書籍・雑誌

反オリンピック宣言

影山 健・岡崎 勝・水田 洋編 1981. 『反オリンピック宣言――その神話と犯罪性をつく』風媒社,261p.1,100円.

 

オリンピックとは,その研究が多岐にわたるが,研究成果についても,読めば読むほど次々出てくる。今,日本でオリンピックを議論するとなると,目下2020年東京大会が念頭に置かれるわけで,その前の1998年の長野冬季大会,1972年札幌冬季大会,1964年東京夏季大会と時代ごとに日本はオリンピックを経験しているわけで,それらに関しても研究は蓄積されている。ということで,2020年東京大会について書かれた『反東京オリンピック宣言』を読む前に,是非本書に目を通してみたかった次第。幸い,私が非常勤で勤務している東京経済大学の図書館に所蔵があった。しかも,けっこうオリンピック関係の書籍を所蔵しているのだ。過去の研究にどこまで手を伸ばすのか,悩ましいところである。
本書は現物を手にとって初めて知ったことだが,1988年の夏季大会の招致運動をしていた名古屋大会をめぐる運動が基になっているものである。この大会は結局ソウルに決まったが,IOCで正式に決まるのが19819月であることが本書に記載されているが,本書の発行は19811010日である。この日はかつて体育の日だったが,確か1964年東京大会の開会式を記念して休日になった気がする。

まえがき
プロローグ(岡崎 勝)
Ⅰ オリンピックの診断書
 1 オリンピック教の誕生(山本芳幹)
 2 アマチュアの亡霊(岡崎 勝)
 3 多国籍企業――オリンピック産業株式会社(土井俊介)
 4 「平和の押しうり狂典」オリンピック(土井俊介)
Ⅱ オリンピックと市民のスポーツ――その対立点と展望
 1 呪われた近代スポーツ(山本芳幹)
 2 市民スポーツとの距離――オリンピックの欺瞞性(影山 健)
 3 オリンピックの犯罪性――自由なスポーツの抑圧(影山 健)
Ⅲ オリンピックと子供たち
 1 管理主義教育と子供たち(岡崎 勝)
 2 オリンピック教育と子供たち(岡崎 勝)
Ⅳ オリンピック招致と市民生活の破壊
 1 名古屋オリンピックの社会的な背景と意味(水田 洋)
 2 オリンピックをめぐる名古屋市の財政・都市問題(山田 明)
〔資料〕
 IOCオリンピック憲章の問題点(野場とも子)
 最近の選手強化政策について(加藤昌己)
 反名古屋オリンピック市民運動年表(反オリンピック研究会議)
 反名古屋オリンピック市民連合加盟団体リスト
あとがき

著者にはスポーツ社会学を専攻している研究者が名を連ねるが,編者の一人,岡崎氏は小学校教員とのこと。多くの著者が市民運動のメンバーになっている。そういう意味では,近年の『オリンピック・スタディーズ』(2004年)や『反東京オリンピック宣言』(2016年)がかなり学術的色彩が強いのに対して,長野オリンピックを中心に執筆された『君はオリンピックを見たか』(1998年)と似ていて,著者たちの熱い思いが伝わってくる。
当時のスポーツ社会学の状況はよくわからないが,やはり時代的な影響も色濃く反映されているような気がする。本書のなかにも,ボードリヤールやイリイチなどの思想書に言及された個所もあり,また当時翻訳されていた『スポーツの社会学』(大修館)なる本も紹介されている。当時は日本でも記号論や構造主義がもてはやされる一方で,それに対する主流派の反発などがあったのだろうか。ともかく,カルチュラル・スタディーズの導入はまだで,冷静な分析というよりは,社会批判が先に立っている雰囲気がある。とはいえ,それは1960年代後半のプロテスト的な意味ではなく。
などと書きながらも,本書の主張は素直に納得させられるものばかりで,市民の目線の反対運動に研究者が助言をしている本である。上に挙げた『オリンピック・スタディーズ』や『反東京オリンピック宣言』は確かに,研究者である私のような読者が読むと,その学術的な水準に納得するのだが,市民の声を代弁するかというと,ある意味難解すぎて,じゃあオリンピックに反対した先にどんな代替案を提示すればいいのか分からなくなる。もちろん,オリンピックを中止にすればそれでいいのだが。
例えば,本書にはオリンピックを開催するのであればこうしてほしい,という要望がいくつかあり,印象的である(本書にはそうした素朴な主張の重複も多い)。オリンピックに対応した大規模な競技施設をいくつか作るのであれば,同じ予算を使って,小規模な施設を多数作った方が市民スポーツの活性化に役立つ,というのがその一つだ。
単に市民目線というだけでなく,そもそもオリンピック憲章が掲げるアマチュア精神とはそもそもなんなのかを,単なる理念ではなく,具体的な市民とスポーツとの関りで考える。しかも,そこでいうスポーツが近代スポーツであり,オリンピックのようなトップ・アスリートの競技を見ること,模倣することが,子どもたち,市民たちの楽しみのためのスポーツをより近代的なもの,すなわち規律・訓練され,共通のルールの下で競い合うものへと矮小化されていくという。さらに,それが教育の場へと組み込まれることによって助長される。この教育論はかなり強引なところもあるが,大枠は正しいともいえる。
最期に名古屋市のオリンピック招致計画の検討が,財政学を専門とする著者によって非常に詳細に検討される。細かすぎて私のような読者には詳しく読む気にはなれないが,こういう見当は必要である。いずれにせよ,読後に驚くのは,日本でもこうしてしっかりとオリンピックに反対する意見が出されているのに,今回の2020東京大会において何一つ教訓を得ていないということだ。招致活動に数億円が投じられ,結果が出せなくても,次に活かすのであれば無駄ではない。とはいえ,長野に活かされたのは不正な金の使い方だったのだが,招致を成功させるという活かし方だけが教訓ではないはずだ。

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オリンピック・スタディーズ

 

清水 諭編 2004. 『オリンピック・スタディーズ――複数の経験・複数の政治』せりか書房,255p.2,500円.

