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2025年9月

【読書日記】斎藤幸平『人新世の「資本論」』

斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』集英社,375p.,1,122円.

 

先日、斎藤幸平さんの『大洪水の前に』の読書日記を書いた。この本は2014年に提出された博士論文を基にしたものなので、本書『人新世の「資本論」』まで6年の歳月がある。『大洪水の前に』は博士論文ということもあり、本格的な学術書である。斎藤氏にとっての次の学術書は『Marx in the Anthropocene』という書名で2022年に英語で出版され、『マルクス解体』として日本語版が2023年に出版されている(Wikipedia情報)。ということで、本書は『大洪水の前に』による徹底的なマルクスの再解釈を土台とし、次なる『マルクス解体』の作業として進められていたエッセンスを新書用に盛り込んだものだと思う。
私は斎藤氏が本書で有名になったとき、ひそかな期待を抱いたものの、あまりにも大きく取りざたされていたこともあり、ちょっとした違和感を抱き、本書を手に取ることはなかった。その後、私は日本共産党に入党するのだが、斎藤氏が自分のマルクス研究をもって日本共産党と議論したいと望む一方で、日本共産党側はそれを拒み、『しんぶん赤旗』で彼の著書を紹介することもない(赤旗は書評欄が充実しているにもかかわらず)。実際に読めば斎藤氏の研究と日本共産党のマルクス理解との違いが分かるかなと思ったが、その前に率直に身近な党員に尋ねてみた。お一方は、まさに本書の後半で議論されているように、「脱成長」を訴えているところが日本共産党の政策と異なっているという点、そして斎藤氏が脱成長の主張にいたるマルクス理解のなかに、これまでのマルクス研究者の理解と異なり、マルクスは社会の発展史観を晩年には自己否定したというものがある。社会の発展史観というのは、マルクスが依拠する「史的唯物論」の根幹をなすもので、そういう意味では斎藤氏の理解はかなり斬新なものともいえる。もう一人の方は、斎藤氏は資本主義を乗り越える方策として「コモン」を訴えるわけだが、斎藤氏の議論にはいわゆる「階級闘争」的なものが欠けている、という点を指摘していた。
そんな意見を聞きながら『大洪水の前に』を読んだわけだが、そこではまだ史的唯物論に関する議論までは到達していなかった。私自身も「脱成長」には大きな期待を持っているので、本書は読むべきだと思っていたのだが、そんな時に、上記党員の一人の方が「買ってはなくし、また買っては見つかって」を繰り返して手元に数冊あるということで、1冊いただいたので、さっそく読むことにした。

はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第一章 気候変動と帝国的生活様式
第二章 気候ケインズ主義の限界
第三章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
第四章 「人新世」のマルクス
第五章 加速主義という現実逃避
第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う
第八章 気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために

