【読書日記】斎藤幸平『人新世の「資本論」』
斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』集英社,375p.,1,122円.
先日、斎藤幸平さんの『大洪水の前に』の読書日記を書いた。この本は2014年に提出された博士論文を基にしたものなので、本書『人新世の「資本論」』まで6年の歳月がある。『大洪水の前に』は博士論文ということもあり、本格的な学術書である。斎藤氏にとっての次の学術書は『Marx in the Anthropocene』という書名で2022年に英語で出版され、『マルクス解体』として日本語版が2023年に出版されている(Wikipedia情報)。ということで、本書は『大洪水の前に』による徹底的なマルクスの再解釈を土台とし、次なる『マルクス解体』の作業として進められていたエッセンスを新書用に盛り込んだものだと思う。
私は斎藤氏が本書で有名になったとき、ひそかな期待を抱いたものの、あまりにも大きく取りざたされていたこともあり、ちょっとした違和感を抱き、本書を手に取ることはなかった。その後、私は日本共産党に入党するのだが、斎藤氏が自分のマルクス研究をもって日本共産党と議論したいと望む一方で、日本共産党側はそれを拒み、『しんぶん赤旗』で彼の著書を紹介することもない(赤旗は書評欄が充実しているにもかかわらず)。実際に読めば斎藤氏の研究と日本共産党のマルクス理解との違いが分かるかなと思ったが、その前に率直に身近な党員に尋ねてみた。お一方は、まさに本書の後半で議論されているように、「脱成長」を訴えているところが日本共産党の政策と異なっているという点、そして斎藤氏が脱成長の主張にいたるマルクス理解のなかに、これまでのマルクス研究者の理解と異なり、マルクスは社会の発展史観を晩年には自己否定したというものがある。社会の発展史観というのは、マルクスが依拠する「史的唯物論」の根幹をなすもので、そういう意味では斎藤氏の理解はかなり斬新なものともいえる。もう一人の方は、斎藤氏は資本主義を乗り越える方策として「コモン」を訴えるわけだが、斎藤氏の議論にはいわゆる「階級闘争」的なものが欠けている、という点を指摘していた。
そんな意見を聞きながら『大洪水の前に』を読んだわけだが、そこではまだ史的唯物論に関する議論までは到達していなかった。私自身も「脱成長」には大きな期待を持っているので、本書は読むべきだと思っていたのだが、そんな時に、上記党員の一人の方が「買ってはなくし、また買っては見つかって」を繰り返して手元に数冊あるということで、1冊いただいたので、さっそく読むことにした。
はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第一章 気候変動と帝国的生活様式
第二章 気候ケインズ主義の限界
第三章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
第四章 「人新世」のマルクス
第五章 加速主義という現実逃避
第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う
第八章 気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために
私は『大洪水の前に』を読んで斎藤氏を信用できる研究者だと思ったが、本書は冒頭から少し不信感を抱いてしまった。「はじめに」のタイトルにもあるが、「大衆のアヘン」というのは宗教に関してマルクスが発言した有名な言葉だが、日本共産党の志位さんはこの有名な一説もしっかりと文脈で読まないと誤解を生むと論じている。にもかかわらず、斎藤氏は「かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。」(p.2)と分かりやすい説明で断言している。まさに、「新書」とは短めの分かりやすい言葉で断言することが必要な形式なのかもしれない。正確さを優先して回りくどい言い方だと読者を混乱させる、と編集者がいうのだろう(本一冊も書いていない私が書いても説得力はないが)。斎藤氏にとっては初めての新書であり、本書は編集者の指南のもとに書かれたのかもしれない(とはいえ、「おわりに」にたまにある編集者への謝辞はない。一方で、『大洪水の前に』では元の版元である堀之内出版の編集者だった小林えみさんへの謝辞はある)。いずれにせよ、本書のベストセラー化をきっかけにテレビやラジオにも出演するようになった斎藤氏の一側面は早速垣間見える。
第一章は『大洪水の前に』をベースとしつつ、21世紀のこのグローバル社会において本格的に問題となってきた環境問題(斎藤氏によれば19世紀後半でさえ、マルクスは資本主義がもたらす環境負荷に大きな危機感を持っていたという)を議論している。それはサスキア・サッセンの『グローバル資本主義と〈放逐〉の論理』(明石書店、2017年)のような形で、読者にその深刻さを感じさせる。そういう意味では、文献研究を中心とする斎藤氏のような研究者の情報処理能力には感服するしかないが、サッセンの書と比べると、やはり記述の薄さは感じてしまう。そして第二章では、この環境危機に対してどういう対策が考えられるか、国際機関や政府機関、研究者などのさまざまな提案を紹介しつつ、評価をしている。ここからも学ぶことは多く、最後に「脱成長という選択肢」として、次章に続く。
