書籍・雑誌

反乱する都市

デヴィッド・ハーヴェイ著,森田成也・大屋定晴・中村好孝・新井大輔訳 2013. 『反乱する都市――資本のアーバナイゼーションと都市の再創造』作品社,320p.2,400円.

 

ハーヴェイは1990年代後半に日本地理学会の招待で来日し,講演したことがある。私も聞いていたが,今来日したらかなり大掛かりになるだろう。彼の著作はそこそこ難解で,翻訳は細々と出ていた。原著1969年の『地理学基礎論』は私も持っていないが,計量地理学の一冊として1979年に抄訳で翻訳され,1973年の『都市と社会的不平等』の翻訳が1980年。1982年の『空間編成の経済理論』が1989年,1985年の『都市の資本論』が1991年に,ここまでは地理学者による翻訳で出版されている。こう整理すると,まだハーヴェイの出版ペースもそれほど早くはないが,日本の地理学も頑張ってきたことがわかる。
地理学者以外の翻訳は1989年の『ポストモダニティの条件』の翻訳が1999年だが,この頃からハーヴェイの著作は地理学に収まらなくなっており,日本の地理学者が翻訳するのが難しい著作も多くなってきたようだ。また,2000年代に入るといろんな研究者が翻訳をしたがり,出版社も版権を競うようになってきたのかもしれない。本書は,森田氏のグループが作品社から出版しているハーヴェイ本の1冊。

序文 都市は誰のものか?――ルフェーヴルの構想
第Ⅰ部 都市への権利――金融危機,都市コモンズ,独占レント
 第1章 都市への権利――資本のアーバナイゼーションへの対抗運動
 第2章 金融危機の震源地としての都市
 第3章 都市コモンズの創出
 第4章 レントの技法――文化資本とコモンズの攻防
第Ⅱ部 反乱する都市――エルアルト,ロンドン,ウォールストリート
 第5章 反資本主義闘争とために都市を取り戻す
 第6章 2011年ロンドン――野蛮な資本主義がストリートを襲う
 第7章 ウォールストリート占拠(OWS)――「ウォールストリートの党」が復習の女神に遭うとき
付録 都市と反乱の現在――デヴィッド・ハーヴェイ,インタヴュー
 来る都市革命――世界各地の都市反乱は新時代の始まりを告げるか?
 「都市への権利」から都市革命へ――『反乱する都市』について

私は現在,オリンピックを含むメガ・イベントに関する研究を,より広い都市研究の文脈で理解しようとしている。以前も紹介したボイコフは反オリンピック運動を研究しているが,この動向をより深く理解するために本書が役立つのではと思い読んだ。目次では本書タイトルの「反乱する都市」が2部制の第2部となっており,期待をさせるが,第6章と第7章はもともとハーヴェイ自身のウェブサイトに掲載された時事ネタであり,短い文章であると同時にやはりアカデミックな色は薄い。訳者の解説によれば,第2章と第5章はもともと発表された時点では一つの論文であったという。第1章も『VOL』という雑誌に翻訳されていた文章で,もともとは『New Left Review』に掲載された短い文章だった。とはいえ,第1章は大幅に加筆されている。読む前の私の期待では,近年世界中で発生しているテロや暴動は,さまざまな形で民衆が自らの権利を求めているものであり,またそれらが都市で発生するということは,何かしらそれらの運動が「都市的なるもの」との関りを持っている,ということが論じられるのではないかというものだ。しかし,実際に読んでみると,まずテロの話はない。意外にも本書にグローバル化の話は欠如している。そして,『空間編成の経済理論(原題:資本の限界)』や『都市の資本論(原題:資本の都市化)』で構築された理論の差異主張という側面が大きいように感じた。
もちろん,本書は序文にあるように,ルフェーヴルの1968年の著書『都市への権利』を受けている。『VOL』に掲載された時のハーヴェイの文章を読んでもあまりすんなりと理解はできなかったが,本書の序文にはいくつか明白な文章が記されている。何度か出てくる表現だが,「「都市への権利」は空虚な指示記号である」(p.18)と著者はいっている。民衆の暴動などを念頭におくと,「都市への権利」とは権力者によってその権利を奪われた者がそれを奪還要求することだと簡単に考えがちだが,権力者にも「都市への権利」はあるのだ。そういう意味では人権や市民権などと同等に考える必要があるのだろう。都市への権利を具体的に想像することは容易いが,全ての種類のそれを列挙することは難しい。
ともかく,そんな文脈で第2章と第3章が続く。第2章はさきほど書いたように,著者の1980年代の主張が繰り返される。基本的にマルクス経済学に依拠しながらも,経済活動における土地の問題を付属的なものではなく,中心的なものだと主張する。都市において(もちろん都市だけではないが),土地は商品として売買され,投機の対象にもなる。とはいえ,土地はモノの商品とは異なり,所有したとしても公共性を有する。それが第3章で「コモンズ」と呼ばれるものであり,それを独占することで公共性を私有化するために資本が用いられる。そして,『ポストモダニティの条件』で文化を論じ始めた著者によって,そうした土地をめぐる経済活動に文化的な次元が付け加えられる。コモンズや独占は経済次元のみではなく,文化資本としての意味が加わる。今,ルフェーヴルの『都市への権利』を読み直しているが,そうしたハーヴェイの1990年代の議論を想起させる記述の断片に出会うことができる。
ともかく,そういった意味でハーヴェイの1980年代の著作を読み直す必要性を痛感させる読書だったが,都市社会運動的なものに関しては期待した理解は得られなかった。まだ読んでいないが,この辺りはカステル『都市とグラスルーツ』だろうか,やはり『都市問題』も読まなくては。そういう意味では,スミス『ジェントリフィケーションと報復都市』の方がその辺りについては理解が深まる。反ジェントリフィケーション運動とそれをさらに抑圧する報復都市という議論。おそらく,ハーヴェイはウォーラーステインの世界システム論に対しては批判的なのだと思うが,「反システム運動」という捉え方との関係も考えてみたい。

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都市はなぜ魂を失ったか

シャロン・ズーキン著,内田奈芳美・真野洋介訳 2013. 『都市はなぜ魂を失ったか――ジェイコブズ後のニューヨーク論』講談社,382p.3,800円.

