書籍・雑誌

百年と一日

柴崎友香(2020):『百年と一日』筑摩書房,185p.1,400円.

 

ある日,柴崎友香さんが大阪府立大学で地理学を学んでいたという情報を目にしたことがある。どこに掲載されていたどんな情報だか忘れてしまったが,ちょっとネットで調べてみてもその真偽は分からなかった。私は基本的に現代小説はあまり読まないし,特に日本の作家は読まない。しかし,柴崎友香さんはそのデビュー作『きょうもできごと』で知っていた。とはいえ,原作を読んだのではなく,行定 勲監督の映画によってだ。この映画は京都を舞台にしていて,妻夫木聡を始め,今でも活躍する魅力的な男女の俳優が出演していた。何気ない日常という表現ではなく,とりとめのない様子が描かれ,私の好きな映画,愛おしい作品。
しかも,その後結婚することになる妻の書棚に『きょうのできごと』の文庫版(別の作品かもしれないが,新居に移る時に妻の蔵書をかなり処分してしまい,今は見当たらない)があり,読むことになった。まあ,妻と知り合ったきっかけが共通の友人だが,彼は当時は日本映画のマニアで,行定監督の『ロックンロールミシン』や松岡錠司『バタアシ金魚』,山下敦弘『ばかのハコ舟』『どんてん生活』などの話を熱く語られていたので,まあ,そういうつながりができても不思議ではないが。ともかく,そんなこんなで,柴崎友香も『その街の今は』など,地理的要素がありそうな作品を読んだりしていた。とはいえ,コアなファンになったわけではなく,『寝ても覚めても』が映画化された時は観たりしたが,2014年に『春の庭』で芥川賞を受賞していることも知らなかった。まあ,この年は長女が生まれた年なので,その辺の情報に疎かったということにしておきましょう。
最近はtwitterで彼女をフォローしていることもあり,彼女の関心の広さに驚いている。まあ,彼女は1973年生まれで,デビュー作が2000年だから少し遅咲きではあるが,本作が作家生活20年周年ということで,円熟味を増した作家だと考えれば,その博識と感心の広さは驚くべきことではない。ともかく,本作の出版を記念して方々でイベントが開催されているので,きちんと読んで,作者の生声を聴いてみたい(とはいえ,オンラインですが)ということで,読んでみた次第。そのイベントはもう終了していて,リアルタイムで視聴はしなかったので,後で視聴するつもりだが,作家本人の詳しい話を聞く前にこの読書日記は書いておきたい。

  1. 一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話
  2. 角のたばこ屋は藤に覆われていて毎年見事な花が咲いたが、よく見るとそれは二本の藤が絡まり合っていて、一つはある日家の前に置かれていたということを、今は誰も知らない
  3. 逃げて入り江にたどり着いた男は少年と老人に助けられ、戦争が終わってからもその集落に住み続けたが、ほとんど少年としか話さなかった
  4. 〈娘の話 1〉
  5. 駅のコンコースに噴水があったころ、男は一日中そこにいて、パーカと呼ばれていて、知らない女にいきなり怒られた
  6. 大根の穫れない町で暮らす大根が好きなわたしは大根の栽培を試み、近所の人たちに大根料理をふるまうようになって、大根の物語を考えた
  7. たまたま降りた駅で引っ越し先を決め、商店街の酒屋で働き、配達先の女と知り合い、女がいなくなって引っ越し、別の町に住み着いた男の話
  8. 小さな駅の近くの小さな家の前で、学校をさぼった中学生が三人、駅のほうを眺めていて、十年が経った
  9. 〈ファミリーツリー 1〉
  10. ラーメン屋「未来軒」は、長い間そこにあって、その間に周囲の店がなくなったり、マンションが建ったりして、人が去り、人がやってきた
  11. 戦争が始まった報せをラジオで知った女のところに、親戚の女と子どもが避難してきていっしょに暮らし、戦争が終わって街へ帰っていき、内戦が始まった
  12. 埠頭からいくつも行き交っていた大型フェリーはすべて廃止になり、ターミナルは放置されて長い時間が経ったが、一人の裕福な投資家がリゾートホテルを建て、たくさんの人たちが宇宙へ行く新型航空機を眺めた
  13. 銭湯を営む家の男たちは皆「正」という漢字が名前につけられていてそれを誰がいつ決めたのか誰も知らなかった
  14. 〈娘の話 2〉
  15. 二人は毎月名画座に通い、映画館に行く前には必ず近くのラーメン屋でラーメンと餃子とチャーハンを食べ、あるとき映画の中に一人とそっくりな人物が映っているのを観た
  16. 二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりには田畑しかなく、もっと昔には人間も来なかった
  17. 「セカンドハンド」というストレートな名前の中古品店で、アビーは日本語の漫画と小説を見つけ、日本語が読める同級生に見せたら小説の最後のページにあるメモ書きはラブレターだと言われた
  18. アパート一階の住人は暮らし始めて二年経って毎日同じ時間に路地を通る猫に気がつき、行く先を追ってみると、猫が入っていった空き家は、住人が引っ越して来た頃にはまだ空き家ではなかった
  19. 〈ファミリーツリー 2〉
  20. 水島は交通事故に遭い、しばらく入院していたが後遺症もなく、事故の記憶も薄れかけてきた七年後に出張先の東京で、事故を起こした車を運転していた横田を見かけた
  21. 商店街のメニュー図解を並べた古びた喫茶店は、店主が学生時代に通ったジャズ喫茶を理想として開店し、三十年近く営業して閉店した
  22. 兄弟は仲がいいと言われて育ち、兄は勉強をするために街を出て、弟はギターを弾き始めて有名になり、兄は居酒屋のテレビで弟を見た
  23. 屋上にある部屋を探して住んだ山本は、また別の屋上やバルコニーの広い部屋に移り住み、また別の部屋に移り、女がいたこともあったし、隣人と話したこともあった
  24. 〈娘の話 3〉
  25. 国際空港には出発を待つ女学生たちがいて、子供を連れた夫婦がいて、父親に見送られる娘がいて、国際空港になる前にもそこから飛行機で飛び立った男がいた
  26. バスに乗って砂漠に行った姉は携帯が通じたので砂漠の写真を妹に送り、妹は以前訪れた砂漠のことを考えた
  27. 雪が積もらない町にある日大雪が降り続き、家を抜け出した子供は公園で黒い犬を見かけ、その直後に同級生から名前を呼ばれた
  28. 地下街にはたいてい噴水が数多くあり、その地下の噴水広場は待ち合わせ場所で、何十年前も、数年後も、誰かが誰かを待っていた
  29. 〈ファミリーツリー 3〉
  30. 近藤はテレビばかり見ていて、テレビで宇宙飛行士を見て宇宙飛行士になることにして、月へ行った
  31. 初めて列車が走ったとき、祖母の祖父は羊を飼っていて、彼の妻は毛糸を紡いでいて、ある日からようやく話をするようになった
  32. 雑居ビルの一階には小さな店がいくつも入っていて、いちばん奥でカフェを始めた女は占い師に輝かしい未来を予言された
  33. 解体する建物の奥に何十年も手つかずのままの部屋があり、そこに残されていた誰かの原稿を売りに行ったが金にはならなかった。

