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2025年8月

【読書日記】斎藤幸平『大洪水の前に』

斎藤幸平(2022)『大洪水の前に――マルクスと惑星の物質代謝』角川書店,414p.,1,540円.

 

斎藤幸平さんは私の身近なところでは、毎朝聞いているNHKの朝のラジオ「マイあさ」にもたびたび登場するし、私はテレビを観ないが、どうやらコメンテーターでよく出ているような人になったらしい。というのも、『人新生の『資本論』』がベストセラーになって有名になり、東京大学の准教授になっている。最近聞いたラジオによれば、今はドイツで在外研究をしているらしい。
『人新生の『資本論』』があまりに話題になってしまったので、読む気がうせてしまったが、今日本共産党の学習としてマルクス『資本論』を読み始めている。日本共産党と斎藤幸平さんとの関係がイマイチだということは聞いていた(斎藤さんは共産党とのかかわりを持ちたいようだが、党側が拒んでいるという図式のようだ)ので、その理由を自分なりに考えたいということで、読んでみることにした。といっても、斎藤幸平さんといえばその出世作はこの『大洪水の前に』であり、これはもともと彼の博士論文で、ベルリン大学にドイツ語で提出されたのが2014年。それが日本の堀之内出版から出たのが2019年。私はこういう場合、もともとの堀之内出版版を欲しがるタイプだが、この角川文庫版にはジジェクの解説が載っているということで、こちらを読むことにした。なお、日本語版は、博士論文以降に発表された日本語と英語の論文4編の内容を含め、日本の読者を意識して大幅に加筆修正されたようだ(あとがきより)。しかし、この目次からすると、4章以降が本書のなかではかなり大事なので、博士論文だけ読むとだいぶ印象が違うかもしれない(ドイツ語は読めないが)。いずれにせよ、私は地理学者としては、本書がエコロジーを問題にしているということで、私も本書にも出てくるシュミット『マルクスの自然概念』を引用したことがあるが、自然概念には大いなる関心を持っているため、本書はいずれ読んでみたいとは思った次第。なお、本書には地理学者デヴィッド・ハーヴェイは登場しないが、ニール・スミスの本には一冊言及がある。
本書の2019年ハードカバー版を出している堀之内出版のことは、そこの編集者であった小林えみさんの存在によって知った。小林さんは分倍河原駅前にマルジナリア書店を開き、よはく舎という出版社も経営している。この文庫版にも編集協力として小林さんの名前が出ている。そんなこともあって、マルジナリア書店で堀之内出版の雑誌・書籍を買ったところ、その所在地は八王子市にあり、どうやら京王相模原線の堀之内駅の近くにあり、そこから来ているのだろう。私の出身大学は隣駅の南大沢にあったので、都立大関係者と堀之内出版とが関係するのかと思ったがよく分からない。

はじめに
第一部 経済学批判とエコロジー
 第一章 労働の疎外から自然の疎外へ
 第二章 物質代謝論の系譜学
第二部 『資本論』と物質代謝の亀裂
 第三章 物質代謝論としての『資本論』
 第四章 近代農業批判と抜粋ノート
第三部 晩期マルクスの物質代謝論へ
 第五章 エコロジーノートと物質代謝論の新地平
 第六章 利潤、弾力性、自然
 第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係のエコロジー
おわりに
あとがき
文庫版あとがき
解説:スラヴォイ・ジジェク
参考文献

