書籍・雑誌

Spaces of Neoliberalism

Brenner, N. and Theodore, N. eds. 2002. Spaces of Neoliberalism: Urban restructuring in North America and Western Europe. Malden: Blackwell.

 

サッセンによるグローバル・シティ論以降の日本の都市社会学者によって取り上げられることの多かった、英文地理学雑誌『Antipode』の特集号が単行本になっていたので、読むことにした。編者の一人ブレナーは、「リスケーリング論」においてもそうした都市社会学者に注目されている。ブレナーに関しては、翻訳された論文も2編ほどあります。この読書日記でもハーヴェイのネオリベラリズム論は紹介したが、主にネオリベラリズムについては国家の戦略として語られることが多い。もちろん、地理学者ハーヴェイの場合は空間や不均等発展などについても論じられているが、本書は副題にもあるように、都市に着目したネオリベラリズム研究だといえる。

序文:「新しいローカリズム」からネオリベラリズムの空間へ(ブレナー, N.・セオドール, N.
1部 ネオリベラリズムの都市化:理論的論争
 1 「実在するネオリベラリズム」の都市と地理(ブレナー, N.・セオドール, N.
 2 空間のネオリベラル化(ペック, P.・ティケル, A.
 3 現代都市におけるネオリベラリズムと社会化:対極、補足、不安定(ゴフ, J.
 4 新しいグローバリズム、新しいアーバニズム:グローバル都市戦略としてのジェントリフィケーション(スミス, N.
2部 都市と国家の再編:道筋と矛盾
 5 リベラリズム、ネオリベラリズム、都市統制:国家論的視野(ジェソップ, B.
 6 英国の都市政策の論理を発掘する:「危機管理の危機」としてのネオリベラリズム(ジョンズ, M.・ウォード, K.
 7 「都市は死に、ネットが生き延びる」:ネオリベラルなアジェンダに対するヨーロッパ都市間ネットワークを利用する(リートナー, H.・シェパード, E.
 8 都市から価値を抽出する:ネオリベラリズムと都市再開発(ウェバー, R.
3部 権力、排除、不正義の新しい地理
 9 ヨーロッパにおけるネオリベラルな都市化:大スケールの都市開発計画と新しい都市政策(スウィンゲドウ, E.・モラート, F.・ロドリゲス, A.
 10 「常識の」ネオリベラリズム:カナダのトロントにおける進歩的な保守的アーバニズム(キール, R.
 11 都市起業家主義から「報復都市」へ?:グラスゴー再生の空間的不正義について(マクロード, G.

例のごとく、1冊読み終えるまでに時間がかかってしまい、各章をきちんと紹介することはできません。
1
章はなかなか刺激的で、なぜブレナーが注目されているのかがよくわかります。ネオリベラリズムはよく知られるように、1980年代から英国のサッチャー政権、米国のレーガン政権によって推し進められたもので、日本でも中曽根時代あたりに萌芽がみられ、小泉政権によって進展させられた、主に国営企業の民営化を中心とする政策である。もちろん、これはそのイデオロギー自体がグローバル化に乗って世界に拡散され、資本主義経済のグローバル化を促進させる(資本主義自体の延命)役割を果たした。

1章のタイトルにもある「
実在するネオリベラリズムActually Existing Neoliberalism」という表現がなるほど,と思った。新自由主義という意味合いにおいて,ネオリベラリズムは一つのイデオロギーだが,実際に私たちが見て触れることができる実在物として現れる。そして,多くの場合それが都市において顕著である。グローバル化と手を取り合って実現するネオリベラリズムは,例えば都市間競争のような形で,国内と都市間や都市-農村間よりも,世界都市,あるいはグローバル・シティ間の競争が基本で,国家の枠組みよりもグローバルな舞台が前提となる。こういう事態がリスケーリングと呼べるのかもしれない。例えば,オリンピックの開催都市は,まず国内での候補都市を決め,一方で国際オリンピック委員会としてはアジア,北米,南米,ヨーロッパなどと地域ブロックでの連続開催がないように考慮しつつ,となると大小のスケールが入れ子状に決定されるといえる。それはある程度のスケール秩序に基づいた公平性などが考慮されるわけだが,そうした公平性とは無縁な資本主義の自由経済に基づく事象はスケールの論理を飛び越える。そういう事態をネオリベラリズムに力を借りたグローバリズムは行使することができる。
この「実在するネオリベラリズム」という概念をもう少し具体化したのが8章で論じられる「建造環境」だともいえる。この概念もハーヴェイによるものだが,一定の継続力を持って土地に固定された建造物は投資の目に見える表現である。もちろんこうした建造物は永続するわけではなく,維持や管理,更新の必要が訪れる。それらを維持するか発展させるか,放置されるか,巨大な建造環境が造られるのが都市であり,維持,発展,放置は都市の持続,発展,衰退と結びつく。
とはいえ,完全に市場原理でグローバル化が進展しないというのがネオリベラリズの特徴だともいえる。だから,国家論で知られるジェソップが本書にも寄稿し,多くの論者に一定の影響を与えている。市場経済への政府の介入という点では,レギュラシオン理論も一定の影響を与えているようだ。ウォーラーステインの世界システム論の対抗馬として登場したように私は記憶しているが,双方とも2000年付近に影響力を失ったように思えて,結局レギュラシオン理論を学ぶ機会を逸していたが,なんとなくネオリベラリズム論の先駆的な存在だったのかもしれない。今更ながら学ぶ意義を感じた。
この読書日記でも紹介した『ジェントリフィケーションと報復都市』のニール・スミスも寄稿している。スミスはジェントリフィケーション研究だけでなく,もちろんそれとも関連するが,スケール論についても一定の評価のある議論を展開しているため,本書にも不可欠な寄稿者である。11章はスミスの「報復都市」論を詳細に検討したものであり,非常に読み応えがあった。グラスゴーの都市再生を事例に論じられている。ジェントリフィケーションという現象はとかく社会的正義のようなものを無視して推し進められるものだと理解されるが,本章は「ポスト正義の報復主義」という概念を用い,正義という概念自体が意味合いを変えているという。
6章では英国の都市政策を,7章ではEUとドイツの都市間ネットワーク,9章のヨーロッパにおける大規模都市開発プロジェクト,10章のトロントなど,事例研究も多いが,本書にはほとんど地図は掲載されておらず,事例といってもそのものの説明は乏しく,理解は難しい。読みながら傍線を引いた,「ネオリベラリズムとは...」という文章だけ抜き書きしても学ぶことは多いはずだが,読後何がしっかりと私の頭の中に残ったかと問われると判然としない。まだまだ私の英語読解能力が足りていないようだ。

