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2024年4月

【読書日記】赤旗編集局編『日韓の歴史をたどる』

赤旗編集局編(2021):『日韓の歴史をたどる――支配と抑圧,朝鮮蔑視観の実相』新日本出版社,140p.1,690円.

 

最近,私が所属する支部に新入党員が加わった。その人に入党祝いということで『日本共産党の百年』をプレゼントすることになったそうだ。私が入党したのは2022年の10月だったが,「そういえば成瀬さんの時はコロナだったこともあって差し上げていませんでしたね。」ということで,「『日本共産党の百年』要ります?」ときかれた。私はタブロイド版をもらっていたので,「だったら同じような値段で別の本がいいです。」ということで,自ら新日本出版社(日本共産党関連の書籍を扱う出版社)のサイトで見つけ出したのが本書。
赤旗編集局による編集だということは知っていたが,実際に手にしてみると,本書は2019416日から2021113日まで『しんぶん赤旗』の文化面の32回シリーズ「日韓の歴史をたどる」を一冊にまとめていたものだということを知る。この期間はまだ私は日刊紙を購読していなかったし,ちょうどよい。執筆者の所属も以下の目次では示したが,やはり大学の名誉教授(要は,定年退職されて比較的時間に余裕がある方)が多いが,現役の教員もいて,なかには1980年代の生まれもいる。大学教員だけでなく,在野の研究者や名前だけしか分からないが,在日の方,あるいは韓国人も名を連ねている。新聞の記事ということで,その多くが4ページで写真や図版も含んでいて読みやすい。もちろん,説明が十分ではないという印象の残る文章も多いが,その辺りは新聞の編集者とのやり取りの中で,読者層を想定して,これだけ著者の多様性があるにもかかわらず,一定の知的レベルで揃えられているのはさすが新聞の編集という感じがする。

はじめに
I
 侵略の始まりと日清戦争
江華島事件 計画的な武力挑発,朝鮮侵略の一歩(吉野 誠:東海大学名誉教授)
日清戦争 農民反乱を機に朝鮮制覇目指す(中塚 明:奈良女子大学名誉教授)
東学農民戦争 日本軍の住民虐殺の始まり(井上勝生:北海道大学名誉教授)
東学農民軍の遺骨 掘り起こされた農民革命(井上勝生)
王后殺害事件 国権回復恐れ精力狙った日本(金 文子:朝鮮史研究者)
II
 日露戦争と「韓国併合」
日露戦争 韓国の中立宣言を軍事力で圧殺(金 文子)
保護国化 内政に介入,外交権も奪う(糟谷憲一:一橋大学名誉教授)
「第1次日韓協約締結の記念写真」の誤りについて 『図説国民の歴史』のミス引き継ぐ(金 文子)
「韓国併合」“百年の長計”「帝国版図」に(糟谷憲一)
武断政治 政治的権利奪い憲兵が日常支配(糟谷憲一)
III
 独立求める朝鮮人民のたたかい
義兵戦争 全土蜂起を虐殺・焼き払う(愼 蒼宇:法政大学教授)
朝鮮蔑視観の形成 「文明と野蛮」日清戦争で決定的に(趙 景達:歴史研究者)
三・一独立運動 全土に拡大,200万人が参加(李 省展:恵泉女学園大学名誉教授)
IV
 「同化政策」と収奪の強化
「文化政治」 民族運動抑えつつ同化図る(松田利彦:国際日本文化研究センター教授)
土地の収奪 強引な国有化で強力な地主制(洪 昌極:日本学術振興会特別研究員PD
米の収奪 日本社会の矛盾を朝鮮に転嫁(洪 昌極)
関東大震災 虐殺招いた朝鮮蔑視と敵視(加藤直樹:ジャーナリスト)
「併合」下の教育 被支配は必然と教科書で説く(佐藤広美:東京家政学院大学教授)
満州侵略と朝鮮 軍事拠点化で地域を破壊(加藤圭木:一橋大学准教授)
労働者移動紹介事業 戦時下の強制労働動員の原型(加藤圭木)
V
 「皇民化政策」がもたらしたこと
「皇民化政策」 権利なき「帝国臣民」(水野直樹:京都大学名誉教授)
植民地公娼性 日本軍「慰安婦」制度に結びつく(宋 連玉:青山学院大学名誉教授)
朝鮮人「慰安婦」 動員は植民地支配が可能にした(藤永 壯:大阪産業大学教授)
創氏改名 天皇への忠誠迫りながら差別維持(水野直樹)
米の供出 窮迫した農民が内外へ流浪(樋口雄一:朝鮮史研究者)
強制労働動員 武力を背景にまともに賃金払わず(樋口雄一)
VI
 戦争協力への抵抗
民衆の抵抗 「白い旗」を掲げたままに(樋口雄一)
朝鮮人学徒兵 玉砂利投げて抵抗,脱走も(秋岡あや:韓国 水原外国語高校教師)
光復運動 “時局”に背,怠業で抵抗した民衆(趙 景達)
VII
 植民地支配責任を問う
在日朝鮮人 帰還後の生活難を恐れ,とどまる(鄭 栄桓:明治学院大学教授)
在日朝鮮人の権利 治安乱す存在とみて登録・管理(鄭 栄桓)
植民地支配責任 戦後処理から抜け落ちたもの(板垣竜太:同志社大学教授)
「反日種族主義」に見る韓国 日韓合作の歴史修正主義(鄭 栄桓)

本書の内容はもちろん,歴史の教科書には項目として登場するものが多いのだが,そもそも高校までの歴史の授業をしっかりと身につけてこなかった私にとってはまさに必要なものだった。以前,YouTubeで今日の悪化した日韓関係を田中優子氏が解説するものを視聴し,そのなかで江戸研究者である田中氏が強調していたのは江戸以前の日本の朝鮮半島との長い関係史を理解しないと,日清戦争,日露戦争を経た朝鮮半島併合の歴史的意味を理解できないというものではあった。ただ,本書ではそこまで遡ることはなく,江華島事件から始まる。新聞のシリーズ記事ということもあり,時系列に沿って解説されていることも嬉しい。
本書を読むと,本当に日本国籍を有する者として耐え難い罪の意識を感じる。私は民族性とか国民性というものは信じないが,国民として過去のその国の政府の悪事に対する責任は残ると考えている。なので,これだけ酷いことをした日本人の血を私も受け継いでいるとか,今の政府も同じとか,そういう言い方はしない。しかし,やはりかつての日本政府の,そして多くの日本兵の残虐さには恐ろしいものを感じるし,同じように現在の日本政府の人権軽視には同じ残忍さを感じるし,また自衛隊には今のところあまり感じないが,警察の残忍さ現在でも垣間見る場面がある。同じようなことはアメリカ連邦政府や米軍兵にも感じるので,やはり国民性や民族性の問題ではなく,立場性の問題という理解ができるかもしれない。国際政治におけるその国家の立場,その国家の在り方を決める政府の立場,政府の在り方における軍隊の立場。そういう意味でも,日清戦争から太平洋戦争に至るまでの日本,政府,軍隊の立場のあり方を今一度反省し,今現在がそれに近い状態になっていることを認識する必要がある。現政権がそのことを反省していないのであれば,政権を変えるべきだし,変わった政権が同じような立場を獲得する兆しがあれば,それもまた変えていかなくてはいけない。
それはそれとして,本書の読書は江華島事件から太平洋戦争に至る時代の流れが,それまでは事件の名称としか知らなかったことや,ほとんど知らなかった事実が時代の流れをつないでいったということをしっかりと理解させてくれるものだった。特に,朝鮮半島住民側の動きとして,東学農民戦争や三・一独立運動,「光復運動」とされている新興宗教など知らないことも多かった。それから,これは最近知ったことだったが,日本統治下の朝鮮半島における農民と土地の問題である。まさに,ユダヤ人がパレスチナの土地に入植地を増やし,イスラエル国土としていったように,方法は違えど朝鮮人の土地を奪いそこで稲作をさせ,収穫された米を日本に奪っていくというやり方で,朝鮮人の生活を奪っていった。戦局が進むにつれて,日本では主たる働き手が兵士として奪われるなかで今でいうところの国土強靭化が必要とされ,そのための労働力として朝鮮半島から強制連行してくるという流れも,本書の各章による説明でよく理解できる。本書では記述はそれほど多くはないが,従軍慰安婦の問題も同じような流れで理解できよう。朝鮮半島での日本の植民地政策への抵抗を抑圧するという目的だけでなく,朝鮮半島で植民政府が行った教育や文化政策についてもしっかり説明されている。
そして,本書を読んで何よりも驚いたのが,日本での嫌韓を生み出した歴史修正主義が,日本単独の運動ではなく,韓国自体がそこに加担していた(もちろん,政府がではなく市民的な運動のようだが)ということだ。韓国も建国以降,軍事政権から民主化を経て経済成長へという日本以上に激しい変容のなかで,市民の側もさまざまな形で政府の動向に反応していったということだろう。そして,この歴史修正主義の流れとして,現時点に至るまでの流れを整理していて,日韓関係の1世紀以上にわたる歴史が本書でコンパクトに理解できる。

