書籍・雑誌

世界を見せた明治の写真帖

三木理史 2007. 『世界を見せた明治の写真帖』ナカニシヤ出版,189p.,1900円.

ナカニシヤ出版が出しているシリーズの10冊目。私が読むのは,村山朝子『『ニルス』に学ぶ地理教育』,関戸明子『近代ツーリズムと温泉』に続いて3冊目。第一印象はこれまで読んだ2冊と同様に,タイトルが適切でなく,ちょっと大袈裟だということ。著者の三木氏は1965年生まれの中堅地理学者。交通史という独自の路線を地道に突き進んでいる。これだけ継続的に研究を発表し続けている地理学者はそういない。しかし,研究テーマからして私はきちんと彼の文章を読んだことはない。しかし,そんな彼がこんなテーマを取り上げるのはかなり突飛な気がして,写真研究をしている身としては,読まずにはいられなくなった。そんな事情については「あとがき」に詳しい。当初,彼に依頼されたこの叢書のテーマは「世界鉄道としてのシベリア鉄道」であった。この叢書のタイトルが「地球発見」だから,これまでのような「日本の鉄道史」では駄目である。ということで,企画者が望んだのは日本以外の鉄道の話だったが,結果的には日本国内で世界に関する史料を扱うものだった。
確かに,本書が提示するものは貴重だ。まず,古地図に対して古写真の地理学研究の不足。石井 實のいう「地理写真」を歴史的な次元に拡張すること。そして,恐らく私のものも含めた地理学における近年の写真研究がその図像にのみ限定されていること。そうした,これまでの研究の批判の上に,彼の研究が位置づけられる。しかし,最後の点に関しては,そうした近年の研究を芸術写真の図像学的研究と単純化して批判しているのは,具体的な研究を挙げていないことからも明白。ローズの写真研究などは複雑な内容を持っているのに。なので,彼の研究の位置づけに関してはあまり評価はできないのだが,彼の集めた史料はとても豊富である。しかも,その史料収集から分かった事実も2つほどあり,それは本書の大きな成果である。その一つは,明治末期に世界一周旅行をした日本人観光客のなかから,世界写真帖を出版する人物が現れたのだが,その写真帖とはなんと,旅行中に各地で買い集めた絵葉書から作っていたと思われる,という事実は面白い発見である。また,著者が日本全国でその所在を確認している「府県写真帖」とは,やはりこれも作成の中心人物がいるのだが,皇族による日本各地への行幸の際に,彼らに謹呈するために作成されたものだという。この辺りに詳しい,フジタニ『天皇のページェント』にもこの事実は書かれていなかったと思うから,膨大に収集された写真帖とともに,大きな成果だと思う。
確かに,調べてきたことが緩やかに結びついて,それらをまるごと1冊の本で紹介したくなる気持ちも分からないでもない。しかし,明らかに本書には史実を詰め込みすぎだ。読者にはそれが消化できない。それどころか,恐らく著者にも消化できていないと思う。それを何とか消化しようと,私でも読んでいないような日本の写真史の文献を読み漁った努力は評価すべきである。個人的には,上に挙げた成果のどちらか一つに限定して論を展開した方がすっきりして,また議論も深められたと思う。せっかく36ページを費やして掲載している府県写真帖は,本文での扱いの少なさで,その史料価値を低めていると思う。まあ,ともかく本書は新しい方向性に導かれようとする著者の覚書だと思っていいのではないか。著者自身が膨大に集まってきた史料をひとまず整理しているもの。まあ,これが公的な場に発表されたことで,著者以外にもこの分野の研究が可能となるし,そういう価値はあると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雑学者の夢

多木浩二 2004. 『雑学者の夢』岩波書店,183p.,1800円.

多木浩二の作品はチェックしているはずだが,古書店で発見した本書が2004年の発行でちょっとショック。本書は岩波書店の「グーテンベルクの森」というシリーズもので,さまざまな分野の執筆者に,自らの読書歴を交えて書かれたエッセイである。といっても,他に私の興味をそそるような著者はいないので,このシリーズ自体知らなかったことは仕方がない。
多木浩二という人物は,彼の著書を10冊以上読んでいる私にとってもある意味捉えどころのない批評家である。しかし,そもそも私が「批評家」と呼ぶ人物は○○学者と呼べるような基礎をもっておらず,かといっていい加減な「評論家」ではなく,知識をひけらかす単なる博学者でもない。ある意味では,私自身が批評家でありたいと願う以上,この呼称で呼ぶ人物には尊敬の念を抱いている。
といっても,本書がそんな読書歴に関するエッセイとは知らず,一見したところでは初学者向けの雰囲気があって,あまり読もうとは思わなかった。第一部は「記号と構造」と題され,ロラン・バルトとソシュールが論じられるのだから,「多木浩二たるものが何を今更」という印象があったが,第一部の最後に,「初期ベンヤミンの言語論」と題された第四章があり,最近オースター『ガラスの街』関連で読んでいるベンヤミン「翻訳者の使命」が検討されているらしいので,800円という安価も手伝って,購入することになったのだ。そして,なんとなく購入した外出先で「序文」を読んでいると,これまでほとんど知ることのなかった,多木浩二の略歴が自身の筆によって書かれているではないか!ということで,やはり書物ってのはきちんと読んでみるまで中にどんな発見物があるのか分からないのだ。だから読書はやめられない。私の同業者のなかには,けっこう目次を読んで分かった気になる人や,書物を冒頭から読まず,自分の知りたいことだけを効率よく得ようとする人が意外に多くてビックリする。
しかし,多木浩二氏はそういう読書の愉しみを教えてくれる作品の著者でもあるから,彼自身の読書歴がそういうものであることを知って嬉しくなる。そう,多木浩二はそもそも始まりからして○○学者という経歴を有しないのだ。ほとんど独学に近い形で,興味の赴くままに,まさに「活字の海を航海する探検家」だといえる。ちなみに,多木は18世紀英国の探検家,ジェイムス・クックの研究に人生の一部を捧げている。
既に書いたように,本書はロラン・バルトから始まる。そして一つさかのぼってソシュール。その辺りから,かなり言語学にはまったようだ。そしてバンヴェニストにたどり着き,あまりにも言語学に傾倒するバランスを戻すために,ベンヤミンが登場する。多木浩二にとってこれまでの著作でもベンヤミンが非常に重要な思想家であることは分かったが,ベンヤミンの言語論から入っているとは少し意外。そして,ベンヤミンの幼少期の記憶と都市の関係を論じた「1900年頃のベルリンの幼年時代」から,『パサージュ論』へと,だんだん歴史記述の問題へと関心を移行していく。
晶文社のベンヤミン著作集はずいぶん集めてきましたが,5巻本の『パサージュ論』はまだ読んでいない。もちろん,この作品は誰かの概要で読まずに済ませるようなものではないが,やはり今私が関心を持っている事柄には必読書であることを思い知らされる。やはり,多木浩二氏の本からは必ず得るところがあるが,本書の魅力はやはり多木氏が飾らずに自分のことを書き記していることではないだろうか。概して,このレベルの著者は,私には非常難解だと思われるベンヤミンもフーコーも,全ての著書を読んでて当たり前,しかもその内容も理解していることが前提でその先を論じるような論調で書かれるが,多木氏はフーコーの著作に対しては未だに挑戦しているという。ベンヤミンの言語論についても,それ以前に言語学著作を多数読んだからこそ,少しずつ理解できるようになった,と素直に書いていること,これである。まさに「読書の愉しみ」を教えてくれる本。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

映画の論理

加藤幹郎 2005. 『映画の論理――新しい映画史のために』みすず書房,229p.,2800円.

