書籍・雑誌

在野研究ビギナーズ

荒木優太(2019):『在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活』明石書店,286p.1,800円.

 

『アルコールと酔っぱらいの地理学』でお世話になった明石書店さんの本は最近何かと目に入るようになり,気になっていた本書。私は「地理学関連科目を担当する大学非常勤講師の雇用実態と意識」(2017年,E-Journal GEO 12: 280-293)なる論文も書いていて,最近は独立研究者を名乗るようにしたので,読みたいと思った次第。翻訳の際にお世話になった編集者にお願いして購入した。

序 あさっての方へ
第一部 働きながら論文を書く
 第一章 職業としない学問(政治学・酒井大輔)
 第二章 趣味の研究(法学・工藤郁子)
 第三章 40歳から「週末学者」になる(批評理論・伊藤未明)
 インタビュー1 図書館の不真面目な使い方・小林昌樹に聞く
 第四章 エメラルド色のハエを追って(生物学・熊澤辰徳)
 第五章 点をつなごうとする話(活字研究・内田 明)
第二部 学問的なものの周辺
 第六章 新たな方法序説へ向けて(専門なし・山本貴光+吉川浩満)
 第七章 好きなものに取り憑かれて(民俗学・朝里 樹)
 第八章 市井の人物の聞き取り調査(文学研究・内田真木)
 第九章 センセーは,独りでガクモンする(宗教学・星野健一)
 第一〇章 貧しい出版私史(文学研究・荒木優太)
 インタビュー2 学校化批判の過去と現在・山本哲士に聞く
第三部 新しいコミュニティと大学の再利用
 第一一章 〈思想の管理〉の部分課題としての研究支援(専門なし・酒井泰斗)
 第一二章 彷徨うコレクティヴ(共生論・逆巻しとね)
 第一三章 地域おこしと人文学研究(哲学・石井雅巳)
 インタビュー3 ゼロから始める翻訳術・大久保ゆうに聞く
 第一四章 アカデミアと地続きにあるビジネス(哲学・朱 喜哲)

編者も第10章を執筆しているが,とにかく変わっている。私以上にコミュニケーション能力がないようで,誰とも話さずに済む清掃労働で収入を得,両親のもとで生活をしている。1987年生まれということなので,私もまだ結婚していない歳だが,恋愛などもほとんど必要としないとのこと。とはいえ,ネットでの発信をきっかけにこうして紙の出版物を依頼されて出しているので,私より恵まれている(?優れている?)といえるかもしれない点はある。私も最近はもっぱら研究に関する書き込みを続けているブログをもう15年近くやっているが,出版社などからお声がかかったことはない。ただ,自虐的にそんなクソ人生でも「よく自分の書いたものを読み直す。読み直してつくづく「いいものを書いたな」と思う。」(p.180)というのは私と同じだ。その位の幸せを感じても罰は当たらないだろう,という。ともかく,そんな編者から生まれた,他13人から成る在野研究者の声を集めた重要な論集である。
在野研究とは,第6章や第11章でもかなり詳しく論じられているが,概していえば,大学などの研究機関に所属せず,自力で研究生活を続けている人のこと。ただ,14人いれば,本当に人それぞれである。私のように大学の非常勤講師という形で大学とわずかながらつながっている人はこのなかにはほとんどいない。私のように,大学常勤職への就職を諦めきれないような人物はあえて含めていないのかもしれない。そんな多様な在野研究者の姿を一人一人紹介したくなる本だが,それは別の機会にとっておこう。おおまかに共通する問題は,研究に費やす時間とお金の問題だ。とはいえ,それに関しては大学の常勤教員であっても同じらしいということは各人も認識しているが。
本書が重要なのは,在野研究者の実態が分かるからだけではない。そもそも,研究者が自分の研究生活について語る機会などないのだ。書きたいことを書いている私のブログすら,本書で書かれているようなことまでは記録していない。時折それに類似したことを知り合いの研究者について書いたりすると,お叱りを受けたりする。研究者としては大学を通じて公的に名の通った人間(大学教員)はプライベートをネットなどで公表してはいけないらしい。ともかく,本書には文献の探し方,インタビューの仕方,研究時間の作り方,研究仲間の作り方,学会の学術会議がどういうものか,学術誌の投稿の問題,学術出版の状況,など,詳しいものもあればそうでないものもあるが,在野に限らない研究者社会の実態をある程度明らかにしてくれる。とはいえ,在野だからこそ,大学に勤めるアカデミアには当たり前であることに苦労する,という意味でそういう些細なことが特筆に値するのだ。また,在野だからこそ研究に注がれた愛を十分に感じることができる文章でもある。第2章の執筆者である工藤郁子さんは,学術研究をオタク的感覚で捉えている。オタクというのはあまり表現的にふさわしくないかもしれないが,論文を読む行為を音楽を聴いたり,マンガを読んだりするのと同じように,そして,特定の作品(論文)について同人と熱く語り,その著者=研究者に会うことはアーティストと会うような感覚。この感覚,私にも分かります。
このブログを借りて,そして本書の読書日記という体裁を借りて,私自身が本書の執筆者に選ばれたとしたら何を書くかを書こうと考えていたが,今はその時間を割けないのでやめておく。研究者は単著を書くとなにかと家族への謝辞を記すことが多い。しかし,私は家族からの協力は得られていない。家事と育児の本の隙間で執筆活動をするしかないのだ。幸い,通勤時間は長いので読書時間だけは確保されている。しかし,そこでインプットしたものをこうしてblogでアウトプットすることを私自身の研究活動の責務としているため,読むペースでしか書けない。また,今は講義期間中真っただ中で,そちらの準備に取られる時間もある。ということで,この辺にしておきます。
あ,最後に一つだけ。本書の書名はちょっとどうかなと思いました。本書を手に取ってもらうためには「ビギナーズ」っていい響きですが,決して本書は初心者向けではない,と私は思う。

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「不法」なる空間にいきる

本岡拓哉(2019):『「不法」なる空間にいきる――占拠と立ち退きをめぐる戦後都市史』大月書店,238p.3,200円.