 

東京は2016年オリンピック夏季大会に立候補しているが,本書はそれ以前に発行されたもの。その正式な立候補は20079月とされているが,本書には近い将来東京でオリンピックが開催されることになることを予見しているような記述はほとんどない。1か所のみ(どこだか特定できなくなってしまったが),近年の名古屋や大阪などの招致活動に関する記述があるが,そうした近年のオリンピック計画に対して,1964年の東京大会がひな型になるという記述があった。ということで,本書は2020年東京大会に焦点を当てたものではなく,むしろ1964年を含む過去の大会から学ぶことがほとんどだが,それは将来の大会に向けられた考察になっている。

はじめに オリンピックと「政治的なるもの」(清水 諭)
Ⅰ 近代オリンピックを問い直す
 1 「ロゴ」身体――カール・ルイスの登場とビジネスツールとしてのオリンピック(清水 諭)
 2 グローバル,ポピュラー,インター・ポピュラー――市場,国家,市民社会にまたがるオリンピック・スポーツ(ヘニング・アイヒベルク)
 3 オリンピック男爵とアスレティック・ガールズの近代(田中東子)
 コラム:「世界」からの呼びかけ――『クール・ランニング』とジャマイカ・ボブスレー・チーム(鈴木慎一郎)
Ⅱ ナショナルなものの想像力
 4 アメリカン・イメージの構築――‘32ロサンゼルス大会の前史とアメリカニズムの変容・持続(井上弘貴)
 5 規律化した身体の誘惑――ベルリン・オリンピックと『オリンピア』(伊藤 守)
 6 国家戦略としての二つの東京オリンピック――国家のまなざしとスポーツの組織(石坂友司)
 間奏曲:帝国日本がはじめてオリンピックに参加した頃――外交家嘉納治五郎と’12ストックホルム大会(鈴木康史)
Ⅲ プレ/ポスト‘64
 7 日の丸とモダン――’64東京大会シンボルマークとポスターをめぐって(前村文博)
 8 未来の都市/未来の都市的生活様式――オリンピックの60年代東京(石渡雄介)
 コラム:長野オリンピックと環境問題(鵜飼照喜)
 9 「東洋の魔女」――その女性性と工場の記憶(新 雅史)
Ⅳ アウターナショナルな経験
 10 故郷/経路 人見絹枝の旅と遭遇――イエテボリ,アムステルダム,プラハ(有元 健)
 コラム:「すずスマイル」と自己主張――千葉すずが残したもの(稲葉佳奈子)
 11 レボルト
68――黒人アスリートたちの闘争とアウターナショナルなスポーツ公共圏(山本敦久)
 12 ボイコット(小笠原博毅)
 コラム:メキシコ・オリンピックにおける「1968年性」について(坪内祐三)
危機にあるオリンピック――「あとがき」にかえて(清水 諭)
「オリンピック・スタディーズ」基本文献一覧
オリンピック関連年表

目次からもわかるように,対象やテーマは多岐にわたる。私たちの研究グループはオリンピックを「メガイベント」の一つの事例として捉え,また都市研究の一環として考察することで,オリンピックの地理学研究を目指している。そういう意味では本書から直接学ぶことはそれほど多くないが,1998年の長野冬季大会を経て2004年の時点で日本においてオリンピックについて何を考えられるのか,かなり網羅的な考察がなされている。2000年時点では英語圏でメガイベント研究のそれなりの蓄積があり,本書はそれらに言及することはほとんどないが,日本の文脈でのオリンピック研究としてはこの時点での最新成果と言えそうな論文集である。
伊藤 守氏は長野大会についても論文を書いているし,近年も2020東京大会について発言をし続けている,いわずとしれたメディア研究者。その他にも,私は以前カルチュラル・タイフーンというカルチュラル・スタディーズの研究集会に参加していた時期があるが,その頃にその集会の主催者だった人たちが本書にも名を連ねている。有元 健,小笠原博毅,田中東子,山本敦久という人たちである。ということで,本書でもかれらの書く文章は理論的な基礎がしっかりしています。編者の清水 諭さんは知っているようで,知らないような。本書でも1章を執筆していますが,まあ1章にふさわしくオリンピックの商業主義化の歴史が概観され,各論としてカール・ルイスという1980年代のオリンピックの陸上ヒーローが取り上げられています。有元さんが翻訳した2章もオリンピック全般についてのコンパクトでいてかつ鋭い視点からのオリンピック本質論になっています。3章はオリンピック史における女性の登場について,4章はオリンピックへのアメリカ合衆国の関わりの過程,5章はリーフェンシュタールの『オリンピア』の美術批評的考察。6章の石坂氏は2020年東京大会決定後も積極的にオリンピックに関する発言をしているスポーツ社会学者であり,6章は幻の1940年東京大会から1964年大会までの経過をたどっている。
7章はデザイン批評の立場から1964年大会のシンボルマークを考察する。8章は都市的生活様式というオーソドックスな社会学的概念を用いて,1964年東京大会時に整備されたインフラについて考察している。特に,柴田徳衛という人の業績に依拠したものではあるが,廃棄物から上下水道の整備という衛生環境の向上については学ぶことが多い。9章は「東洋の魔女」と呼ばれた「大日本紡績貝塚工場チーム」について,そして10章は日本人女性として初めてオリンピックに参加した人見絹枝について,その活躍をたどっている。特に10章は有元氏による執筆ということもあり,人類学の「旅する理論」を援用した素晴らしい考察。11章と12章も1968年のメキシコシティ大会を中心とした,反体制的な世界情勢における五輪大会と政治,そして人種などのアスリートの葛藤などが論じられており,非常に興味深い。
本書にも執筆した小笠原氏と山本氏の編集により,2020東京大会決定後の2016年に『反東京オリンピック宣言』が出版されている。続けてこの本を読んでみることにしよう。