本書は,著者がさまざまな要望に応じて発表した原稿をまとめたもの。それは百科事典的な書物だったり,公開講座だったり,共同研究の成果として学術雑誌に掲載されたもの,新聞に連載された小文をあわせたもの,だったりする。他人から求められたテーマに対して何ができるか,これも研究者の力量をはかる大きな指標になると思う。そういった意味では,やはり加藤幹郎は加藤幹郎だということを思い知らされる著作である。私が先日続けて紹介した,神田孝治氏の『レジャーの空間』と『観光の空間』に寄稿した多くの研究者は,自らの既存の研究を発展させないままその縮小版でお茶を濁したり,新たな展開をしたものでもその文章の短さに屈していたりと,芳しい成果は上っていない。まあ,自分はどうかといわれると,論文を書き始めて15年以上経つわけだが,純粋な依頼原稿は2つしかない。一つは1996年の月刊『地理』に掲載した甲斐バンドもの。もう一つは,2002年にINAX出版の季刊誌『10+1』に掲載した泉 麻人論。もう少しゆるい感じの依頼も含めれば,指導教官の科学研究費報告書に掲載するものとして書かれ,後に2000年の『季刊地理学』に掲載された論文,2001年に所属していた教室が不定期で発行している雑誌『理論地理学ノート』に掲載された論文もある。どれも,求められている水準以上のものは書けたという自負がある。しかし,一向に依頼原稿は増えない。
まあ,そんな話はどうでもよいですね。本書の第2章では珍しく,「映画史の今日的変容」と題し,『マトリックス』,『タイタニック』,そして『千と千尋の神隠し』などが批評の対象となる。そう,加藤氏は基本的に同時代的な映画批評ではなく,映画史研究者である。本書でも,第3章で取り上げられるニコラス・レイや第4章で取り上げられるジョーゼフ・コーネルなど,古い映画に詳しい人でもほとんど知らないような映画作家を取り上げる(といっても,ニコラス・レイはジェームス・ディーン主演『理由なき反抗』の監督でもある)。まあ,彼の議論は決して,これまで映画史で無視されてきたということだけを理由にするような全体主義的な動機ではなく,かれらの作品がいかにビッグネームの映画監督の斬新さを先取りしていたか,ということにある。それにしても,本当に加藤氏はどんな生活をしているのか,その研究にかける情熱には驚く他ない。よく,職業的な映画評論家は,朝から晩まで試写会にこもって,新作を観続けることを強いられ,純粋に映画を楽しむことを忘れてしまい,評論文もろくなものが書けない,という話を聞くが,加藤氏の日常もそれに近いのだろうか。でも,彼の文章は少なくとも研究対象として観ている作品も絶対に楽しんでいると思わせる。しかも,第2章を読んでも,歴史的な作品を網羅的に観ようとしている加藤氏が,けっして現代の作品を蔑ろにしていないことも分かる。確かに,私が歴史書を読む時に,一つ一つの事実が関連しあって,読めば読むほど楽しめるように,映画のさまざまな技法や監督や俳優,もちろん撮影者や製作者など,次から次へと関連しあって,その知識の体系が出来上がる過程だけでも楽しいのかもしれない。私もできるだけ同時代の映画を観るようにしているが,監督や俳優,音楽などの関わりを知ることがその鑑賞の楽しみの多くの部分を占めているともいえるし。
とにかく,本書には私のような読者がDVDなどで探しても観ることができないような作品が多く取り上げられ,まさに彼の映画研究の一部が純粋な歴史研究であることも確認できる。ともかく,映画とは単なる芸術作品ではなく,時にはプロパガンダにも利用される政治的なミディア(加藤氏は英語の発音をカタカナに表記する時にかなりこだわりを持っていて,メディアとは書かない)であるし,その成立にはもちろん資本主義的な経済システムなしには考えられない。なので,彼は映画というものを通して,人文・社会科学全般に関する知見を深めようとしている。まさに,やりたいことが山ほどあって仕方がないのだろう。ともかく,幸い同時代的に活躍している研究者なので,なんとか彼の書くペースに私の読むペースが追いついてゆけるだろう。そして,私も映画については趣味を実益にできるようになれば良いと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シェイクスピア最後の夢

フランセス・イエイツ著,藤田 実訳 1980. 『シェイクスピア最後の夢』晶文社,256p.,2370円.

前回,イエイツの本を読んだのは,2008年8月で,『薔薇十字の覚醒』だった。イエイツの本でまだ入手していない本はあるが,手元にあって読んでないのはそれが最後だった。その後,新たに入手したのが本書。まだ読んでいないところでは,『16世紀フランスのアカデミー』は新刊でも比較的入手しやすいように思うが,『星の処女神とガリアのヘラクレス』と『エリザベス女王』の2冊は以前新刊で見かけていたのに,最近は古書でもすっかり見かけなくなってしまった。と,今Wikipediaで調べたら,彼女の著書は『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス学の伝統』以外は翻訳されているらしいし,この本も来年工作舎から翻訳出版予定とのこと。
ともかく,この『シェイクスピア最後の夢』はこれまで一度も現物を見たことがなかったのだ。なので,本書を古書店で見つけたときには本当に嬉しかった。しかも,かなり安価で驚いたものだ。こういう発見があるから古書店通いはやめられない。さて,本書のあとがきを読むと,イエイツの出発点には,シェイクスピアの『恋の骨折り損』研究があるらしい。しかし,英国人である彼女はシェイクスピアから距離をとりながら,ルネサンス研究を続けてきた,という。1899年生まれのイエイツだが,本書の出版は1975年。70歳台後半でこんな本が書けるってことが驚き。
さて,本書はイエイツが1974年に行なった4回の連続講義の原稿がもとになっている。そして,最終章として1章を加えたもの。原題は「シェイクスピアの最期の劇」といって,1600年代後半からの『ペクリーズ』,『冬物語』,『シンベリン』,『テンペスト』,そして『ヘンリー八世』の5作品のことを意味する。そして,本書はまさにこの5作品をこの時代に生まれたひとまとまりのものとして捉えようとするもので,副題に「一つの新しいアプローチ」とある。私も東京経済大学の「人文地理学」の講義で『テンペスト』をとりあげて,本橋哲也氏の論文を利用して,この作品が植民地支配という政治的状況と,近代科学とヘルメス的魔術との狭間という哲学的状況とで話をしているが,まさにこうしたシェイクスピア理解を提示したのが本書だったのだ。といっても,本橋氏はイエイツについて言及せず,グリーンブラットやピーター・ヒュームを引いている。まあ,ともかくイエイツはルネサンス期における魔術的哲学をイタリア,フランス,ドイツと研究してきて,ルネサンス後進国であったイギリスに戻ってきて,その大きな影響をシェイクスピア作品に読み取った。
序章はこれまで私も読んできた彼女自身の作品の総括がなされていて,簡潔だがとても面白い。そして,全てが関連してこの本への道筋を導いていることが分かる。しかし,1章はなかなかシェイクスピア作品の話にならず,当時の英国の王朝の歴史が辿られる。それはひとことでいえば「エリザベス朝復興運動」ということになるようだ。エリザベス一世とはもちろんケイト・ブランシェットがはまり役だった映画『エリザベス』であり,また『ブーリン家の姉妹』でナタリー・ポートマン演じるアン・ブーリンの娘でもある。エリザベスの死後,王座を継承したのはジェームズ一世であり,その娘がまたエリザベス。このエリザベスの1613年の婚礼とシェイクスピアとが大きく関係しているというのだ。1章はよって,その後の作品分析の前知識である。
2章は『シンベリン』の,3章が『ヘンリー八世』,4章が『テンペスト』の分析。やはり正直なところは,ちゃんと読んだことのある『テンペスト』の章は面白かったけど,他の章は私の知識不足で十分に楽しめなかった。やはりシェイクスピア作品くらいは読んでおくべきだ。しかも,一度読んだくらいじゃなかなかその研究の理解度は深まらない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