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ネオリベラリズムとは何か

デヴィッド・ハーヴェイ著,本橋哲也訳 2007. 『ネオリベラリズムとは何か』青土社,198p.1900円.

 

ハーヴェイの近著に『新自由主義』という訳本があるのに,なぜ本書もあるのかという素朴な疑問から読むことにした。原著タイトルでいえば,『新自由主義』が「新自由主義の簡単な歴史」であり,本書は「新自由主義の空間」。そして『新自由主義』が400ページ近いのに対し,本書は200ページ以内。つまり,『新自由主義』はその歴史(といっても20世紀後半からのものだが)を扱った解説書であり,本書はその地理(空間)を扱った講義を基にする本であるという違いであった。本書の基となったのは2004年にハイデルベルク大学の地理学会で行われた,19世紀の地理学者ヘットナーにちなんで行われたもの。
以下に目次を示すが,実はネオリベラリズムに直接かかわるのは3つある大項目のうちの最初の1つにすぎない。もちろん,ハーヴェイによる現代史で,ネオリベラリズムは大きな比重を占めるので,後半の話にももちろん関係してくるのだが,本文にネオリベラリズムの言葉はあまり出てこない。そういう意味では,この構成は『ニュー・インペリアリズム』とよく似ている。

ネオリベラリズムと階級権力の再生
 ネオリベラル的転回
 ネオリベラルな国家
 移植,拡散,転回
 中国という独特なケース
 達成――略奪による蓄積の再興
 ネオリベラリズム内部の矛盾と対抗勢力
 新保守主義的な対応
 別の選択肢
地理的不均等発展の理論に向けた覚え書き
 議論の構造
 社会的プロセスが「生活のネットワーク」のなかに物質的に埋め込まれていること
 略奪による蓄積と価値切り下げ
 時空間における資本蓄積
 社会的闘争の政治的力学
 追記
空間というキーワード

『新自由主義』では,その歴史がレーガンやサッチャーなどの具体的な名前を挙げて,順を追って説明されていますが,本書ではその理念的なことがある程度抽象的に語られている印象があります。とはいえ,本書が空間に特化して論が展開されているかといえば,『新自由主義』にも「地理的不均等発展」と名付けられた章もありますし,国家の議論もあります。本書が空間や地理に限定して論をしているかというとネオリベラリズムに関してはそうともいえず,最後の「空間というキーワード」という項目があるということにすぎません。
本書にはネオリベラリズムの定義のような記述があったので,引用しておきましょう。「要するにネオリベラリズムとは,あらゆるものが金融化され,資本蓄積の権力の中心が所有者とその金融機関に移り,資本のその他の部門が衰退することだ」(p.28)。また,こんな記述もありました。「NGOも多くの場合,国家が社会的寄与活動から撤退した空白に乗りこんでいたのであった,それがNGOによる民営化プロセスとも言えるものとなり,さらに国家の社会的活動からの撤退を加速することとなった」(p.61)。
地理的不均等発展に関する章では,『ニュー・インペリアリズム』で登場した「略奪による蓄積」の議論がでてきます。ハーヴェイの訳されていない1996年の『正義,自然,差異の地理学』なども参照しながら議論が展開され,なかなか魅力的な議論です。続いて,「空間というキーワード」に移りますが,ハーヴェイは『地理学基礎論』で展開した,絶対空間,相対空間,関係空間という三つ巴がいまでも有効だと論じ,これに対してルフェーヴルが『空間の生産』で展開した,空間の表象,表象の空間,物質的空間の三つ巴とのマトリックスを提示した議論はなかなか面白いです。また,こうした理論を実際の史実で検証したのが『パリ モダニティの首都』であるということですから,やはりこちらも読まなくてはなりませんね。

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ニュー・インペリアリズム

デヴィッド・ハーヴェイ著,本橋哲也訳 2005. 『ニュー・インペリアリズム』青木書店,236p.2800円.