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民族と帝国

アンソニー・バグデン著,猪原えり子訳 2006. 『民族と帝国』ランダムハウス講談社,253p.1,900円.

 

吉祥寺の古書店「百年」で購入した一冊。大きなテーマだがコンパクトな一冊。監訳をした立石博高という人物が巻末に解説を書いているが,そのなかに,本書の原著者が著名であるにもかかわらず日本ではあまり紹介されていないとあったため,購入してみることにした。原著はランダムハウスから出版されたわけではないが,かなり一般読者を対象としたもののようで,参考文献は一切示されていない。日本語版出版に際し,「日本語版読者のためのブックガイド」が掲載されている。著者のバグデンの専門はスペイン帝国によるラテンアメリカ植民地支配とのこと。

序章 二つの旅
第一章 世界を最初に征服した者
第二章 ローマ人の帝国
第三章 世界帝国を求めて
第四章 大洋の征服
第五章 キリスト教と帝国の拡大
第六章 イベリア半島世界の衰退
第七章 自由の帝国,交易の帝国
第八章 奴隷制
第九章 最後のフロンティア
第十章 帝国,人種,国民
第十一章 おわりに

ちなみに,原著タイトルは「Peoples and Empires」となっており,エスニックという意味での民族をテーマにしているわけではない。一応,本書はヨーロッパを中心とした帝国を扱うが,時代的には古代からなので,帝国によって支配される人々のことを固定した呼称で呼ぶことができない。むしろ,時代によって,個別の帝国によってその支配下にあった人々の様子(最終的には国民)がどうであったかを論じることも本書の大きなテーマである。
ということで,私は古代の帝国のあり方についてほとんど知識がなく,高校の世界史の教科書レベルを字面で追うくらいのことしかやってこなかったので,本書から学ぶことは多かった。ただ,ここで具体的に何を学んだと書き残すことは,壮大なる時間の流れをコンパクトな一冊にまとめられているために難しい。訳本につけられたブックガイドに従って少しずつ読み重ねることで理解を深めていこう。そして,ネグリ・ハートの『帝国』にたどり着きたい。日本であまり紹介されない研究者の著作は,やはり残念な読後感となってしまうこともあるが,本書に関してはむしろお得感があった。古書店で偶然見つける本書のような本との出会いが小さな幸せである。

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ギュスターヴ・クールベ

ファブリス・マザネス著,Akase, K.2007. 『ギュスターヴ・クールベ』Taschen96p.1,500円.

 

Taschenはドイツの美術系出版社で,本書は外国で出版された著作を日本の出版社で翻訳・出版したものではない。美術系はけっこう出版界での多国籍化が進んでいるように思う。それはそれで印刷の質とかの点ではいいっことかと思うが,書誌情報に関しては日本の慣例とは違っていたりして,困ることもある。
ちなみに,本書の内容は図版的なものです。とはいえ,著者名がきちんと表紙に掲載されていることもあり,本文は決して長くありませんが,しっかりした内容です。

折衷主義
名声,それとも絵画への一途な愛
最初の栄光に至るまで
シリーズの制作
終章:オルナンの巨匠の遺産
年譜

先日紹介した坂崎 坦『クールベ』(岩波新書)と比べて,クールベの印象が大きく変わることはなかったが,やはり異なる情報や捉え方の異なる点もあった。そういう意味でも,やはり1冊の自伝で理解したつもりになってはいけない。クールベが自画像を多く書いた音は坂崎も指摘していたが,本書はその表現内容も含めて説得的な解釈を展開している。また,クールベ自身が被写体となった写真もいくつか掲載されている。また,先人の作品からの影響についても,その図版をカラーで掲載して分かりやすく説明されている。クールベの画法は「写実主義」と評されることが多いが,この言葉自体がかなりあいまいなもので,目の前のモデルを写実的に描きながらも題材は非現実的な場面を描く作品もあるが,クールベはそうではない。一方ではプルードンのような社会運動家との交友から,クールベの作品から社会主義的な思想を読み取る場合もあるが,それに関しては,坂崎も本書も全面的には同意していない。本書の場合はいくつもの要素を併せ持った「折衷主義」と表現している。また,クールベが女性のヌードを多く描いたことは坂崎にもあったが,女性の陰部を中心に描いた「世界の起源」(1866年)という作品があるのは少し驚きだった。

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クールベ

坂崎 坦 1976. 『クールベ』岩波書店,210p.230円.