 

著者の本岡拓哉氏は1979年生まれ,関西大学で地理学を専攻し,大学院は大阪市立大学へと進学し,博士を取得している。こういう経路を取る人は関東に住み,大学に所属していないような私にもその存在は知られることになるが,なかなか接点はなかった。とある研究会で顔を合わせる機会もあったが,直接接する機会は,彼の学会発表で私が質問して以降のものだった。私自身も名前は知っているものの,彼の論文を読んだことはなく,その学会発表で初めてその研究に触れたが,その頃はすでに河川敷居住者を対象とした研究に移行していた。質問後,丁寧なメールをいただき,それ以降はなぜか私はそんなに頻繁に学会に顔を出す人間ではないが,学会に行けば顔を合わせるようになった。彼の奥さんも地理学者だが,彼女とは以前から面識があったことも,お互いに親しみを感じさせるきっかけだったかもしれない。ともかく,そういう次第で,出版早々に送っていただいた本書をようやく読むことができた。以下に本書の構成を示す(カッコ内は初出の出版年)

第1章 「不法」なる空間のすがた(2015年)
第2章 「不法」なる空間の消滅過程(2007年)
第3章 「バタヤ街」を問いなおす(2019年)
第4章 河川敷居住への行政対応(2018年)
第5章 立ち退きをめぐる空間の政治(2006年)
第6章 河川敷に住まう人々の連帯(2015年)
第7章 集団移住に向けた戦略と戦術(2016年)

私自身も本書のような研究を読むのにちょうどよい時期なのかもしれない。オリンピック関係の文献をよむなかで,evictionという言葉が「立ち退き」を意味し,オリンピックのようなメガ・イベントではかつてから立ち退きが行われ,最近でこそ強制立ち退きというのが行われにくくなってきたが(とはいえ,最近でも日本は新国立競技場建設に関連する立ち退きを行っている),それがオリンピック研究の一環としてかなり取り組まれているのだ。
一方で,本書で著者が取り組むのは副題にあるように,歴史的に行われた立ち退きである。容易に想像はつくが,冒頭でこの種の研究の少なさが指摘され,また本書で明らかにしたいことも明記されているのだが,それを解明するための史料の少なさに苦しめられている様子がよく分かる本である。第1章はそんななかでも,1957年に東京で行われたまとまった調査である『東京都地区環境調査』を丁寧に整理している。まずは入手可能な貴重なデータに関しては十分に活用するという態度は重要ですね。きれいな地図も作成されています。また,個々の不法占拠地区の土地利用の変化については,過去の住宅地図から地図上で確認する作業もしています。ただ,この作業はあまり実りが多くなかったように思える。図版として掲載されたものが明確に立ち退きを表現していないからだ。一方で,いくつか掲載されている空中写真は見事に立ち退きの実態を示している。私も2008年北京オリンピックに関するShin氏の研究を確かめるために,GoogleEarthなどで過去の空中写真を辿ってみたが,それは驚きだった。第2章は著者の出身地である神戸に舞台が移る。神戸市は著者の出身地というだけでなく,戦後バラックが街の規模が最大であり,またその対策でもその実績が高く評価されていたという。この章では,各行政資料に加え,市議会議事録や新聞記事なども活用されている。本書では後半に広島市の事例があるが,比較的広い河川敷をもつ広島市の太田川に比べ,神戸市の都市河川の不法占拠は,新聞記事の文章を読むだけで,衝撃的だ。自然堤防を挟んで緩やかな高低差を想像する一般的な河川(うちの近所の多摩川など)と比べ,人口堤防を挟んで,住宅地のはるか下を流れる都市河川。そんな縁に住宅を建て,糞尿などを宙に浮いた住宅部分から河川側に落とす,そんな図を勝手に想像してしまった。ともかく,神戸市では,周辺住民の匂いと不衛生状態の訴えの解消として,バラック撤去の政策が急務になったことがうかがえる。第3章では,再び『東京都地区環境調査』に立ち戻り,舞台は東京へ。一般的に用いられる「バタヤ」という概念を考察する。不法占拠の人々がどんな生業で生計を立てていたのか,バタヤの言葉はもの拾いと結びつく。宮内洋平氏の南アフリカ研究でもそうした下層の人々の生活は一般的だが,当時の日本でも一定の割合の労働者がいたということは知っている。私と同年代の社会学者である,下村恭広氏もそんな研究をしていた。この章では新聞記事の分析もあり,また別の資料を用いて,特定のバタヤ部落の消滅過程も辿っている。
第4章からは河川敷居住に焦点を合わせていき,まず全国的な傾向をつかみ,先行研究のある代表的な河川(熊本県の白川,静岡県の安部川,横浜市の鶴見川)などの状況が確認される。そして,第5章で再び神戸に戻る。特にここでは,どの不法占拠地区でも一定数存在していた朝鮮人部落について詳細な考察がなされる。この辺りからは元住民へのインタビューなども含まれている。章のタイトルには「空間の政治」とあるが,この詳細な事例研究を踏まえた何かしらの考察が欲しかった。第6章,第7章は広島市の事例に移る。広島市全体が太田川の扇状地だが,海に流れ出す河川流を人工的に処理すべき戦前から国の直轄事業として放水路の事業が始まる。しかし,周知のごとく広島は爆心地であり,事業の中断と,不法居住者の増大が生じた。本書の終盤ではその経緯と最終的にかれらが立ち退かされる過程を詳細に描いている。正直,これまでの読書はもどかしい気持ちにさせられてきた。史料に基づく誠実な分析であることが本書の特徴でもあるが,確実に書けないことは書けないという態度でもあるので,本書のタイトル「空間のいきる」という不法住宅に住む人のなまの生活がありありと描かれるわけではないのだ。もちろん,そういう人たちが積極的に記録を残すわけではなく,また行政側も撤去のために調査をする必要はあっても,それを積極的に保管するわけでもない。だから,復元するのは難しいことは分かる。第7章では,行政側の不良住宅地区の移転という政策に対して,そこに住む住民のために交渉を行った活動家たちの姿が丁寧に描かれている。残念ながら,住民の姿は最後まで断片的な写真でしか見ることはできないが,この読書は,戦後日本の都市を必死に生き抜いた人たちの姿に少なくとも地理空間というスケールで思いを馳せることができる経験だったと思う。
本書は「序論」の最後にドリーン・マッシーの『空間のために』における空間論を踏まえての考察とされているが,ここはちょっと気になる。マッシーはこの著作以前に「場所は静的で固定的なものではない」という場所論を展開していたが,『空間のために』はさらにそれを超えていく著作だと私は理解しているからだ。確かに,本書は場所論ではなく,空間論を軸にしていて,そういう意味では『空間のために』を踏まえるの正しいと思うが,もう少し丁寧な考察が必要だと思うし,序論で述べるだけでなく,結論でどのように「踏まえた」のかを最後に記してほしい。また,ド・セルトーの「戦略と戦術」を本書の後半で利用しているが,これに関しても文献にあるように,森 正人氏の議論の受け売り感が否めない。今更この形骸化した議論を繰り返すのではなく,原著に立ち戻った深い議論を展開して欲しかった。とはいえ,本書を読んで,学術書であろうとも著者の人柄がこんなにも溢れるものであるのだと強く感じた。

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ふたつのオリンピック

ホワイティング, R.著,玉木正之訳(2018):『ふたつのオリンピック――東京1964/2020』角川書店,590p.2,400円.