観光の空間

これも投稿予定の書評原稿です。字数の関係から、章タイトルが省略されているので、読みにくいかもしれません。

神田孝治編:観光の空間――視点とアプローチ.ナカニシヤ出版,2009年,284p.,2,900円.

執筆者紹介に記された25人の著者のうち,専攻を地理学としているのが18人。20歳台の著者も若干いるが,30歳台,40歳台を中心とした観光研究を専門としている研究者と観光に関心のある研究者が集結している。本書の姉妹編である『レジャーの空間』(神田編 2009)と同様に本書は「入門書」であることを銘打っているが,同列には捉えられない印象を受けた。多様なレジャーの種類を網羅的にカヴァーしようとした『レジャーの空間』にはオーソドックスな地理学研究や概観的な一般論も多かったのに対し,本書は近年の観光研究が課題としているテーマによって構成され,より学術的価値の高い論集となっている。
序章で編者の編集方針が明確にされ,章構成の論理的順序は独立して読み応えがあり,各章における議論に期待が高まる。『レジャーの空間』が大きく4部に分かれていたのに対し,本書は3部に分かれている。
1部は「観光空間の形成と変容」と題され,従来の地理学が得意としてきた地域研究を中心とした8章から構成される。各部はさらに4つに分割され,2章ずつのセットが小テーマを有している。1部はじめの小テーマは「観光地の形成と交通機関の発達」と題され,日本の近代期の事例が続く。『近代ツーリズムと温泉』(関戸 2007)の著者である関戸明子による1章は,当書執筆のために集めた資料の草津温泉に関するデータをコンパクトにまとめた印象。鉄道開通による影響と変化についてはもうちょっと突っ込んだ議論が欲しかった。齋藤枝里子による2章で紹介されている1920年代前後の瀬戸内海周遊は非常に興味深い事例だが,西田(1999)による風景論と接合できればより議論に深みが増したかもしれない。
続くセット「観光地の創造」では,飯塚隆藤・加藤めぐみによる3章が昭和初期の神戸市における花見名所としての須磨寺遊園地を紹介する。桜を愛でるという感性は日本のナショナリティにとって興味深いテーマであるが,一気に大きなテーマに飛躍せずにローカルな状況に徹したのは堅実だといえる。しかし,特定の場所が時代的契機によってその構成要素を変えるのは当たり前であり,それを殊更学術的に「場所の創出と変容」と呼ぶにはもう少し議論の深みが必要である。日本の代表的な宗教地理学者である松井圭介による4章は,著者が近年取り組んでいる長崎におけるキリスト教教会を事例とし,観光というテーマに接近しようとしている。しかし,紙幅の関係から後半の自治体による観光行政やパンフレットの分析は印象論的なものに留まっている。入門書である本書において,出典を示さない「時間―空間の圧縮」(p.45)概念の使用も不親切である。
続く「観光資源化と社会の変容」セットはちょっと変わった組み合わせの2章から成る。客員研究員として英国ダラムに滞在した森 正人による5章は,ダラムの産業遺跡化の事例を紹介している。日本でも公開された有名な映画の話題を冒頭に挿入するなど,内外で精力的に文章を発表している文化地理学者としてウィットに富んだ文章は読み応えがある。6章は「秘法館」という日本の一風変わったレジャー施設の研究に取り組んでいる社会学者,妙木 忍によるもの。その流行と衰退を論じる方法として,広い社会的背景との対比を行なっているのは分かりやすいが,この施設の特異性をうまく説明しているとはいいがたい。
「国際観光と地域の変容」と題されたセットはアジアの事例が2つ。ラオス農村地域をフィールドとする横山 智による7章では,「マスツーリスト」に対して「個人旅行者」と位置づけられるバックパッカーの動向を紹介している。森本 泉の8章は,10年前の著者の論文への評者の批判(成瀬 2000)への回答のようなネパール観光の歴史が前半を占める。それによって,後半の丹念な現地調査から明らかにされた現在の状況がより説得的なものになっているように思う。
2部「観光客の空間行動と情報・経験・イメージ」のはじめのセットは「観光客の空間行動」である。呉羽正昭・金 玉実による9章は,インターネットより収集された東アジア諸国の日本観光ツアーの訪問先分布の資料は興味深いが,その分析はあまりにも印象論的である。10章の佐藤大祐「観光地の集客圏」も長崎県雲仙の宿泊客台帳を用いた貴重な研究だが,かなり歴史的独自性を持った事例だと思われる。この2章については,あまりにも一般的な章タイトルが気にかかる。
第2のセット「観光空間の情報」では,金子直樹による11章が国内観光ガイドブックの変遷を概観している。岡本 健による12章はアニメ『らき☆すた』の舞台となったことで聖地化した埼玉県鷲宮町を取り上げたが,鷲宮町は何を隠そう評者の出身地である。本章ではホストとゲストの関係が友好に行なわれた事例とされているが,この種の研究自体がマスコミなどと同様に事態を強調しすぎるきらいがある。評者による帰省時の観察からも,とても観光地化とは呼べない状況であった。
「観光空間の経験」のでセットでは2章が旅行記を取り上げた。滝波章弘による13章は自身の研究の次なる展開ではあるが,資料の提示にとどまっている。橘 セツによる14章はそのタイトル通り,19世紀後半に日本を訪れた西欧人の旅行記を手際よくまとめている。取り上げられる旅行記が全て翻訳されたものであるのは読者のことを考慮してのことかもしれないが,それらが翻訳された意義についても考察が欲しい。
「観光空間のイメージ」と題されたセットではメディアが取り上げられる。遠藤英樹の15章はブーアスティンの「擬似イベント」やアーリの「観光のまなざし」,ホールの「Encoding/Decoding」などの議論を日本の事例を通じて分かりやすくまとめている。森 正人の16章も雑誌記事の分析による「アジア的なるもの」の消費について論じている。その内容はとても興味深いが,欲をいえば評者の拙稿(成瀬 2001)も取り上げてほしかった。
3部「観光空間におけるコンフリクトと融和」のはじめのセットは「遺産化と観光地化のコンフリクト」と題された。藤木庸介による17章は中国雲南省の麗江旧市街地を,才津祐美子による18章は日本の岐阜県白川郷を事例とし,世界遺産登録をめぐるさまざまな問題を丁寧に報告している。
「ゲストとホストのイメージの対立」というセットでは沖縄の事例が2つ。神田孝治の19章と大城直樹の20章はどちらも自身の以前の研究の概要である。他の章も含め,「イメージ」という語に対してはもっと慎重であってほしい。また,19章で分析された記事の多くが『海』という雑誌だが,その特徴を分析に加えることで,誰のイメージなのかを少しでも明確にすべき。また,近年の英語圏の著名な地理学者が観光論を展開する例をあまり知らないが,このテーマであればGoss(1993)などが参照されてもよかったかもしれない。20章は観光人類学の枠組みを利用して少しでも本書の意図に沿うように書き直されているが,入門書であることも考慮すべきだったか。
「自然をめぐるコンフリクトの諸相」というセットは個人的にも興味深いテーマを扱っている。カロリン・フンクによる21章はこのテーマに関する良質な概説である。荒山正彦による22章は沖縄のマングローブ林を事例に,生態系保全の実践の困難さを教えてくれる。ただし,括弧つきの「みどり」という表現に解説は不要なのだろうか。
「観光と地域の融和」と題された最後のセットでは,対照的な2つの場所のまちづくりの事例が紹介される。堀野正人による23章は奈良町を取り上げ,訪問者のblog記事検索などを取り入れてゲストの視点も考察している。松村嘉久による24章は本書でここまで登場した観光地とはかなり異なる地域として,大阪府のあいりん地区を取り上げている。近年変容しているこの場所において,外国人バックパッカーを宿泊させるゲストハウスが増えてきているという。確かに観光がまちづくりに利用されてはいるが,他の章とはかなり異なる事例で非常に興味深い。
本書に登場する事例は歴史的なものや外国のものが含まれ,空間スケールや,メディア表象の議論もあり,多岐にわたっている。観光を通じて,近年の人文地理学における重要なテーマが一通り出揃い,多彩な事例を通して読者は学ぶことができる。ただし,『レジャーの空間』と同様に,読者が実際にそうした研究に取り組む際の道筋は示されておらず,それは教科書として用いる教員の手腕にかかっているといえようか。また,近年実践学としても盛り上がりをみせる観光研究に対して,「空間」というアプローチから新たな方向性を示しえたかという点には疑問が残る。それは本書が入門書であるという限界だともいえるが,本書ではアーリ『観光のまなざし』が頻繁に取り上げられるものの,アーリのまなざし論はさほど深く議論されているとはいえないし,11月に来日したマッカネルの名は20章で出てくるだけでその著書『The touirst』(MacCanell 1974)すら登場しない。手近な観光関係の論文を読んでみても,魅力的な文献が多く参照されているが,そうした作業は評者を含めた本書の読者に課せられている。