目次はこんな感じで,短編集というか,面白い形式。元々は「はじめに聞いた話」というタイトルで『ちくま』に連載されていたものだという。
先ほども,私は基本的に日本の現代小説は読まないといったが,私が苦手なのは,そのままドラマ化,映画化できそうな脚本的小説である。第三者的視点で状況が説明され,その場にいる登場人物の会話でほとんどが構成されるような小説。おそらく,日本の現代小説がそういうものばかりではないのだが,なにせ読んでいないのだからよく分からない。まあ,いってしまえば読まず嫌いなんですね。
本書は短編集であり,1つの話が10ページ以内であり,短編につけられたタイトルがやたらと長い。構成からして典型的な日本の現代小説とは異なっている。これが,本書を読もうと思った最大の理由。もちろん,この33編の短編のなかには脚本的なものはある。しかし,いわゆるセリフが一つも出てこないものもある。面白いのは冒頭の話のように,登場人物を名前で呼ばないお話が多いということだ。とはいえ,冒頭の話の「一年一組一番」には青木洋子という名前が与えられているが,もっぱら作品中では「一組一番」なのだ。場所や時代についても特定を拒む設定が多い。最近,地理人を名乗る今和泉隆行なる人物の『「地図感覚」から都市を読み解く』なる本が話題だ。なんとなく,私は読めていないのだが,この本では空想上の都市を想定し,その地図を作成しているとのこと。もちろん,サザエさんやドラえもんのように,読者が再現できるような細かい舞台設定がなされているフィクションは多い。しかし,それなりの機能を備えた都市を,その機能を果たす施設同士の配置をつじつまが合うように行うという作業はなかなか難しい。『百年と一日』に登場する舞台もそんな感じ。しかも,もちろん日本語で書かれ,登場人物は日本語で話すのだが,舞台が日本とは限らない。そして,時代設定も同様なのだ。この作品には戦争が何度か登場する。日本の小説で戦争といえば太平洋戦争のことだが,この作品では違う。今日世界で起こっている内紛のようなものもイメージさせるし,また「この国では」「あの国では」という表現があり,登場人物が国境を超える設定もよく出てくる。ある意味グローバルな作品。とはいえ,実在する国名を想起するようなそれではなく,かといって実在性を捨象した抽象的なお話というわけではない。一つ一つの出来事はまさにその辺で起こっている,かといって実際に目で見たかというとそうではなく,ごく親しい人が目撃したものを伝聞している,そんな感覚なのだ。私たちの世代は経験していないような日本の昭和の懐かしい風景を思い浮かべるような設定も多いが,一方で民間人の宇宙旅行の話があったり,SFチックな設定もある。
ちょっと大げさないいかたをすれば,私は本書を読みながら,ボルヘスを想起した。ボルヘスの短編はそのずばぬけた想像力で世界史スケールの馴染みのなさの中で,抽象的な人間性へと考察が及ぶ作品なので,まあ本作と似ているというわけではないが,性質が違いながら似ているのか,似ていないけど性質が一緒なのか,まあそんな類似性を感じました。一方で,本作の目次を見ると,4編ずつ挟んで,〈娘の話〉と〈ファミリー・ツリー〉が1から3まで続いている。こういう構成はカルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』を思い出す。柴崎さんが評論的な文章を書いているかどうかは知らないが,恐らく世界文学については相当知識があり,本作はそうした影響下にあるのではと思う。本作に散りばめられた短編はそのまま長編へと展開できるようなものも少なくなく,本作はこれから私たちが読むべく作品の素描,作家のネタ本的なものなのかもしれない。私は小説を書いたことはないが,小説と研究論文(ないしは研究書)とは似たところがあり,発想は瞬間的に思い浮かぶが,その骨格を肉付けしていく作業に時間がかかる。色々調べて事柄同士の結びつきに齟齬がないようにする必要がある。そういう意味でも,この作品はそうした発想が詰まっている。とはいえ,短編だからといってその調査=肉付けが簡単に済むというわけでもない。そういう意味でも,この作者の力量に感服する一冊である。
ところで,吉祥寺にある古書店「百年」がある。数年前に系列店「一日」を出店していたのを思い出した。まあ,この二つの言葉の組み合わせは決して突飛なものではないが,作者はこの古書店を知ったら驚くだろうか。

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五輪と万博

畑中章宏(2020):『五輪と万博――開発の夢,翻弄の歴史』春秋社,242p.1,900円.

 

7月30日に発行されていた本書を私は知らなかった。たまたまtwitter情報で,柴崎友香さんが,新刊の『百年と一日』の出版記念で本書の著者とトークイベントをするということで,その組み合わせに興味を持って,オンラインだしと思ってイベントを視聴してみようと思った次第。それならば,やはり本は読んでおかなくては。今更感のあるタイトルですが,著者は民俗学者とのこと。現代美術研究者の暮沢剛巳さんが『オリンピックと万博』を出版したことにも驚いたが,それでもデザインの側面からということであれば十分納得できた。では,民俗学者がどんな観点から五輪と万博を論じるのか,それは興味があった。

はじめに 「幻想」の情景
Ⅰ 1940東京五輪・東京万博
 1 駒沢という郊外
 2 代々木の昔と競技場
 3 紀元2600年の五輪と万博
 4 開催返上へ
Ⅱ 1964東京五輪
 1 戦後日本と東京の再生
 2 選手村とその他の問題
 3 開催準備
 4 外苑・代々木・駒沢の競技施設
 5 東京の変貌
 6 祭典の内外
Ⅲ 1970大阪万博
 1 大阪万博への道
 2 千里丘陵の開発
 3 未来都市は出現したか
 4 万博の「反響」
Ⅳ 1996世界都市博
 1 マイタウン東京
 2 新都庁舎と「ハコモノ」
 3 臨海副都心開発
 4 世界都市博覧会
 5 開催中止へ
Ⅴ 2020東京五輪
あとがき