 

基本的に,学術書以外のオリンピック本にはあまり手を付けないつもりでいたが,本書は何となく,装丁も含め読んでおきたいと思った次第。ちなみに,私は本書をノンフィクション的小説だと思っていたが違かった。著者は実は日本で有名なジャーナリストであり,『菊とバット』など野球に関する著書をはじめ,たくさんの著書が翻訳されている人物であった。

第一章 オリンピック前の東京で
第二章 米軍時代
第三章 1964年東京オリンピック
第四章 駒込
第五章 日本の野球
第六章 住吉会
第七章 ニューヨークから東京へ
第八章 東京のメディア
第九章 バブル時代の東京
第十章 東京ワンダーランド
第十一章 MLBジャパン時代
第十二章 豊洲と2020年東京オリンピック
エピローグ

ということで,冒頭は1964年東京オリンピックが開催される前の東京の風景の描写で始まる。本書は1964年東京オリンピック前に来日し,多くの人生を日本で過ごし,2020年東京オリンピックを迎えることになった著者の自伝的な作品である。米国カリフォルニア州のユーレカという田舎町の出身だという著者は,家族から離れたい一心で,米空軍に入隊し,19621月に東京に来たという。京王線東府中駅が最寄りの府中空軍基地(今は航空自衛隊基地)の配属になり,太平洋軍電子諜報センターが著者の勤務先だった。
本書をオリンピックという観点から読んでも,1964年大会について,もちろん準備期間の街の様子についての市民目線も知れるし,また大会当時の日本人および外国人の反応の一部も知ることができる。しかし,どうしてもこのページ数でオリンピックに関連する記述は限られており,またヤクザやマスコミに深く関わることになる著者の半生に驚くことが本書の読書の大半を占める。まずは,米軍の兵士として働く傍ら,日本での英会話教師として働いた張本人の声を知ることができる。日本で英会話が流行した時代,英語が話せれば教養がなくても就職できるという,当時は外国人といえば欧米中心だったので,外国人にとっての安易な就職先だったという話は聞いたことがあったが,当事者の語りを読むと説得的だ。著者は外国人として一方ではちやほやされ,もう一方では排斥されるという立場を長期間経験しており,それがジャーナリストを志すきっかけとなり,また彼の作品の主要なテーマでもあった。
4章のタイトル「駒込」は著者が米軍を除隊し,はじめて暮らした町。著者は英会話の教師として生計を立てながら上智大学に学生として通っていた。日本の英会話教室での雇用の話も面白いが,行き当たりばったりでさまざまな人の個人的な英会話教師をしてきた話はとても面白い。1960年代の後半は,エンサイクロペディア・ブリタニカ・ジャパンでサラリーマンとして働いた。この頃は東中野に住んでいたという。この頃のことが書いてあるのは「住吉会」と題された第六章。そう,この頃にヤクザと関係があった。一人のヤクザに気に入られて,いろんな経験をしたようだ。この経験に基づく,著者の日本政治論が面白い。ヤクザは基本的に右派で,自民党が好きだという。自民党は自民党でさまざまな場面でヤクザを利用し,公共事業のための用地取得に伴う立ち退きとか,場合によっては肉体労働者としてヤクザを動員するとか,そんな結びつきがあるという。ヤクザと付き合いがあり,会社の付き合いでは毎日のような酒浸り,そんな自堕落的な日々は急転する。アメリカ人の友人から著者の日本野球談議を本にしろと急き立てられ,まんまとその話に乗ってしまう。日本でしこたま稼いだ貯金で1冊の本を書くにはかなりの労力の入れ方だが,なんとか『菊とバット』という彼の処女作が19776月に出版される(原著は英語)。もちろんそれは,ルース・ベネディクトの『菊と刀』からタイトルを借りている。ここからの記述は打って変わってジャーナリストである。ヤクザとの接点はその後も続くが,あくまでも取材対象としての付き合いのようだ。ジャーナリストになってからは,出版社や球団などとのいざこざが中心に語られる。彼の書く文章がなにかと問題を起こすのだという。
著者は日本人と結婚もするが,奥さんは国連の難民高等弁務官事務所の勤務ということで,世界中をあちこち移住する。著者は東京やニューヨークを拠点に調査・執筆活動を行い,執筆に集中するときは世界一周の航空券を購入し,妻の元を訪れるのだという。どういうチケットかは分からないが,かなり自由がきいて,格安だという。そんなこんなで,著者は日本でバブル経済期も経験し,その崩壊についても詳述している。当然,日本に在住しながらもアメリカ人との交流もあるから,単純に「バブル崩壊」といっても,その状況は人によって違うという。著者は日本野球についての本から,プロレス関係,日本のヤクザ地下世界の本まで書くが,野茂英雄の登場以降,また野球に戻り,当初から日米の野球の違いについて書いていたわけだが,日本の球界自体が変容する時代もどっぷり目撃し,イチロー本も書いている。東日本大震災についても,日本全体の捉え方,東京での捉え方,そして外国人の捉え方をかなり細かく描いている。ようやく最後に2020年東京オリンピックの話になるが,石原慎太郎の話が細かくなされているものの,今年で77歳になる著者だから,かなり回想的にこのオリンピック準備を眺めているようにも思える。

 

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オリンピックのすべて

パリ―, J.・ギルギノフ, V.著,桝本直文訳・著(2008):『オリンピックのすべて――古代の理念から現代の諸問題まで』大修館書店,399p.2,500円.

 

本書も先日紹介した『オリンピック教育』とともに、最近存在を知った訳本。日本のオリンピック研究者としては有名な桝本直文が訳している。そして、ただ訳しているだけではなく、日本の状況である第4章と、自らの専門である映画に関する第13章を書き足しているのだ。「訳著者あとがき」には「原著の章と差し替えてある」(p.387)と書かれているが、原著からどの章が除かれることになったかは書かれていない。

序章
1章 オリンピズムという理念
2章 古代のオリンピック
3章 近代オリンピック競技大会の復興
4章 日本のオリンピック・ムーブメント(桝本直文)
5章 オリンピックとメディア
6章 オリンピック・マーケティング
7章 オリンピック大会の経済的・環境的インパクト
8章 オリンピック大会の開催
9章 オリンピック大会の政治学
10章 スポーツの倫理とオリンピズム
11章 薬物とオリンピック
12章 スポーツ、芸術、オリンピック
13章 オリンピックと映画(桝本直文)
14章 パラリンピック
15章 オリンピック教育――オリンピックの祝福