文 献

神田孝治編 2009. 『レジャーの空間――諸相とアプローチ』ナカニシヤ出版.
関戸明子 2007. 『近代ツーリズムと温泉』ナカニシヤ出版.
津上英輔 2008.感性的営為としての旅――観光美学の構築に向けて.美学 59: 2-14.
成瀬 厚 2000. 学界展望「文化地理」.人文地理 52: 250-252.
成瀬 厚 2001. この部屋を見て!!――女性一人暮らしのカタログ.理論地理学ノート 12: 39-46.
西田正憲 1999. 『瀬戸内海の発見――意味の風景から視覚の風景へ』中央公論新社.
Goss, J. D. 1993. Placing the market and marketing place: tourist advertising of the Hawaiian Islands, 1972-92. Environment and Planning D: Society and Space 11: 663-688.
MacCanell,D. 1976. The tourist: a new theory of the leisure class. Berkeley: University of California Press.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

レジャーの空間

久し振りに書評を投稿する予定。皆さんにはいち早く。長いです。

神田孝治編:レジャーの空間――諸相とアプローチ
ナカニシヤ出版,2009,270p.,3,045円(本体)
ISBN978-4-7795-0363-4

近年,地理学の分野でナカニシヤ出版が頑張っている。そして,30歳台半ばの編者によって,本書がその姉妹編たる『観光の空間』(神田,2009)と同時出版されたことはまことに喜ばしいことである。こういう場合は2冊を同時に紹介するのが良いのかもしれないが,紙幅を十分に活用して,別々に検討することとしたい。本書『レジャーの空間』は24章からなっており,1章につきほぼ10ページが割り当てられている。著者は各章で全て異なっており,編者も含め24人。14ページを費やした丁寧な序章で明確な方向付けがなされ,各章は基本的には全て書き下ろしのオリジナルといえる。「はじめに」のなかで,編者は本書を「レジャーについて学ぼうとする学生や一般の方の道標となる入門書」(p.ii)と位置づけており,各章の文体や議論の深さにもある程度整合が図られ,図表も綺麗に印刷され,フォントや装丁にも工夫がなされている。まずは,編者と出版社,そして著者たちに賞賛を送りたい。その上で,本書の学術的価値を評価することにも意味があると思う。学生向け,一般向けという名目の下で学問的追及の矛先を緩めていいということにはならないのだから。
序章「レジャーの空間について考える」において,編者の神田孝治は,特に「余暇」と翻訳された日本において,「レジャーとは時間に関係がある概念である」(p.3)と確認した上で,英語圏を中心に地理学のみならず人文社会科学においてなされている「空間」に着目したアプローチによってレジャーという複雑な諸相を明らかにしようとする(p.ii)。序章は,評者のような読者にとってはどこかで聞いたような基礎的な概説が続くが,基礎的な文献が適切に参照されながら論が進められているのは,良質な入門書である証拠である。本書は,近年地理学の枠を越えて注目されているとはいえ難解な議論も少なくない「空間」をキーワードとしながらも,その最先端の議論に追随するのではなく,『レジャー白書』のレジャー分類にしたがって構成され,そこで示されたレジャーの種類をできるだけ網羅するべく,24の短めの章から成っている。4つの大分類にしたがって,4部からなり,それぞれの部はそれぞれ2章セットとなった3つの下位分類から構成される。この辺りの編集方針は帯に大きな文字書かれた宣伝文句,「遊びに学ぶ,楽しく学ぶ」とは対称的に,非常に手堅く堅実な印象を受ける。
1部「スポーツの空間」は,「スポーツ空間の形成」と題されたセットのうち,佐藤大祐による1章「ヨットの伝播と受容」から始まる。本書は空間スケールの問題にも配慮がなされ,1章では西洋から明治期に日本に持ち込まれたヨットを事例に,初期の受容過程を整理している。インターナショナルな伝播は局地的な地域における受容に始まる,という議論はレジャーやスポーツに限らず地理学者にとっては馴染みのもので,本章では特別な意味で空間の概念が用いられていないように,空間的拡散の名の下に計量地理学の時代の知見だ。テニスの日本による受容というと外国人や富裕層,避暑地などを思い浮かべてしまうが,2章の井口 梓「テニス民宿観光地の形成過程」ではテニス民宿観光地として形成され,テニスの民衆レベルでの受容を促進した地域を取り上げる。本章は文献に挙げられている筑波大学の共同研究の調査データが用いられているようだが,図表を有効に用いてコンパクトで分かりやすい。第一次産業,ないし第二次産業研究で従来なされてきたオーソドックスな地域研究の方法を用いている。
「スポーツ空間の立地」というセットは,3章の呉羽正昭「スキー場の立地とその変遷」と4章の坂井康広「野球場とその立地」からなる。どちらも日本全国規模での施設の立地を量的に示したのみで,文献の参照もきちんとなされていない。続くセットは「スポーツ空間の文化」と題され,まずはメディア研究的な5章の小長谷悠紀「サーフィン文化の形成と空間というメディア」がここまでのオーソドックスな地理学的研究から一線を画す。本書には地理学者のみならず,本章の小長谷氏のような観光学や社会学,民族学,都市史という分野の著者が含まれているのも特徴である。本章は雑誌記事を中心とした分析で興味深くはあるが,空間の概念が非常に曖昧であり,「空間メディアとしての作用結果」(p.66)といわれても説得力はない。6章の神田孝治・杉本育美「ランニングとジェンダー」の前半は文献研究によるオリンピックなどの競技種目における女性の扱いの歴史が辿られる。後半は本章のタイトルから期待されるような近年の一般市民とランニングと女性ランナーについて興味深い論点が提示される。しかし,近年の女性ランナー向けのランニングイベントを「空間創造」と呼ぶのみで,空間の視点はほとんど抜け落ちている。
2部は「趣味・創作の空間」と題され,7章の吉田道代「オタクのレジャー空間としての秋葉原」は本書のなかでも珍しく,著者自身のこれまでの研究とは関係なくオリジナルデータを用いて論じている。しかし,安易な現地観察とアンケートを整理したという印象は否めない。支配的な秋葉原のステレオタイプを強化しているだけではないか。8章の山口 晋「ストリート・アーティストによる空間創造とその管理」は自身のこれまでの研究成果を手際よくまとめたもの。ようやく権力などの議論が登場してくる。
続くセット「創作空間と近代社会」は日本の近代歴史研究による2章。9章の長尾洋子「文化実践としての芸能と空間の生成」は最近『人文地理』に掲載されたばかりで本文には文献として挙げられていないが,自身による調査を利用したもの。明治期から大正期にかけての富山県における「越中おわら節」をめぐるさまざまな主体間の政治性を描く。10章の田保 顕「戦場で漫才を観る」は日中戦争期に戦地に派遣されたお笑い芸人「わらわし隊」の実態を報告する。どちらも興味深い題材で,10ページという紙幅の限界を感じる。
「趣味・創作空間と地域」と題されたセットには女性著者2名が連ね,自身の近年の研究成果を手短に整理している。11章の宮本結佳「現代アートの空間形成と担い手の活動」として,安藤忠雄が設計に参加して有名な香川県直島におけるベネッセによる開発を取り上げている。しかし,本章では概説的な説明に終始しており,もう一つ突っ込んだ議論がほしい。12章の木村オリエ「男性退職者による地域サークル活動への参加プロセス」は貴重な調査結果をコンパクトにまとめている。
