【読書日記】斎藤幸平『大洪水の前に』
斎藤幸平(2022)『大洪水の前に――マルクスと惑星の物質代謝』角川書店,414p.,1,540円.
斎藤幸平さんは私の身近なところでは、毎朝聞いているNHKの朝のラジオ「マイあさ」にもたびたび登場するし、私はテレビを観ないが、どうやらコメンテーターでよく出ているような人になったらしい。というのも、『人新生の『資本論』』がベストセラーになって有名になり、東京大学の准教授になっている。最近聞いたラジオによれば、今はドイツで在外研究をしているらしい。
『人新生の『資本論』』があまりに話題になってしまったので、読む気がうせてしまったが、今日本共産党の学習としてマルクス『資本論』を読み始めている。日本共産党と斎藤幸平さんとの関係がイマイチだということは聞いていた(斎藤さんは共産党とのかかわりを持ちたいようだが、党側が拒んでいるという図式のようだ)ので、その理由を自分なりに考えたいということで、読んでみることにした。といっても、斎藤幸平さんといえばその出世作はこの『大洪水の前に』であり、これはもともと彼の博士論文で、ベルリン大学にドイツ語で提出されたのが2014年。それが日本の堀之内出版から出たのが2019年。私はこういう場合、もともとの堀之内出版版を欲しがるタイプだが、この角川文庫版にはジジェクの解説が載っているということで、こちらを読むことにした。なお、日本語版は、博士論文以降に発表された日本語と英語の論文4編の内容を含め、日本の読者を意識して大幅に加筆修正されたようだ(あとがきより)。しかし、この目次からすると、4章以降が本書のなかではかなり大事なので、博士論文だけ読むとだいぶ印象が違うかもしれない(ドイツ語は読めないが)。いずれにせよ、私は地理学者としては、本書がエコロジーを問題にしているということで、私も本書にも出てくるシュミット『マルクスの自然概念』を引用したことがあるが、自然概念には大いなる関心を持っているため、本書はいずれ読んでみたいとは思った次第。なお、本書には地理学者デヴィッド・ハーヴェイは登場しないが、ニール・スミスの本には一冊言及がある。
本書の2019年ハードカバー版を出している堀之内出版のことは、そこの編集者であった小林えみさんの存在によって知った。小林さんは分倍河原駅前にマルジナリア書店を開き、よはく舎という出版社も経営している。この文庫版にも編集協力として小林さんの名前が出ている。そんなこともあって、マルジナリア書店で堀之内出版の雑誌・書籍を買ったところ、その所在地は八王子市にあり、どうやら京王相模原線の堀之内駅の近くにあり、そこから来ているのだろう。私の出身大学は隣駅の南大沢にあったので、都立大関係者と堀之内出版とが関係するのかと思ったがよく分からない。
はじめに
第一部 経済学批判とエコロジー
第一章 労働の疎外から自然の疎外へ
第二章 物質代謝論の系譜学
第二部 『資本論』と物質代謝の亀裂
第三章 物質代謝論としての『資本論』
第四章 近代農業批判と抜粋ノート
第三部 晩期マルクスの物質代謝論へ
第五章 エコロジーノートと物質代謝論の新地平
第六章 利潤、弾力性、自然
第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係のエコロジー
おわりに
あとがき
文庫版あとがき
解説:スラヴォイ・ジジェク
参考文献
さて、本書はマルクスのおひざ元であるドイツに行ってマルクスを読み直した成果である。本書によれば、近年ドイツで新『マルクス・エンゲルス全集(MEGA)』の刊行が続いているということで、初めて刊行される新資料も用いて、従来のマルクスのエコロジー論を一新しようという試みだという。実は私も本書で言及されているアルフレッド・シュミットの『マルクスの自然概念』(法政大学出版局、1972年)は読んでいる。
地理学のなかで自然の社会的構築という議論があり、一時期関心を持っていた。ということで、エンゲルスの『自然の弁証法』(岩波文庫)にも挑戦したのだが、早くに挫折した。本書によれば、マルクスもエンゲルスも自然科学に大いに関心を持っていたとのこと。『自然の弁証法』はその学習の成果だといってもよい。
