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2026年6月

【読書日記】ラトゥール, B.著『地球に降り立つ』

ラトゥール, B.著,川村久美子訳(2019)『地球に降り立つ――新気候体制を生き抜くための政治』新評論,238p.,2,200円.

 

また、読み終わってからすっかり時間が経ってしまった。ラトゥールは言わずと知れたアクター・ネットワーク理論の発案者であり、英語圏地理学でもその議論がされた当時は数冊しか翻訳本がなかったが、いまやほとんどの著作が日本語で読める。しかし、私は読む機会をことごとく逸してしまっていた。もう本格的に学術書は読めない立場になってしまったし、特定の著者の著作を片っ端から読むという時間もない。
しかし、本書はたまたま古書店で見つけ、そしてラトゥールの著作としては手ごろなサイズで、そして何よりも地球変動対策は私が政治家としても取り組みたいと思っているテーマなので購入することとしたし、読む機会にも恵まれて読むことができた。読む機会というのは、地方議員となった私はその生活のほとんどを市内で過ごすこととなり、市内での公共交通がバス中心のこの市では、ほとんどの移動を自転車で行うこととなり、電車での移動でじっくり本を読むという機会が圧倒的に失われてしまったのだ。ということで、月に一度くらいの頻度の都心への外出の際に読んだという次第。

日本の読者の皆さんへ
1
 政治的フィクションという仮説――規制緩和と格差の爆発的増大と気候変動の否認は同じ一つの現象である
2
 米国がパリ協定の離脱表明を行ったおかげで、私たちはどのような戦争が幕を切って落とされたのかをはっきりと知るようになった
3
 移民の問題はいまやすべての人にとっての問題となった。それが新たな邪悪な普遍性をもたらす。すなわち、誰もが足下の地面を失うということだ
4
 プラスのグローバリゼーションとマイナスのグローバリゼーションとを混同しないように心がけなければならない
5
 グローバル主義者の支配階級は連帯の重荷のすべてを少しずつ投げ捨てていくことに決めた。それはどのように決められたのか
6
 共有世界の廃棄は認識論的譫妄状態を引き起こす
7 第3のアトラクターの登場が、ローカルとグローバルの二極に分断された近代の古典的組織を解体する
8 トランプ主義が発明されたおかげで、第4のアトラクター「この世界の外側へ」の存在を知ることができた
9
 私たちがテレストリアルと呼ぶアトラクターを見出したことは、新たな地理政治的組織を確認することにつながった
10 なぜ政治的エコロジーの成功は、賭金に見合う成功に一度たりとも結びつかなかったのか
11 なぜ政治的エコロジーは、右派/左派の二分法から逃れることがそれほど難しかったのか
12 社会闘争とエコロジー闘争をうまくつなげるにはどうすればよいか
13 階級闘争が地理‐社会的立場間の闘争に変わる
14 ある種の「自然」概念が政治的立場を凍結した。そのメカニズムの理解を、歴史を通る迂回路が可能にする
15 右派/左派を二分する近代的視点によって「自然」は固定されてきた。その呪縛を解かなければならない
16 「物理的対象からなる世界」は「エージェントからなる世界」が備える抵抗力を持ちえない
17 クリティカルゾーンの科学は、それ以外の自然科学とは持っている政治的機能が異なる
18 生産システムと発生システムのあいだに生じる矛盾が増大している
19 居住場所を記述する新たな試み―フランスで実施された苦情の台帳づくりを一つのモデルとして
20 旧大陸を個人として弁護する
訳者解題 架空の物質性の上に築かれた文明