 

今,国立西洋美術館で「リヒター/クールベ」という展示をやっている。といっても,リヒターの2003年の風景作品と,リヒターが自室にこの作品の隣に展示しているというクールベの風景作品(1873年)とを並べて展示するという小企画。リヒターについて,2013年の論文で私が触れたこともあり,今度研究者仲間でこの展示を観に行く前に,私がレクチャーをすることになった。クールベについてはあまり知らないので,いくつか知識をつけておこうと購入したもの。

第一章 卑俗の礼賛
第二章 「オルナンの埋葬」――「村の娘達」
第三章 「水浴の女達」――「遭遇」
第四章 「画家のアトリエ」――「会議の帰途」
第五章 「鹿のかくれ場」――「荒れる海」
第六章 「おうむと女」――「ねむり」
第七章 精励・探究・反省
第八章 栄光と失意
付録・クールベ覚え書
クールベ年表
あとがき

本書は岩波新書の一冊だが,良くも悪くもかつての新書らしい内容。まず,参考文献の類は全く示されていない。ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は19世紀のフランス画家だが,本書は自伝的な内容を基軸にして,その作家人生の時代ごとに代表的な作品について,その顛末を順に並べるといったもの。非常に因襲的な書き方で,そうした因習的な構成になれている私のような読者には読みやすい。しかし,近年の美術批評や美術史の分野から刺激を受けている身としては,かなり物足りない。
ただ,今回はほとんど知識のない画家について知ることが目的だから,その目的は十分に達せられた。私の気になるところとしては,現代に生きるドイツの画家ゲルハルト・リヒターとの共通点だが,それはいくつかあった。まず,クールベが「等身大」で絵画を描いていたということだ。リヒターの作品のいくつかも等身大で描かれている。また,両者とも葬儀を描いた代表的な作品があること。また,両者とも多くの風景画を描いていること。とりあえずはこんなところだろうか。それにしても,こうした後世に名を残す人物は波乱万丈な人生を歩むものなのだな。あるいは,偉人を常人とは異なるものであるかのように描くのが後世の者に課された使命なのだろうか。

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私はどうして地理学者になったのか

新しい書評が出ました。『人文地理』での初めての掲載です。

成瀬 厚 2018. シルヴァン・アルマン編,荒又美陽・立見淳哉訳:私はどうして地理学者になったのか.人文地理 70: 414-415

 

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シルヴァン・アルマン編,荒又美陽・立見淳哉訳『私はどうして地理学者になったのか』学文社,2017年,vi247頁,2,300円+税,ISBN978-4-7620-2739-0

 

社会のなかで一定以上の評価のある学問分野で著名になった研究者には,自伝について語る機会が与えられる。残念ながら世界的にみても地理学についてはそのような機会が与えられることが少ないのか,インタビューなどの手法により主たる研究者の自伝を記録することが行われてきた。アン・バッティマーによる1983年の『The Practice of Geography』,竹内啓一・正井泰夫による1986年の『地理学を学ぶ』,グールドとピッツによる2002年の『Geographical Voices』,ハバード,キッチン,ヴァレンタインによる2004年の『Key Thinkers on Space and Place』などがその代表例といえる。
本書もそうした系譜に入れることができる内容を有している。上記の例において,そのほとんどの編著者自身が地理学史的関心を有する優れた地理学者であったのに対し,本書はそうではない。訳書につけられた編者紹介には,本書を含む『私はどうして…』シリーズの監修者となっており,「ジャーナリスト」という肩書になっている。歴史学の修士を取得しているが,地理学を専門とするわけではない。出版社のウェブサイトによれば,このシリーズは2007年から2009年にかけて,化学,地理学,哲学,経済学,幾何学,心理学,民族学,ジャーナリズムの8冊が出版されている。そのうち,アルマン自身が編集しているのが,ジャーナリズムと地理学の2冊であり,編者は地理学に対して思い入れがあるのかもしれない。
冒頭の「はじめに」では,12ページにわたって地理学の紹介がなされている。本書がシリーズものの1冊であることを考えれば,当該分野の紹介があるのは当然だが,コンパクトでありながら有り体の記述による地理学紹介ではない。学説的な内容まではあまり踏み込んでいないものの,フンボルトやブラーシュをしっかりとその軸に据えながら,冒頭にラコストを登場させ,ルクリュをその歴史に位置づける。現代についても『地理学者目録』に掲載された2,000人の地理学者を「専門家か実践家」という観点で区分し,学生数についても言及している。
本書に登場する地理学者は12人である。原著ではアルファベット順に並べられているものを,訳書では生年の早い順に変更している(「訳者あとがき」による)。12人の名前と生年は以下のとおりである。ざっと,36年の世代差があることが分かる。

ロジェ・ブリュネ(1931年トゥールーズ生)
ポール・クラヴァル(1932年ムードン生)
アルマン・フレモン(1933年ルアーヴル生)
オギュスタン・ベルク(1942年ラバト生)
イヴェット・ヴェレ(1943年ククロン生)
アントワーヌ・バイイ(1944年ベルフォール生)
ドゥニーズ・ピュマン(1946年モンバール生)
レミー・クナフ(1948年カサブランカ生)
ジャン=ロベール・ピット(1949年パリ生)
ジャック・レヴィ(1952年パリ生)
ジャン=フランソワ・スタザク(1965年ナンシー生)
ヴァレリー・ジュレゾー(1967年パリ生)