さて、本書はマルクスのおひざ元であるドイツに行ってマルクスを読み直した成果である。本書によれば、近年ドイツで新『マルクス・エンゲルス全集(MEGA)』の刊行が続いているということで、初めて刊行される新資料も用いて、従来のマルクスのエコロジー論を一新しようという試みだという。実は私も本書で言及されているアルフレッド・シュミットの『マルクスの自然概念』(法政大学出版局、1972年)は読んでいる。
地理学のなかで自然の社会的構築という議論があり、一時期関心を持っていた。ということで、エンゲルスの『自然の弁証法』(岩波文庫)にも挑戦したのだが、早くに挫折した。本書によれば、マルクスもエンゲルスも自然科学に大いに関心を持っていたとのこと。『自然の弁証法』はその学習の成果だといってもよい。
これは私の勝手な想像ではあるが、マルクスよりもう少し後の時代にフランスで社会学を確立したエミール・デュルケームなども、社会学も科学(Science)としての地位を獲得するために自然科学から方法論を中心にさまざまなことを吸収したという。マルクスとエンゲルスについても科学的社会主義というように、自らの議論を科学の地位に高めるためにも自然科学から学ぼうと思っていたのかもしれない。
もちろん、本書の趣旨はそこにはない。なお、本書のタイトルだが、Wikipediaによればフランスのルイ15世の愛人の言葉とされる「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」を基にしている。元の言葉はフランス革命と関係するようだが、マルクスも『資本論』で用いたという。マルクスは資本家のスローガンとして書いているようだが、要は権力者の無責任な発言ということか。いずれにせよ、現代の気候危機の時代にあっては比喩表現ではなく、字義通りの意味で解釈することができる。なので、斎藤氏は現在の権力者の次世代に地球が住めなくなる惑星になってしまうようなことがないように、権力者たちに気候危機対策を迫るという意味を込めたものと思われる。
まあ、ともかく近年まで長きにわたるマルクス主義の伝統があるわけだが、マルクス自身は19世紀の人間だし、現代の気候危機に対応するエコロジー思想については時代的制約から議論することはできなかったというのが大勢の意見ということになる。しかし、よく考えればエコロジー概念の生みの親であるエルンスト・ヘッケルは19世紀の人間で、しかも英国のダーウィンによる進化論をマルクスと同じドイツで広めた。もちろん、一元論思想として生み出された当時のエコロジー=生態学が今日のような自然環境保全という思想と直に結びついているわけではないが、マルクス自身にエコロジー思想があったと考えることに無理はないと思う。なお、今のうちに書いておくと、本書にはマルクスより少し前の時代に同じドイツで活躍したアレクサンダー・フォン・フンボルトが少し登場する。フンボルトといえば私たち地理学者にとっては近代地理学の父とでもいうような重要な存在だが、斎藤氏が本書を博士論文として提出したのがベルリン・フンボルト大学の名前はアレクサンダーの実兄であるヴェルヘルム・フォン・フンボルトに由来するものである。
さて、この手の思想色の強い分量のある学術書を読んだのは久しぶりなので、読み終わった後に詳細を覚えているわけではない。改めてページをぺらぺらめくると、うーん、そんなこと書いてあったのか、となってしまうので、あくまでも印象的な読書日記となる。前半で私が興味をもって集中して読むことができたのは、物象化論が展開されていたからだ。本文では「物象化」ではなく、「疎外」概念が用いられているが、私がかつてマルクス以外から学んだのは疎外と物象化、そして商品の物神崇拝(フェティシズム)は一連の関連する概念である。要は、人間の仕事(労働)というのは農作業が原始的で、自然と関わり合いながらそこから生きる糧を得る。自給自足の社会では、その労働は何よりも自分のための物(生産物)であり、多少分業が進んだとしても同じ社会を生きる仲間のための物である。物々交換から貨幣を媒介とした、見知らぬ者に生産物が渡るという根本的な違いを論じたものだと理解している。つまり、生産物が「あの人のために作った」というものから「誰だか知らないが使って(食べて)くれるだろう」という形に変わる。労働者は自らの生産過程でできた生産物との関わりに変更が生じ、確かルカーチの言葉だったと思うが、疎外とは「労働を忘れること」が必要となる。人間関係のなかで生産物がやりとりされるのではなく、生産物=商品のやりとりを通して(目に見えない)人間関係が構築される、という社会のあり方自体が貨幣経済によって根本的に変化するということを物象化論は論じている。これを特に自然と関わる農業労働の場合は、人間と自然との関わりに当てはめることができ、その後人間が自然を酷使し、破壊していくことへとつながっていく。その先に読み進むと、物象化に関する議論もありました。なかなか端的に引用できる個所はないですが、pp.140-141あたりです。
次に気になった個所は、「「物象化」と「エコロジー」への着目は「形態規定」と「素材的世界」の弁証法的規定関係こそがマルクスの経済学批判の中心的テーマである」(p.125)というものである。私にはこの「形態」と「素材」の二項対立でどんな議論がしたいのか、よくわからなかったが、先に挙げた「物象化」の概念があることと、これは第三章の冒頭からの引用だが、この章からまさに本書の副題にある「物質代謝」論が本格的に始まるということで、重要なように思う。この日本語版では主要概念のドイツ語表記も英語表記もないことが多い。ちなみに、物質代謝とはドイツ語でStoffwechsel、英語はMetabolismのようだ。で、形態と素材に戻ると、これはいわゆる形相と質料というアリストテレスの概念ではないかと思った次第。もうちょっと遡ったら、素材と形態がマルクスの引用にあった。「使用価値が考察されるかぎりでは素材転換から、価値そのものが考察されるかぎりでは携帯転換からなる、一つのシステムである。」(p.94
「物質代謝」に関しては、読後にしっかりと自信をもって説明できるほど理解はできなかった。「物質代謝の亀裂」という表現がよく使われ、「物質代謝の攪乱」などという表現もある。物質と(material)はマルクスの哲学である唯物論(materialism)との関係でいえば、議論の基礎であり、代謝といえば有機体の身体を構成する物質の交換、すなわち新しい物質を取り込んで、古い物質を排泄することを意味する。これを社会で考えるとしたらある種の社会有機体説であり、社会における物質の運動の主要な原動力が経済ということになる。資本家と労働者が商品を生産し、流通し、消費者=労働者の手にわたり消費し、廃棄物として処理される。そこに自然を組み込めば、食料をはじめとして、自然物を原料として商品が生産され、廃棄されたのち自然へと戻る。生産の段階で自然が破壊され、廃棄の段階で自然が汚染されれば、その物質代謝は「亀裂」ないし「攪乱」状態になり、人間社会の存続にも影響を及ぼす。わたしなりに勝手に解釈すればそんな議論か。
さて、第三章まではかなり抽象的な議論であり、読んでいて面白くはあるが、こうして読書日記として要約しようと思うとおぼつかない。第四章からはかなり具体的な議論となり、これはこれで面白い。マルクスの時代にはマルサスの人口論の影響が経済学に対しても強かったようだ。人口が等比級数的に増加するようになった時代にあって、それを支える食糧生産は等差級数的にしか増加しないという議論。そんななかで、近代農業が進展してくる。ここでリービッヒという自然科学者が登場する。近代農業というのはいわゆる化学肥料によって農業生産力が飛躍的に向上することである。それ以前の時代はいわゆる植民地支配下でのプランテーション、モノカルチャー経済が進展し、農地の荒廃が深刻になる。そこで、リービッヒが「工場で製造された化学肥料の使用による土壌管理によって農業の生産性を無制限に増大させることができるというリービッヒの楽観的見解」(p.179)に1850年代のマルクスが共鳴したのだという。しかし、リービッヒ自身がその後近代農業批判を強めていくという。この辺りの論証がとても面白い。マルクスの『ロンドン・ノート』を本書ではかなり用いているが、マルクスはロンドンに滞在し、日々図書館にこもり、文献を読んではノートに書き写していたというのだ。また、自ら購入した自家本への書き込みなども検討材料になる。そしてリービッヒのみならず、その周辺の研究者の著作もマルクスは読んではノートに書き写し、そして斎藤氏はマルクスが読んでいた著作を片っ端から読んで、その著作の全体のなかでマルクスがどんな関心をもってノートをつけたのか、そういう文献学的な検証作業が行われている。第四章のなかに「環境帝国主義とグローバル環境危機」(p.216)という説がある。私も少しずつマルクスを読んでいるが、いわゆる三角貿易的な植民地経済の話はあまり出てこない印象だが、ここで若干議論されている。そして、ここで先に言及したアレクサンダー・フォン・フンボルトが登場する。化学肥料が出てくる前に時代。「南アメリカの沿岸部で採掘できる海鳥の糞や死骸などの堆積物」である「グアノ」(p.216)を現地の農民が肥料として使用しているのを報告したのがフンボルトなのだという。そう、フンボルトは1799年から南米旅行を行い、各種の調査を行ったのだ。そして、その報告を受けてヨーロッパ諸国はこのグノアを南米から大量に輸入して枯渇させてしまったという。「物質の循環に亀裂の入った資本主義における掠奪と乱費のシステムは、生産力と輸送手段の発達とともに、世界市場上の商品交換と植民地支配を通じた暴力による収奪によって、ますます大量の自然資源を資本蓄積のために利用しようとする。」(p.219)という一文は一つの結論であるかもしれない。英国の植民地であったインドについてマルクスが書いていることは知っていたが、やはり植民地としてのインドの状況についてもここで議論されているのは興味深い。
第五章ではリービッヒとその同時代研究者が議論の俎上にあげられていく。特に興味深いのが、「ドイツの農学者カール・フラース」(p.247)という人物。化学肥料に頼るのではなく、人工的に河川の流れをせき止め、農地に水を流し河川が運んだ物質を沈殿させるという「沖積理論」を提唱している。また、フラースは古代文明以降の人類の活動によってすでに気候の変化が引き起こされ、砂漠化が進んでいたという。さすがにこの時代は地球全体といわずとも広域の気温上昇までは問題にされなかったと思うが、いずれにせよ「植物相の変化」(p.267)は観察されていて、それは「農作物の栽培を徐々に困難なものとし、文明繁栄のための物質的基礎を瓦解させた」(p.267)と論じられている。
第七章は多少おまけ的なところがあるが、本書の目的に立ち戻って、なぜこうしたマルクスのエコロジー的な思想が現代に伝わらなかったのかという点を、エンゲルスに起因するものだとしている。『資本論』自体も第一巻しかマルクスの生前には刊行されず、第二巻、第三巻は残された草稿からエンゲルスが編集したものであり、また草稿自体も完成したものではなかったという制約もありながら、マルクスの到達したエコロジー思想をエンゲルスが捉えそこなったともいえる。ところで、日本共産党は近年志位議長を中心に「共産主義と自由」というスローガンを掲げ、日本共産党が目指している社会主義・共産主義社会では、労働者の自由が確保されると主張している。生産手段の社会化を進めることで、資本家に搾取されていた賃金だけでなく、時間をも取り戻す(長時間労働を是正し、労働時間の抜本的な短縮を目指す。もちろん、それに伴って賃金が減るわけではない仕組みで)といっている。これは志位さんが『資本論』やマルクスが言及している他人のパンフレット(そういう意味では、その作業は斎藤氏に近い)をたどることで、マルクスは人々の自由時間を確保することが豊かな社会の実現に不可欠だというのだ。ところで、本書にもそうした議論が存在する。「マルクスにとっての「自由」は、自然科学の発展にもとづく自然との物質代謝の意識的な制御に制限されるものではなく、芸術や音楽などの創作活動の従事し、友情や愛情を育み、読書やスポーツなどの趣味に興じることを含む。」(p.345)という記述も面白い。
さて、この文庫版にはスラヴォイ・ジジェクの解説が収録されている。ジジェクの作品は『斜めから読む』以降の初期のものを私もだいぶ読んだが、最近はほとんど読んでいない。そんなこともあるのか、あまり関心を持って読むことができなかった。そもそも、本書への言及はほとんどなく、共通テーマに関した独断に過ぎないところが残念だった。