 

この読書日記でも紹介したように,最近のハーヴェイものは『新自由主義』をまず読んだ。それとは別に『ネオリベラリズムとは何か』を読んだのだが,そのなかで「略奪による蓄積」の話が出てきたので,本書も読むことになった。出版順として,同じ訳者によるものだが,こちらを先に紹介しておきたい。
訳者の本橋哲也氏は英文学研究者で,これまでもシェイクスピアものの本などここでも紹介している。日本の英文学研究者は魅力的な人が多く,高山 宏がその代表格だが,その関心は19世紀末にあるといってよい。それに対して本橋氏の関心はもう少し前の時代で,特に植民地主義への関心が強いといえる。そういう意味では,「新しい帝国主義」と名付けられた本書に関心を持つのはよくわかる。しかし,この役は評判が良くなかった。『ネオリベラリズムとは何か』を読んだ時にはそんなに違和感を抱かなかったが,本書はどうなのだろうか。

ペーパーバック版への序文
序文
1章 すべては石油のために
2章 アメリカの権力はいかにして伸長したのか
3章 資本の呪縛
4章 略奪による蓄積
5章 強制への合意
あとがき

ハーヴェイの本にしては薄いこの2冊(本橋氏による翻訳本)はいずれも講義を基にしたもの。本書はオックスフォード大学の地理環境学科で行われた「クラレンドン講義」だという。2003年の2月に開催されたと書かれている。2001年の9月11日がいわずと知れた同時多発テロの日。アメリカはその報復として2003年3月からイラクへの軍事攻撃を開始した。その直前にハーヴェイはなぜアメリカがイラクという国を標的とし,1年半後にその軍事作戦を開始したのか,そこを明らかにすることがその講義の目的だったという。
よって,第1章は現代的な課題に取り組んでおり,私には非常に読みにくい内容であった。第2章に入ると,本書のタイトル通りの帝国主義論の現在が説明される。節のタイトルを列挙すれば,「ブルジョア帝国主義の興隆,1870-1945年」「アメリカ合州国のヘゲモニーの戦後史,1945-70年」「新自由主義的ヘゲモニー,1970-2000年」といった具合に,わたしたちが世界史の問題として学ぶ帝国主義がアメリカを中心とした現代の問題として,そして近年では中国も重要な位置を占めるようになるのだが,その辺りが説明される。ちなみに,「合州国」という訳語は確か本田勝一が使った表現だったと思うが,本橋氏はこの2冊で共通してこの訳語を使用している。他にもレーガン大統領を「リーガン」などと故意に通例とは異なった訳語を使用している。
第3章はこれまでハーヴェイが行ってきたマルクス資本論の地理学的解釈が展開される。かなり基礎的な地理学理論の紹介が含まれていることもあり,地理学者になじみの訳語が使われておらず,この訳本への批判はその辺にあったのだと思う。まず,「場所の理論」と訳されているのは恐らく
location theoryであり,一般的には「立地論」と訳される。そして,その主たる研究者の呼び方も,「アイザード」が「イザード」,「レッシュ」が「ローシュ」などとなっている。しかし,パリの大改造を行った「オスマン」が「ハウスマン」と英語読みにされているのは,ちょっと意外であった。古典的な地理学理論に訳者が通じていないのはしかたがないが,ベンヤミンなどは読んでいないのだろうか。ハーヴェイ自身も『パリ モダニティの首都』という本を書いていて訳書も出ているのに。まあ,その辺りは既に誰かが指摘しているだろうから,この辺にしておこう。
なんといっても,本書のクライマックスは第4章だ。この「略奪による蓄積」というのは,以前人文地理学会で行われたセッションで,原口 剛氏によって説明されていた時にかなり衝撃を覚えた。私はかなりウォーラーステインの世界システム論に説得されていた。それによれば,植民地時代から(三角貿易を通じて)外部を取り込みながら全世界に成長してきた資本主義世界経済は,現代に至り,外部を持たないほどに膨張し,20世紀の後半にはその構造的な危機を迎えていたという。しかし,この「略奪による蓄積」(本書によれば,この概念はハーヴェイのオリジナルではなく,ローザ・ルクセンブルグの説だというが)が通用する限り,資本主義は生き延び続けるものだと思える。サッセンの『グローバル資本主義と〈放逐〉の論理』を読んでもやはり資本の論理は非常に悪質なやり方で財を一握りの人びとの手にかき集めているという事実を理解できる。
そして,訳者あとがきでも強調されているが,第5章のタイトルに使われている「合意」という概念はグラム氏によるヘゲモニー概念を本書が採用していることにもある。この辺りが非常に難しい。本書ではアメリカ合州国こそが「ならず者国家」であるという論調でその悪事を暴き出しているが,それにはどういう主体を想定できるのだろうか?大統領という人物はもちろん重要だが,人物自体が交代しても根本的に自体が変化することはないという。そもそも,個人はそんな悪事をできるのだろうか。もちろん過去にヒトラーのような人物もいたが,それはかなり稀有な存在のように思う。人間は集団となるときにそういう悪事を引け目もなくできるようになるのだろうか。そして,ヘゲモニーという概念を「合意」という概念と結びつけるのは,そうした悪事が一方的にある主体からある主体(
subjectではなくobject)へと強制されるものだと単純にはいえず,合意という形で積極的とはいえずともその苦渋を受け入れているともいえるのだという。

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都市は人類最高の発明である

グレイザー, E.著,山形浩生訳 2012. 『都市は人類最高の発明である』NTT出版,484p.3,564円.