目次に続いて,「本書に関連するフランスの地名」と題してフランス地図が付けられているのは訳者の配慮かもしれないが,地理学者の生まれや生い立ちに関する記述を地図と共に読むことは,「科学の地理学」という観点からも興味深い。地図は現在のフランス国境内だけの表現だが,モロッコやアルジェリアなどのフランス旧植民地も忘れてはいけない。
構成としては,各章の扉ページに顔写真と200字程度の要約があり,そのページをめくると年号付きの略歴がある。「教授資格試験(アグレガシオン)」と「博士論文口頭試問」の他,学会の創立や役職,雑誌の創刊などへの関わりが記されている。インタビューの項目に沿って,「(地理学者になる)きっかけ」,「学生時代」,「地理学への貢献」,「影響を受けた人」,「現在の地理学をどうみるか」という順で構成され,最後に主要著作一覧が掲載されている。それに加えて,コラム形式で「影響を受けた芸術・文化作品」についての記述がある。フランス地理学者による独自な概念についても少し長めのコラムが挿入されている。
さて,内容に移ろう。訳者解題で立見が述べているように,本書でインタビュー受けたフランスの地理学者たちの多くが地理学に対して引け目のような感情を表している。日本でもよく聞かれるように,中等教育までに面白い地理の教師に出会った,というエピソードはいくつかあるものの,幼少の頃から積極的に地理学者を目指していたという人は少ない。フランスでも地理学の社会的な地位が決して高くないことが想像される。また,英語圏との関わり合いについて幾人かが言及している。クラヴァルが英語圏地理学にも精通しているのは日本でもよく知られているが,その下の世代でも,計量地理学のフランスへの紹介に貢献したバイイや,ポストモダン地理学に貢献したスタザクは英語圏の地理学に開かれた若い世代であるという。かれらはフランスの地理学が英語圏の地理学に対して概して閉鎖的であることを嘆いている。
本書が科学の地理学として興味深いのは,英語圏との関わり合いもあるが,研究者同士のネットワークである。こうした点については,日本でも杉浦芳夫による学史研究が米国地理学について明らかにしているが,本書では各人が自身のキャリアについて語っており,かれらがどのような人脈を経由して研究者としての時空間的キャリアをたどってきたのかが具体的に記されている。
翻訳された本書で1人に割り当てられたページは20ページに満たないが,地理学者になるまでの紆余曲折や,地理学者としてのキャリアにおける研究関心の変容,新しいアイディアに達するまでの軌跡,そして知識人として文学・芸術作品から何を学び,どう向き合っているかに至るまで,その個性の魅力が伝えられる。
本書がこれまでの自伝的地理学史と異なる魅力を有するのは「現在の地理学をどうみるか」という質問項目である。原著出版当時76歳であったブリュネから,40歳であったジュレゾーまで,もちろん自身のキャリアと「現在」との距離感とは異なるはずだが,その捉え方は人それぞれである。ブリュネは「地理学は死ぬことからは程遠い」(p.29)と楽観視し,クラヴァルは近年の社会科学における空間への強調を挙げ,「地理学者の将来は不確定だ」(p.47)と述べる。フレモンは悲観的な意見も示しながら,「すべきことは膨大にある」(p.68)という。自然地理学と人文地理学の対立,フランスと国外の関係,社会的貢献,学会などの制度的問題についても,将来に向けた方策が語られている。若い世代のスタザクは「地理学の状況は改善した」(p.216)と述べている。
原著であるフランス版の読者は地理学を専攻とする研究者というよりは,それ以外を想定しているように思う。原著が,ある程度科学に関して素養のあるフランスの一般読者に対して分かりやすい記述なのかどうかは評者には判断しようがないが,正直日本語訳が読みやすい訳文になっているとはいえない。しかし,このシリーズがまとめて翻訳されたのではなく,地理学を専攻する研究者によって単独で出版されたということは,日本での読者は地理学研究者を想定しているのは間違いない。そういう意味では,地理学を専攻する読者として,本書を読んだ評者にとってその訳文から抱く違和感はけっしてマイナスではなかった。
日本の読者が本書をしっかりと理解するためには,フランス地理学に関して,フランスの教育制度,国の研究機関や地理学関連学会等に関して,また大学の制度(教員採用の仕組み)についてあらかじめ知っておく必要がある。それらの基礎的な知識は訳者による補足で与えられている。しかし,あまりに詳しい知識を補足することは逆に煩雑で,自伝としてざっくばらんに地理学者が語った言葉を聴く妨げとなるかもしれない。また,リラックスした雰囲気で進められたと想像されるインタビューであるがゆえに,フランスの知識人独特と思われるジョーク交じりの言い回しも含んでいる。そうした箇所に違和を感じながらも読み進める。そうすると,フランスの地理学界の特殊性,そのなかで研究者人生を送り,またかれらの存在によって形成される地理学界がいかに日本のそれと異なるのか,いかに個性的な地理学者によってフランス地理学界が成り立っているのかを知ることができる。
本書のような形で,個別の研究者について,人生というスケールで,その研究関心の移り変わりや多様性という観点から知ることは,その研究者の研究成果の再読を促し,新たな魅力を発見することにつながるだろう。日本においても竹内啓一・正井泰夫編『地理学を学ぶ』に倣って,世代から世代へと地理学の魅力を伝えていくことは必要な作業である。

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日本の女性議員

三浦まり編 2016. 『日本の女性議員――どうすれば増えるのか』朝日新聞出版,366p.1,600円.