本書はこれまで私が読んだなかでなかった内容がいくつか含まれている。まずは、古代オリンピックについて。オリンピアの遺跡は、1766年に英国人が発見し、1829年にフランスの考古学者たちが訪れたとされ、本格的に発掘調査が始まったのは1875年だという。その調査に基づき、紀元前に行われていた古代オリンピックの内容が解説されている。私的には特に興味はないが。
4章は訳者の桝本氏による日本の事情についての説明だが,自らが関わっている日本オリンピック・アカデミーでの仕事を活かしたような内容であり,あまりアカデミックな文献は参照されておらず,詳しいのはオリンピック教育について。前半は圧倒的にオリンピック推進派の著書だと思っていたが,オリンピックがもたらす負の側面にもしっかり向き合っています。第58章の経済的側面や,第9章の政治的側面はそこそこ有体の記述ですが,第10章はこれまで読んできたものよりもかなり突っ込んでドーピングなどに関連した話が論じられています。この章を読むと,冒頭でオリンピズムに関して詳しく解説していた意味が分かります。まず,第10章では暴力について,スポーツに必然的につきまとう攻撃性と暴力との関係が論じられます。第11章では薬物について,基本的な薬物反対派の意見を挙げながら,それらがいかに根拠がないかを論証しています。とはいえ,決定的な批判意見は出しておらず,暗に「ルールはルール」というIOCの立場を意味のないものとしています。第12章の文化・芸術へのこだわりもやはりクーベルタンの理想を汲んでのものですが,かといってクーベルタンの思想を理想化しているわけではありません。この章に乗じて桝本氏は第13章を加筆し,全大会の記録映画について論じています。これはありがたい。特に,多くのオリンピック公式記録映画を手掛けていながら日本ではあまり知られていないバド・グリーンスパン監督の作品を詳しく紹介しているのはありがたいです。オリンピック研究は非常に蓄積があり,パラリンピックまで含めてしまうと収拾がつかないので,あまり読んでいませんが,本書では分量的に多くはないものの,丁寧に記述されており,その本質を理解するのに役立ちます。著者の2人はこれまで知りませんでしたが,最近読んだ英語論文の中で本書が引用されていて,そこそこ読まれている本なんだなと確認しました。

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オリンピック教育

ナウル, R.著,筑波大学オリンピック教育プラットフォーム・つくば国際スポーツアカデミー監訳(2016):『オリンピック教育』大修館書店,285p.,円.Naul, R. (2008): Olympic Education. Aachen: Meyer & Meyer Verlag und Buchhandel GmbH.

 

読んでも読んでも出てくるオリンピック文献。筑波大学は体育系というのを東京師範学校の時代から持っていて、現在でもオリンピック研究者を輩出している。実際に2010年から監訳者となっている組織が付属学校でのオリンピック教育の実践を行っているとのこと。そんなことでドイツの研究者による英語の研究書が翻訳されていた。オリンピック教育はけっこう重要だが、地理学的観点からはちょっと遠いのでどこまで首を突っ込むか悩んでいたが、英語論文をあまりフォローしていないこともあり、日本語になっているものは読むことにした。

序論
I部 オリンピック競技大会-オリンピック教育-オリンピック教育学
 第1章 オリンピックとオリンピック教育
 第2章 オリンピック教育とオリンピック教育学
 第3章 国際オリンピック委員会によるオリンピック教育推進のための5つの段階
II部 オリンピック教育の歴史
 第4章 オリンピック教育の父と祖父――19世紀
 第5章 オリンピック教育の父と子たち――20世紀
III部 オリンピック教育の推進
 第6章 国際オリンピック委員会
 第7章 国際オリンピック・アカデミー
 第8章 国内オリンピック・アカデミー
 第9章 高等教育委機関とオリンピック研究センター
IV部 オリンピック教育の教育学的概念と教授法
 第10章 各国の体育カリキュラム
 第11章 オリンピック教育の教育学的概念
 第12章 オリンピック教育を行うための教授学的アプローチ
V部 オリンピック教育の評価研究
 第13章 オリンピック教育と教師・生徒のオリンピックに関する知識の評価
 第14章 オリンピックの理念とスポーツ活動での達成動機の評価
 第15章 オリンピック教育の普及プログラムと教授法の評価
結論

II部で分かるように、オリンピック教育とはクーベルタンが発案したオリンピズム(オリンピック理念)と深く関係しており、文化プログラムと同様に、スポーツ競技大会の付属物ではない。むしろ、クーベルタンはスポーツ競技を手段として、目的は教育的な側面にあった、ということは事前に知っていた。本書の前半では、そのことの詳細を知ることができる。まず、そういう訳で、クーベルタン自身は「オリンピック教育」という言葉はほとんど使わなかったという。むしろ、教育(education)ではなく、教育学(pedagogy)という語は使われていたようだ。第II部ではその歴史として、クーベルタンが英国のパブリックスクール、特にアーノルドの教育に影響を受けていたというのは、本書でも言及されているマカルーンの『オリンピックと近代』に詳細が書かれているし、有名な話である。本書では、それをさらに深堀し、またドイツの研究者であるという利点を活かし、ドイツのグーツムーツという人物が18世紀末に発表していた考え方にさかのぼることができるという。とはいえ、本書の探求はその起源探しではない。アーノルド流のスポーツを使った教育法というのは英国の独占物でもなければ、19世紀の発明品でもないということが示されている。そして、第5章では、クーベルタン以降の人たちが、その考えを現代に伝えている様子が、またドイツも含め辿られる。
III部では、オリンピック教育に関わる組織に関する説明となっている。本書の冒頭では、一般の人々にはあまりなじみのない「オリンピック教育」という言葉が、招致をめぐる賄賂やドーピング問題などと関連付けられる悪いイメージがあると書かれている。ということもあり、関連する組織としてアンチ・ドーピング機構(WADA)が挙げられ、その他にオリンピック・ミュージアムと重要なのが、国際オリンピック・アカデミー(IOA)である。この組織も歴史的には前身となる組織がいろいろあるが、この組織は1961年の開設とされている。その役割は、オリンピック研究や教育の国際センター、国際フォーラムの場、各国のオリンピック・アカデミー(NOA)との協力、などとされる。ということで、第8章は各国のオリンピック・アカデミーが説明される。1978年に設立された日本オリンピック・アカデミーは初期の設立である。日本については、開設後あまり活動が活発でなかったが、1998年の長野冬季大会以降、活動が活発になり、特に「一校一国」運動が有名になった。NOAはアジア、アフリカにも存在する。第9章では、オリンピックに関する学術研究を行う大学のオリンピック研究センターが示される。日本では筑波大学と高知大学が挙げられている。高知大学は知らなかった。前田という名の研究者がいることになっているが、特定できず。主要な研究者の名前が掲載されているが、私が読んできたオリンピック研究者の名はない。各大学のオリンピック研究センターが発行している雑誌などの情報も得られなかった。
IV部では、各国での体育カリキュラムが議論され、それとオリンピック教育との関連が論じられる。オリンピックの理念は全人教育であり、本書の言葉を用いれば、オリンピック教育とは人生哲学である。ということで、突き詰めればオリンピック教育は学校における体育という教科に限定されるものではないが、実際には限定されるのは仕方がない。p.193には興味深い表が掲載されている。オリンピズムに関わる教科領域には、スポーツでの努力、社会的行動、道徳的行動、オリンピックの知識という4つの領域があり、それぞれについて、性質・行為・態度という項目に対して、規範と価値観が示されている。オリンピック教育は体育・スポーツ教育とも関連し、やはり体を動かすこと、ゲームのルールを学ぶことを通して、規範を身につける。それを社会的行動や道徳的行動につなげる。オリンピック教育=スポーツ教育ではないから、オリンピックに関しては、クーベルタンに関すること、オリンピック憲章に関すること、また過去の大会に関することや開催都市に関することを知識として学ぶことも要求される。第V部は資料として興味深い。オリンピック教育を実施しているヨーロッパでは各国で、日本では中学生にあたる年齢の男女に対して、オリンピックの基礎的な知識に関するアンケートを実施している。その国別差異や、年齢、性別の差異について結果が報告されている。他にも、好きなオリンピアンや嫌いな選手、オリンピック・チャンピオンになりたいかなど、面白い質問がある。どうやら日本でも、岡出(おそらく岡出美則という研究者)という研究者が国際的なシンポジウムで長野でのアンケート結果を報告しているようだが、日本での報告は見つからない。
ともかく、本書を通じてオリンピック教育に関する幅広い知識を得ることができる。しかし、Lenskyjのような批判的な議論は全く参照されておらず、また体育・スポーツ、とにかく体を動かすことに抵抗がある人、また身体的な問題から体育・スポーツに関われない人、そういう人はあらかじめ除外されていることは否めない。