私は『大洪水の前に』を読んで斎藤氏を信用できる研究者だと思ったが、本書は冒頭から少し不信感を抱いてしまった。「はじめに」のタイトルにもあるが、「大衆のアヘン」というのは宗教に関してマルクスが発言した有名な言葉だが、日本共産党の志位さんはこの有名な一説もしっかりと文脈で読まないと誤解を生むと論じている。にもかかわらず、斎藤氏は「かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。」(p.2)と分かりやすい説明で断言している。まさに、「新書」とは短めの分かりやすい言葉で断言することが必要な形式なのかもしれない。正確さを優先して回りくどい言い方だと読者を混乱させる、と編集者がいうのだろう(本一冊も書いていない私が書いても説得力はないが)。斎藤氏にとっては初めての新書であり、本書は編集者の指南のもとに書かれたのかもしれない(とはいえ、「おわりに」にたまにある編集者への謝辞はない。一方で、『大洪水の前に』では元の版元である堀之内出版の編集者だった小林えみさんへの謝辞はある)。いずれにせよ、本書のベストセラー化をきっかけにテレビやラジオにも出演するようになった斎藤氏の一側面は早速垣間見える。
第一章は『大洪水の前に』をベースとしつつ、21世紀のこのグローバル社会において本格的に問題となってきた環境問題(斎藤氏によれば19世紀後半でさえ、マルクスは資本主義がもたらす環境負荷に大きな危機感を持っていたという)を議論している。それはサスキア・サッセンの『グローバル資本主義と〈放逐〉の論理』(明石書店、2017年)のような形で、読者にその深刻さを感じさせる。そういう意味では、文献研究を中心とする斎藤氏のような研究者の情報処理能力には感服するしかないが、サッセンの書と比べると、やはり記述の薄さは感じてしまう。そして第二章では、この環境危機に対してどういう対策が考えられるか、国際機関や政府機関、研究者などのさまざまな提案を紹介しつつ、評価をしている。ここからも学ぶことは多く、最後に「脱成長という選択肢」として、次章に続く。
脱成長という議論は、2010年にセルジュ・ラトゥーシュというフランス人の著書『経済成長なき社会発展は可能か?』を中野佳裕さんが訳し、それ以降もラトゥーシュの議論を積極的に紹介していた時に非常に関心を持ったが、結局日々に追われ、読むことがなかった。本書でも当然、脱成長論の先駆的存在として紹介されているが、「脱成長は、リベラル左派の立て直しを目指す試み」であり、「資本主義の超克を目指してはいない」(p.127)らしい。しかも、斎藤氏によれば、脱成長論はラトゥーシュだけでなくいろいろあり、それが第三章で検討されていて、とても興味深い。新しい脱成長論としてなんとジジェクが挙げられる。私が読んでいたころのジジェクはなんといってもラカン派の精神分析的社会批評だったので、「スロヴェニアのマルクス主義哲学者」(p.130)という紹介には違和感を抱くが近年はそういうことらしい。p.131の見出しには「「脱成長資本主義」は存在しえない」とあるが、個人的には素朴に脱成長というのは資本主義をやめることだと思う。まあ、ともかくこうして読書日記を書きながらざっと振り返ると、本書の構成はよく考えられている。事象から本題のマルクスへと移行する。
『大洪水の前に』で知ったことではあるが、現在ドイツで新しいマルクス・エンゲルス全集の編集が進んでおり、なんと斎藤氏もそのプロジェクトに加わっているのだという。志位さんも紹介しているように、マルクスはパリ・ノートやロンドン・ノートというものを残し、例えばロンドンでは毎日のように大英博物館に通い、所蔵する図書を読み漁っては抜き書きをするという形で研究を進めたのだという。そうしたマルクスが残したノートを整理して活字にするというプロジェクトのようだ。そうして、それまでなかなか陽の目をみなかったマルクスの記述を使って、新しい解釈を試みるというのが斎藤氏の本職的な仕事。『大洪水の前に』の時点ではたどり着かなかったものとして、生産至上主義を乗り越えてマルクスは晩年に、『大洪水の前に』で検討された「エコ社会主義」から、さらには進歩史観を放棄し、「脱成長コミュニズム」へとたどり着いたという。