,ただ日本語で読めるものがなく,とりあえず本書を読んでみようと思った次第。というよりは,目次を見た時に「歩くこと」が入っていたのが本書を読む直接的な動機だ。ただ,久し振りに分厚い本で,外出先に持ち運ぶのには抵抗があり,自宅で歯磨きなど限られた時間で読み進め,多分昨年の5月くらいから読んでいたと思うがようやく読み終わった。そして,アーリの本としては非常に充実した読後感を得るものだった。さらに,吉原さんの解説により,本書も『場所を消費する』のように,議論があちこち散漫な本だと思うのだが,それらがきちんと結びついていること,そして吉原さんが書いているように,アーリの長年にわたる研究関心に貫かれたものであるということも理解できた。

I部 モバイルな世界
1章 社会生活のモバイル化
2章 「モバイル」な理論と方法
3章 モビリティーズ・パラダイム
II部 移動とコミュニケーション
4章 踏みならされた道,舗装された道
5章 「公共」鉄道
6章 自動車と道路になじむ
7章 飛行機で飛び回る
8章 つながる,想像する
III部 動き続ける社会とシステム
9章 天国の門,地獄の門
10章 ネットワーク
11章 人に会う
12章 場所
13章 システムと暗い未来
日本語解説 アーリの社会理論を読み解くために:吉原直樹