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〈東京オリンピック〉の誕生

浜田幸絵(2018):『〈東京オリンピック〉の誕生――1940年から2020年へ』吉川弘文堂,281p.3,800円.

 

オリンピック関係の文献を探しているときに突如見つかった著者の論文群。しかも、その一本は私が非常勤講師をしている東京経済大学の紀要『コミュニケーション科学』に2010年に掲載されたものだった。どうやら、東経大の博士課程を修了しており、現在は島根大学法文学部に勤めている。彼女の博士論文はミネルヴァ書房から2016年に『日本におけるメディア・オリンピックの誕生:ロサンゼルス・ベルリン・東京』として刊行されている。ただ、彼女の研究はグローバルな視点を有しているが、あくまでも歴史的研究であり、論文は読んだが、この高価な著書はまだ読んでいない。一方、本書は一般の書店でも売っていて、発売当初に中身をみていた。こちらも歴史的研究がメインながらも、やはり2020年大会をにらんでいることが分かったので、読むことにした。本書に著者略歴が書かれており、学部は成城大学を出ており、修士で英国のラフバラ大学に行っているということが分かり、なんとなく納得。失礼な言い方だが、東京経済大学だけでここまでの研究者が育つとは思えない(優秀な研究者はとても多いのですが)。

プロローグ――三つの東京オリンピック
1章 オリンピック招致運動前史――西洋のスポーツ・イベントと日本
2章 「東洋」初のオリンピック開催へ
3章 〈東京オリンピック〉の残像
4章 戦後の国際社会への復帰とスポーツ
5章 〈幻の東京オリンピック〉の実現――「世界の祭典」を開く日本
エピローグ――1964年から2020年へ

実は、本書を読み始めて納得したことがある。何度も書いているが、私は今国内外のオリンピック研究を読み漁っているが、きりがないので、2000年以降に限定して読んでいる。1964年東京大会にまで手を広げると収拾がつかなくなると思ったからだ。しかし、研究というのは継続的に行われるもので、ある時点の研究は過去の研究を参照する。そういう意味でも、過去の重要な研究があればその存在に否が応でも気づかざるを得ないはずだ。しかし、1964年大会後に記された目立った研究にはあまり見当たらない。本書によれば、1964年東京大会に関しては、各論的なものはあるものの、総論的な研究はさほど多くないのだという。そして、1940年の幻の東京大会を含めて、複数の東京でのオリンピックを検討する作業は実はあまり踏み込んでなされていないという。本書はそれをメディア研究の観点から行おうとするものである。
プロローグでは,近年の日本語で読めるオリンピック研究を概観し,国際化とグローバル化について議論している。著者によるオリンピック研究の面白いところは,常に日本のオリンピックとの関りを題材にしながらもそれをしっかりグローバル化の視点でとらえていること。地理学者はそこにこだわってしまうが,彼女は必然的にそこに目が行くというところは,地理学が学ぶことは大きい。第1章は1908年ロンドン大会に初めて日本人記者や文化人が参加し,新聞を通してそれを日本に報道したところから,2012年ストックホルム大会に選手が参加し,1940年大会に東京が立候補するまでの経緯を,歴史的資料を丹念にたどることで明らかにしている。とはいえ,日本は19世紀末にもオリンピックを新聞記事にしたことがあるという事実もしっかり示されている。また,論文ではなかなか紙面を示すことは難しいが,本書は要所で紙面の画像が掲載されていて,当時の雰囲気を知ることができるのも嬉しい。日本人がそもそもオリンピックが何なのかを理解することは容易ではないことが丹念に示される。こういうところはメディア研究の強みだ。本書は単なるメディアの調査だけではなく,それ以外の歴史資料もしっかりと押さえていることに特徴がある。帯に「「国際」と「グローバル」をキーワードに,連続性を読み解く。」とあるように,オリンピックが国内で完結するイベントではもちろんなく,だからこそ国外に向けられた目,国外から向けられた目を常に意識して,常に意識していたことが分析されている。そして,帯の「連続性」というのは冒頭にも書いたように,返上した1940年大会と1964年大会だが,第2章で1940年大会の返上までが整理され,第3章は返上後の動向,第4章は戦後の状況と1964年招致までが整理される。1940年大会の返上後,日本各地で聖火リレーをまねたイベントが行われたことは既に著者の雑誌掲載論文で読んでいたが,それ以外にも国際学童オリンピックなど,国内でも体育大会が盛んになった。また,1936年ベルリン大会の記録映画の日本での上映について語られたり,歴史資料の調査を楽しんでいる著者の様子が伝わるような記述が続き,読者までもがこの時代の疑似体験をしているようだ。戦後についても,さまざまなオリンピック読本や教科書に記載されるオリンピックなど出版物におけるオリンピックが整理される。1964年大会の聖火リレーについてはいくつか研究があり,そこそこ知っていたが,本書には当時作成されていた聖火リレーコースの地図が掲載されたりして,より現実味を持って理解できる。1964年大会時もやはり小中学生向けの教材など,かなり多くの出版物を通してオリンピックが宣伝されていることが分かる。テレビ中継については,著者の別の論文でも別の大会についても詳しく論じられているが,本大会に向けてCMがどうだったとか,現在のように事前の特集番組がどうだったのか,その辺も知りたかった。大会が始まると,こぞって小説家をはじめとする文化人が開会式をはじめとする大会評を新聞を中心に発表していたことがこの時代の特徴でもある。それはもちろん,肯定的なものだけではなく,否定的なものもあった。特に,アジアで開催された初のオリンピック大会であったのに,アジアからの参加国が少なかったという点を指摘する意見は少なくなかったようだ。それはもちろん,戦争の影響によるところが大きい。オリンピックに合わせて数多く制作された音楽作品についても語られる。これは現代も一緒ですね。しかも,1940年大会と1964年大会の大きな違いは戦中と戦後であるにもかかわらず,1940年大会のために制作された,戦時中を強く意識した楽曲が何の反省もなく蘇るなど,いかにも日本らしい。1964年大会でも芸術展示が行われた。
結局,2020年大会についての議論はエピローグまで持ち越されるが,思いのほか著者が熱く語っていることに驚く。最後の言葉を引用しておこう。「2020年東京オリンピックを経て,日本社会とその首都東京,そして19世紀末に人類が編み出したスポーツ・イベントは,一体どこへ向かうのだろうか。」(p.260

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転換点にたつオリンピック

新都政をつくる会編(2014):『意義あり!2020東京オリンピック・パラリンピック 転換点にたつオリンピック』かもがわ出版.

