書籍・雑誌

【読書日記】遠藤 貢・阪本拓人編『ようこそアフリカ世界へ』

遠藤 貢・阪本拓人編(2022):『シリーズ地域研究のすすめ② ようこそアフリカ世界へ』昭和堂,261p.,2,400円.

 

非常勤先の授業「人文地理学」では,前期に日本地理を,後期に世界地理を教えていて,後期はラコスト『地図で見る国際関係』を中心に世界各地の話題をやっていて,後半にアフリカの回がある。私のアフリカに関する知識は限りなく浅く,はじめの頃はラコストの本でも学びが多かったが,ここ数年は自分自身のアップデートを必要と感じていたが,そんな時にブックオフで本書に出会った。漠然とこれについて学ぼうとした時にどの本を読んだらいいのかはなかなか決めかねるのだが,比較的出版も最近で,多様な分野からの執筆陣を集めている本書は,本当に今私が読むべき本だった。

序章 アフリカ世界の魅力:遠藤 貢
第1章 地理と自然――多様な景観が織りなす大地:藤岡悠一郞
 コラム① 多様な生態資源と食文化:藤岡悠一郎
第2章 人々と生活――多様性、連続性、創造性:佐川 徹
 コラム② 「正しい法」の承認――外部からの介入が受容されるとき:川口博子
第3章 人々の世界観――ひらかれ、つながる秩序と信念:橋本栄莉
 コラム③ 悪魔と妖術師:村津 蘭
第4章 独立前の歴史――複数世界のなかのアフリカ史:中尾世治
 コラム④ 歴史を再構成するための手法:中尾世治
第5章 独立後の歴史――国家建設の期待と苦悩:阪本拓人
 コラム⑤ モブツ――冷戦の創造物:武内進一
第6章 国家と政治――揺らぐ国家像と政治体制の変容:遠藤 貢
 コラム⑥ Extraversion――外向性・外翻:遠藤 貢
第7章 経済と開発――市場のなかのアフリカ:出町一恵
 コラム⑦ 統計がないということ:出町一恵
第8章 越境する人々――移動によって広がるアフリカ世界:松本尚之
 コラム⑧ アフリカの中華料理:川口幸大
第9章 感染症――アフリカは感染症対策の主役となれるのか:玉井 隆
 コラム⑨ 「マラリアなので早退します!」――感染症と共に在る世界での生き方:玉井 隆
第10章 教育――問われる学校の意義:有井晴香
 コラム⑩ カンニング――通信環境の発達の影:有井晴香
第11章 社会的包摂と排除――見落とされてきた地域社会の構成員:仲尾友貴恵
 コラム⑪ ジェンダー――新たなアフリカの発見にむけて:眞城百華
第12章 国際関係――重層的つながりのなかでの国家:阪本拓人
 コラム⑫ 現代アフリカの水政治:hydropolitics――ナイル川をめぐる流域国間の対立:阪本拓人
第13章 日本との関わり――その歴史を辿る:溝辺泰雄
 コラム⑬ ナイジェリアの「日本通り:ジャパンロード」:溝辺泰雄

こちらも読了後大分経ってしまっていて詳細に解説できないが,まずは第1章でアフリカの自然地理が,地理学者によって執筆されていることを喜びたい。とはいえ,著者の藤岡さんのことは知らなかった。九州大学所属ということだが,こんなスケールでアフリカの自然について知ることはなかなかないので貴重な読書だった。単なる自然そのものの在り方だけでなく,「人為生態系」などという言葉も使っていて,焼き畑を含む人間活動による自然の変遷も論じている。目次に書いたように,本書には各章にコラムが付けられていて,同じ著者による各論的なものもあれば,違い著者による異なる視点の提供もある。
以前,私は宇佐美久美子さんの『アフリカ史の意味』という1996年に出版された山川出版社の「世界史リブレット」シリーズの小冊子を読んだ。その本も非常に興味深く,特に植民地支配以前の時代について,アフリカは多様でしかも小さな部族同士が交流し,移動していたという史実から,アフリカをダイナミックに捉える視点を与えてくれた。本書でも植民地以前のそうした状況に簡単に触れながら,植民地時代から21世紀の現代までを射程に入れ,政治,経済,感染症,教育,ジェンダー,国際関係と様々な分野についてその現状と課題について議論している。
特に私が知りたかったのは,なぜアフリカの諸国がいまだに政治的に不安定な状況にあるのかということである。もちろん,近代以降にヨーロッパ諸国によって植民地にされた地域は,いずれも政治的に安定していないともいえる。最初期に19世紀前半に独立したラテンアメリカにおいてもそうではあるが,一方では不安定であるからこそ新しい動向を受け入れるという側面もある。例えば,国会議員における女性の比率などは国によっては世界有数の高さだったりする。第二次世界大戦後すぐに独立したアジア諸国はやはり冷戦の影響が大きいが,それでも経済成長は急速に進んでいる。その一方で,終戦から独立まで時間がかかって1960年代以降に多くの国が独立したアフリカではどうだったのか。ラテンアメリカやアジアについてはある程度植民地化と脱植民地化の過程についての書籍を読んでいるので知っているが,アフリカについてはほとんど知らない。その一方で,最近は中国によるインフラ投資などによる進出と移住についての文章をいくつか読んでいて,アフリカについて無知でいることはできないと感じていた。
本書では4章から6章まで第一次世界大戦における宗主国への派兵から,第二次世界大戦におけるドイツやイタリアによる植民地化が進み,独立に向けた動きとその後の国家建設について丁寧に解説されている。まずもって,ラテンアメリカやアジアと違う大きな点は,植民地の住民が自ら独立運動で勝ち取ったものではないということだ。第二次世界大戦で疲弊した欧米を中心とした国際社会が大戦の大きな原因であった領土拡張=植民地支配をやめるということで,消極的に独立に至ったということだ。しかも,アフリカの諸社会がこれまでやっていた社会統治のあり方は植民地支配によって破壊され,西洋的な社会統治および,近代主権国家と同じ規模の大きすぎる単位で国家建設が要請される。当然,他の旧植民地国がそうであったように,国家を担う人物たちは場合によってかつて植民地政府にすり寄るような現地住民集団だったりする。第5章で示されている興味深いグラフは,独立直後は複数政党制による国家建設を進める国が多かったのに,1990年代までより良いものとした考えに基づいて一党政党制に移行する国が増えてきて,また軍事政権も一定数を占めている。複数政党制が圧倒的多数になっていくのは1990年代以降である。また,第6章では大統領一極主義の度合いと汚職の度合いの相関関係を示している。
日本も経済的に豊かだった1980年代には,当時よく報じられていたようにアフリカ諸国に経済開発援助をしてきたように,特に旧宗主国だった先進諸国によるアフリカに対して開発援助が長らくなされてきた。その援助がどんな産業に向けられてきたのかという視点で,第7章は興味深い。先進諸国では,第一次産業が発展して増加する人口を支えるほどの生産量を確保した上で第二次産業が発展してという形で,第一次→第二次→第三次産業と社会形態は進展してきた。そんなこともあり,アフリカでも主に開発援助は第二次産業に向けられたことでアフリカ諸国の産業構造の歪みが生じたと論じている。そんな感じで,第8章以降も興味深い議論が展開され,特に21世紀の今日の状態に向けていろいろ考えさせられる本である。
本書の執筆者の今後の研究・著作に注目しながら,アフリカ研究の動向を追っていきたいと思う。

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【読書日記】木村草太『自衛隊と憲法』

木村草太(2018):『自衛隊と憲法――これからの改憲論議のために』晶文社,206p.,1,450円.