なお、ツイッターで「斎藤氏は共産主義の言葉を使っていない」という観点で批判する人がいたが、斎藤氏はおそらく、旧ソ連などを彷彿とさせる「共産主義」ではなく、「コミュニズム」という語を選んだと思う。それは、本書で大々的に主張された「コモン(共有財産や共有地)」とも相性が良いのだろう。いずれにせよ、日本共産党は旧ソ連や中国の社会主義・共産主義は十分に発達していない状態から社会主義・共産主義を始めたから失敗したのであって、高度に発達した資本主義社会で社会主義・共産主義移行することが必要だといっているので、それに逆行する脱成長論は受け入れられないかもしれない。ただ、脱成長論が否定しているのは「成長growth」であり、「発展development」ではないところが難しい。
第五章では脱成長の意味をもう少し深掘りする。資本主義は確かに多くの富を生みだし、豊かな社会を築いた。しかし、そこには大きな格差があり、生活で消費するレベルではない富を保有する一握りの人間と、食うにも困る大量の貧困層という格差を生じさせている。世界や社会をよくしようという呼びかけであるSDGsでも持続可能な開発=発展を謳っているので、社会がなんとかやっていけるという意味での持続ではなく、これまで通りの発展を解け続けるものではならないという意味では、著者にいわれずとも私は国連が言う前から否定的だ(私が大学院にいた1990年代後半に、私の研究室の教授がサステイナビリティをやたらと使いたがっていた)。斎藤氏は第五章のタイトルにあるように、「加速主義は、持続可能な成長を追い求める。」(p.207)と批判する。まあ、資本主義を支えるほとんどの企業が、例えば製造業であれば、常に商品開発・技術発展を続けることで、いくらいい製品であっても時間が経てはより良い製品がつくられ、前のものは廃棄され、新しいものが購入される、そういうサイクルを消費者に強要している。
資本主義の枠組みでも、人間の幸せはお金だけでは測れないなどといって、さまざまな指標が登場しているが、同様の議論をより学術的に展開し、第六章は「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」と題し、資本主義をやめて成長から脱しても、決して貧しくなるわけではないと主張する。むしろ、資本主義体制の方が食うに困るような貧しい人を大量に生み出し、質素な生活をしていても食うには困らず、自由な時間があるのであればその方が潤沢だ、という議論。ここで、マルクス主義地理学者のデイヴィド・ハーヴェイが登場する。とはいえ、1980年代から丹念にマルクスを読み込み構築した地理学理論には触れず、『ニュー・インペリアリズム』の本源的蓄積論を、ハーヴェイがその頃積極的に取り組んでいた新自由主義論の文脈で取り上げて、批判している。「ハーヴィーは、「本源的蓄積」のポイントを完全にとりそこなっている。」(p.249)と全否定だ。ハーヴェイは本源的蓄積を「略奪による蓄積」と定義し、新自由主義の本質だというが、斎藤氏によれば本源的蓄積とは「コモンズの解体による人工的希少性の創造」(p.249)だと定義する。まあ、近年「コモンの復権」ということは結構いわれるようになったので、斎藤氏の議論が全く新しいというわけではなく、杉並区長となった岸本聡子氏の水道再公営化、ミニシュパリズムも本書では大いに参照されている。第六章の後半からはそうしたコモンの復権運動の事例が紹介され、バルセロナの話はけっこうな字数を用いて説明されている。登場する事例は自治体レベルで取り組まれていることがほとんどで(国レベルで達成されていればすごいことだ)、読者としては市民としてやるべきことを考えることができる。しかし、やはり国レベルで資本主義を乗り越えることは非常に難しいことで、それこそ日本共産党が訴える多数者革命のような道筋を示す必要がある。しかし、一方で斎藤氏は一国レベルでは、このグローバルな気候危機にとっては意味がないようなことも言っていて、やはりコミュニズムの世界の実現は本書だけではその道筋は全く見えない。じゃあ、一方でマルクスが実践していた階級闘争でどうやって資本主義を乗り越えるのか、まだまだ考えていかなければならないことは多い。