大阪万博の年に生まれた私より,著者は年上だった。1964年東京五輪の時が2歳,1970年大阪万博は小学校二年生で大阪に住んでいたという。まあ,それは記憶があるかないかの違いだが,「この本では,土地の記憶といったものをできるだけ叙述してみたい」(p.v)とある。五輪や万博といったメガ・イベントはそれなりの規模で開発が進むということだが,開発によって様変わりしてしまった土地の以前の姿を紐解きながらこの巨大イベントについて論じるということらしい。であれば,民俗学者として独自のオリンピック論になるのでは,と期待をしながら読み進める。
こうして目次を打ち込んでみると,このページ数の本にしては盛りだくさんだ。冒頭は駒沢の話から始まる。他のオリンピック本でも駒沢にあったゴルフ場を競技会場にという話はあったが,1889年の町村制施行によって6つの村が合併して駒沢村になるという歴史から紐解かれ,期待が高まります。代々木についても豊臣秀吉の時代まで遡り,古い写真を散りばめながらの展開に,想像力がかきたてられます。
ただ,1964年東京五輪の説明辺りになってくると,すでに知った話が次々と出てくるという印象に変わっていきます。Ⅱに入ると,今度は大阪万博の会場になった千里丘陵の歴史の話になり,この辺りは私も知らないことが多く,また楽しめます。
さて,著者が本書を執筆するきっかけがもう一つありました。Ⅳ章のテーマである世界都市博覧会といえば,当時東京都知事を務めていた鈴木俊一だが,本書は彼を中心に組み立てられているともいえる。著者は日本の養蚕民俗に関する研究をしていたという。私も大学時代に玉川上水辺りを巡検し,東京西方のこの辺りで養蚕が盛んだったと学んだ。鈴木俊一の実家は昭島の蚕業講習所だったという。鈴木は1964年東京五輪の際に副知事をしており,その後大阪万博の際に大阪に移り住み,事務総長を務めていたという。そして,その後東京都知事となり,世界都市博覧会を推進するのだ。ということで,Ⅳ章の前半ではこの鈴木の半生を描きつつ,1980年代の東京臨海開発から世界都市博覧会へと説明が展開する。丸の内から新宿への都庁の移転の話も詳しく説明され,新旧都庁を設計した丹下健三,彼も東京オリンピックと大阪万博に関わったのは暮沢さんの著書でも論じられていた。まあ,ともかく西新宿の歴史についても説明されます。お台場についても歴史を紐解き,最終章へと向かいます。しかし,こちらはまだ開催前ということもありますし,あまり重厚な記述は望めません。土地の歴史,記憶という観点から2020東京五輪,2025大阪万博を考えるのは読者の役割でしょうか。

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都市が壊れるとき

ジャック・ドンズロ著,宇城輝人訳(2012):『都市が壊れるとき――郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』人文書院,233p.2,600円.

 

オリンピック研究を地理学的観点から行うために,都市研究の文脈で位置付けたいと思っていた。一通り,日本語訳のある都市研究を読んできたが,なんとなくこれまでの系譜とは違ったものとして,本書が目に留まった。フランスの社会学者で「都市問題」を掲げているので,カステルの系譜だといえないことはないが,1970年前後のルフェーヴルの都市論との接続の方が自然かもしれない。とはいえ,本書副題にあるように,その問題は現代の郊外にある。私には1995年のフランス映画『憎しみ』の記憶が強く残っている。出演したヴァンサン・カッセルはその後売れっ子俳優になり,いまだにコンスタントに映画に出演している。英国の『トレインスポッティング』は1996年とのことだが,怒れる若者ども的なテーマとしては共通しているが,コメディタッチの『トレインスポッティング』に対し,『憎しみ』はドキュメンタリーとも思えるほど生々しかった記憶がある。『トレインスポッティング』主演のユアン・マクレガーもいまだに活躍している俳優という点では共通している。そして,『トレインスポッティング』が白人中心だったのに対し,『憎しみ』の主要登場人物の名前がサイードだったことは,ちょうどその頃『オリエンタリズム』を読んでいたので,アラブ系だと想像しながら観ていた記憶もある。
随分わき道にそれているが,本書は郊外の大規模住宅団地がもたらした問題を中心においている。『憎しみ』の舞台もまさに団地である。私も首都圏に建てられた住宅都市整備公団による団地で育ったが,日本の状況とはずいぶん違う。とはいえ,日本でも空き家が多くなった団地に外国人が住みついているという話はよく聞くが,やはりフランスとは随分状況が違う。残念ながら,本書の本文に団地の写真は掲載されていないが,表紙の一枚の写真だけは団地を写したものである。日本は5階建てのものが主流だが,写真に写っているのは15階建て程度の巨大な集合住宅であり,建築的には先日観た韓国映画『はちどり』の状況と近いのかもしれない。
団地が造られた経緯は日本もフランスも似たようなものかもしれない。本書によれば,公害の大規模住宅団地は1945年から1975年にかけての高度経済成長の「栄光の30年間」に建てられたものだという。日本の団地もそうだったが,近代的な生活様式の基礎となる大量の住宅が提供され,フランスでもそれを「都市の近代化」と呼んでいたらしいが,197年代半ばにはその「肯定的な見かたが驚くほど脆く崩れていた」(p.20)という。本来は団地には中流階級が住んでいたが,社会住宅団地のイメージが否定的なものになり,中流階級はさらに外側へと住居を移した。この郊外のさらに外側をperi-urbainと呼び,「外校外」と訳している。その大規模な社会住宅団地には移民が住みつき,貧者が残され「捨て置きrelegation」される。中流階級は「外郊外化」するだけでなく,ジェントリフィケーションに伴って都心回帰もする。この辺りのプロセスを明らかにするのが本書の目的ではなく,あくまでも序章と第一章で述べられているだけで,実態としてはひどく単純化しているようにも感じるが,フランス社会の状況に疎い私のような読者にとっては分かりやすい。本書の目的は,このような「郊外の危機」,そして「壊れゆく都市」に政治がどのように対応していくのか,ということである。

序章
第一章 都市問題――都市を分離する論理の出現
第二章 都市に対処する政策――社会的混合の名における遠隔作用による住居対策
第三章 都市を擁護する政策――移動性を促し,居住者の実現能力を高め,都市を終結するために
結論――都市の精神

訳者は本書が決して難解ではないとして,むしろ本書をドンズロの研究のなかで位置付けることを,決して短くはない訳者解説で論じている。しかし,法律や政策というものに疎い私はあまりきちんと理解できなかった。目次は上記のとおりであり,単純化すると,第二章で現在行われている政策を批判し,第三章でありうべき政策を提示する,という展開となる。フランスでは学者が政治家になり,理論が政策に活かされるということがあるため,政策にもそれを支える哲学がある。とはいえ,学者にも体制派と反体制派といるから,必ずしもその哲学が万人にとって理想的な社会を生み出すわけではない。戦後は上述したように,大規模住宅団地計画が推し進められたが,それを著者は「反都市」と呼ぶ。まあ,英語でもcounter-urbanizationと呼んでいたから同じか。
1983年から始められた都市政策は,社会的混合という哲学だったという。団地の一部を取り壊し,戸建て住宅を建てて,中流階級を呼び戻す。1997年にはこうした流れが都市再建や都市再生という,日本にも流入してきた考え方に分岐していく。当初は住民を中心にした政策が住居の改良へと進むという。社会的混合といいながら,それぞれの街区が分割され,差別も生んでゆく。1991年の都市基本法により,フランスでは居住者20慢人以上の都市圏にある居住者3500人以上の都市的市町村は,少なくとも20%以上の社会住宅を供給することが義務付けられた。これは日本に比べればいい政策のようにも思う。私も都営住宅や市営住宅,あるいは都市再生機構の団地への居住を考えたこともあるが,立地が非常に限られていて,本格的に検討するにはいたらなかった。とはいえ,フランスの上記市町村の規模などもよく分からないし,この20%という割合も実際にはどの程度なのか,実感がわかないが。そして,著者によれば,20%に満たないばあい,罰金を支払うらしいが,あえて罰金を選ぶ市町村があるとか,この罰金の支払いもいい加減とか,そんなことが批判点として挙げられていた。第二章の後半ではルフェーヴルの「都市への権利」やフーコーの統治権の議論を用いて,この政策について検討する。