 

私が日本共産党に入党して,自衛隊の問題は私のなかでも具体的に考えないといけない問題になった。私は本書の第六章で論じられている2015年安保法制をめぐる攻防の時にものほほんと子育てしていたし(二人目の子は2014年11月生まれ),2011年の福島原発事故後の原発反対運動が盛んな時にも同じだった(一人目の子は2010年10月生まれ)。今とは違って,世の中への不満はあったが,具体的な政治批判ではなく抽象的な社会認識への批判を学術的な立場から行おうとしていた。
とはいえ,基本的には戦争反対の意思を強く持っていて,世界から戦争をなくすには武器をなくすのが一番の近道と,軍需産業や軍産官複合体のことなど知ろうともせず,漠然と思っていた。なので,自衛隊は憲法9条に違反するし,解体すべきと思っていて,そういった点では入党以前に日本共産党の基本的な考え方と一致していたといってもよい。それはともかく,入党の時期と平行して政治が私の最重要関心ごとになってきたわけだが,それまでは自民党が憲法改正を党是としていたことなんかも知らなかったし,特に憲法9条を目の敵のようにしていることも知らなかった。まあ,自衛隊の存在を確たるものにするためには改憲も必要なのかもしれないが,そういう関心を強めた時,登場するのが本書の著者,木村草太氏だった。しかも,彼は私の出身大学である東京都立大学の教授をしているし,親近感を持ってさまざまな動画でその姿を拝見し,意見を聴いていた。とあるブックオフで本書を複数冊見つけ,とりあえず読んでみることにした。読みながら別の日にブックオフの別の店舗の棚を見ていたら,なんと本書にはすでに増補版が出ているとのことだが,とりあえず読み続けることにした。

はじめに
序章 憲法改正の手続き
第一章 国際法と武力行使
第二章 憲法9条とその意義
第三章 政府の憲法9条解釈
第四章 裁判所の憲法9条解釈
第五章 自衛隊関係法の体系
第六章 2015年安保法制と集団的自衛権
第七章 自衛隊明記改憲について
第八章 緊急事態条項について
第九章 その他の改憲提案について

読了から少し経ち,本書の内容を簡潔に説明することができないが,なんとなくあったもやもやが晴れたような気がする。著者は学者なので,自衛隊の改憲案に対して絶対反対のような意見を表明するわけではない。むしろ,絶対反対と思っているような読者にその根拠と改憲の思想的背景やさまざまな事項の間の整合性や矛盾を丁寧に解説してくれている。かといって,著者はどちらの政治的立場も取らないという研究者にときおりある無責任な立場を取っているわけではない。その辺りのバランス感覚のよさを感じた。
さて,私の一つのうる覚えの知識だったのが,自衛隊をめぐる裁判のこと。本書ではそれもきちんと押さえています。1962年に北海道恵庭町に住む酪農家が,自衛隊演習場の通信線を切断したという事件。訴えた検察側は自衛隊法に照らして違法としたが,札幌地裁は自衛隊法とは関係ないということで無罪を言い渡す。ここでは自衛隊の存在自体の違憲性は議論されていない。次に,1969年の同じく北海道の長沼ナイキ訴訟。自衛隊施設の設置のために保安林を伐採することになり,周辺住民が自衛隊の違憲性を訴えた裁判。札幌地裁では,自衛隊を違憲とした。しかし,札幌高裁,最高裁では自衛隊の違憲性を議論することなく,住民の訴えを門前払いしたという。時代は遡って1958年には茨城県の百里基地で土地の売買をめぐって住民が自衛隊が違憲であるという争点で訴えるが,水戸地裁では自衛隊を合憲とする。東京高裁と最高裁では訴えを自衛隊の問題とは無関係とした。最後が1957年の東京都立川市の砂川裁判。米軍立川基地の拡張に反対する住民が敷地に侵入して起訴される。これは自衛隊の違憲性を判断するものではないが,在日米軍基地が憲法9条に抵触するかという重要なもので,東京地裁では違憲とし,住民に無罪を言い渡した。しかし,最高裁では在日米軍は日本政府の指揮下にはないということで,違憲とは認めない判決をした。政府はこの最高裁判断を根拠に日米安保条約の正当性を主張するという。
まあ,そんな感じで2015年安保法制の話へと議論は展開するのだが,細かく説明するのはやめておきます。ともかく,憲法改正の手続きの話も含め,機会あるごとに振り返りたい基礎的な知識が詰まっている本だといえます。

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【読書日記】いちむらみさこ『ホームレスでいること』

いちむらみさこ(2024):『ホームレスでいること――見えるものと見えないもののあいだ』創元社,157p.,1,400円.

 

本書は「10代以上のすべての人に」と題された「あいだで考える」というシリーズの1冊。小ぶりな版でページ数も少なく,素敵なデザインの一冊。本書もいちむらさん自身の筆によるカラーの作品で飾られている。著者についてはこの読書日記でも何度か書いてはいるが,本書はご自身の経緯も含めて詳しく書かれているので,改めて説明しておきたい。

