« 2024年8月 | トップページ | 2024年10月 »

2024年9月

【映画日記】『ソウルの春』『本日公休』『わんだふるぷりきゅあ!』

2024年97日(土)

立川キノシネマ 『ソウルの春』
私は元々歴史には疎い人間だった。地理学者として30年,人文・社会科学者を自認するなかで歴史認識の必要性を感じつついろいろ読んではきたものの,基礎的な知識が足りないのと,特定の国の歴史に特化した読書をしてこなかったこともあり,お近くの台湾のことも中国のことも,朝鮮半島のことも断片的にしか知らない。しかも,現代史においてもしかりであり,この作品で描かれることはほとんどわかってなかったといってよい。もちろん,日本による植民地からの解放後,南北に分割されて独立国家となり,米ソ冷戦の代理戦争として朝鮮戦争が行われ,休戦後も韓国では軍事政権が敷かれ,民主化されたのは1988年のソウル・オリンピックが開催される前後であったという漠然とした知識しか持っていない。
この作品で描かれているのは1970年代の話。けっして私の生まれる前の時代ではない。ソウル・オリンピックまではまだだいぶあるが,タイトルからして「〇〇の春」といえば民主化運動のことなので,何も知らない私は冒頭で描かれる軍事政権が少しずつ崩れていく姿が描かれるのかと思いきや,軍隊内(政府内?)のもっとひどい奴らによる軍事クーデターが成功してしまうという話だった。史実を基にしているとはいえかなりエキサイティングな演出がなされ,途中まではクーデターを阻止しようとする正義感に満ちた人物が勝利するのかと思いきや,結局は悪者に政権が乗っ取られてしまうという時代の話。このことの史実も含め,その後の民主化への流れについては自分でしっかり勉強しなくては,と思った次第。
https://klockworx-asia.com/seoul/

 

2024年921日(土)

立川キノシネマ 『本日公休』
台湾映画。とある街の理容室を切り盛りする中年女性が主人公。夫には先立たれ,楽して金儲けばかりを考えている息子。美容師になったもののいろいろとうまくいかない娘。彼女は自動車整備士の男性と結婚して子どもも産んだが,些細な価値観な相違によって離婚。彼は子ども散髪にかこつけて義母のことを気にかけている。そして,ファッションデザイナーとして台北に住む娘。こちらはいかにも都会的な男性と同棲しているが,浮気をされている雰囲気。そんな親子関係を中心に,常連さんたち(登場するのは全て男性客)から慕われる小さな美容室を描いている。途中で日本の作品にもいくつか出演しているチェン・ボー・リンがちょい役で出てきたりして嬉しい。ちょっと冗長なシーンもあるが,台湾的な雰囲気のある素敵な映画。
https://www.zaziefilms.com/dayoff/

 

2024年922日(日)

府中TOHOシネマズ 『わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー!ドキドキ♡ゲームの世界で大冒険』
このブログでたびたび書いているように,娘は劇場版のプリキュアはそこそこ楽しみにしている。今回もしっかり前売り券を購入して特典をゲットして臨んだ。今回のシリーズ「わんだふるぷりきゅあ!」は飼い犬と飼い猫がプリキュアに変身して人間化するというもの。犬と猫に戻っている時も言葉を使ってコミュニケーションをとっている。そして今回の映画はゲームの世界に入り込んでしまうという設定で,「あつまれどうぶつの森」的なゲームなので,絵柄もこれまでのプリキュアシリーズよりも可愛らしい。そのせいもあってか,観客層は幼い子どもたちが増えたような気がするし,上映2週目の終末だったが,席もそこそこ埋まっていたように思う。新しいファンを獲得しているのか。ともかく,映画版のストーリーもよく考えられていて,十分に楽しめる内容だった。
https://2024.precure-movie.com/

| | コメント (0)

【読書日記】港 千尋『風景論』

港 千尋(2018):『風景論――変貌する地球と日本の記憶』中央公論新社,p.3492,600円.

 