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【読書日記】カント『自然地理学』(岩波書店)

カント, I.著,宮島光志訳(2001):『カント全集16 自然地理学』岩波書,497+72p.

 

今期から始まったとある大学の授業「地理学概論」では,教職免許取得のために必要な単位ということで,人文地理に偏った授業内容にならないように指示されている。ということで,前期は地理学史的な話で自然地理学を含むようなものを考えている。近代地理学の話はフンボルトから話すつもりだが,前近代の代表として,カントの『自然地理学』を取り上げようと考えた。カントの地理学に関しては,メイ『カントと地理学』を参考にすればよいが,一度現物もさらっと見ておきたいと思い,大学図書館で借りてみた。読み始めるとけっこう面白く,分厚い本ではあったが,一週間ほどで読み終えた。

第一巻
 編者の序
 自然地誌 序論
 数学的予備概念
自然地理学序説
 第一部
  第一編 水について
  第二編 陸について
  第三編 大気圏
  第四編 地球がかつて被り,いまでも被っている大変動の話
  付録 航海について
第二巻
 第二部 地球上に分布するものに関する個別的な観察
  第一編 人間について
  第二編 動物界
   第一章 有蹄動物
   第二章 有趾動物
   第三章 鰭脚動物
   第四章 卵生四足動物
   第五章 〔海棲どうっ物と魚介類〕
   第六章 何種類かの注目すべき昆虫
   第七章 その他の地を這う動物について
   第八章 鳥類
  第三編 植物界
  第四編 鉱物界
   第一章 金属
   第二章 塩類について
   第三章 石類について
   第四章 土について
   第五章 化石について
   第六章 鉱物の起源について
 第三部 世界各地の自然的特徴に関する地理学的概括
   第一の大陸 アジア
   第二の大陸 アフリカ
   第三の大陸 ヨーロッパ
   第四の大陸 アメリカ
やはりこういうのは,読むのと読まないのとは大きく違う。メイ『カントと地理学』もある程度読み直さなくてはいけないが,以前読んだ記憶としては,その本はそこにも収録されている「『自然地理学』序論」というカント自身による文章を深く考察するもので,学生の講義ノートから構成された『自然地理学』そのものの内容については特に検討されていない。一般的にはカントが長らく大学で教えていたという『自然地理学』はやはり前近代的な地理学,すなわち個性記述的な地誌学の性質の色濃いものだとされていた。実際,目次に書いた第三部の内容はまさに地誌学的なもので,しかも「自然地理学」の名にふさわしくはない,人文地理学の内容も含むものであった。
また,カントはゲッチンゲン大学に長らく勤め,その間は毎日規則正しい生活を送り,旅行などをする人間ではなかったといわれている。それこそ,カントがある角を曲がるのを見て,街の人は時間を把握したという逸話があるという。ともかく,カントの講義内容は自らが観察した経験に基づくものではなく,多くの書籍から得た知識を整理したものだといわれていた。ということで,とりあえず本書の巻末にある人名・文献索引のなかから,地理学・地誌学に関するものを以下に列挙した。カントの地理学講義がワレニウスの影響下にあることはよく指摘されているが,フンボルトとも交流のあったフォルスターが本書に出てくるのは少し驚いた。なお,フンボルトの名前も登場する。イドリーシーという名は佐藤次高『イスラーム世界の興隆』で出てきたような記憶があるが,アラブ系の地理学者も登場するとは。
アンヴィル(仏,1697-1782)『古代および中世の地誌学』,イドリーシー(1099-1164):モロッコ生まれのアラブ系地理学者,ヴァルヒ『数理地理学紹介』(独,1794年),ウッドワード(英,1665-1728)『地球の自然史について』,ガスパリ(独,1752-1830)『一般地理学天文暦』,ガッテラー(独,1727-99)『地理学概説』,ゲオルギー(独,1738-1802)『ロシア帝国の自然史的,自然学的,および地理学的記述』,ケストナー(独,1719-1800)『数理地理学詳説・続編』,シャルバンティエ(独,1728-1805)『クーアザクセン地方の鉱物地理学』,ツィンマーマン(独,1743-1815)『地理学的動物誌』,ハルトマン(独,1764-1827)『アフリカの地誌と歴史』,ビュッシング(独,1724-93)『新しい地誌』,ファブリ(独,1755-1825)『地誌学』,フォルスター(独,1729-98)『自然地誌学など諸対象に関する覚書』,ブルンス(独,?-1814)『アフリカの地誌』,マンテル(仏,1730-1851)『比較地誌学』,マンネルト(独,1788-1851)『ギリシア人およびローマ人の地理学』,ミッターパッハー(独,1734-1814)『自然学的地誌学』,モロー(伊)『大地の変動に関する諸研究』(1740),ワレニウス(蘭,1622-50)『一般地理学』。
さて,目次を見て分かるように,第一部は今日でいうところの「地球科学」とでもいうべき内容。第二部は博物誌になっている。博物誌に関しては本書でもビュフォンの名前が出てくるが,ビュフォンの『一般と個別の博物誌』でも,鉱物や化石,地球科学的な内容(大陸の形状や地質)も含んでいる。少しわき道にそれるが,私は大学院に入って地理学史に興味を持ち始めた。そこでいう地理学史は当然のようにヨーロッパの地理学なわけだが,19世紀,18世紀と時代を遡るにつれてその時代のことが分からなくてはならなくなって,とりあえずその時代の名前を知っている学者の著作を読もうと思って,カントやヘーゲルもその対象になったが,分厚い哲学書を読む気にはならず,いずれも初期の薄い本を読んでみた。カントについては『地震の原因他五編』(2000年,内田老鶴圃),ヘーゲルに関しては『惑星軌道論』(法政大学出版局,1991年)を読んだ。カントはそこに収録された論文で,地震の原因の他,地球の老化について,風の理論なども含んでいた。つまり,『自然地理学』第一部に含まれているような内容は自ら初期の論文として議論していたものだった。そう考えると,この時代に「地球科学」という分野の名称はなく,天文学はあったし,地質学もそろそろ出てくるとは思うが,地球科学的な分野を「自然地理学」に含めるのは無理なものではないように思う。
そもそも,カントは「自然地誌 序論」(これはメイ『カントと地理学』に収録された「『自然地理学』序論」と同じもの)で,世界の知識の二部門を人間学と自然地理学としているので,自然地理学とは人間学=形而上学としての(第一)哲学以外のもの,すなわち形而下学ともいえるようなもの,現代でいうところの前者が人文・社会科学で後者が自然科学と大まかな区分にも対応するともいえるかもしれない。とはいえ,私は「カント全集」収録のものを全て確認したわけではないので,カントの学問体系がどのようなものかは分からないのだが。
まあ,いずれにせよ第一部と第二部は自然科学全般について整理され,第二部はまさに地誌学的な内容である。しかも,自然地誌学的なものではなく,人文地誌学(現代において地誌学に自然と人文の区別はあまりしないが)をも含むものである。自然物を記載する場合にも人間にとってどのようなものであるのかということが強く意識されているといえる。なお,子の頃までの地理学的な知を示す言葉には,英語として地理学geographyと地誌学chorography,そして地勢学topographyがある。ドイツ語では地理学Geographieだが,この訳書で地誌学とされているのはErdbeschreibung。またそれとは別にErdkundeという語もあるが(現代の雑誌名にもなっている),これにも地誌学の訳語が充てられている。その後,ドイツの地理学ではChorographieTopographieに関する議論も出てくるので,その辺も後々調べたい。なお,ドイツ語でErdeが土地を意味し,Kundeは学を意味するそうだ。なので,Erdkundeは地理学でもよい。Beschreibungは気記述するという意味だから,Erdbeschreibungはまさにgeographyと対応する。そうなると,Erdkundeは地質学geologyか?