 

シャロン・ズーキンは地理学者による2つほどの文章の翻訳があるものの,これまで日本語では読めなかった。しかし,1982年の『Loft Living』という本はとても有名で,読んでいない私でもそのタイトルの意味は何となく知っている。前回,藤塚吉浩『ジェントリフィケーション』を紹介したが,『Loft Living』ジェントリフィケーション研究の先駆的なものとしても位置付けられる。欧米先進国における都市の中心部,かつては活気のあった地区が産業の集積により住環境が悪化し,居住者は郊外に移動する。企業自体も工場を郊外に移転したり,多国籍化したり,いわゆる都心地区は空洞化し,荒廃する。ドーナツ化現象などと呼ばれたこともあったし,荒廃した都心地区をインナーシティと呼んだりもした。住環境が悪くなったところに,下層労働者や移民たちが住みつきスラム化する。しかし,郊外の成熟後,都心回帰という現象が起こる。その一部は公的権力によりスラムクリアランスされ,再開発されるが,全てではない。細かいところでは公的な権力ではなく,私的な資本により立ち退き,荒廃した建築物の再利用(今でいうリノベーション)によって,大きな資本でなくても,もともと居住目的で作られたわけではない倉庫などに貧しいアーティストたちが住みついて制作活動を行うというのが,いわゆるロフト・リビング。そのアーティスティックな雰囲気に引き寄せられ,センスのいい富裕層たちが生活を始める。そうした貧しくて荒廃した地区が高級化していく状態がジェントリフィケーションと理解される。
とはいえ,本書はタイトルからしても,1980年代の研究の延長線上にあるとは限らないので,ジェントリフィケーション研究を期待して読み始めたわけではない。邦題は以下の目次からも分かるように,序章のタイトルを流用しており,原題は『Naked City』という映画のタイトルを流用したものらしい。その映画についても言及されているが正直言って,その映画のタイトルのいわんとするところも,本書がそれを流用している意味も読後もよくわからない。

まえがき
序章 都市はなぜ魂を失ったか
Part1
 アンコモン・スペース
 1 ブルックリンはどのようにして「クールな」場所になったか
 2 ハーレムはなぜ「ゲットー」を脱したのか
 3 イーストビレッジで「地元」に住む
Part2 コモン・スペース
 4 ユニオンスクエアと公共空間のパラドックス
 5 2つのグローバル化の物語:レッドフックのププサとIKEA
 6 ビルボードとガーデン:由来をめぐる闘い
終章 目的地文化とオーセンティシティの危機

本書現代の副題は『オーセンティックな都市的場所の死と生』というもので,ジェイコブズの1961年の著書『アメリカ大都市の死と生』をもじっている。邦訳副題にあるように,ジェイコブズのニューヨーク論を再考するのが序章の内容である。ここは非常に難しい。一般的にジェイコブズは再開発運動に反対し,その時そこにある人々の暮らしを擁護したものとされる。公的立場から再開発を推し進めたモーゼスという都市計画家と対比されるわけだが,ズーキンは両者の共通性も指摘する。ジェイコブズの思想や運動については高く評価するものの,当時としての,そして個人としてのその限界を詳細に論じている。しかし,その議論からじゃあどうしたらよいの,どういう考えが正しいの,とよくわからなくなってしまう。とはいえ,1章以降の議論は非常に具体的で読みやすい。Part1はいわゆるニューヨークという都市の中の「街」について論じられ,Part2は公共空間をテーマに,草の根運動的にそこで活動している住民と,それに規制をかけようとする公的権力とのせめぎあいが論じられる。
序章に「新たな最先端の地域の魅力は,新しく生まれたメディアの力によって広がっていきました。」(p.30)と書かれていて,インターネット誕生以前の「独立系の週刊新聞」を含め,『New York Times』などの印刷メディアがPart1では分析に十分活用されている。東京で同じようなものがあるかと考えるが『東京人』のような雑誌がそれに対応するのだろうか。ある意味では私が初期の論文で行ったようなメディア研究の手法が近かったりするのかと思ったりした。とはいえ,私が取り上げたような雑誌や『東京人』などはあくまでも文化の次元で街を描写するだけだが,ニューヨークの新聞は経営のことや地元での評判などについても描写しているのだろうか。ともかく,どこのどういうお店がどういうお店に代わったなどという細かい情報の積み重ねで街の系譜が語られる。最近でいえばムニョス『俗都市化』などで都市が大雑把に語られることに私は不満を抱いていたが,一方では個人で知り得る細かい情報からどのように大きな都市の話につなげていくかというところで途方に暮れてしまっていたが,ズーキンの語り口はごく自然に街路スケールからグローバル都市のスケールへとシームレスに論じている。しかし,一方では一軒の店の存在が街の動向を左右するような語り口に関しては多少疑問を抱いたりしてしまわないこともない。Part1を読んでいると,私の代官山論文から,あの街のあの歴史は実はジェントリフィケーションの一端を示しているのではないかと思ってしまったりもする。おそらく,あの街はかつてから高級住宅地化していたとは思うが,その街の中心にあった同潤会アパートの存在とその存続,取り壊しから代官山アドレス建設に関しては,今調べても面白いかもと思った。
Part2はやはり私ではなかなかできない話ではあるが,非常に興味深い事例を詳細に展開している。4章は新自由主義の流れの中で公共空間である広場が私的団体の管理に移行されるという問題。5章はレッドフックという,近年IKEAがオープンして雰囲気が変わるが,それ以前は公共交通の便が悪く,古びた野球場でローカルなサッカーリーグが開催されるだけの広い土地が紹介される。そこでは,サッカー目当ての人たちが細々と集まることを利用し,1970年代から移民たちが自分たちのソウルフードを屋台で販売していたとのこと。それが近年blog等で取り上げられることで人気になる。そうなると公的機関が規制をかけるようになり,それに対して複数の屋台を取りまとめ交渉を行うアクターが出てきて,長い交渉期間を経てなんとか成功するものの,結果としてはその場は大きく変容してしまった,とのこと。6章については,ビルボードの話はなんでもかんでも広告媒体(ビルの壁面からそれこそ近年のラッピングタクシーまで)にしてしまうということをこれまた新自由主義的政策と関連付けているが,時期的な問題でちょっと荒っぽい議論。6章でそれより面白いのはコミュニティガーデンの話。私の住む東京都日野市にも市民農園が多いが,なぜその土地が市民農園になったのかという由来は知らない。ニューヨークでは,打ち捨てられた公的な土地を,下層階級の人びとや移民たちが勝手にきれいにし,耕し,農園として占拠するという経緯があったとのこと。農園としてふさわしい土地でもなんでもなく,公的機関としても未利用で荒廃する状態よりは奇麗なガーデン(必ずしも農業生産物とは限らず,それこそ花壇のようなガーデンもあるようだ)であった方がよい。しかし,管理を市民たちに任せっぱなしというわけにもいかない。ということで,こちらも草の根運動と公的機関のせめぎあいという話。
本書はなかなか読み進めるのが大変だ。もちろん,個々の話は心躍るような展開なのだが,細かい話をじっくり聞くというような辛抱が必要な読書だった。しかし,得るところは大きい。そして,ある意味で東京でもまねのできる研究スタイルだと思う。