3部「娯楽の空間」は編者が著者の一人として含まれ,編者と親しい同年代の地理学者が名を連ねているせいか,異質な印象を与えていはしないか。例えば本書の読者が大学生や教養を身につけようという社会人だとする。かれらが思い抱く,あるいは実際に行なっている「娯楽」とはなんだろうか。本書で取り上げられるのは性風俗施設,競艇場,外国人女性のいるパブ,そしてテレクラだ。もちろん,評者自身同世代の同じ分野の研究者によって,自分が知らない事柄を知ることができた。それと同時にそうした社会における異質なものに対するまなざしに関する議論をも同時に学んできた。しかし,本書で後者に関する議論を詳しく学ぶことができるだろうか。その場合,こうした読者に馴染みのない空間に対して,読者は覗き見趣味的な興味を克服することができるのだろうか。
そういった意味において,13章の加藤政洋「貸座敷の成立と機能分化」は読者への配慮を忘れない。地理学においてはこの種の研究の第一人者だといえる著者は,まず近代期における性風俗関連施設であっても,それは現代に生きるわたしたちの生活と無縁ではないということを,「空間レンタル」という切り口から教えてくれる。コンパクトな文章も流石だ。一つだけ注文をつけるならば,4節のタイトルの「系譜学」は単なる「系譜」でよかったと思う。13章と同じセット「娯楽空間の形成」に含まれるのは14章の寄藤晶子「公営ギャンブル場を中心に生成する社会空間」であり,異質な3部においては重要な役割を占めていると思う。しかし,自身の既出論文の抜粋のような印象が否めないのは残念。
続くセット「娯楽空間のイメージ」には編者自身による15章「花街と遊郭の立地とイメージ」が含まれるが,こちらは自身の研究報告の要約であることが明示されている。しかし,この分量での圧縮は情報量が多すぎて一読では内容が整理できない。また細かいことではあるが,ハンチントンの環境決定論が当時の優生学的な思想に影響を与えたというような説明は簡潔すぎはしないか。続く16章の阿部亮吾「フィリピン・パブ空間の神話と構造」もやはり自身の既出論文を利用したもの。そのタイトルはボードリヤール(1979)の『消費社会の神話と構造』を想起するが,本章には引用されていない。神話についてはロラン・バルトを引いて説明されているが,空間構造についての考察はなく,「場所性」概念で置き換えられるが,この概念も節のタイトルにだけしかない。
「娯楽空間の管理」のセットにおいて,17章の青木隆浩「盛り場の多機能化と青少年の排除」は,特定の場所の事例研究が続くなかで,法律を中心とした一般論を展開する。18章の杉山和明「「出会い系メディア」が創出する空間と社会的規制」も前半は自身の既出論文の紹介。後半はサイバースペース化する近年の動向を追加しているが,それを単純に「リージョナルからナショナル(グローバル)への拡張」(p.198)としてしまっているところが残念。サイバースペース内部にも空間分化はないのだろうか。
さて,この3部で取り上げられた娯楽の分野は,女性の性の商品化を含んだものであったり,中年男性に特化したものであったりするのに,ジェンダーやセクシュアリティに関する議論がほとんど登場しないのは奇妙という他ない。あからさまな性差別的現象に対してはその種の議論をする必要はないのだろうか。
最後の4部は「観光・行楽の空間」と題され,編者による説明では「ゲストとホストの関係性」(p.201)の考察も含まれているとされる。まずは,「観光・行楽空間の形成」のセットにおいて,19章の砂本文彦「国際リゾート地の整備と国際観光ルートの形成」が日本における1930年代の国際観光政策を概観しているが,これも自身の著書の概要のようだ。20章の奥野一生「テーマパークの立地と展開」は議論としては本書において異質。編者による15章で環境決定論が時代精神的な思想として批判的に登場するのに,ケッペンの気候区分や太平洋ベルト地帯といった教科書にしか登場しない概念を用いて,テーマパークの立地を説明するのは強引ではないか。
続くセット「観光・行楽空間の変容」では,まず21章の須藤 廣「日本人のハワイイメージと観光パターンの受容」が日本人によるハワイ観光の歴史を概観する。ここまで,触れてこなかったが,本書には各章の最後に「1.考えてみよう,2.調べてみよう,3.まとめてみよう」という読者に対する演習問題がついている。多くの章では差し障りのないことが書かれているが,本章ではかなり高度な問いかけがなされている。この回答については著者自身による同じ出版社の著書に詳しいのかもしれないが,その部分に関する考察も本文に加えるべきだったように思う。22勝の内田忠賢「レジャーランドの近現代」は,近代期,高度経済成長期,現代と5箇所のレジャーランドを紹介しているが,本章には参考文献がひとつもなく,新聞雑誌記事からの長い引用をつなぎ合わせて構成した付け焼刃的な印象が否めない。
本書最後のセットは「観光・行楽空間におけるゲストとホスト」と題されているが,ゲストとホストの関係の考察は希薄である。23章の荒山正彦「植民地観光とその記録」は1931年,日本による統治下の朝鮮と満州を18日間の日程で日本人団体客が旅行した記録『鮮満の旅』の分析である。1999年に発表された論文の続編を期待したが,本章はそのおさらいでこれから面白くなろうというところで終わってしまっている。24章の上江洲 薫「沖縄における海水浴場の形成と観光開発」は最後の章になるが,冒頭の諸章と同様のオーソドックスな地域調査の報告となっている。編者が「レジャーの空間」というタイトルに込めた意図をくみ取るならば,フィスク(1998)が「ビーチの記号論」で展開したような大胆な分析がなされれば面白かった。また,姉妹編が『観光の空間』であるにもかかわらず,4部の各章はほとんどが観光論を展開していたように思う。『観光の空間』はこれから読む予定だが,4部ではむしろ観光と行楽との区別をつけ,観光概念では捉えられない行楽に焦点を当てるべきではなかったか。
丁寧な序章に対し,最後は索引と著者紹介文があるだけで,本書は終わってしまう。果たして,編者の目的はこの24章で達成されたのだろうか。レジャーとは一種の文化的活動である。地理学においても「文化論的転回」という言葉がみられるようになり,編者は同出版社から文化地理学のテキスト(中川・森・神田,1996)を記している一人であり,積極的にその新しい方向性を進めていると評者は認識している。しかし,本書の各章でカルチュラル・スタディーズなどを意識したものは僅かであり,またその主たるテーマである人種,階級,民族,性差などが全面的に登場する場面も僅かだった。また近年の文化地理学の大きなテーマの一つに「景観」があり,レジャーの空間にとっても景観は重要な要素だと思われるが,景観論はほとんど含まれていなかった。一方で地図は比較的多く使用され,2,8,12,13,14,16,24の各章では評者が期待するような「空間」のあり方を示す有効な表現手段として機能していたと思う。
学問的興味を離れても,本書を身近に感じる場面は多くはなかった。評者にもまがりなりにも余暇があり,都市内部に立地している映画館,ライヴハウス,カフェやレストラン,バー,ブティックや雑貨屋,書店やCDショップ,ギャラリーや公園などを利用している。私が身近に感じているこれらのレジャー,しかもどれも空間的な要素を有するものばかりだが,どれ一つとして本書には登場しない。時折自宅の近所をジョギングする身でもあるが,6章では論じられていないのような空間に関するテーマはいくつか思い浮かぶ。
ここまで指摘してきたように,すべての章は書き下ろしの文章ではあるが,その多くが著者自身による既存の研究の概要的なものであった。ここではそれを批判的な含意をこめて指摘してきたが,入門書である以上,批判すべきことではない。評者も実際過去に読んだそれらの論文を読み返したく思ったり,初めて読む著者に関しては,その元になっている論文や著書を読みたく思ったものもある。さらに学びたいと思った読者はさらに進めばよいのだ。
最後になるが,入門書には何を期待すればよいのだろうか。単に未知の事実を知ることだろうか。それとも,事実の解釈の仕方を学び,読者の身近な事実の判断に当てはめる術を学ぶのだろうか。あるいは,実際に卒業論文や学術研究を志そうとする読者が実際の調査・研究の手順を学ぶのだろうか。そして,本書は大学講義の教科書として使用可能であろうか。半期15回が基本なのに対して24章。序章で1回,1回の授業で2章1セットで12回,残りは演習などを利用した学生参加型の回を挟めば,『観光の空間』とセットで1年間行なえるのかもしれない。