これは私の勝手な想像ではあるが、マルクスよりもう少し後の時代にフランスで社会学を確立したエミール・デュルケームなども、社会学も科学(Science)としての地位を獲得するために自然科学から方法論を中心にさまざまなことを吸収したという。マルクスとエンゲルスについても科学的社会主義というように、自らの議論を科学の地位に高めるためにも自然科学から学ぼうと思っていたのかもしれない。
もちろん、本書の趣旨はそこにはない。なお、本書のタイトルだが、Wikipediaによればフランスのルイ15世の愛人の言葉とされる「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」を基にしている。元の言葉はフランス革命と関係するようだが、マルクスも『資本論』で用いたという。マルクスは資本家のスローガンとして書いているようだが、要は権力者の無責任な発言ということか。いずれにせよ、現代の気候危機の時代にあっては比喩表現ではなく、字義通りの意味で解釈することができる。なので、斎藤氏は現在の権力者の次世代に地球が住めなくなる惑星になってしまうようなことがないように、権力者たちに気候危機対策を迫るという意味を込めたものと思われる。
まあ、ともかく近年まで長きにわたるマルクス主義の伝統があるわけだが、マルクス自身は19世紀の人間だし、現代の気候危機に対応するエコロジー思想については時代的制約から議論することはできなかったというのが大勢の意見ということになる。しかし、よく考えればエコロジー概念の生みの親であるエルンスト・ヘッケルは19世紀の人間で、しかも英国のダーウィンによる進化論をマルクスと同じドイツで広めた。もちろん、一元論思想として生み出された当時のエコロジー=生態学が今日のような自然環境保全という思想と直に結びついているわけではないが、マルクス自身にエコロジー思想があったと考えることに無理はないと思う。なお、今のうちに書いておくと、本書にはマルクスより少し前の時代に同じドイツで活躍したアレクサンダー・フォン・フンボルトが少し登場する。フンボルトといえば私たち地理学者にとっては近代地理学の父とでもいうような重要な存在だが、斎藤氏が本書を博士論文として提出したのがベルリン・フンボルト大学の名前はアレクサンダーの実兄であるヴェルヘルム・フォン・フンボルトに由来するものである。
さて、この手の思想色の強い分量のある学術書を読んだのは久しぶりなので、読み終わった後に詳細を覚えているわけではない。改めてページをぺらぺらめくると、うーん、そんなこと書いてあったのか、となってしまうので、あくまでも印象的な読書日記となる。前半で私が興味をもって集中して読むことができたのは、物象化論が展開されていたからだ。本文では「物象化」ではなく、「疎外」概念が用いられているが、私がかつてマルクス以外から学んだのは疎外と物象化、そして商品の物神崇拝(フェティシズム)は一連の関連する概念である。要は、人間の仕事(労働)というのは農作業が原始的で、自然と関わり合いながらそこから生きる糧を得る。自給自足の社会では、その労働は何よりも自分のための物(生産物)であり、多少分業が進んだとしても同じ社会を生きる仲間のための物である。物々交換から貨幣を媒介とした、見知らぬ者に生産物が渡るという根本的な違いを論じたものだと理解している。つまり、生産物が「あの人のために作った」というものから「誰だか知らないが使って(食べて)くれるだろう」という形に変わる。労働者は自らの生産過程でできた生産物との関わりに変更が生じ、確かルカーチの言葉だったと思うが、疎外とは「労働を忘れること」が必要となる。人間関係のなかで生産物がやりとりされるのではなく、生産物=商品のやりとりを通して(目に見えない)人間関係が構築される、という社会のあり方自体が貨幣経済によって根本的に変化するということを物象化論は論じている。これを特に自然と関わる農業労働の場合は、人間と自然との関わりに当てはめることができ、その後人間が自然を酷使し、破壊していくことへとつながっていく。その先に読み進むと、物象化に関する議論もありました。なかなか端的に引用できる個所はないですが、pp.140-141あたりです。