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【映画日記】『おでかけ子ザメ』『大長編タローマン万博大爆発』『不思議の国でアリスと』

2025年8月23日(土)

調布シアタス 『おでかけ子ザメ とかいのおともだち』
なかなか奇妙なアニメ作品。もともとこの作品のことは娘が知っていて、予告編を観た時に、観に行きたいといっていたので、公開2日目に観に行った。子ザメが主人公で、サメ以外にも複数の動物が人間と共存している社会。動物の方は人間の言葉をしゃべらないが、意思疎通はできるし、買い物をしたり公共交通を利用したりしている。時折その存在を驚く者もいるが、多くは当たり前のように受け入れている。ある意味で、多文化共生社会を訴えているのかもしれない。人それぞれ生活には事情があるものの、他人が困っていたら手を貸すという性善説を基本とする人間関係。まあ、善悪を描く作品でも基本的に性善説に立つものが多いとは思うが、この作品のように悪を描かない作品は増えているような気もする。いまだにやっぱり「田舎と都会」という二分法は大衆的な文化作品では使われるんだよな。
https://odekake-kozame.com/

 

2025年8月24日(日)

府中TOHOシネマズ 『大長編タローマン万博大爆発』
ふとツイッターで見かけた作品。いつもは、そういうプロモーション用のツイートは無視するのだが、この作品の存在は無視できなくなり、近くの映画館で上映していて、しかもたまたま空いた自由時間で観ることができる機会があり、観ることにした。
ウェブサイトでいろいろ確認したが、結局よく分からない。監督は藤井 亮ということになっていて、現代の映像作家である。しかし、映像そのものはどう観ても大阪万博が開催された1970年前後に撮影されたものだ。サイトの説明を読むと、この「タローマン」は実際に1970年前後に放映されたものだが、万博のプロモーション用に2分の短編が複数あったとのこと。同じクオリティの映像を現代に再現したのか、あるいは2分の映像を再編集して「大長編」にしたのか、謎である。まあ、私の理解としては後者になるのだが。
それはともかく、素晴らしい映像体験だった。タローマンの「タロー」とは岡本太郎のこと。周知のように1970年万博の太陽の塔は岡本太郎の作品であり、1970年大阪万博には岡本太郎が深く関わっている。その岡本太郎の作品のモチーフを存分に用いてウルトラマン的世界観を作り上げているのが本作品。「芸術は爆発だ」という岡本太郎の思想をごく一部だが再現している奇妙奇天烈な映像体験です。
https://taroman-movie.asmik-ace.co.jp/

 

2025年9月6日(土)

昭島MOVIX 『不思議の国でアリスと』
娘が観たいといっていたものの、油断している間に近所の映画館では早朝と夜しか上映しておらず、昭島まで久しぶりに出かけた。娘もある程度の距離の移動にも慣れてきて(スマホを持ったので暇つぶしもできる)、ありがたい。
ともかく、私も久しぶりの昭島で、少しお店の入れ替えもあったショッピングモールをいろいろ見て回りたかったが、時間はなし。ともかく映画館に急いだ。本作は原作に「ルイス・キャロル『不思議な国のアリス』」とあるが、脚本自体はオリジナルで日本人の女子大学生が主人公。結局、『不思議な国のアリス』自体を読む機会はこれまでなかった。高山 宏訳のものくらい読んでおきたいとは思うが。原作に登場する存在物が出てくることは分かったが、ストーリー展開などどの程度原作のものを利用しているかは分からない。まあ、ドラえもんの映画もいまだに原作が「藤子F不二雄」となっているくらいだから、主要なキャラクターと設定を使っただけで原作表記をしなければならないかもしれないがよく分からない。
さて、本作の内容だが、作品自体はよくできている。アリスや主人公のおばあさんなど魅力的な登場人物も多い。しかし、なんともひっかかってしまうのが、主人公の「りせ」の魅力のなさなのだ。まあ、自分が何者か、どうしたいのかも分からないという主人公が自分探しをするというストーリーは無数にあるわけだが、大抵は自分でも気づかないという設定で何かしらの魅力を持っている。しかし、この「りせ」についてはそれすら見つからないという何とも不思議な感覚。
https://sh-anime.shochiku.co.jp/alice-movie/

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【読書日記】ブレオン, F.=M.・リュノー, G.『新版地図とデータで見る気象の世界ハンドブック』

ブレオン, F.=M.・リュノー, G.著,鳥取絹子訳(2024)『新版地図とデータで見る気象の世界ハンドブック』原書房,170p.,3,200円.

 