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【映画日記】『夏の砂の上』『ウナイ 透明な闇PFAS汚染に立ち向かう』『よみがえる声』

2025年7月26日(土)

立川シネマシティ 『夏の砂の上』
この日は私の誕生日。なんだかんだで午後を一人で過ごせることになって立川まで映画を観に行った。予告編を観て、『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』など佐藤泰志原作の函館三部作の映画化されたものに雰囲気が似ていると思って観に行った。主演はオダギリジョーで、離婚した妻役を松たか子が演じ、その恋人役を森山直太朗が演じるというなかなか面白いキャストでもある。しかし、そこで目立った演技を見せていたのが、満島ひかり演じるところのオダギリの妹が預けていった娘を演じる高石あかり。ちょっと調べたら、今度のNHK朝ドラ「ばけばけ」のヒロインに抜擢されたという。まあ、納得の存在感。
さて、本作の舞台は長崎。私も院生の頃、学生の調査演習旅行でティーチングアシスタントとしてついて行った事がある。着くなり風邪をひいてしまい、宿で寝ていて、持参したウォーラーステイン『脱=社会科学』を読んでいた記憶が強いが、ともかく坂の街を歩いた記憶は残っている。こんな街に原爆が落とされたのか、と思いをはせながら、その坂は初めて経験するものだったので、強く印象に残っている。本作もまさに坂に位置する住宅に住む主人公の日々の生活を描く。そして、特に温暖化というのを強調するわけではないが、雨の降らない暑い夏の日々を印象付ける演出。まさに函館三部作と似た雰囲気の面白作品。
https://natsunosunanoue-movie.asmik-ace.co.jp/

