書籍・雑誌

Olympic Cities

Gold, J. R. and Gold, M. M. eds. (2017): Olympic Cities: City Agendas, Planning, and the World’s Games, 1896-2020 third edition. London and New York: Routledge.

 

オリンピック研究者にはよく知られた論文集。英国の地理学者ゴールドが夫妻で編集しています。2007年の初版に続き,2011年に第2版が,そしてこの第3版が2017年に出版されている。4年に一度の改定を目指しているのだろうか。寄稿者のプロフィールを読むと意外に地理学者が多いことに気づく。私が文献調査の中で読んだことがある研究者は,Essex,Preuss,Coafee,Fussey,Kassens-Noorと意外に少ない。引用されている文献にも未読の読むべき文献がたくさんあって,私の文献調査もまだまだだと思い知らされる。

1章 Introduction はじめに(Gold, J. R. and Gold, M. M., 1-17)
I部 The Olympic Festivals オリンピックの祭典
 2章 The Enduring Enterprise: The Summer Olympics, 1896-2012 不朽の事業:夏季オリンピック大会1896-2012(Gold, J. R. and Gold, M. M., 21-63)
 3章 The Winter Olympics: Driving Urban Change, 1924-2022 冬季オリンピック大会:都市改編の推進力1924-2022(Essex, S. J. and de Groot, J., 64-89)
 4章 The Cultural Olympiads 文化オリンピアード(Garcia, B., 90-113)
 5章 The Paralympic Games パラリンピック大会(Gold, J. R. and Gold, M. M., 114-135)
II部 Planning and Management 計画と経営
 6章 Olympic Finance オリンピック財政(Preuss, H., 139-160)
 7章 Promoting the Olympic City オリンピック都市をプロモートする(Ward, S. V., 161-179)
 8章 Olympic Villages オリンピック村(Sainsbury, T., 180-202)
 9章 Security セキュリティ(Coafee, J. and Fussey, P., 203-216)
 10章 Urban Regeneration 都市再生(Smith, A., 217-229)
 11章 Olympic Tourism オリンピック観光(Weed, M., 230-252)
 12章 Olympic Transport オリンピック交通(Kassens-Noor, E., 253-265)
III部 City Portraits 開催都市素描
 13章 Berlin 1936 ベルリン1936(Meyer, M., 269-286)
 14章 Mexico City 1968 メキシコシティ1968(Barke, M., 287-300)
 15章 Munich 1972 ミュンヘン1972(Meyer, M., 301-316)
 16章 Sydney 2000 シドニー2000(Freestone, R. and Gunasekara, S., 317-332)
 17章 Athens 2004 アテネ2004(Gold, M. M., 333-358)
 18章 Beijing 2008 北京2008(Cook, I. G. and Miles, S., 359-377)
 19章 London 2012 ロンドン2012(Evans, G. and Edizel, O., 378-399)
 20章 Rio de Janeiro 2016 リオデジャネイロ2016(Silvestre, G., 400-423)
 21章 Tokyo 2020 東京2020(Aoyama, Y., 424-437)

