書籍・雑誌

【読書日記】カッチャーリ『ヨーロッパ地理哲学』

カッチャーリ, M.著,上村忠男訳(2025)『ヨーロッパ地理哲学』講談社,293p.,2,050円.

 

この手のタイトルを見たら買わざるをえません。しかし、目次を見ても、私自身が何かを期待した、あるいは書名から期待したものが書かれていることを確信したわけではない。訳者の上村忠男さんが、カルロ・ギンズブルグの訳書の多くを手掛けているという著名な方である、ということで購入した次第。最近は、こうした専門書は買ってもなかなか読む機会がないが、大阪で開催されていた自治体学校に参加することになり、旅のお供に読むことができた。なお、ギンズブルグについてネットで検索したら、今年の6月に亡くなったとのこと。

I章 ヨーロッパの地理哲学
II章 戦争と海
III章 英雄たち
IV章 歓迎されざる客
V章 不在の祖国

正直言うと、この読書から得られたものはほとんどない。意味は取れなくても難解な文章を読み進む快楽をえられる読書もあるが、本書はそうではなかった。読み進むのに困難を感じるような難解さではないのだが、ほとんどの文章がすっと頭から抜けて行ってしまうような感覚。
そもそも、私はこの本に何を期待したのだろうか。それは、哲学というものの対象として「ヨーロッパ地理」があるもの。実際に「地理哲学」という語は、かつて地理学者も唱えたことがあった。それは地理学的思考に哲学を盛り込むという試み。しかし、本書がそういうものではないことは、もちろん読み進めながらも感じたことだが、訳者解説で理解した。そもそも本書における「地理哲学」とはドゥルーズ&ガタリの『哲学とは何か』の用語だという。その系譜としては日本語訳が出ているのに結局購入はしていない、ロドロフ・ガシェ『地理哲学――ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』について』がある。
要は、本書が論じているのは「ヨーロッパ地理」に関する哲学ではなく、いわゆる(西洋)哲学はヨーロッパという地理的独自性を帯びたものであるという意味合いになる。とはいえ、それはそれでリヴィングストン『科学の地理学』のような、哲学の地理学という意味で比較的わかりやすい主題となりえるはずだが、本書は上記のいずれでもないし、両方でもない、そう簡単なものではない。ある意味では、以前読んだマニャーニ『古代地中海をめぐるゲオグラフィア』と近いといえるかもしれないが、古代に限定して議論されているこの本とは違い、本書は特に時代を限定しているわけでもない。
なお、私は著者の名前を初めて知ったが、同じ上村さんの訳で『抑止する力――政治神学論』(2013年、月曜社)、『死後に生きる者たち――〈オーストリアの終焉〉前後のウィーン展望』(2013年、みすず書房)、『必要なる天使』(柱本元彦訳、2002年、人文書院)といった翻訳書があるようだ。しかも、著者はヴェネツィア市長をしていた人物で、その前には下院議員もしている。そんななか、次々と著書も刊行していて、市議会議員になったぐらいで論文も書けなくなってしまった私とは雲泥の差だ。いずれにせよ、まだまだ修行は足りない。

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【読書日記】中村隆之『第二世界のカルトグラフィ』

中村隆之(2022)『第二世界のカルトグラフィ』共和国,217p.,2,500円.

 

著者のことはTwetterで知った。いつも品のいい投稿で、刺激的な書籍を紹介してくれる。時折原著も出てくるが、その多くは日本語訳があるもので、有用な情報を得ることのできる投稿が多い。中村さんは早稲田大学の教員で、エドゥアール・グリッサンという作家・思想家の紹介者でもあり、フランス語圏文化を専門としている。フランス語圏といっても、かつての植民地としてのカリブ海とアフリカであり、私がこれまで関心を寄せてこなかった領域でのポストコロニアル批評といっていいだろうか。そのうち著書を読みたいなと思っていたのだが、ある日の投稿で本書に言及し、地理学者として書名に魅力を感じ、最近はほとんど使わないようにしているAmazonで急遽取り寄せることにして。
とはいえ、読む機会はなかなかないだろうなと思っていたが、柏に行く用事があり、電車移動のお供に持参することとした。なんと、往復の電車で十分読み切ることができた。