港 千尋さんの存在は私が修士論文で写真を扱うことになった時から知っていて,わが家には装丁の美しい『注視者の日記』(みすず書房,1995年)などいくつかの著書がある。写真家であるから風景に関心があるのは珍しいことではないが,世界情勢に対する批判的なまなざしも含めて私の関心に近いと感じていた。しかし,一方で非常に巧みな批評的文章は,学術的な論文として取り上げるには適しておらず,論文執筆が求められていた当時の私にとっては今読むべき本ではないと判断されたのか,あまり読まなくなってしまっていた。
とはいえ,そのうち本格的に港作品を読んでみたいと思いながら今年の6月に少しお近づきになる機会があった。日仏会館で開催されたメガイベント関連の講演会で,私は1日目にオリンピックに関する報告を2つし,港さんは2日目に万博に関する報告をした。私は幸い,2日目の報告はなかったが聴きに行くことができ,港さんの姿を遠巻きに眺め。その非常に紳士的な外観に「これが港 千尋さんか」と思いながら,講演も聞いた。港さんは2005年に開催された愛知万博の計画に関わっていた。愛知万博の顛末については吉見俊哉『万博幻想』(ちくま新書,2005年)でも簡潔にまとめられているが,港さんは環境万博へと舵を切った時に一時期関わったという。講演の詳しい内容は忘れてしまったが,クロード・レヴィ=ストロースを含む幾人かの著名な思想家に意見を聴きに行くなど,これまでのメガイベントとしての万博の新しい形(ある意味,本来の万博の意味とは矛盾するような)を模索していたようだ。
結局,私は懇親会にも出なかったし,2日目も最後までいることができずに帰宅したのだが,これを機に少しお近づきになれるかなと思い,後日私の写真に関する論文の抜き刷りをお手紙を添えて所属大学宛に送付した。そしたら,とても丁寧なメールをいただき,お会いしてお話ができたらと嬉しい提案までいただいた。その頃私は今年度から始まった非常勤の授業で余裕がなく,大学の夏季休暇中にと考えていたが,あっという間に秋学期が目前と迫り,今年中にお会いするのは難しそうな状況。まあ,ともかくお会いするにしても,手持ちの港作品を読み直すかしないと話にならないなと思いつつ,本書を古書店で発見し,とりあえずど真ん中のタイトルをつけた本書だけは読んでおこうと読んだ次第。

はじめに――経験としての風景へ
序章 震災が露わにしたもの
1章 風景の誕生
2章 水辺に映る風景
3章 臨海の森
4章 メディアと都市の人類学
5章 地層のなかのわたしたち
6章 光景から公景へ
7章 時代のスカイライン

目次で分かるように,第1章で風景概念の起源のような話もある。この辺りは地理学でも定説があるのだが,実は定説がいくつかあって定まっていないようにも思う。実際のところ,私もそれらしい文章を書いたのだが,後から日本の地理学者の文章をいくつか読んだだけでも,私の理解が正しかったかどうかは分からない。同じ概念でも英語のlandscapeは比較的新しく,オランダ語起源とドイツ語起源の系譜にある。一方でフランス語のpaysageはイタリア語起源なのか,ともかくヨーロッパでもラテンとアングロ・サクソンと系譜が異なる。本書で著者が依拠しているのは,スティルゴーという人物の2015年の英文書であり,「この言葉の成立を詳細に調べた環境史家のジョン・スティルゴーは,そのオリジンが現在のオランダ北部から北ドイツの海岸地帯で使われていたフリジア語のランドショップ(landschop)にあるのではないかと考えている。」(p.35)としている。
本書には地名の話があり,自然災害のあった世界各地を回り,原発の被害地も訪れている。風景という概念自体が自然と人間との関りを深く刻む言葉であるが,本書も(港氏には『自然――まだ見ぬ記憶へ』(NTT出版,2000年)という著作もあり,これも私は持っている)自然の問題をしっかりと組み込んだ写真と議論が含まれている。本書の帯には,「技術革新や災害により 現実が問い直される現代―― 風景の生成過程に分け入り 文明の最果てを写しだした 類のないフィールドワーク」と「なぜ 私たちは見知らぬ 土地を歩き,風景を 訪ねるのか?」とある。改めて本書をパラパラめくると,思いの外日本国内の写真が多い。また,2014年の作品『革命のつくり方』では台湾のひまわり運動を取材しており,本書には香港の雨傘運動や韓国の写真もある。オランダやスペインの話もあるが,モンゴルやベトナムなど,本書はかなりアジアに特化しているといえるかもしれない。ともかく,世界各地を飛び回り,私はとても知らないような出来事や風景を散らばせながら豊富な知識と経験に裏打ちされた,それでいて詩的で豊かな文章,そして美しい写真によって独特な作品世界がつくられている。
だからこそ簡単に批判はできないのだが,時折風景の本来の美しさは自然のみ(神のみ)が作り得る論調が見受けられるのをどう理解すればいいのか,まだ私の知識と経験ではどうしようもないが,ともかく私が抱いた違和だけはしっかりと覚えておきたい。ともかく,私のパートナーが台湾出身だということも含めて,港さんに会うことになるまでには『革命のつくり方』を読んでおきたい。

| | コメント (0)

【読書日記】中沢啓治『はだしのゲンはヒロシマを忘れない』

中沢啓治(2008):『はだしのゲンはヒロシマを忘れない』岩波書店,p.53520円.