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ジェントリフィケーション

藤塚吉浩 2017. 『ジェントリフィケーション』古今書院,191p.2,800円.

 

オリンピック研究において,ジェントリフィケーション研究は避けて通れない。スミス『ジェントリフィケーションと報復都市』,ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか』を読み,この分野の奥深さと地理学的意義を痛感する今日この頃。日本の地理学におけるこの分野の第一人者である著者による本書も避けて通れないと思い,読むことにした。基本的には著者が1994年以降の20年間の間に発表した論文をまとめたのが本書だといえる。

1章 ジェントリフィケーション――海外諸国の研究動向と日本における研究の可能性
2章 京都市西陣地区におけるジェントリフィケーションの兆候
3章 日本におけるジェントリフィケーションと近隣変化――京都市を事例に
4章 ジェントリフィケーション研究のフロンティア――2000年代のロンドンの事例を中心に
5章 ロンドンのテムズ川沿岸における新築のジェントリフィケーション
6章 ニューヨーク市ブルックリン北部におけるジェントリフィケーション――2000年代の変化
7章 景気後退後の東京都中央区における新築のジェントリフィケーション
8章 ロンドン,ニューヨーク,東京におけるジェントリフィケーション
9章 社会主義後のベルリン東部におけるジェントリフィケーション
10章 脱成長社会におけるジェントリフィケーション――大阪市福島区の事例

本書について書かれた書評を2つほど読んだ。『人文地理』に発表された香川貴志氏による書評では,本書の300余りの文献表の不備を指摘しているが,英語圏に関してはかなり網羅的に本書の中で紹介されている。その中には,上述のスミスやズーキンの翻訳書以外もある。私がこの2冊の翻訳書を読みながら読んでみたいと思ったこの分野の古典文献についても文献表に含まれており,これらの研究を吸収してどんな興味深い議論が展開されるのか,多少は期待しながら読み進めた。
また,著者の手による実証研究は東京や大阪ではなく,京都を事例にしているという点でも興味がわいていた。京都はあまり訪れたことはないが,それでも知人が住んでいて何度か訪れ,知人に連れられて夜の街を散策したこともある。少なくとも,飲食については古い街並みを活かしながらひっそりとした雰囲気の中,質の高い料理とお酒をいただける店が多いという印象だけは私の頭の中にある。それをジェントリフィケーションと呼ぶかどうかは別として,リノベーションした店舗でその店主がその周囲のコミュニティとうまくやっているという意味では,東京にはない雰囲気を味わった経験がある。
確かに,著者による既存の研究に関するレビューは抜け目なくしっかりとしている。しかし,私がこれまでわずかな数だがこの分野の論文を読むことで感じてきた面白みが不思議なことに含まれていない。それは実証研究のスタイルにもよるのだろう。基本的に著者の調査・研究は人口データの詳細な分析を中心としている。単なる人口の多い少ないではなく,職業別,年齢別,所得別,ニューヨークに関してはエスニシティ別をなるべく細かい単位を基礎とし,適宜適切なスケールで集計,分析している。また人口データだけでなく,住宅に関するデータも併せて,これまでのジェントリフィケーション研究で指標とされている定量的な分析に関して,入手できる統計資料を駆使してこの現象を明らかにしている。まさにオーソドックスな地理学研究だといえる。
そのことがおそらく私が感じる面白みを欠く研究にしている大きな要因なのだろう。いわゆる客観的なデータを使い,適切な手法で現象を明らかにするという態度はまさに科学的な態度だといえる。一方で,例えばズーキンは自らの住む都市を対象とし,自らの立場,生活者としての嗜好を基礎としながら,この現象に対してまさに自身が当事者であることを忘れない。一方で,本書は著者自身の都市生活者としての存在は見えないし,それだけでなく,研究対象とされている都市でどんな人々がどんな生活を営んでいるのか,そういうことがほとんど見えてこないのだ。ところで,一つ疑問に思ったのは,「ジェントリファイアー」という概念だ。著者は従来の研究に対して自身の知見から批判をしたり,何か新しい発想を主張したりすることのない,控えめな研究者である。なので,この概念を誤って使っている可能性はゼロなのだが,本書ではこの概念を新しく流入してくる,以前よりも社会階級の高い人々を指している。しかし,それをいうのであれば「ジェントリー」でいいのではないか。ジェントリファイアーというとジェントリフィケーションを積極的に進める主体を意味するはずではないのだろうか。衰退した地区に資本を投資し,新しい階層の高い人々の流入を促す主体によってジェントリフィケーションが進むのではないだろうか。そういう主体の姿も本書ではほとんど明らかにされない。まあ,ともかく日本の地理学者はこれまで,彼という先駆者のおかげで,同じ分野での研究を発表しにくかった雰囲気があったのかもしれない。しかし,ジェントリフィケーション研究もかなり多岐にわたり盛り上がっている感があるので,徐々に日本での研究者も増えてくれば,さまざまな議論が展開し,面白くなってくるかもしれない。と,期待しよう。

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現代スポーツ評論35

『現代スポーツ評論』第35号、20161121日発行

特集:近代オリンピックにおける文化と芸術

 