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【読書日記】千田 稔『天平の僧 行基』

千田 稔(1994):『天平の僧 行基――異能僧をめぐる土地と人々』中央公論社,218p.720円.

 

著者である千田 稔さんは長らく奈良女子大学で教鞭を取った歴史地理学者。私は2001年に翻訳が出版された『風景の図像学』に2章分翻訳担当をしたが,監訳者が千田さんと当時お茶の水女子大学にいた内田忠賢さんだったということで,少し関りがあった。その後,2003年に千田さんが出版された『地名の巨人 吉田東伍』をお送りいただいたこともあった。千田さんは歴史地理学者だが,多方面に関心を持っていて,『風景の図像学』は歴史研究の多い論集だが,英国のものを訳しているし,1981年には『地図のかなたに』という翻訳論集を出していて,ハーヴェイやトゥアン,バッティマーなど重要な論文を,奈良女子大学の学生・院生に翻訳させて出版している。福武書店から1991年に出ている『うずまきは語る』という本も学生のころ読んで,非常に面白かった。
行基という僧侶の名前すら私は知らなかったが,本書の冒頭で聖徳太子や空海と比較しているほどの偉人らしい。とはいえ,歴史の授業でも重点が置かれていないようだ。私がその存在を知ったのは,私と同世代の歴史地理学者である上杉和央さんの『地図から読む江戸時代』(ちくま新書,2015年)の前半で登場したからである。日本で古くから書かれていた日本図(日本全体を描いた地図のようなもの)が「行基式日本図」と呼ばれているそうだ。しかし,実際にそうした地図が行基が描いたものがオリジナルというわけではなく,行基が生きた時代は668-749年の奈良時代の前半だが,中世前期に出された『行基菩薩記』という資料に記された物語で生まれたものであり,行基が各地を遍歴したというところから地図と結びつけられたようだ。そんな時に古書店で見つけた本書。なんと,地理学者がすでに行基について書いているではないか!ということで,購入した次第。

はじめに
I
 菅原寺――行基入滅
II
 家原寺のあたり――行基の原風景
III
 飛鳥へ――出家と修行
IV
 禁圧の風景――行基は呪術者だったか
V
 都鄙周遊――道・水路・橋
VI
 池溝開発と四十九院――したたかな宗教者
VII
 遷都と大仏建立――異能の人
おわりに
参考文献

しかし,日本史が基本的に苦手で,日本の地理学の文献もいろいろ読みはするが,近代より前の時代を対象とする歴史地理学研究についてはなかなか読むことができない。そういう私にとっては本書は難しすぎた。といいつつ,本書は難解なわけではなく,非常に地味で地道な検証をした本である。つまり,行基という人物がどういう人物なのか,現代の感覚で物語的な人物像を提供する本ではない。行基に関する史料を地理的観点から(それがどこなのか)明らかにしたものである。行基の足跡を地図上で同定するということだけでなく,行基と関わりのあった施設と人物について明らかにしていく本である。VI章までは出家と修行,「行基は呪術者だたか」などと行基自身の各時代の様子も説明されているような印象だが,読後の印象では結局行基が何をして,どういう人物なのかは前半からは分からなかった。
ようやく面白くなってきたのはV章からである。本書には地図も多く掲載されているが,関西地方に土地勘がなく,また歴史地理的に重要な知識も少ない私にはあまり多くの情報を与えてくれない。行基は宗教者なのだが,さまざまな場所で住民の便をはかるような多くの土木工事をてがけていたのだという。そして,それは単なる土木事業ではなく社会事業も含まれるという。例えば,橋を架ける事業については,河川の氾濫などで悩まされている住民への救済も含まれているという。また,境界という「場」の問題を議論しているのは千田さんらしい。連続的に土地利用が続く現代とは違い,当時はスケールの小さな地域で中心性と周縁性を帯びた違いがあり,周縁部には社会階層の最底辺の人びとが居住していた。行基はそうした人たちに手を差し伸べようとするものだったようである。しかし,その一方でその土木作業については,「ここでも彼らが行基の土木事業の具体的な担い手であり,渡来人の社会集団の高度な技術を駆使していたと思われる。」(p.124)という記述が私にとっては驚くべきことだった。というのも,ここ最近,日本が第二次世界大戦中,植民地にしていた朝鮮半島から連れてきた労働者を日本各地のインフラ整備の工事に従事させていたということに関心を持っていたからである。本書には「行基の父方,母方もまた,朝鮮半島からの渡来氏族につながる」(p.34)とも書かれている。
最後になるが,本書の副題に行基を「異能僧」としており,IV章に「禁圧」ともあるが,その辺りはあまり理解できていない。行基のどのような行為が禁圧の理由だったのか,そしてその後V章にあるような住民目線の活動が評価されて評価を高めていき,周縁でやっていた事業をその評価の下で中央でもやるようになったということだが,まだまだ理解が足りない。

 

 

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【読書日記】藤原辰史編『第一次世界大戦を考える』

藤原辰史編(2016):『第一次世界大戦を考える』共和国,269p.2,000円.