はじめに
1
章 公園のテント村に住みはじめる
2
章 ホームレスでいること
3
章 わたしたちのゆれる身体
4
章 切り抜けるための想像力

本書の冒頭は「東京の真ん中にある森林公園のずっと奥に,ブルーテントの村がある。」(p.9)という文章から始まる。著者がここに住みはじめたのは20年前からだという。当時,公園内には350軒ほどの小屋やテントがあったというが,現在は15軒ほど,40名ほどの暮らしがあるという。その公園が何公園かは書かれておらず,私自身も東京でホームレスがまとまって暮らしている場所などは知らない。日本の地理学者にはホームレスの研究をしている人が少なくないが,大阪に偏っているため東京の事情は分からない。
本書で著者がブルーテント村の住人になることを選択することになった具体的な経緯が語られているわけではない。現在でもいちむらさんは絵画を中心としたアーティストだが,おそらくアート関係で生計を立てられていたわけではないと思う。何らかの形で給料をもらう勤務形態を取っていたが,その生活に耐えかねてブルーテントの住民になる。私は大学院まで出て無利子の奨学金を600万円以上かかえていたものの,博士課程の時から非正規で働いていた会社の給料は単身生活には十分すぎ,結婚する時にはまだ若干奨学金の返済が残っていたが,卒業時の奨学金とほぼ同額の貯金もあったので,一人暮らしの時はお金に困ったことはなかった(まあ,大した贅沢もしない質素な生活だったが)。それが結婚して子どもが生まれ,持ち家を立てるということになり,その住宅ローンの頭金ということで貯金は全くなくなり,それから15年,全く上がらない給料を毎月もらわないとローンも支払えない自転車操業の日々が続いている。その会社の仕事にも嫌気がさしてきたが,転職するにしても給料が下がってはいけない,1か月でも給料のない隙間期間を作ってはいけない,などの厳しい条件の下で,なんとなく今の仕事を続けている毎日。もうすでに私には家族がいて,有体のいい方をすればかれらを路頭に迷わせるわけにはいかないが,いわゆる家賃というものに振り回されない生活があるというのは,いちむらさんの生活スタイルを知った時に目からうろこという衝撃だった。地理学におけるホームレス研究の多くが日雇い労働者を対象としたものだったので,建設現場の日雇い労働をする高齢男性が中心であると同時に,その生活実態を明らかにするような研究ではなかったので,固定された家や職というものから自由である存在ということは知っていたし,かれらはいうなれば資本主義のシステムにうまく利用されながら(搾取され),それでいてそのシステムにうまく乗れた人には与えられる生活保障にはあずかれないという存在だった。しかし,いちむらさんはあえてその資本主義のシステムには乗らず,利用されず,逆に食料や衣料の過剰生産のおこぼれを活用するという形で資本主義に抗いながら利用するという生き方は理想的のようにも思えた。もちろん,例えば冬のような季節であれば,家があれば寒さから逃れ,比較的容易に暖を得ることもできる。屋外の生活ではそうはいかないわけだし,食についても13度決まって摂らなければならないということからは自由だが,本当に欲しい時に摂ることができないというリスクを常に背負っている。そういう意味で,もし家族などから自由であったとしても,そこに身を投じる勇気は私にはない。著者の存在は私にとって憧れであり続けるのだ。
先にも書いたように,いちむらさんが住むようになって20年間で,ブルーテント村の住人は激減している。本書によればそれは行政の成果である。表向きにはホームレス状態で困っている人に手を差し伸べ,生活保護につなげ,社会復帰をさせてきた,という行政の成果に見えるだろう。しかし,少し前では東京の渋谷区のいくつかの公園再開発で,最近では大阪の釜ヶ崎(まさに大阪の地理学者たちが研究し続けているフィールドだ)で暴力的にホームレスの追い出しが行われた。いちむらさんたちが住むブルーテント村はそういう分かりやすい一掃追い出しはなかったようだが,まずは新しい住民を増やさないということが決められ,実行されたという。今住んでいる人は(既得権益として)住むことを認められるが,新しい人は住まわせない。ということは,行政側が現在住んでいる人のことを全員把握しているということだ。さらにいえば,2人で1つのテントに住んでいた人が何らかの事情で2つに別れるとか,テントを別の場所に変更するとか,そういうことも認められないのだろう。テント以外の場所でとどまろうものなら,そうした場所に水をまいたり,さまざまな形で嫌がらせをするという。そして,頻繁に住民に声をかけ支援へとつなげる。支援につなげると書けばよいことのように思うが,実態はそうでもないらしい。劣悪な居住環境に押し込められたりして,ブルーテント村に戻ってくる人も多いという。しかし,戻ってくるというのは行政にとっては新規参入者と同じ扱いになるので,そこで居住が許されるわけではない。そもそもホームレスの方々はさまざまな事情で今の生活に落ち着いており,また様々な試行錯誤を繰り返して自分なりに快適な生活をそこで築こうとしているのだが,行政はそれを理解していないし,理解しようともしない。いや,そもそも私も以前はまったく理解できていなかったし,多くの人も同じように理解しようともしないのだろう。いずれにせよ,普通に生活している人の姿も見えにくくなっている今日の社会のなかで,そもそもが見えないものとされているホームレスの生活実態は,いちむらさんのような活動がなければ理解するすべもないのだ。
いちむらさんの発信がさらに重要なのは,女性のホームレスの立場からの発信であること。それは単にいちむらさんが女性であるとういうことだけではなく,彼女自身が一般社会とはまた少し違った意味あいでの男性中心社会であるブルーテント村において,女性の居場所を作り続けているということ。それはとかく孤立しがちなホームレス社会のなかでの女性であるいちむらさんが自分自身の安全のためもあるが,同様の立場に立たされている女性たちの安全も確保するために,女性同士で連帯することを行ってきた。とはいえ,いちむらさんのすごいところは相手の立場や主体性を常に優先的に考え,無理やりにではなく,自主的に参加しやすい場を作り上げているところだ。
それから本書では,2020年に予定されていて2021年に開催された東京オリンピックに関することも書かれている。いちむらさんが反五輪の会のメンバーとして,2020年東京五輪大会で重要な反対運動をしていた(今でも続いている)ことはこのblogでも再三書いたが,本書ではホームレスとの関係で詳しく書かれている。オリンピック反対運動としては,明治公園でのホームレス追い出しの事件が中心だが,新国立競技場建て替えという大きな問題だけでなく,特に渋谷区に関しては現在まで続く公園の再開発とそれに伴うホームレスの追い出しは長期間にわたって繰り広げられているのだ。その筋では有名になった宮下公園(現ミヤシタパーク)から始まって,現在でも美竹公園が再開発進行中であって,その近辺では,公園という限定された空間だけでなく,公園と公園を線で結ぶような通り全体においてホームレスの痕跡を消し去り,きれいなものに置き換えていくというまさにジェントリフィケーションが進行しているのだ。そうした動きに対していちむらさんたちは抵抗し,ホームレスの痕跡を残し,自らの居場所を主張し,道行く人たちにもその存在を知らせ,かつ排除するのではなく共存していく道を考えさせるような活動を行っている。そう,ホームレスを追い出そうとするのは国家権力や行政だけではない。直接手を下すのは行政から委託された民間の建設業者であり,さらにそこから委託を受けた警備会社である。そして,道行く人もホームレスに嫌がらせをし,暴力をし,排除に手を貸すのだ。世界中で起きている宗教や民族,性的志向などマイノリティを社会から排除する力と同じ構造がそこかしこで進行していて,しかし一方では当事者が声を上げ,市民の一部がそれに連帯し,という動きもある。
ともかく,本書はそうしたマイノリティの生き方について深く考えるきっかけを与えていれるものであり,多くの人に読んでもらいたいと思う。

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【読書日記】『地平』創刊号,2024年7月特集「コトバの復興」

『地平』地平社,2024年7月創刊号,256p.,990円.

 

岩波書店の雑誌『世界』の編集長を務めていたという熊谷伸一郎氏が新しく出版社を立ち上げ,月刊誌を発行するということで話題になっていた。とりあえず創刊号は買っておこうと思ったら,パートナーが購入してきてくれた。早速読もうとは思っていたものの,後期の授業が近づいてきて授業準備のために読まなければいけない本があるのと,思ったよりも本誌が話題にされていて,何となく波に乗り遅れた感があり,なかなか読むことができなかった。月刊誌なので,そのうちにも次々と刊行されたが,購入はしなかった。とはいえ,パレスチナの特集もあって,早尾さんの文章は読んでおきたいと思って読み始めたら一気に読んでしまった。改めて編集者の力量を思い知らされた読書だった。とはいえ,結局8月号以降も買ってはいないのだが,私のなかでは毎号の特集は気にかけるべき雑誌となったことは間違いない。

創刊特集 コトバの復興
創刊にあたって
 酒井隆史:〝過激な中道〟に抗して――新しい地平を切り拓く作業へ
 師岡カリーマ・エルサムニー:圧政者が恐れるもの――言葉のただならぬ重みをめぐって
 三宅芳夫:「リベラルな国際秩序」の終焉?――グローバル冷戦と米覇権秩序
 雨宮処凛:消費されない言葉を!――貧困の現場からの模索
 吉田千亜:言葉と原発 根を張る言葉、葬られる言葉
 尾崎孝史:(新連載)ウクライナ通信 ドンバスの風に吹かれて
 阿部 岳:沖縄に倚りかからず
 神子島健:雑誌と同志――青鞜・世界文化・近きより
 花田達朗:(短期連載)第三のジャーナリズム
緊急特集 パレスチナとともに
 岡 真理:ガザ 存在の耐えられない軽さ
 早尾貴紀:イスラエルの過剰な攻撃性に関する三つの問いをめぐって
 ムハンマド・セーラム:Photos:GAZA
 栗田禎子:ガザ侵攻に抗うグローバルサウス
 三牧聖子:ジェノサイドを否定するアメリカ ジェノサイドに抗するアメリカ
【座談会】杉原浩司×松下新土×古瀬菜々子×溝川貴己 暴力と不公正に声をあげつづける
 アーティフ・アブー・サイフ:軍事侵攻下のパレスチナから
 中野真紀子:パレスチナの声を聴く
知層 News In-Depth
 山本昭代:メキシコ「麻薬戦争」と新政権の課題
 小池宏隆:脱プラスチック社会へ――国際社会の動きと日本政府
 武田真一郎:国は何を「指示」したいのか―地方自治法改正の問題点
 鈴木雅子:移民なき「共生」社会?――入管法改正の問題点
●【特別鼎談】地域・メディア・市民:岸本聡子、南 彰、内田聖子
●短期連載
 天笠啓祐:フッ素の社会史 PFAS問題の淵源 第1回 メロン財閥と「夢の物質」
 佐藤 寛:イエメン――忘れられし者の存在証明
●新連載
 七沢 潔:ルポ・震源地からの伝言 珠洲原発を止めた人々 第1回 孤立集落の連携プレー
 樫田秀樹:ルポ・会社をどう罰するか? 第1回 笹子トンネル天井板崩落事故
 山岡淳一郎:ルポ・薬と日本人 第1回 市販薬依存 修羅からの脱出
 後藤秀典:ルポ・司法崩壊 第1回 原発訴訟にみる最高裁の堕落
 栖来ひかり:台湾・麗しの島だより 第1回 移行期正義の練習帳①
 石田昌隆:Sounds of World 第1回 スザンヌ・ヴェガ
 池内 了:危機に瀕するアカデミア――軍拡バブルのもとで
 小林美穂子:桐生市事件 生活保護が半減した市で何が起きていたか
●書評 Independent Book Review
 清田義昭:七万冊を是とする—出版とはどのような営為か
 今福龍太:〈詩の親密圏〉へのいざない—『シュテファン・バチウ』をめぐって
 大森皓太:風を感じる本