 

本書は編者である団体の機関誌に、20141月から8月にかけて掲載された「2020年東京オリンピックを考える」という連載をベースにして作成されたものである。2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の開催が東京に決定したのは20139月だから、かなり早い段階で、さまざまな異議を申し立てる団体がいたことに驚かされる。本書においてはまず、招致段階での開催計画を検討し、それがいかにIOCの「アジェンダ21」に反しているかを告発する。さまざまなオリンピック批判の論調としては、IOCが各国のオリンピック委員会、ないしは組織委員会に求める要件が厳しいことから、IOCにも批判の矛先を向けるが、本書の論調はそうではない。「アジェンダ21」をまずは肯定した上で、東京大会の開催計画がいかにひどいかを訴えるのだ。
湾岸地区は特に「世界都市博覧会」の開催予定時期を頂点としたバブル期に投資・開発されたが、その後日本経済の失速により負の遺産となったもので、今回のオリンピックでようやくそこに再投資できるという目論みを指摘しているところは、これまでもあった議論である。その上で、本書では湾岸地区は災害時に液状化や津波の危険があり、もしその対策をするとすればさらに高額な公的資金が投入される、という認識の下、1964年のレガシーである駒沢競技場をなぜ活用しないか、にこだわっている。開催計画では、選手村から半径8kmに収まるコンパクト大会を謳っているが、その中途半端な8kmという距離は、単に国立競技場を含む距離であるという。駒沢まで含めれば10kmでいいのに、国立競技場は含めるが、駒沢は含めないという論理で8kmが決まったと推測している。なぜ、10kmの駒沢を差し置いて、それより遠方の調布(武蔵の森総合スポーツプラザ)に新設するのか。
本書で初めて知って驚いた事実は、国立競技場に関するものである。オリンピック開催が決定する前に、ラグビーワールドカップの開催が決まっており、その時点で国立競技場を立て替える計画になったということはしっていたが、ラグビーワールドカップの開催が決定する前の2011年段階に、解体された国立競技場の改修計画がされていたということである。しかも、ネット時代の怖いところで、久米設計が行ったという改修計画の報告書抜粋版がネットで公開されているのだ。
https://architecturephoto.net/33850/
それはともかく、2014年初めの時点で、開催計画は大きく見直され、その計画変更に市民団体の訴えが効いているという。当初、葛西臨海公園内に計画されていたカヌー会場は、日本野鳥の会の訴えによって隣接する駐車場内に建設されることになった。以下の目次でも示されているが,この本でもロンドン大会を手本にするようなところもある。ロンドン大会への批判までは至っていないことは確認できる。また,〈データ編〉にある札幌市の住民アンケートの資料が非常に興味深い。これは今進んでいる冬季大会の招致の話ではなく2020年夏季大会に対する招致に関するものである。こんなことをやっていたのに,冬季大会は招致に向けて進んでいるように思えるのはどういうことなのだろうか。ともかく,いろいろ勉強になる本でした。

はじめに
Part1
 民意なき立候補
 異議続出の開催計画
 計画から外された駒沢競技場
 アベノミクス゛第4の矢”
 偽装されたコンパクト
 施設見直しを実現した都民の力
 曲がり角に立つオリンピック
 東日本大震災から3年置き去りにされる被災地
Part2
 酷暑の中のオリンピック
 東京大改造計画で東京は
 はじまった施設見直し
 ロンドン大会に学ぶこと
 オリンピックの改革
(各界からの提言)
  2020オリンピック・パラリンピックを考える都民の会
  日本野鳥の会東京
  新建築家技術者集団東京支部
  神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会
〈データ編〉
 2020オリンピック・パラリンピックを考える都民の会 施設見直し提案
 オリンピック憲章とアジェンダ21(抜萃)
 招致活動の経緯
 都議会オリンピック推進対策特別委員会資料
 札幌市広報招致アンケート
 新国立競技場関連

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親子で読む!東京オリンピック!ただし、アンチ

自由すぽーつ研究所編(2018):『親子で読む!東京オリンピック!ただし、アンチ』ジャパンマシニスト社,200p.1,800円.

 

本書はれっきとした単行本ですが、一応雑誌ということになっています。編者は先日紹介した影山 健さんの著作を編集した自由すぽーつ研究所の3人。団体名にはスポーツを謳っていますが、愛知教区大学での影山氏の教え子ということで、教育者であります。本書は「おそい・はやい・ひくい・たかい」という雑誌名の103号ということになっています。
https://japama.jp/oha_ichiran/
本書も単なるアンチオリンピック本ではなく、アンチの精神を子どもに教えるというコンセプトで書かれていて、他の号も子育て、学校、発達障害などのテーマが並びます。ちなみに、私は今、息子の通う小学校でPTAの役員をしています。このPTAでは、広報の第1号が役員紹介と教員紹介に充てられています。毎年テーマを決めて、プロフィール代わりに一言を入れていますが、今年度は「オリンピックに出場するとしたらどんな競技がいい?」という質問だった。私は迷わず「反オリンピック運動」と書いた。これが広報委員の中で物議をかもしたようで、会長経由で修正を要求された。子どもの夢を壊すから、みたいな言い方で諭されたのだ。まさにこれが影山氏のいう「オリンピックのイデオロギー」であり、本書もこうした世論に真っ向から対立するために執筆・出版されている。詳細目次を示したように、基本的には子どもの立場では思いつかないだろうが、子ども目線の素朴な質問に、編者たちが応えていくというスタイルをとっている。質問(Q)に対する答え(A)として、見開き2ページで簡潔な文章があり、ページをめくると「もっとくわしく知りたい人へ!」と題して4ページ程度の説明が続く。