 

ちょっと前から気になっていた出版社「共和国」。この出版社の本としてはじめに買おうと思っていたものはあったけど,たまたま本書を古書店で発見し,購入した。ちょっと変則的な版でデザインは抜群。以前ここでも紹介した『大東亜共栄圏の文化建設』で初めて読んだ藤原辰史だが,今回は編者ということで,間違いなく面白い予感。第一次世界大戦についてとりあえず少しでも知識をつけたいと思っていたが,本書では日本における第一次世界大戦研究はやはり多くはないらしい。
本書は京都大学人文科学研究所の共同研究班「第一次世界大戦の総合的研究」の研究成果の一部とのこと。ただ,目次からも分かるように,多くの文章が3ページ程度で多くても10ページ以内。『図書新聞』に掲載されたエッセイが多い。どれも非常に重要な論考だが,学術論文ではないので参考文献などもなく,さらなる学びにつなぎにくいところは一つの難点。目次を書き始めて,著者に男性が多いという印象も受けたが,それは前半男性が続いただけで,女性の著者もそこそこ多いようだ。なお,表表紙に記された言葉が魅力的なので,転載しておきたい。まずは「「現代」はここからはじまった!」というキャッチコピー的な言葉。そして,少し長い説明文。「「平和のための戦争」を大義名分にかかげ,毒ガス,戦車,戦闘機などの近代兵器とともに総力戦を繰りひろげた第一次世界大戦(1914-18)は,まさに「人類の終末」としての「現代のはじまり」を告げるものだった!のべ60余名の執筆者が多彩なテーマで語りつくす,大戦のハンディな小百科。」

はじめに:藤原辰史
第一部 大戦を考えるための十二のキーワード
[音楽]新世界の潮流:岡田暁生
[食]人間の生存条件を攻撃する「糧食戦」:藤原辰史
[徴兵制]人間の質より量を問題に:小関 隆
[書く]経験から発する言葉が「証言」に:久保昭博
[ロシア革命]世界を変革した社会主義の「実験」:王寺賢太
[技術]電信と電波で一つになる世界:瀬戸口明久
[文明]非暴力で不服従を貫くガンディー:田辺明生
[中国]国際社会に賭けた期待と失望:小野寺史郎
[ナショナリズム]民族自決のうねりと新たな火種:野村真理
[帝国主義]植民地再分割へ戦火拡大:平野千果子
[アメリカ]「民主主義の戦争」の矛盾:中野耕太郎
[民主主義]正解のない永続的追究課題:山室信一
第二部 大戦の波紋
 世界性・総体性・持続性:山室信一
美の振動
 大戦末期ウィーンの「歴史的演奏会」:伊藤信宏
 二つのレクイエム:小関 隆
 恤兵美術展覧会:高階絵里加
 人と馬:石田美紀
 映画史と第一次大戦:小川佐和子
 カモフラージュとモダン・アート:河本真理
 古典主義と出会う前衛:久保昭博
 西洋音楽史の大きな切れ目:岡田暁生
刻まれた傷跡
 南仏の観光地フレジュス:平野千果子
 フランダースの赤いポピー:津田博司
 ソンムと英仏海峡のあいだ:堀内隆行
 ジャン・ノルトン・クリュ『証言者たち』: 小黒昌文
 アルザスの傷:中本真生子
 戦争記念碑:北村陽子
 イスタンブールの英軍基地:伊藤順二
 『銀の杯』:小関 隆
 反戦の女:立木康介
 アメリカの総力戦と反戦:中野耕太郎
 戦間期を生きた哲学者の問い:田中祐理子
 私的な戦争体験と歴史の断絶:酒井朋子
地球規模の戦争
 オーストリア=ハンガリーの天津租界:大津留 厚
 日本の文化財保護:髙木博志
 東南アジアから:早瀬晋三
 日中の大戦認識の相違点と共通点:小野寺史郎
 異教のインド人:石井美保
 紙の嵐:ヤン・シュミット
 日本人抑留者の手記:奈良岡聰智
 朝鮮の独立運動家,成楽馨:小野容照
欧州の深淵で
 国債と公共精神:坂本優一郎
 女が大戦を語るとき:林田敏子
 ナイチンゲールの天使イメージ:荒木映子
 社会的アウトサイダーとしてのドイツ自然療法運動:服部 伸
 「西洋の没落」から「西洋の救済」へ:板橋拓己
 チェコスロヴァキア軍団:林 忠行
 幻のウィルソン・シティー:福田 宏
 二つの帝国崩壊と国籍問題:野村真理
遺産の重み
 セーブ・ザ・チルドレンの誕生:金澤周作
 アメリカ海軍の未来構想:布施将夫
 アトラントローパ!:遠藤 乾
 ロシア十月革命の衝撃:王寺賢太
 国家イスラエルは「ユダヤ人国家」を名乗りうるか:向井直己
 グローカルなインド民族運動:田辺明生
第三部 いま,大戦をどうとらえるか
 開戦百周年の夏に:小関 隆
 ベルギーの国際シンポジウムに参加して:藤原辰史
 誰が歴史を描くのか:鈴木健雄
 反時代的・反同時代的考察:神尾真道
 経験の断絶:藤井俊之
 カピトリーノの丘で第一次大戦を想う:岡田暁生
 見えるものと見えないもの:藤本淳生
空腹と言葉 あとがきにかえて:藤原辰史
第一次世界大戦 略年表

上で書いたように,私は第一次世界大戦の本など対して読んでいないので,一般的なものと比較はできないが,本書は私が抱く印象とは違った性格を持ったものだとはいえるかもしれない。まずは,戦争を題材にしているが,文化の次元に焦点を合わせているものが多いことだ。特に印象に残っているのは,複数のエッセイで書かれているのだが,いわゆるクラシック音楽は第一次世界大戦を機に消滅したということ。もちろん音楽だけでなく,映画,美術,文化財など多岐にわたる。
また,第一次世界大戦といえば,世界大戦と称された初めての戦争ではあるが,主戦場はやはりヨーロッパだった。ただ,本書ではグローバルな視点で,第一次世界大戦の影響を受けたヨーロッパ以外の地域を意識的に取り上げている。中国,アメリカという大国は前半のキーワードとして取り上げられ,「地球規模の戦争」として取り上げられるのは日本や朝鮮があるが,印象深いのはインドだった。また,当然のことながら大戦中に社会主義革命を起こしたロシアの理解は欠かせない。そして,個人的に印象深かったのは,ナイチンゲールに関するエッセイが一つ。これまでは,従軍の看護師はそれこそ変な言い方をすれば慰安婦にも近いような必要でありながらきつい仕事で誰もやりたがならないような存在だったが,ナイチンゲールがそれを聖的なものに引揚げたという話。二つ目は米国のウィルソン大統領が大戦中の1918年に発した民族自決を含む十四か条の平和原則の各国への影響に関するエッセイであった。1918年に建国されたチェコスロヴァキアでは,ウィルソンの名前を冠した「ウィルソノフ」という都市名を画策していたという。最後に「セーブ・ザ・チルドレンの誕生」というエッセイも興味深く,まさに戦時期の希望を感じるものだった。敵味方を越えて負傷者を救うというただ一つの思いから設立された組織で,それが現在まで続くという。
ともかく,学びは限りなく続く。

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【映画日記】『彼方のうた』『ひとつの歌』『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』

2024年413日(日)