目次を見た時,ちょっとすぐに読もうという気は起らなかった。編集長はおそらく出版界では有名な方で,彼が声をかければ多くの人がそれに答えるのだろう。私が普段観ているYouTube番組などに登場する著名な方の多くが寄稿しているのが分かったからだ。そのなかには大学の研究者もいるのだが,出版界で,あるいは独立系報道YouTube番組などで重用される人がそこそこ限定されていることが多少気になっている。もちろん,執筆やYouTubeなどでのトークはそこそこ訓練が必要で,回を重ねればそれだけ熟達することは間違いない。しかし,多様な意見を集めたり,新たな執筆者や発言者を見出していくということが編集者の力量だとも思う。もちろん,本誌には私の知らない人も多く執筆されているので,その力量は私が言わずとも十分すぎるほどあるということは読んでみて分かったが,読む前の印象はそんな感じだった。
ちなみに,岡 真里さんは,『現代思想』の論文で知り,いくつか読んだ後,2000年に岩波書店から出ている「思考のフロンティア」というシリーズで出ている『記憶/物語』という本を読んだ切り,それが難解だったために,彼女の文章を読んでこなかった。今は,ガザの問題で呼ばれればどこでも話すという感じでの講演活動をしているが,こういう形で活字でしっかり読んでおくのも重要だ。早尾貴紀さんは私が非常勤で務める東京経済大学の教員であるにもかかわらず,202310月以前は知らなかった。Twitterでパレスチナ関連の情報源としてお世話になっていたが,彼の著書や訳書もまだ手には取っていない。本誌に掲載された文章はまだまだ知られていなかったり考えの及んでいないことがあるということを思い知らされる素晴らしいもの。
栗田さんや三牧さんも最近知った研究者だが,やはりこうして一定の分量のある文章を活字で読むことの大切さを改めて感じる。
創刊特集の「コトバの復興」というタイトルの意味するところはあまり汲み取れなかった。まあ,いわゆる大手新聞を代表とするマス・メディアの凋落についてはいわずもがなだが,このタイトルはそれに加えて紙の新聞からネットメディアに,文字情報から映像へと流れていく傾向に対して本誌はあるべき姿のジャーナリズムの場を作っていこうという宣言だといえる。以前,NoHateTVでも話題になった極中=過激な中道(extreme center)が酒井さんの手でしっかり説明されているし,原発,ウクライナ,沖縄といったホットな話題の最前線が報告される。
鼎談はいずれも,地平社から著書を出している人物3人によるものなので,かなり宣伝的なものではあるが,宣伝として魅力的な対談になっているともいえる。桐生市の生活保護の問題は複数のYouTube番組でかなり詳しく知ったものではあるが,こうして活字に残されるということは大きい。デモクラシータイムスのMCで知っていた山岡淳一郎氏の記事を読むというのも新鮮で,また市販薬物依存というテーマも嬉しい。笹子トンネル事故に関する記事は非常に貴重なものである。今福龍太さんというのは失礼ながら今更なんて思ってしまったが,昨年出版された阪本佳郎さんの『シュテファン・バチウ』というあまり知られていない人物についての研究書を評者自身とバチウ,そして著者との関係性を紐解きながら紹介するその手腕はさすがだと思った。
いずれにせよ,毎月出されるのは少しもったいないと思うような雑誌だった。季刊くらいにしてもらったら,じっくり読めるのにな,なんて思ったり。

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【読書日記】伊東俊太郎『比較文明』

伊東俊太郎(1985):『比較文明』東京大学出版会,258p.,1,400円.

 

伊東俊太郎さんの本は『一語の辞典 自然』(1999年,三省堂)以来二冊目。他にもシンポジウムの報告なども読んだことはあって,科学史や文明史といった研究領域のかなり著名な学者だということは知っていたが,本格的な著書を読むのは初めて。たまたま,古書店で見つけた。非常勤先の授業で,ハンチントン『文明の衝突』の解説をする回があるが,大学図書館で借りて読んだため,年を経るごとに説明がかなりいい加減になっていくのでどうにかしたいと思っていたところ。同種の議論の別の側面からの解説を加えられるのにちょうどよいということで早速読むことにした。
文明civilizationという語は,特にフランスではヨーロッパ科学などの典型例として普遍的な唯一のものという考えがあるが,ウォーラーステインも『ポスト・アメリカ』のなかで文明複数形を論じていたし,まさにハンチントンは世界を8つの文明に区分するということで,当時としては斬新な発想ということで注目された。国の数だけ国民文化があるのではなく,資本主義 対 共産主義という二大区分でもなく,8つという多くも少なくもない世界の理解がウケたのだと思う。しかし,その文明はその多くが宗教と結びついていて,短絡的な読者はキリスト教 対 イスラーム教のような衝突を正当化するものとして利用したようにも思う。そういう意味で,本書は歴史的な経緯を踏まえ,そうした文明の違いの単純さを回避するという意味でも重要な議論だと思う。

はじめに
I
 比較文明論の枠組
 1 文化と文明
 2 地球的文明史に向かって
 3 新しい人類史の時代区分――五つの「革命」について
II
 比較科学史の射程
 4 比較科学史の基礎視角
 5 比較数学史の途
 6 自然の概念――東洋と西洋
III
 地中海世界――イスラムとヨーロッパ
 7 地中海文明の構造
 8 12世紀ルネサンス――西欧文明へのアラビアの影響
 9 地中海世界の風景
IV
 比較文明論の対話
 10 比較文明学の建設:対談/梅棹忠雄
 11 比較思想の地平:対談/中村 元
 12 地球時代の文明史像:対談/吉沢五郎
結び「世界学」のすすめ
あとがき