今年度(2025年度)の秋学期から新しい大学で教えることになった。といっても、昨年度は通年で別の大学で教えていたので負担が増えるわけではないといえるかもしれないが、昨年度は「地理学概論」で今年度は「経済地理学」ということで、かなり違うので同じ内容を使いまわしはできない。なのに、ずっと続けている大学での通年の「人文地理学」の授業内容を変更することを決めてしまった。というのも今年度のシラバスの依頼があるのは年度が始まるだいぶ前で、今回の新規雇用は今年度が始まる直前だったこともあり致し方がない。
まあ、ともかく長年続けている大学では、近年春学期に日本地理を、秋学期に世界地理を、ということでやってきたので、今年度もそれは踏襲し、一般的な教養課程の地理学の授業のように、毎回下位分野で教えようと決めた。そのはじめの方の段階で、地理学には自然地理学と人文地理学とがあり、今日ではだいぶ関係が薄れてしまったが、以前は人間―環境関係というのが地理学の主要なテーマだった、という話を入れることにした。春学期は地理学の歴史的な話をした。通年でとる学生も皆無ではないので、一応内容を変えようと思い、気候危機の問題を導入にしようと思った次第。何かと便利な、原書房の「地図とデータで見る」シリーズ。このシリーズは原著者はフランス人の場合が多く、私が読むようなものは地理学者だったりする。本書についてはブレオンさんが気候学者、リュノーさんがジャーナリストとのこと。基本的に気候学は地理学に含まれるが、いわゆる気候温暖化を扱うような研究者は地理学の枠内には入らないかもしれない。

序文:ジャン・ジュゼル
はじめに…今日の天気
気候のはたらき
 気候観測のさまざまなシステム
 エネルギーの均衡
 雲の影響
 氷期と温暖期、過去の気候
 大洋大循環
 「炭素循環」
 気候をかく乱する自然要因
人間が気候をかき乱すとき
 気温の上昇
 後退する雪、氷河、海氷
 海面の上昇
 温室効果
 化石燃料に由来する二酸化炭素の放出
 オゾンにからむ諸問題
 森林破壊
 エアロゾルとその他の放射強制力
気候温暖化の衝撃
 暴風雨、熱波、その他の異常気象
 氷の融解または拡張――新たな開発可能領土か?
 水没する土地
 陸地の生物多様性が危機に瀕している?
 海の生物多様性が危機に瀕している?
 温暖化の試練に耐える漁業
 大混乱におちいる農業
 問われる健康問題
 気候難民と人口の移動
 気候温暖化のコスト
行動のとき
 未来のシナリオの研究
 もっとも楽天的なシナリオと悲観的なシナリオの結果
 温暖化を意識する
 世界的なガバナンスのむずかしさ
 資金をどう調達するか?
 原子力発電は気候を救えるか?
 エネルギーの選択
 地球工学の足跡
 農業モデルの変化
 再考案すべき輸送
 持続可能な都市、エコタウン――解決法は?
 日常生活
 生活様式の革命は可能か?
まとめ…未来のための選択はなにか?
付録 参考文献とウェブサイト

目次に示したように、本書は日本語タイトルに「気象」の語を選んでいるが、本文にほとんど気象の話はない。そもそも原題には「climat」とあるので、気候であり、また一般的にも気候温暖化や気候危機と日本語でも表記しているので、なぜわざわざ書名に「気象」を選んだのかは不明。この「地図とデータで見る」シリーズはカラーできれいな地図や図表が掲載されていて、またテーマに関する項目がかなり網羅されていて、授業で使うにはとても便利なのだが、なにせ項目が多く図版も多いため、文章の説明が十分ではないというのはこのシリーズに共通する特徴。とはいえ、かなり網羅されているので、ざっくりとそのテーマについて広く浅く知るには最適だと思う。そして、けっこう改訂版が出されているのもよい。なお、本書の帯には「」世界の気候の問題が一目瞭然でわかるアトラス!」とある。そう、このシリーズは邦題には入っていないが、「アトラス(=地図帳)」なのだ。
目次を細かく書いたので、本書の内容まで詳しく紹介することはしないが、冒頭にあるようにいわゆる気候危機の問題は近年の観測システムの充実によってより確実なものになったといえる。私が大学・大学院に所属していた1990年代にも地球温暖化は大きなテーマだった。気候学を含む地理学自身はもう少しローカルな研究対象を持っている人が多いが、他大学から私が在籍していた東京都立大学の大学院に入学してきた人でまさにグローバルな気候シミュレーションを専門とする人が入ってきて、その研究発表などを聞き、かなり勉強になった。当時はまだまだ実体験として地球温暖化といわれてもピンとくるようなことはなく、むしろ都市のヒートアイランドが経験的に理解できる研究テーマだった。そもそも、地球規模での気温上昇といっても、長期にわたって気象データを観測して蓄積している国は先進諸国に限られていたし、その観測地点の密度も国によって違っている中で、どうやって地球全体の平均気温を推計するのか、そのあたりから私は疑問を感じていた。しかし、現代ではもちろん日本に住んでいても温暖化は疑いのないものとして夏季は感じられるし、本書にあるように、その観測は地表面だけでなく、衛星も用いたまさに地球規模で広がっているし、またそうした巨大なデータを蓄積し、解析するコンピュータの技術の進歩も1990年代とは比べ物にならない。ともかく、地球温暖化については科学的な解明が進んでいて疑いようもない。にもかかわらず、その対策にとって重要な大国であるアメリカ合衆国の大統領が信じないなんて、どんな世界なんだと思う。
そんな感じで、本書はまず科学的観測と地球物理学的理論に基づく現状が確認され、ついで地球温暖化の大きな原因である人間活動の地球環境への影響が論じられる。そして、最後にそれに対して人間社会の対応がどのように進んできたのかを整理している。まさに、この気候危機は資本主義がもたらしたもので、資本主義による経済発展がもたらした私たちの生活の便利さを手放さない限り、人類が住める場所ではなくなっていくということを多くの人が認識する必要がある。そして、この問題は単に人類だけ滅びればいいということではなく、すでに多くの生物種が滅びており、まさにそれは人類が滅ぼしてきたわけで、その責任を取ることも、同じ地球に生きる生物としては自覚すべきである。ともかく、戦争なんて愚かなことをやめることから始めなければならないと強く思う。