第三章のタイトル「都市を擁護する政策」ってところがそもそも理解が難しい。ただ,副題「移動性を促し,居住者の実現能力を高め」ってところは何となくわかる。しかし,副題最後の「都市を結集するために」ってところがまた分からない。ともかく,著者は第二章で批判した「社会的混合」のあり方,同じ地区に社会住宅を作り,また中流階級を住まわせるべく戸建て住宅を用意し,後は大規模住宅団地に残された移民や貧者なのだろうか,そういう地区割で行政としては様々な属性の人たちが混合しているように見え,その実は差別がはびこっているようなものに対し,「移動性」を強調する。移動性の一つの具体例は公共交通の利便性である。もう一つは引っ越し。
なんとなく,うまくまとめる自信がなくなってきたので,それらしい箇所の引用でお茶を濁そう。「それにしても,いったいなぜわたしたちは住民参加について,ほとんど実質のない実践を土台にして,かくも理論的な敬意の念を示すのだろうか」(p.160)。「都市は,家族的ないし共同体的な被膜の外に出た人間身体にとって,もう一つの身体=団体として保護をもたらすものである。都市とは,ひとたび個人が最初の帰属から解き放たれたとき,別の帰属へと自由で流動的なしかたで結びつけ直す手段であり,そのようにして空虚や不確かさという恐怖を抑制する手段であり,その恐怖を行き来したり離れたり戻ったりしたいという欲望へと変換する手段なのだ」(p.197)。「都市はただ壊れているだけだ。だから別のかたちに作り直すことができる。都市の分解から生じた諸形態をもとにして,それら断片としての形態を結びつけ直すことによって」(p.203)。

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バルセロナ・パリ母娘旅

銀色夏生(2015):『バルセロナ・パリ母娘旅』KADOKAWA142p.760円.

 

銀色夏生の文章を読むのは初めて。それでなく,いわゆる文学の部類に入る書籍を読むのは久しぶりで,とても面白かった。ちょうど,久しぶりの通勤電車のなかで読んだのだが,なんだか至福の時間を味わった。まさに,この作品のなかに,旅行の準備をしている時に,見に貼り付いた日常的なものが少しずつはがれていき,行きの飛行機のなかで完全にはがれる,という話がある。通勤というのは同じように,1時間の電車のなかで,距離的にも自宅からどんどん離れていく過程で,私生活なるものを忘れていく行為なのだなと思う。在宅勤務も半年が経とうとしているが,だんだん本当に自分は仕事をしているのか,よく分からなくなってきている。誰にも邪魔されずに作品世界に没頭し,作者の親子旅行を追体験する,そういう時間がいかに貴重かを思い知らされた読書だった。

さて,本書はまさに旅行記でありますので,目次はありません。この作家についてはよく知りませんが,男っぽい名前でありながら女性であることは知っていた。本書はちょうど大学を中退しようかといっていた21歳の長女とのヨーロッパ旅行の記録である。
きちんと日付が書いてあります。「1日目 2014年9月24日(水)」。そして「この旅のテーマ「とにかく自由に」」と冒頭にある。6日目の9月29日(月)にバルセロナからパリに移動する。そして,10日目の10月3日(金)が帰国する便への搭乗,という日程。行き先がヨーロッパであるという点と,10日間の日程であるという点は,前回紹介した太田篤子『母とヨーロッパへ行く』と共通している。そして,太田さんの本が娘の視点であるのに対し,本書は母親の視点である。太田さんの母娘の年齢差は20歳程度だったが,こちらはもう少しありそうだ。また,太田さんの旅も旅行先でゆっくりするという点では共通しているが,かなり十全に準備した旅であったのに対し,こちらの旅はかなり行き当たりばったりなもので,その対照性も面白い。
文章ページは142ページありますが,同程度のページ番号なし写真ページもあります。本書は角川文庫の一冊ですが,カラー写真でコメント付き。太田さんの『母とヨーロッパへ行く』や村田さんの『旅育BOOK』では,子どもや高齢者の当事者感覚を高めるための工夫があったが,銀色さんの母娘旅ではそういう配慮はなし。あくまでも自然体で,旅の主導権は母親が握っているが(おそらく財布の紐も),娘もただついていっているというわけでもない。若者らしくスマホを駆使して,その場で行きたい店をチェックするのだ。娘さんは21歳ではありますが,本書で読み見る限りでは,自立した大人で,むしろ作家という職業柄もありますが,自由奔放なところもある母親との面白い関係。親元を離れた子どもとの関係はやはり希薄なものになりがちですが,旅育と同じように,旅行というのはそういう家族の間柄を取り持つ特殊なシチュエーションとして機能するともいえる。

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母とヨーロッパへ行く

太田篤子(2018):『母とヨーロッパへ行く 母+娘=100歳~の旅』講談社,143p.1,400円.

 

著者は太田哲也という1959年生まれのレーシングドライバーの妻。1990年に結婚しているが,1998年に太田が生死をさまよう事故に遭い,社会復帰まで看病に明け暮れたという。それは同時に子育ての時期でもあり,夫の社会復帰,子育てのひと段落,そんな時期から始まったのが自身の母親とのヨーロッパ旅行であり,2009年から毎年10日間ほどの旅を続けて約10年間の記録が本書だという。

ヨーロッパ5つの旅:イギリス・フランス・スペイン・ドイツ・イギリス
PART 1 プランを立てる
PART 2 旅の決め手はホテル
PART 3 交通手段を手配する
PART 4 旅の過ごし方
PART 5 装いと持ち物

前回紹介した本とは違い,本書はいわゆるノウハウ本ではない(古い表現ですみません。いわゆる指南書を一時期know howと呼んでいたことがありました)。また,次回紹介する本とは違い,本書は旅行記ではない。その中間にあたるものかもしれない。あくまでも自身の旅の経験に基づくものではあるが,そのなかでも読者にも役立つ情報を提供しているような本。
前にも書いたように,私は本書を「観光における世代」を地理学的に考える素材として読んでいる。そのきっかけは,近所の図書館のリサイクル本として出ていた雑誌『旅』の特集「親子で行く旅」に私の好きな親子,島尾伸三・潮田登久子・しまおまほが表紙を飾っていたので,いただいて帰ったことにある。また,この特集に限らず,メディアでは母娘の旅というのがたびたび登場するような印象を持っていて,Amazonで検索したら本書がヒットしたという次第。
本書はサブタイトルにもあるように,娘が40歳台,母親が60歳台から始まった旅ということで,本書出版時点ではすでに合計120歳近くになっている。著者が娘であり,次回紹介するものは母親が著者であるため,対比もできる。コンセプトは高齢の母親にやさしい旅,である。高齢の親に旅を提供するというのは親孝行ともいえるが,意外にも前回紹介した「旅育」との共通点がある。何よりも旅は楽しいもので,そのために頑張れるということ。計画段階から意見交換をし,当事者意識を持たせ,親子のコミュニケーションを円滑にするということ。身体的・精神的な弱者である高齢者・子どもに配慮する旅であること。
そういう意味で,本書は構成が工夫されている。冒頭で,著者母娘がどんな旅をしてきたのかが概観され,計画から旅行の各段階にまとめて説明がなされ,そこに旅の詳しいエピソードなどが挿入される。ヨーロッパは日本から遠いため,高齢者を伴う旅行においては,往復の飛行機が非常に重要であり,また現地ではいろいろ見て回るのではなく,滞在することに重点を置く。その際の航空券の予約の仕方,ホテルの予約の仕方,その順番や手順が,著者の旅のこだわりを条件とした上で丁寧に解説される。タイトルに「ヨーロッパ」とあるように,この旅行のスタイルはヨーロッパ特有のものかもしれない。
本書はおそらく著者の性格が大きく反映していて,非常に穏やかに丁寧に,細かいところまで意識が行き届いた旅行案内書である。前回の紹介の最後に批判っぽく書いたことは本書にはあまり当てはまらない。確かに,大人2人が毎年ヨーロッパで10日間を過ごすというのは,それなりの年収がなければ成立しない。しかし,本書は可能な限り費用的な面を公表しており,使うところは使う,節約するところは節約するという点が強調されている点は好感が持てる。