厚いは厚いが,とはいっても500ページにはならない本で,13章に分かれているので,1章1章が長いわけではない。正直にいえば,どの章も非常にうまく整理されて終わっていてすっきりと読み終えることができるが,さらに一歩進んだ議論,著名な社会学者だから踏み込める領域,あるいは誰も思いつかない発想の議論,そうしたものが必ずしもあるわけではない。とはいえ,これだけ多方面の領域について,既存の研究を書籍のみならず,個々の学術論文にもあたって,整理しているのはさすがとしかいいようがない。また,実際に自身が共同執筆者として発表している論文の多さ。その共同執筆者はどういうつながりなんだろうか,教え子などもいたりするのだろうか,そんなところも調べてみたくなる。
さて,レベッカ・ソルニットの『ウォークス』はまだ読んでいないのだが,私は20年くらい前から「歩くこと」について書いてみたいと思っている。それ以前から,ベンヤミンの遊歩=フラヌール,すなわち都市で歩くことについてはさまざまなことが書かれていたし,私自身も2002年に『10+1』に泉 麻人の街歩きについて書いたことがある。その頃,英語圏の地理学でwalking(カタカナのいわゆるウォーキングよりも広義)に関する興味深い論文がいくつも発表されて,それに感化されていたということもあった。それよりも,歩くことについては色々考えることがあった。身体的な障害を持つ人には失礼に当たるかもしれないので,なかなか本格的に公表できない考えなので,これまでどこにも書いたことがないが。私は歩くのが好きである。携帯電話が普及すると(スマホ以前からあった),今では歩きスマホといわれる人たちが急増した。私はこれがたまらなく嫌いである。私は普段の生活で時間効率というものをかなり考えてしまう。会社で仕事をしたりしていても,周りの人がいかに非効率に時間を使っているのかを見て苛立ってしまう(最近はそういうことはない)人間である。大雑把な印象ではあるが,多くの人が時間効率というものに対して気を配ってなさそうなのに,歩く時間を使って別のことをしているというのに腹が立ってしょうがなかった。要は,そんなこといまやらずに暇な時にやれよ!という感じ。私はかつてはかなり歩くのが早く,移動するのにも時間の効率を考えている人間だったが,それでも歩く時は歩くという行為自体を楽しむようにしていた。それに比べ,高齢者や足などに障害があり,歩行に多くの労力と時間,そして転んだ時の危険を回避するために多大な集中力を要する人の補講する姿を見るたびに,自分の補講に対する意識を改められている。また,たまたまではあるが今年のはじめに足を骨折し,松葉杖をつく機会があった。松葉杖が取れても右足のつま先立ちができないので,歩行速度は小さく,一歩一歩をまさに踏みしめる日々が続く。そういう経験をすると,なおさら歩くという日常の何気ない行為があたり前のものではなく,蔑ろにするべきではないと強く感じる。しかも,その行為は自分の身体の素晴らしいバランス感覚とそれに対応する運動能力によって成し遂げられるものであるということ,そしてそれは本書でもアフォーダンスとの関連が議論されていたように思うが,まさに歩道の傾斜や細かい凸凹といったものに身体が反応しながら行われるものであり,また前方に向けられた視野に移る景色が一歩一歩移動するごとに変化し,また身体の位置を変えることによって聞こえる音風景も刻一刻と変化する。そうしたものをも楽しむことができる。楽しむだけでなく,他人との関係や危険を察知したり,まさに周囲の環境に包まれた自分自身の存在を確認できる,そういう行為だと実感するのだ。
まあ,そんなことを日々考えながら歩くことに関する文章を書きたいなと思っているわけだが,第4章は私の書きたいことがことごとく書かれていた。「踏みならされた道,舗装された道」というそのタイトルは,「歩くこと」の議論が田園のような場所(イギリスでは湖水地方)と都市(ベンヤミンのパリ)とでなされているが,そこに連続性があるというのは私もようやく分かってきたところ。40ページ足らずの歩くことに関する章だが,さすがの整理にうなってしまう。そこから,鉄道,自動車,飛行機と論が展開するが,著者が参照する数多くの文献の中で,数としてはわずかではあるが,翻訳されているものもあることを知る。それぞれの交通機関だけで一冊の本になるほどの充実さだが,それを続く第III部のテーマと結び付けるべく,モビリティーという主題に沿ってテンポよく論は進む。特に自動車については上述した編著である『自動車と移動の社会学』ですでに魅力的な議論が展開されていたが,公的な移動手段から私的なものへという大きな転換であったところが強調されていて,私自身が自動車という移動手段を選ばない理由とともに納得することが多かった。そして,飛行機に関しては私が長らく非正規ながらも勤める職場が航空関係ということもあり,こちらも興味深く読んだ。
ところで,移動という観点からこのグローバル社会を考える際に,社会学者の多くは「移民」という存在の重要性を論じるはずだ。しかし,本書は移民に関しての議論はほとんどない。それはおそらく時間スケールの問題だと思う。移民というのは短い時間スケールでいっても一人の人間の人生という数十年のスケール。そして,日本人のブラジル移民みたいな話であれば百年,ヨーロッパ人のアメリカ大陸移民であれば数百年,
そして,第II部は第8章を挟んで,モビリティを基礎として築かれる人々の緩やかなつながりを主題とする第III部へと移行する。第III部の前半ではブルデューなどを参照して「ネットワーク資本」の議論がなされる。いわゆる身体の移動を可能にするモビリティ=交通手段だけでなく,それこそ携帯電話=モバイル・フォンなどのコミュニケーション・ツールにも焦点を合わせ,そうした時代の変化に応じた人間関係のあり方の推移にも目を配りながら,とはいえそうしたコミュニケーション・ツールの発達によって人間関係のあり方が地域共同体的なものから広域・柔軟なゆるやかな共同態へと移行した,というような短絡的な説明はほとんどない。ゆるやかな人間関係はかつてからもあったし,地域共同体的なものが完全に解体したことを嘆くようなこともない。ともかく,人間関係のあり方が多様になり,そのような中から重要な関係は資本となる,そうした論調である。ここが,私が読まなかった本訳書でアーリが論じていることなのだと気づいた,というか吉原さんの解説に書いてあったこと。すなわち,アーリは社会のあり方がモビリティやコミュニケーション技術の発達によって複雑になり,複雑系としての社会関係が社会そのもののあり方を変容させてきたということ。そして,『グローバルな複雑性』という書名にあるように,その複雑性はこのグローバルな現在において世界規模に及んでいるということ。プリゴジンらの自然科学の複雑系システム論は,30年前にもウォーラーステインが世界システムの枠組みに用いていた。アーリの『グローバルな複雑系』はまだ読んでいないが,本書を読む限りでは,マクロな視点,そして時間スケール的にも16世紀以降のウォーラーステインのアプローチに対して,アーリの方は一人ひとりの人間関係というミクロで,時間的にも通勤や出張,会合など一日から週間,月間,年間というスケールでのアプローチはやはりかなり異なるように思う。第12章は「場所」と題されてもいるので,やはりアーリは他の著書も含めて改めて参照する必要がありそうだ。

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