最初に訳者解題から触れるのもなんだが、この訳者解題が非常に親切で、読後長い時間が経ってしまったが、印象として残っている訳者解題から書きたいと思う。訳者の川村久美子さんは環境社会学を専門とするので、本書の訳者としてはふさわしいわけだが、実はラトゥールの『虚構の「近代」』の訳者でもあり、2008年というラトゥール本のなかでも初期の頃に訳されたもの。ラトゥールの訳者は固定されていないなかでも、川村さんの訳が一番多いようだ。そういう意味では、ラトゥールを読む一冊目としてはとてもいい選択だった気がする。
さて、訳者解題にもどるが、本書は前面的にアクター・ネットワーク理論が出てくるわけではない。そういうなかで、この訳者解題はラトゥールの研究者としての足跡をごく簡単にたどり、当然アクター・ネットワーク理論の解説もあり、その全体像のなかで本書を位置付けるという意味で非常に勉強になった。とはいえ、訳者解題だけで60ページ近くあるので、簡単に読み返すことはできないが、機会があったら振り返りたいと思う。まあ、ともかく内容に関しては大して書けない読書日記ですのでご期待はなさらずに。
私でも知っていたアクター・ネットワーク理論の特徴としては、複雑系の流れにはある思想だと思う。ただ、とはいえこれまでは人間主体とそれ以外の物質的客体との区別は取り払われず、アクターといえば人間主体であった。訳者解題でもJJ・ギブソンの文献が挙げられているように、アフォーダンス理論(私はギブソンも読んでいないわけだが)の影響下にもある。アフォーダンス理論では人間主体の意思決定が人間の心理のみに由来するのではなく、その人間が身を置いている周囲の環境からのインプットが重要であるという主張であるから、そもそも人間の意思決定とはその人を取り囲むさまざまな物質に由来するといってもよい、ということでラトゥールのいうアクターは人間主体に限定されず、主体と客体の区別はなくなるということであり、客体である物質により注目すべきだということだ。こう考えると、近年の物質性への注目もその流れにあるのかなとも思う。
ということで、本書についていえば、究極的な物質の集合体としての「地球」を人類社会は大事にしないといけないという前提に立っている。なお、本書の原著は2017年に出版されたもので、米国トランプの第一次政権においてパリ協定を離脱したということが大きな話題として取り上げられている。ラトゥールは2022年に亡くなっているので、第二次トランプ政権とその後の世界については知らない。先にも述べたように、私はラトゥールの研究書を読んできたわけではない。しかし、本書が純粋な研究書ではないことは分かる。目次からも分かるように、本書は社会の本質的な問題を抽象的な次元で論理を積み重ねるようなものではなく、今日的に起こっている社会の表層的な出来事を題材とし、一章が短く、次々と展開している。視野は全世界的なスケールで展開し、視線は将来に向けられている。まさに晩年の仕事としてふさわしく、これまで下記の事例の研究から理論を生みだし、その理論を用いて将来を論じるというのが本書ということだろうか。しかし、ヨーロッパで暮らしてきた知識人として、本書は欧米社会に向けて書かれているように思われる。
なお、本書はグローバルスケールで議論が展開されているとはいえ、意外にも「地理」という言葉が頻出することに驚いた。「いまや、気候変動こそが地理政治的問題の核心であり、それが不公正と不平等の問題に直結していることに誰もが気がついている。」(pp.16-17)の「地理政治」は太字になっている。原著との対比ができないが、地理政治とは地政学のことだろうか?しかし、他の数か所では「地政学」という訳語も登場するのだ。13章の表題にも「地理-社会的立場の間の闘争」なんて表現もある。「階級闘争は地理的論理に依存するのだ。」(p.98
なお、ラトゥールには本書と関連する著作として『ガイアに向き合う』があり、本書でもラブロックの『地球生命体――ガイアの科学』への言及がある。その関連で、19世紀ドイツの地理学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトへの言及もあるのだ。また、後半には「テレストリアル(地上との絆に縛られた存在)」(p.133)という語も頻出し、地理学との深い関連を感じながら読んだ。しかし、久しぶりに読む難解な書であることは間違いなく、これ以上わかったふりをして解説を書くことはやめておきたい。いずれにせよ、ラトゥールが思いのほか地理学と親和性のある思想家であることは分かったので、今後も新しいところから読んでいくこととしたい。

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【映画日記】『金子文子』『オールド・オーク』『急に具合が悪くなる』

本当に久しぶりの映画日記です。こうして記録を観ると、1ヵ月に1本しか観られなくなっていますが、この3ヵ月はかなり濃い作品を観ていることが分かります。

2026年4月20日(月)

渋谷ユーロスペース 『金子文子 何が私をこうさせたか』
1903年に生まれ、1926年に獄中で自死した女性。朝鮮人朴烈と一緒に虚無主義/無政府主義運動に身を投じる、というところまで、そして朴の膝に座った写真を知ってはいた。個人的に無政府主義=アナキストには関心があったので、金子文子についても知りたいとは思っていたが、浜野佐和監督の手により映画化されるという情報が、確かTwitterで流れてきて、製作費をクラウドファンディングで募っているということで、だいぶ前に少額だが出資していた。当時はクラウドファンディングのサイトから頻繁にニュースが流れてきたが、完成・上映開始の情報は何度もは来なかったので、観られるかどうか半ば諦めていたが、何とか観ることができた。以前にも獄中死した日本共産党員、伊藤千代子を描いた映画『わが青春つきるとも』があったが、どうしても似たような雰囲気にはなってしまう。
ただ、本作は金子文子を演じるのが葉菜葉だったというところが大きかった(伊藤千代子を演じた井上百合子さんもとても良かった)。まあ、これだけの人物なので、本作は見どころも多く、十分楽しめた。個人的には洞口依子の出演が嬉しかった。若かりし頃は独特の雰囲気を醸し出す俳優さんだったが、こうして加齢して落ち着いた雰囲気の演技をされている姿を見られたのはよかった。
https://kanekofumiko-movie.com/

 

2026年5月5日(火、祝)