次に気になった個所は、「「物象化」と「エコロジー」への着目は「形態規定」と「素材的世界」の弁証法的規定関係こそがマルクスの経済学批判の中心的テーマである」(p.125)というものである。私にはこの「形態」と「素材」の二項対立でどんな議論がしたいのか、よくわからなかったが、先に挙げた「物象化」の概念があることと、これは第三章の冒頭からの引用だが、この章からまさに本書の副題にある「物質代謝」論が本格的に始まるということで、重要なように思う。この日本語版では主要概念のドイツ語表記も英語表記もないことが多い。ちなみに、物質代謝とはドイツ語でStoffwechsel、英語はMetabolismのようだ。で、形態と素材に戻ると、これはいわゆる形相と質料というアリストテレスの概念ではないかと思った次第。もうちょっと遡ったら、素材と形態がマルクスの引用にあった。「使用価値が考察されるかぎりでは素材転換から、価値そのものが考察されるかぎりでは携帯転換からなる、一つのシステムである。」(p.94)
「物質代謝」に関しては、読後にしっかりと自信をもって説明できるほど理解はできなかった。「物質代謝の亀裂」という表現がよく使われ、「物質代謝の攪乱」などという表現もある。物質と(material)はマルクスの哲学である唯物論(materialism)との関係でいえば、議論の基礎であり、代謝といえば有機体の身体を構成する物質の交換、すなわち新しい物質を取り込んで、古い物質を排泄することを意味する。これを社会で考えるとしたらある種の社会有機体説であり、社会における物質の運動の主要な原動力が経済ということになる。資本家と労働者が商品を生産し、流通し、消費者=労働者の手にわたり消費し、廃棄物として処理される。そこに自然を組み込めば、食料をはじめとして、自然物を原料として商品が生産され、廃棄されたのち自然へと戻る。生産の段階で自然が破壊され、廃棄の段階で自然が汚染されれば、その物質代謝は「亀裂」ないし「攪乱」状態になり、人間社会の存続にも影響を及ぼす。わたしなりに勝手に解釈すればそんな議論か。
さて、第三章まではかなり抽象的な議論であり、読んでいて面白くはあるが、こうして読書日記として要約しようと思うとおぼつかない。第四章からはかなり具体的な議論となり、これはこれで面白い。マルクスの時代にはマルサスの人口論の影響が経済学に対しても強かったようだ。人口が等比級数的に増加するようになった時代にあって、それを支える食糧生産は等差級数的にしか増加しないという議論。そんななかで、近代農業が進展してくる。ここでリービッヒという自然科学者が登場する。近代農業というのはいわゆる化学肥料によって農業生産力が飛躍的に向上することである。それ以前の時代はいわゆる植民地支配下でのプランテーション、モノカルチャー経済が進展し、農地の荒廃が深刻になる。そこで、リービッヒが「工場で製造された化学肥料の使用による土壌管理によって農業の生産性を無制限に増大させることができるというリービッヒの楽観的見解」(p.179)に1850年代のマルクスが共鳴したのだという。しかし、リービッヒ自身がその後近代農業批判を強めていくという。この辺りの論証がとても面白い。マルクスの『ロンドン・ノート』を本書ではかなり用いているが、マルクスはロンドンに滞在し、日々図書館にこもり、文献を読んではノートに書き写していたというのだ。また、自ら購入した自家本への書き込みなども検討材料になる。そしてリービッヒのみならず、その周辺の研究者の著作もマルクスは読んではノートに書き写し、そして斎藤氏はマルクスが読んでいた著作を片っ端から読んで、その著作の全体のなかでマルクスがどんな関心をもってノートをつけたのか、そういう文献学的な検証作業が行われている。