冒頭からなんとなく読みにくい。これまで英文のオリンピック研究文献を数多く読んできて、頻出するワードやオリンピックに関する事実の知識も身についてきたと自負していたが、編者たちによる序章から1章にかけての文章はすっと頭に入ってこない。序章の冒頭は2020年東京大会の話題から始まる。新国立競技場の設計案が撤廃されたという話題だ。ついで、2024年大会に立候補していたボストン市が立候補を撤回したということ。そして、2022年冬季大会が北京での開催が決定した経緯。こうした直近の事例をあげながら、近年はオリンピック開催に関してさまざまな問題が噴出し、継続することの困難が指摘されている。1990年代以降にIOCも次々と、環境や持続可能性を訴えるアジェンダ21、レガシーという概念を中心としたアジェンダ2020を発表し、改革を進めている。ということで、本書の目的を次のように提示している。「本書は、オリンピック都市の経験、そして1896年の競技大会の復活から2020年の東京大会計画までの成功と失敗のバランスシートを考察することで、(引用者:オリンピックと開催都市の柔軟で象徴的な)関係を探求する。」(p.12)とされている。
2章も編者2人による夏季大会の概観。各論であるIII部の目次をよく見ると,1936年ベルリン大会の次が1968年メキシコ大会であり,1972年ミュンヘン大会から一気に2000年シドニー大会へと飛んでいる。そういう意味でも,全大会を概観できるのがこの章。クーベルタンによる近代オリンピック大会前史についてもけっこう詳しく説明されています。近代オリンピックの時代区分は以下の通り。1896-1906:生きながらえる展示市(うまく訳せませんが,第1回アテネ大会以外は万博内での開催でした)。1908-1936:デザインによるオリンピック,1908年ロンドン大会の競技場の写真,1928年アムステルダム大会のプールの写真が掲載されています。戦後間もない1948-1956年は「質素」と名付けられている。そういえば,ゴールドブラット『オリンピック全史』でも同じような位置づけだった。1952年ヘルシンキ大会のスタジアムの写真が掲載されています。1960-1976年は「触媒」で,1964年東京大会も含まれるが,都市開発や国土整備のきっかけともなるようになった。ここでは,大きな負債を生んだ1976年モントリオール大会のスタジアムの写真。1980-1984年は米ソによるボイコット合戦ということで「イデオロギー大会」と名付けられている。1988-1996年は「移行する地平」と題され,1992年バルセロナ大会のオリンピック村の写真が掲載されている。2000-2012年は「持続可能性とレガシー」と題され,アジェンダ21からアジェンダ2020へとIOCの改革として位置付けられる。2004年アテネ大会のスタジアムの写真が掲載されているが,持続可能やレガシーという理念とは程遠い利用されていない施設の代表。2012年ロンドン大会からは選手村のあったイースト・ビレッジの社会住宅地区の写真が掲載されている。
3章は冬季大会の概観である。執筆者は2004年に別の共著者と冬季大会の概観的な論文を、2002年ソルトレイクシティ大会まで書いているので、それが2022年北京大会まで拡張された感じ。冬季大会の始まりは1924年、フランスのシャモニーで開催されたものとされている。1992年までは夏季大会と同じ年の開催であったが、テレビ放映権が軌道に乗ってきた1994年に、夏季大会の中間年に冬季大会が開催されるようになっている。第2章、第4章と同じように、冬季大会についても時代区分がなされている。第1段階は1924年から1932年レイクプラシッド大会までとされ、「最小限のインフラ投資」とタイトルがつけられている。以前に紹介した論文の中でも、冬季大会はそこで行われる競技自体が、自然の中でのスポーツから、基準を満たすように規格化されることで、競技施設に要求される形状、雪や氷の管理、悪天候対策としての室内化、ということで徐々に競技施設に必要な開発が大規模化している。ただ、1924年大会の屋外スタジアムの写真が掲載されていて、けっこう立派なスケートリンク(?)であることが分かる。1932年に続いて1980年にも開催されている米国レイクプラシッドに関しては、競技施設の分布図が2時点で示されている。第2段階は1936年から1960年までで、「インフラへの要求の登場」と題される。第3段階は1964年から1980年までで、「地域開発の道具」と題されており、この時代から人口の少ない村の山岳リゾートから、それなりの規模の都市へという移行がみられるようになり、1972年札幌大会もここに含まれる。1984年から1998年の第4段階は「大規模への展開」と題され、1998年長野大会が含まれる。最後の第5段階は、2002年から現在までの時代で、「持続可能な開発とレガシー計画」と題され、アジェンダ21からアジェンダ2020に至るIOCの改革が冬季大会にも適用される。2006年トリノ大会や2014年ソチ大会については、地図が掲載され詳しく論じられる。近年では国際空港のある都市に室内競技場とオリンピック村を整備し、そこから鉄道などを整備して山岳のスキー等会場までアクセスするという形が一般的となる。「将来に向けて」と題された節では、執筆当時に開催前だった2018年平昌大会について、地図が示されている。2018年以降は新たな段階に入ると想定されている。2022年は北京での開催が本書の刊行時点で既に決定していたが、軒並み立候補を取り下げる都市が出てきたという経緯があり、この時代は「先進国でのオリンピック大会を招致することの不本意」と題されている。今更ながら近年環境問題への関心が広まるなかで、冬季大会の開催は夏季大会以上に難しくなってくるのだろう。
4章は、第二版では編者の一人、ゴールド妻が共著で書いていた。第三では英国の文化資本を専門とする研究者が執筆している。しかも、オリンピックの文化イベントに関する研究をかなり手掛けており、2012年には『オリンピック大会と文化政策』、2013年には『ロンドン2012の文化オリンピアード教育』なる単著を発表している。第二版でも、近代オリンピックの当初から文化的な次元への想いがクーベルタンにはあるということで、その歴史的経緯にページが割かれていたが、第三版でも初期大会における状況が説明されている。ここでも時代区分による歴史の概観がなされ、区分としては、1952ヘルシンキ大会から1988ソウル大会までを「オリンピック芸術展示と祭典」とし、1992年バルセロナ大会から2012年ロンドン大会までを「文化オリンピアード」としている。1964年東京大会で作られたピクトグラムを、1968年のメキシコシティ大会では文化オリンピアードについても作成していたとのこと。1992年バルセロナ大会辺りから、4年間の文化オリンピアードを利用して、多くの芸術作品が屋外に設置され、現在に残されるようになってきた。第三版の特徴としては、夏季大会だけでなく、冬季大会やパラリンピック大会の文化オリンピアードについても考察されている点だ。今日ではかなり一般化してきた「パブリック・ビューイング」だが、2006年トリノ大会ではそれを含む、競技を中心としながらも競技場での観戦に参加しない人々が集える場所として「ライブ・サイト」と呼ばれるものが設置されていた。2000年シドニー大会から本格的に行われるようになったパラリンピック大会の文化プログラムにも触れられている。こちらはやはり障碍者芸術が中心なんですね。前半は当初の文化的理念から芸術競技,文化展示,オリンピアード,プログラムという制度的な推移を辿っているが,後半は展示される芸術そのものの水位が論じられる。1964年東京大会などは日本文化の紹介的な側面が強かったが,徐々に前衛芸術的な時代の雰囲気に迎合する。主たる目的なスポーツと芸術というテーマがあるが,スポーツよりも芸術に重心が移る。1950年代までは文化的,1960-1980年代は政治的,1990年代は経済的,2000年以降は社会的という大胆な区分をしている。経済的というのは都市イメージの向上だったり,観光客誘致であったり,エンタテイメント性だったりする。
5章はパラリンピックを編者2人が概観したものである。はじめの方に「起源」と題された節があり、19世紀後半に障碍者スポーツに関する動きがあり、まずはろうあ者のスポーツクラブが1888年にベルリンで設立し、1924年にはベルギー、チェコスロバキア、フランス、英国、オランダ、ポーランドで国の競技連盟ができ、1924年にパリで国際競技大会が開催され、それ以降4年毎に「ろうあ者のための世界大会」が行われるようになり、「デフリンピック」などと呼ばれていたようだ。しかし、直接的にパラリンピックのルーツとなるのは、英国のストーク・マンデヴィル病院を中心とした障碍者スポーツである。現在でも、スポーツが障碍者や患者のリハビリに用いられるが、治療の一環としてスポーツが活用されたことが始まりにあるようです。1948年に、ロンドンオリンピックの開会式に合わせて行われたストーク・マンデヴィル競技大会はすぐに国際的な広がりをみせ、オリンピックと平行して4年おきに開催される大会という意味で「パラ」という言葉が登場する。1960年ローマ大会、1964年東京大会では、オリンピックと同じ開催都市で開催されたが、その後は1988年ソウル大会まで、オリンピック本大会とは別の都市で開催された。冬季大会については、1976年から開始される。1992年アルベールビル大会からが、オリンピック開催都市での開催となっている。1984年まではストーク・マンデヴィル病院で組織されたが、1982年に「世界のスポーツ組織を調整する委員会(ICC)」が設立され、この大会を主催するようになり、国際パラリンピック委員会(IPC)が設立されるのは1989年である。私のオリンピックに関する文献調査では、パラリンピックにまで手を伸ばすことはできなかったが、障碍者が参加する大会をオリンピックとともに開催することは、開催都市にとっても大きな意味がある。といっても、まだまだパラリンピックに関する私の理解も十分ではないが、まず競技施設が障碍者も利用できるものにする必要がある。もちろん、施設だけではなくそこへのアクセスも含めてだ。そして選手だけでなく、観客への配慮も必要である。もちろん、物理的なものだけでなく、社会的包摂という概念はあまり積極的には使いたくないが、人々が集う都市を、そうした観点から見直す機会ともなる。とはいえ、この章でもパラリンピック競技がオリンピック競技とおなじ施設で行われるようになったのは比較的最近であり、確か1988年ソウル大会からだったように思う。この章の最後には「ロンドン2012」と題された節があり、やはり2012年ロンドン大会はこの分野でも先駆的な大会だったようだ。
第二部「計画と運営」に入り、第6章「オリンピック財政」はレガシー概念の先駆的論文の著者として知られるPreussが執筆している。オリンピックといえば、予算や財源、支出など経済関係に関する関心は高い。しかし、いわゆる計量経済的な費用対効果分析のような視点ではなく、質的なあるいは社会的な価値というところに焦点が合わせられている。まずは、オリンピック研究でよく登場する「利害関係者stakeholder」に関する整理がなされ、そもそもオリンピック開催都市に立候補することが、その都市に関わる人々にとってどんな動機があるのか、という素朴な点が整理される。都市イメージの向上なのか、物理的な開発、経済効果、観光客の誘致、国家におけるその都市の重要性、投資効果、スポーツ開発などなど。利害関係者には、政治家や企業経営者、消費者団体、環境団体、各種組織、スポンサー、銀行などさまざまな人・組織がある。また、利害関係者とは異なり、shareholderという概念が登場する。辞書で調べると「株主」と出てくるが、ここではおそらくそういう狭義ではなく、本来の意味である、ある事業に対して多くの人たちが少額ずつ投資して、損益や危機を分散させ、権利を共有するという意味合いだと思われる。具体的にこの章ではIOCのメンバーがそれに当たるようだ。具体的に議論される利害関係者は、IOCメンバーの他、開催国、開催都市とその政治家、建設産業と観光産業、スポンサー、報道、各国のオリンピック委員会と国際競技連盟であり、オリンピック大会の主たる収入源となっている放映権とスポンサー料がどの団体にどのように分配されるのかが図式化されている。
7章は編者であるGold1994年に『Place Promotion』という編著を出しているWardによるもの。その後Ward1997年に『Selling Places』という単著も出版している。私が「場所の商品論」なるテーマで論文を書いていた時期に、英語圏地理学ではこうしたテーマが一部で流行っていた。社会学者のアーリが『場所を消費する』という本を出したり、地理学者ハーヴェイによる「空間から場所へ、そして再び」という論文も当時はよく取り上げられた。私が読んだオリンピック英語文献の中にもそういう文脈での議論もあったが、1990年代にこの議論をしていた人物が、20年後にその文脈でオリンピックを論じるというのも面白い。この議論は後に「場所のブランド化」の議論に移行したと私は考えているが、著者はあまりその辺の理論的な経緯を繰り返したりはせず、オリンピックの議論に集中しているところは好感的だ。まず、「誰がオリンピック都市を販売促進するのか?」と題し、その主体を特定する。1936年ベルリン大会におけるヒトラーや、1976年モントリオール大会や1992年バルセロナ大会における市長の役割などがまずある。米国大会における私企業の役割も重要である。次に販売促進のプロセスである。初期のそれは招致運動であり、そこからメディアの役割は大きい。それをメディアが駆り立てるという訳ではないが、招致段階では開催することによる経済的なメリットが強調される。ロゴ付きのTシャツや旗、風船、ペンやキーホルダーなどの小物も重要。地元のスポーツ文化イベントも行われる。ロゴやマスコットも重要なのは、2020年東京大会の過剰な露出によっても明らかだ。東京大会については反オリンピック運動の欠如が指摘されている。1996年大会のキム・ベイシンガー、2000年シドニー大会のニコール・キッドマンと当時の夫トム・クルーズなどの話も出てきます。開催都市の決定をめぐって賄賂などの疑惑が何度も取りざたされ、IOCの役員が自分の意思で候補都市を訪問することは禁じられたようだが、その辺りの駆け引きも書かれている。候補都市は都市内の高級ホテルのスイートルームを確保し、さまざまな接待に対応する。IOCメンバーに対するものとは限らないが、酒やたばこ、香水のような贈り物も重要である。そういうロビー戦略も含めて「おもてなし」というのだろうか。2020年東京大会についても後続の高円宮妃久子が開催都市を決めるIOC総会に登場したことが触れられている。と、やはり招致段階の話が中心ですね。東京大会については福島の問題にも触れられている(Gibsonという記者のThe Guardian誌の記事が用いられています)。
8章はスペインの地理学者ムニョスによるオリンピック村に関する2本の論文への参照を示しながら、2012年ロンドン大会のオリンピック村の責任者が筆を執っている。前半ではオリンピック村の歴史についても説明があり、クーベルタンが示した、競技施設は集中させた方が好ましいという「オリンピック都市」に原型を求めている。1912年ストックホルム大会が、そのクーベルタンの想いを実現しようとしたものと位置付けられる。とはいえ、時代は第一次世界大戦へと突入していく。1920年アントワープ大会では、米国の選手団が移動に用いたクルーズ船で大会期間中宿泊したというのは、この大会に限らず有名な話で、それがのちの選手村に近いともいえる。2024年パリ大会では、オリンピック村を建設する計画があった。とはいえ、3千人の選手に対して、600人収容だから、数的には少ない。本格的なものとしては、1932年ロサンゼルス大会、1936年ベルリン大会から本格的な選手村が建設されるようになる。ムニョスの論文は1本読んだが、その配置計画や建築様式に焦点を当てているので、本章はそれとは異なり、大会後の利用などにも触れられていて、読みごたえがある。1956年メルボルン大会から、大学施設や社会住宅などある程度の規模の選手村を大会後の利用も考慮して建設されるようになる。1968年メキシコ大会からは都市再生の手段としても活用され、1984年ロサンゼルス大会では大学との連携も行われる。2008年北京大会の選手村は積極的に評価され最後は2012年ロンドン大会で締められる。
9章のセキュリティは2015年に『The Geographical Journal』誌のオリンピック・セキュリティ特集でも執筆している2人、CoaffeeFusseyによる執筆。2001年の同時多発テロ以降、オリンピックのようなメガイベントがテロのターゲットとして明確に認識されるのは2015年のパリ同時多発テロかもしれないが、ともかくオリンピックのセキュリティはかなり重要度の高い事項となっている。歴史をさかのぼれば、1972年ミュンヘン大会の選手村でのテロが有名で、次の夏季大会である1976年モントリオール大会への影響も大きかったという。1980年代の大会も冷戦の影響によるボイコット合戦という政治的対立があったためにセキュリティは重要だった。1988年ソウル大会でもかなり警備は強化された。1992年バルセロナ大会も1991年湾岸戦争後であり、1996年アトランタ大会まえにも米国でいくつかテロ事件があった。
10章はアンドリュー・スミスという英国の研究者で、2012年に『イベントと都市再生』という著書があり、本章「都市再生」を担当している。2020年東京大会も含め、オリンピックのようなメガ・イベントが脱工業都市における都市再生への希望とみなされるのは一般的である。「本章の目的は、オリンピック競技大会がなぜ、そしてどのように都市再生に対する乗り物となり得るのかを探求すること」(p.217)とある。まず、都市再生とは実践やその結果であると同時に一つの言説だという理解を示している。そもそも「再生」という語を都市に当てはめること自体が修辞法である。ただ、他の章と同様に、概念的な再考を冒頭で促しながらも、オリンピックに関する具体的な記述が続くなかで、その批判的な観点は薄れていくという印象は否めない。はじめの方では、ある一定の敷地面積をオリンピック村として整備したシドニーとロンドンの事例が登場する。いずれも、大会開催後をにらんだ他機能的な開発が行われた事例である。選手村を大会後に社会住宅として活用するというのは一般化しており、本章でも1992年バルセロナ大会、2000年シドニー大会、2010年バンクーバー大会、2012年ロンドン大会の写真が掲載されている。オリンピックは開催都市に元々あったマスタープランの実行を加速させる役割も果たす。近年ではその方法として都市企業家主義的な、官民連携の手法が用いられる。オリンピック関連開発を事後的に評価する研究もある。事例としてバルセロナが取り上げられている。概してこの大会は成功事例とされるが、住民にとっての社会的な意義という点では批判的に捉えられる。また、最後の方ではバンクーバーの事例が取り上げられ、開催前にあっても、そのオリンピック関連開発に対する反対運動が存在する。
11章「オリンピック観光」はまさにそのタイトルの著書(2008年)があるスポーツ学の研究者マイク・ウィードが執筆している。その著書の中で、スポーツ観光を以下の5つに区分している。イベント・スポーツ観光、スポーツ参戦観光、スポーツ訓練観光、贅沢なスポーツ観光、補足的なスポーツ観光。なお、私は現在2020年東京大会における日本のホストタウンの調査をしている。ホストタウン事業自体は多岐に渡るが、中心的なのは外国選手の事前キャンプである。この区分では、スポーツ訓練観光に含まれているが、本文中にその記載は残念ながら多くない。本章では、オリンピックにおける観光を盛り上げるための戦略や、オリンピック観光における都市の役割などが論じられる。事例としてまず冬季大会を挙げ、2020年ソルトレイクシティ大会、2006年トリノ大会、2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会が考察される。ソルトレイクシティでは、勝ち組がホテルやレストラン、商業施設、そして観光客となっており、負け組が業務、金融、スキーリゾート、交通、建設、ビジネス客とスキー客とされている。オリンピックを優遇したがために、それ以外がしわ寄せを受けたということだろうか。夏季大会についても、2000年シドニー大会以降2012年ロンドン大会までが考察され、簡単な結論に至っている。結局、総論については著書で論じたから、本章は各論に終始するということだろうか。