 

著者の中沢啓治さんはいわずと知れた漫画『はだしのゲン』の作者。1939年生まれだから6才の時に広島で被爆し,2012年に亡くなっている。本書を読み終えた後,私は子どもと一緒に立川まんがぱーくに行ったので,『はだしのゲン』も2巻ほど読んだ。主人公のゲンは自分自身をモデルとしているとあるが,作品中のゲンは小学校高学年の設定となっていて,小学校低学年の弟が出てくるので,実年齢としては弟に近いのか。
まあ,それはともかく近所にある書店で岩波ブックレットのセールのようなコーナーがあり,本書ともう一冊を購入してきた。本書はブックレットのNo.735だが,中沢氏はNo.7にも『はだしのゲンはピカドンを忘れない』という本を書いている。
被爆者に限らず,戦争体験者はその被害についても加害についても,その戦争が終結してからその記憶を心の奥に閉じ込めるようにして生きている人が多いと聞く。『はだしのゲン』ほどの作品を残した中沢さんですら,そうであったことを本書で知る。中沢氏は漫画家になるべく上京する。しかも,辛い少年時代を送ったこともあり,漫画は楽しむものだということでいわゆる漫画らしい作品を描いていたという。
転機になったのは母親の死だという。火葬された母親の遺骨は粉々だった。『はだしのゲン』にも家で下敷きになった家族の遺骨を発掘しに行くシーンがあるが,母親の骨が粉々だったのは被曝が原因だと考え,戦争が終わっても被害が続く原爆について,自身の表現として漫画で伝えることを決心し,「黒い」シリーズとしていくつかの短編を描いたという。しかし,その原稿はしばらく陽の目をみなかったという。しかし,それらが掲載されてから,『月刊少年ジャンプ』に自叙伝的な作品の連載を依頼され,「はだしのゲン」が生まれた。この作品は読んだ人ならわかるように,読むだけでもかなりのエネルギーを消耗される。当然,描く方もそうだったはずで,中沢氏は自身の正気を保つために,ゲンと交互に娯楽漫画を描き続けたという。また,これはよく知られた話だが,『はだしのゲン』でも読者に配慮してその表現はかなり抑えていて,やはりあの地獄絵図は実際に体験したものにしか分からないという。それでも,読者からはかなり否定的な反応もあったようで,それでも描き続けた。しかし,やはり現在の状況から考えると,それでも掲載し続けた出版社の判断を賞賛すべきだろう。今日では新聞でさえも社会への,たとえそれがごく少数の人に対してでも,影響を配慮していわゆる会社都合で表現の規制がなされる。
ともかく,戦後80年が経とうとする今,結局核兵器はいまだ廃絶されず,核兵器の使用で威嚇しながら世界では未だ戦争が続けられていることを,私たちは考え続けなければならない。『はだしのゲン』を始め,その材料となる私たちの財産は豊富にあるのだから。

| | コメント (0)

【読書日記】山田 朗・明治大学平和教育登戸研究所資料館編『陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界』

山田 朗・明治大学平和教育登戸研究所資料館編(2012):『陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界――風船爆弾・生物兵器・偽札を探る』明治大学出版会,288p.1,800円.

 

日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』に登戸研究所資料館を見学したという記事が載っていた。目玉は風船爆弾のミニチュア模型があるということだった。以前,ポリタスTVで風船爆弾関連の動画を観た。フリッツ・シューマンというドキュメンタリー映画監督がゲストの回で,彼は広島県の大久野島に関する作品を作っていて,その作品がウェブで観られるようになっていたので,観たら風船爆弾に関する部分があった。ということもあり,支部会議でこの記事を話題にし,このドキュメンタリー作品を皆で視聴するということをやった。すると,登戸研究所には見学に行ったことがあるという党員の方が多かった。そのなかの一人は本書を含む関連図書を何冊も持ってきてくれたので,お借りして読むことにした。

はじめに
1章 アウトラインを探る――登戸研究所とは何か
2章 時代背景を探る――登戸研究所と戦争の時代
3章 登戸研究所の全体像を探る
4章 風船爆弾の実像を探る
5章 生物兵器・スパイ兵器の謎を探る
6章 証拠なき世界を探る
7章 偽札印刷の真相を探る
8章 〈秘密戦〉のその後を探る
9章 戦争の記憶をどう継承するかを探る
登戸研究所関係参考文献一覧
登戸研究所関連年表
明治学院大学平和教育登戸研究所資料館設立趣旨・展示のねらい
おわりに
図版一覧
索引
著者紹介