清水 諭:オリンピックにおける身体と教育(8-15)
オリンピックを通じたスポーツ教育のあり方の解説。「オリンピックの価値教育(OVEP)」の紹介

桝本直文・藤浪康史・友添秀則・清水 諭:座談会:オリンピックにおける文化と芸術を考える(16-32)
桝本氏は首都大学東京に在籍する研究者。いくつか論文は読んだが,けっこう以前からオリンピック研究を手掛けていて,オリンピック映画に関する書籍もあるらしい。藤浪氏は電通の人で,1998年長野冬季大会の開会式の演出をした人物。開会式や文化プログラムに関する議論で,なかなか有用な座談会。

吉本光宏:文化から東京2020を考える――ロンドン2012・リオ2016の実績を参考に(33-45)
著者はニッセイ基礎研究所の人だが,電通の『AD STUDIES』という雑誌で吉見俊哉と座談会をしていたりする。2012ロンドン大会の文化プログラムについて,そのやり方について解説している。

和田浩一:筋肉と精神の「偉大な結婚」――近代オリンピックにおけるスポーツと芸術の場合(46-58)
著者は近代オリンピックの父といわれるクーベルタンに関する研究をしているようだ。タイトルはクーベルタンの言葉で,この論文もクーベルタンの自伝的な内容も含んでいる。

五十殿利治:「巨大な祭典」――オリンピック開会式と芸術(59-67)
著者は筑波大学の教授で,特にオリンピック研究を専門にしているわけではないようだが,オリンピック研究者につくば関係者は多い。この論文はオリンピック開会式について,特に1936ベルリン大会を中心に論じている。

吉田 寛:オリンピックにおける芸術競技(68-76)
著者は『美学』にもオリンピックの芸術競技についての論文を書いており,既読。本論文は既出論文では書けなかった,スポーツと芸術の緊張関係などを論じている。やはり美術畑の人ということで,注目すべき研究者。

川畑直道:幻のオリンピック,ポスター再考(77-85)
著者はグラフィック・デザイナーということだが,この論文では返上・中止された1940東京大会でのポスター製作をめぐる顛末を報告している。

江口みなみ:芸術体験としてのオリンピック映画――『東京オリンピック』(1965年)を中心に(86-94)
著者は当時早稲田大学の大学院生とのこと。1964東京大会のオリンピック映画,市川 崑監督の『東京オリンピック』に関する包括的な議論。

岡 邦行:カメラで語るオリンピック(95-102)
この雑誌に掲載されている過去のオリンピック写真のクレジットで知った「フォート・キシモト」。その代表である岸本 健さんへのインタビュー。これは知らなかったことで驚くべき内容です。フォート・キシモトは1964東京大会から独立した写真家集団としてオリンピックから小学校の運動会までのスポーツ写真を手掛けているという。報道とは違った視点で撮影された膨大な写真は,早くからIOCに作品を提供し,世界的に信頼されているという。多少は写真の研究をしている身として,心躍る文章でした。一つの研究テーマにもできますね。

白井宏昌:集中か分散か?――オリンピック開催による都市空間再編に関する論考(105-118)
既読論文。大学教員で建築家の著者ですが,実際に2012ロンドン大会の施設配置計画にも携わっているとのこと。日本では珍しくしっかりとした都市研究に基礎をおくオリンピック研究者。

河村裕美(聞き手:清水 諭):インタビュー:ローザンヌでの体験,そして東京2020へ(119-127)
文部省勤務から,コロンビア大学への留学経験を経て,東京オリンピック組織委員会の国際担当部長を務める人物へのインタビュー。IOCにも派遣され,2016リオ大会の準備に携わったとのこと。なかなか貴重な話を聞きだしていて,いいインタビュー。

荒牧亜衣:オリンピックにおける文化イベント(128-133)
この著者はオリンピックのいろんな分野での解説論文を書いている。特にこれといって目新しいことは書いていないが,コンパクトにまとめる能力にたけているのだろうか。

高橋良輔:オリンピックのメダル獲得競争におけるアジアの立ち位置(134-143)
オリンピック大会のメダル獲得数に関して,数量的に把握するという,この論文のような試みはありそうでない。けっこう貴重な研究。

田原和宏:リオデジャネイロ五輪にて――2020年東京五輪の追加種目採用とその背景(144-150)
タイトル通りの文章。オリンピックと一括りにできず,国同士の対立だけでなく,それぞれの国との関係も含めた競技同士の駆け引きがあるんですね。

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多角的視点で学ぶオリンピック・パラリンピック

相原正道 2017. 『多角的視点で学ぶオリンピック・パラリンピック』晃洋書房,199p.2500円.

 

私の非常勤先である東京経済大学は、オリンピック関係の図書をけっこう集めていて、少しずつ活用している。買うまではないけど、読んでおきたいなと思った一冊。
著者は筑波大学の大学院まで出ているらしいが、ヤクルトスワローズに関わったりしながら、東京オリンピック・パラリンピック招致委員会でも活動した経歴を持ち、現在は大阪経済大学の準教授とのこと。目次は明らかに1セメスター15回授業の教科書で使うような味気ないものだが、はしがきでは「タブー視されている感さえある内容も本書では大いに盛り込まれています。」(p.ii)という意気込みがみられ、第1章では、保護主義の傾向を示しつつある世界情勢(反グローバル)において、オリンピック・パラリンピックがグローバル化を促進するみたいな、主張そのものは納得しないが、これまでのオリンピック論ではなかったような意見なので、少し期待しながら読み進めた。

はしがき
巻頭対談 スポーツと観光による都市魅力戦略推進(溝畑 宏×相原正道)
1章 オリンピック・パラリンピックと反グローバル
2章 オリンピック・パラリンピックとガバナンス
3章 オリンピック・パラリンピックとインテグリティ
4章 オリンピック・パラリンピックと政治
5章 オリンピック・パラリンピックとセキュリティ
6章 オリンピック・パラリンピックと経営
7章 オリンピック・パラリンピックと地方経済
8章 オリンピック・パラリンピックと大阪
9章 オリンピック・パラリンピックと文化・教育
10章 オリンピックと映画
11章 パラリンピックと法整備
12章 オリンピック・パラリンピックと環境
13章 オリンピック・パラリンピックと招致
14章 オリンピック・パラリンピックと日本