 

最近の読書日記で、原著が1961年に出版されたジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』、2002年に出版されたフロリダの『クリエイティブ資本論』を紹介した。
本書もその系譜に連ねることができるもので、著者の「謝辞」の表現を使えば「通俗書」である。最近の読書は、謝辞や訳者あとがきのようなものを先に読まず、1ページ目から読むようにしているので、気づかなかったが、著者にとって通俗書は一つのチェレンジだったようだ。それまでは、基本的に学術論文を発表の場としていたらしい。そのせいか、本書はまさに通俗書となっており、そういう意味でジェイコブズやフロリダと共通した雰囲気を持っている。いろんな事例が次から次へと登場し、それらが都合の良いように著者の主張を補強しているのだ。
ところで、これも1ページ目から読んだために気づかなかったが、学術書を煩雑なものにしている注釈が本書では巻末にまとめられている。しかも、ふつうは「1)」などと本文に示されているのだが、それがないのだ。巻末に該当するページの該当する文章が抜き出されていて、それに文献が省略形で示されている。詳細な文献表はそのまた巻末にまとめられているのだ。一方、本文では「ある研究者によると」とか「などといわれている」ような書き方で、この注釈に気づく前は「なんていい加減なんだ!」と思ったが、ともかく煩雑な注。

日本版への序文
はじめに:われら都市生物
1章 バンガロールの産物は?
2章 なぜ都市は衰退するのだろう?
3章 スラムのよいところ
4章 貧困者住宅の改善方法
5章 ロンドンは豪華リゾートか
6章 高層ビルのすばらしさ
7章 なぜスプロールは拡大したか?
8章 アスファルトこそ最高のエコ
9章 都市の成功法
結論:フラットな世界に高層都市

さて、本書は内容的にもジェイコブズとフロリダと似通っている。しかし、実はフロリダは文献表には登場せず、本文に一度だけ登場する。「あるビジョンは都市学者リチャード・フロリダが広めたもので、芸術やオルタナティブな生活様式への寛容性と、おもしろくてエキサイティングな都心を強調する。」(p.342)しかし、このページには注釈はない。そして、フロリダの考えに対しては「私だって都市文化はよいものだと思うが、美的な介入では都市の基本のかわりには決してならない」(p.343)と、文化的な側面よりも経済的な側面を強調し、フロリダ以降流行っている「創造的政策」を暗に批判している。ジェイコブズには基本的に賛辞を与えているが、ジェイコブズが主張していた低層な住宅が街路を魅力的なものにする、という考えには否定的な意見を示している。それは第6章のタイトルにもあるが、著者は基本的に高層ビルをよいものと考えているからだ。ジェイコブズも人口密度が人々の交流を生み出し、いい効果があることを主張しているが、高層ビルという極度な人口密度も著者は認めている。
そして、ジェイコブズやフロリダと根本的に違うのは、スラムや貧困地区を否定的にとらえていないところだ。というか、ジェイコブズやフロリダはそういう大都市の負の側面についてはあまり正面切って論じていない。すでに読書日記にも書いたように、フロリダも地域格差については論じている。しかし、本書では単なる階級としてだけでなく、貧困者の集住地区という空間的側面に対して向き合っているのだ。そして、ジェイコブズとフロリダ同様、本書の基礎はアメリカ合衆国にあるのだが、ムンバイやバンガロールといったインドの都市、リオ・デ・ジャネイロのスラムである「ファベーラ」、中東のドバイなど、欧米以外の都市についてもかなりのページを割いて解説をしている。また、都市だけでなく、インドと中国の動向についてもきちんと目配せをしているのは、本書で「グローバル化」という言葉は頻出しないが、21世紀を論じるのに当然の観点として、本書を貫いているのは好感がもてる。
そして、訳者山形氏による丁寧な「あとがき」がやはり有用である。とはいえ、彼の訳者あとがきとしてはすこし物足りなく感じるが。本書の主張に対する根本的な批判を忘れてはいない。この批判はフロリダの理論にも向けられていると思うが、ただ高層化して人口密度が高まれば、人々が出合いイノベーションが起こるわけではない。

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世界都市の論理

ノックス, P. L.・テイラー, P. J.編,藤田直晴訳編 1997. 『世界都市の論理』鹿島出版会,204p.3600円.

 

編者のノックスといえば,日本でも訳書『都市社会地理学』で知られ,テイラーも訳書『世界システムの政治地理』で知られる。ということもあり,本書も出版当時に知っていたが,当時は特に「世界都市」には関心もなかったので,購入しなかった。しかし,最近サッセンを読むようになり,また一方ではアブー=ルゴド(本書ではアブルゴッドと表記されている)『ヨーロッパ覇権以前』も読んだりして,本書への寄稿者の豪華さを今更実感し,中古で購入することにした。

序文
1部 導入:世界都市,その理論と文脈
 1 世界都市研究の課題と方法(ノックス, P. L.
 2 世界都市研究の到達点:この10年間の展望(フリードマン, J.
 3 世界都市と領域国家:その相互性の隆盛と衰退(テイラー, P. J.
 4 世界都市における集中と中心性について(サッセン, S.
2部 システムのなかの都市
 5 グローバル・マトリックスのなかの都市:世界システムからみた都市システムの地図化に向けて(スミス, D. A.・ティンバーレイク, M.
 6 世界都市,多国籍企業,都市階層:アメリカ合衆国の事例(ライアンズ, D.・サーモン, H.
 7 交通と世界都市パラダイム(省略)
 8 世界都市仮設:周辺からの省察(サイモン, D.
 9 カリブの都市システムとグローバル・ロジック:マイアミの事例(グロスフォーゲル, R
 10 シカゴ,ニューヨーク,ロサンゼルスの比較:世界都市仮設の検証(アブルゴッド, J. L.
 11 反周辺地域における“グローバル化”(省略)
3部 世界都市における政治と政策:その理論と実践
 12 世界都市の再定義:文化的理論/社会的実践(キング, A.
 13 地球-地域関係の理論化(ボールガード, R. A.
 14 世界都市の消滅と地域政治のグローバル化(スミス, M. P.
 15 世界都市と地球社会(省略)
 16 世界都市の環境問題(省略)
 17 世界都市の経営と管理(省略)
付録 世界都市仮設(フリードマン, J.