本書は2010年に開館した,明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長である山田氏を中心に他10人の執筆陣と一緒に書き上げた,この資料館の解説本である。巻末に年表があるが,登戸研究所とは,その地名から分かるように現在の小田急線の登戸駅(住所としては川崎市多摩区かな?)近くの生田緑地の西側に位置する,現明治大学生田キャンパスとなった場所に設立された,陸軍の研究所である。アジア太平洋戦争(一般的には第二次世界大戦の日本側の戦争を太平洋戦争というが,それだと終戦時の米国との対戦というイメージが強いが,この戦争のメインは中国侵略であり,またイギリスを中心とする東南アジアを植民地にしていたヨーロッパ列強との戦争であったわけで,「アジア太平洋戦争」という呼称の方が相応しいととある本で読んで以来,私もそう呼ぶことにする)時に,日本が国際法違反の戦術をとっていたことは731部隊としてよく知られているが,早くも1919年に陸軍科学研究所というのが設立されていた。1937年に登戸にその科学研究所の実験場が解説され,1939年に登戸出張所と改称され,電波兵器を扱う第一科,生物化学兵器を扱う第二科,偽札を扱う第三科が設置される。1941年には解消しているし,登戸研究所という名称が正式に使われていたわけではないが,本書では通称として一貫してそう呼んでいる。
写真で見る限り,現在の明治大学生田キャンパスのほぼ全域が丘陵地を造成して研究所の敷地となっており,一部空地も確認できるが,所狭しと建築物が建てられている(おそらく当時はその多くが平屋だったと思うが)。戦後になって米軍に接収されているが,1950年にはすでに明治大学が購入しており,一時期は研究所の建物をそのまま農学部の実験棟として利用していたとのこと。この研究所で行われていたものは国家機密にあたるもので,さらには国際法に抵触するような軍事兵器だったために,戦後はことごとくその痕跡を隠蔽した。ここで興味深いのは,米軍の接収時に,この研究所に残されたもの,研究員への聞き取りを含め,米軍はそれなりに調査をしたようだが,それによって国際法違反の兵器製造を告発するのではなく,その研究成果をまるごと米軍に吸収しようとしたことだ。いずれにせよ,戦時の怪しげな研究の痕跡は残さないまま大学の施設として引き継がれたということだ。
1964
年に明治大学が工学部を移転したことによって,大学全体の施設建設が進み,登戸研究所の多くの建物が取り壊されたという。1980年代になると登戸研究所を戦争遺構として調査・保存するような動きが進み,1995年には明治大学内に人文科学研究所総合研究「旧陸軍登戸研究所の総合的研究」が立ちあがる。現在資料館となっている建物を利用している。しかも,建物自体も保存対象として,できるだけ研究所自体の状況を復元する形で展示室にしているという。登戸研究所では生物兵器の開発もしていたので,動物を使った実験も行われたとのこと。私の自宅の近所にある多摩動物公園にも公園内で亡くなった動物の慰霊碑があるが,この研究所内にも実験で亡くなった動物の慰霊碑があるという。
この資料館は,入り口付近にレストスペースがあり,ここの展示では登戸研究所というものを必要としたアジア太平洋戦争に向かう日本の軍国化の歴史という時代背景が説明されているとのこと。展示室は5つあるが,本書は第1展示室から順に解説されている。個々の展示の内容を本書に沿って説明しているときりがないので,本書の内容を忘れないうちに実際に資料館を訪れることにしたい。ただ,私は博物館の展示を見てもしっかりと身にならない。美術展はとても楽しめるのだが,博物館はあまり記憶に残るものはない。そういう意味では,事前に本書のような解説本を読んだ上で訪れるのがいいのだと思う。
さて,本書で私が一番ぐっときたのは第8章の後半である。それは,この資料館が解説されるきっかけの一つが,高校生による登戸研究所に関する調査だったというのだ。現在の川崎市に位置する登戸研究所は,当時としては鉄道によって東京中心部からつながってたとはいえ,郊外に位置していた。しかし,戦況が悪くなり,関東地方でも次々と空爆で攻撃されるなか,大本営を長野県に移設する計画が進んだ。そのなかで,登戸研究所も長野に移転したのだ。移転先の研究所に関して,長野県駒ヶ根市にある赤穂高等学校が,また生田の研究所に関しては川崎市にある法政大学第二高等学校がそれぞれ別個に,1989年に文化祭の出し物として登戸研究所の調査報告をすることになったという。はじめは既存の資料を探して読み,整理するようなことを考えていたが,既存の資料はほとんどなく本格的な調査をすることになった。わずかに残された史跡を訪ね,関係者を辿り,話を聞き,そんな中で赤穂高校の生徒がこの研究所に長野では馴染みのない「登戸」という名称がつけられていることに疑問を抱き,川崎市の登戸にたどり着いて法政二高とつながっていったという。しかも,登戸研究所の研究員だった方々は,もちろん秘密戦に加担していたこともあり軍から戦時中のことを公言することは禁じられていたわけだが,被爆者などを含め多くの人が戦争の記憶を自分だけの中に閉じ込め,語ることをしないのと同じように,誰にも語っていなかったという。しかし,「平和ゼミナール」という名称の下,平和を希求する戦後生まれの高校生たち(1989年は私の大学入学の年なので,この高校生たちはほぼ私と同世代だ)のまっすぐな想いに応えるように,かつての研究員たちは口を開いていったという。そこから本格的な調査へと広がり,本書の執筆,資料館の開設へと結びついたということのようだ。

| | コメント (0)

【読書日記】カント『純粋理性批判(上)』

カント, I.著,篠田英雄訳(1961):『純粋理性批判(上)』岩波書店,371p.900円.