いきなり巻頭の対談が意味不明。2020年東京大会を念頭においた本のはずなのに、大阪観光局理事長なる人物との対談が掲載されている。現在大阪の大学に勤務する著者は、この人物が委員長を務める「大阪都市魅力戦略推進会議」に参加しているとのこと。この会議では「文化・観光・スポーツ・国際化」の4つをテーマとして掲げているということで、スポーツによる都市プロモーションといったテーマの対談となっている。この対談の意味は第7章以降で理解できるようになる。
ずばり、ここが著者の得意分野である。それ以外の章は、やはりお勉強の域を超えていない。私もそれなりにオリンピック関連文献を読んでいるので、どこかで読んだことがあるような話に終始している。しかも、本書は学術書というよりは、学部生向けの教科書なので、文献に関して丁寧に示されていない。そして、時折オリンピック・パラリンピックとは関係ない話に脱線して盛り上がってしまうのだ。例えば第2章は日本のバスケットボールに関する話に終始する。第3章はスポーツギャンブルの話、第4章はネルソン・マンデラの話など。おそらく「お勉強の域」では90分の授業にはならないのだろう。自分の詳しい話を挿入して膨らましている感がある。
それが、第7章になると英国で著者が行った調査の話が登場する。オリジナルのデータを持っている話は強い。著者の言い分としては、2012年ロンドン大会から学び、2020年東京大会では、1964大会のように東京一極集中を促進するのではなく、逆に地方の活性化を促進するような仕組みを作るべきだという。この主張は非常に説得力がある。そこから、第8章の大阪の話に移行する。しかし、当然2020年東京大会の際に大阪をどうこうするという話ではなく、関西では2021年に「ワールドマスターズゲームズ」が開催されるのだという。この大会について私は知らなかったが、これは非常に興味深い。1985年以降4年に1度開催されているが、2021年の大阪大会はアジアで初開催だという。30歳以上であれば誰でも参加できるスポーツ大会で、開催都市はこの大会のために新たな施設を建設してはならないという。まさに、オリンピックのさまざまな弊害を逆手に取ったイベントだといえる。
11章については,私自身がまだまだパラリンピックについて勉強していないので,得るところは多かった。まあ,そういう意味では,オリンピック研究初心者には一通りのテーマについて触れられる本なのかもしれない。ただし,第13章については,著者自身が今回の東京大会の招致に関わったという経験をもっと活かしてくれたら良かったと思うが,逆に実際に関わってしまうと守秘義務とかが生じてしまうのだろうか。ともかく,借りて読んでよかった本。

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現代スポーツ評論30

『現代スポーツ評論』第30号、2014520日発行

特集:東京オリンピックがやってくる

 

友添秀則:東京オリンピックにどう向き合うか(8-17
『現代スポーツ評論』19号の記事で,1964年東京大会時の石原慎太郎の言葉を紹介する文章について書いた。この論文でもそのことに触れていて,まさに2016年,2020年と東京がオリンピック夏季大会に立候補するのに尽力した石原氏のナショナリスティックな主張を1964年当時と比較している。著者は2020年東京大会に否定的ではないが,1964年の延長線上で2020年を考えてしまうことに危機感を抱いている。なお,この号の本誌の編集長は友添氏になっている。

山本 浩(NHK→法政大学教授)・勝田 隆(日本スポーツ振興センター)・友添秀則・清水 諭:座談会:東京オリンピック2020とスポーツ界の変容(18-37
オリンピックの開催都市となるには,各国のオリンピック委員会(日本の場合JOC:日本オリンピック委員会)のみならず,さまざまな団体が関わっている。山本氏は日本陸上期競技連盟などスポーツ関係の団体理事を歴任していたりして,この座談会からはそういうさまざまな団体の関わりを知ることができる。そういう様々な人の利害関係で成り立っているために,面倒なんだな。

宮本勝浩(関西大学教授):東京オリンピックと経済効果――東京五輪は景気好転をもたらすか(38-51
2012
年ロンドン大会,2008年北京大会の経済波及効果の公表値をまず評価し,2020東京大会について公表されている数値を一つ一つ確認している。まず,東京との試算だが,単なる総額だけでなく,想定されている機関やその中身,項目など詳細な検討である。同様に,みずほ総研,森記念財団,大和総研など。後半では経済波及効果とは何かについて分かりやすく説明している。著者の立場は2020東京大会の経済波及効果について否定的ではないが,重要な基礎的研究。

來田享子(中京大学教授):東京オリンピックが世界に発信できること――内向きと外向きのスローガンを重ね合わせるために(52-68
この論文は以前読んだことがあったが,今回再読した。ここまでいろんなオリンピック研究を読んでから再読すると目新しいことは書いていないが,2020年東京大会の「震災復興のための」という内向きのスローガンといまなぜ東京でという問いを真面目に考えようとする文章。

佐伯年詩雄(日本ウェルネス大学):現代オリンピック考――モンスターイベントに群がるビジネスと政治(69-79
この論文も再読。はじめに何も知らずに読んだ時は,歯に衣着せぬ語り方に感銘を受けたが,再読で印象が変わった。同じような主張は多く,そのなかでもきちんと根拠を示しながら論じているものも少なくないが,この著者は大学教員でありながら,この文章では全く何も参照されていない。書かれていることは「そうなんだろうな」と思うけど,説得力はない。

小川 宏(福島大学教授):「復興五輪」はスローガンなのか――東日本大震災と福島原発(80-87)
阿部首相によるIOC総会でのプレゼンテーション,「アンダーコントロール」発言はよく知られ,否定的に言及することは多いが,東京大会における福島原発と震災復興のみに焦点を合わせた論文。朝日新聞やのアンケート結果なども示しながらの正当な議論。

佐野慎輔(産経新聞社取締役):オリンピックは日本に何をもたらしたか(88-97)
タイトルが過去形なので,1964年の話。現在,ヤクルト球団の取締役や日本オリンピックアカデミー理事なども歴任している人物なので,日本のスポーツ界全般に残すレガシーなるものを期待しているようだ。「2020年大会は今後のスポーツの在り方とともに,社会装置としてのオリンピックの存在を示す格好の機会となるはずだ。」(97)と締めくくっている。