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地図がつくったタイ

トンチャイ・ウィニッチャクン著,石井米雄訳 2003. 『地図がつくったタイ――国民国家誕生の歴史』明石書店,414p.3,980円.

 

ベネディクト・アンダーソンの有名な『想像の共同体』のなかに,本書著者の博士論文への言及がある。地図をテーマにしながら,国民国家形成に関わる論考ということと,ウィニッチャクンという欧米系ではない名前が記憶に残り,その後翻訳本としての本書の存在を知った。気づいたころは絶版で,Amazon古書でも高値で取引されていたので読むのを諦めていたが,2014年に増刷りされていることを知り,明石書店の人に直接お願いして取り寄せてもらった。

序論 国民という観念の存在
第一章 民俗知空間と古代の地図
第二章 新地理学の登場
第三章 国境線
第四章 主権
第五章 周縁
第六章 地図作成――空間の新技術
第七章 地理的身体
第八章 地理的身体と歴史
結論 地理的身体・歴史・国家という観念

第七章のタイトル「地理的身体」にはルビがふってあり,「ジオボディ」が原著で使われている造語。日本の地理学文献でも最近本書に言及するものがあり,この概念を強調していた。しかし,目次を見れば分かるように,本書は地理学そのものを主題においており,簡単にいうと前近代の「民俗知空間」が,西欧がもたらした新地理学によって,特にその表現手段の一つである地図が導入され,自らのクニが図的に表現されることによって,前近代の「シャム」というクニが,まとまりのある「身体」を持った国家として理解されるようになり,その国家タイを自らの所属するものとして認識する人間主体が「国民という観念(ネーションフッド)」を獲得するということだ。私が『想像の共同体』で理解していたタイの近代史は,周囲が次々と西欧の植民地となっていくなか,シャム王国は東のフランス,西の英国と交渉をしつつ,領土を少しずつ分け与えながら,自らが近代化を遂げることによって,植民地化からなんとか逃れたというものだ。しかし,それは本書の詳細な内容を形骸化しており,また『想像の共同体』の記述内容も私の記憶の中で単純化されたのだと思う。ともかく,その理解を正すべく,本書をしっかりと読まねばならない。ちなみに,本書の文献表に注意書きがあり,タイでは人名を姓によって表記するのではなく,ファースト・ネームで表記するのが通例らしく,文献表にはトンチャイ, W.とするのだろうか。
さて,本書についてはこの読書日記でもしっかりとまとめておきたいと考えていたが,一読では詳細まできちんと説明する自信がない。『想像の共同体』も読むたびに新しい発見があり,全体像を理解するまで時間がかかったが,本書も何度か読む必要がありそうだ。今回の読書日記は簡潔に済ますことにしよう。本書は地図製作を主題の一つとしているが,いわゆる地図関連書籍のように,その製作の歴史的な経緯の詳細を辿ったり,その技術の伝達などをしっかりまとめているわけではない。巻頭には15枚の地図がカラーで掲載されているが,個別の地図についても製作過程の詳細よりも,その活用や社会的意義の解説にページが費やされている。同様に,新地理学についても地理学史研究のように,そのタイでの導入過程について詳細が分かるような説明はない。ただ,私にとって最も興味深いのが国境の設定である。当時タイはシャム王国といったわけだが,現在の国名でいうところの東がベトナム,北がラオス,西がミャンマー,南がマレーシアと接している。植民地支配前の東南アジア諸国は当然前近代的社会で,一本の線で両国の領土を分割するという発想はなく,王宮のある中心から離れるにつれ権力の強度は薄まっていく,という支配体制だったと想像される。なので,国境はボーダーではなく,フロンティア=辺境に近いものだった。それは明治維新以前の日本と似通っていたとも思える。しかし,海で隣国と隔てられた(蝦夷は除く)日本の状況とは異なり,陸続きであった東南アジアは,隣国の植民地化によって違った状況が生じる。つまり,西は英国,東はフランスという,国境概念,国土概念を有する近代国家による支配がなされていた。当然,この地を植民地化する際に,英国,フランスは国土の画定を行うためにシャム王国に接触し,国境画定の交渉を始める。しかし,近代国家的な国境が何たるかを分からない人がその交渉をできるはずもない。しかも,そこには当時のアジア特有の朝貢関係が存在し,英国やフランスが考えているシャム王国の統一性と,シャム側のそれとがまた一致していない。国境付近にある社会はバンコクにある王宮と朝貢関係にはあっても支配関係にはない。近代的にいうところの国内関係と国際関係とがあいまいなのだ。ただ,シャムも独自に徐々に近代化を遂げていく。本書でも前近代的な民俗知空間と近代的な国家という観念(ネーションフッド)とを便宜的に分けて分かりやすく論じているが,その一方で,本書がタイの近代化の過程を説明するものではないと注釈している。この社会は前近代のシャム王国から近代のタイへと単純に移行したわけではないのだ。よって,新地理学についても西欧からの輸入学問として導入されたという分かりやすい説明はしておらず,独自の民俗知と融合しながら,徐々に変容したものなのかもしれない。

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自治体の姉妹都市交流

佐藤智子(2011):『自治体の姉妹都市交流』明石書店,273p.5,500円.