 

カントの主著である『純粋理性批判』は地理学にとって重要な本だといわれている。カントは大学で自然地理学も講じているということも地理学にとってカントが重要である大きな理由だが,『純粋理性批判』では空間と時間について論じているということで,哲学寄りの地理学的考察において重要なのだ。1970年にトロント大学のメイという人物が『カントと地理学』という本を出し,1992年に松本正美さんの訳によって古今書院から日本語訳が出版されている。訳者の序文によれば,メイは哲学専攻から地理学に転向し,本書はその博士論文だったということだ。私の知り合いでも地理学専攻の修士論文でカントの時空間論をテーマにした人がいる。そういう意味でも,私にとっても本書におけるカントの時空間論にはいずれ取り組まなければならないと思っていた。
そんな時,私のパートナーの誘いで諏訪 敦という画家の作品が含まれる小さなギャラリーに行った。そこに展示されていた諏訪さんの作品は,岩波文庫版の『純粋理性批判』そのものを含んだものだった。本書のものを模写しているのか,実物の周りに絵画を加えているのか忘れたが,小さな作品だった。それに感化されて,パートナーは上中下巻の岩波文庫版を買い揃えたので,読んだ次第。とりあえず,上巻のみだけだが,現段階で読書日記をつけておこう(続けて中巻を読み続ける気力はない)。