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旅育BOOK

村田和子(2018):『家族旅行で子どもの心と脳がぐんぐん育つ 旅育BOOK』日本実業出版社,190p.1,400円.

 

著者は「家族deたびいく代表」を自称する旅行ジャーナリスト。その実践は「息子が9歳になるまでに,親子で47都道府県へ訪れました」(はじめに)というように,元々旅行ジャーナリストが高じて自身の子どもを旅に連れまわしたのか,私的な家族旅行を執筆等の活動の素材に使うようになったのかは分からないが,ともかく自身の親子旅行の実践がベースとなっている。
最近,さまざまなものを育児に活用しようというこの種の「○○育」というものの代表は「食育」だが,この言葉と実践は古くからあるものらしい。最近の流行りの言葉を探してみたが,実は意外に「○○活」のようには定着しているようなものはないようだ。まあ,ともかく本書と著者の実践は,子どもが幼い頃の家族旅行は単なる思い出作りやレクリエーションということだけでなく,学びや育ちの面で大きな効果があるということです。まあ,「かわいい子には旅をさせよ」といいますから,旅行と人格形成というのは昔から結び付けられているものではありますが。

第1章 子どもと「旅」をする理由:世界の広さを体感し,家族の絆を育もう
第2章 村田流 親子の旅育メソッド:5つの方法で子どもの心と脳がぐんぐん育つ!
第3章 いつもの旅を学びに変える25のコツ:「家族deたびいく」実践編
第4章 企業も応援!旅育&家族旅行の役立つサービス
第5章 ぜひ行きたい!厳選 旅育スポット:実際に旅してわかった旅のテーマと旅育のポイントつき

冒頭でいきなり,著者と星野リゾート代表の対談が掲載されている。本書のなかでも星野リゾートが経営する宿泊施設がいくつも登場するが,いわゆる観光地だけでなく,特定のレジャー施設や宿泊施設,また交通機関である航空会社などの広告まがいの記述もあるのが本書の特徴。中立な立場でそうした施設や企業を評価するというよりはお互いに協力関係にある。
旅が人間に良いことをもたらすという神話,イデオロギーは根強い。文学,映画,音楽,あらゆる文化形式を通して旅行はよいということが語られる。今回の新型コロナウイルスでは珍しく私用で長距離移動をするものが悪者扱いされているが,基本的に旅は素晴らしいものとして語られ,またそれが万人に強要される。
まあ,それはそれとして,本書ではまず,当たり前の世界から飛び出すことが学びにとって重要だという。既に知っていることで満たされている生活世界から飛び出すと,知らないことがたくさん待ち受けていて,それらとの出会いが脳を刺激する。これまであったことのない場面に遭遇すると,それに対処する能力が身につく,大雑把に旅がもたらす教育的効果はそういうことだ。私はこういう考え方は本書でも強調されている「多様性」を矮小化していると思う。私は基本的に違いの大小はない,あるいは図りようがないものだと思っている。例えば,男女の違いをうんぬんすることはよくあるが,その違いを私も否定はしない。しかし,抽象的な男女の差というのは,標準的なとか一般的な,生物学的にといった抽象的なレベルでしか議論できず,具体的な個人同士の違いとなるとそれが性別(性差)によるものかどうかを判断できる人は少ないと思う。
もちろん,具体的には旅の計画,準備にも積極的に子どもを関わらせ,親についていく旅ではなく,当事者意識を持たせる機会になるという。確かに,この当事者意識というのは育児上とても重要なのはよく分かります。また,そうした旅の計画や準備は幼い子どもが一人でできるものではないので,必然的に親子のコミュニケーションがそこに生まれる,というのも重要です。そして,実際の旅では親子が四六時中一緒にいることになり,また家庭にいるときは同じ屋根の下にいるにもかかわらず,親は家事などで子どもの相手ができない時間が一日の一定程度を占める,という意味では,旅という特別なシチュエーションがもたらす効果もあるだろう。ただ,著者は家族旅行であろうとも,可能であれば,親と子が別行動をとれる時間があると良いという。著者の提言はいずれも至極当然である。私自身も決して裕福な家庭に育った子どもではないが,毎年のように出かけていた家族旅行の思い出は深く記憶に刻まれている。しかし,一方で親になった身としては家族旅行は家計の観点からも難しく,まだ本格的なものは一泊の普通列車によるものしか実行していない。今年10歳になる息子はいまだ急行列車も飛行機も載ったことはない。
ただ,この本の大きな欠陥が一つある。それは具体的な施設に関する情報以外,値段が書かれていないのだ。旅行にはお金がかかる。それによって家族旅行を諦める世帯,何とか工面してなるべく安くしようとする者,一定の経済階層以下の人々にとって旅行とお金は切っても切れないものだが,本書では湯水のようにまではいかないが,子どものためにはいくらかけても損はない,そんな風潮でもある。まあ,本書はあくまでも育児や教育に役立つ家族旅行のあり方を提言しているだけで,家族旅行の実態を考慮したり,子どもを持つあらゆる家庭を想定しなければならないわけでもない。

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彷徨えるナショナリズム

阿部 潔(2001):『彷徨えるナショナリズム――オリエンタリズム/ジャパン/グローバリゼーション』世界思想社,234p.2,300円.