南後由和(社会学者):東京オリンピック2020に向けたスケッチ――都市とスポーツ(98-109)
こちらも再読。やはり若林幹夫の文章を読んでしまうと,表面的な印象が否めない。ただ,面白いのは1964年の国立競技場と代々木競技場の機能的・象徴的役割についての議論。

松瀬 学:ブエノスアイレス顛末記――ワタシが触れた国際政治とオリンピック招致(110-119)
この雑誌の10号にも執筆しているスポーツ・ジャーナリスト。ブエノスアイレスというのは、2013年のIOC総会の開催都市で、そこで2020年の夏季大会が東京に決まった。著者はその取材をしたということで、その現場の報告。

稲垣康介(朝日新聞社):IOCという組織(120-130)
IOCという組織についての説明。会長の変遷と組織の変化。

中森康弘(日本オリンピック委員会)(聞き手:清水 諭):インタビュー:東京オリンピック招致から見える日本スポーツの課題(131-143)
IOCのメンバーと家族ぐるみの付き合いをするという話。一応、日本のスポーツ界の将来についても考えている人ではあるが、オリンピックというイベントの開催都市決定過程がいかに民主的でないことかがよく分かる。まあ、非営利団体による開催だから民主的である必要はないのだが、世界に与える影響の巨大なイベントである以上、ある一定の国際的な公正性は必要ではないかと思ってしまう。

滝口隆司(毎日新聞社):ソチ五輪・パラリンピックをどう報じたか(144-149)
前半はメディアが注目する競技の話。後半はパラリンピックまで政治利用されたという嘆き?

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現代スポーツ評論19

『現代スポーツ評論』第19号、20081120日発行

特集:スポーツの東京

 

清水 諭:スポーツの東京:記憶とマッピング、そして土地の歴史(8-13
1960
年生まれで東京の十条あたりで育った著者の記憶を、東京のスポーツ環境に照らし合わせる貴重な作業。

町村敬志・原田宗彦・友添秀則・清水 諭:座談会:2016年以降の東京とスポーツ空間(14-29
東京が2016年大会に立候補している段階で、過去の東京とオリンピックの関係、今後東京が開催都市になった場合のことなどが論じられる。

若林幹夫:都市・東京とスポーツの空間――スポーツの社会的地形と力学(1)(30-43
若林幹夫らしい、都市とスポーツに関する思考実験。東京という舞台に散在するさまざまなスポーツ施設とそれに関わり合う多様な人間主体のマッピング。

山本拓司:幻のオリンピックと外苑拡張計画――明治神宮外苑の文化史(44-57
東大大学院生による精緻な研究の部分報告。国立競技場を中心とする都心部の広大なスポーツ空間の成立を政治的観点からたどる。

坪内祐三:駒沢そして渋谷(58-63
1958
年で世田谷区赤堤で育ったという著者に1964年東京大会の駒沢公園付近のことを書くことを期待したものだが,実際には著者にとって1964年の駒沢は身近でなかったという。しかしながら,なぜ直線距離的に近くありながら身近でなかったかという観点から当時の様々な状況が語られる。

中房敏朗(体育学):東京オリンピックの地政学――オリンピック関連施設の立地はどのように決まったのか(92-101
仰々しいタイトルだが,副題が内容そのもの。山本論文とも重複する内容で,1964年大会の施設立地の事情を概観したもの。

森田浩之(NHK記者):ミスチルと聖火リレー(114-118
2008
年北京大会の日本のテーマソングがミスチルの「GIFT」という曲で,著者はその歌詞に違和感を抱いたというところから始まる。メダルの色にこだわらない,ような歌詞の内容だが,開催国中国は必死に金メダルに執着していた大会で,日本はそれを冷ややかに眺めていたという解釈。

桝本直文:2008年第29回北京オリンピック大会観戦記(119-125
これもタイトルそのままだが,テレビで北京大会を観戦していなかった私には非常に貴重な観戦記(とはいえ,競技の話はない)である。セキュリティのために兵士と警官がいたるところに配置されているという。文化プログラムについても報告がある。

玉木正之(ライター):北京オリンピックで「見た」もの(126-132
「オリンピックはテレビで見る。」という文章で始まる。メディア論ではないが,テレビを通してオリンピックが何を語るのかということを再現している。

山本敦久:聖火リレーの政治学:多様なイシューが表明される空間(142-145
山本氏は北京大会の聖火リレーの長野の現場を観に行っている。北京大会の直前に中国政府がチベットへの弾圧を行ったということで,ギリシアから世界各地をめぐるという聖火リレーの計画において,各国が中国政府に対する抗議を行った。その日本における様子が語られる。

真田 久(『ポケット版オリンピック事典』共編者、オリンピック招致委員):作家たちの東京オリンピック(1964)(173-181
1964
年大会を経験した当時の日本人作家の文章をたどりながら,さまざまな意見を紹介している。そのなかでも,石原慎太郎の態度が理想的だとしているところが何とも面白い。今の石原氏に自分の文章を読み返してもらいたいものだ。

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現代スポーツ評論10

『現代スポーツ評論』第10号、2004530日発行
特集:オリンピックの記憶と幻想

 

中村敏雄:ポストモダンのその後――本誌の5年間から(8-19
1987
年創刊『スポーツ批評』
7号まで確認できるが、発行中止。1985年創刊『体育・スポーツ評論』1990年以降の続刊なし。『新体育』や『学校体育』などの月刊誌の廃刊。「わが国の体育・スポーツ界は、硬派で辛口の評論や批評を歓迎せず、また支援や連帯の意思表明としての定期購読をするということもなく、しかもこのような体質からの脱皮を志向することもないということがわかってくる。」(p.9
⇒本誌に込められた強い意志を感じさせられる文章。

松瀬 学(ノンフィクション作家『汚れた金メダル』文藝春秋):メディアのオリンピック――肥大化する商業五輪。IOC、テレビパワー、広告代理店の功罪とは(20-33
よく聞く話ではあるが、日本における電通の話などが書かれている。