 

2025年8月16日(土)

この日は久しぶりに一日中一人で自由に行動できるということで、映画を2本観ようと決めて、作品を検索した。こういう場合、私は立川のシネマシティかキノシネマ、吉祥寺のアップリンク、下高井戸シネマなどを候補に選ぶ。もう、新宿や渋谷、日比谷や銀座、有楽町に足を運ぶのは億劫になってしまっている。
そして、東中野。今回はちょうど観たいドキュメンタリー作品が2本続けて上映していたので、昼食が取れるかの心配はあったが、朝から行くことにした。

ポレポレ東中野 『ウナイ 透明な闇PFAS汚染に立ち向かう』
まずは、PFASをめぐる映画。PFAS問題はTansaの中川記者による取材がYouTubeのデモクラシータイムスで配信されていて、数年前から注目していた。それ以前から米軍の泡消火剤の影響で沖縄や東京でも横田基地周辺では問題となっていたが、Tansaでは米軍基地とは関係ない大阪府の摂津市や岡山の吉備中央町の問題を早くから報じていた。本作の舞台は沖縄。ウナイとは沖縄の言葉で姉妹を意味するという。ネットで調べたら「沖縄うない」なんて地域政党までヒットした。この映画ではとにかく女性が多く登場する。PFAS汚染というのは水の汚染が顕著であり、沖縄では2016年に水道水に基準値以上のPFASが含まれているということを沖縄県が公表している。この頃子育てをしていた平良いずみ監督が少しずつ取材をするようになり、同じような不安の中勉強会を始め、徐々に社会運動へと発展していく母親たちに5年前に出会い、映画制作がスタートしたという。Tansa中川さんの報告にも出てくるが、京都大学の研究者チームがPFASの人体への影響を研究していて、こうした地域住民による社会運動に協力して血液検査などを行い、日本でも本格的にこの問題がクローズアップされていく。しかし、日本政府の反応は悪く、監督はこの問題に対して先んじて市民が運動をし、政府も対策に乗り出したような欧米諸国を訪ねる。本作では後にPFAS問題の解決を公約に沖縄県北谷町議会議員選挙に立候補し当選することになる仲宗根由美さんを中心に展開するが、米国やドイツ、イタリアなどでもPFAS問題に立ち上がった女性たちと出会い、その運動を取材してくる。
なお、東京ではこの日が初日ということで、監督と仲宗根由美さんの舞台挨拶がありました。
https://unai-pfas.jp/

 

ポレポレ東中野 『よみがえる声』
続けて観たのが、朴壽南(パク・スナム)さんの半生をつづった作品。ドキュメンタリー映画作家として、朝鮮人被爆者を追った『もうひとつのヒロシマ』(1986年)、沖縄戦で戦わされた朝鮮人兵、そして朝鮮人慰安婦を追った『アリランのうた−オキナワからの証言』(1991年)、2012年にもその続編ともいえる『ぬちがふぅ(命果報)−玉砕場からの証言』、そして韓国の日本軍慰安婦を追った『沈黙−立ち上がる慰安婦』を2017年に発表している。こんな人の存在を知らなかったということは恥じるしかないが、そうした活動の始まりは、1958年に起きた小松川事件である。この事件は在日朝鮮人二世の男性が日本女性を殺害してしまった事件で、死刑が執行されるまでの間、李珍宇(イ・ジヌ)との交流を持ち、往復書簡を書籍『罪と死と愛と』として1963年に発表している。この交流も非常に興味深く、被害者女性の母親とも接触し、被害者と加害者との関係を日本と韓国の二国間関係も含めて取り持つというものである。
朴壽南さんは目に難病を抱え、失明に近づくこともあり、彼女の娘である朴麻衣(パク・マイ)が残されたフィルムをデジタル化する大仕事に取り組みながら本作を撮影し、朴壽南さんの半生を描いている。その仕事はとてもこんな映画日記で語れないほど(私はせいぜい2時間半のこの作品を通じてしか知ることができていないのだが)濃密で、日韓関係についても重要である。彼女の過去の作品を私自身が観ることから始め、もっとその仕事を日本に広く知られるようにしなければならない。
https://tinmoku2025.jp/

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【読書日記】中澤高志『ポスト拡大・成長の経済地理学へ』

中澤高志(2024)『ポスト拡大・成長の経済地理学へ――地方創生・少子化・地域構造』旬報社,271p.,2,640円.

 