 

以前,著者の『スポーツの魅惑とメディアの誘惑』を紹介する時に,一つ間違いを犯しました。モーレーとロビンスの「テクノ・オリエンタリズム」についてかなりページを割いて解説しているのは本書でした。その時には,阿部さんの研究全般について少し批判的なことを書いてしまいましたが,本書には研究者としての立場もの含めて学ぶことが多かった。

プロローグ――「ナショナルなもの」への違和感
第1章 「ナショナルなもの」の台頭――90年代の気分
第2章 戦後における「ナショナルなもの」――ディレンマの屈光
第3章 「日本」にとっての二つの「他者」――脱亜入欧イデオロギーの呪縛
第4章 テクノ・オリエンタリズムと「ナショナルなもの」――同一化すべき「他者」からの眼差し
第5章 アジア・オリエンタリズムと「ナショナルなもの」――差異化すべき「他者」への眼差し
第6章 「日本らしさ」をめぐるポリティクス――キッチュなノスタルジー
エピローグ――「ナショナルなもの」のゆくえ

本書を読み終えて,数ある著者の著作の3冊を読んだだけだが,著者は日本の社会学者のなかで独特な立ち位置にいると感じた。とはいえ,日本の社会学全般について詳しいわけでもないが,なんとなく日本の地理学のあり方とも重ね合わせながらそう思った。先にそんなことを書いてみよう。
学術研究の発表媒体はさまざまである。まず,大きく分けて雑誌と書籍とがある。雑誌は学会が発行する学会誌と,大学が発行する紀要,そして出版社が発行する商業誌がある。学会誌に掲載するにはかなり手間が必要で,投稿し,審査され,審査に通ったものだけが掲載される。時間もかかるし労力もかかるが,掲載されたということだけで一定の評価がつく。紀要はまあ人それぞれだが,個人的には学術的なレベルは学会誌と同等だと思っているが,審査がない分,出来はピンからキリまであるともいえる。また,当該大学に所属する研究者であれば,毎号載せなくてはいけないというのがあったり,いつでも載せてくれる,というのがあったりするのかもしれない。商業誌の場合は投稿ではなく執筆依頼なので,書きたいといって書けるわけではない。これも個人的な印象だが,テレビドラマで起用される俳優のように,人気のある人に集中する傾向がある。書籍には単著と編著がある。単著を出すのは大変だが,編著というのはある意味雑誌と似た側面がある。それは一人の著者にあてられた分量が雑誌論文程度であることが多いこと。しかし違っているのは,共通するテーマがないと編著=論文集にはならない。こちらも依頼されることが多く,書きたいからといって書けるわけではない。
長ったらしい説明だったが,著者が学会誌に掲載した論文を私はあまり読んでいない。ご自身が所属する大学の紀要に掲載したものはいくつか読んだが,他人が編集した編著=論文集に寄せることも多いようだ。単著が多いが,そのいくつかはそうした紀要や論文集に載せた文章を寄せ集めて加筆・修正して一冊にまとめていることもある。
一方私は50歳になっていまだ単著はない。論文集への寄稿も数えるほどしかなく,商業誌からの依頼も3回しかない。紀要にはいくつか書かせていただいているが,私が書いた論文の多くは学会誌に掲載された。そういう意味でも,私と著者は,研究成果をどういう媒体で発表するかという観点ではかなり異なっている。いろいろと制約の多い中そうするしかない私にとっては,著者のような立場は羨ましく感じる。もちろん,発表媒体が違ければ,文章のスタイルも違ってくる。そんなことを考えながら,『スポーツの魅惑とメディアの誘惑』の読書日記の後半を書いていた。
本書もやはり文章のスタイル,また研究のスタイルは共通している。本書を読んで,こういうスタイルの必要性を強く痛感した。ナショナリズムというテーマはかなり難しいと思っている。例えば,オリンピックやサッカーのワールドカップをナショナリズムの観点で論じるのは比較的簡単だが,これを浅はかな議論ではなく,深く意義があるものにすることは難しい。一方で,ナショナリズム論というと(これまた数多く読んでいるわけではないが),歴史的なアプローチと哲学的なアプローチがあるという印象がある。これらはある程度の蓄積があるが,著者のナショナリズム研究はそのいずれでもない。簡単にいうと,現代の社会評論的なものでもなく,歴史的でも哲学的でもない,ある種これまで私が読んだことがないものであるともいえる。
本書冒頭の告白は,その研究立場とも通底する著者の実直さが現われている。ある研究会で,著者が何気なく「日本人院生の方」とミーティングへの参加を呼び掛けたところ,外国人留学生から自分に参加資格があるのかを問いかけられたというエピソードを紹介している。カルチュラル・スタディーズという,権力関係を伴う人間属性に敏感でなければならない研究集会の場でのその失態は著者に深い痕跡を残し,そのことが数十年日本で生活をしている者として,研究者として頭ではわかっていることが身についた生活態度としては分かっていなかったという,非常に根の深いナショナリズムという問題に研究者として向かい合うことを決意し,本書に結実する一連の研究へと著者を向かわせたという。
そういう自分の研究者である前に日本で生活する者として染みついた意識であるナショナリズムに立ち向かう著者は,まず基本的な歴史的事実として,第2章以降に日本の戦後の状況を確認する。1964年生まれの著者にとって,1945年の終戦は体験していない過去だが,彼の親世代の時代でもあり,研究者としても正当だと思う。その前の第1章に本書が出版される過去10年の日本におけるナショナリズムの高まり確認される。これは多くの論者が指摘していたことだが,1998年冬季長野オリンピック大会を含んでおり,著者の現在の仕事にもつながっている。戦後に関しては,米国の影響の大きさを指摘しているのは比較的近いところで仕事をしている吉見俊哉とも共通する。米国におけるジャパン・バッシングの解釈に納得させられる。戦後の日本が憧れる「同一化すべき他者」が米国であり,承認を求める日本に対し,歪んだ形での承認がジャパン・バッシングであり,この学術的議論としてテクノ・オリエンタリズムが詳細に検討される。単に,モーレーとロビンスを紹介するだけでなく,欧米人として日本人の声を聞く機会もなく,その必要もなく展開されるその議論の限界が指摘され,しかしその限界は批判ではなく,この問題の深さを指摘する議論は興味深い。そして,日本を米国とアジアとの関係のなかで論じる観点は非常に地理学的である。
本書でもメディア研究者としての力量がいかんなく発揮されている。一つが北野 武の映画の分析であり,まあある意味目新しい議論ではないが,北野作品をしっかりと論じたものを読んだことはない。また,『スポーツの魅惑とメディアの誘惑』でもドキュメンタリー番組の分析がなされていたが,本書でもNHKの『電子立国 日本の自叙伝』(1991年)やその継続番組でもある『プロジェクトX 挑戦者たち』(2000年~)を分析している。また,第5章でアジアについて論じるときは,当時のアジア・ブームを取り上げ,雑誌の分析が行われ,この辺りは私の研究に近い。
という感じで,著者に対する研究者としての印象はあまり変わらなかったが,私のなかでのその評価はかなり高まった。研究対象に立ち向かう態度が私と近いことを見出したのだ。彼にとって研究とは自身の日常に根付いたもので,その対象は研究者として改めて設定するものではなく,日常生活のなかで身近にあるものであり,研究成果はまずもって自分の意識改革という目標に向けられていることが理解できたような気がする。

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団塊ツアー

太田正美(2009):『団塊ツアー』東京図書出版会,178p.1,400円.

