【読書日記】カント『純粋理性批判(上)』
カント, I.著,篠田英雄訳(1961):『純粋理性批判(上)』岩波書店,371p.,900円.
カントの主著である『純粋理性批判』は地理学にとって重要な本だといわれている。カントは大学で自然地理学も講じているということも地理学にとってカントが重要である大きな理由だが,『純粋理性批判』では空間と時間について論じているということで,哲学寄りの地理学的考察において重要なのだ。1970年にトロント大学のメイという人物が『カントと地理学』という本を出し,1992年に松本正美さんの訳によって古今書院から日本語訳が出版されている。訳者の序文によれば,メイは哲学専攻から地理学に転向し,本書はその博士論文だったということだ。私の知り合いでも地理学専攻の修士論文でカントの時空間論をテーマにした人がいる。そういう意味でも,私にとっても本書におけるカントの時空間論にはいずれ取り組まなければならないと思っていた。
そんな時,私のパートナーの誘いで諏訪 敦という画家の作品が含まれる小さなギャラリーに行った。そこに展示されていた諏訪さんの作品は,岩波文庫版の『純粋理性批判』そのものを含んだものだった。本書のものを模写しているのか,実物の周りに絵画を加えているのか忘れたが,小さな作品だった。それに感化されて,パートナーは上中下巻の岩波文庫版を買い揃えたので,読んだ次第。とりあえず,上巻のみだけだが,現段階で読書日記をつけておこう(続けて中巻を読み続ける気力はない)。
第一版序文
第二版序文
緒言
I 先験的原理論
第一部門 先験的感性論
緒言(1)
第一節 空間について
第二節 時間について
第二部門 先験的論理学
緒言 先験的論理学の構想
第一部 先験的分析論
第一篇 概念の分析論
第二篇 原則の分析論(判断力の先験的理説)
私はかつて,ジャック・デリダなどの哲学書を好んで読んでいた。しかし,それは私が哲学に精通していて,それらをきちんと理解できていた,というわけではない。おそらく,ごく一部の人を除いてデリダの文章は難解できちんとは理解できないと思う。しかしながら,難解ながらも読んでいると何か重要なことを議論しているということを感じるという読書経験を持っている人は少なくないと思うし,難解な文章を読んでいることの充実感やそこから受ける刺激というのもある。しかし,現代のデリダと18世紀後半に書かれたカントが同列に読めるかどうかは分からなかったし,以前読んだカントの天文学や地震関係の本,そして最近読んだ『自然地理学』はそんなに難解ではなかったし,実際に読むまではどんな難解さかは想像ができなかった。
さて,実際に読んでみるとやはり難解だった。その難解さは同じ時代を生きていたデリダのものとはやはり異なり,18世紀のドイツ語を一昔前に日本語に翻訳したものであるということも手伝っているような難解さである。本書の書名からして,よく分からない。ということで,本書の難解さは私の不勉強さによるものなわけだが,この時代の哲学用語としての純粋と先験的,感性と悟性,そして書名にもあるが上巻ではまだ登場しない理性,概念と論理学,そうした用語の意味を,ついとなる用語はその違いも含めて一通り学んでおく必要があったようだ。しかし,私自身の読書の仕方として事前にその著者が書いたことをその著者以外の人が解説したものを読まずにまずはその著者自身の言葉を読む,ということをしてきた。ということで,上記の概念の意味を理解した上で読み進めれば多少なりとも理解できると思いながらも,カント自身がこの本の中でこれらの概念についての意味を説明しているという期待を抱きながら上巻を読み終えたが結局ははっきりと意味は理解できなかった。とはいえ,先験的という言葉は日常的に使わないにしても経験という対となる言葉も使われ,ア・プリオリとア・ポステリオリという対概念も用いられるので,先験的とは経験に先だつという意味としては理解できる。また,感性や悟性も一般的にも用いられるのである程度想像がつくが,悟性という概念については日常的にあまり使わないので,私自身もちゃんと考えたことがなく,本書によってこの概念をきちんと理解していないということを改めて痛感した。ただ,これも感性という言葉と対になっているので,感性とは初めての経験で知覚するものをそのまま感じるという意味合いとして,悟性はその次の段階として自分のなかで感覚された情報を咀嚼して思考する,というものだとして理解した。