 

オリンピック研究の文献調査がひと段落し、具体的に2020年東京大会を事例に何を調べていくか、ということを考え、ホストタウンについて概観する研究目標を立てている。ホストタウンというのは日本独自の事業のように思われる。その用語自体がいかにも日本語的英語だが、事前合宿というのは多くのスポーツの国際大会でありうることだと思う。実際に、陸上の選手たち(特に長距離走)が標高の高い土地で合宿を行うというのはよく聞く話だし、実際に文献調査のなかでも医学的に効果的なのかを実際の選手の例で研究したものがあった。しかし、日本のホストタウン事業はそうしたアスリート側の需要だけではないようだ。
2020
年東京大会では、政府の首相官邸が音頭を取って、ホストタウンの推進を行っている。単なる推進ではなく、実施する自治体はその計画を政府に提出し、登録をする必要がある。その登録数は現在300を優に超え、400に迫ろうとしている。下記ウェブサイトに公表されているそのリストによれば、既に姉妹都市提携を結んでいるものが少なくない。そもそも、この姉妹都市にせよ、ホストタウンにせよ、日本の地方の小さな町村が、世界の途上国の小さな国と関係を結んでいることもあるのだから、なぜその2箇所が結ばれるのか、という単純な疑問が生じる。オリンピック総論に結びつけるのは難しいかもしれないが、そんな素朴な地理学的関心を抱く対象でもある。そういう意味でも、姉妹都市に関する研究をひとまず調べたところ、日本では地理学者が執筆している論文がいくつかあったし、米国でも一昔前の著名な文化地理学者であるゼリンスキーが1991年に米国地理学協会の雑誌に掲載した論文があった。ただ、日本の地理学者の論文は、いい方は悪いが片手間にやっているような感じであり、本格的に姉妹都市研究者というのはやはり多くはないようだ。そんな中、複数の論文を書いている人物がいて、その人物について調べたら本書を刊行していることが分かり、早速購入していただいた次第。しかも、われわれの翻訳を出版してくれた明石書店が発行元である。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tokyo2020_suishin_honbu/hosttown_suisin/

序章 自治体の姉妹都市交流に関する研究の必要性
1章 姉妹都市交流の概観
2章 研究の目的と対象
3章 姉妹都市交流に関する先行研究
4章 岩手県の自治体における姉妹都市交流
5章 姉妹都市交流に関する事例研究――姉妹都市交流が休止している事例
6章 姉妹都市交流に関する事例研究――姉妹都市交流が活発な事例
終章 自治体の姉妹都市交流――継続的交流を可能ならしめる要因

本書は著者の博士論文とのこと。とはいえ、巻末の著者略歴を見てみると、1980年に米国の大学院を修了しており、エミリー・ディッキンソンに関する英文著書を1999年に出版している。どうやら文学研究者として一定の実績を積んだ後、2009年に東北大学で行政学に分類できるのかは分からないが地方自治体の研究を手掛けて博士を取得し、本書出版時には岩手県立大学の教授をしている。本書における事例研究も岩手県内の市町村に関するものである。あとがきを読むと、著者の略歴と本書に至る経緯がよく分かる。著者は自らの関心に導かれ、米文学畑から行政学へと移ったわけではないようだ。1988年に新潟大学から岩手県立大学に移ったのを機に、そして最近とみに叫ばれるようになった大学の地域貢献の一環として、岩手県を中心とした、そして通訳として関わりのあったという姉妹都市交流に関する調査を他の2人の研究者と共同で始め、その後他人の推薦で大学院に編入学し、博士論文としてまとめることを決めたという。
ここまでの方向転換は簡単にできることではなく、またほとんど未踏の領域に取り組むのは大変だったと思う。本書にまとめられた調査結果は私の素朴な疑問に答えてくれる、詳細で丁寧なものであり、重要な価値があると思う。しかし、残念なのはやはり学術的な位置づけが、少なくとも地理学を学ぶ私にとっては不十分に思われたことだ。文献表にある著者が発表した2002年から2008年にかけての12編の論文は全て所属する大学の紀要に執筆されているが、あとがきでは日本国際政治学会の国際交流分科会での報告をしているという。しかし、国際政治学分野での位置づけがなされているわけではないし、またあとがきで社会学の先生に指導を受けたとあるが、社会学的に位置づけられているかというとそうでもない。姉妹都市交流を一般的な社会変容に位置づけることにとどまっている。とはいえ、私が漠然と考えていたように、この姉妹都市交流は1980年代の「国際化」という風潮の下で拡大し、さらに竹下政権下で行われた1989年のふるさと創生政策による1億円の地方交付金が制度・財政的な面を後押しし、民間でもその時期に設立された国際交流協会がその主たる担い手になっているという位置づけから学ぶことは大きい。
後半の実証編ではまず、岩手県の当該市町村へのアンケート(16件で回答率100%)を行い、全体的な傾向を整理している。ブール代数アプローチについての詳しい説明がないのは残念だが、要はこの調査では、従属変数を4つの説明変数によって理解するというもののようだ。その4つの変数とは、①姉妹都市提携の申し入れは岩手県側か、外国側か、②公的資金の利用の有無、③役所の担当者が連絡を取る際の言語の障害の有無、④都市間の訪問者数、である。従属変数としては、姉妹都市交流が活発に行われているか否かであり、上記4つの説明変数はいずれも活発に行われるための条件ととらえることができる。しかし、実際には4つの条件全てが満たされなくても交流が継続している自治体もあれば、条件を満たしているのに交流活動が休止中の自治体もある。それらを個別に説明するのが第5章以降になる。第5章は交流が休止に至ってしまった自治体の事例、第6章は交流が継続している自治体の事例となっている。
本書の事例研究を読むと,姉妹都市の研究がこれまでほとんどなされていなかったかが理解できる。姉妹都市とは国内の自治体と海外の自治体との締結によるものである。すなわち,国内の調査と海外の調査を含むのだ。本書がもっぱら岩手県に限定されるのは,ただでさえ国内の姉妹都市締結数は多いのに,それぞれの相手先が世界中に散らばっているので,ある程度一般性を持たせようとしたときに選ぶ事例も限定される。著者はそれをとりあえず岩手県だけでも網羅しようとしているのだ。とはいえ,著者の言語能力の制約から,近年日本で姉妹都市締結が増加している中国に関しては,調査から外している。とはいえ,中国以外については一通りの調査をしており,岩手県に限定されてはいるが,姉妹都市交流に関する一般的な状況と個別の状況については本書でかなり把握できるのではないだろうか。姉妹都市交流がそもそも,日本が高度成長後の余裕のあった時期に始まった国際化ブームに乗る形で,「異文化交流」のような言葉を使ってもいいが,安易にお互いの町を訪問しあうという活動に終わったものが多いようだ。その訪問についても,ホームステイというのは必ず組み込まれるものの,現地での行動は観光ツアーのような詰め込み式の旅行であり,本当の意味での人的交流や深い異文化理解があったわけではない。そもそも,姉妹都市の関係自体が形骸化し,象徴化されているという。一方で,古くから締結関係にあったものでも市長の想いが強い場合や,連絡を取り合う職員の存在,そして地元の民間団体の努力などによって,交流活動が継続的に行われた事例はいくつか本書で紹介されている。著者はこの交流活動を,それを行う主体と同じ目線に立ち,良好な交流が行われた場合,その小さな試み積み重ねが世界平和へとつながっていくと信じている。政治的,もしくは経済的な二国間関係では産まれえない,本来の人間関係のあり方に基づく国際関係がそこにはある。とはいえ,著者も形だけの姉妹都市交流の姿をいくつも目の当たりにしており,そうした自治体に向けられた視線は厳しい。
本書の著者だったら,オリンピックのホストタウンのあり方に対して,何を想うのだろうか。この作業がひと段落したら,連絡を取ってみたい。

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TOKYO 1/4と考えるオリンピック文化プログラム

東京文化資源会議編(2016):『TOKYO 1/4と考えるオリンピック文化プログラム――2016から未来へ』勉誠出版,255p.2,500円.

 

2016年の出版ながら、今更見つかった本。とはいえ、来年3月に発行になる『経済地理学年報』では、オリンピック関係の特集を組んでもらい、私も執筆したのだが、この執筆陣に入っている太下義之氏は、本書の「編集参与」とのこと。結局1度しかお会いしていないので、本書の存在は教えてくれなかったな。本書の編者である「東京文化資源会議」とはそのウェブサイトによれば、2014年6月から活動を始めた「東京文化資源区構想策定調査委員会」の発展した組織であり、委員会としては内閣府や国土交通省、文化庁を中心とした政府内委員会だったようです。当然、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会が東京での開催に決定した2013年以降に動き出した委員会ですから、それを前提としているのは間違いありません。しかし、当時は2012年ロンドン大会の後であり、2016年リオデジャネイロ大会はまだでした。日本ではあまり知られていませんが、オリンピック・パラリンピックはスポーツ競技だけでなく、文化プログラムの実施が開催都市に義務付けられています。一つは、前回の大会終了後から4年間を文化オリンピアードと名付け、開催国での文化事業を行うことになっています。これはオリンピック憲章に明記されているものではありませんが、開催年のオリンピック村の開村から閉村までは文化イベントを行うこととなっており、その計画は国際オリンピック委員会(IOC)の承認を必要としている。そして、太下氏の文章でも詳しく書かれていますが、2012年ロンドン大会が、文化オリンピアードから2012年の文化プログラムまで、非常に充実したイベントが開催されたことが知られていて、本書を読むと東京でも一部の人たちの中では、「東京でも!」という強い意気込みが感じられます。
https://tcha.jp/

はじめに(柳与志夫)
I
 オリンピック文化プログラムとは何か
 「オリンピック文化プログラム」序論――東京五輪の文化プログラムは2016年夏に始まる(太下義之)
 対談 オリンピックが「戦後」を終わらせる(青柳正規×御厨貴)
II
 フロントランナー,4人が語る!
 回帰する都市リノベーションする都市(隈研吾)
 熱狂の中心を作り出すために(猪子寿之)
 みんな乗りこめキャラバン隊が行く(野田秀樹)
 2020年にTURNする(日比野克彦)
III
 文化プログラムのトリガー・文化資源
 2020年へのレガシー2020年からのレガシー(吉見俊哉)
 東京の文化資源の多様性と東京文化資源区構想の意義(柳与志夫)
 「東京ビエンナーレ」が日本の地域を変える(中村政人)
IV
 全国に展開する文化プログラム
 個都・東京――東京文化資源区構想と東京オリンピック2020をめぐって(南後由和)
 水と土に育まれた「創造交流都市にいがた」(篠田昭)
 過去・現在・未来に求められる地域活動――台東区谷中界隈の事例にもとづく考察(手嶋尚人)
 英国から,ふじのくに静岡へ――新たなレガシーが生まれる(岩瀬智久)
 文化が開く京都の未来~創造,育成,交流~(平竹耕三)
 地方から発信するBEPPU PROJECT(山出淳也)
 沖縄文化を世界へ――2020年東京五輪を契機とした地域文化発信の可能性(杉浦幹夫)
資料編
 オリンピック憲章(2014年版 第五章三十九条)
 東京文化ビジョン(文化戦略・主要プロジェクト2015年策定)
 参考資料リスト
コラム(桝本直文)
 ①2008年北京大会のギリシャ芸術展示館
 ②2012年ロンドン大会大英博物館が文化プログラム会場に
 ③アテネの地下鉄ミニミュージアム
 ④ナショナルハウス