文  献
神田孝治編(2009):『観光の空間――視点とアプローチ――』ナカニシヤ出版.
中川 正・森 正人・神田孝治(2006):『文化地理学ガイダンス』ナカニシヤ出版.
フィスク, J.著,山本雄二訳(1998):『抵抗の快楽――ポピュラーカルチャーの記号論――』世界思想社.
ボードリヤール, J.著,今村仁司・塚原 史訳(1979):『消費社会の神話と構造』紀伊国屋書店.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地図出版の四百年

京都大学大学院文学研究科地理学教室・京都大学総合博物館 2007. 『地図出版の四百年――京都・日本・世界』ナカニシヤ出版,133p.,2940円.

本書は京都大学総合博物館2007年春季企画展に合わせて制作されたものであり,京都大学の地理学教室(日本最古の地理学教室だ)と総合博物館,および付属図書館などに所蔵された地図を一堂に集めた展示会のカタログも兼ねていると思う。もちろん,その作業には多くの人の手がかかっていると思うが,それに文章を執筆したのは金田章裕氏と上杉和央氏。金田氏はまさに京都大学地理学教室の顔であり,最近退官されたらしい。一方で,上杉氏は私と同世代の若い研究者。彼が本書を送ってくれたのだ。
正直いって,地理学者が作る地図の本はあまり面白くないのが常だ。江戸時代の地図については,山下和正 1996. 『江戸時代の古地図をめぐる』NTT出版,が十分に楽しませてくれる。ちなみに,山下氏は建築家。しかし,本書は非常に面白かった。日本で出版された地図に限定していたので,テーマが絞れているし,副題にあるように,蒐集された地図も,京都図,日本図,世界図に限定している。3つもあるのは多すぎるかもしれないが,私のような地図の専門家でない読者にとってはこのくらいのヴァラエティはちょうど良いと思う。そんな3種類の地図を含むので本書は以下のように,4部構成となっている。

Ⅰ京都図の出版
Ⅱ日本図の出版
Ⅲ世界図の出版
Ⅳ近代地図とアカデミズム

序章とⅠ章は金田氏によるもの。正直いって,京都の地理に詳しくない私にとっては細かい地図の年代特定などはあまり興味がないがそれなりには楽しめた。私のような読者が楽しめたのは,やはりⅡ章以降を上杉氏が書いていることに起因しよう。やはり京都大学の地理学教室は歴史が強く,上杉氏や,やはり同年代の米家泰作氏などは私にはなかなか理解の難しい歴史研究をしているのだが,その先にある含意は私の研究と相通じるものがあるようで,お互いに好意を抱いている。
本書には,京都図,日本図,世界図が含まれているが,これはどれも結局は広義での「世界図」なのだ。長い間日本の中心であった京都。その時代においては,山で囲まれたその地域が京都人にとっての全世界だったに違いない。そして,鎖国の江戸時代。やはり海に囲まれたこの日本が世界の中心であり,全世界であった。そして,もちろんヨーロッパからやってきたマテオ=リッチの世界地図によって,日本でも狭義の世界地図が作成されるわけだが,その前に紹介される,仏教的世界図がとても面白い。曼荼羅という観念的な世界図を持っている,インドを発祥とする仏教だが,それを現実の空間に当てはめた,インドを中心とした世界図が存在するのだ。もちろん,日本で描かれているものにはインドの東の端に日本列島が存在する。もちろん,それは時代的にヨーロッパからやってきた近代的な地図と並存するのだ。
本書は文章だけでなく,地図の印刷や装丁もとてもキレイに仕上がっている。最近はナカニシヤ出版がとても頑張っている。たまには東京にも営業に来てくださいね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近代世界システム1

イマニュエル・ウォーラーステイン著,川北 稔訳 1981. 『近代世界システム――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立Ⅰ,Ⅱ』岩波書店,250+298p.,2170+1900円.