著者は私より少し年下の地理学者だが、その生産力(研究成果の発信力)はすさまじく、大学教員の鑑といってよい。とはいえ、彼の文章は断片的に読んできたにすぎなく、初めて著書を読んだのは同じ出版社から数年前に出た『経済地理学とは何か』であり、この読書日記にも書いた。その本は大学の講義を基にしたもので、非常に工夫されており、自らの研究のみならず、教育活動においてもまさに教員の鑑であることをうかがわせる。
私的にこうした尊敬できる研究者の基準がいくつかあるが、いずれも中澤さんは満たしている。まず、査読付きの学術雑誌への論文掲載を怠らないこと。そして、自身の研究分野以外の学術雑誌でも執筆できること。さらにいえば、日本語以外の学術雑誌にも書くことできる。そして、書籍を出版できること。単著だけでなく、編著や共同執筆などもあると素晴らしいし、さまざまな出版社での出版があること。そのいずれも中澤さんはコンスタントにこなしていて、もう恐ろしいほどだ。
そして、もう一つは自らが専門としている分野に自信と誇りを持っていること。中澤さんは経済地理学を専門とするが、現在の所属は経営学部になっていて、所属する明治大学には文学部地理学科があるが、そうした立場も彼の活動には一定の影響があると思うが、自身の研究をここまで「地理学」にこだわっている人も珍しいかもしれない。
前著が講義を基にしていたのに対し、本書は既出の学術論文を基にしている。2007年が一番古いが、2015年前後のものが多く、終章は2023年に書かれたもの。私は第5章を雑誌論文として読み、本人にそれに関してメールを書いてやり取りをしたことがあった。単著ということで、おそらく論文からかなり書き換えているとは思うが、内容的にはやはり前著よりも難しさがある一方で、一応自称地理学者である私のような読者にとっては読みごたえがあるし、またテーマとして私も中澤さんもいわゆる「就職氷河期世代」であり、世代として少子化を推し進めた世代であり、現在、本当にこの日本という国が存続の危機に立たされているという意識を強く感じる本である。

第一部 地域構造の過去と現在
 第1章 戦後日本の地域構造・都市構造と再生産
 第2章 ポスト拡大・成長期の労働市場の地理的多様性と空間的非定常性
 第3章 若者のライフコースからみた地方圏と大都市圏をめぐる地域格差
第二部 地方再生と再生産をめぐって
 第4章 「地方創生」の目的論
 第5章 政治経済学的人口地理学の可能性――『縮小日本の衝撃』を手掛かりに
 第6章 融けない氷河――「就職氷河期世代」の地理を考える
 第7章 再生産の困難性、再生産と主体性
終章 資本主義の危機としての少子化――生活の空間的組織化の困難化