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【読書日記】ルフェーヴル『弁証法的唯物論』

ルフェーヴル, H.著,本田喜代治訳(1953)『弁証法的唯物論』新評論社,218p.,230円.

 

いつ購入したのか分からないが、この手の希少本をみつけた時の喜びはいいものだ。希少本といっても価値的にいかがなものかは分からない。アンリ・ルフェーヴルというフランスの哲学者は、確か1990年代に英訳され、2000年に日本語訳が出された『空間の生産』という1974年の著作によって都市社会学や地理学界隈でずいぶん注目を集めた。この空間論だけでなく、その後はリズム分析なるものも注目された。しかし、日本ではどんな文脈か分からないが、ずいぶん前から多くの訳書がだされている。一つは1960年代後半の社会変革のなかで、羽仁五郎『都市の論理』(1968年)あたりで注目されたのではないだろうか。学生運動花盛りの時期に、都市や労働者が注目され、労働者の解放理論としてマルクス主義が注目された。そのころのルフェーヴルといえば『都市革命』や『都市への権利』であり、1970年前後に日本語訳が出ている。特に後者については近年また注目されている。
本書はそんな中でも、かなり初期に日本語訳が出されたもの。原著は1949年に出版されたものだというが、p.210の末尾には「パリ、1938年」とあり、「訳者あとがき」には「これは、はじめ1939年に出たのであるが、ヒトラーの弾圧によって禁書となっていたものである。」(p.216)とある。Wikipediaによれば、ルフェーヴルは1901年生まれで、1925年から著作があるが、本書は初期のものだといえるだろう。
ちょうど選挙も終わり、本格的に科学的社会主義(なお、この表現はあまり学術分野では用いないが、日本共産党がマルクス(・レーニン)主義の別名として使っているということらしい)を学ぶこととなり、科学的社会主義の哲学である唯物論と、方法論である弁証法を一緒に学べる本ということで、蔵書から引っ張り出して読んだ次第。

第一章 弁証法的矛盾
 ヘーゲル弁証法の批判
 史的唯物論
 弁証法的唯物論
 教説の統一性
第二章 人間の生産
 生産物の分析
 統整活動
 征服されている領域と征服されていない領域
 物理的決定論
 社会的決定論
 全体的人間
 全体的な内容のほうへ
訳者あとがき