さて、本書にはいくつかのインタビュー記事が掲載されています。もちろん、2020年東京オリンピックに関わる人たちです。文化庁長官(青柳正規)、新国立競技場設計者(隈研吾)、文化プログラムを先導するプロジェクト監督(野田秀樹・日比野克彦)などです。野田秀樹が本書で語っている「東京キャラバン」は実際に2015年から実践されているようです。
https://tokyocaravan.jp/about
そして、上記にある「東京文化資源区」と名付けられたものは、北は谷根千から南へ、上野、本郷、湯島、秋葉原、神田、神保町のエリアとなっています。本書ではまず吉見俊哉がこの地域の重要性を訴えます。文化研究者らしく、文化概念の定義を説明していますが、それは批判的な立場ではありません。耕作するという本来の意味から教養という意味に展開してきたのがcultureですが、その隠喩を元に戻し、人の成長(教育)にも土壌が必要なんだみたいな言い方で、本郷は今でも東大を中心とする文京エリアですが、神保町エリアを江戸時代の参勤交代から明治期の中国人留学生、その後の東京大学(本号より前に神保町で創立されたそうです)、学習院大学、一橋大学、東京外国語大学などの立地場所として、現在の書店街(出版社も)として位置付けています。ある意味、吉見氏の門下生ともいえる、南後由和も話を合わせるように、東京の江戸時代の姿まで遡り、「の」の字を描くように、1964年オリンピックで欧米文化の下で開発された青山・六本木・渋谷からぐるっとまわって、今は東京の北から東の方がホットなスポットだと論じています。ほとんどが日本語で読める多様な分野の書籍を用いて、言葉巧みにこの東京文化資源区の魅力を伝えています。
後半では、日本各地の取り組みが紹介されます。東京からはまさに東京文化資源区に入っている谷根千の仕掛人ともいえる手嶋氏によって、谷中が墓地のおかげで暗いイメージを持っていた時代からの転身が語られます。新潟市は市長が執筆し、創造都市ネットワークの先進都市ともいえる新潟市の魅力がこれでもか、と列記されます。静岡県からは行政の担当者が同様にPRをします。京都からも京都市の行政担当者が、沖縄県からも行政担当者による宣伝がなされています。これらを読んでいると、本書の執筆時(2015年末から2016年初頭にかけて)には、まだ日本政府や組織委員会から文化オリンピアードの地方への働きかけはないようです。しかし一方で、静岡県の行政担当者はロンドンにも視察に行っているくらい、ロンドン大会の文化プログラムを目の当たりにし、それと類似したものが日本でも2016年以降展開することを期待し、地方活性化の起爆剤とするべく準備をしていることが分かります。少なくとも現時点では、組織委員会のウェブサイトを見ても、文化オリンピアードについての詳細な情報は得られず、かれらが期待したような展開をしているようには思えません。一度、本書への寄稿者に対して、その後どうだったかを聞いてみたいものです。

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オリンピックは変わるか

チェルナシェンコ, D.著,小椋 博・松村和則編訳(1999):『オリンピックは変わるか――Green Sportsへの道』道和書院,278p.2,500円.Chernushenko, D. : Greening Our Games: The Environmental Guide for Sports & Recreation Decision-makers.

 

オリンピック関連書籍をさまざまな方法で探しているが,少し間を置くと,同じ方法でもこれまで見つからなかった本が見つかることがある。本書もそんな感じで見つかったが,原著の書誌情報が著者名と書名しか分からなかったので,ウェブで調べてみた。しかし,タイトルそのものの書名は出てこなかった。著者はWikipediaに項目があり,そこには以下の著書があった。邦訳が1999年だから,やはりこれのことか。
Chernushenko, David (1994). Greening our games: running sports events and facilities that won't cost the Earth. Ottawa: Centurion Publishing & Marketing. ISBN 0-9697571-5-8.

序文
セクションA スポーツのグリーン化――なぜそれが必要か?
序章 スポーツのグリーン化――なぜそれが必要か?
 第1章 健康な身体,健康な地球:そのつながりをつくること
 第2章 政治的圧力の増大と経済的影響力
 第3章 グリーンスポーツ倫理の必要性
 第4章 持続可能なスポーツの原則を定義する
 第5章 全てのレベルで持続可能なスポーツを促進する
セクションB スポーツのグリーン化――いかにすればそれは可能か?
 第6章 施設の建設と運営
 第7章 大会の遺産:自然環境/社会/経済
 第8章 環境評価基準の開発:招致活動をグリーン化する
 第9章 グリーントラベルとグリーンツーリズムの促進
 第10章 全てのレベルでスポーツのグリーン化を――実践的ガイド
 第11章 核施設に関する提言
付録A ケーススタディ:彼らの物語を語る
付録B 事実と数値:経済効果の数量化
付録C 行動規準

著者は学術研究者ではなく,編訳者あとがきによれば,「スポーツと環境のコンサルタントをしている」(p.273)とのこと。訳者たちは「グリーンスポーツ研究会」という団体のメンバーであり,この団体の創設時にカナダの活動団体をウェブで見つけ,その代表者が著者であったという。東欧やロシアっぽい名前だが,カナダ人らしい。厳密な学術書ではないが,居住権と立ち退きに関するCOHREのレポートのように,本書から学ぶことは大きい。
原著タイトルの「Games」は,一般的にオリンピック競技大会を指すことがあると思うが,言葉自体にオリンピックを含意する所以はないと思う。目次にも一切オリンピックの語はなく,また書名は「Gamesのグリーン化」であるのに対し,目次では「スポーツのグリーン化」となっている。まあ,「ゲームのグリーン化」では分からないから「スポーツ」にしたのかもしれないが。ともかく,前半ではあまりオリンピックの話は登場しない。まず,私たちが普段行うスポーツ(まあ,大人になると普段スポーツはしないが,高校までで普通に行われる体育館での体育や部活などを想定すればよいか)でも,室内で行われるものは少なからず健康被害が考えられるというところから始まる。確かに,個人の住宅建設でも薄い板を張り合わせた合板とか,細かい板をつなぎ合わせた集成材でも,それらを接着させる接着剤の健康被害がいわれることがある。体育館の床などは当然,合板か集成材だし,そこに分厚くワックスが塗られている。まあ,そんなことだろうか。もちろん,スポーツの多くの起源は自然でのものであり,それが徐々に木を取り除き,地面を平らにし,石を取り除き,同じ大きさの砂を敷き詰めたり,土を固めたり,芝生を敷いたりするようになる。芝生の管理は大変で,伸びた芝を刈るだけでなく,雑草が生えないように,枯れないように管理をする。冬季スポーツであれば,雪の量,氷の厚さを管理する。トラックの形状,長さなどが規格化され,その管理や規格化がやりやすいように,徐々に室内化されていく。自然環境への負荷が増え,競技者の身体の健康への影響が増していく。既に近代化されたスポーツを標準としてしまっている私たちがあたり前としてしまっていることが,この時代に根本的に問われるようになった。
2章はよくある,オリンピックなどのメガ・スポーツ・イベントに典型的に表れる商業化や政治利用の話がなされるが,それもやはりスポーツによる環境破壊を促進する要素であると論じられる。そして,第5章のタイトルにあるように,「全てのレベル」で考えていることに本書の特徴があり,メガ・イベントだけを問題視するのではなく,私たちに身近なスポーツ環境を見直すことの意義を訴えている。持続可能性というのはメガ・イベントのことを議論するだけでは不十分で(極端な話,イベントはなくなっても,民衆のスポーツは継続する),一般の市民が持続的に環境と自らの健康を守りながらスポーツをし続けられる,というのが本書の目指すところのように感じた。とはいえ,おそらく原著が書かれた時期の直近のオリンピック大会である,1994年リレハンメル冬季オリンピック大会の説明は多い。
訳者あとがきによれば,この訳書は原著の2/3の分量だそうだが,2つのセクションに分かれ,半分が実践編に充てられている。非常に具体的な話が多く,オリンピック研究で指摘されていたさまざまな問題のなかでも環境への配慮という分野はもうかなりのレベルで行うべき対策は明白で(これも時代によって変化はするのだろうが),本書はそれがかなり網羅的にまとめられていると思う。日本オリンピック委員会,あるいは2020年東京大会の組織委員会は本書を知っているのだろうか。本書に限らず,COHREの報告書とか,そうした文書を調査し,整理し,計画に反映するようなことはやらないのであろうか。私自身が学術分野に身を置こうとする人間であるから根本的な考え方が運営側の人間とは違うのかもしれないが,そうした先人の知恵を取り込んでさまざまなものに配慮するオリンピック大会,それを推し進めることに何の抵抗があるのだろうか。やはりIOCの要求に応えるので精一杯なのだろうか。ともかく,新しいオリンピック運営を主張するのであれば,これまで問題となっていたことに真摯に立ち向かい,開催都市の住民の声を聞きながら,学術研究の成果を活かして作り上げればいいだけだと思うのだが,難しいのだろうか。素朴な疑問を抱く。

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文明の衝突

ハンチントン, S.著,鈴木主税訳(1998):『文明の衝突』集英社,554p.2,800円.