新宿武蔵野館 『オールド・オーク』
ケン・ローチ監督作品。本作は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』に続く三部作ということで、私はこれら2作も観ていて、自分ではケン・ローチのファンだと思っていたが、改めてWikipediaを確認すると、鑑賞した作品は決して多くないことが分かった。1969年の『ケス』をシネ・ヴィヴァン六本木かどこかの再上映で観た時の衝撃が強く、すごい監督がいるもんだと思った。その後、岩波ホールで1995年の作品『大地と自由』を観ているが、当時の私には難しく、『ケス』の監督の作品だと認識していたかどうかは分からない。その後、1998年の『マイ・ネーム・イズ・ジョー』、2002年の『SWEET SIXTEEN』、2004年『やさしくキスをして』、2006年『麦の穂をゆらす風』(キリアン・マーフィー主演)と観てきたが、その後の作品は観たかどうかさだかでない。
まあ、いずれにせよ、観るたびにうなってしまう、作品を世に出し続けている監督であり、私のイギリス像を形成する最も重要な情報源かもしれない。本作は、かつては炭鉱で栄えたが、閉山後すっかりさびれてしまい、空き家になった住宅に支援団体が次々とシリア難民を送り込んでくる。すっかり高齢になった元鉱夫(の息子?)たちは主人公が経営しているパブ「オールド・オーク」に入り浸り、難民たちへのヘイトを繰り返す日々。日本映画でも同じような演出の映画が作れそうだが、多分それをみると、やりすぎだと思うだろうが、英国の観衆にとっては、これがリアルなのだろうか?前二作と比べて、希望の持てるラスト、というのは『しんぶん赤旗』での映画評通りだが、正直な感想としてはちょっと過剰演出な気もする。
https://oldoak-movie.com/

 

2026年6月25日(木)

府中TOHOシネマズ 『急に具合が悪くなる』
濱口竜介監督作品。Wikipediaをみると、1978年生まれで決して最近出てきたわけではない。私が彼の作品を知ったのは2018年の『寝ても覚めても』だが、主演二人の不倫騒動で柴崎友香原作であることすら話題から遠のいてしまった作品だったが、私のなかには何かが残った。ということで、2021年の村上春樹原作の『ドライブ・マイ・カー』を観たわけだが、この作品で一躍有名になり、同じ年の『偶然と想像』も観た。『偶然と想像』の映画日記にも書いたが、圧倒的な精緻な作品制作が評価されるべきだが、私はその完璧さにどこか不満を感じてしまう。
ということで本作だが、主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒がカンヌ映画祭で主演女優賞を受賞したということで、また話題となった。とはいえ、3時間を超える作品で観られるかどうか不安もあったが、なんとか観ることができた。しかも、久しぶりに夫婦で観ることとなった。予備知識は、哲学者と人類学者の対談本が原作であるということくらいだったので、長塚京三が一人芝居の俳優を演じるということには心躍った。長塚演じる男の孫で、自閉症の少年を演じる黒崎煌代も注目すべき作品であった。
3時間を超える上映時間を長くさせているのは2人の主人公の対話である。これを抜いて2時間程度の通常上映時間の映画としても一級品だが、原作は読んでいないが、女性二人の哲学対話が本作の真骨頂であり、同時にそれを映画独自の脚色としての2人がそれぞれ高齢者介護と演劇という実社会に見事に結び付けているのが本作の最大の魅力である。そして、2人の対話は多岐にわたるのだが、対話のクライマックスはマルクス主義的解釈による資本主義社会批判であるといえる。だからこそ『しんぶん赤旗』でも大々的に取り上げている。映画では日本人女性がソルボンヌで哲学を学び、フランス人女性が早稲田大学で人類学を学んだという設定だが、人類学にしても哲学にしても、マルクスを読むことは避けられない、そんな発言すらあった。
長塚さんの一人芝居もとても良かった。『ドライブ・マイ・カー』でも劇中演劇があったが、この手法は本当にこの監督の魅力である。長塚さんのフランス語も素晴らしく、また日本語とフランス語の使い分けもこだわりがありつつ自然でよかった。女性二人の日本語とフランス語(二人とも両方を使える)の会話もはじめの頃は日仏まじりあってとても自然だったのだが、後半からマリーはフランス語、真理は日本語になっている。長塚さんのセリフのなかに「感情を込めるときは母国語で」とあったので、二人の会話も遠慮して相手に合わせることを終わりにした時点からお互いに母国語を使う、という暗黙のルールに変わった、と解釈できないことはない。とはいえ、些細な日常会話については日仏入り混じった方がよかったかな、とおせっかいな感想です。
それから、やはり私自身は濱口監督作品にもう少し遊びが欲しいと感じる。美しいものだけでなく汚いものを、整ったものだけでなく乱れたものを、画面に映し込んで、その価値基準をフラットにするような作品になったら、私もより濱口作品を好きになるかな、と思う。
https://www.bitters.co.jp/soudain/

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