 

前にも,岩波現代全書から2015年に出版された『私たちの声を議会へ』を紹介したが,その著者三浦まりさんが編集した本を読んだ。三浦さんはNHKの「マイあさラジオ」の「社会の見方 私の視点」というコーナーによく出演していて知った政治学者。

はじめに(三浦まり)
1章 女性が議員になるということ(三浦まり)
2章 躍進の90年代(新藤久美子)
3章 2000年以降の停滞(三浦まり)
4章 国会議員への道(国広陽子)
5章 女性議員と男性議員は何が違うのか(大山七穂)
6章 地方の女性議員たち(竹安栄子)
7章 女性が政治に参画するために(目黒依子)
おわりに(三浦まり)
女性と政治関係年表(1945年以降)
参考文献
索引

執筆者は政治学だけでなく,法学,社会学,社会心理学などを専門とした人たちで,上記の他にコラムを担当している橋本ヒロ子さんがいる。議員という政治の話だけではなく,女性の政治参加というテーマでもあるので,ジェンダー研究やフェミニズム研究が中心だといってもいいかもしれない。
先進国の中で,日本の女性議員比率がかなり低いというのは日本に住む多くの人たちが感覚的に知っていることだとは思うが,本書はまずそれを数値で丁寧に示している。国会議員では選挙制度が異なると同時に立法における位置づけも異なる参議院と衆議院における女性比率の違い,都道府県議会における比率,市区町村議会における比率,さらに,市区議会なのか町村議会なのか。議員数の少ない議会における女性不在議会数など。もちろん時代によっても。
時代に関しては,大まかだけど分かりやすいストーリーを描いている。日本では戦後すぐに女性に参政権が与えられ,女性が初めて国会議員になった年の女性の数は少なくなかった。しかし,世界においては着実に女性議員比率が増加する時代に,日本は低い水準で推移する。土井たか子社会党首の活躍による1989年のマドンナ・ブームという現象により女性議員はようやく増えたが,またその後停滞してしまう。世界的には1990年代がまさに議会における男女比が問われた時代で,先進国のみならず各国の事情もある中で女性比率が高まって行くが,また日本はその後伸び悩んで今日に至っている。そうした日本の状況を確認した上で,その要因をさまざまな角度から考察している。
本書では,単に議会において女性の数を増やすということではなく,議会で決定される事項に関して女性がいかに関わるかということを重視しており,立法に積極的に参画した女性政治家をクリティカル・アクターと呼び,彼女たちへのインタビューを実施している。本書では,クリティカル・アクターになる条件を,〈コミットメント〉〈ポジション〉〈ネットワーク〉という三つのキーワードで特定している。
本書ではインタビューした現在の女性議員だけでなく,市川房枝など過去の重要な女性政治家の功績についても説明がある。先進国のなかでは日本は男女平等が進んでいないと思うこともあるが,それでも偉大な女性たちが尽力したおかげで現在のこの国がある,と知ることができる。本書には社会学者がそれなりに入っているが,読んでいるとどうしても推測の域を出ないような考察があることが気になってしまう。だが,それをどうしたらきちんと実証できるかと考えると,データ的な難しさも感じてしまう。その辺りがやはり政治というテーマは難しいのだろうか。ともかく,いろいろ学ぶところがある読書でした。

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中世とは何か

 

ル=ゴフ, J.著,池田健二・菅沼 潤 2005. 『中世とは何か』藤原書店,318p.3,300円.

 

大学の講義で,アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』を使っている。この本は16世紀にヨーロッパ覇権による近代世界システムが成立する以前の13世紀に,中東を心臓部とする世界システムができあがっていたという説で知られる。この本では,ヨーロッパ,中東,インド,中国といった順で構成されているので,今のところヨーロッパの説明をしているが,すでに小レポートを出さなければならず,おのずからテーマは中世ヨーロッパとなった。ということで,学生に2冊以上の歴史書を読んでまとめるという課題を出しているため,私もいくつか読もうと思っている。
そんな時,吉祥寺にある私の好きな古書店で見つけたのが本書。フランスの歴史家の本はいくつか読んでいるが,これまでの私の関心は近代だったので,ル=ゴフは読んだことがなかった。ということで,中身を確かめずに購入してしまったが,本書はインタビューものだった。まあ,自伝的な内容も含み,自著に関する話も出てくるので,ル=ゴフ入門のつもりで読むことにした。