本書の内容は,著者がさまざまな媒体に書いてきた文章を基礎としていて古いところでは1969年から,1970年代1980年代と四半世紀に及ぶ研究成果が収められている。著者による比較文明史という視角は,やはり本書で対談もしている梅棹忠雄の「文明の生態史観」への疑問からきているとしている。とはいえ,伊東氏の元基の研究領域はヨーロッパの科学史ということだったが,シュペングラーの『西洋の没落』(1918-22)の辺りから西洋文明を普遍的に優れたものだとする考えに疑義が呈されるなか,著者はヨーロッパ科学の歴史を遡り,古代ギリシア哲学とルネサンスの間の時代について模索していたようだ。その辺りのことは私の場合はアブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』において,13世紀のユーラシアにおいては,ヨーロッパよりも圧倒的にイスラーム=アラブ世界が発展していて,古代ギリシア哲学を生み出したヨーロッパもその後はそれらをおざなりにしていて,その間にそれらの知を独自の形で継続的に発展したアラブ人たちの存在があり,ヨーロッパ人はルネサンス期に改めてアラブ人経由で自らの歴史的知を逆輸入するという経緯があり,16世紀以降はヨーロッパ科学の発展が著しくなったということを理解していた。しかし,本書によれば事情はさらに複雑で,そもそも古代ギリシアと呼ぶべき時代と地域(地中海地域)がヨーロッパと呼べるようなものではないという前提に立つ。言われてみればその通りであり,ヨーロッパなる概念が出来上がる経緯についてもきちんと学び直す必要性を感じた。
なお冒頭は,西川長男氏の議論などで分かったつもりでいた,文化と文明の概念の違いについても私の知っていることとは異なる説明もあり,改めて勉強になった。ハンチントンが世界を8つの文明に区分しているのに対し,本書では17の基本文明圏を設定している。とはいえ,ハンチントンはまさに彼が議論していた1990年前後の時代という断面で8つの文明を設定しているが,本書の場合は,古い方からメソポタミア文明,エジプト文明,エーゲ文明,シリア文明,ギリシア・ローマ文明,ペルシア文明,メソアメリカ文明,アンデス文明,ビザンツ文明という9つについては既に終了したものとして特定されている。現在まで継続しているのは,古代から続くものとしてはインド文明と中国文明,それから,エジプト文明から形を変えたアフリカ文明,シリア文明から形を変えたアラビア文明,ギリシア・ローマ文明から継続する西欧文明,中国文明から派生した日本文明,ビザンツ文明から分岐したロシア文明,それからメソアメリカ文明とアンデス文明が滅んだ後に,西欧文明から移植されたアメリカ文明の8文明となっている。現時点ではハンチントンと同じ数か。そして,ハンチントンも梅棹氏と同じように日本を一つの文明と位置付けている。
この長い歴史の文明の盛衰について,著者は「科学革命」論からヒントを得て,5つの革命を設定している。その5つとは,決して独自のものではないが,人類革命,農業革命,都市革命,精神革命,科学革命である。その科学革命のなかで非常に興味深い議論が,比較数学史というものである。数学というと,(自然)科学の数ある分野のなかでも普遍的なものと思いがちだが,それも文明によって異なるという。それは,操作的・実用的,論証的・形相的,記号的・機能的,公理的・構造的と四つの基本類型があるのだという。ちなみに,日本の数学は操作的・実用的に区分される。なお,ここでいう日本の数学とは近代以前のものである。まあ,この議論は私には難解すぎてよく理解できなかったが。先ほどルネサンスという言葉も出したが,本書で中心的に論じられるのは12世紀ということで,ともかく常識からの転換が必要な読書だった。

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【読書日記】いちむらみさこ『Dearキクチさん,』

いちむらみさこ(2006):『Dearキクチさん,ブルーテント村とチョコレート』キョートット出版,141p.,1,200円.

 

著者のいちむらみさこさんのことを私が知ったのはいつだろうか。研究者仲間から東京オリンピックの共同研究に協力してほしいと依頼を受けたのが2017年のことだ。2020年の東京オリンピックに対して明確に反対の意を表明したものといえば,2014年の『インパクション』であり,そこにいちむらさんが所属していた(所属という表現はあまり相応しくないが)「反五輪の会」も寄稿しているが,個人はイニシャルで特定されていない。私は早い段階で反五輪の会のTwitterアカウントをチェックしていたが,こちらも個人名が出てくるわけではない。2016年に出ている小笠原博毅・山本敦久編『反東京オリンピック宣言』は早い段階で読んだ。こちらにはいちむらさんと一緒に活動している小川てつオさんが寄稿しているが,そのなかにもいちむらさんの名前が出ているわけではなさそうだ。私は結局,反五輪の会の集会には一度しか参加できておらず,参加したのは本来の開催日の一年前に開かれた集会で,2019726日のことだ(自分の誕生日だったのでよく覚えている)。その時には,会場にいたいちむらさんの姿を識別していた。と書いたが,ここで自分の名前を名乗った彼女の姿を名前とともにこの時初めて認識したのかもしれない。いずれいせよ,いちむらさんの存在はそれ以降私のなかで大きなものになった。そんななか,本書もかなり以前にAmazonで購入したのだが,なかなか読めずにいた。20225月に発売された雑誌『エトセトラ』はいちむらみさこさんが責任編集となった特集「くぐりぬけて見つけた場所」については,『地理科学』に書評を書き,当然この特集で一部公開された『小山さんノート』も202310月に発売されてすぐに購入し,読むのに少し時間がかかったが,ここのblogでも紹介した。すると,今度は書店で20248月に発売されていた『ホームレスでいること』という創元社の「あいだで考える 10代以上すべての人に」というシリーズの一冊として出ていたものを知り,購入した。この本を読む前に,やはり本書を読まなくてはということで読んだ次第。

Dearキクチさん,2005.7.10
Dear
キクチさん,2005.7.21
Dear
キクチさん,2005.7.28
Dear
キクチさん,2005.8.10
Dear
キクチさん,2005.8.22
Dear
キクチさん,2005.9.15
Dear
キクチさん,2005.10.17
Dear
キクチさん,2005.10.31
Dear
キクチさん,2005.11.7

目次にあるように,本書は20069月に発行されたが,書かれているのは2005年の夏から秋にかけてのことだ。なお,『小山さんノート』に掲載された小山さんの日記は200410月が最後なので,一応日付は重ならない。私自身がホームレスの生活実態についてほとんどいちむらさんの文章を通してしか知らないため,小川さんとキクチさんがダブってしまったのだが,そもそも本書は一応創作であり,著者もモデルとなった人物が特定されないような配慮をしているのだろう。なお,今このblogを書いている時点ですでに『ホームレスでいること』も読んでいるので,ちょっと内容が混在しているところがあると思います。
いずれにせよ,これらのいちむらさんの仕事(学術界ではこの言葉をよく使うが,ここではあまり相応しくない。「作品」の方がいいか。でも,英語ではどちらもworkなんだよな)を通してホームレスの姿,特にいちむらさんはそのなかの女性(トランスの方も含めて)の姿に焦点を合わせて非常に丁寧に描いている。丁寧にと書いたのは,単純に「詳細に」と呼べるようなものではないことが重要だ。男性的研究者的目線では,どうしてものぞき見趣味的に細部まで見たもの聞いたものを描きたがるが,いちむらさんはフェミニストである根底に人への配慮をする人(これまた人権と書くとなんか違う気がする)なので,もちろんプライバシーには配慮し,また当人の主体性を非常に重視している。だからといって,その人への介入は恐れない。あくまでも自分と相手とを同じ人間として対等なものと考えているのだ。そんな当たり前のこと,と思うかもしれない。私も頭ではそう分かっているが,なかなか完全に対等な立場で具体的な他者と相対することは難しい。相手のことを慮るが故に,声をかけることさえためらうことがあるが,それでは二人の関係性は進展しない。いちむらさんはキクチさんに憧れながらも,彼女が困った時にはためらわずに手を差し伸べる。それは,逆に困った時には相手がためらわずに助けを求められる,そういう関係を築くことなのかもしれない。いずれにせよ,いちむらさんの文章はそういう人間関係の本質的なことを考えさせられ,単に思考を促すのではなく,それを実践へと移していく勇気をもらえるものなのだ。

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【読書日記】柚木麻子『マリはすてきじゃない魔女』

柚木麻子(2023):『マリはすてきじゃない魔女』エトセトラブックス,164p.,1,200円.