私は一時期,ウォーラーステインの著作にはまったことがあった。それは,1996年に卒論の一部であった女性雑誌『Hanako』に関する論文を『地理科学』に掲載する際に,社会学者のピーター・バーガーの議論を参考したことに発する。バーガーの議論はマルクス主義的な商品論を土台としていて,ルカーチ『歴史と階級意識』より分かりやすく,物象化に関する議論を展開していたのだ。当時,私は「場所の商品論」なる議論を展開していて,より理論的な根拠付けを必要としていたのだ。そんな時に,「万物の商品化」という章を含むウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』を読んだ。ウォーラーステインの名前は知っていたものの,どれも分量のある本ばかりでどこから手をつければという感じだったが,岩波現代選書に収められた『史的システムとしての資本主義』は非常に薄く,しかしながら十分に刺激と知識を得られるものだった。
その論文をとりあえず片付けた後に,なぜか私は修士論文でグローバル化の問題を扱うようになり,思い切って当時新刊として翻訳された『脱=社会科学』を読んでみたのだ。その本は本当に面白かった。ウォーラーステインが議論の基礎としているマルクス,およびブローデルの話が世界システム論との関連で詳しく説明され,しかも最先端のシステム論として,新たに自然科学の分野での複雑系の議論を組み込んだものだった。次いで,原題を「geopolitics and geoculture」という『ポスト・アメリカ』については,当時地政学研究もかじっていたこともあって,書評まで書いた。ちょうどその頃,やはりウォーラーステイン理論の発端である『近代世界システム』もそのうち読まなきゃと思い,原著の1巻が岩波現代選書として2巻本で出版されていたのだが,古書店でみつけた2巻目を購入して持っていた。しかし,2巻だけ1冊で購入したのがよくなかった。古書店では基本的に2冊セットでおいてあったし,バラで売っていたものを喜び勇んで購入したら同じ2巻だったってこともあった。ようやく,最近Amazonのマーケットプレイスを思い出して購入した次第。でも,今となっては自分の研究に直接役立てるというよりは,講義で話をしているヨーロッパの歴史への基礎的知識を得ることを求めて読み始めた。
ウォーラーステイン議論が,既存の歴史学的実証研究を土台としているのは知っていたが,ここまで引用が多く,ところによっては引用の組み合わせで成り立っているようなものだったことには少し驚いた。そして,訳者の解説にも書いてあったが,ブローデルからの引用の多さ。確かに,世界システム論自体はマクロな視点からしか成立しないようなものだが,本書の具体的な記述は非常に細かい。といっても,原著には引用ミスなどが非常に多く見られるらしいが。しかも,もちろん彼が参照している具体的研究は専門的な歴史研究が多いので,登場する史実は私のような歴史に疎い読者には馴染みのないものが多く,それらをうまく記憶し,頭のなかで構成するのが難しい。そして,思ったよりもその「近代世界システム」という枠組みが明確ではない。確かに,私が読んだ彼の著作の20年前に本書は書かれているので,彼のシステム論自体が進化しているのだろう。そういう意味では,本書の時点での彼のシステム論がどのようなものだったのか,そんなところに興味がないでもない。
本書を第1巻とする「近代世界システム」シリーズは当初4巻本として想定されていたものの,実際には予定していた構成とは異なってきて,現在まだ3巻までしか出ていないらしい。でも,名古屋大学出版会から2巻,3巻ともに翻訳が出ているので,また少しずつ読んでみたいと思う。そして,同時に本書にも何度も登場するブローデルの『地中海』も読める日が来るといいなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Place: a short introduction

Tim Cresswell 2004. Place: a short introduction. Blackwell, Oxford, 153p.

ティム・クレスウェルは地理学者。1996年の著書『In place / out of place』で有名だが,はじめから「place=場所」という概念にこだわっている。というのも,彼は1990年代に盛り上がってきた「新しい文化地理学」の流れにいながらにして,かれらが批判の対象としていたトゥアンの教えを直接に受けていた人物だからである。1970年代に『トポフィリア(場所愛)』および『空間と場所』によって「場所」という概念を地理学のなかで復活させたのがトゥアン。もう一人,場所の復権の立役者としてレルフという人物がいるが,1980年代には主にマルクス主義の立場からトゥアンやレルフのような人文主義地理学は批判にさらされた。そして,1990年の『the power of place』という論文集で,その批判的な立場からの論考が収録された「場所」を関した著書が数多く出版される。しかし,それらの多くは場所の概念について議論するものではない。私は1997年に「A note on the concept of place」という論文を所属していた教室が発行している紀要にかかせてもらったが,その時にplaceを関する著書にいくつか目を通したものの,実際に場所概念自体に関して議論しているものはほとんどなく愕然としたものだ。つまり,場所概念を使いたがる多くの地理学者は単に便利だから使っていたにすぎない。まあ,その後著名な地理学者であるハーヴェイとマッシーが場所の概念化を行い,事態は多少変わっていくが,ずーっと一貫して場所について議論してきたのはこのクレスウェルであるといってよい。そんな彼の論文も,1本だけ日本語に翻訳されている。

ティム・クレスウェル著,日比野 啓訳 2004. ナイト・ディスコース――ストリートにおける意味の生産と消費.10+1 34: 137-148.

なので,彼の論文はけっこう好んで読んできた。『In place / out of place』のもとになる論文をいくつも読んでしまったから,この本自体は買っていないくらいだ。しかし,1997年の論文を読んで以来,私が大学を出てしまったこともあるし,彼の研究をフォローすることはなくなってしまったのだが,最近発表された福田珠己さんの論文に本書が文献リストにあり,出版から既に5年が経過していたけどAmazonで早速購入し,ほどなくして読み始めた。「Short introduction to Geography」のシリーズということで,確かに読みやすく,辞書なしで読んだけどあまり困らなかったし,1週間弱で読み終えることができた。さて,内容は以下のような5部構成。

1. はじめに:場所を定義する
2. 場所の系譜学
3. 「グローバルな場所感覚」を読む
4. 場所とともに研究する
5. 場所に関する研究資源

序章は14ページととても短く,2章を先取りするような内容ではあるが,より一般的な議論として,関係する概念との関係について論じている。関係する概念とは,空間や景観である。2章はすでに書いてしまったが,地域地理学から始まり,1970年代のトゥアン流の現象学に基礎を置く場所論,マルクス主義地理学における場所の政治学,場所の社会的構築などの系譜が語られる。そういえば,「場所の系譜学」という表現は同世代の地理学者である加藤政洋君も使っているが,その意味合いはかなり違う。
さて,3章だが,「グローバルな場所感覚」とは1991年に初めて発表されたドリーン・マッシーの論文である。これと類似した論文として,1993年の論文があるが,これはその加藤政洋君によって翻訳されている。

ドリーン・マッシー著,加藤政洋訳 2002. 権力の幾何学と進歩的な場所感覚.思想 933: 32-44.