はじめに 一度立ちどまって、冷静に見つめ直すために(岡崎 勝)
1
時間め 「オリンピック」ってなんだろう?
 Q1 オリンピックって、いつから始まったの?(山本芳幹)
 Q2 どうして最初、女性は出られなかったの?(岡崎 勝)
 Q3 オリンピックの選手って、どうやって決めるの?(岡崎 勝)
 Q4 オリンピックをやると、お金が儲かるの?(土井俊介)
 Q5 オリンピックは「平和の祭典」だって……ほんと?(土井俊介)
 Q6 ほんとうに「参加することに意義がある」の?(山本芳幹)
 Q7 ドーピングは、どうしてなくならないの?(岡崎 勝)
 Q8 オリンピックの種目は、どうやって決めるの?(山本芳幹)
 コラム① オリンピックに反対しづらい理由(岡崎 勝)
2
時間め どうなる? 「東京オリンピック」
 Q9 二〇二〇年のオリンピックは、どうして東京に決まったの?(土井俊介)
 Q10 東京オリンピックで、景気はよくなる?(山本芳幹)
 Q11 東京オリンピックが、学校生活にあたえる影響は?(岡崎 勝)
 Q12 ボランティアを募集しているけど、やったほうがいいの?(土井俊介)
 Q13 「おもてなし」って、なんだろう?(山本芳幹)
 コラム② 東京オリンピック、最大の問題は「予算超過」(土井俊介)
3
時間め 「スポーツ」に必要なことって?
 Q14 スポーツブランドが、かっこよく見えるのはなぜ?(岡崎 勝)
 Q15 スポーツは、小さいころからやっていたほうが有利?(岡崎 勝)
 Q16 勝つためなら、ちょっとくらい反則もOK?(岡崎 勝)
 Q17 やっぱり、スポーツは「結果」を出さないとダメ?(岡崎 勝)
 Q18 スポーツには「根性」が必要?(土井俊介)
 Q19 スポーツ選手がテレビCMにたくさん出ているのは、どうして?(山本芳幹)
 Q20 スポーツをすれば、健康になるの?(土井俊介)
 コラム③ 時代とともに変わってきた「スポーツ」(山本芳幹)
4
時間め 「障害」と「スポーツ」を考えよう
 障害者とトップアスリートに共通する生きづらさ−レクリエーションスポーツの可能性(熊谷晋一郎:小児科医)
 学校生活とパラリンピックに見る「平等」「公正」って?(山田 真:小児科医×岡崎 勝)
参考文献

例えば、これを私の息子(小学3年生)と一緒に読んだら、彼は理解してくれるのだろうか?実際にやって見なくては何とも言えないが、なんとなく完全には理解してくれないように思う。巻末の参考文献には、1972年から最新のものまで、一部関連書籍もあるが、オリンピックに関する日本語で出版された書籍が50以上も挙げられている。そのうち私が読んだのは8冊にすぎない。本書は学術書ではないし、これら参考文献の全てが学術書なわけではない。しかし、教育的言説の基本として、本書は一つ一つの事実に対し、その根拠となる文献を明示しているわけではなく、そして断定的な書き方をしている。本書の主張に私はほとんど賛同するが、この点のみは躊躇せざるを得ない。どうしても教育者の語り口として、断定的に子どもたちに教え込むという印象を感じてしまう。おそらく著者たちは教育現場ではそういう教師の立場性を軽減するような実践をしているのだと思うが、オリンピックというテーマに関しては、研究者ですら断定的に物事を語ることが難しい複雑さがあるなかで、仕方がないのだと思う。しかし、やはりこれまでの教育分野での実践を本書にも活かし、子どもとともに考えるオリンピックという立場を反映してもよかったのだと思う。

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批判的スポーツ社会学の論理

影山 健著,自由すぽーつ研究所編(2017):『批判的スポーツ社会学の論理――その神話と犯罪性をつく』ゆいぽおと,214p.2,000円.

 

本書は影山 健氏の遺稿を含め、いくつかの文章をその教え子たちが編集したものである。影山 健(1930-2016)は、1988年夏季オリンピックに名古屋が立候補していた時に反対運動をしていた学者であり、体育学や教育学を専門としていた。1981年に出版された『反オリンピック宣言』の第一編者であり、編者には本書の編集に携わった岡崎氏が名を連ねている。本書に書かれた経歴を見ると、東京教育大学(現:筑波大学)の体育学部を卒業し、東京大学大学院の教育学で修士号を取得している。終了後は文部省の事務官を務めた後、名古屋大学、東京都立大学、愛知教育大学で教鞭をとっている。本書は以下目次に発表年あるいは執筆年を記したが,1980年代の文章に加え,2020年東京オリンピック招致中の2013年に書かれた文章を収録している。前半はオリンピック批判だが,後半は著者なりの批判の根拠となる,体育・スポーツ批判で構成されている。

はじめに(岡崎 勝)
I
 オリンピックそのものを問う
 第一章 東京オリンピック招致をめぐる問題点について(20135月)
 第二章 日本の社会とオリンピック(19848月『体育の科学』)
 第三章 「オリンピック」に反対する名古屋市民の論理と行動(19819月『朝日ジャーナル』)
 〈補録〉反オリンピックをテーマとした研究と実践の記録――『アンチオリンピックス』創刊号より
 ■オリンピックをぶっ飛ばせ!工作者影山健教授の歴史的軌跡(土井俊介)
II
 批判的スポーツ社会学の論理
 第四章 スポーツに未来はあるか(19832月『体育科教育』)
 第五章 チャンピオンシップスポーツと学校体育(19811月『学校体育』)
 第六章 協働的ゲームについて――ある実験結果の紹介(19857月『月刊高校生』)
 ■研究があり、実践がある。その高いレベルでの両立をいまこそ学ぶべき(山本芳幹)
III
 体育を根本から問う
 第七章 いまこそ、批判的体育学を!(1989年「批判的体育・スポーツフォーラム」原稿)
 ■影山体育学の核心とは何か(岡崎 勝)
◇書籍解説(土井俊介)
おわりに(山本芳幹)