さて,では本書のなかでの空間と時間の議論はどうなっているのか,全体に占める重要度(割合)はどうなっているのか。といっても繰り返し書いているように私はまだ上巻しか読んでいないが,目次にあるように,第一部門の第一節,第二節が空間と時間に充てられている。全体の分量からすれば決して多くはなく,本書は空間と時間について論じた書である,とはとてもいえず,本書のなかで空間と時間についての議論がある,といった程度だといえる。しかし,それが冒頭にあることはそれなりの重要性をカントが空間と時間に与えているといってよい。私が上巻を理解に苦しみながらも読んだ上で本書がどういう本かといわれれば,以下のようにある。私たちは物事を理解する際に順序がある。まずは五感を使って感覚する。感覚で受けた刺激から,その対象物としての物事が何であるかを知覚し,自らが持っている知識と照合して認識する。認識したものに価値を与え,判断し,思考するという人間の観念の段階を丁寧に論じるものだと理解した。その自己の外部にある事物の認識の際に,空間と時間が重要であり,それはつまり事物に秩序を与え,認識に混乱を及ぼさないような何かであるというという議論だと考える。感覚について,カントは内感(内的感覚)と外感(外的感覚)とに区別するのだが,それは自己の外部にある事物の感覚が外感であり,自己自身の認識・思考が内感であるといえる。そしてそれぞれの直感形式,空間が外感の,時間が内感のというわけだ。ここでいう直感とは「純粋直感」(p.91)であり,ここに書名の「純粋」が登場する。先験的やア・プリオリという語とも類似した意味で用いられている。つまり,空間と時間は私たちが自己の外部と内部に向けた感覚によって事物を知覚し,認識し,思考する(この段階が悟性か),その基礎となるものであり,なくてはならないものであるともいえる。なので,本書の考察でもそれが前段にあるといえよう。
なお,本書をより良く理解するための概念として「表象」がある。私にとって表象とは1960年代以降のフランス現代思想のキーワードであり,デリダやフーコーなどが用いたrepresentationである。少し遡るとフランスの社会学者デュルケームなども使ったようだが,20世紀フランスの用語と18世紀ドイツの用語の関係をきちんと理解しないと先に進めないようにも感じた。といっても,お分かりのように私が読んでいるのは1961年に日本語に翻訳されたものなので,フランス現代思想での議論の前の日本語である。とはいえ,デリダ自身の表象に関する議論は1967年に『声と現象』であり,この書はフッサール現象学に関するもので,もちろんドイツ語を基礎としている。フッサールも多少は読んだが,今回カントを読んでみて,やはりフッサールはカント哲学の系譜にあるとも感じるし,日本語版『純粋理性批判』を,現代思想的感覚で「表象」を理解しながら読み進めてもそれほど違和感はない。
フッサールよりも前の時代になるのだろうか,同じドイツのショーペンハウアーは1918年に『意志と表象としての世界』を書いている。『純粋理性批判』で「表象」と訳されている原語は確認する必要があるが,ショーペンハウアーの方は「Vorstellung」であることが分かり,この語は表象論としてデリダが用いているドイツ語の一つである。ショーペンハウアーはカントの影響も受けているようだ。「世界はわたしの表象」(中公クラシックス版I巻,p.5)の文章から『意志と表象としての世界』から始まり,表象にはVorstellungの語が付されており,(目前に見るように心に思い描くこと。心像,想像,観念など広い意味をふくむ)と本文中に訳語が付けられている。つまり,カント,ショーペンハウアー,フッサール,デリダは客観的な事物のあり方を否定するかどうかは別にして,人間が得られるのは自らが有する感覚を持って外界からの刺激をることしかできないという観念論の系譜にあることが分かる。よってカントは『純粋理性批判』のなかで,空間を自己の外部に客観的に広がるものとして捉えるのではなく(明らかにニュートンとは異なるが,デカルトの考えとどう違うかは考える必要があろう),人間の認識にあらかじめ備わった,ア・プリオリな形式として捉えているのだ。この表象概念を手掛かりに,表象論との系譜について調べた上で中巻以降読み進めることにしよう。
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