阿部 潔:グローバル化とナショナリティ――「越境」と「セキュリティの帝国」の狭間で(34-47
阿部氏は2001年に長野冬季大会に関する論文を発表しているが、2016年に本格的に「東京オリンピック研究序説」と銘打ってオリンピック研究を進めている。本論文はその初期の頃のもので、『彷徨えるナショナリズム――オリエンタリズム/ジャパン/グローバリゼーション』を発表するのが2001年だから、グローバル化時代のナショナリズムという観点からオリンピックを本質論的に論じている。

谷口源太郎(ジャーナリスト、『堤義明とオリンピック』三一書房、『日の丸とオリンピック』文藝春秋):なぜ五輪代表選考が揉めるのか(48-57
タイトル通りの具体的な話の羅列だが、けっこうオリンピックの本質に迫る視点を与えてくれる。

坪内祐三(評論家):少年時代に出会ったオリンピックに関する幾つかの思い出(58-62
1958
年生まれの著者による1964年の東京大会から1972年のミュンヘン大会までをタイトル通り、少年時代の記憶を呼び起こしたもの。貴重な記録です。

江沢正雄(長野五輪反対運動家):やっぱりオリンピックなんかいらない!(63-68
『君はオリンピックを見たか』(1998年)で長野オリンピック批判を論じた江沢氏によるその後の話。納得させられることばかり。

須田泰明(『37億人のテレビンピック』著者):体験的オリンピック論 走馬灯の五輪取材32年(69-73
IT革命による、スポーツ情報のグローバル化という潮流に乗って、今の近代五輪を「巨大興業のテレビンピック」と見る限り、そのみらいは悲観したものではない。」(p.73)という主張は意味が分からない。

三浦信孝(フランス社会論)・中村敏雄・友添秀則:座談会:文化・言語・スポーツ――グローバリゼーションとクレオリゼーションの間で(74-89
国民国家、植民地主義、グローバル化における言語の問題を研究している三浦氏に、スポーツという観点で話を聞く座談会。なかなか三浦氏のスポーツに関する造詣も深く興味深い座談会。

石井昌幸(早稲田大学講師):カルカッタ、裸足の進撃(90-103
サッカーの話題だが、イギリスの植民地支配下のインドで、現地のベンガル人チームが1911年のサッカー大会でイギリス人チームを破って優勝したという話。

成田真由美(パラ水泳選手):アテネへ(104-109
パラリンピックに複数出場しているアスリートの生の声。

吉田理子(ボート選手):ボートから学んだこと(110-114
期せずしてオリンピック出場を果たしたボート選手の語り。

結城和香子(読売新聞記者):アテネから(115-118
これから開催されようとしている2004年アテネ大会の直前レポート。

清水 諭:「ナショナルなこと」と「個人的なこと」をどう考えるか――2002FIFAワールドカップ韓国・日本をめぐる著作から(154-163
黄編著『W杯サッカーの熱狂と遺産
――2002年日韓ワールドカップを巡って』(2003)を中心としたブックレビュー。阿部氏の議論と同様に、スポーツ界を中心にナショナリズムを問い直す時代に来ているという認識。

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現代スポーツ評論7

『現代スポーツ評論』第7号,20021120日発行
特集:メガ・イベントの思惑

 

中村敏雄:「大きいことはいいことか」(8-13
サッカーのワールドカップ2002年大会が韓国・日本の共同開催で行われた後に出版されており、それをめぐって、スポーツ・メガ・イベントを問い直す目的の特集号

沢木耕太郎・清水 諭:対談:アスリートとメガ・イベント(14-29
沢木耕太郎にはいくつかスポーツ評論があるという。『オリンピア』(1996年、集英社)ではレニ・リーフェンシュタールに着目しているとのこと。彼のスポーツ評論は素人的立場で人間そのものに迫るものだという。

桝本直文:浮遊する「オリンピズム」(30-43
人によって異なる「オリンピズム」の定義。いくつもの主義批判。勝利至上主義(アスリート)、ヒーロー主義、金儲け主義(IOCIF)、見世物主義(テレビ界)、面白主義・感動主義(視聴者)、政治主義(米国)、ユーロセントリズムとポストコロニアリズム

小笠原博毅:ポストW杯的サッカー文化環境論(44-59
サッカーの地政学:個人やチームの特性を地理的条件に矮小化する想像力

海老塚 修:ビジネス・ツールとしてのメガ・イベント(60-71
電通IR室次長による文章。ワールドカップ放映権料の増加を指摘しているが、ネガティブにではなく、いかにスポーツから価値を創出するかという金儲け主義から。

中村祐司:ナショナリズムとメガ・イベント――2002W杯における商業セクターの戦略と社会現象に注目して(72-85
英語圏のサッカー研究の紹介。

宮田秀明:テクノロジーと人間――アメリカズカップを中心に(86-93
自らが関わった船の設計開発

杉山 茂・中村敏雄・友添秀則・鴨門義夫:座談会:スポーツ・イベントとメディア(94-109
NHKスポーツ報道センター長(杉山)を招いての、スポーツ・イベントに対するメディアの関わりのあるべき姿を論じる。

増田明美:シカゴの街から――女子マラソンの記録はどこまで伸びるのか(110-113

田中東子:女性たちの密やかな反抗――スポーツ・オーディエンス・表象の政治(148-157
スポーツ・オーディエンスにおける女性の問題。ミーハー、表象、実際のオーディエンスの目に見えぬ差異。

田中研之輔:都市広場の身体文化――スケートボーダーの生活誌から(158-169
土浦駅前に集うスケートボーダーの民族誌。身体的痛みによるスケートボーダーとしてのアイデンティティ構築。

高橋豪仁:メディア、コマーシャリズム、マーケット――須田泰明『37億人のテレビンピック』を中心にして(170-177
新聞記者によるテレビ中心主義の観点からのオリンピック諭に対する批判。オリンピックの本来あるべき姿は変容するし、テレビの存在と切り離せない。

金 恵子:2002FIFAワールドカップ韓国・日本――「IT産業」「ギルコリ(街頭)応援」「東アジアの地域関係」(178-186
2002
年ワールドカップにおける韓国の状況。象徴的な場所となったガンムファン、メガ・イベントに乗じて韓国イメージの向上をもくろむIT産業

清水 諭:2002FIFAワールドカップ韓国・日本――「フーリガン」「ベッカムのイングランド」「日本人」(187-193
サッカーにおける人種とナショナリズム。メディア表象の分析。

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ファイブ リング サーカス

トムリンソン, A.・ファネル, G.編著,阿里浩平訳 1984. 『ファイブ リング サーカス――オリンピックの脱構築』柘植書房,221p.1,500円.Tomlinson, A. and Whannel, G. eds. 1984. Five Ring Circus: Money, Power and Politics at the Olympic Games. London: Pluto Press.