本書は国際シンポジウムの記録であり,各章の分量は決して多くない。しかし,明確なヴィジョンを持っており,今の私が読むにはちょうどよい内容であった。本書にも付録として収録されている,フリードマンの「世界都市仮設」という論文は,社会学者の町村敬志が編集した『都市の政治経済学』(日本評論社,2012)にも訳出されているもので,原著が1986年だが,本書はこの論文が提示する仮説をその後10年かけて検証してきた研究者の報告ということになる。
実は私も勘違いしていたのだが,「世界都市
World City」という表現はフリードマンのオリジナルではなく,1970年代辺りから,幾人かの人が提示していた概念であり,またサッセンの「グローバル・シティ」も幾人かの人が使用してる。ただ,もちろん各人によってその意味する内容が異なるため,漠然とその概念について議論するよりも,本書のように誰の概念化を明確にして議論することが有用だと思う。
フリードマンの世界都市概念はグローバル化における都市システムというものを強く意識しており,ウォーラーステインの世界システム論を意識しつつもそれを乗り越えようとするアブー=ルゴドのような研究者と,移民研究を出発点とするサッセンを結びつける。地理学でも,世界システム論を用いて政治地理学を復活させたテイラーがこの辺りから新しい局面に入っていくことも確認できる。
ともかく,世界都市という概念がグローバル化によって世界各地にある都市がネットワークで結び付けられるように,世界都市という概念が世界各地の専門分野も異なる研究者たちを一堂に会し,結び付けているということに意義があろう。そして,いくつかの章が省略されているのは残念だが, 8章の周辺地域や9章のカリブ海周辺,11章の半周辺地域などは,西洋世界中心的なこの概念と対象としての世界都市の偏りにも目配りされているといえる。
ただ,残念なのが翻訳である。私は訳者の労力があってこそ,翻訳本が日本の読者に提示され,多くの人に,さほどの労力をかけることなく読むことを可能にしているため,そういう苦情はいわないようにしているが,本書はかなりの難点がある。しかも本書は1997年という早い時点で出版されているので,細かいことはいちいち書かないが,最大の難点は文献である。本書を通じてその議論のベースとなっている研究を知りたいと思っても,その情報は断片的にしか示されていない。ある程度は会議の記録という側面から原著の問題かもしれないが,そこだけは残念である。

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グローバリゼーションの時代

サスキア・サッセン著,伊豫谷登士翁訳 1999. 『グローバリゼーションの時代――国民国家のゆくえ』平凡社,221p.2,000円.

 

本書はサッセンの著作としてはコンパクトなものであり、公開講座の内容を基にしている。ちょっと前に読了したもので、細かい内容はきちんと思い出せないが、やはり刺激的な読書体験だった印象だけは残っている。原著のタイトルは「Losing control?: Sovereignty in an age of globalization」となっていて、「主権Sovereignty」がテーマになっている。また、序章には本書の内容が、「グローバル経済における統治(ガヴァナンス)と説明責任(アカウンタビリティ)」とをテーマにしたものであることが記されている。

日本語版への序論
序章
第一章 近代国家と権力の新しい地理学
第二章 経済的市民権について
第三章 新しい秩序の試金石としての移民

内容をきちんと覚えていないので、チェックをしたところを読み返すことで、少し思い出してみたい。以前は鉛筆を常備して、気になるところに傍線を引いていたが、最近はやめてしまった。せいぜい、ページの隅を折っておくくらいだ。
ということで、まず78ページ。「主権と領土は、いぜんとして国際システムの鍵となる特徴である。しかし、・・・わたしは、主権は脱中心化され、領土は部分的に脱国家化されてきた、と主張してきた。」とある。サッセンは別の本で、企業による他国の土地購入の話を書いているので、それと関連するのであろう。
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ページも同様の記述に私は関心を持ったようだ。「多国籍企業とグローバル市場が現在享受している権利の国境を越えた網の目は、この変革の次の段階、すなわちかつて国家〔による支配〕であった国際領域の民営化であるのか。」
最後、129ページ。経済のグローバリゼーションは、国民経済を脱国家化し、それとは対照的に、移民は、政治を再国家化する。・・・移民や難民のこととなると、北アメリカ、西ヨーロッパ、日本のいずれの国においても、国民国家は、自国の国境を管理する主権国家の権利を主張する際に、〔国民国家の〕過去のすべての栄光をもちだすのである。」
明治学院大学で今年度までエスニシティをテーマとする社会学の講義を担当していた。学生の多くが、「日本では移民といってもピンとこない」なんていっていたが、なぜだろうか?私の住む東京都日野市にはかなり外国人が住んでいる。確かに、日本政府は移民や難民の政策には積極的ではない。しかし、一方で外国人観光客の受け入れに関しては非常に積極的で、それは日本での外国人移住も見据えたものとしか思えない。日本人口は減り続け、いろんな将来の予測において、高齢化する日本人を支えるために外国人に頼らざるを得ないということが明言されている。果たしてこの国はどうなるのであろうか。

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子どもを信じること

田中茂樹 2011. 『子どもを信じること』大隈書店,331p.2,800円.