この論文は『Mapping the future』という論文集に掲載されたのだが,この論文集にはハーヴェイも『ポストモダニティの条件』(翻訳1999年,青木書店)以降の場所論が掲載されている。これも翻訳がある。

デイヴィッド・ハーヴェイ著,加藤茂生訳 1997. 空間から場所へ,そして場所から空間へ――ポストモダニティの条件についての考察.10+1 11: 85-104.

このハーヴェイの議論を読んだとき,確かに同様のことはジャクリン・バージェスという地理学者も論じていたが,巨視的な視点のなせる業だと妙に納得した。しかし,それに対して上のマッシーはハーヴェイ批判としての場所論を展開するのだ。それにも妙に納得したりして。まあ,そんな論証を詳細に紹介するのが3章。マッシーの文章は8ページにわたってほぼ前文掲載し,ハーヴェイのも12箇所にわたって引用している。まあ,クレスウェルの結論としては,マッシーのハーヴェイ批判の後のメイという地理学者の詳細な実証研究に基づく議論を紹介して,どれも正しく,場所というものを一義的に捉えることはできないということになりそうだ。そもそも,ハーヴェイもマッシーも自らが生活の場を事例に論を展開しているので,それぞれの場所の性質によって,そこから導かれる一般的含意も異なるのは当然という感じ。まあ,私的にも分からないでもないですが,ちょっと物足りない感じ。
続いての4章は,ビッグネームによるそんな論争以降にさまざまに展開している研究の紹介。しかし,正直いって4章の前半はイマイチ論点がつかめない。読みどころは後半だ。自らのかつての著書のタイトルを使った「In Place/Out-of-Place: Anachornism」という部分,Anachronismといえば,時代錯誤のことだが,時間を意味する「chro」を空間を意味する「chor」に換えているところが味噌で,つまりout of place=居心地の悪さを「空間錯誤」と表現するのだ。そこで,中心的な議論が「ホームレス」をめぐるもの。ホームレスをめぐる研究が地理学でなされていることは知っていたけど,それを場所概念と結びつけた議論がなかなか魅力的。homeという概念は場所の概念に安定性とか共同性とかというイデオロギーを付与するのに役立っているわけだが,まさにhomelessという言葉そのものに,人間は所属すべき家=場所が必要不可欠であるという前提が込められているということになる。多くの事例は英国から取られていますが,もちろんホームレスに関しては日本でも論じるべきことは多い。
5章は著書や文献,さらなる研究トピックの紹介。最近,私は新しく教科書として使える本を考えているが,やはりこの本も地理学専攻の学生ならともかく,非常勤先では使えそうもない。まあ,残念だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リウスのパレスチナ問題入門

エドワルド・デル・リウス著,山崎カヲル訳 2001. 『新版 リウスのパレスチナ問題入門』第三書館、115p.,1000円.

リウスはメキシコの漫画家。本書は第三書館から出版されたが、私は晶文社による「リウスの現代思想入門」を3冊持っている。『フェミニズム』と『資本主義とは何だろうか?』、そして『チェ・ゲバラ』。ラテンアメリカは長い間アメリカ合衆国に虐げられてきて、反米的思想家が多いのかもしれない。アリエル・ドルフマンという思想家の著書『ドナルドダッグを読む』(マトゥラールとの共著)と『子どものメディアを読む』も晶文社が翻訳を出していて、『ドナルドダッグを読む』は山崎カヲル氏の翻訳だ。その思想的立場にはマルクス主義が大きく関っているが、リウスの『資本主義とは何だろうか?』も山崎氏の翻訳。山崎カヲル氏は私が非常勤講師で通っている東京経済大学の教授だが、まだ一度もお会いしたことがない。私自身は私の論文を読んで面白いと思ってくれた学生には気軽に連絡を取ってきてほしいと願っているが、自分が尊敬する研究者にはおいそれと連絡を取ることができない。その人の著作を読み込んでいれば質問とかもできるものだが、そういう人に限って著作が多く、とても全部は読みきれないのだ。
まあ、そんな個人的なことは置いておいて、最近サイードの『パレスチナ問題』をようやく購入したので、その事前勉強として読むことにした。もちろん、リウスは漫画家だから、漫画である。日本でもよく、学校で学ぶような歴史や社会問題を漫画で分かりやすくという試みはある。それらをきちんと読んだことはないが、大抵はきちんと登場人物が出てきて、物語的な内容に脚色されたものだと思う。しかし、本書は違う。イラストと写真と文章の貼りあわせから構成されたコラージュだ。だから、イラストや写真は参考程度で、結局は文章を読むことになるのだが、その文章も手書き。でも、決して文字数にして多くないその文章による説明が端的にテーマに関る事項をまとめていて、分かりやすい。
パレスチナ問題。私は1970年生まれだが、正直いって大学院に入学するまで「パレスチナ」という言葉すらろくに知らなかった。本書の出版社である第三書館が「おわりに パレスチナ問題は私たちの問題になった」という2ページの文章を寄せているが、それを読んで私の無知は恥ずかしいものではなくなったような気もする。つまり私が幼い頃から続いていたイラン・イラク戦争やクウェート、湾岸の石油に関る問題などは、全て「アラブ世界」の問題として一括りにされ、どこか遠くの世界の出来事とされてきたのだ。第二次世界大戦下のナチスによるユダヤ人迫害のことは詳しく学んだくせに、そこから生じる現代まで起こっている問題についてはろくに教わった記憶はない。サイードを読むようになって少しずつ関心を示し、最近ではいくつかのドキュメンタリー映画で現実味を持って理解するようになってきた。もちろん、テレビのニュースでは昔からアラファトPLO議長は出ていたし、最近ではパレスチナ人による自爆テロなどのニュースが伝えられる。しかし、根本のそのパレスチナ問題とは何かを教えてくれる場には出会わなかった。果たして大人たちにとっては周知のことだったのだろうか。
本書から学ぶことは非常に多かった。私は浅はかな理解では、歴史的に長く迫害されていたユダヤ人が、第二次世界大戦で決定的にその存在を危機にさらされ、戦後彼らのための国家を樹立するためにアメリカ合衆国が協力してイスラエルという国家を作ったということ。当然そこに以前から住んでいたパレスチナ人たちが今度は迫害されるようになる。しかも、そのやり方は非常に暴力的で、いまだに暴力のやり取りが続いている。その程度の理解だ。しかし、そもそものユダヤ人のための国家作りという発想は古代の神話に基づいているということ、その実現にはアメリカ合衆国の前に英国が主導していたということ。その背後には潤沢な資金源としてのユダヤ人資産家がいて、それは欧米の国家のあり方に大きく圧力をかけていること。もちろん、その政治力と資金源は現在の暴力の応酬にも直接的に関っていること。まあ、本書に書かれていること全てを鵜呑みにするのはどうかとも思うが、ともかくサイードの『パレスチナ問題』を読む前に、本書を読んだのは非常によかったと思う。
いやいや、改めて世界は広く、問題は山積みだと思い知らされる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