 

そこそこ売れている作家である著者だが,私はその存在を知らなかった。『らんたん』という小説が,恵泉女学園の創始者のことを描いている作品ということで,ちょうどそのころ恵泉女学園大学で半年だけ非常勤で教えていたこともあり私のアンテナに引っかかった。すると,私のパートナーの書棚に彼女の作品『BUTTER』などがあるではないですか!『らんたん』はシスターフッドを描いているということで,エトセトラブックスのYouTube番組で代表の松尾さんと対談をしているのを観,しばらくして本書もエトセトラブックスから発売になった。坂口友佳子さんの挿絵入りの児童文学だという。まだまだ文字だけの本を読まない娘に読ませようと購入した次第。娘はなかなか読んでくれないので,まずは私が読むことにした。

1章 ドーナツパニック
2章 魔女の歴史
3章 コウモリパフェ
4章 南極と南国
5章 グウェンダリンの秘密
6章 すてきの代償
7章 魔法だけが魔法じゃない
8章 きょうはみんなの記念日

いやあ,面白かった。挿絵が入っていることもあるけど,アニメ映画にしてほしいと思うほど,頭の中で映像を思い浮かべながら読み進めた。エトセトラブックスから出すくらいだから当然さまざまな人権に配慮していて,ジェンダーやセクシュアリティ,ルッキズムはもちろんのこと,社会規範,多数派と少数派,偏見や差別,連帯や抵抗,そうした社会的テーマも多分に含んでる。まあ,こんな私がこの作品に対してうまいことコメントできるわけもないので,この辺で。ともかく,読んでほしい。

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【読書日記】リチャード・パイプス『共産主義が見た夢』

リチャード・パイプス著,飯嶋貴子訳(2007):『共産主義が見た夢』ランダムハウス講談社,222p.2,000円.

 

本書日本語版の帯には「実践の過失か,思想としての欠陥か?20世紀を揺るがした一大実験の本質を探る」とある。日本共産党員としては非常に衝撃的な読書だった。私たち日本共産党員は,「日本共産党が政権を握ると,ソ連や中国のような社会になるから嫌だ」という一般的な批判があることを知る。そして,「ソ連や中国は資本主義としての経済発展と民主主義の発達がないまま共産主義・社会主義に進んでいったため,マルクスが理想とする社会を実現できなかったのだ」と教えられ,現在の日本共産党は共産主義=全ての私的財産の共有化は掲げておらず,民主主義の達成を第一の目標とし,多数者革命(民意を得た上で次のステージに進む)を通して未来社会を達成するものとしていて,共産主義社会の具体的な形は示していない。具体的に明示されているのは「生産手段の社会化」程度だろうか。今日ではそういうこともあり,共産主義と社会主義を明確に区別していないが,いずれにせよ共産主義・社会主義に未来の希望を抱いている。
しかし,本書は歴史上実際に達成された共産主義国であるソヴィエト連邦について,まずはマルクスの共産主義理論を出発点としてレーニンからスターリンに及ぶ理論と実践について,そしてそこから世界中に派生していった共産主義・社会主義国について,西側諸国,第三世界と検討していく。私自身は,日本共産党の「ソ連と中国は十分に発達した社会でなかったから共産主義化に失敗した。高度に発達した社会である日本が実現する共産主義・社会主義社会は成功するに違いない」的な言い方に対して,じゃあ東欧の共産主義・社会主義社会はどうだったのか,というのがとても気になっていた。確かにソ連の影響下での共産主義・社会主義下であるという史実は知っていたが,それこそ植民地とは違い,曲がりなりにもヨーロッパ諸国の一員だったわけで,その辺りをもっと詳しく知りたかったので,まさに今読みたかった本。
なお,本書は「クロノス選書」の一冊で,私はバグデンの『民族と帝国』を持っていて,本書が2冊目。帯に「好評既刊」とあるのが,どれもなかなか魅力的だ。イアン・ブルマ『近代日本の誕生』,ジョン・三クルスウェイト&エイドリアン・ウールドリッジ『株式会社』,ロベルト・S・ヴィストリヒ『ヒトラーとホロコースト』,ポール・ジョンソン『ルネサンスを生きた人々』。