第一版序文
第二版序文
緒言
I
 先験的原理論
第一部門 先験的感性論
緒言(1
第一節 空間について
第二節 時間について
第二部門 先験的論理学
緒言 先験的論理学の構想
第一部 先験的分析論
第一篇 概念の分析論
第二篇 原則の分析論(判断力の先験的理説)
私はかつて,ジャック・デリダなどの哲学書を好んで読んでいた。しかし,それは私が哲学に精通していて,それらをきちんと理解できていた,というわけではない。おそらく,ごく一部の人を除いてデリダの文章は難解できちんとは理解できないと思う。しかしながら,難解ながらも読んでいると何か重要なことを議論しているということを感じるという読書経験を持っている人は少なくないと思うし,難解な文章を読んでいることの充実感やそこから受ける刺激というのもある。しかし,現代のデリダと18世紀後半に書かれたカントが同列に読めるかどうかは分からなかったし,以前読んだカントの天文学や地震関係の本,そして最近読んだ『自然地理学』はそんなに難解ではなかったし,実際に読むまではどんな難解さかは想像ができなかった。
さて,実際に読んでみるとやはり難解だった。その難解さは同じ時代を生きていたデリダのものとはやはり異なり,18世紀のドイツ語を一昔前に日本語に翻訳したものであるということも手伝っているような難解さである。本書の書名からして,よく分からない。ということで,本書の難解さは私の不勉強さによるものなわけだが,この時代の哲学用語としての純粋と先験的,感性と悟性,そして書名にもあるが上巻ではまだ登場しない理性,概念と論理学,そうした用語の意味を,ついとなる用語はその違いも含めて一通り学んでおく必要があったようだ。しかし,私自身の読書の仕方として事前にその著者が書いたことをその著者以外の人が解説したものを読まずにまずはその著者自身の言葉を読む,ということをしてきた。ということで,上記の概念の意味を理解した上で読み進めれば多少なりとも理解できると思いながらも,カント自身がこの本の中でこれらの概念についての意味を説明しているという期待を抱きながら上巻を読み終えたが結局ははっきりと意味は理解できなかった。とはいえ,先験的という言葉は日常的に使わないにしても経験という対となる言葉も使われ,ア・プリオリとア・ポステリオリという対概念も用いられるので,先験的とは経験に先だつという意味としては理解できる。また,感性や悟性も一般的にも用いられるのである程度想像がつくが,悟性という概念については日常的にあまり使わないので,私自身もちゃんと考えたことがなく,本書によってこの概念をきちんと理解していないということを改めて痛感した。ただ,これも感性という言葉と対になっているので,感性とは初めての経験で知覚するものをそのまま感じるという意味合いとして,悟性はその次の段階として自分のなかで感覚された情報を咀嚼して思考する,というものだとして理解した。
さて,では本書のなかでの空間と時間の議論はどうなっているのか,全体に占める重要度(割合)はどうなっているのか。といっても繰り返し書いているように私はまだ上巻しか読んでいないが,目次にあるように,第一部門の第一節,第二節が空間と時間に充てられている。全体の分量からすれば決して多くはなく,本書は空間と時間について論じた書である,とはとてもいえず,本書のなかで空間と時間についての議論がある,といった程度だといえる。しかし,それが冒頭にあることはそれなりの重要性をカントが空間と時間に与えているといってよい。私が上巻を理解に苦しみながらも読んだ上で本書がどういう本かといわれれば,以下のようにある。私たちは物事を理解する際に順序がある。まずは五感を使って感覚する。感覚で受けた刺激から,その対象物としての物事が何であるかを知覚し,自らが持っている知識と照合して認識する。認識したものに価値を与え,判断し,思考するという人間の観念の段階を丁寧に論じるものだと理解した。その自己の外部にある事物の認識の際に,空間と時間が重要であり,それはつまり事物に秩序を与え,認識に混乱を及ぼさないような何かであるというという議論だと考える。感覚について,カントは内感(内的感覚)と外感(外的感覚)とに区別するのだが,それは自己の外部にある事物の感覚が外感であり,自己自身の認識・思考が内感であるといえる。そしてそれぞれの直感形式,空間が外感の,時間が内感のというわけだ。ここでいう直感とは「純粋直感」(p.91)であり,ここに書名の「純粋」が登場する。先験的やア・プリオリという語とも類似した意味で用いられている。つまり,空間と時間は私たちが自己の外部と内部に向けた感覚によって事物を知覚し,認識し,思考する(この段階が悟性か),その基礎となるものであり,なくてはならないものであるともいえる。なので,本書の考察でもそれが前段にあるといえよう。
なお,本書をより良く理解するための概念として「表象」がある。私にとって表象とは1960年代以降のフランス現代思想のキーワードであり,デリダやフーコーなどが用いたrepresentationである。少し遡るとフランスの社会学者デュルケームなども使ったようだが,20世紀フランスの用語と18世紀ドイツの用語の関係をきちんと理解しないと先に進めないようにも感じた。といっても,お分かりのように私が読んでいるのは1961年に日本語に翻訳されたものなので,フランス現代思想での議論の前の日本語である。とはいえ,デリダ自身の表象に関する議論は1967年に『声と現象』であり,この書はフッサール現象学に関するもので,もちろんドイツ語を基礎としている。フッサールも多少は読んだが,今回カントを読んでみて,やはりフッサールはカント哲学の系譜にあるとも感じるし,日本語版『純粋理性批判』を,現代思想的感覚で「表象」を理解しながら読み進めてもそれほど違和感はない。
フッサールよりも前の時代になるのだろうか,同じドイツのショーペンハウアーは1918年に『意志と表象としての世界』を書いている。『純粋理性批判』で「表象」と訳されている原語は確認する必要があるが,ショーペンハウアーの方は「Vorstellung」であることが分かり,この語は表象論としてデリダが用いているドイツ語の一つである。ショーペンハウアーはカントの影響も受けているようだ。「世界はわたしの表象」(中公クラシックス版I巻,p.5)の文章から『意志と表象としての世界』から始まり,表象にはVorstellungの語が付されており,(目前に見るように心に思い描くこと。心像,想像,観念など広い意味をふくむ)と本文中に訳語が付けられている。つまり,カント,ショーペンハウアー,フッサール,デリダは客観的な事物のあり方を否定するかどうかは別にして,人間が得られるのは自らが有する感覚を持って外界からの刺激をることしかできないという観念論の系譜にあることが分かる。よってカントは『純粋理性批判』のなかで,空間を自己の外部に客観的に広がるものとして捉えるのではなく(明らかにニュートンとは異なるが,デカルトの考えとどう違うかは考える必要があろう),人間の認識にあらかじめ備わった,ア・プリオリな形式として捉えているのだ。この表象概念を手掛かりに,表象論との系譜について調べた上で中巻以降読み進めることにしよう。

| | コメント (0)

【映画日記】『掟』『ラストマイル』『愛に乱暴』

2024年91日(日)

この日は日本共産党の前国会議員である大門実紀史さんが日野で講演をするということで楽しみにしていた。家族は皆で立川で映画を観るということだった。すると,支部の方から連絡があり,大門さんの講演は本人の急病により中止になったとのこと。急いで立川で観られる映画を調べて出かけることにした。