下高井戸シネマ 『彼方のうた』
私の研究者仲間の知人が映画監督だということで,ある時雑談的にその監督の作品の話をしてくれた。タイトルには何となく聞き覚えがあったものの,ウェブで見るのと声でタイトルを聞くのと印象が違い,私の知らない映画作品の話をしているのだと思っていた。しかし,その監督が一貫して『○○のうた』という作品を撮っているという話を聞いて,「ひょっとして『春原さんのうた』の監督ですか?」と聞いたら,そうだった。『春原さんのうた』も結局観なかったのだが,私がたまに行く分倍河原のマルジナリア書店で大々的に宣伝していたので作品の存在は知っていた。そんな杉田協士監督の作品が下北沢で一週間特集上映されるというので,観に行った。
その研究者仲間は一般受けのしない作風といっていたが,この日続けて2本の作品を観て,杉田監督の作品が一般受けはしない理由は二つあると感じた。この2作品(もう一作は『ひとつの歌』)に共通するのは主人公がストーカー的行為をするということ。もう一つは作品自体が作中で起きている出来事を語りすぎないこと。ここでは,陳腐な批評だが,この作品のストーリーを私なりに解釈して再現したい。小川あん演じる主人公は中学生の頃鉄道で痴漢にあった。その犯人とはホーム上で顔を合わせていて覚えていた。大人になった現時点で,眞島秀和演じるその犯人を見つけ,尾行して自宅まで突き止めている。その先の経緯は分からないが,その男が今度は主人公が勤める書店(撮影場所がマルジナリア書店で,店主の小林えみさんも本人役で登場する)を訪れる。その後,改めて場所を移動して,今度は聖蹟桜ヶ丘のキノコヤというお店で二人でビールを飲みながら話をする。このキノコヤを主人公が初めて訪れた時は,駅前で中村優子演じる女性にお店の場所が分からないといって連れて行ってもらう。残念ながらその時にキノコヤはお休みで,ランチを食べそこなった主人公はその女性の自宅にお邪魔してオムレツをごちそうになる。なお,このキノコヤの存在も私は知っていて,入ったことはないが,その隣のおにぎりカフェ「くさびや」には何度か食べに行ったことがある。なお,キノコヤも映画の上映会をするようなお店で,『春原さんのうた』のチラシは貼ってあったような記憶がある。
なお,主人公とオムレツの女性はそれからもたびたびこの女性の自宅でランチをする仲となる。また,眞島演じる男性の自宅も訪れ,その娘の脚本を主人公が読み,映画を撮影することとなる。
杉田監督の作品はストーカー的な執念さで関係性をもった二人が良い関係になるという意味において現実離れしている。また,作中の出来事を詳しくは説明しないことによって,その不自然なことを曖昧にすることができる。それはある意味で映像表現である映画特有の表現を優先しているものともいえる。また,杉田作品に特有なものの一つに長回しのシーンの多さもあるかもしれない。その不自然な形で親密になった二人の人物が言葉も交わさずに一緒にいる時間をそのまま映像として記録するのだ。そして,恐らく彼の作品にはスマートフォンの登場が極端に少ないように思う。かつては頻繁にあった二人の人間が同じ空間を共有する時の沈黙という間の悪さというか,それをそのまま表現している。携帯電話でウェブ閲覧などができるようになったばかりの時代は,近しい人と一緒にいる時間に片方の人が携帯電話を開いて見るという行為には一種のためらいがあったと思うが,今日はほとんどないといえる。すでに失われてしまった二人の人間観のかつてあった関係性を杉田氏の映画は記録に留めようとしているといえるかもしれない。
なお,上映後に監督と主演の小川あんさんの舞台挨拶があった。続いて上映された『ひとつの歌』の30分ほどの舞台挨拶に比べて,この時は5分程度のもので,2人ともほとんど話はできなかったが,会場からはなかなか鋭いディープな質問があり,続いて鑑賞することになった作品の理解をより良いものにしたと思う。個人的な印象ではあるが,主役の小川あんさんは顔が整いすぎていて,そこも現実離れした印象を受ける作品ではあった。
https://kanatanouta.com/

 

下高井戸シネマ 『ひとつの歌』
引き続き,2011年に制作された杉田監督の長編第一作を観た。こちらもある意味でのストーカー映画。主人公は聖蹟桜ヶ丘からバイクで東村山駅まで通い,駅のホームでポラロイドカメラを使って気になる乗客の写真を勝手にとっている。ある日,ホーム上で読書をする女性を撮影した後,駅から出ようとした時にホーム上での事故(電車による人身事故)のようなものを目撃する。すると,ホーム上でやはり写真を撮っていた,少し不審な行動をしていた男性が駅から急いで離れていく様子をみかけ,主人公はその男を尾行する。最終的には住宅地でその男と目があうシーンで一旦は終わる。その後,同じように主人公が東村山駅で撮影する人を物色していると黒ずくめの憔悴した女性がいて,気になって電車で追いかけると吉祥寺で降りて自宅に帰っていった。主人公はその女性の自宅をつきとめて引き返す。それから何度か吉祥寺に足を運び,どうやらその女性の職場(小さな写真館)を見つけ,自らのポラロイドで使用するフイルムの在庫はないかと話しかける。そこから,この写真感が開催する撮影会に参加することを通じて,その女性と仲良くなる。ついに彼女の自宅を訪れる機会があったのだが,彼女が意気消沈していたのは,母親を亡くしたのが原因で,その母親とは主人公がホームで撮影した女性であり,恐らくホームでの人身事故で亡くなったのだ。そして,その事故には主人公がその後尾行した男性が関わっていて,その男は逮捕されたのかもしれない。別の日に主人公がその男を尾行してたどり着いた住宅を再び訪れ,母娘が暮らす住宅に入り込むのだ。この家の主がその男で今は逮捕されて不在なのかもしれない。
こんな具合に,説明の少ない作品ではあるが,鑑賞者が想像力で補うことによってつじつまの合うストーリーを想定することもできる。しかし,やはりこの作品でもストーカー的行為によって出会った人物同士が仲良くなり,またそのことは悪意を持ったストーカーではなく,善意のもの,すなわちこの人と仲良くなりたいという誰でも抱く素朴な欲望,そしてほとんどの人がそれを現実世界では実現しようとはしない欲望がフィクショナルな物語世界のなかで実現される,そういうところに魅力を感じないでもない。
この回の終了後には,杉田作品を支えている撮影監督の飯岡幸子さんとのトークショーがあった。私はこの人のことを知らなかったが,自身もドキュメンタリー作品の監督を務めるなど,この日の話を聞いただけでも優れた映像作家であることが分かった。フロアからも同業者からの発言などもあり,非常に充実したトークショーだった。この日記の冒頭で,杉田監督作品は一般受けしないといったが(多くの作品がポレポレ東中野で上映されている),それはあくまでも一般的な観衆であり,この日下高井戸シネマに集まった多くの映画ファンを含めて,かなりディープに映画を愛する人には評価される作品を撮る監督だと思う。
http://www.boid-newcinema.com/hitotsunouta/staffcast.html

2024年414日(日)

立川シネマシティ 『名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)』
今年も娘と名探偵コナン映画を観に行きました。予約を取ろうと思ってTOHOシネマズのサイトを見ると,1日に複数のスクリーンで20回ほど上映していて驚く。といいつつ,息子も同じ映画館の別のスクリーンで別の映画を観てもらうことにして立川まで行った。今回の映画は函館が舞台。子ども向け作品でありながら,もちろん大人の鑑賞者もいて,上映時間も2時間近くあるが,飽きさせずに十分楽しめる。次回作も楽しみにしたい。
https://www.conan-movie.jp/2024/

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【読書日記】安保破棄中央実行委員会監修『辺野古新基地は必ず止められる』

安保破棄中央実行委員会監修(2019):『辺野古新基地は必ず止められる』あけぼの出版,80p.600円.