 

非常勤先の授業で,前期は日本地理を,後期は世界地理を教えている。今年度からは教科書はなくし,日本史・世界史の復習を地理的観点から行い,現代の問題へとつなげるような内容をオリジナルで考えている。とはいえ,前期・後期ともに中心となる参考図書を決めていて,後期はラコストの『地図で見る国際関係』(原書房)を使っている。今度,この図書とは関係ないが,世界の宗教について論じ,世界で起こる紛争の原因は宗教ではない,と語るつもり。宗教による対立を主張する著名な著作ということで,本書を読んでおこうと思った。フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』などと並んで,冷戦終結以降の世界を論じた代表的な著作だが,読んだことはなかった。フクヤマの本も同様だが,ハンチントンの文明の衝突論は,はじめに1993年に『Foreign Affairs』に掲載された論文が話題となり,本書自体は1996年に発行されている。

第一部 さまざまな文明からなる世界
 第一章 世界政治の新時代
 第二章 歴史上の文明と今日の文明
 第三章 普遍的な文明? 近代化と西欧化
第二部 文明間のバランスのシフト
 第四章 西欧の落日:力,文化,地域主義
 第五章 経済,人口動態,そして挑戦する文明圏
第三部 文明の秩序の出現
 第六章 文化による世界政治の構造変化
 第七章 中核国家と同心円と文明の秩序
第四部 文明の衝突
 第八章 西欧とその他の国々:異文化間の問題点
 第九章 諸文明のグローバル・ポリティックス
 第十章 転機となる戦争から断層線の戦争まで
 第十一章 フォルト・ライン戦争の原動力
第五部 文明の未来
 第十二章 西欧とさまざまな文明と単数形の文明

文明や文化という概念を世界区分の基準としたり,紛争の原因とみなす考え方に私は強く違和感を抱く。しかし,やはりこれだけ世界的に話題になった本であることもあり,論旨はしっかりしているという印象。そもそも著者によれば,この議論が冷戦終結直後に構想されたこともあり,その頃は政治体制などが紛争の原因であるという考え方が一般的であり,文明という観点で世界のあり方を捉える考え方はある意味で新しかった。また,サイード『オリエンタリズム』も言及されているが,世界を二分法で論じるのはそれはそれで有効であるものの,世界の多様性を捨象した上で成り立つ議論である。また,国家単位で紛争や秩序を論じるものは,現実を反映するものだが,極端に言って世界を184ヶ国で論じるものであり,一般論にはなりえない。ハンチントンは文明という観点から世界を8つに区分している(アフリカ文明が存在するとした場合,そして掲載されている世界地図には「仏教」の区分があり,これを入れれば9つになる)。この考え方は,私が都道府県名の研究で構想している考えに近い。日本の多様性を論じる場合に,日本を国単位で論じる日本論や日本人論は強引な一方で,市区町村単位で論じることは,そもそも地名の認知度からして無理がある。47都道府県という数は日本の多様性を考慮しているという点でちょうどよいのではないか,という考えだ。とはいえ,これを私が積極的に推し進めるのではなく,批判的に都道府県の意味を脱構築しようと考えているということだが。
ともかく,そういう世界の捉え方において,著者の戦略は一般読者にうまくなじむのだと思う。しかも,世界を文化や文明という観点で区分した人は歴史的に多いことを示す。トインビーは23区分。シュペングラーは八大文明,マクニールは9つの文明,バグビーは日本と東方正教会を別にするのであれば11,ブローデルは7つの主要文明,という具合だ(p.58)。ウォーラーステインの『地政学と地政文化』の文明論にも言及しているし,当然文明概念の単数形と複数形も議論されている。さすがに,世界的に話題になった著者であるから,一つ一つの事実は,過去のものは研究文献を,現在のものは報道文献などを適宜参照していて抜け目ない。また,サッセン『グローバル・シティ』(2001年)などとの傾向にも近いのか,統計データに基づく図表が数多く掲載されているのも特徴である。かつての文明論のようなものとは異なり,定量的な論拠も示す説得性を有している。文化や文明を強調してはいるが,政治はもちろんのこと,経済や人口動態にも目配せをしている。特に人口動態は本書において重要な要素であり,欧米の先進国が人口減少に陥っている一歩で,経済発展を遂げている中国やインドでは人口が増え,また非欧米圏のイスラームやアフリカではそれ以上に人口が増えている。英語やキリスト教は今後影響を増していくことはありえず,中国語やイスラーム教の影響が増しているのだ。
そこまでを踏まえた第四部から,衝突の内容に入っていく。その前の第三部で論じられているが,「引き裂かれた国家:文明の再定義の失敗」と題し,文明の境界線(本文では断層線(フォルト・ライン)という言葉がよく使われる)にある国家は,歴史上難しい選択を迫られるといい,ロシア,トルコ,メキシコ,オーストラリアという国々の状況が議論される。第四部ではよりミクロな事件へと焦点を合わせていくが,徐々にイスラームに注視していく。データを示しながら,戦後の衝突で文明間のもの,文明内のものを列記しながら,いかにイスラームが関わるものが多いか,しかも文明内ではなく,文明間の衝突の多くがイスラームに関わるものであることを繰り返し強調するのだ。もちろん,数値はハンチントン自身がつくったものではないが,この辺りの記述が批判的な論点になったように思う。イスラームは好戦的だという根拠のない一般的なイメージを本書は補強している。学術的な根拠をつけるから,多くの人は,やっぱりイメージ通りだ,となり考えを改めることをしない。
本文では,本書の最大のキーワード,文明を文化と置き換え可能な形で用いている。文明概念の検討ではウォーラーステインの『ポスト・アメリカ(原題:地政学と地政文化)』にも言及して,文明概念の単数形と複数形の議論も踏まえて,本書では主に複数形で用いられているが,文明と文化の違いには意外にも無頓着だ。また,過去の植民地支配のこともかなり事細かに検討されており,ヨーロッパ文明のその影響(キリスト教や言語など)も論じている。文化・文明は静態的ではなく動態的に変化するものだと認識しているはずなのに,文明を政治経済の原因・理由とする場合には静態的に捉えられる。それは長期間変わらないものであり,その土地固有で変えられないものであるかのように語っている。そもそも初期のカルチュラル・スタディーズの論者や,西川長夫『国境の越え方』で国民国家批判を展開する際に,文化概念を根底から問い直すような作業は本書にはない。著者はあくまでも本書を学術書ではなく,エッセイのようなものだと書いていた気がするが,影響力の大きさからいうと,学術的か否かということはあまり関係ない気がする。
最近,フランシス・フクヤマも新著を発表したようだ。改めてこの時代に出された話題になった著書を読んでおく作業は必要かもしれない。

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在野研究ビギナーズ

荒木優太(2019):『在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活』明石書店,286p.1,800円.

 

『アルコールと酔っぱらいの地理学』でお世話になった明石書店さんの本は最近何かと目に入るようになり,気になっていた本書。私は「地理学関連科目を担当する大学非常勤講師の雇用実態と意識」(2017年,E-Journal GEO 12: 280-293)なる論文も書いていて,最近は独立研究者を名乗るようにしたので,読みたいと思った次第。翻訳の際にお世話になった編集者にお願いして購入した。

序 あさっての方へ
第一部 働きながら論文を書く
 第一章 職業としない学問(政治学・酒井大輔)
 第二章 趣味の研究(法学・工藤郁子)
 第三章 40歳から「週末学者」になる(批評理論・伊藤未明)
 インタビュー1 図書館の不真面目な使い方・小林昌樹に聞く
 第四章 エメラルド色のハエを追って(生物学・熊澤辰徳)
 第五章 点をつなごうとする話(活字研究・内田 明)
第二部 学問的なものの周辺
 第六章 新たな方法序説へ向けて(専門なし・山本貴光+吉川浩満)
 第七章 好きなものに取り憑かれて(民俗学・朝里 樹)
 第八章 市井の人物の聞き取り調査(文学研究・内田真木)
 第九章 センセーは,独りでガクモンする(宗教学・星野健一)
 第一〇章 貧しい出版私史(文学研究・荒木優太)
 インタビュー2 学校化批判の過去と現在・山本哲士に聞く
第三部 新しいコミュニティと大学の再利用
 第一一章 〈思想の管理〉の部分課題としての研究支援(専門なし・酒井泰斗)
 第一二章 彷徨うコレクティヴ(共生論・逆巻しとね)
 第一三章 地域おこしと人文学研究(哲学・石井雅巳)
 インタビュー3 ゼロから始める翻訳術・大久保ゆうに聞く
 第一四章 アカデミアと地続きにあるビジネス(哲学・朱 喜哲)