 

妻は現在人生の岐路に立っている。自らが実の親から十分な愛情を受けて育っていないため,思ったようには自分の子どもに愛情を注げていないということらしい。「らしい」と表現したのは,そもそも親子の愛情というものがどういうものかが分からないので,どういうあり方が正しいのは分からないので,判断材料がないのだ。とはいえ,多くの者は単一の親子関係しか経験したことがなく,しかも子どもの立場で経験する親子関係と親の立場となって子どもと接する場合とは比較にならないと思うので,個人的には親になるものは誰でも悩む問題だと思う。
とにかく,その答えのヒントでも知りたいということで,さまざまな本を読んでいる。その中の一冊,本書に関しては私にも読むことを薦めてくれたので,読むこととなった。本書の著者は医学部を卒業した後,心理学専攻で博士まで取っている。大学の教授でありながら臨床心理士としてカウンセリングも行っているという。自らの多様な経験から,一般向けの本として本書は執筆されている。本書は短い45の断片から構成されているが,大まかに三部構成となっている。

I 診察や面接で気がついたこと
II
 親子の関係
III
 子どもとのコミュニケーション

著者自身も親であり,本書で書くような育児の実践を実際に自分の家族でやり始めたのは一番上の子どもが中学生になってからというから,子どもを持つ親に対してカウンセリングを行う人が自分の子どもに対して決して完璧な育児をしているわけではないということをさらけ出しているところに著者の実直さを感じる。
本書はある意味で書名に関していろんな角度から具体的な話,時折難しい理論的な話を交えて展開される。要約すると,子どもは自らの力で自らを幸せに導く力を持っているから,親や大人の立場であれやこれやうるさくいう必要はなく,温かく見守りつつ子どもを人格を持った人間として認めることが必要なのだという。臨床心理士として著者が接する親は当然,育児に関して問題を抱える人たちである。多くは子どもが不登校になるという事例だが,もちろんそれは一つの問題として表に現れたものではあるが,そうではない普通の子育ての場面でも大いに役立つことが書いてある。
しかし,私のような読者が読むと,少しくどい印象を受ける。そしてややもすると,決定論的な印象を受けることもある。子どもが家庭内外で問題を起こすということは,本書のタイトルにあるようなことが足りていない,すなわち親が子どもを本当の意味で信じていないことが引き起こしているのだ,という風に読み取れてしまう箇所も少なくない。そして,著者の考えに基づいて親が子どもに接するとすべてがうまくいくような書き方も多く,現実的というよりは理想的であるような印象も受ける。本書を読んで思い出したのが,長男が生まれて間もなく読んだ,おむつなし育児の本だ。こちらも,苦労することは多いが,おむつなしで育てることの効用があれやこれやと書いていて,読んでいると「これは素晴らしい!」と思うのだが,ほとんど現実には実践できなかった。まあ,本書の場合には実践できることも少なくないので,無理のない範囲で,またすぐに効果がなくても,まあそんなもんか,という軽い気持ちで育児に利用させてもらおうと思う。

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嘘八百

今井雅子 2017. 『嘘八百』PARCO出版,239p.650円.

 

今年になって公開された映画のノベライズ版。映画の脚本は足立 紳さんとの共同だが,ノベライズは今井さんの単著。映画公開前に,調布のパルコでちょっとした映画関連の展示があって観に行ったとき,本書も売っていたが,映画を先に観ようと思っていたので購入せず。公開して,妻が監督・脚本家のティーチインがある会に観に行った。その際に,サイン会があり購入してきた次第。基本的に映画を忠実に活字化しているといえる小説。一応目次があります。

一 柴田
二 利休
三 光悦
四 大海原
五 嘘八百

そして,各章も節に分かれていて「うぶ出し屋 獺」「茶碗焼き 蜥蜴」「鑑定家 古狐」と,主たる登場人物が語り手となっている。とはいえ,厳密な意味で各人物の視点になっているわけではないが,映画が基本的に中井貴一演じる小池則夫(=獺)の視点で貫かれているのに対し,小説版ではいくつかの視点から物語が展開する。そういう意味でも,文学作品としてよく構造化されている。
また,これは文字による文学作品と映像による映画作品との違いとして当たり前の事実ではあるが,小説版では映画では表現することの難しい細かい事実を補足しているし,映画で俳優が微妙な表情で表現しているものは小説版では表現しえない。お互いが補足的な作品だともいえる。
ところで,本作は利休と当時の茶の文化,焼き物の文化などに関する史実も描かれている。かなり綿密な調査に基づく史実が本作を支えているのだ。しかし,一方で本作はあくまでもフィクションであり,史実の情報源などは示されていないし,どこからが事実でどこからが虚構かも明確には示されていない。私のような読者はどの区分が気になってしまうのだが,小説においてはそういうところは曖昧でいい。むしろ,区分できないところが面白い。

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東京臨海論

『地理学評論』に投稿した書評原稿ですが,「難解」という理由でリジェクトとなりました。一応,わかりやすくして再投稿する予定ではありますが,そのままこちらに掲載しておきます。

 

渡邊大志:東京臨海論――港からみた都市構造史.東京大学出版会,2017年,3695p.5,400円.