日本の経済地理学は研究者の層も厚く、世代継承もなされていると、はた目からみて思う。一方で、私が専門とする文化地理学は何となくそうは思えない。しかも、私が目指そうとした文化地理学は上の世代の方が取り組んできたものと、私にとってはかなり違って見えていたので、私はそうした上の世代の業績を引き継ぐことなく新しいものをやっていた気になっていたが、状況は違えどやはりあるべき姿はこういうものなんだろうなと、思ったりする。
それはともかく、中澤さんは経済地理学という道に入ってその地図を描く過程で、これまでの研究が生産部門に特化していたことを感じたようだ。ここで生産部門といってしまうと、流通部門(物流や消費)も結構あることは確かだが、ここでいいたいのは産業立地というところが経済地理学の中心であり、その生産の担い手である労働者にはあまり光があてられてこなかったということ。そういう意味で、これまでの中澤さんの研究は『職業キャリアの空間的軌跡』(大学教育出版,2008年)、『労働の経済地理学』(日本経済評論社,2014年)、『住まいと仕事の地理学』(旬報社,2019年)とまとめてこられている。そして、経済活動における労働者に注目するということは、そして同時にそれを地理学で問題にするということは、最後の著書タイトルにあるように、労働者がどこに住むかという居住地に問題となる。どこにどんな人が住んでいるのか、ということを素朴に考えることは経済地理学ではなく、人口地理学の問題設定となる。
つまり、本書は経済地理学と人口地理学をつなぎ、さらには人口地理学(人口学)の喫緊の問題といえば少子化だが、その少子化の問題を経済地理学の観点から迫ろうというのも本書の主要なテーマの一つとなる。正直に言うと、私は本書のタイトルを見たときに、ラトゥーシュの脱成長論の地理学版だと期待した。とはいえ、ラトゥーシュが日本で翻訳が出だした頃に関心を持ったものの、結局何一つ読んでいないので、脱成長論の何なのかはわかっていないのだが、「脱成長」が近年では「ポスト成長」とも表記されるようなので、過度な期待をしてしまったのだが、上に書いたように、本書は2010年代に著者が書き溜めた論文を基にしているので、そういうものではなかった。しかし、むしろそれだからこそ学ぶことが本当に多かった。
私も大学院時代に、早稲田大学から修士課程に入学してきた一人の院生が、少子化問題をテーマにしたいといっていた。まだ1990年代半ばのことで、日本はまだ人口減少には転じていない。そういう意味では先駆的であったといえるが(元々その人は地理学の出身ではなかった)、私は大きな違和感を抱いた。その頃から子どもを産む産まないは個人の自由であって、それを云々いうのは国家の勝手な都合だと。本書はもちろんそんな無責任なものではなく、まさに地理学の知見を活かして社会一般の風潮や政府の政策に物申すものである。
本書のタイトルに込められた問題意識は明白である。資本主義経済を採用している日本国において、人口減少が加速している。出生数は社会保障・人口問題研究所などの想定よりも早いペースで減っている。一方で、基本的に日本は移民政策をとっておらず、労働力問題の解消としての外国人人材は入国させるが、日本で家族をもって子どもを産み育てるという定住者は基本的に認めていない。つまり、この日本の国民経済を支えるのは労働者が必要だが、その労働者を継続的に生み出す「再生産」能力がこの社会では提言し続けており、資本主義経済そのものの存続が危ういということである。日本は高度経済成長を遂げ、先進国の仲間入りを果たしたわけだが、1990年あたりにバブル経済が崩壊し、それ以降低成長が続いている。つまり日本社会は「拡大・成長」の次の時代(ポスト)に直面しており、もちろんそのことに関して論じているものは非常に多いわけだが、それらに欠けている「地理」の視点から考えようというものである。
1章ではナショナルな人口動態を、一般的なコーホート=世代分析と、高度経済成長を前に地方から都市へという人口移動(集団就職)とを組み合わせ、「出生地コーホート」分析を行う。このくらいは私でも発想できるが、ここで私がショックを受けたのは、出生数と死亡率の時代による変化をここに加えていることだ。1925年以前は「多産多死世代」であり、人口の急激な増加はないし、戦争によって働き手=子育て世代の停滞期であったといえる。19251950年代はまだ多産は続いたものの死亡率の低下がみられ、「多産少死世代」となり、この世代の地方での余剰人口が都市での労働者となり、高度経済成長を支えた。地方から都市への流入は続くが、1948年の人工妊娠中絶の合法化によって、1950年代以降は「少産少死世代」となると同時に、人工妊娠中絶は都市部を中心に普及していく。第二次ベビーブームは1973年にピークは迎えるものの、地方でも人口が維持され、都会でも流入者による出産・育児も多かったものの、1950年代以降は余剰人口ではない地方から都市への人口流入が続き、都市でも人口自然増になるほどの出生数はなかった、ということになる。つまり、高度経済成長期が終わるころには日本全体で少子化に向かう素地はできてしまったことになる。この章は、人口問題から住宅協供給の状況、雇用体系の変化から家電製品の開発・普及、家族構成の変化と女性労働の状況などを整理している。
2章は地方と都市における高齢化と女性就業の状況を結び付けて議論をする。かつては高齢者介護が公的な福祉事業だったが、2000年に介護保険制度、2008年に後期高齢者医療制度が始まり、その事業は私的部門に外部化された。そうした、介護・医療現場の労働者の多くは女性労働者に依存している。高齢化が進む地域では、こうした事業の需要が増える一方で、労働者の供給は減る。その地域の家族形態において世帯人数が多ければ介護の外部化は不要で、頼れる家族がいなければ外部に依存するしかない。そういう条件によって、市町村別の医療・福祉従業者割合を被説明変数とし、後期高齢者割合、後期高齢者のうち夫婦のみ世帯・単独世帯の世帯員割合、2039女性就業者に占める製造業従業者割合という3つの説明変数によって説明を試みるというのがこの章の目的である。私は一般的な重回帰分析しか知らなかったが、ここでは私の大学の先輩である中谷友樹さんが無料のシステムを開発したという地理的加重回帰分析を用いている。この分析は要するに、通常の重回帰分析がすべての地域で同じモデル(回帰式)が適用可能だという前提のグローバル・モデルであるのに対し、「空間的非定常性」を加味したローカル・モデルだという。この章では、高齢者の介護・医療の問題と女性就業の問題は深く関係し、また複雑な問題で簡単には解決できないということが分かる。
著者は、12章のような統計データに基づくマクロな視点による問題の量的な把握が重要であると主張する一方で、地理学の得意とするフィールドワークに基づく質的な、個別の把握も重要だという。第3章はそんなライフコース研究にもとづくもので、そしてこの後の章にもかかわるいわゆる「就職氷河期世代」の地理的な動向をたどっている。都道府県別に、コーホート分析を行い、男女別、職種別居住別の量的把握も忘れない。なんだかんだいって日本では高等教育の地域格差が大きく、大学進学で地方から都市へという移動は避けられない。しかし、地方あるいは郊外に住む親世代も決して裕福なわけではない。就職氷河期世代が進学以降そのまま都市で独立できる人は限られ、親元に戻って同居する。一方で、2000年代以降は都心地区での富裕層を対象とした住宅供給も進み、そうした一定の富裕層は都心地区で家族を持ち、子育てをする。1990年から2010年にかけて、世帯内単身者率とブルーカラー従業者数は同心円構造が強まっているという。
第二部の第4章、第5章は政府に近い筋の地方再生論批判である。「日本創成会議」なる団体があるらしい。名前だけだと「日本会議」と同様の右寄りの匂いがプンプンするが、よく分からない。いずれにせよ、岩手県知事や総務大臣を歴任した増田寛也が中心人物らしいがよく分からない。その団体の「人口減少問題検討分科会」が2014年に報告書を出し、また増田自身も2014年と2015年に編著を発表し、それに加え、その影響下で政府内にできた「まち・ひと・しごと創生本部」による2015年の報告書を、この章では批判的に検討している。また、第5章はそんな流れの中で「消滅可能都市」が話題になり、それを追随するようにNHKの「クローズアップ現代が2014年に「極点社会――新たな人口減少クライシス」を放映し、2016には「縮小ニッポンの衝撃」なる番組を放映し、その内容を親書『縮小ニッポンの衝撃』として出版し、それに絞って分析している。いずれも趣旨としては2008年以降日本の人口が減少に転じ、一方で東京一極集中は是正されない。地方では多くの自治体がこのままいけば人口を維持できずに消滅するということを国家の危機ととらえ、少子化が進む東京と、まだ出生率がそれほど低くない地方との関係において、東京に集中する人口を地方にとどめることができれば少子化は押しとどめられるとの前提のもとで議論がなされているという。しかし、そうした地理的認識を前提としながらも本論ではそうした地理的な問題はまったく議論されていないという意味で、地理学的な観点から批判しているという内容。
6章は地理学専門出版社、古今書院の月刊誌『地理』に掲載された文章が基になっているということで、ページ数も少ないし侮っていたら「就職氷河期世代」の問題について地理学的観点からがっつり議論している。昨今の選挙では国民民主党が有権者の中心でもあり、また無関心、無党派層でもある現役世代にターゲットを合わせて躍進したこともあり、今後この世代の政策も重要になってくるはずだ。本書では社会地理学の「排除の地理」という概念を用いて、この世代が労働市場から排除されているし、次世代の労働者を生み育てるという再生産の過程からも除外されていることが論じられている。
7章は、第2章に続いて、地理的加重回帰分析を用いて、有配偶出生率を被説明変数に、説明変数は三世代同居率と納税義務者一人当たり課税対象所得で分析している。つまり、出産し、子育てする際に、子育てを手助けしてくれる親世代との同居、そして経済的余裕が大きな要因だと考えている。賛成台同居率は東北地方で高い、課税対象所得はやはり太平洋ベルト地帯で高い。出生率は九州地方で高いのが目立つが、日本地図での市町村分布はかなりまだらなイメージである。この分析から得られるローカル決定係数には一定の傾向が見られるが、結果としては第2章と同様に、説明変数が少なくてもそのかかわり方はそれぞれである、といった感じだろうか。本省の前半では「プレカリティ」概念が登場し、「雇用にまつわる望ましくない状態を表現する言葉として生まれた」(p.190)と説明される。特に就職氷河期世代を中心に、現代日本社会における労働の状態は非常に脆弱で、それがゆえに労働者が再生産に費やす資金、労力、時間がないために少子化が進むということになる。後半では「再生産のグローバル化」と題し、少子化問題の解決策の一つとして移民の受け入れを提起し、今日の日本社会における移民問題を議論している。
さて、この読書日記の前半は終章を読む前に書き始めたのだが、私がタイトルだけで本書に期待していた内容が終章で議論されていた。本書の中盤では少子化問題を中心にしてきたが、それを本書では資本主義の危機ととらえている。私はちょうど、マルクスの『賃金、価格および利潤』を読んでいたのだが、そこでマルクスは労働賃金を労働者が自らの生活を維持し自身が労働者であり続けると同時に、次なる労働者を生み育てるのに足るいわゆる生活費によって決まっていると論じている。まさに本書で著者もその定義を引用しているのだが、日本のみならず世界の多くの国が直面している少子化の根本的な問題は、その再生産費が労働者に支払われていないことが原因だともいえる。よって、日本社会においても高度経済成長期には経済が成長し、拡大し、さらには人口もそこそこ増えてきた(1970年代にはすでに人口を維持するための合計特殊出生率を下回り始めたわけだが)。その労働市場を下支えする人口に陰りが出てきたことは、当然経済の成長・拡大も見込めない、という意味で、本書のタイトルは「ポスト拡大・成長」となっている。ということで、最終章では、少子化から離れ、資本主義の限界について考察していく。そこには地理学者のハーヴェイの議論(『資本主義の終焉』によるもの)も出てくるが、主に柄谷行人の議論を中心に据えている。柄谷の本は日本の地理学ではほとんど議論されてこなかった一方で、著者によれば英語圏では近年地理学で議論され、それが翻訳もされているのだそうだ。1978年には『マルクス――その可能性の中心』という著書を書き、2004年にも『トランスクリティーク――カントとマルクス』なる本を出していて、最近の本や執筆だけでなく社会運動でも資本主義の次の社会を見据えているのだという。そして、日本のマルクス主義経済学者として宇野弘蔵にも言及し、その影響下の最近の経済学者についても論じている。一応、ラトゥーシュの名前も出てくるが、日本の読者に馴染みのあるところで勝負しようというのも中澤さんらしいといえようか。なかなかここでの議論を要約するのは難しいが、資本主義の継続において、やはり労働者の世代継承は重要なわけだが、資本主義も人間を生みだすことはできず、また資本家が大量に生み出すこともできない。人間を増やすには圧倒的多数の労働者に依存するしかないのだ。そして、戦後の日本社会がそれこそ産めよ増やせよとやったわけだが、戦争のためならまだしも、資本主義のためには難しいだろう。本書では少子化の直接的な原因である出産適齢期世代の子どもを産まないという選択を「再生産のボイコット」(p.240)と呼んでいることが非常に興味深い。資本主義をやめる方策として、「資本制の下で生産されたものを買わない」「資本制の下で働かない」を挙げている。実際には不可能に近い行動ではあるが、条件付きならできないことはない。ともかく、私たちは資本主義の先に来る未来社会に向けて、一つ一つ具体的な準備を始めなければならない。