編者も第10章を執筆しているが,とにかく変わっている。私以上にコミュニケーション能力がないようで,誰とも話さずに済む清掃労働で収入を得,両親のもとで生活をしている。1987年生まれということなので,私もまだ結婚していない歳だが,恋愛などもほとんど必要としないとのこと。とはいえ,ネットでの発信をきっかけにこうして紙の出版物を依頼されて出しているので,私より恵まれている(?優れている?)といえるかもしれない点はある。私も最近はもっぱら研究に関する書き込みを続けているブログをもう15年近くやっているが,出版社などからお声がかかったことはない。ただ,自虐的にそんなクソ人生でも「よく自分の書いたものを読み直す。読み直してつくづく「いいものを書いたな」と思う。」(p.180)というのは私と同じだ。その位の幸せを感じても罰は当たらないだろう,という。ともかく,そんな編者から生まれた,他13人から成る在野研究者の声を集めた重要な論集である。
在野研究とは,第6章や第11章でもかなり詳しく論じられているが,概していえば,大学などの研究機関に所属せず,自力で研究生活を続けている人のこと。ただ,14人いれば,本当に人それぞれである。私のように大学の非常勤講師という形で大学とわずかながらつながっている人はこのなかにはほとんどいない。私のように,大学常勤職への就職を諦めきれないような人物はあえて含めていないのかもしれない。そんな多様な在野研究者の姿を一人一人紹介したくなる本だが,それは別の機会にとっておこう。おおまかに共通する問題は,研究に費やす時間とお金の問題だ。とはいえ,それに関しては大学の常勤教員であっても同じらしいということは各人も認識しているが。
本書が重要なのは,在野研究者の実態が分かるからだけではない。そもそも,研究者が自分の研究生活について語る機会などないのだ。書きたいことを書いている私のブログすら,本書で書かれているようなことまでは記録していない。時折それに類似したことを知り合いの研究者について書いたりすると,お叱りを受けたりする。研究者としては大学を通じて公的に名の通った人間(大学教員)はプライベートをネットなどで公表してはいけないらしい。ともかく,本書には文献の探し方,インタビューの仕方,研究時間の作り方,研究仲間の作り方,学会の学術会議がどういうものか,学術誌の投稿の問題,学術出版の状況,など,詳しいものもあればそうでないものもあるが,在野に限らない研究者社会の実態をある程度明らかにしてくれる。とはいえ,在野だからこそ,大学に勤めるアカデミアには当たり前であることに苦労する,という意味でそういう些細なことが特筆に値するのだ。また,在野だからこそ研究に注がれた愛を十分に感じることができる文章でもある。第2章の執筆者である工藤郁子さんは,学術研究をオタク的感覚で捉えている。オタクというのはあまり表現的にふさわしくないかもしれないが,論文を読む行為を音楽を聴いたり,マンガを読んだりするのと同じように,そして,特定の作品(論文)について同人と熱く語り,その著者=研究者に会うことはアーティストと会うような感覚。この感覚,私にも分かります。
このブログを借りて,そして本書の読書日記という体裁を借りて,私自身が本書の執筆者に選ばれたとしたら何を書くかを書こうと考えていたが,今はその時間を割けないのでやめておく。研究者は単著を書くとなにかと家族への謝辞を記すことが多い。しかし,私は家族からの協力は得られていない。家事と育児の本の隙間で執筆活動をするしかないのだ。幸い,通勤時間は長いので読書時間だけは確保されている。しかし,そこでインプットしたものをこうしてblogでアウトプットすることを私自身の研究活動の責務としているため,読むペースでしか書けない。また,今は講義期間中真っただ中で,そちらの準備に取られる時間もある。ということで,この辺にしておきます。
あ,最後に一つだけ。本書の書名はちょっとどうかなと思いました。本書を手に取ってもらうためには「ビギナーズ」っていい響きですが,決して本書は初心者向けではない,と私は思う。

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「不法」なる空間にいきる

本岡拓哉(2019):『「不法」なる空間にいきる――占拠と立ち退きをめぐる戦後都市史』大月書店,238p.3,200円.

 

著者の本岡拓哉氏は1979年生まれ,関西大学で地理学を専攻し,大学院は大阪市立大学へと進学し,博士を取得している。こういう経路を取る人は関東に住み,大学に所属していないような私にもその存在は知られることになるが,なかなか接点はなかった。とある研究会で顔を合わせる機会もあったが,直接接する機会は,彼の学会発表で私が質問して以降のものだった。私自身も名前は知っているものの,彼の論文を読んだことはなく,その学会発表で初めてその研究に触れたが,その頃はすでに河川敷居住者を対象とした研究に移行していた。質問後,丁寧なメールをいただき,それ以降はなぜか私はそんなに頻繁に学会に顔を出す人間ではないが,学会に行けば顔を合わせるようになった。彼の奥さんも地理学者だが,彼女とは以前から面識があったことも,お互いに親しみを感じさせるきっかけだったかもしれない。ともかく,そういう次第で,出版早々に送っていただいた本書をようやく読むことができた。以下に本書の構成を示す(カッコ内は初出の出版年)

第1章 「不法」なる空間のすがた(2015年)
第2章 「不法」なる空間の消滅過程(2007年)
第3章 「バタヤ街」を問いなおす(2019年)
第4章 河川敷居住への行政対応(2018年)
第5章 立ち退きをめぐる空間の政治(2006年)
第6章 河川敷に住まう人々の連帯(2015年)
第7章 集団移住に向けた戦略と戦術(2016年)

私自身も本書のような研究を読むのにちょうどよい時期なのかもしれない。オリンピック関係の文献をよむなかで,evictionという言葉が「立ち退き」を意味し,オリンピックのようなメガ・イベントではかつてから立ち退きが行われ,最近でこそ強制立ち退きというのが行われにくくなってきたが(とはいえ,最近でも日本は新国立競技場建設に関連する立ち退きを行っている),それがオリンピック研究の一環としてかなり取り組まれているのだ。
一方で,本書で著者が取り組むのは副題にあるように,歴史的に行われた立ち退きである。容易に想像はつくが,冒頭でこの種の研究の少なさが指摘され,また本書で明らかにしたいことも明記されているのだが,それを解明するための史料の少なさに苦しめられている様子がよく分かる本である。第1章はそんななかでも,1957年に東京で行われたまとまった調査である『東京都地区環境調査』を丁寧に整理している。まずは入手可能な貴重なデータに関しては十分に活用するという態度は重要ですね。きれいな地図も作成されています。また,個々の不法占拠地区の土地利用の変化については,過去の住宅地図から地図上で確認する作業もしています。ただ,この作業はあまり実りが多くなかったように思える。図版として掲載されたものが明確に立ち退きを表現していないからだ。一方で,いくつか掲載されている空中写真は見事に立ち退きの実態を示している。私も2008年北京オリンピックに関するShin氏の研究を確かめるために,GoogleEarthなどで過去の空中写真を辿ってみたが,それは驚きだった。第2章は著者の出身地である神戸に舞台が移る。神戸市は著者の出身地というだけでなく,戦後バラックが街の規模が最大であり,またその対策でもその実績が高く評価されていたという。この章では,各行政資料に加え,市議会議事録や新聞記事なども活用されている。本書では後半に広島市の事例があるが,比較的広い河川敷をもつ広島市の太田川に比べ,神戸市の都市河川の不法占拠は,新聞記事の文章を読むだけで,衝撃的だ。自然堤防を挟んで緩やかな高低差を想像する一般的な河川(うちの近所の多摩川など)と比べ,人口堤防を挟んで,住宅地のはるか下を流れる都市河川。そんな縁に住宅を建て,糞尿などを宙に浮いた住宅部分から河川側に落とす,そんな図を勝手に想像してしまった。ともかく,神戸市では,周辺住民の匂いと不衛生状態の訴えの解消として,バラック撤去の政策が急務になったことがうかがえる。第3章では,再び『東京都地区環境調査』に立ち戻り,舞台は東京へ。一般的に用いられる「バタヤ」という概念を考察する。不法占拠の人々がどんな生業で生計を立てていたのか,バタヤの言葉はもの拾いと結びつく。宮内洋平氏の南アフリカ研究でもそうした下層の人々の生活は一般的だが,当時の日本でも一定の割合の労働者がいたということは知っている。私と同年代の社会学者である,下村恭広氏もそんな研究をしていた。この章では新聞記事の分析もあり,また別の資料を用いて,特定のバタヤ部落の消滅過程も辿っている。
第4章からは河川敷居住に焦点を合わせていき,まず全国的な傾向をつかみ,先行研究のある代表的な河川(熊本県の白川,静岡県の安部川,横浜市の鶴見川)などの状況が確認される。そして,第5章で再び神戸に戻る。特にここでは,どの不法占拠地区でも一定数存在していた朝鮮人部落について詳細な考察がなされる。この辺りからは元住民へのインタビューなども含まれている。章のタイトルには「空間の政治」とあるが,この詳細な事例研究を踏まえた何かしらの考察が欲しかった。第6章,第7章は広島市の事例に移る。広島市全体が太田川の扇状地だが,海に流れ出す河川流を人工的に処理すべき戦前から国の直轄事業として放水路の事業が始まる。しかし,周知のごとく広島は爆心地であり,事業の中断と,不法居住者の増大が生じた。本書の終盤ではその経緯と最終的にかれらが立ち退かされる過程を詳細に描いている。正直,これまでの読書はもどかしい気持ちにさせられてきた。史料に基づく誠実な分析であることが本書の特徴でもあるが,確実に書けないことは書けないという態度でもあるので,本書のタイトル「空間のいきる」という不法住宅に住む人のなまの生活がありありと描かれるわけではないのだ。もちろん,そういう人たちが積極的に記録を残すわけではなく,また行政側も撤去のために調査をする必要はあっても,それを積極的に保管するわけでもない。だから,復元するのは難しいことは分かる。第7章では,行政側の不良住宅地区の移転という政策に対して,そこに住む住民のために交渉を行った活動家たちの姿が丁寧に描かれている。残念ながら,住民の姿は最後まで断片的な写真でしか見ることはできないが,この読書は,戦後日本の都市を必死に生き抜いた人たちの姿に少なくとも地理空間というスケールで思いを馳せることができる経験だったと思う。
本書は「序論」の最後にドリーン・マッシーの『空間のために』における空間論を踏まえての考察とされているが,ここはちょっと気になる。マッシーはこの著作以前に「場所は静的で固定的なものではない」という場所論を展開していたが,『空間のために』はさらにそれを超えていく著作だと私は理解しているからだ。確かに,本書は場所論ではなく,空間論を軸にしていて,そういう意味では『空間のために』を踏まえるの正しいと思うが,もう少し丁寧な考察が必要だと思うし,序論で述べるだけでなく,結論でどのように「踏まえた」のかを最後に記してほしい。また,ド・セルトーの「戦略と戦術」を本書の後半で利用しているが,これに関しても文献にあるように,森 正人氏の議論の受け売り感が否めない。今更この形骸化した議論を繰り返すのではなく,原著に立ち戻った深い議論を展開して欲しかった。とはいえ,本書を読んで,学術書であろうとも著者の人柄がこんなにも溢れるものであるのだと強く感じた。

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ふたつのオリンピック

ホワイティング, R.著,玉木正之訳(2018):『ふたつのオリンピック――東京1964/2020』角川書店,590p.2,400円.