 

評者は現在,2020年東京オリンピック開催に向けて東京という都市がどのように語られるのかという課題に取り組んでいる.東京は,1980年代の都市論の主たる対象として語られた.その言説は記号論的解釈を基本とする日本独自の展開であり,経済の失速とともに過去のものとなった.欧米の都市論は世界都市論からグローバル・シティ論へと展開し,近年では創造都市論や都市の新自由主義化などと盛り上がりをみせている(上野 2010).
都市論という枠組みで東京を捉える必要性の一方で,2020年東京オリンピック大会との関連を考えるのであれば,新しい施設が整備される「東京ベイゾーン」と名づけられた湾岸地区に焦点を当てる必要がある.評者はそうした関心に応えてくれることを期待して本書を手にした.本書は様々な事物が交錯する港湾という場所を対象としていることもあり,一筋縄ではいかない難しいテーマに挑んでいる.読者の関心の違いによって本書の読まれ方は異なり,関心のある章を中心に別の章を位置づけるという作業が読者には要求されよう.ここでも,評者の関心に沿って本書の内容を紹介したい.
まず,著者の立場を明らかにしておきたい.序章「東京港という舞台」には,「本書は現在の東京港の現状を肯定的に捉えようとする視座に立っている.それはロンドン,ニューヨークといった経済的,制度的に世界を制覇し,その他の港に較べて成功しているとみられている資本主義下の港に対して,その評価軸をややもすれば置き換え,警鐘を鳴らす役割を東京港が果たす可能性を持つと考えるためである」(p.9)と記されている.本編からは,さまざまな史実に対して著者が批判的な立場をとっている印象を受けるが,総体としてはそうではないことを確認しておく.
評者の関心は,第3章「世界都市概念の根本
――言説と経済の中の1980年代臨海地区」にある.最近では創造都市という概念が都市政策に応用されているように,1979年から416年東京都知事を務めた鈴木俊一の時代には,世界都市の概念が都政に利用されていた.本章は「世界都市博覧会」をめぐる言説分析である.このイベントは長らく「東京フロンティア」という名称を用いていたが,その発案は1988年になされた.当時は,「一定の東京論が出尽くした『東京論ブーム』の絶頂期を迎えた」(p.188)時期であった.
本章は,雑誌の東京論特集やウォーターフロント論などを中心にその「言説史」(p.181)を丁寧にたどっている.雑誌に寄稿する著者の属性や,雑誌の性質などを踏まえ,こうした言説がジャーナリズムに先導され,アカデミーがそれを追随したにすぎなかったという.このことが,東京の臨海部開発においてジャーナリズムの議論が行政に利用されていったことにつながっている.
議会の議事録は地理学でも利用されるが,本書では東京都議会や東京都で組織される各種委員会や審議会の会議録や報告書が活用されている.これら資料から,都市政策に関する議論をその首長である鈴木都知事のみに帰すのではなく,いくつかの部局の役人たちの発言として丁寧に提示される.本書では,その組織論まで踏み込まないまでも,非常に興味深い論の展開である.
当時提示された「東京フロンティア構想計画」を理解するために,第1章と第2章が必要となる.第1章「築港理念の頓挫と再生
――隅田川口の明治」は明治期の東京築港計画をたどる.まず,その計画の担い手としての東京府の立場が確認される.「戦後の地方自治法が制定される以前は,東京府や東京市は内務省に管轄された出先機関の性質が強く,現在の東京都のような地方分権の要素は薄かった」(p.38).東京港をめぐっては,その後も計画・開発の主体として,内務省,東京府,東京市のせめぎあいで輻輳する.
1880
(明治13)年に提示された築港計画は,当時横浜港が持っていた首都圏における商業貿易の拠点機能を東京へと移行する目的があった.また,この計画は道路と鉄道を含む都市インフラという陸上側の計画であった.しかし,実際の事業は隅田川の河川整備へと形を変える.隅田川口に規模の大きい船舶が出入りできるように,海底の土砂浚渫を行い,その土砂による埋立地の造成が行われた.本来港湾法の下で行われるべき整備が河川法の下で行われたことは,当初の築港計画を矮小化したものであったが,それは「少なくとも後の港湾計画上のインフラと成り得たとみなすことができる」(p.80)という.
次なる展開はグローバル化によってもたらされる.第2章「コンテナリゼーションの地政学と近代倉庫の配布
――大井地区の戦後」では,米国が先導した港湾の技術革新としてのコンテナ輸送の観点から論じられる.従来の港湾には,海運貨物を内陸に輸送する中継地点として多くの機能と労働者が集約されていた.ガントリークレーンを常設する景観に変貌した港湾は,コンテナを積み替えるだけの経由点と化す.
2章のタイトルにある地政学に関しては,以下のような説明がある.「これ(地政学:引用者)は主に陸上におけるインフラの整備と連環する.また大井のような市街地を直接背後に持つ埠頭の場合,倉庫群と市街地の位置関係によって倉庫群の拡大に制約が発生する」(p.155).また,「コンテナを含む倉庫群は海を介した地球スケールの情報の地図の上に配布されることを意味しており,その事実は実際の地理に拠らない新しい地政学を都市に示し始めている」(p.162)と説明される.地政学文献への言及はないが,「地勢学」という表現ともに,使用回数は少なくない.本書は東京港を,都市や港湾部というローカルな状況だけでなく,コンテナ化をもたらしたグローバルな状況も含めた大小のスケールを意識して認識している.
また,コンテナ化がもたらした「オンラインシステムがもたらした港湾の地勢学的変化は,都市の様々な情報の集積でもある近代都市に空けられた『情報の空地』へと,埠頭という旧来の埋立地を転じさせた」(p.161)という記述も見受けられる.コンテナ化による物資輸送の効率化は同時に情報化であり,港湾はグローバル空間の重要な結節点となる.
再び第3章に戻って,このことを世界都市概念と結びつける言説として,東京世界都市博覧会基本構想懇談会の座長を務めた丹下健三の論が紹介される.「このとき丹下は世界都市という概念を世界と電子マネーを含む記入情報をインフラとして接続した都市として考えていたのである」(p.223).情報や金融を媒介とする世界都市概念の主張は説得的だが,この臨海部開発は,港湾という土木的開発とそこで行われる物流的交換をうまく機能させることはできなかった.「その時もはや埋立地は陸と海を接続する媒介ではなく,海が陸になろうとしたのが臨海副都心開発であった」(p.210).都市フロンティアという港湾の物質的機能を意識した名称が世界都市博覧会に変更されたことは,そのイベントが臨海部で開催される地理的固有性を失ったことを意味する.
4章「倉庫の配布による都市の再編集
――臨海部・青海埠頭の1990年代以降」では,世界都市博覧会の中止を受けた「港湾空間の再港湾化」(p.278)が論じられる.地理学であれば分布と呼ぶところを,違和感を抱く配布という言葉で説明する.配布という表現はその行為主体を想定させるが,決して東京都という行政が倉庫を配布したわけではない.しかし,自然発生的に分布したと捉えるのではなく,複数の権力主体が意図的に倉庫を立地し,特定の意図をもって港湾空間が生産された,というのが著者のいわんとするところではないだろうか.
ここに至って,東京臨海部が港湾機能を有するようになる.コンテナ化に続いて,財閥企業の倉庫部門が1960年代からプラント海貨を開始する.さらに物流に関わる国際的な組織の発足や各国での法改正を受け,東京港において倉庫業が国際複合一貫輸送を担っていく.こうした動向を受け,東京都による港湾計画も変更される.一方で,倉庫業の新しい動向としてトランクルームが登場し,「都市生活者(個)ごとに分節された倉庫ネットワーク」(p.312)をも形成していく.
終章「都市の領域・埠頭空間・倉庫」は本書の内容を簡潔にまとめているが,附論「〈みなと〉からみた都市の姿――『分節港湾』単位系の都市の萌芽」では,港湾を改めて都市の視点から捉え直している.「都市イデア」という「人為を超えた存在」(p.363)による説明は評者には分かりにくいが,模式図によって従来の都市認識モデルに対して「航路による分節構造の都市認識モデル」を提示している.領域的な都市理解をネットワーク的な理解で代替するのは近年では珍しくないが,港湾というネットワークのノードについての具体的な事例で論証する本書のモデルは説得的でもある.ただ,本書で論証されたのはあくまでもノードであり,パスとしての物流ではない.