1980年代前半の体育の状況といえば,ちょうど私がスポーツに打ち込んでいた時期に重なる。私は小学3年生から少年野球をはじめた。8歳の頃だから1978年だ。中学校3年間も野球部に所属していたので,15歳になるまで,1985年までやっていたことになる。まさにこの頃は,体罰あたり前,水分を取るのは休憩時間だけ,先輩・後輩の上下関係という風潮がスポーツを支えていた。学校でも悪いことをした反省には廊下に正座など,そういう指導がまかり通っていた。私の父親はテニスをしていたが,スポーツ全般をテレビで観戦するのが好きで,野球は子どもがやっていたので当然のこと,テニスや趣味でたまにやっていたゴルフ(わが家は階級的にはそういう部類ではないのですが),マラソン・駅伝や相撲もよく観ていました。サッカーはまだ主流ではありませんでしたが,バレーボールなども含め,テレビで放映されるスポーツなら大抵見ていた記憶があります(スポーツに限らず,将棋や囲碁も)。私が小学生の頃はまだナイキは主流ではありませんでしたが,アディダスやプーマといったスポーツウェアが流行りだして,スポーツをやる子でなくても,ジャージを競って購入して着ていたものです。1930年生まれの著者にとって,1970年代後半からは競技スポーツがメディアを通して社会に浸透し,商業化された競技によって海外のスポーツメーカーの商品が日本に氾濫するのを目の当たりにして,ある種の危機感を抱いたのかもしれません。
そして,著者は単に学術的な立場を極めるだけではなく,自分が対象とする「体育・スポーツ」というものが広く子どもたちに関わるものであるがゆえに,大学を飛び出し,教育の現場に関わり,さらには市民団体に参画しながら,一定の論理を持って批判的な立場を貫いたといえそうです。第三章の〈補録〉によれば,彼を中心に日本でも『アンチオリンピックス』なる雑誌が発行されていたようで,これは探してみる必要がありそうです。彼は愛知教育大学に属し,愛知県で長らく活動をしていて,愛知万博などにも関わっていたようです。そんな活動がありながら,東京の招致活動に対して,私自身も含めて人々は何をしていたのだろうか。開催側も過去の調査・研究,活動から何も学んでいませんが,市民側も一部の人を除いて過去の遺産が継承されていなかったのでしょうか。私が関心を持って知ることが遅すぎたようです。そんなことを痛感させてくれる本でした。

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2020年東京オリンピックの研究

中村祐司(2018):『2020年東京オリンピックの研究―メガ・スポーツイベントの虚と実―』成文堂,177p.3,800円.

 

著者の論文はいくつか読んでいたが、非常勤先の大学図書館でそれらをまとめたものが著作化していることを知り、入手して読むことにした。装丁が非常に地味でアカデミック色が強いと思いきや、読み始めるとそうではないことに気づく。まあ、ともかく政治学専攻の著者による、観点としては他の文献とは異なるので、読み進めることにしよう。

1章 2020年東京五輪招致とスポーツ・ガバナンスの変容
2章 復興五輪事業をめぐるスポーツ行政の役割
3章 東京五輪とスポーツグローバル公共圏の形成
4章 東京五輪と日中韓スポーツ・ガバナンスの特質
5章 スポーツ・ガバナンスの新展開――スポーツ庁の設置と東京五輪
6章 新国立競技場建設における意思決定の歪み
7章 東京五輪施設のコスト分担をめぐる摩擦と調整
8章 五輪研究における知見と事例の接合
9章 東京五輪の説明責任――批判とコスト負担のあり方
10章 国家による東京五輪の管理と統制

著者の専門は政治学で、第1章でも私が読んだ2018年の論文でも「ガバナンス」という言葉が強調されている。第1章ではガバナンスを「組織統治」とし、オリンピックに関連するものを、日常的なスポーツ・ガバナンスとは一定の関係にありながら、かなり特殊な状況における非日常的なスポーツ・ガバナンスとしている。オリンピック・パラリンピック競技大会の開催にあたっては、さまざまな組織が関わっており、その理解は欠かせない。そういう意味でも、本書から学ぶことは多い。そして、営利団体ではないそうした組織は政府から独立しているものの、公的資金によって成立している。そうした資金の流れも把握したい。第1章は序章的なもので、全体を概観している。第2章はオリンピックそのものとは直接関係しないと思われるが、東日本大震災後の復興事業にスポーツが関連するものを列記している。第3章はアレント=ハーバーマス的な概念(とはいえ、引用は全くなし)「公共圏」を使って、オリンピックのようなスポーツイベントは特定の人々を対象にしたものだが、公的資金が投入されると同時に、スポーツ施設だけではなく、それに関連するインフラ整備がハード面・ソフト面においてなされるため、公共的な意味合いが強いと主張する。この章は後の章の各論に対する総論的な意味合いがある。第4章は今となっては、悪化の一途をたどっているが、執筆当時の2016年においては、2018年平昌大会、2020年東京大会、2022年北京冬季大会と続くアジアでのオリンピック開催に期待を込めている。第5章は政府組織の話。最終的にスポーツ庁は設立したが、著者はスポーツ省の設立を提案している。文部科学省内のスポーツ省ではなく、各章を横断する内容を含むため、内部組織ではなく、独立組織とすることに期待を込めていた。第6章ではタイトル通り、新国立競技場建設をめぐる顛末が整理されている。第7章もタイトル通りで,開催決定時の猪瀬氏から舛添氏,そして20168月から小池氏へと次々と都知事が代わり,選挙時にさまざまなパフォーマンスを行った小池氏は,オリンピックの開催計画に対し,さまざまな変更を行った。その変更による費用の増減を丁寧にたどっている。
ここまでは学術研究への参照はほとんどなく,ほとんどの情報源が新聞記事という形で論が展開してきたが,第8章の前半では「五輪研究における知見」ということで,英語圏の文献がいくつか紹介される。多岐にわたる研究を紹介した上で,話はまた第7章の続きで,2020年東京大会の費用分担に戻る。知見がどう事例に接合されているのかは不明。第9章では第7章,第8章の東京大会の計画・費用の説明を受けて,ようやく自身の専門分野(政治学,ガバナンス)の話に展開することが期待される。しかし,この章でも前半には英語圏の文献の紹介がある。今度はオリンピック批判と反オリンピック運動に関するもので,小笠原・山本編『反東京オリンピック宣言』の各章も丁寧に紹介される。この本で紹介される英語文献は,私が読んできたものはわずかしかなく,論文を読んだことがある研究者の著作が数冊あるほかは,ほとんどが論文集に収録されているもので,学術誌を中心に読んでいる私とは重複しない。この章では,そうした学術的なオリンピック批判を受けて,2020年東京大会について,復興五輪,IOC,日本国内の費用負担,大会関連経費,それに対する東京都の説明責任という議論が展開される。ここはなかなか説得的だが,でもやはり政治学の専門的研究への言及はない。第10章は総括として,2020年東京大会が抱える問題群を,中枢(コア)問題群,中位(ミドル)問題群,周縁(マージナル)問題群と分け,それぞれに国家が果たす役割を論じている。
一部を除き,参考文献がないことを学術的な価値がないと決めつける必要はないが,私が看につけた価値観からは高く評価はできない。ただ,評価したいのは行政の説明責任を一方的に問うだけでなく,自らを含む研究者の説明責任についても言及しているところだ。とはいえ,小笠原・山本両氏が岩波書店のブックレットという形で反オリンピックをさらに広めようとしているのに対し,いかにも流通の悪そうな想定と価格で訴える本書はどれだけの人に読まれるのだろうか。それはともかく,学術研究者の意見も学術雑誌ではなく新聞記事から引用しているのも含め,これだけ2020年東京オリンピックに関する国内の新聞記事を集めているものは他にみていないので,そういう意味での資料的価値が本書にはある。ただ,本書自体がメディア研究になっていないので,本書を資料として用いたメディア分析が期待できる。

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