 

昨年開催されたJCPサポーターまつりに娘と出かけた際に購入した一冊。ちょっとしたフリーマーケットのようなブースで100円で入手。執筆者として,真栄里保,林竜二郎,小泉親司のお三方が名を連ねているが,著者の紹介や各自の執筆分担などの情報はない。

I】県民の歴史的大勝利を示した沖縄県知事選挙
II】辺野古新基地は絶対に「造れない」「造らせない」
 (1)翁長知事の「撤回」が意味するもの
 (2)立ちはだかる県知事権限
III】辺野古新基地計画は,最新鋭の海兵隊基地建設だ!
 (1)単なる普天間の「移設」計画ではない
 (2)「辺野古新基地はいらない」世論を多数派に
IV】「新基地断念」まで,決してあきらめない

私は恥ずかしながら,数年前まで辺野古という地名は聴いたことがあるものの,この事態をしっかりと知ることはなかった。その位政治的な問題には無関心だった。政治地理学の山崎孝史さんはずっと沖縄のことを研究していて,その成果をそこそこ読んでいたし,アルバイトとして勤務している会社では航空分野の部署にいて,防衛関係の業務もある。私自身は防衛関係の業務に携わることはないが,「キャンプ・シュワブ」という名前は数十年前から聞いていた。そう,辺野古に海を埋め立てて新基地が建設されるという風に一般的には語られるが,この陸上部にはすでにキャンプ・シュワブという米軍基地があり,そこと地続きで埋め立てられた場所に滑走路を造って戦闘機が離発着できるような「拡張」というのが正確なところだと思う。
ようやく数年前から政治的な関心を持ち始めると,沖縄の米軍基地・自衛隊問題はこの国の政治問題の大きなトピックの一つであることがすぐに分かった。この本が出た2019年以降,沖縄では米軍基地に飽き足らず,自衛隊の新しい基地が次々と建設され,事態はますます悪化の一途をたどっている。そういう意味でも,この本が出た頃は一つの転換点といえるかもしれないが,それ以前の状況がコンパクトに理解できる。
現在,沖縄県知事は玉城デニー氏になっているが,その前の新基地反対を掲げた翁長知事の話が何度か出てくる。翁長知事は20188月にガンで亡くなりますが,その直前まで表舞台に顔を出して辺野古の埋立承認の撤回手続きに入るという記者会見を行っていたという。夫を亡くした翁長夫人が県民集会で行ったスピーチにも触れているし,また辺野古が普天間返還の唯一の解決策という政府の見解と,米軍の見解の矛盾なども示しているし,学ぶことの多い一冊。

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【読書日記】加藤直樹監修特集「関東大震災とジェノサイド」『部落解放』843号

加藤直樹監修(2023)特集「関東大震災とジェノサイド」『部落解放』843号,解放出版社,130p.600円.

 

先日紹介した性暴力特集号と一緒に購入した『部落解放』の一冊。昨年(2023年)は関東大震災から100年ということで,私が視聴しているYouTubeでも関東大震災における朝鮮人虐殺に関する動画が多く,私も都庁前で開催された集会にも参加した。知れば知るほどひどい話で,関東大震災そのものよりも強く私の関心を引いた。とはいえ,今回の監修者である加藤さんの著書を始め,関東大震災における虐殺に関する著作はけっこうあるのだが,未だ読んでいなかった。とりあえず,動画視聴では振り返りがなかなかできないので,こうした活字メディアでしっかりと学びたい。

加藤直樹「小池都知事「追悼文送付拒否」問題の起源と本質」
神林毅彦「虐殺に政府は関与したのか?」
藤田 正「複合差別による虐殺「福田村事件」の真相――「朝鮮人誤認説」はなぜ流布されたのか」
朴 順梨「朝鮮人虐殺の真実を語り継ぐ「ほうせんかの家」の軌跡」
朴 順梨「今を生きる若者たちが虐殺を忘れないために――「ペンニョン」の取り組み」
ファン・モガ「ジェノサイドが殺したものは何か?SF小説の執筆を通して朝鮮人虐殺の意味を考える」

巻頭で監修者の加藤さんが取り上げている,小池都知事「追悼文送付拒否」問題は,私が参加した都庁前の集会の根源である。関東大震災の際に日本人が朝鮮人や中国人,日本人でも社会主義者やアナーキストが殺害されたというのは紛れもない事実だが,それを小池知事は否定はしないが,肯定もしない。あれだけ差別発言をしていた石原元都知事ですら,朝鮮人被害者に対する追悼文を送っていたのに,小池都知事は震災で亡くなった多くの人たちと一緒に追悼するといって,殺人で亡くなった人たちを災害で亡くなった人たちと一緒くたにしている。そして,この記事では小池知事がそういう決定に至った経緯を説明している。「すべては右翼団体「そよ風」から始まった」とあるが,決定的に重要なのはその右翼団体と小池氏を媒介した古賀俊昭という自民党の都議会議員の存在である。この人はすでに亡くなっているが,私が現在住んでいる日野市選出の都議会議員だった。今でも街には立て看板が残っているが,明らかに右翼的である。2003年には有名な七生養護学校性教育攻撃の加害者である。
目次に書いたように,この特集では福田村事件の記事もある。福田村事件は森 達也監督の映画が昨年公開されたが,残念ながら見逃してしまった。この記事の著者はその映画の理解を誤認説としている。映画では,下現在の野田市に含まれる福田村を訪れていた香川県からの行商団が讃岐弁をしゃべっていたことで朝鮮人と疑われた,としているが,その説を追悼慰霊碑保存会の人の話として「加害者側が都合よく流布させた言いわけ」(p.33)としている。行商団は,「香川県が発行した行商鑑札を携えていた」(p.35)ということで,薬売りの行商であることが分かるようにしていたという。そして,「行商は香川県の部落産業であった」(p.35)ということで,この事件を複合差別によるものだとしている。
本特集の後半は朴さんによる「ほうせんか」の活動に充てられている。「ほうせんか」についてはNoHateTVでも取り上げられてある程度知っていたが,詳しく解説されている。ほうせんかという団体は,こちらも学校教諭の方から発した運動だが,墨田区の荒川河川敷での虐殺現場で遺骨を発掘するという活動から始まっている。しかし,調査の結果虐殺された人々の遺骨は既に別の場所に移動されていて,次には追悼碑を建てる運動に変わり,最終的には追悼碑は民家に建てられたのだが,元々そこにあった建物を利用して虐殺の史実を語り継ぐ資料館と追悼集会として運動は続いている。二つ目の記事では,運動の担い手が高齢化するなかで,追悼碑を中心に若い世代が運動に関わってきているということが希望を持って語られている。
最後の記事である,韓国生まれで現在は日本永住者である小説家によるSF小説の話で非常に興味深い。また,今号も特集以外の記事も非常に読み応えがあり,部落関係だけでなく,反戦など,人権に端を発するさまざまな問題に目配せしていて非常に充実した雑誌である。

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【映画日記】『14歳の栞』『オッペンハイマー』

2024年317日(日)

立川キノシネマ 『14歳の栞』
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歳の息子と一緒に観に行ったドキュメンタリー映画。14歳はおよそ中学二年生に当たるが,とある公立中学校のあるクラスに密着し,全生徒35人の姿を追ったもの。この映画では,35人全員を一人ひとり実名を出して主人公にしている。そこまでするのはなかなか珍しいこともあって,息子は今まで観た映画のうちで指三本に入ると気に入った様子。このクラスには車椅子の生徒が一人いて,不登校の生徒も一人いる。外国にルーツのある生徒はいなかったし,LGBTを公言している生徒もいなかった。取り上げる生徒の順番にはそこそこ制作者側の意図を感じた。はじめの方に登場する生徒は活発な子で,こんなに楽しいクラスはないと主張する。しかし,徐々にクラス全員がそうは思っていないことが,一人ひとりの発言によって明かになり,場合によってはその盛り上げようとする人たちの存在を疎ましく感じてさえいる。そして,車椅子の生徒や不登校(実際にはそこそこ学校に来ているが,いわゆる保健室登校のように,通常のクラスには来ない)の生徒にとっての困難も控えめにだが明らかにされる。一人ひとりがそれぞれの思いで学校生活を送っていて,部活動や放課後などの場面も描かれる。カメラの前で子どもたちがかなり自然に振る舞えるほど制作者は密着してきたとはいえるが,それでも子どもたちはかれらに踏み込ませない領域を保ってもいたし,そうした距離感が面白い。とはいえ,第三者として聞き取った子どもたちの声が,この映画を当事者が観た時に,自分たちも聞いてしまうわけだから,この映画が本人たちの今後の関係にも関わってしまうという点では罪深いものでもあると思ったりもしてしまう。
https://14-shiori.com/