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【読書日記】マルクス『賃労働と資本/賃金、価格および利潤』

マルクス, K.著,服部文男訳(1999)『〈科学的社会主義の古典選書〉賃労働と資本/賃金、価格および利潤』新日本出版社,196p.,1,400円.

 

日野市では4月の日野市長選挙ならびに日野市議会議員補欠選挙から、6月の東京都議会議員選挙、7月の参議院議員選挙と選挙が続いていた。ようやく選挙が終わり、改めてマルクスの学習をしようということになり、『資本論』を読み始めることになった。タイミングいいことに、地区の支援者が不要になった新日本出版社の全巻(12冊分)を譲ってもらった。
学習会を定期的にやろうと企画することとなったが、その準備会として本書を読むこととなった。主催者は元市議会議員の大先輩だが、今回は私にチューターをお願いしたいということで先んじて読んだ。本書はマルクスが『資本論』に本格的に取り組む前の1849年に『ライン新聞』に掲載された記事「賃労働と資本」と、『資本論』執筆中でそのエッセンスを含むといわれる1865年の「賃金、価値および利潤」の2編を収録したもの。1891年にエンゲルスの序論をつけて出版されたものであるとのこと。

賃労働と資本
エンゲルスによる1891年の「序論」
1〕労働賃金とは何か
2〕商品の価格に関する近代経済学理論:需要と供給の関係、競争
3〕社会的生産関係である資本
4〕労働賃金の上昇と下降
5〕資本の増大と労賃の上昇とは結び付かない