第一章 共産主義の理論と綱領
第二章 レーニン主義
第三章 スターリンとその後
第四章 西側諸国における受容
第五章 第三世界
第六章 振り返って

本書の冒頭は「本書は「共産主義」の入門書であると同時に,その追悼の書でもある。」(p.7)という一文で始まる。そう,結論から書いてしまえば,冒頭に書いた帯にある問い「実践の過失か,思想としての欠陥か?」の答えは,共産主義は思想として欠陥があり,正しい形で実現することはない,というもので,理想的な共産主義を目指そうと信じるものにとっては非常に厳しい結論である。
第一章で,共産主義的思想の起源を古代ギリシアとしている。エンゲルスの科学的社会主義の書『空想から科学へ』における空想的社会主義の一例は1516年のトマス・モア『ユートピア』だとされているが,モアはプラトンの『国家』からの影響が大きいともいわれている。なお,私はプラトン『国家』を読み始めたが,断片的にそうした理想的な社会のあり方に関する記述を見出すことはできたがまだその全体像はみえない。なお,共産主義的社会の起源を古代に求めている理由の一つが,次に続く土地を含む私的所有に関する議論にあるように思う。マルクスの『資本論』もまだ冒頭部分しか私は読んでいないが,一般的にいわれていることには,共産主義という形で私的所有を戒め,共産主義の一つの在り方として私有財産の禁止というのは,資本主義下で過度に進んだ商品化,それは土地の商品化であり,労働力の商品化であり,さらに言えば性の商品化に対する批判にあると思う。しかし,本書によれば,土地が商品として売買され,私的所有物となるのは近代期の資本主義下で初めてなされたわけではなく,古代社会からあったということだ。とはいえ,マルクスとエンゲルスの思想を根本から否定することが本書の目的ではなく,短いなりに丁寧にその理論の説明がなされている。
最近,日本共産党はこれまで明確には描いていなかった,日本共産党が政権を握った時に目指す社会の姿を,「自由」というキーワードで語るようになった。それは,共産党というとソ連と中国を思い描き,「共産党が政権を取ると(私的財産が真っ先にくるのだと思うが)自由がなくなる」という意見が多いので,それを転換させるような意味合いが強いのだと思う。志位さんはマルクスの著作を,その源泉までたどることで読み込み,そこからマルクス自身が共産主義社会の到達点として「自由な時間」の確保を目指していたんだと主張している。確かに本書でも「社会主義が目指した「自由」」(p.28)という節があり,マルクスのみならず,その後のマルクス主義者であるルカーチの議論も紹介している。
第二章ではソヴィエト連邦という形で世界で初めての共産主義国を実現したレーニンを取り上げる。私がレーニンについて学んだのはウォーラーステインによる「マルクス=レーニン主義」の説明位だと思うが(一応,『帝国主義』は読んだことがある),レーニン自身の思想というよりもマルクスの描いた理想をレーニンが実現させるものに昇華した,というのが私の理解だった。ソ連も当初はそれなりに頑張ったが,後を継いだスターリンが強権的な政治によってその理想を台無しにした,というように理解していた。しかし,本書ではレーニンもスターリンに劣らず悪人だと説明されている。本書は,レーニンの権力に対する欲望を,成人するまでの家庭事情から来る怒りや復讐からくるものだとしている。「地元の社会民主主義者らは,この新参者(レーニンのこと)がマルクス主義者というよりもむしろ,テロルを支持し,資本主義が熟すのを待つことなく性急に革命へ乗り出そうと苛立っている「人民の意志」党の信奉者であることに気づいた。」(.p49)レーニンは労働者をストライキに扇動したとして逮捕され,1897-1900年まではシベリアに流刑されてもいる。肝心の1917年革命については詳しく書かないが,その後のことは「レーニンの独裁政治」(p.62)という節で説明され,「無慈悲な専制支配を課すことにいかなる良心の呵責も感じなかった。」(p.63)と著者は書く。一党独裁制が整った後,社会主義理論に基づいて実施された計画経済についても「中央の計画を国内経済に課すという試みは,不毛であることが証明されたのだ。」(p.70)とまで書く。改めてこの章をパラパラと読み返すと,はじめに読んだ時のレーニンの権力に対する執着という印象とは違い,国内外でさまざまなことを試みようとしていたことがよく分かり,スターリンのようには自分の邪魔になる者たちを抹殺するとういうことまではしていないことを確認した。
そこで,続くスターリンに関する第三章は非常に衝撃的だった。今日でもナワリヌイを殺害したロシアのプーチンや,ハマースの幹部をことごとく抹殺しようとしているイスラエルのネタニヤフなどがいる。イスラエルに関してはサイードの『パレスチナ問題』を読んだ時にも同様の衝撃があり,ネタニヤフに限らず,イスラエルの指導者たちはずーっと100年前から自分の邪魔になる人たちを暗殺してきた。まあ歴史を振り返れば,日本でも戦国時代はそれがあたり前であって,人類にとっての自然選択なのかもしれない。しかし,まさにそれを乗り越える(そもそも動物が同じ種の殺し合いをするかどうかは分からないが)のも人類なのではないだろうか。私には権力への欲望というものが全く理解できない。そりゃ,経済的に貧しいよりは豊かな方がいいけど,かといって個人で使いきれない財産を手にしたってどうしようもないと思う。そりゃ,誰かに支配される側よりは支配する側の方がましだが,でも支配するというその行為には罪悪感を抱いてしまう。自分の意のままに他人を操ること,それは一度成功すると病みつきになるのだろうか?しかし,支配する側と支配される側という構図そのものが人権の観点からはありえないことで,人間を同列には見ないことでしか成立しないと思う。ということで,スターリンのことについては読み返したくもないし,説明したくもない。
先日,日本共産党の東京都委員会が開催した党史に関する講義を動画視聴した。そこで日本共産党の成り立ちについて改めて学んだが,日本共産党が成立した1922年に世界には一つの共産党しかなかった。それが本書にもあるコミンテルン=第三インターナショナルであり,トロツキーの時代である1919年にモスクワで創立された。日本共産党はそのコミンテルンの日本支部であったというのは日本共産党批判者もよくいうことであるが事実である。第四章を改めてパラパラめくると,東欧諸国の社会主義・共産主義化についてはあまり詳しく書かれておらず,こちらは別途勉強が必要そうだ。ただ,1970年以降の動きとしての「ユーロコミュニズム」の説明はなかなか興味深い。その冒頭,「共産主義はさまざまなテロルを引き起こしたが,それらはマルクス主義や社会主義とはほとんど関係ないものだった。その役目はおもに,拉致,搾取,殺人などの犯罪行為を隠蔽することだった。」(p.161)残念ながらこの動きも「結局は一時的な成功にすぎなかった。」(p.163)ということだが,より近年の米国の動きなどを見ると,大勢を得られないにしても社会主義・共産主義の動向には希望を持ちたい。
続く第五章では第三世界の動きなわけだが,次の一文が興味深い。「一般的には,貧困が共産主義を生んだとされている。だが現実にはそうではない。貧しい国々は共産主義を選択しているわけではないのである。」(p.167)といっても,本書では共産主義を「急進的独裁者」としていて,それを受け入れるかどうかという論理で話をしているのでこの議論を素直に受け入れるわけにはいかないが,日本でも共産党支持者は一定の教育水準と結びついたりしているので,貧困と共産主義の関係性については一定の説得力がある。ここでは中国の共産主義下の話がある程度詳しく解説されていて学ぶことが多い。それからカンボジア,チリ,キューバ,エチオピア。いずれも革命の指導者がいて,革命による犠牲者,革命後の混乱・貧困・飢餓による犠牲者が強調されていて,本書では希望は語られない。
結論は最後の段落の長い引用で終わりにしたい。「マルクスは,資本主義は解決不可能な内的矛盾を抱えており,それは崩壊する運命にあると主張した。実際には,現実に適応した,順応性のある経験的なシステムである資本主義は,その危機のひとつひとつをなんとか乗り越えてきた。一方で,厳格な教義(疑似宗教に改変され,融通の利かない政治体制として具現化された疑似科学)である共産主義は,それ自体が恩恵にあずかっていた誤った考えを結局は捨て去ることができず,そして滅びていったのである。もし再生することがあるとしても,それは歴史を無視したものとなり,犠牲多きもうひとつの失敗が確実に待っているだろう。何度でも同じことを繰り返しながら何か別の結果を期待し続けるものを狂気と定義するなら,このような行為は狂気と紙一重のものとなるはずだ。」(p.222
という具合に,資本主義を肯定し,共産主義を根本から否定する著者の議論は一定の説得力を持つのだろうと,かなり絶望的になった。しかし,私は著者の主張には与しない。

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【読書日記】テッサ・モーリス-スズキ『愛国心を考える』

テッサ・モーリス-スズキ著,伊藤 茂訳(2007):『愛国心を考える』岩波書店,71p.480円.

 

岩波ブックレットの一冊(No.708)。著者は言わずと知れた日本研究者だが,すでに何度か書いているように鈴木といっても日系人ではない。本人は英国人で日本人の配偶者を得てオーストラリアに住んでいる(最新情報までは分からないが)。ということで,本書の「愛国心」は日本に限定しているわけではないが,目次にあるように日本の事例は多く,こうして日本語で出版されている意義は大きい(原著情報がないので,岩波ブックレット用の書きおろしかもしれない)。いずれいせよ,この小冊子でここまで内容の詰まった本はなかなか書けないな。

I なぜ,いま愛国心か
II
 愛国心の起源
III
 愛国心と近代国家
IV
 近代日本の愛国心
V
 行動で示される愛国心
VI
 グローバリゼーションの時代の愛国心