 

基本的に,学術書以外のオリンピック本にはあまり手を付けないつもりでいたが,本書は何となく,装丁も含め読んでおきたいと思った次第。ちなみに,私は本書をノンフィクション的小説だと思っていたが違かった。著者は実は日本で有名なジャーナリストであり,『菊とバット』など野球に関する著書をはじめ,たくさんの著書が翻訳されている人物であった。

第一章 オリンピック前の東京で
第二章 米軍時代
第三章 1964年東京オリンピック
第四章 駒込
第五章 日本の野球
第六章 住吉会
第七章 ニューヨークから東京へ
第八章 東京のメディア
第九章 バブル時代の東京
第十章 東京ワンダーランド
第十一章 MLBジャパン時代
第十二章 豊洲と2020年東京オリンピック
エピローグ

ということで,冒頭は1964年東京オリンピックが開催される前の東京の風景の描写で始まる。本書は1964年東京オリンピック前に来日し,多くの人生を日本で過ごし,2020年東京オリンピックを迎えることになった著者の自伝的な作品である。米国カリフォルニア州のユーレカという田舎町の出身だという著者は,家族から離れたい一心で,米空軍に入隊し,19621月に東京に来たという。京王線東府中駅が最寄りの府中空軍基地(今は航空自衛隊基地)の配属になり,太平洋軍電子諜報センターが著者の勤務先だった。
本書をオリンピックという観点から読んでも,1964年大会について,もちろん準備期間の街の様子についての市民目線も知れるし,また大会当時の日本人および外国人の反応の一部も知ることができる。しかし,どうしてもこのページ数でオリンピックに関連する記述は限られており,またヤクザやマスコミに深く関わることになる著者の半生に驚くことが本書の読書の大半を占める。まずは,米軍の兵士として働く傍ら,日本での英会話教師として働いた張本人の声を知ることができる。日本で英会話が流行した時代,英語が話せれば教養がなくても就職できるという,当時は外国人といえば欧米中心だったので,外国人にとっての安易な就職先だったという話は聞いたことがあったが,当事者の語りを読むと説得的だ。著者は外国人として一方ではちやほやされ,もう一方では排斥されるという立場を長期間経験しており,それがジャーナリストを志すきっかけとなり,また彼の作品の主要なテーマでもあった。
4章のタイトル「駒込」は著者が米軍を除隊し,はじめて暮らした町。著者は英会話の教師として生計を立てながら上智大学に学生として通っていた。日本の英会話教室での雇用の話も面白いが,行き当たりばったりでさまざまな人の個人的な英会話教師をしてきた話はとても面白い。1960年代の後半は,エンサイクロペディア・ブリタニカ・ジャパンでサラリーマンとして働いた。この頃は東中野に住んでいたという。この頃のことが書いてあるのは「住吉会」と題された第六章。そう,この頃にヤクザと関係があった。一人のヤクザに気に入られて,いろんな経験をしたようだ。この経験に基づく,著者の日本政治論が面白い。ヤクザは基本的に右派で,自民党が好きだという。自民党は自民党でさまざまな場面でヤクザを利用し,公共事業のための用地取得に伴う立ち退きとか,場合によっては肉体労働者としてヤクザを動員するとか,そんな結びつきがあるという。ヤクザと付き合いがあり,会社の付き合いでは毎日のような酒浸り,そんな自堕落的な日々は急転する。アメリカ人の友人から著者の日本野球談議を本にしろと急き立てられ,まんまとその話に乗ってしまう。日本でしこたま稼いだ貯金で1冊の本を書くにはかなりの労力の入れ方だが,なんとか『菊とバット』という彼の処女作が19776月に出版される(原著は英語)。もちろんそれは,ルース・ベネディクトの『菊と刀』からタイトルを借りている。ここからの記述は打って変わってジャーナリストである。ヤクザとの接点はその後も続くが,あくまでも取材対象としての付き合いのようだ。ジャーナリストになってからは,出版社や球団などとのいざこざが中心に語られる。彼の書く文章がなにかと問題を起こすのだという。
著者は日本人と結婚もするが,奥さんは国連の難民高等弁務官事務所の勤務ということで,世界中をあちこち移住する。著者は東京やニューヨークを拠点に調査・執筆活動を行い,執筆に集中するときは世界一周の航空券を購入し,妻の元を訪れるのだという。どういうチケットかは分からないが,かなり自由がきいて,格安だという。そんなこんなで,著者は日本でバブル経済期も経験し,その崩壊についても詳述している。当然,日本に在住しながらもアメリカ人との交流もあるから,単純に「バブル崩壊」といっても,その状況は人によって違うという。著者は日本野球についての本から,プロレス関係,日本のヤクザ地下世界の本まで書くが,野茂英雄の登場以降,また野球に戻り,当初から日米の野球の違いについて書いていたわけだが,日本の球界自体が変容する時代もどっぷり目撃し,イチロー本も書いている。東日本大震災についても,日本全体の捉え方,東京での捉え方,そして外国人の捉え方をかなり細かく描いている。ようやく最後に2020年東京オリンピックの話になるが,石原慎太郎の話が細かくなされているものの,今年で77歳になる著者だから,かなり回想的にこのオリンピック準備を眺めているようにも思える。

 

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オリンピックのすべて

パリ―, J.・ギルギノフ, V.著,桝本直文訳・著(2008):『オリンピックのすべて――古代の理念から現代の諸問題まで』大修館書店,399p.2,500円.

 

本書も先日紹介した『オリンピック教育』とともに、最近存在を知った訳本。日本のオリンピック研究者としては有名な桝本直文が訳している。そして、ただ訳しているだけではなく、日本の状況である第4章と、自らの専門である映画に関する第13章を書き足しているのだ。「訳著者あとがき」には「原著の章と差し替えてある」(p.387)と書かれているが、原著からどの章が除かれることになったかは書かれていない。

序章
1章 オリンピズムという理念
2章 古代のオリンピック
3章 近代オリンピック競技大会の復興
4章 日本のオリンピック・ムーブメント(桝本直文)
5章 オリンピックとメディア
6章 オリンピック・マーケティング
7章 オリンピック大会の経済的・環境的インパクト
8章 オリンピック大会の開催
9章 オリンピック大会の政治学
10章 スポーツの倫理とオリンピズム
11章 薬物とオリンピック
12章 スポーツ、芸術、オリンピック
13章 オリンピックと映画(桝本直文)
14章 パラリンピック
15章 オリンピック教育――オリンピックの祝福

本書はこれまで私が読んだなかでなかった内容がいくつか含まれている。まずは、古代オリンピックについて。オリンピアの遺跡は、1766年に英国人が発見し、1829年にフランスの考古学者たちが訪れたとされ、本格的に発掘調査が始まったのは1875年だという。その調査に基づき、紀元前に行われていた古代オリンピックの内容が解説されている。私的には特に興味はないが。
4章は訳者の桝本氏による日本の事情についての説明だが,自らが関わっている日本オリンピック・アカデミーでの仕事を活かしたような内容であり,あまりアカデミックな文献は参照されておらず,詳しいのはオリンピック教育について。前半は圧倒的にオリンピック推進派の著書だと思っていたが,オリンピックがもたらす負の側面にもしっかり向き合っています。第58章の経済的側面や,第9章の政治的側面はそこそこ有体の記述ですが,第10章はこれまで読んできたものよりもかなり突っ込んでドーピングなどに関連した話が論じられています。この章を読むと,冒頭でオリンピズムに関して詳しく解説していた意味が分かります。まず,第10章では暴力について,スポーツに必然的につきまとう攻撃性と暴力との関係が論じられます。第11章では薬物について,基本的な薬物反対派の意見を挙げながら,それらがいかに根拠がないかを論証しています。とはいえ,決定的な批判意見は出しておらず,暗に「ルールはルール」というIOCの立場を意味のないものとしています。第12章の文化・芸術へのこだわりもやはりクーベルタンの理想を汲んでのものですが,かといってクーベルタンの思想を理想化しているわけではありません。この章に乗じて桝本氏は第13章を加筆し,全大会の記録映画について論じています。これはありがたい。特に,多くのオリンピック公式記録映画を手掛けていながら日本ではあまり知られていないバド・グリーンスパン監督の作品を詳しく紹介しているのはありがたいです。オリンピック研究は非常に蓄積があり,パラリンピックまで含めてしまうと収拾がつかないので,あまり読んでいませんが,本書では分量的に多くはないものの,丁寧に記述されており,その本質を理解するのに役立ちます。著者の2人はこれまで知りませんでしたが,最近読んだ英語論文の中で本書が引用されていて,そこそこ読まれている本なんだなと確認しました。

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