« 【読書日記】松田青子『持続可能な魂の利用』 | トップページ | 師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』 »

【読書日記】隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』

隠岐さや香(2018):『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社,253p.980円.

 

昨年,国立大学法人法の改悪をめぐるなかで,改悪反対の立場で声を上げている人のなかで隠岐さや香さんの存在が目立った。たまたま本屋で本書をみつけ手に取った。ちょうど,4月から明治学院大学で「地理学概論」を受け持つことになっていて,これまでは「人文地理学」だったが,今度は人文地理学と自然地理学の両方を組み込まなければいけないと思っていたところだったので,導入にふさわしいと思い,購入して読んだ。
以前ここでも紹介した渡辺憲司『江戸の岡場所』と同じ星海社新書の一冊。

はじめに
1章 文系と理系はいつどのように分かれたか?――欧米諸国の場合
2章 日本の近代化と文系・理系
3章 産業界と文系・理系
4章 ジェンダーと文系・理系
5章 研究の「学際化」と文系・理系
おわりに

著者は科学史を専門とするということは知っていたし,目次を見るとヨーロッパにおける科学の長い歴史や日本の近代化におけるヨーロッパ科学の導入という歴史をふまえての議論であることは分かっていた。私自身も地理学の歴史を学ぶ中で,まさに理系と文系を併せ持つ地理学の歴史が,科学における理系と文系の分離とパラレルの関係にあると期待していたのだが,本書はそれほど単純な話ではなかった。正直にいうと,各章がそれぞれ1冊の本になるような重要なテーマを扱っているものの,少しバラバラの印象を持った。その印象は最後に「おわりに」を読んで納得した。「この本を書くことは,私にとって,長い旅のようでした。(中略)数限りない文献はあるけれど,同じ道を行った先人は見つからなかったからです。」(p.251)と書いているように,確かに人文地理学と自然地理学の関係を論じる地理学史の議論に慣れている私にとっては本書のテーマはそれほど目新しいものではなかったが,地理学に限定しない,科学全般におけるこのテーマの本は確かにほとんどなかったのかもしれない。
そして,第1章と第2章の内容は,地理学を中心にではあるがそこそこ私も文献を読んできたので多少分かったつもりでいたが,そんなことはなく,知らないことが沢山だった。しかも,本書はあくまでも新書であり,一つ一つの事柄が懇切丁寧に解説されているわけではなく,もっと詳しく知りたければという形で,参考文献が示されている。そういう意味で,本書は魅力的な文献の宝庫でもある。
なお,本書の終盤である第5章で,著者の専門の話がちょこっと出てくる。著者が専門的に調査・研究しているのはジョージ・サートンについて「科学史の創始者」(p.209)としか記述がない。Wikipediaにも日本語版にはなく,コトバンクには1884年ベルギー生まれで米国で科学史を講じ,1954年に亡くなったとされている。本書で言及されている著者の論文タイトルは「つくられた「科学史の一体性」――G.サートンと20世紀初期フランスの知的文脈」と題されたもので,歴史的な科学者を調査・研究するという意味での科学史研究者というより,科学史というものがどのようなものとして作られたのかを考える研究だといえる。とはいえ,その科学史の業績の調査を通して科学の歴史そのものも知ることになるわけだから,もちろん科学の歴史の専門家である。そういった意味において,第1章,第2章の内容は,欧米には日本のように文系と理系の明確な区分はなかった,とか日本での特殊な事情で文系と理系が教育の領域で過度に区分されるようになった,とか簡単に概観できるような単線的な歴史ではなく,本書の読書を通した私でもその内容を簡潔に説明することはできない。ただ,ここで重要なのは,ヴィンデルバントという人が提唱した個性記述的と法則定立的という区分であろう(p.69)。これは英語圏の地理学においても1950年代に議論されたもので,地理学も法則定立的な科学であるべきだということで,大量なデータを扱う計量地理学なるものが生まれた。
ただ,私自身高校では理系を自負していて,大学も理学部で合格している。ただ,入学して理学部の授業についていけず,本来なら転部などで文系の学部に移るようなものだが,地理学科には文系の研究室としての人文地理学教室があった,という次第である。しかし,大学に入ってみれば,文系と理系という区分が幻想だということは多くのものが気付くと思う。日本の中等教育まででは,国語や英語が得意か,数学が得意か,ということで文系か理系が決まるといってもいい。しかし,文系学部に含まれる経済学部や心理学部の一部では数学や統計学の知識が必要だし,大学の数学なんてほとんど哲学あと思うほど抽象的な思考が要求される。一方で,(こんな言い方は失礼だが)自然地理学なんて数学はおろか物理学の高度な知識も必要としない。工学に至ってはもちろん物理学や化学の基礎的な知識があるべきだとは思うが,どっぷり人間社会の話だったりもする。都市計画なんて分野はとても理系とはいえない。
そういう意味では,科学史を専門とする著者ではあるが,多くの読者にとって関心があるのは第3章以降ではないだろうか。今日でも,文系と理系に分かれる大学の学部において,どちらを卒業した方が就職に有利かなんて話が話題になる。また,第4章で興味深いのは,学部卒と大学院(修士課程か博士課程か)卒の就職に対する関りについても論じていることだ。こうしたことは時代によっても変化するものであり,その辺りの日本の産業界そのものの変容についても説明されている。第5章はこちらも大学の進学率,文系学部と理系学部の在籍率などの男女差に関する有益な情報が詰まっている。科学史というおそらく圧倒的に男性で占められる分野で,そして大学教員として学生の男女差を日々観察するなかで,女性研究者として長らく過ごしてきた著者自身の問題関心が反映されているものと思われる。法律の改定という場面で声を上げる大学人の多くは,すでに定年退職をしていて,社会的にも発言力を持つ名誉教授のような立場の人が多いが,恐らく私と同じ世代で,まだまだ大学でバリバリに研究していると思われる著者がこうして声を上げているのは,本書で書かれているような問題意識を持ってきたからだろうと想像される。
科学史とはもちろん過去のことではあるのだが,それは人類の知識のあり方が自然状態で歴史的に推移してきたわけだはなく,さまざまな社会制度の下で制約を受けてきたり,要請があったりしてきた,ということが本書の前半で理解できる。それはもちろん現代でも然りであり,そうした社会的な制約の下で,科学者は再生産される。特に,現代日本社会においては,本書で論じられたように,ある意味無意味な文系・理系という区分と,これから変えていかなければならない男性・女性の区分という組み合わせによって職業の選択が制限されたり,研究者に進む道に制限がかかったり,また研究費の配分が決められたりするということに対しては,強く訴えていかなければならない。そういうことを考えさせられる読書だった。

|

« 【読書日記】松田青子『持続可能な魂の利用』 | トップページ | 師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 【読書日記】松田青子『持続可能な魂の利用』 | トップページ | 師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』 »