Ⅰ 中世史家になる
Ⅱ 長い中世
Ⅲ 商人,銀行家,知識人
Ⅳ ある文明が形をなす
Ⅴ 天と地において
Ⅵ エピローグ

目次を読めば自伝的な内容だと分かりそうなものだが,インタビューといっても,質問者の質問は話のきっかけを作る程度の最低限のものであり,ル=ゴフが自由に語っているという感じ。前半はまさに生い立ちから歴史に興味を持ったきっかけ,そのなかでも中世という時代に対する興味。それを実現するための教育,大学卒業後のいきさつ,研究テーマの変遷などが語られる。『私はどうして地理学者になったか』を読んだ時にも思ったが,フランスにおいて研究者になる道筋は単純ではない。とはいえ,ル=ゴフは1924年生まれなので,そもそも私が思い描けるものとは時代が違うが。
本書の原題は「中世を探し求めて」というそうだが,藤原書店の好みのこの邦題になった。本書には著者なりのこの問いに対する答えについて語られているが,それは通俗的な中世観に常に抗ってきた軌跡ともいえる。とはいえ,私の場合その通俗的な中世観すら持ち合わせていないわけだが。一般的に中性という時代は476年に始まり,1492年に終わるといわれているらしい。1492年というのはコロンブスの大西洋横断の年なので,一般的な理解はよくわかる。476年というのは単純なものではないが,大まかにいってローマ帝国の崩壊を意味するようだ。また,中世は宗教の時代という一般的理解もあるようだが,当時はまさにそれが社会の中心すぎて,わざわざ「宗教」という言葉を使う必要もなかったのだという。考古学という学問は文字の残されていない時代,主に古代を対象とした方法だが,それは中世にも十分に活用されるものだという。
私も有している単純な時代区分では,ヨーロッパにおける中世と近代はルネッサンスという存在によって区分けされるが,アメリカの中世史家ハスキンズが1927年に提示した「12世紀ルネッサンス」(同名の本は日本語訳もされている)がよく知られているように,ルネッサンスと呼べる現象は中世にも幾度か異なる形で存在したという。確かに,高校の世界史の教科書でも,13世紀における貿易の発展に対処するための商業的な改革のことを「商業ルネッサンス」と書いていた気がする。
ル=ゴフは専門書よりも一般書の執筆でも知られるようだ。日本語されたものでも,1977年の『中世の知識人』が岩波新書,クセジュ文庫でも『中世の証人と銀行家たち』(1956年,邦訳なし)などを書いているようだ。初期のテーマは私も興味があるので,時間を見つけて読んでみたい。

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君はオリンピックを見たか

天野恵一編 1998. 『君はオリンピックを見たか』社会評論社,230p.2,200円.

 

1964年の東京オリンピックをめぐっては探せばけっこう資料があるようだが,実はあまり手を付けていない。しかし,本書は出版年が1998年ということで,中古で格安だったこともあり,入手して読んでみた。本書は1998年に開催された長野オリンピック冬季大会に対する「長野冬季オリンピックに反対するネットワーク」という団体の作業から生まれたものでもあるという。その団体の代表者が第二部の執筆者であり,本書の3分の1は招致・計画段階の長野大会批判にあてられている。編者もそのメンバーであったが,それは「天皇制運動連絡会」という団体としての参加であるということで,いわゆる左翼系の現代社会批判を行っている知識人たちも執筆している(私が知っているのは池田氏と小倉氏ぐらいだが)。
ある意味でそんな偏ったものではあるが,そういう思想にも触れておきたいし,また,具体的なところでも得るところの多い読書だった。

第一部 誰のためのオリンピックか
 五輪神話の仕掛人とその背後関係(天野恵一)
 「動員」の構造――ナチのベルリン・オリンピック(池田浩士)
 オリンピック「動員」にどう対抗するか(岡崎 勝)
第二部 長野オリンピックのここが見所(江沢正雄)
 税金はどこに流れたのか
 メディアじかけの利権屋の祭典
 犬のフンとファシズムのはざまで
 こうして「聖火」が長野にやってくる
 [コラム]「天皇行事」のオリンピック 象徴天皇は“国家元首”か?(天野恵一)
第三部 東京の灯よサヨウナラ 天皇制と東京・札幌オリンピック
 リニューアルされた日の丸・天皇 シンボルが東京オリンピックで(野毛一起)
 大衆動員に使われた聖火 官僚の描いた日本地図の中心(小倉利丸)
 ナショナリズム形成のアイテム 重ね焼きされる皇族のパフォーマンス(浅見克彦)
 治安体制強化の口実として 国家イベントを支える自衛隊・警察(土方美雄)
 都市再活計画・1964・東京 垂直イメージにみる天皇制の陰影(高島直之)
 スポーツの無償性・映画の芸術性 映画「東京オリンピック」をめぐって(天野恵一)

まず,基本的に金にまみれたIOC(国際オリンピック委員会)を代表とするオリンピック関連組織を本書では「オリンピック・マフィア」と呼ぶのだが,そのような論調は既にあって,翻訳された書籍もいくつか紹介されている。例えば,シムソン, V.ジェニングズ,A.著,広瀬 隆訳 1992. 黒い輪――権力・金・クスリ オリンピックの内幕』光文社.という本だ。日本でもスポーツ記者による,石川泰司 1990. 『もう金メダルはいらない』河合出版.なる本があるようだ。まあ,この手の話は詳しくは知らないが,マスコミも好きな話だし,想定以上のものはない。1936年のベルリン・オリンピックもナチにうまく利用されたということはよく語られる。聖火リレーはこの大会で導入されたものだが,それがナチの侵攻ルートの事前調査になったとか,という話は少し眉唾物だが,そもそもオリンピックの理念とナチス・ドイツの政治的理念とは一致しないという議論はなかなか興味深い。
長野オリンピックの分析である第二部は資料が充実している。基本的には費用と財源に関する詳細だが,外国人取り締まりに関する資料は,2020東京大会でも作成したら面白い。また,第二部ではないが,長野大会時の子どもたちの「動員」についての岡崎氏の文章も興味深い。岡崎氏は実際に小学校の教員であり,大会が盛り上がっていることをアピールするために児童が動員された事実を訴えている。
第三部は1964東京大会を含めた内容で,著者たちの熱のこもった議論となっている。1964年大会に復帰前の沖縄が聖火リレーの国内(?)出発点に選ばれたという話は近年の論文もあるが,小倉氏の文章もかなり詳しいものだった。また,土方氏による五輪大会に対する自衛隊・警察の協力については,これまで私はほとんど考えておらず,刺激的だった。最近の都市研究の文脈におけるメガイベント研究の中心テーマである都市計画との関連についても触れられているし,市川 崑の映画に関する文章もあり,本書から学ぶことはなかなか多かった。