文 献

上野淳子 2010. 東京都の「世界都市」化戦略と政治改革――開発主義国家がネオリベラル化するとき.日本都市社会学会年報 28: 201-217

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディック著,浅倉久志訳 1977. 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』早川書房,328p.,円.

 

1982年の映画『ブレード・ランナー』の原作として知られる1968年の作品。日本語訳も1969年に出されている。私が購入したのはハヤカワ文庫版。
原作といえど、かなりストーリーは異なっている。映画のタイトルにもある「ブレード・ランナー」の意味合いは説明されないが、まあ刃の先を渡るような危険な仕事という意味合いなのだろうか。原作ではバウンティ・ハンター、まさしく賞金稼ぎと表現されている。電気羊というのは、人造動物であるが、タイトルになっているように、原作の中心をなす。映画ではこの手のものはほとんど出てこないが、原作では非常に重要である。地球に住む人間の多くが屋上でペットを飼っており、それが生きがいのようだ。映画の主人公と名前は同じでリック・デッカードは原作では夫婦で暮らしている。かれらが飼っていた羊が亡くなってしまい、それを忠実に再現した模造品を所有しているという設定。デッカードはアンドロイドを始末して手に入れた金を頭金に山羊を購入したり、ともかく生きた動物に対する執着は主人公に限らず非常に強い。
映画ではアンドロイドの製造会社として「タイレル」が登場するが、原作では「ローゼン」と名前が違う。ただ、主人公が心惹かれる「レイチェル」は同じ。映画では、火星から地球に来たアンドロイドの目的がタイレル社に行って寿命を延ばすということになっているが、原作ではそういう明確な目的はない。また、アンドロイドの目を作っている職人セバスチャンは、原作ではアンドロイド生産とは全く関係ない人物「イジドア」になっている。ただ、アンドロイドの一人、プリスをかくまうという点は同じである。
映画は映画で「フィルム・ノアール」などと呼ばれるようになる独自の雰囲気を出していて,重要な作品であることは間違いない。ある意味では原作の中心にある生命に関する洞察という根本のテーマについては,映画という映像による表現でできるところに限定し,小説という文字表現がもつ特有なところを大幅にカットすることであの映画が成立しているのかもしれない。ただ,記憶という部分については文字表現よりも,1968年から映画の1982年までの間に社会が獲得した技術革新,あるいは映像技術を利用して微妙に表現しているような気もする。
ともかく,原作の中心は生命,特に動物がもつ従順な生命ということになる。作中人物たちはそれに異様なまでに執着しているのだ。そして同時に宗教。原作には「マーサー教」なるものが登場する。原作と映画で共通するのは,人類が火星に植民地を築き,多くの地球人が移住しているという設定。火星でこの宗教がどうなのかは分からないが,ともかく地球に取り残された孤独な地球人たちはこの宗教にすがらずに生きることができないということになっている。この2つが原作の根底をなしている。

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