第四章のなかに「環境帝国主義とグローバル環境危機」(p.216)という説がある。私も少しずつマルクスを読んでいるが、いわゆる三角貿易的な植民地経済の話はあまり出てこない印象だが、ここで若干議論されている。そして、ここで先に言及したアレクサンダー・フォン・フンボルトが登場する。化学肥料が出てくる前に時代。「南アメリカの沿岸部で採掘できる海鳥の糞や死骸などの堆積物」である「グアノ」(p.216)を現地の農民が肥料として使用しているのを報告したのがフンボルトなのだという。そう、フンボルトは1799年から南米旅行を行い、各種の調査を行ったのだ。そして、その報告を受けてヨーロッパ諸国はこのグノアを南米から大量に輸入して枯渇させてしまったという。「物質の循環に亀裂の入った資本主義における掠奪と乱費のシステムは、生産力と輸送手段の発達とともに、世界市場上の商品交換と植民地支配を通じた暴力による収奪によって、ますます大量の自然資源を資本蓄積のために利用しようとする。」(p.219)という一文は一つの結論であるかもしれない。英国の植民地であったインドについてマルクスが書いていることは知っていたが、やはり植民地としてのインドの状況についてもここで議論されているのは興味深い。
第五章ではリービッヒとその同時代研究者が議論の俎上にあげられていく。特に興味深いのが、「ドイツの農学者カール・フラース」(p.247)という人物。化学肥料に頼るのではなく、人工的に河川の流れをせき止め、農地に水を流し河川が運んだ物質を沈殿させるという「沖積理論」を提唱している。また、フラースは古代文明以降の人類の活動によってすでに気候の変化が引き起こされ、砂漠化が進んでいたという。さすがにこの時代は地球全体といわずとも広域の気温上昇までは問題にされなかったと思うが、いずれにせよ「植物相の変化」(p.267)は観察されていて、それは「農作物の栽培を徐々に困難なものとし、文明繁栄のための物質的基礎を瓦解させた」(p.267)と論じられている。
第七章は多少おまけ的なところがあるが、本書の目的に立ち戻って、なぜこうしたマルクスのエコロジー的な思想が現代に伝わらなかったのかという点を、エンゲルスに起因するものだとしている。『資本論』自体も第一巻しかマルクスの生前には刊行されず、第二巻、第三巻は残された草稿からエンゲルスが編集したものであり、また草稿自体も完成したものではなかったという制約もありながら、マルクスの到達したエコロジー思想をエンゲルスが捉えそこなったともいえる。ところで、日本共産党は近年志位議長を中心に「共産主義と自由」というスローガンを掲げ、日本共産党が目指している社会主義・共産主義社会では、労働者の自由が確保されると主張している。生産手段の社会化を進めることで、資本家に搾取されていた賃金だけでなく、時間をも取り戻す(長時間労働を是正し、労働時間の抜本的な短縮を目指す。もちろん、それに伴って賃金が減るわけではない仕組みで)といっている。これは志位さんが『資本論』やマルクスが言及している他人のパンフレット(そういう意味では、その作業は斎藤氏に近い)をたどることで、マルクスは人々の自由時間を確保することが豊かな社会の実現に不可欠だというのだ。ところで、本書にもそうした議論が存在する。「マルクスにとっての「自由」は、自然科学の発展にもとづく自然との物質代謝の意識的な制御に制限されるものではなく、芸術や音楽などの創作活動の従事し、友情や愛情を育み、読書やスポーツなどの趣味に興じることを含む。」(p.345)という記述も面白い。
さて、この文庫版にはスラヴォイ・ジジェクの解説が収録されている。ジジェクの作品は『斜めから読む』以降の初期のものを私もだいぶ読んだが、最近はほとんど読んでいない。そんなこともあるのか、あまり関心を持って読むことができなかった。そもそも、本書への言及はほとんどなく、共通テーマに関した独断に過ぎないところが残念だった。


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