賃金、価格および利潤
1
〔生産物と賃金〕
2
〔生産物、賃金、利潤〕
3
〔賃金と通貨〕
4
〔供給と需要〕
5
〔賃金と物価〕
6
〔価値と労働〕
7
労働力
8
剰余価値の生産
9
労働の価値
10
利潤は商品をその価値どおりに売ることによって得られる
11
剰余価値が分解する種々の部分
12
利潤、賃金および物価の一般的関係
13
賃金引上げのくわだて、または賃金切下げ阻止のくわだての主要なばあい
14
資本と労働との闘争とその結果

今回はこれまでの私的な読書日記ではなく、勉強会に向けて私なりに本書の内容を理解して文章化したものを掲載する。
まず、私の素朴な経済活動の理解から「賃労働と資本」から学んだこと
資本家は商品を生産して販売して利益を得る。商品の価格は費用(経費)に利潤を上乗せしたものとして設定される。しかし、商品が市場に出ると、需要と供給の関係で価格が決まる。需要は価格と比例し、供給は価格と反比例する。費用には人件費も含まれる。
人件費は雇用者側の呼び方で、被雇用者側の呼び方が労働賃金である。マルクスは明確には書いていないが、労働力も商品化されている。資本家は自分たちの商品を生産するため必要な商品を購入する。原材料、道具・機械、そして労働。労働者の方も、家計を成立させるには収入と支出が必要で、収入に関しては自らの労働力を資本家に売却してその対価としての労賃を得る。支出は労働者として働くことのできるための自らの健康と、次世代の労働者を生み育てるための消費となる。労働者が売却する労働も市場でやり取りされ、需要と供給でその価格が決まる。しかし、その労働にも費用(生活手段)と利潤(私的資産)で基本的な価格が決められる。それを労働力と呼ぶことがふさわしいかもしれない。
商品の価格に費用があるように、商品としての労働力にも費用(経費)がある。労働力の費用=生産費とは、「労働者を労働者として維持し、かつ彼を労働者として育成するために必要な費用である。」(pp.46-47)商品が次から次へと生産(増殖)するように、労働力も増殖する。その増殖(再生産)費とは、「労働者の生存費および繁殖費となる。この生存費および繁殖費の価格が労賃をなす。」(p.48)労働者が健全と労働を行うためには、日々の健康を保ち、家族を持ち、子どもを産み育てることができなければならない。
「労働者は、彼の労働力と交換に生活手段をうけとるが、資本家は、彼の生活手段と交換に労働を、労働者の生産的な活動、創造力をうけとる。」(p.53)つまり、資本家が労働者に支払う労賃は、労働者が労働力を維持するための「生活手段」を提供する意味合いが含まれる。
労働力の商品化とは、人間社会の進展(発展)とともに進行し、それは同時に分業体制の進行でもある。「古代社会(奴隷社会?:引用者)、封建社会、ブルジョア社会(資本主義社会?)」(p.50)それぞれの社会において、支配者と従属者の関係は、主人-奴隷、地主-小作農、資本家-労働者と変化してきている。資本主義社会でも、分業の進展に応じてまたさらに商品化の度合いを高める。「分業が進展するのにおうじて、労働は単純化する。労働者の特殊な熟練は無価値となる。」(p.74)またさらに、機械の導入が労働のあり方に影響する。「分業は進展し、機械は増加し、分業と機械とが利用される規模は増大する。そして競争は、ふたたびこの結果にたいして同じ反作用をもたらす。」(p.71
最後に、労働賃金の変動、および恐慌についても触れている。資本家同士の激しい競争のもとで労働市場は労働者に不利にはたらく。労働者に必要な生活手段が切り詰められ、「労働者階級のための雇用手段である生活手段は、それだけいっそう相対的に減少するのであるが、それにもかかわらず、資本の急速な増大は、賃労働にとってもっとも好都合な条件なのである。」(p.81

続いて、「賃労働と資本」以上に「賃金、価格および利潤」で議論されていること
ウェストンによる生産物、実質賃金の額が固定である、という考えに反論する形のマルクスの議論。(15が直接的な回答)
労働の価値としての賃金と、生産物=商品の価格との関係。
労働者の労働によって生産される商品の価値=価格は、その投入された労働量によって決定されるが、労働賃金としてはその商品の価値に投入された一部分しか支払われない。商品の価値に投入された全労働量から、労働者に支払われた労働賃金を差し引いたものが剰余労働(不払労働)であり、剰余価値、すなわち利潤となる。
「賃労働と資本」の序論でエンゲルスが労働と労働力との概念の違いにこだわっていたように、マルクスも7で労働力に関して議論し、職場で特定の時間に提供される「労働」に対して、「労働力」をその労働者に備わった能力、すなわち個別の労働を持続的に提供できること、としている。「労働力の価値は、労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値によって決定される。」(p.145
この不払労働と労働賃金との関係が利潤率であり、さまざまな条件によって上下する。その度合いの大きい場合(労働賃金の割合が低い)に「搾取」の語を用いる。
経済活動は社会全体の諸条件によって変化する。「資本主義的生産は一定の周期的循環をつうじて運動するものである。それは、平穏、活気の増大、好況、過剰取引、恐慌、沈滞の状態を経過する。諸商品の市場価格と市場利潤率は、これらの局面におうじて、あるときはその平均以下に下がり、またあるときはそれ以上に上がる。…」(pp.172-173)その一方で、資本家は自らの利潤を確保するために利潤率を高め、そのために不払労働が増え、労働賃金は引き下げられる。労働賃金のうち、生活手段に必要な額の割合が高まるほど労働者は苦しめられる。労働者は労賃の下落に対しては(上昇のためにも)資本家と闘って自らの権利を勝ち取らなければならない。「資本と労働のこのたえざる闘争」(p.175

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