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パリ:モダニティの首都

デヴィッド・ハーヴェイ著,大城直樹・遠城明雄訳 2017. 『パリ――モダニティの首都 新装版』青土社,441p.4,800円.

 

日本でも地理学の枠を超えて翻訳されている地理学者ハーヴェイの地理学者による翻訳本。原著は2003年であり,訳者による「新装版のためのあとがき」にもあるように,それ以降矢継ぎ早にハーヴェイは著作を出版し,その翻訳が日本でも続いている。一応地理学者として,『ポストモダニティの条件』までの翻訳されている著作は読んできたが,正直いつも斜に構えて読んでいた。近年の翻訳本もいくつか読んでいるが,自分の研究に直接活かすようなつもりでは読んでいない。しかし,本書には脱帽だった。この大著を翻訳した訳者にも頭が上がらない。そういう読書だった。

序章 断絶としてのモダニティ
Ⅰ 表象 パリ1830-1848
 第1章 モダニティの神話 バルザックのパリ
 第2章 政治的身体(政体)を夢見て 革命的政治とユートピアの企図1830-1848
Ⅱ 物質化 パリ1848-1870
 第3章 プロローグ
 第4章 空間関係の編成
 第5章 貨幣,信用,金融
 第6章 地代と地主階級
 第7章 国家
 第8章 抽象的かつ具体的な労働
 第9章 労働力の売買
 第10章 女性たちの状況
 第11章 労働力再生産
 第12章 大量消費・スペクタクル・余暇
 第13章 コミュニティと階級
 第14章 自然との関係
 第15章 科学と感情,モダニティと伝統
 第16章 レトリックと表象
 第17章 都市変容の地政学
Ⅲ コーダ
 第18章 サクレ=クールのバシリカの建設

第18章にあるサクレ=クールの歴史分析はもともと1978年に発表された論文で,翻訳もあったので知っていて,本書がそれ以降のハーヴェイによるパリの歴史研究であることは知っていた。もともとの本書の訳本は2006年に出ているが,評判がよく重版が続いたのだろうか,昨年新装版ということで,おそらく訳文にもいくらか手を入れて出版された。訳者の一人,大城氏と何気ない会話の中で,今回バルザックなども結構読んだよ,みたいな話を聞いていた。本書を読む前だったので,話半分で聞いていたが,おそらく前半で登場する表象分析の対象である作品群をきちんと読んだということだろう。
まあ,ともかく訳文が素晴らしく,ストレスのない読書だった。前半の表象分析はまさに日本でも1980年代に流行った文学作品を通して都市を読む的な方法論によく似ているが,ハーヴェイの思考には常にマルクスがいて,常にそこに戻ってくる点がかつての記号論的都市論とは大きく異なっている。前半の表象分析はバルザックを中心として,フロベールやボードレール,ボードレールを論じたベンヤミン(なお,周知のことだが,ベンヤミンには「パリ 19世紀の首都」という文章があり,本書のタイトルはそれを借りているといえる)などの作品分析を,ドーミエという風刺画家のイラストを挿入しながら展開される。
その表象分析から「Ⅱ 物質化」で実在としてのパリの歴史分析に移行する。物質化とか物質性というのはちょっと前の英語圏の地理学で流行ったいいまわしで,私はそのことに違和感を抱いているのだが,ハーヴェイのこの使い方は正統である。そもそも,物質(
material)という言葉は,マルクス主義がよって立つ唯物論(materialism)と深い関係があるはずで,物質というのは物体ではなく,マルクスの場合には経済というものと大きなかかわりがあると私は思っている。経済というのはもちろん物体としての貨幣を媒介とするものだが,近年における貨幣の電子化をいうまでもなく,経済の中心である貨幣を媒介とした売買というものは,生産や流通といったものほど物体を感じないが,それを含めての物質であり,唯物論なのだと思う。
前半では各章の冒頭に,バルザックやベンヤミンの引用がつけられていたが,第4章以降は必ずマルクスの引用から始まる。目次を読むだけでは,都市の構成要素を次々と論じているだけの印象だが,各章の接続が非常になめらかで,時間軸に沿うのではなく,パリの歴史が見事に物語化されている。オスマンによるパリの大改造の話はそこそこ知っていたが,本書は本人の思想を含めて周囲の評価,さまざまな人物の都市思想を明らかにすることで詳細な情報を読者に提供している。実際に何が起こったかということを知る前に,さまざまな人がこの都市をどうしたいのかという思想=表象が論じられているので,理解しやすい。いろいろ書きたいこともあるが,きりもないのでこの辺にしておこう。ともかく,本書は理想的な都市記述の姿だと思う。

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