 

観光地理学の教科書の執筆依頼がきた。担当する章は「ジェネレーション」とのこと。実のところ,観光地理学の文脈で文章を書いたことがあるが,いわゆる観光研究に含まれるような論文は東京の英文シティガイドの分析くらいだ。ましてや,ジェネレーション=世代をテーマにしたこともない。しかし,少し文献調査をして分かったことだが,観光研究で世代をテーマにした日本語の文献はほとんどない。
とりあえず,教科書なので,地理学で観光をめぐるさまざまなアプローチが必要だということで,私はメディア分析を含むものにすることにする。手っ取り早くAmazonでそれらしい書籍を検索すると,いくつか出てきたので,それらを素材に書くことにした。ということで,当分そんな感じの読書日記が続きます。本書の内容をそんなに詳しく説明する気はないので,詳細目次までつけましょう。

第1章 団塊世代を取り巻く状況
 1 二分する見方
 2 団塊世代の取り込み
 3 2007年問題の背景
 4 団塊世代は何を考えているか
第2章 団塊世代はこんな旅をする
 1 ノスタルジー
 2 スローライフ
 3 学習するツアー
 4 夫婦単位
 5 健康力向上
 6 景観・まち並みを楽しむ
 7 アクティブ
 8 社会貢献意識
 9 ロングステイ
 10 Quality of Life
 11 本物志向
 12 インターネット
 13 環境問題
 14 田舎を見直す
 15 明確なツアーテーマ
 16 新しいもの好き
 17 蘊蓄の旅
 18 感動を味わう
 19 アンチエイジング
 20 ガイドを楽しむ
 21 贅沢を楽しむ
 22 ロマンを求めて
 23 セカンドライフ
 24 不都合な真実を見る
 25 こだわりの旅
 26 大都会を満喫する
 27 一筋縄では行かない
あとがき

著者は1948年生まれの航空会社に勤務して定年退職した男性。本書で団塊の世代を1947~1949年生まれとしているので,まさしく団塊の世代である。上記目次を見ると,著者が団塊の世代をどのように考えているかが分かるが,まさに勤勉で学習好きであると自認するように,本書は自分がどういう人間かを,団塊の世代というアイデンティティに求め,それについて調査した結果をまとめたようなもの。27に一筋縄ではいかないといいながらも26の特徴で説明できる程度には単純化している。さまざまな資料を根拠として客観的な特徴を整理しているようでいて,自らが身をもって実感できる特徴を主観的にまとめている。
そして,あくまでも旅行という観点から団塊の世代について整理している書であり,職業柄得た経験に基づいて,団塊の世代を特徴づける一つ一つの項目に対して,そうした人間を満足させる旅のあり方や事例を紹介する,そんな本。帯の言葉を載せておきましょう。「団塊世代はこんな旅をする!まだまだ元気でプライドも高い団塊世代は旅も一筋縄では行かない」

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現代のバベルの塔

新教出版社編集部編(2020):『現代のバベルの塔――反オリンピック・反万博』新教出版社,193p.2,000円.

 

私は最近Twitterを始めたが,「反五輪の会」をフォローしているため知った本。キリスト教の出版社ということで,少しうがった目線で見てしまったが,反五輪の会の代表であるいちむらみさこさんや,酒井隆史,田中東子,井谷聡子などといった面々が名を連ねているため,購入することにした。
本書は月刊誌『福音と世界』の2019年8月号特集に3編の新規論考,トークイベントの内容を収録して単行本として出版された。寄稿者の有住さんは1982年生まれの神学校非常勤講師,入江さんも非常勤講師,酒井さんは1981年生まれの大学非常勤講師,白石さんは1961年生まれの大学非常勤講師。いずれも著書をお持ちで,本書の文章も優れたものである。オリンピックの矛盾だけでなく,大学や学術研究の矛盾もはらんだ一冊なのだろうか。とはいえ,研究者は大学教員になるのが好ましいという価値観自体もおかしいので,この書き方もよろしくはないが。ともかく読んでみましょう。

はじめに
混乱の民として生きる――オリンピック・万博に反対する〈解放の神学〉:有住 航
生活againstオリンピック――路上のアーティストの見た景色:いちむらみさこ(インタビュー)
参加しない勇気――大阪万博をめぐる断片的省察:酒井隆史
トークセッション 「バベルの塔」なき世界へ:有住 航×いちむらみさこ×酒井隆史
「「古代の廃墟」としての近代」の廃墟:入江公康
オリンピックとカジノ万博は現代のバベルの塔か?――科学技術とプロテスタンティズムの倫理:塚原東吾
その輝きには要注意!――「参加すること」に意義はあるのか?:田中東子
ひとを線引きする――パラリンピックの歴史的変遷から:坂井めぐみ
Decolonialize This!――オリンピックと植民地主義:井谷聡子
これは私のからだではない――モノとのあたらしい関係について:白石嘉治

バベルの塔とは言わずと知れた『旧約聖書 創世記』に登場する逸話。私も2012年のオースター論文で,それについて論じるデリダやベンヤミン,ボルヘスについて検討した。その後も長谷川三千子『バベルの謎』(中公文庫版)なども読んだりした。有住氏の文章でもこの逸話が検討される。これまで私が読んできた論とは異なる論点が提示されていた。それは考えればすぐに分かることだが,実際にそうした塔を建てるのはエジプトのピラミッド同様,奴隷や戦争捕虜による労働だ。そう考えると,まさにこの隠喩は適切で,今回の2020年東京大会においても,新国立競技場建設に際して,建設作業員の過酷な労働や,また建築資材が国際的な調達基準に準していないものなど,さまざまな問題を引き起こしていた。万博についても同様のことを酒井氏が指摘している。そもそも1970年大阪万博において,その会場を作ったのは釜ヶ崎の日雇い労働者だったという。近年の大阪都構想についても厳しい批判がなされている。
アーティストのいちむらみさこさんは反五輪の会のイベントでお見かけしたことがあるが,どんな作品を作っているのか,野宿生活をしながらのアーティスト活動をしているということは知っていたが,その経緯は知らなかった。そこが語られており,非常に興味深い。彼女は自ら望んで野宿生活を続けているという。本書に一貫して主張されているのは「成長」言説の解体である。都市としても個人としても。そして個人としても都市としても,行政としてもこの成長を掻き立てようとするのが,オリンピックや万博といったメガ・イベントである。そういえば,学術的にも「成長マシーン論」でメガ・イベントを扱う研究があった。アーティストとして,良い作品を作ること。それは多くの人に見られる作品,評論家がよい評価を与える作品,高価で取引される作品,美術館やギャラリーで展示される作品,というのが一般的だが,いちむら氏はそこに疑問を抱いている。それはホームレスについても然りである。社会的にはホームレスは単にお金がないためにその立場に甘んじているのであり,お金があれば住宅に住み,職に就き,お金を稼いでお金を使う。まさに労働が国民の義務であり,納税の義務も労働の義務を果たしたからこそ果たし得る。しかし,極力お金を稼がない,使わない,という生活を自らが選ぶことも基本的人権である。「文化的な最低限度の生活」でいう文化的なとは何を意味しているのだろうか。そんなことを考えさせられる。
田中はオリンピックにおける女性参加についてこれまでも書いてきたが,本書においては2025年大阪万博における女性参加について紹介している。もちろん,現段階でそれが万博会場で実現されるわけではないが,現時点で提案されているものとして,「生理体験シート」「陣痛シミュレーター」「妊娠体験スーツ」を挙げ,その女性を極めて特殊な存在に押し込めようとするありかたを批判している。個人的に感銘を受けたのは坂井氏のパラリンピックに関する検討である。私は膨大な量のオリンピック研究を前にして,とりあえずパラリンピックを除外するしかなかった。オリンピック競技自体も競技者を男性と女性に線引きすることが批判されているが,パラリンピックはまさに何重にも人間を線引きし,表立って主張されている「インクルーシブ社会」とは正反対の道へと進んでいる。井谷氏による植民地主義の話は以前から書かれていた。しかし,本書の文章は13ページと短いながら,重要な論点がしっかり出そろっていて,素晴らしくまとめられている。以前にもオリンピックに対しては,学術研究者でも学術的な厳密さを欠いた感情論的な批判が,特に日本では多いと感じている。しかし,本書はその正当な感情がしっかりと基礎をなしていて,学術研究者として云々ということではなく,市民として,人間として正当なことが語られつつ,メガ・イベントに対する批判がなされていると思う。