脱成長という議論は、2010年にセルジュ・ラトゥーシュというフランス人の著書『経済成長なき社会発展は可能か?』を中野佳裕さんが訳し、それ以降もラトゥーシュの議論を積極的に紹介していた時に非常に関心を持ったが、結局日々に追われ、読むことがなかった。本書でも当然、脱成長論の先駆的存在として紹介されているが、「脱成長は、リベラル左派の立て直しを目指す試み」であり、「資本主義の超克を目指してはいない」(p.127)らしい。しかも、斎藤氏によれば、脱成長論はラトゥーシュだけでなくいろいろあり、それが第三章で検討されていて、とても興味深い。新しい脱成長論としてなんとジジェクが挙げられる。私が読んでいたころのジジェクはなんといってもラカン派の精神分析的社会批評だったので、「スロヴェニアのマルクス主義哲学者」(p.130)という紹介には違和感を抱くが近年はそういうことらしい。p.131の見出しには「「脱成長資本主義」は存在しえない」とあるが、個人的には素朴に脱成長というのは資本主義をやめることだと思う。まあ、ともかくこうして読書日記を書きながらざっと振り返ると、本書の構成はよく考えられている。事象から本題のマルクスへと移行する。
『大洪水の前に』で知ったことではあるが、現在ドイツで新しいマルクス・エンゲルス全集の編集が進んでおり、なんと斎藤氏もそのプロジェクトに加わっているのだという。志位さんも紹介しているように、マルクスはパリ・ノートやロンドン・ノートというものを残し、例えばロンドンでは毎日のように大英博物館に通い、所蔵する図書を読み漁っては抜き書きをするという形で研究を進めたのだという。そうしたマルクスが残したノートを整理して活字にするというプロジェクトのようだ。そうして、それまでなかなか陽の目をみなかったマルクスの記述を使って、新しい解釈を試みるというのが斎藤氏の本職的な仕事。『大洪水の前に』の時点ではたどり着かなかったものとして、生産至上主義を乗り越えてマルクスは晩年に、『大洪水の前に』で検討された「エコ社会主義」から、さらには進歩史観を放棄し、「脱成長コミュニズム」へとたどり着いたという。なお、ツイッターで「斎藤氏は共産主義の言葉を使っていない」という観点で批判する人がいたが、斎藤氏はおそらく、旧ソ連などを彷彿とさせる「共産主義」ではなく、「コミュニズム」という語を選んだと思う。それは、本書で大々的に主張された「コモン(共有財産や共有地)」とも相性が良いのだろう。いずれにせよ、日本共産党は旧ソ連や中国の社会主義・共産主義は十分に発達していない状態から社会主義・共産主義を始めたから失敗したのであって、高度に発達した資本主義社会で社会主義・共産主義移行することが必要だといっているので、それに逆行する脱成長論は受け入れられないかもしれない。ただ、脱成長論が否定しているのは「成長growth」であり、「発展development」ではないところが難しい。
第五章では脱成長の意味をもう少し深掘りする。資本主義は確かに多くの富を生みだし、豊かな社会を築いた。しかし、そこには大きな格差があり、生活で消費するレベルではない富を保有する一握りの人間と、食うにも困る大量の貧困層という格差を生じさせている。世界や社会をよくしようという呼びかけであるSDGsでも持続可能な開発=発展を謳っているので、社会がなんとかやっていけるという意味での持続ではなく、これまで通りの発展を解け続けるものではならないという意味では、著者にいわれずとも私は国連が言う前から否定的だ(私が大学院にいた1990年代後半に、私の研究室の教授がサステイナビリティをやたらと使いたがっていた)。斎藤氏は第五章のタイトルにあるように、「加速主義は、持続可能な成長を追い求める。」(p.207)と批判する。まあ、資本主義を支えるほとんどの企業が、例えば製造業であれば、常に商品開発・技術発展を続けることで、いくらいい製品であっても時間が経てはより良い製品がつくられ、前のものは廃棄され、新しいものが購入される、そういうサイクルを消費者に強要している。
資本主義の枠組みでも、人間の幸せはお金だけでは測れないなどといって、さまざまな指標が登場しているが、同様の議論をより学術的に展開し、第六章は「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」と題し、資本主義をやめて成長から脱しても、決して貧しくなるわけではないと主張する。むしろ、資本主義体制の方が食うに困るような貧しい人を大量に生み出し、質素な生活をしていても食うには困らず、自由な時間があるのであればその方が潤沢だ、という議論。ここで、マルクス主義地理学者のデイヴィド・ハーヴェイが登場する。とはいえ、1980年代から丹念にマルクスを読み込み構築した地理学理論には触れず、『ニュー・インペリアリズム』の本源的蓄積論を、ハーヴェイがその頃積極的に取り組んでいた新自由主義論の文脈で取り上げて、批判している。「ハーヴィーは、「本源的蓄積」のポイントを完全にとりそこなっている。」(p.249)と全否定だ。ハーヴェイは本源的蓄積を「略奪による蓄積」と定義し、新自由主義の本質だというが、斎藤氏によれば本源的蓄積とは「コモンズの解体による人工的希少性の創造」(p.249)だと定義する。まあ、近年「コモンの復権」ということは結構いわれるようになったので、斎藤氏の議論が全く新しいというわけではなく、杉並区長となった岸本聡子氏の水道再公営化、ミニシュパリズムも本書では大いに参照されている。第六章の後半からはそうしたコモンの復権運動の事例が紹介され、バルセロナの話はけっこうな字数を用いて説明されている。登場する事例は自治体レベルで取り組まれていることがほとんどで(国レベルで達成されていればすごいことだ)、読者としては市民としてやるべきことを考えることができる。しかし、やはり国レベルで資本主義を乗り越えることは非常に難しいことで、それこそ日本共産党が訴える多数者革命のような道筋を示す必要がある。しかし、一方で斎藤氏は一国レベルでは、このグローバルな気候危機にとっては意味がないようなことも言っていて、やはりコミュニズムの世界の実現は本書だけではその道筋は全く見えない。じゃあ、一方でマルクスが実践していた階級闘争でどうやって資本主義を乗り越えるのか、まだまだ考えていかなければならないことは多い。


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