 

これまで紹介した日本語文献でも,オリンピック批判の基本文献と位置付けられていますが,英語文献でもそこそこ言及されています。大学図書館で実物を手にし,ジュディス・ウィリアムスン『広告の記号論』と同じ柘植書房の「カルチャー・クリティーク・ブックス」の1冊だと知り,がぜん期待が高まります。

メインクリティーク・世界政治劇場としてのオリンピック(筑紫哲也,7-21)
クリティーク1・コマーシャリズム(リック・グルノー,22-47)
クリティーク2・テレビショー(ギャリー・ファネル,48-75)
クリティーク3・政治対立(デビッド・トリースマン,76-101)
クリティーク4・アパルトヘイト(サム・ラムザミー,102-115)
クリティーク5・フェミニズム(ジェニファー・ハーグリーブス,116-145)
クリティーク6・神話学(ブルース・キッド,146-171)
クリティーク7・貴族主義(アラン・トムリンソン,172-187)
クリティーク8・オルタナティブ(ジェームズ・リオダン,188-197)
サブクリティーク・広告としてのオリンピック(佐野山寛太,198-220)
あとがき(阿里浩平,221)
年表

大学の図書館で借りた本なので,著者の情報なども転載しておきましょう。
筑紫哲也:『朝日ジャーナル』編集長
リック・グルノー:ブリティッシュ・コロンビア大学社会学,スキープレイヤー
ギャリー・ファネル:メディア論の評論家
デビッド・トリースマン:ロンドンのサウスバンク高等専門学校研究員,サッカー選手
サム・ラムザミー:南アフリカ非人種オリンピック委員会(SANROC)の委員,水泳コーチ
ジェニファー・ハーグリーブス:ロンドンのローハンプトン研究所の体育教育専門家,競泳選手
ブルース・キッド:トロント大学,体育史。陸上選手
アラン・トムリンソン:ブリットン高等専門学校,社会学。訳書で『スポーツの世界地図』(丸善,2012

ジェームズ・リオダン:ブラッドフォード大学,ロシア語。サッカー選手。
佐野山寛太:代理店出身の商品計画,広告計画の評論家
阿里浩平:カルチャー・クリティーク編集会議

私の出身大学である東京都立大学(現:首都大学東京)にも体育関係の教員がいたが,地理学科と同じ理学部に属しているものの,研究室はキャンパスの一番奥になっていて,扱いが微妙だったのを覚えている。おそらく,大学の中でも学問分野としてきちんと位置付けが難しく,一方では体育会を擁する大学では体育部の科学的な管理のための研究者が必要で,あるいは指導者としてかつての選手を教員として採用するというのがあるのだと想像している。いずれにせよ,医学に近い健康科学から,実践者・指導者が中心で,それに評論分野やスポーツ社会学などの研究者が加わるのだろうか。本書の執筆者も元選手が多く,それでいて社会学者でもあるというのが日本とは違うと思うが,さまざまな属性を持っている。そういう意味でも,本書は私が想定する学術的なものとは少し異なっている。まずもって,参考文献はほとんど示されていない。そして,客観的・中立的な意見というよりは,実際のオリンピックに関与しようという強い意志を感じる。
それはともかくとして,オリンピックをめぐる否定的な意見の項目は本書の目次でかなり出そろっているともいえる。まずは日本語版のみの収録である,筑紫哲也の文章。今回の2020東京大会に対しても久米 宏がオリンピック批判を続けているが,私にとっては『ぴったしカンカン』や『ザ・ベストテン』の司会者である久米だが,ご存知のように近年は長らくニュース番組のキャスターをしていた。その彼にとって筑紫哲也の存在は大きいのかもしれない。それはそれとして,この筑紫の文章は短いながらオリンピック批判のさまざまな側面が凝縮している。
本書はロサンゼルス大会の開催年である1984年に出版されたが,商業主義が急速に進んだこのロサンゼルス大会に関する記述も少なくない。特にクリティーク1はまさにロサンゼルスの状況が直に伝えられている。クリティーク2はいまでは日本でもよく議論されている内容。競技日程が米国放映のゴールデンタイムに合わせられているというのは大衆レベルでもよく語られるが,狭義のルールさえもがテレビ写りを基準に変更されてきたという。クリティーク3の題材も今ではよく使われる。古代のオリンピックでは大会が休戦理由とされたというエピソードから,スポーツが政治を超えるという神話が作られたが,そもそも古代の時代からスポーツと政治は密接な関係にあり,それらを切り離そうと装うのが近代以降だということ。クリティーク4で論じられる話は,私は『反東京オリンピック宣言』などで知ったが,けっこう有名な話だったらしい。国家主導のオリンピック参加に対抗する反オリンピック運動というのも古くからおこなわれていた。クリティーク5についても同様。人種,民族,性差という問題はまさにそれをめぐる公民権運動と並行して,オリンピックの舞台でもかつてから問題とされていたようです。クリティーク6はオリンピズムをめぐる本質論で,アマチュアリズムと商業主義などこれまでの論題が再整理されています。クリティーク7も今ではよく聞く話ですが,近代五輪の創始者であるクーベルタンの発想そのものが,彼の祖国であるフランスの国力を高めるため,より具体的には兵士を規律・訓練するための教育の一般としてのスポーツという考えから出発しているとのこと。クリティーク8については,あまり多くは議論されていないように思いますが,どこかで読んだ記憶もあります。女子オリンピックの開催と並行して(先んじて)労働者オリンピックなるものが,時代によっては本大会を凌ぐ規模で行われていたという事実。まあ,ともかくオリンピックをめぐる批判的な議論は本書で出そろっていますが,地理学的なテーマという意味では,この時点ではほとんどなされていないということを確認できる本でもあります。

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