立川キノシネマ 『掟』
時間的に都合がいいということで選んだ作品。東京都知事選挙で得票数2位になった石丸伸二氏をモデルにした劇映画。実は,5月にも彼を取り上げたドキュメンタリー映画『つぶやき市長と議会のオキテ』があって,映画自体は観られなかったが,ポリタスTVMCの宮崎園子さんが監督をゲストに議論する回を観ていた。その時は安芸高田市長としての石丸氏のことは何となくしか認知できていなかったが,都知事選で否応なしに彼のことを否定的な意味で知ることとなった。
『掟』の方は,事実に基づきながらも俳優を使った,人物名も地名も架空のものを使ったフィクションであるが,予告編を含めた宣伝の仕方は石丸批判的な雰囲気があったので楽しみに観に行ったが,実際はそうではなかった。おそらく上記のドキュメンタリー映画も一方的に石丸氏を断罪するようなものではなく,やはり石丸氏が改革したかった地方議会のあり方も大きな問題があることが分かる。とはいえ,石丸氏のネット戦術について『掟』の方ではほとんど描かず,公共事業の民間委託を中心とした新自由主義的な政策というのは描いているが,かなり石丸擁護的な作品だと私の目には映った。
https://malibu-corp.com/okite

 

2024年94日(水)

この日は私が勤めている会社の創立記念日ということでお休み。ちょうど午前中は息子の通う中学校の学校公開ということで観に行った。とても良い授業の進め方でとても参考になった。午後からは近場で映画。

府中TOHOシネマズ 『ラストマイル』
私のパートナーが薦めていた映画だったが,満島ひかりと岡田将生の出演ということで観ることにした。どうやらいくつかのテレビドラマを手掛けていたスタッフが,キャストと役どころもドラマのまま利用するというなかなか豪華な企画らしい。監督も脚本家も女性でこれだけ豪華な映画が作れるってのはすごいな,というのが第一印象。それはけっして女性の能力のことをいっているのではない。両者ともテレビドラマで評価を得て,劇場映画に進出ということかもしれないが,ともかく多額のかかる(CM収入でまかなえるテレビドラマとは違って,興行収入で回収しなければならない)映画が女性のクリエイターに任せられるということに新奇さを感じたということ。また,エンタメ映画でありながら,社会問題を扱っているというのも面白い。明らかにアマゾンを意識した,外資系の日本の物流大手を舞台にして,その流通センターを中心として,その荷物を運ぶ運送会社,そこで実際に荷物を運ぶドライバー。その企業間関係も含め,物流センターでの自動化される荷捌きと派遣・アルバイトの労働者たちとその管理体制,そうしたいかにも資本主義の最先端の問題をあぶりだしている。もちろん,グローバル企業の問題も。満島さんの演技はいつもながら魅力的だが,今回は岡田君の演技に注目していた。最近観た彼の演技はなんとなくしっくりきていなかった。彼がテレビドラマにどれだけ出ているかは知らないが,デビュー当時(『天然コケッコー』?)から映画に継続的に出演している。それは演技を評価されてなのか,単なる美貌か。本作を観てひとつ分かったのは,美貌を売りにするような役どころやコメディは向いていないということだ。やはり本作のような役どころは彼を魅力的に見せる。ただ,今後はいろんな役で彼の魅力を引き出すような作品を期待したい。
https://last-mile-movie.jp/

 

2024年95日(木)

吉祥寺アップリンク 『愛に乱暴』
なんと,一週間に三本の映画を観るという久し振りのスケジュール。この日は4日間与えられている会社の夏休み(有給)の最後の1日をとった。選んだ作品は江口のりこの主演作。吉田修一原作ということだが,これまで映画化されたものとはちょっと雰囲気が違って一組の夫婦+姑というこじんまりとしたスケール。江口の夫役を演じるのが小泉孝太郎。彼の演技をちゃんと見たことはなく,いつも満面の笑みを浮かべたCMくらいしか見ていなかったので,前髪が長くほとんど顔の全体像は分からず,CMでは比較的高い声を出しているが,本作ではぼそぼそと低い声で,まったくイメージが違かった。風吹ジュン演じる姑との仲が深い母息子関係という設定だが,なかなか面白い。風吹ジュンも相変わらず見た目が若いが,さすがにこの辺りの配役をさせられるようになったか。江口さんは以前は躊躇なく裸体を披露する稀な俳優だったが,本作でもさりげなく胸が写っている。ストーリー的にはなかなか評価が難しいが,江口のりこさんを堪能できるのと,雰囲気的には好ましい作品だった。
https://ainiranbou.com/

| | コメント (0)

【読書日記】比嘉豊光・西谷 修編『フォト・ドキュメント 骨の戦世(イクサユ)』

比嘉豊光・西谷 修編(2010):『フォト・ドキュメント 骨の戦世(イクサユ)――65年目の沖縄戦』岩波書店,79p.800円.