前にも、この読書日記で紹介したが、不破哲三さんなど、日本共産党による科学的社会主義の学習においては、哲学(=世界観)としての唯物論を大まかに学習したのちに、弁証法を学ぶのが通例となっているが、本書では目次にあるように、弁証法を先に検討し、その後唯物論となっている。先日、私が所属する地区の委員長が開催した若手向けの学習会で委員長がいうところでは、マルクス自身の理論展開においてもやはりヘーゲルから学んだ弁証法が先にあり、観念論者のヘーゲルを乗り越え、さらにフォイエルバッハの唯物論の批判的検討を受けて、マルクス独自の弁証法と史的唯物論が展開されるという。本書のタイトルである弁証法的唯物論という表現は日本共産党の文書ではあまり用いられないが、なかなか楽しみな読書。
冒頭は目次にあるように、哲学としてのヘーゲルの弁証法が検討される。弁証法はまず、「同一性と差異」というテーマと関わる。あるもの(A)の同一性を定めるにはそれ以外のもの(非A)を定める必要がある。科学的社会主義の文脈では、弁証法と対置されるのが形而上学。本書でも、「同一性の論理は「存在」の形而上学に結びついてきた。」(p.6)弁証法はいったんAと非Aとを設定し、その同一性と差異とを思考し、乗り越えていく(止揚)ことだといっていいのだろうか。「それ(弁証法:引用者)は思惟の生命、内的な運動となり、同時に内容と形式とになる。」(p.15)と本書にはある。まずは、カントからヘーゲルを検討し、弁証法を観念論の次元で検討する。Aと非Aと団参考を想定し、「第三項は媒介の「止揚」によって直接的なもの――差異の「止揚」によって単純なものである。」(p.22
ここまでを踏まえて、ヘーゲルの批判に入るのだが、わたしたち読者が期待するような分かりやすい批判の文章は簡単にはみつからない。とりあえず、ヘーゲル批判の文章を引用しよう。「ヘーゲル流の主張は、内容を閉じこめ、制限して、これを「精神」にふさわしくないものにしてしまう。」(p.42)、「ヘーゲル以来、行為と実践との問題が哲学的な思惟に課せられている。」(p.44)、「ヘーゲル流の思弁は、まだ、魔術的な思惟に浸透されている。」(p.53)、「ヘーゲルは、わたしに、世界の中なる人間――このわたしに、わたしの甘受しているものまでがわたしのうちなる人間的・精神的活動の産物だといい、それを論証してみせると約束する。」(p.55
次に、「マルクスとエンゲルスとは、かれらがその固有の経験とヘーゲル主義の批判によって導かれていった人間主義を、フォイエルバッハの哲学と対決させている。」(p.66)ということで、フォイエルバッハの唯物論を検討する。なお、岩波文庫にフォイエルバッハの『唯心論と唯物論』が訳出されている。マルクスは、「フォイエルバッハの偉大な《功績》」を「哲学は論理的に体系化された宗教にほかならないということをかれは証明した。それは、人間の疎外の形式であるかぎり、宗教と同じように、断罪されなければならない。」(p.68)としながら、「フォイエルバッハの唯物論はいぜんとして一面的であり矛盾している。」(p.70)と批判する。そして、「意識は、それゆえ、当初から、一つの社会的な産物である。」(p.73)という説明は今日の社会構築主義的ではあるが、土台-上部構造のマルクス唯物論の立場であろうか。そして、「唯物史観とは――《直接の生活の物質的な生産から出発して、現実の過程を発展させること、生産様式にむすびつき、生産様式によって創造される諸関係の形式(さまざまな段階の市民社会)を歴史の基盤と考えること、この諸関係の形式をそのはたらきの面から国家として表現すること、この諸関係の形式から出発して、意識の生産物と形態、宗教や哲学や道徳など……を説明することである。」(p.78)としている。