冒頭のI9.11と日本の日の丸・君が代の愛国心教育が導入として用いられている。2002年に『心のノート』という副読本が日本のすべての小学校に配布されたのだという。2006年に教育基本法が改正され,安倍晋三『美しい国へ』と共に愛国教育へと舵を切った。これらのことは私が研究に行き詰まり,ライブ通いに身を投じていた時期に起きたことである。この頃には選挙にも欠かさず行くようにはなっていた頃だと思うが,何一つ把握していなかった。同時代の日本を生きていたはずなのに見るべきものを,見たくもないということで見なくてもすんでいた,見ずにすませることができた,私という人間は所詮そういうことで,日本社会はしょせんそういうものなのだ。こういう大事なことは大抵書籍から,また本書のように外国人の研究者から知らされることになる。
II
もとても重要。冒頭で「日本語の書物のなかで「愛国」の意味について初めて考察された重要な一冊」(p.8)である,1891年に刊行された西村茂樹『尊王愛国論』から始められる。まさに,明治期に日本が欧化を進める形で近代化し,徐々に天皇中心の軍国化に進んでいく時期だと分かる。愛国心に相当する英単語であるパトリオティズムについて言及し,愛情とイデオロギーの混成語であり奇妙のものだという。郷土への愛は自発的な愛情であるが,国家が国民に押し付ける時,イデオロギーとなる。ホイジンガの『中世の秋』によれば,パトリオティズムという言葉の登場は18世紀で英語での初出は1836年だという。決して古いものでもない。つまり,「近代国民国家の興隆との間の密接な結びつきが明らか」(p.10)だという。そしてヨーロッパではそれがキリスト教とも結びつく。ということで,本書ではイスラム教徒の世界についても言及している。「歴史的に見れば,ムスリムにはナショナリズムやパトリオティズムといった概念はほとんど見られない」(p.13)という。18世紀のヨーロッパは戦争と革命の世紀であり,愛国心は市民に対して軍事予算のための増税を説得するために,また王制を打倒し民主化を目指す改革者や革命家の武器にもなったという。それが,「下からの愛国心が上からの愛国心に変わるとき」(p.15)であり,愛情とイデオロギーの双方が愛国心というものに結実する。
そしてIIIで論じられるように,愛国心は近代国家の在り方,ナショナリズムと結びついていく。この辺りは地理学における風景論でもよく議論されているが,国を代表する風景は大抵が田舎の風景,まさに日本語のいうところの「故郷=古里」,郷土愛を育むような風景に代表される。節のタイトルに「ジンゴイズム」という語があるが,本文にはない。一応,Wikipediaで調べてみたら,「自国の国益を保護するためには他国に対し高圧的・強圧的・好戦的な態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)も厭わない、あるいは自国・自民族優越主義的な立場を指す言葉。ナショナリズムの極端な例である。」とある。
ということで,近代国家の道を踏み始めた明治期の日本にとって,「上からの愛国心」(p.28)が西欧から持ち込まれた様々なものと一緒に登場する。しかし,ここでの著者の議論が興味深いのが,いずれもその時々の権力に挑戦する革命的な思想となって登場するのだという。「北一輝や橘孝三郎などのウルトラ・ナショナリストの革命家」(p.29)という表現が面白いが,確かに,愛国心的なものが政府の方から強制されるようになるのはその後の軍国主義の時代になる。そして,戦時期には兵士のある種のモチベーションにもなるわけだが,ここでも興味深いのは共産主義者,野坂参三も「真に国と人民を愛する」(p.36)などと発言している所である。そう,今日の日本共産党も北方領土問題など折に触れて「真の愛国心」的な表明をする場面は少なくない。
V
章で興味深いのは,愛国者について4人を紹介していて,その4人のうち田中正造以外を私が知らないことだ。違星北斗(1902-29)はアイヌの歌人であり,アイヌ文化の発信に短い人生を費やした人だという。小林トミ(1930-2003)は千葉県在住の普通の市民が,1960年前後から「声なき声の会」というデモと出版活動を中心とする反戦運動に身を捧げたのだという。ヴァレリー・カウア(1983-)は「インド系シーク教徒のアメリカ移民三世」(p.52)であり,9.112001年以降5年間に及ぶドキュメンタリー・プロジェクトを行った人物だという。アジア太平洋戦争中に収容所に抑留された日系人などを含む,アメリカという国で憎悪の対象となった民族マイノリティ集団の記録を取るというプロジェクトだ。
という感じで,終章はグローバル化の時代の愛国心について論じる。グローバル化という言葉を使い始めた頃の楽観主義においては愛国心というものはグローバル化の進展とともに不要になっていくと思われたと思うが,実際は逆だった。そういう意味では,グローバル化の時代こそ愛国心について深く考える必要があるというのが本書の出発点であり,帰着点だとも思う。なお,終章は「愛国心と○○」という説のタイトルで議論が進んでいき,○○には安全,恥の感覚,ネーション,個人,教育,平和などとある。

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【読書日記】和田 武・木村啓二『拡大する世界の再生可能エネルギー』

和田 武・木村啓二(2011):『拡大する世界の再生可能エネルギー――脱原発時代の到来』世界思想社,210p.2,300円.

 

『しんぶん赤旗』に本書の著者である和田 武さんによる気候危機に関する連載が掲載された。詳細は覚えていないが,初回は自然科学的観点からの気候危機の現状把握,次がCOPをはじめとする国際機関の提言,次に来たのがインドの再生エネルギーの試みだったように思う。なので,私はかなり度肝を抜かれた。大抵こういう話は,続いて再生可能エネルギー先進国としてヨーロッパの例が登場し,それに対して日本は遅れているという展開なのだが,いきなり先進国以外の話が来たので驚いたのだ。
そんなことで,この記事は私の所属する党の支部会議でも取り上げた。すると,日野市の共産党員を中心とする「気候問題を考える日野の会」が和田さんを呼んだ講演会をするというので,聴きに行ったのだ。この会はかなり細々としたもので,和田さんはその失費を考慮して,自身の交通費を削減するということで会場には来られず,Zoomでの画面越しの講演となった。そんなところにも,この人のお人柄が垣間見える。その日の講演の後半は新聞連載記事にはほとんどなかった,日本での市民の再生可能エネルギー導入の取り組みがいくつか紹介された。新聞の連載記事も字数が限られているし,講演だと配布資料は残るが,すぐに忘れてしまうので,じっくり読んでみたいと思って大学図書館で検索して出てきたのが本書。もうすでに13年前のものだったが,読むことにした。ちょうど,大学の授業で世界のエネルギー事情の話をするところだったので,話題を増やすことができるだろう。

はじめに
1章 地球温暖化防止と持続可能社会構築に不可欠な再生可能エネルギー普及
2章 世界における再生可能エネルギー普及の最新動向と特徴
3章 再生可能エネルギーの先進的普及に挑戦する資源少国デンマーク
4章 ドイツにおける再生可能エネルギーの飛躍的普及
5章 アメリカの再生可能エネルギー普及とエネルギー政策(木村啓二・和田 武)
6章 再生可能エネルギー普及に向かう発展途上国インド,中国,アジア諸国
7章 さらなる再生可能エネルギー普及を可能にする条件――持続可能なエネルギー社会に向かって
8章 日本も目指すべき持続可能なエネルギー社会
9章 再生可能エネルギー普及による持続可能な社会への発展

けっきょく,授業の準備に追われて,読書日記を書けないまま月日が経ち,返却期限が近くなったので,この本は返却して手元にない。ということで,簡潔な読書日記になると思います。
目次に示したように,大筋は新聞連載記事と同様のストーリーです。ただ,インドの話は第6章で,どうやらこちらは和田さんのパートナーとの共同調査ということらしい。そして,新聞にはなかったアメリカは木村啓二さんが主導的に調査したもの。そして,本書ではデンマークとドイツの事例の話が分量的に多い。これらの国は,単に市民による再生可能エネルギー導入が進んでいるということだけでなく,政府がそれを後押ししているということだ。講演を聴くまで私は知らなかったが,実は日本でも市民による再生可能エネルギーの導入はもう10年以上の実績がある。きっかけは2011年の福島第一原発の事故だ。多くの市民が日本におけるエネルギーの危機を実感し,原発に頼らない,また国家主導の集中的な電力供給に依存しないという意識から始まったものだ。確かに,日本政府も2011年以降に電力の自由化や電力買い取り制度などを進めてきた。しかし,それらのおかげで,一方では大企業による風力発電やメガソーラーなどの乱開発も進んでしまった。そしてなによりもこの政府はそうした市民の動きを後押しするどころか邪魔をしているのだという。それは,その後けっきょく再開してしまった原発をベースエネルギーとし,それに火力発電を加える。その上に加算される再生可能エネルギーについては,供給過多になった時点で引き取らないという政策だ。確かに,原発は一度稼働したら止めることができない。24時間発電であり,調整は難しい。だからこそ原発はやめるべきだし,カーボンニュートラルの観点から火力発電も削減すべきである。
けっきょく,講演時の内容ばかり書いてしまったが,それらは本書が出た後の話であり,本書で学ぶべきはやはりデンマークやドイツの市民の動きと政府の政策である。そして,再生可能エネルギーは先ほど書いたように,中央集中的な電力供給システムから,分散型の市民による民主的な電力供給,そして電力を地産地消するということの重要性である。リスク回避と民主主義が同時に手に入る,またそうした市民発電所を手掛ける人たちの多くがNPOという形をとっていて,利潤最優先の資本主義からのシフトも同時に行えるという可能性を持っている。とはいえ,どうやら電力買い取り価格がかなり下がっていて,なかなか市民発電所の事業の継続が難しくなっているようにも思える。NPOではダメで,形としては株式会社をとるところが出てきているというところについてもまだまだ知るべきことが多い。なんと,本書は執筆中に東日本大震災が起きたということで,その前から何十年にもわたって再生可能エネルギーの可能性を,研究者としても市民としても(著者の和田さんは国内外の市民発電所の設立に関わっています)信じて実践してきたということです。

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