 

先日『骨を掘る男』というドキュメンタリー映画を観た。本書にも登場する具志堅隆松さんの最近の姿を追ったものだ。具志堅氏は現在70歳の1954年生まれ。28歳の頃から遺骨収集を始めたというのでもう40年もやられている。みずから「ガマフヤー=壕を掘る人」と呼ぶように,この映画で描かれているような,人里離れた場所で発掘作業をおこなってきたようだが,本書は少し異なっている。「那覇市内を走るモノレールのおもろまち駅から徒歩五分,こんもりと樹木が生い茂った大道森と呼ばれる小さな丘が,その現場である。」(p.56)と説明されるが,住宅地のまんなかの再開発地区で多数の人骨が発見されたということで,具志堅氏が先頭に立ってボランティアを集め(ボランティアだけでなく,お金を募りそれを就業の場にもしている),考古学的な遺構発掘のような作業が始まった。そしてそれを写真家として比嘉氏が撮影するという,そんな記録である。

骨に呼ばれて:比嘉豊光
珊瑚のカケラをして糺しめよ:仲里 効
熱狂の夏の足下に:新城和博
ある“一兵卒”女性の戦中・戦後:宮城晴美
65
年目の黄泉がえり:西谷 修
「戦死」を掘る――沖縄いおける遺骨収集の現在的展開:北村 毅
無数の罅割れと襞に向かって:小森陽一
写真撮影地一覧・沖縄本島中部の主な日本軍陣地,住民避難壕地図

とはいえ,目次からもわかるように本書は薄いながら多くの著者によって執筆がなされているし,帯には「沖縄の地にいまも 埋もれているもの,それは戦死者の骨と不発弾」とあるように,遺骨収集の話だけではない。私が本書で衝撃を受けた記述は,沖縄では2003年まで,地中から白骨が発見されても捜査の対象にはならなかったという話。沖縄以外では,地中から遺骨が発見されれば,事件性が疑われ,遺骨の身元判明と事件の捜査が始まる。いたって当たり前のことだ。しかし,沖縄では頻繁に地中から遺骨が出て,その多くが第二次世界大戦時の戦死者の遺骨であるため,基本的に捜査対象にはならなかったという。そして,私は上述した映画を観たこともあり,今戦死者の遺骨が発見されるのは,人里離れた場所だけかと思っていたらそうではないということ。むしろ数としては現在の市街地の方が多そうだ。那覇都市モノレールの開業は2003年となっていて,具志堅さんの下で大道森の遺骨収集運動が開始されたのが2007年というから,1945年に亡くなった方々の骨が,1972年までは米国の統治下にあったとはいえ,長年放置されていたことになる。そもそも,日本政府は戦後処理というものをほとんどしていないと思う。戦時中にアジア諸国にしたひどいことをほとんど謝罪をしていないし,賠償もしていない。国内についても戦死した兵士については補償しているようだが,負傷した兵士や民間人についてはどうなのだろうか。最近でも原爆被害者(黒い雨なども含めて)に対する補償についてまだ議論されている(訴訟などで)。戦死者の遺骨を遺族に返すということも同じである。本国ですらこの状態なので,当然民間人ではなく兵士であっても国外で亡くなられ,地中に骨が埋まっているという人々も相当数いるだろう。
宮城晴美さんの文章はこの大道森の件とは異なるが非常に興味深い。宮城さんは最近『しんぶん赤旗』にも登場していて,今沖縄で問題となっている米兵による少女への性暴力の件で声を上げているようだ。沖縄に限られたことではないが,こうして長年声を上げ続けている人はとても多く,こういう人の存在によって日本という国はかろうじて正気を保っているように思う。それはともかく,宮城さんの母親は本文にも「軍国女性」(p.26)と表現されているように,当時は戦争に直接参加するのは男性に限定されていたが,女性でありながら積極的に戦争に参加したいと願った人だったという。なんだかんだで沖縄戦の時は兵士たちの近くで行動を共にしたわけだが,最終的には兵士たちのほとんどは死に,宮城さんの母親は生き残った。戦後,戦時の経験を手記として発表してから亡くなった兵士たちの遺族から連絡があり交流が続いたという。そういえば,冒頭に触れた映画『骨を掘る男』の監督の親戚にも同じような女性がいて,映画のなかでは彼女の足跡をたどる試みもなされていて興味深い。第二次世界大戦はまさに総力戦として一般市民の多くも戦争にさまざまな形でかかわったということは忘れるべきではない。
さて,最後になるが,この「フォト・ドキュメント」と題された本書には当然多くの写真が掲載されているのだが,そのなかでも衝撃的なのが,65年後に発掘された遺体の頭蓋骨から,原形をとどめた脳みそが発見されたということで,その写真も掲載されていることだ(p.40)。脳みそが出てきたというのは偶然によるところが大きいと思うが,『骨を掘る男』でも描かれていたように,具志堅さんたちの遺骨収集は,考古学の遺跡発掘や恐竜の化石発掘さながらの丁寧な作業は,単に人骨を掘り起こすだけでなく,その人がどのような形で亡くなったのかまでを推察するような,遺物や体の形,骨の損傷状態なども含めての作業であるということは特筆しなくてはならないだろう。

| | コメント (0)

« 2024年8月 | トップページ | 2024年10月 »