 

2024年47日(日)

府中TOHOシネマズ 『オッペンハイマー』
毎年8月上旬に,原爆が投下された広島と長崎を持ち回り会場として,原水爆禁止世界会議が開催されている。党支部の市議会議員から是非行ってみてくださいと昨年打診をされたが,旅費など支部からのカンパを募るが,子ども連れで行くとそこそこの自己負担もあるので,お断りした。ただ,今年もお願いされていて,私一人でも行くことになりそうだ。ということで,原爆関連映画として,アカデミー賞受賞という話題性もあるので,観ておくことにした。この作品についてはすでにポリタスTVでも関連動画を観ていたので,しっかり学びたいと思った。
とはいえ,私はオッペンハイマーの名前すら知らなかった。映画を観ると,太平洋戦争を早期に終結させ,多くの米兵の命を守ったある種の英雄として語られ,それと同時にさまざまな形で非難され攻撃もされた。つまり,米国の現代史に一つの名前を刻んだ人物であるが,どれだけの日本人が原爆の父としての彼の存在をしているのだろうか。まあ,そんなこともあるが,上述したように事前に関連動画も見ていたのだが,実際に映画を観て知ることも多かった。私にとって非常に興味深いのはオッペンハイマーが一時期米国の共産党の集会に足しげく通い,元党員の妻と愛人を持っていたことだ。なぜ彼が共産主義に傾倒したのかは詳しく描かれないが,大学内でも組合活動に精を出している。学者としては欧州に留学し,米国ではアインシュタインの影響か,量子力学が軽んじられていたようだが,オッペンハイマーは欧州で量子力学を学び,それを米国に持ち込むことによって原子力研究を推進する主体となる。そして彼はアインシュタインと同様,ユダヤ人でもあった。
米国にとっての原爆のような大量破壊兵器の開発は,実際に使用するかどうかは別にして,当然第二次世界大戦の終結の切り札として, その存在意義(今日でいうところの抑止力)を有するものだった。念頭に置いていたのはドイツであり,ドイツに大量破壊兵器を先に開発されてはならない,ということと同じ同盟軍ではありながらソ連に先に開発されてしまっては,戦後の国際政治の主導権が握れない。そういうことで開発を急がされたものだった。ユダヤ人であるオッペンハイマーは当然対ドイツについてはうってつけだが,共産主義者であるという点では,戦後ソ連のスパイという容疑をかけられる存在でもあった。ともかく,ようやく米国での原爆が完成するというところでドイツは降伏した。本来であれば,その大きな目的を失ったわけだが,日本はまだ降伏していない。しかも,米国との戦闘において圧倒的に不利に追い込まれてもなお,降伏する兆しすらないということで,原爆使用のターゲットとなっていく。この時点で,日本は対等な交渉相手としては見なされていない,理解不能な民族という印象を受ける。だからこそ,原爆の実験台としては日本はちょうどよかったのだろう。この映画では,なぜ二発目が長崎に落とされることになったのかは描かれない(そもそも,実際の投下の決定はオッペンハイマーなどの開発者の手からは離れている)。トリニティという名で有名な米国での核実験では,マンハッタン計画のメンバーなどが数キロの地点から爆発する様子を目撃しており,爆風も受けている。かれらに被曝の被害があったかどうかは不明だが,この頃は放射能の人体への影響についてはそれほど議論されていなかったように思う。実際に広島に投下され,時が経つにつれて被害者が増えていくことが知られ,放射能の存在が分かってきたのかもしれない。いずれにせよ,そうした実際の人間居住地への原爆の投下による被害の大きさにオッペンハイマーはかなり心を痛めたようで,戦後は軍縮の意見を持つようになったようだ。ともかく,映画としては情報が多すぎて理解が追い付いていないが,今年の原水爆禁止世界会議ではいろんなことを学んできたい。
https://www.oppenheimermovie.jp/

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【読書日記】熱田敬子監修「組織・運動と性暴力」『部落解放』839号

熱田敬子監修(2023)特集「組織・運動と性暴力」『部落解放』839号,解放出版社,128p.600円.

 

Xに名称変更してから評判が悪く,アカウント削除をする人たちも多いTwitterだが,私のアカウントはなぜか平和で,一時期けっこうウヨった人からの攻撃もあったが,最近はほとんどない。なので,私にとっては未だ有用な情報源である。私がフォローしているあかたちかこさんが執筆したということで本誌の情報が流れてきて,熱田敬子さんが監修ということもあってとりあえず,チェックはしていたものの忘れそうになっていて,急いで購入した次第。

熱田敬子「ポスト#MeTooに考える組織・運動・社会と性暴力――女性=普遍的な被害者という想定を超えて」
松元ちえ「被害者を取り残さない支援とは――長崎市幹部による性暴力事件から考える」
梁・永山聡子「陣営理論と加害者の自死を乗り越えて――朴元淳前ソウル市長の威力による性暴力事件」
宮崎浩一「日本社会における「男性の性暴力被害」が置かれる状況」
あかたちかこ「metooじゃねえよ」

この雑誌の存在は知っていたと思うが,購入してしっかり読んだのは初めて。とりあえず,目次は特集記事だけにしたが,通読して学ぶことが多かった。
監修の熱田敬子さんは,以前『現代思想』に掲載された大学非常勤講師に関する論考が非常に心に残り,研究者としてもアクティビストとしても名前をしっかり覚えていた。熱田さんの序文では,MeToo運動の簡単な歴史と,中国の状況が冒頭で話題にされ,特集の各論考の紹介,後半では日本軍による性暴力,性奴隷について,戦後の裁判とその支援について論じている。ジャーナリストの松本ちえさんは,女性記者が長崎市の幹部職員から,取材を利用した性暴力を取り上げている。梁・永山さんは韓国やフェミニズムに関する社会学者であり,ここでは前ソウル市長による秘書に対するセクシュアルハラスメントを取り上げているが,加害者がかなり評価の高い政治家で,この事件の後に自殺しているということで,複雑な問題を論じている。
決して特集記事の数が多くないなか,男性が受ける性被害についても掲載しているところがすごい。宮崎さんの記事は,欧米の先行する流れも受けて,日本の性暴力に関する法律の変更により,男性の性被害についても処罰の対象になってきたことを教えてくれる。日本の法律には成立当時の常識が反映されているものの,その常識が変化しても改正されないものが多い。性暴力に関しては遅々としてではあるが改正されてきた。しかし,法以外の部分で未だ市民の意識改革が必要な部分も多い。あかたさんの文章はさすがだ。社会において,被害者救済は非常に重要。一般市民による社会的なものと法制度によるもの,両方必要だが,とりわけ犯罪そのものをなくしていくには一般市民の理解が不可欠。しかし,被害者・当事者が抱える問題は,そうでない人がそう簡単に理解できるものではない。気安く「分かる」といったり,「連帯する」というのは軽々しく,また実際に周囲に被害者・当事者がいた場合に,どう接したらよいのか,難しい問題はどうしても残る。
さて,本誌は誌名から分かるように,基本的には日本社会に根深く残る被差別部落問題を専門とする雑誌。関連する書籍の紹介は充実しているし,映画や音楽といったエンタメの記事もある。座談会で興味深かったのは,『シリーズ 映像でみる人権の歴史』というDVDの制作者を招いた座談会だ。2014年から発売が始まって,全10巻が2022年に出て完結したとのこと。室町時代から現代までの日本で差別を受けた人々の歴史を映像化したもので,大学の教員と小学校の教員が監修したもので,座談会には現役の小中学校の先生が参加している。
https://www.toei.co.jp/entertainment/education/detail/1233607_3490.html
このDVDは機会があれば見てみたいと思うし,被差別部落についてはまだまだ知らないことが多いから,本誌の他の号をいろいろ読んで学びたい。

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【読書日記】反差別国際運動(IMADR)編『「戸籍」人権の視点から考える』

反差別国際運動(IMADR)編(2023):『「戸籍」人権の視点から考える』解放出版社,145p.1,500円.