そして第一章の最後に、本書のタイトルである「弁証法的唯物論」にたどり着く。1848年の『共産党宣言』の「時期には、まだ、弁証法的唯物論は存在しない。その本質的な要素の一つ、弁証法は、ことさらに棄てられている。史的唯物論だけが定式化されており、それの経済的な要素が、人間問題の解決として招かれ、これが哲学を変形し使用している。」(pp.88-89)ルフェーヴルは唯物論と観念論を対置せず、唯物論のなかに観念論を包摂している。また、土台(=経済)が上部構造(=意識、政治やイデオロギー、文化、宗教)を決定論的に規定するという立場は採らず、「弁証法的唯物論は経済主義ではない。」(p.94)と端的に述べる。その後、マルクスの商品論の解説が続き、「商品の不断の交換がなければ、世界市場も、商業資本、産業資本、あるいは金融資本も、存在し得ない。(中略)経済史の本質的な契機、交換価値は、生産と欲望の発展、人間観諸関係の拡大をともなった。」(p.105)最後の節では、「史的唯物論は、経済の学として、弁証法的な方法を自己に統整する。」(p.116)と記されている。また、弁証法的唯物論は「科学であると同時に哲学――因果分析であると同時に一般的な展望――知識であると同時に生活の態度――あたえられた世界意識的把握であると同時にこの世界を変形しようとする意志、しかも、これらの特徴の一つが他を排除しない、そういったようなものではないか?」とされている。「「実践」は弁証法的唯物論の出発点である到達点である。」(p.130)というのがルフェーヴルの強調したいところのようだ。
さて、第二章は「人間の生産」と題され、かなり難しい議論が展開され、読後にしっかりと把握できたことはあまりない。例のごとく、いくつかの引用でごまかすことにしよう。「自然の存在であるかぎり、人間は、多種多様の本能、傾向、生命力を内蔵している。」(p.135)というのが著者の基本的な人間観のようだ。「《歴史は人間の自然史である》とマルクスはいう。(中略)活動する人間は――じぶんのまわりとじぶんのうちで――自然を変容する。かれは、自然をはたらきかけて、そして、じぶんの自然(本性)を創造する。」(p.139)とあるように、ここでの人間論は自然論でもある。そして、またマルクスからの引用で「《いわゆる世界史とは人間労働による人間の生産以外のものではない。》」(p.155)とある。
最後の方では「決定論」に関する議論もあり興味深い。「一つの科学によって到達される決定論は、したがって、一つの契機としてしか考えられることはできない。いいかえれば、数学的、物理学的、化学的、生物学的など一切の決定論は、つねに、一方では全自然にむかって、また他方では人間の活動にむかって開かれっぱなしである。」(p.173)「現実的かつ能動的な人間は、それゆえに、もろもろの決定論の紐帯である。」(p.176)「因果系列と決定論とは人間から出発して人間に帰着する。」(p.177)ここまでの「物理的決定論」から「社会的決定論」へと移行する。「物質的な諸対象が人間社会に介入する。それは《財貨》である。それは社会的な活動ともろもろの欲望と人間の諸関係とを刺戟する。」(p.180)「社会決定論とは人間のなかの自然であると。」(p.182)「人間は、もはた自然ではなく、またあり得ない。(中略)人間は創造的な活動である。かれはその活動によって生産される。」(p.183)そして、その次の節「全体的人間」は、「全体的人間は《まったき自然》である。それは物質と生命との全エネルギー、世界の一切の過去と未来とを、そのうちに包蔵している。」(p.188
イデオロギーに関しても一文引用しておきたい。「イデオロギー的な表象は、人間的なものを、事物や外的な実体、つまり神、運命、絶対的形而上学的真理の平面に移す。」(p.190)「個人としての資本家は金銭以外のすべてを《喪失した》人間である。」(p.196)なんていう面白い文章も引用しておこう。労働者に関しても「労働者の活動は、それゆえ、かれの自己活動ではない。それは他人のものである。それはじぶんじしんの喪失である。結果として、働く人間は、もはや、ただ、その動物的な諸機能、食う、飲む、産むことにおいてのみ、みずからを自由と感じる。」(p.198)と表現している。
「この人間共同体の組織化は、歴史を終結させるのではなくて、むしろ、人間の《前史》を、動物性から十分ぬけ出ていない人間の《自然史》を終結させるであろう。」(p.203)を最後の引用としておこう。どうやら、マルクスは資本主義までの人類史を《前史》と位置付け、その後来るべき社会主義・共産主義社会からこそ人類の《歴史(正史?)》が始まると主張しているようだから。

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