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スポーツの魅惑とメディアの誘惑

阿部 潔(2008):『スポーツの魅惑とメディアの誘惑――身体/国家のカルチュラル・スタディーズ』世界思想社,281p.2,300円.

 

阿部氏の著作を遡って読むことにしました。オリンピックものに続いてスポーツもの。阿部さんは自身がテーマとしているものについての個人体なきっかけを書いてくれる人である。本書の「あとがき」にも「子供のときから,スポーツとメディアが好きだった」(p.275)とある。具体的にどのスポーツをやっていたかについては書かれていない。私は小学校3年生から野球を始め,中学校の部活まで続けていた。高校に入って野球はやめてしまうが,より自主的なスポーツを,ということでバドミントン愛好会に所属した。
果たして私はスポーツが好きだったのだろうか?私の父はスポーツが好きだったのだと思う。自身はテニスをし,ゴルフも人並みにたしなんだ。平日も早めに帰宅し,野球のナイター中継を見ながら家族で夕食を取った。相撲の場所が始まれば見ていたし,高校野球も然り。テニスの大会,ゴルフ,バレーボールのワールドカップ。サッカーはまだJリーグ設立前でテレビで放映される機会は少なかったが,ラグビーも見ていた気がする。ともかく,テレビで中継のあるスポーツはほとんど見て,それ以外にも囲碁や将棋といったNHKのチャンネルもよく見ていたうちの父親。それが標準かどうかは分からないが,そんななかで育った私は好き嫌いとは無関係にスポーツとメディアに囲まれる日々だった。確かに,私もメディア研究を志したが,スポーツを研究するなどほとんど思いついたことはない。体が小さいだけで,水泳以外,学校で行われる競技のほとんどで並み以上の成績をおさめていた私だが,おそらく今日の私を知る多くの人は私のことを文科系の運動音痴と思っていることだろう。
かなり私的なわき道にそれました。読書に入りましょう。

プロローグ
第I部 「身体」をめぐるナラティブとしてのスポーツ/メディア
 イントロダクション
 第1章 「スポーツする身体」への眼差し
 第2章 アスリートを語る「声」の攻防
 第3章 ホモソーシャルな関係の魅惑
 第4章 感動を喚起する「物語」の文法
第II部 「国家」をめぐるポリティクスとしてのスポーツ/メディア
 イントロダクション
 第5章 スポーツにおける「ナショナルなもの」の表象/代表
 第6章 「日本らしさ」の自己遂行
 第7章 「民族」のリアリティと「歴史」の現在
 第8章 オリンピック・スペクタクルの過去/現在
 第9章 グローバルな祝祭とセキュリティへの不安
 エピローグ

本書の存在は知っていたが,思った以上にオリンピックを扱った部分が多いことに今更ながら気づき,日本のオリンピック研究のレビュー論文で取り上げなかったことを後悔。本書に収録された既出論文が,ジェンダー関係の論文集やテレビ視聴に関する論文集に掲載されたものもあるように,本書のなかにジェンダーを論じた割合は大きい。またテレビ番組の解読もよく登場する。著者としては,カルチュラル・スタディーズを強く意識して編んだ本でもあり,表象や言説といった概念についても丁寧な説明が加えられている。
第2章では1996年アトランタ大会の女子マラソンで,金銀銅に輝いた3選手,ロバ,エゴロワ,有森裕子を取り上げたNHKスペシャル『女子マラソンメダリストの証言』を見事に分析する。ジェンダー論にメディア論,ナショナリズム論にグローバル論も含めた手堅い分析。第3章はよく思うことではあるが,学術界できちんと論じていることに安心する,スポーツ界での男同士の絆,ホモソーシャルな関係を,特に日本のプロレス界を事例に,こちらもドキュメンタリー番組の分析によって論じている。これらを通して,第4章ではドキュメンタリーの語りの手法について検討し,2000年シドニー大会の女子マラソンに出場した(しなかった)日本選手のドキュメンタリー番組を事例にしている。ここでは,番組を制作したプロデューサーへのインタビューも行い,分析に深みを与えている。
後半は前著(『彷徨えるナショナリズム』)でテーマとしたナショナリズムへと移行する。第6章の1998年長野大会の開会式についての分析は既出論文で読んでいた。こちらは開会式のテレビ放映を元にした分析だとは思うけど,ここでのメディア演出に関しては問われない。ここでは,開会式後に発表されたさまざまな人のメディアを媒体とした反応を分析している。まあ,ある種の受容分析といえるか。第7章では2000年シドニー大会の開会式を事例にするが,ここでは南北朝鮮の合同行進を取り上げている。こちらも,その物自体やその表現ではなく,日本のテレビにおけるコメンテイターの意見,そして大学生・大学院生を使ったグループディスカッションを行ったその結果の分析である。表題にあるように,「民族」と「歴史」がテーマとなる。日本国内の問題から,東アジア,そして第8章では,世界を対象とし,1964年東京大会,1984年ロサンゼルス大会,2004年アテネ大会の開会式の分析を通し,世界がどのように表象されるかを分析する。
こうして本書を通読して,本書は著者の研究者としての資質が非常に良い形でつぎ込まれているように思う。阿部氏は文献派ではない。本書では,モーレーとロビンスの翻訳されていない著書についてページを割いて説明しているが,それは珍しい例であり,大抵は○○の言うところの「△△」みたいな感じで,有名な論者の学説のエッセンスのみを使う感じ。また,事例研究のなかでも他人が行った研究を活用するような場面は少なく,自身によるメディア視聴,それに加えた調査を行い,分析をする。分析についても意識調査の集計程度の数値化はあるが,何か特別な技法を使った分析は少ない。字数の限られた学術雑誌では難しい,文字による丁寧な説明が特徴といえるかもしれない。事例研究を利用して難解な理論へと接続するような志向ではなく,むしろ難解な理論のエッセンスを利用して事例研究を通して現実社会を理解する,そういう研究者だと思う。最後に,オリンピックに関して本書の多くの部分が語られていたが,いずれも事後的な研究である。先日紹介した『東京オリンピックの社会学』は開催前の研究であり,そういう意味では決定的に異なる,ということに注意しなければならないだろう。

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