 

私が使っていたかなり特殊な携帯電話が3Gで,契約していたYahoo!モバイルでは今後使えなくなるということで,いろいろ探した結果,かつてNTTDocomoが作っていたカード式携帯電話が4Gまでは対応できると言うことで,電話機自体の買い替えと,家族でのDocomoへの乗り換えをした。ついでに,ソフトバンクに移行していたインターネット回線も乗り換えることになり,古巣のNiftyに戻ることになった。もろもろの手続きで,DocomoからJCBギフトカードをいただいた。意外に使えるお店は少なく,わが家の場合には書籍代として書店で使うのが一番効率的ということで,書店で使っている。紙のギフトカードなので,千円単位でおつりがでない。息子が買いたいコミックは千円に満たないので,私も何か買いたいと思い選んだのが本書。
以前から戸籍については知りたいと思っていた。本書は編者である反差別国際運動(IMADR)が出している【現代世界と人権】というシリーズの27冊目。本書はIMADRが開催している連続講座を収録したもので,2022年の6月から12月にかけて7回行われた講演で,先日もポリタスTVに出演していた選択的夫婦別姓の実現で運動をしている井田奈穂さんの講演もあったようだが,本書には収録されていない。また,最終回である第7回は受講者によるフリートークということで,こちらも収録されていない。

はじめに
01
 戸籍から個籍へ,そして人権侵害をおこさない仕組みへ:二宮周平
02
 日本の植民地支配と戸籍――『民族』と『血統』とは:遠藤正敬
03
 なぜ韓国社会は戸主制/戸籍制度を廃止したのか――被植民地秩序,家父長制解体をめざす市民の連帯から学ぶ:梁・永山聡子
04
 無戸籍問題とは何か:井戸まさえ
05
 戸籍とマイナンバー制度――国は何を考えているのか:遠藤正敬

さて,戸籍という制度は,世界的な国籍や市民権とは異なっていることは知っていた。戸籍自体は日本で長い歴史を有するものだが,かといってその長い伝統のまま今日に至るわけではなく,今日的な意味合いにおいては明治期の家制度が大きいというところまでは知っていた。そして,現在議論されている「選択的夫婦別姓」の実現に対する大きな妨げの一つになっているということもなんとなく分かってはいるが,イマイチ詳しくは分からないという状況。なお,岸田首相はこの件に関する答弁では必ず「別姓(べっせい)」ではなく「別氏(べつうじ)」と呼んでいることも気になっていた。調べてみると,この制度は政府的には「選択的夫婦別氏制度」と呼んでいるそうだ。まあ,別姓の対義語は同姓なので,同じ婚姻に関して問題になっている同性婚と呼び方として混同しやすいので,「べつうじ」の方がいいかなとは思うが,やはり「姓」と「氏」は違うような気もするので,政府が変更したくないというこだわりが「氏」にはあるのかもしれない,というところは覚えておきたい。
さて,本書を一通り読んだが,やはり難しい。戸籍とは何かということを歴史的に理解し,他国との違いを理解するというのは簡単ではない,ということが本書から分かった。本書はあくまでも講演録なので,その辺りの限界もあるかもしれない。ただ,戸籍制度によって現代日本に生きる私たちが被る不便,場合によっては人権侵害的なものがあるというのは間違いない。そして,一つだけ確認しておきたいのは,日本において,天皇家と皇族は戸籍を持たないということ。戸籍というのはあくまでも天皇を頂点とする社会のものであり,戸籍を有するのは天皇に仕える臣民であるということらしい。先に書いたように,今日の戸籍制度は明治時代に確立した家制度の名残であり,さまざまな制度が敗戦によって解体され,また戦後の高度成長を経て日本社会における家族のあり方は大きく変化したにもかかわらず,戸籍制度が温存していることに問題の根源があるようだ。加えていうならば,自民党政権,特によく言われるように第二次安倍政権移行に強まっている戦前回帰の傾向において,その戦前の家族観に固執する一部の宗教右派と呼ばれる勢力が家制度と戸籍制度にも執着しているといえる。
巻頭の二宮さんの講演では,そうした戸籍制度の歴史を学ぶことができるが,二宮さん自身はそのタイトルにもあるように,家族単位での戸籍ではなく,国際的なスタンダードともいえる個人単位のものにすべきだと提案している。二宮さんは立命館大学の教員ということだが,戸籍を個人単位にすることで(当然,戸籍という名称の変更も伴うだろうが),多くの問題が解決するという。ここ数年,大文字の政治に関心を持ち始め(小文字の政治に関しては研究を始めたころから関心を持ってきたつもり),この政府による立法および法改正の過程を見てきたが,この政権がいかに学術的知を愚弄してきたのかがよく分かった。本書のように,人権尊重という立場に立脚して,歴史的経緯を踏まえて今日の日本社会における市民権のあり方に関する提言をしっかりと受け止めて政治をやってほしいとつくづく思う。
そういう意味において,02と03は関係していて興味深い。日本は先の大戦で台湾と朝鮮半島を植民地下に置いたわけだが,特にここでは朝鮮半島のことが論じられている。つまり,日本の戸籍制度は朝鮮半島に移植されたのだ。国籍という観点においては,広く論じられているように,植民地=日本の領土拡張下の住民は基本的に日本国籍を与えられるのだが,それは完全な意味での日本国民ではなく,準国民的な扱いということだ。そういう議論を,02が戸籍という観点から補強してくれる。そして,03は正直言うと講演ということもあり,話題があちらこちらと行って,私の理解はなかなか追いつかない。ただ,大まかにいえばタイトル通り,韓国では植民地時代に日本から強制されてそれなりには定着した戸籍制度・家制度を,独立解放以降に解体していったということだ。もちろん,韓国の戦後の歴史も順調に来たわけではなく,今日でも世界一の出生率の低さという問題を抱えている。しかし,市民と政府とが時に対立しながらもより良い方向を目指して変革の道を歩んできているということはいえると思う。日本の場合は市民の力はまだまだ弱く,政府はそれらを無視し,踏みにじり,をしてきても未だ許されてしまっている(誰も許してはいないのだが,根本的な処罰を下されない)。
04の話題は戸籍制度から生まれる現代の問題を各論的に扱ったもの。無国籍の実態はこれまでも少し知っていたが,本当に闇は広いと思わざるを得ない内容。夫婦別氏制度や同性婚の問題,そして今国会で審議されている共同親権の問題など,まさに市民からその問題が指摘されているにもかかわらず,政府がその状態をさらに悪化させようとしていることに大きく関わっている。これも二宮さんが提案する個籍によって解決の道筋が見えてくるように思う。そして,最後の05はまさに国民全員に関わる現代的な問題としてのマイナンバーを取り上げてくれている。ここは本当に誰もが身につまされる思いで読むことができるだろう。戸籍をめぐる問題は,本当に多すぎて,個別の問題に関心が集中してしまいがちだが,その根本としての戸籍制度を変革するという議論を始めるべきだと思わされる読書だった。まずは,政権交代だ。

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