0 第二世界は存在する
第I部 場所
 1 反復される川の記憶
 2 カリブ海の移動と交流
 3 アフリカの魂を探して
 4 アメリカのニグロ・スピリチュアル
 5 ファトゥ・ディオムの薄紫色
 6 レザルド川再訪
 7 レイシズムのアメリカ
第II部 境界
 1 絶対的暴力の牢獄
 2 分からなさの向こう側を想像する
 3 岩手県の幻冬小説
 4 文明のなかの居心地悪さ
 5 アパルトヘイト終焉期を撮る
 6 テロルという戦場
 7 ディストピア小説に映し出される近未来
第III部 生
 1 ジャン・ベルナベ(一九四二―二〇一七)
 2 パスカル・カザノヴァ(一九五九―二〇一八)
 3 フランソワ・マトゥロン(一九五五―二〇二一)
 4 ヤンボ・ウォロゲム(一九四〇―二〇一七)
 5 東松照明(一九三〇―二〇一二)
 6 ジャック・クルシル(一九三八―二〇二〇)
 7 コレット・マニー(一九二六―一九九七)
第IV部 交響
 1 アナキズムと詩的知恵
 2 口頭伝承と神話的思考
 3 フランス国立図書館と作家研究
 4 ニューカレドニアの民族誌
 5 震えとしての言葉
 6 野生の思考と芸術
 7 詩人たちの第二世界
あとがき 第二世界の地図作成のために

「第二世界」とは常識的には、第一世界=資本主義的先進社会、第二世界=共産主義・社会主義社会、第三世界=それ以外の旧植民地国、後進国という図式におけるものだが、本書では違う。「第三世界」についての言及はあるが、「第二世界という言葉は、20世紀のこうした集団的夢を思い起こさせなくもない。」(p.7)と述べて、第二世界=社会主義陣営だとは書かない。続けて、「第二世界とは、そんな普通のわたしたちのための不屈のヴィジョンだ」と述べ、「逆説的であるけれども、わたしたちは、第二世界を探しに遠くまで出かける必要はない。その〈場所〉は実はとても身近なところにある。書棚のなかに埋もれた本たちもまたそうした〈場所〉なのだ。」(p.7)などと書いて、第二世界に関する説明はそれ以降、ほとんどなくなってしまう。書名を構成するもう一つの言葉「カルトグラフィ」はどうだろうか。わたしの記憶では本文中にほとんど出てこないと思う。そして、あとがきが「第二世界の地図作成のために」と題されている。「カルトグラフィ」とは通常「地図学」を意味するが、「グラフィ」だから地図を作る実践=地図作成のことでもある。そもそも、この本は『図書新聞』での連載が基になっていて、その連載につけられたタイトルは「感傷図書館」だったとのこと。図書館という〈場所〉を構成する世界各地の作者が描いた作品。図書館という海のなかを漂うように作者の地理的属性とその作品に描かれた場所を、グローバル・スケール=植民地が作り出した非対称的な関係性の網の目を意識しながら読んでいく、そんな批評の在り方を名づけたものだと理解した。第二世界とはそうした作品鑑賞・批評の中から浮かび上がる、現実世界と一体になりつつ、作者たちの理性を基礎とした理想社会=将来に希望を抱かせる社会のことを「第二世界」と呼んでいるように思う。
なお、本書の読書からわたしが得られたものはあまり多くはない。こういう読書は久しぶりな気がする。類書としては谷川 渥『幻想の地誌学』を思い出す。こちらは旅をするのは歴史の海だが、意図するところはかなり類似しているように思うし、また作品自体が著者の博識に支えられ、読者は次から次へと情報の嵐に巻き込まれる感じ。本書もちょっとわたしは知識が追い付かず、わくわくするもののそれが満たされないまま漂っているような感覚。まあ、いずれにせよ本書の著者は他にも著書や訳書が多いので、追って少しずつ読んでいきたいと思う。

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【読書日記】ラトゥール, B.著『地球に降り立つ』

ラトゥール, B.著,川村久美子訳(2019)『地球に降り立つ――新気候体制を生き抜くための政治』新評論,238p.,2,200円.

 

また、読み終わってからすっかり時間が経ってしまった。ラトゥールは言わずと知れたアクター・ネットワーク理論の発案者であり、英語圏地理学でもその議論がされた当時は数冊しか翻訳本がなかったが、いまやほとんどの著作が日本語で読める。しかし、私は読む機会をことごとく逸してしまっていた。もう本格的に学術書は読めない立場になってしまったし、特定の著者の著作を片っ端から読むという時間もない。
しかし、本書はたまたま古書店で見つけ、そしてラトゥールの著作としては手ごろなサイズで、そして何よりも地球変動対策は私が政治家としても取り組みたいと思っているテーマなので購入することとしたし、読む機会にも恵まれて読むことができた。読む機会というのは、地方議員となった私はその生活のほとんどを市内で過ごすこととなり、市内での公共交通がバス中心のこの市では、ほとんどの移動を自転車で行うこととなり、電車での移動でじっくり本を読むという機会が圧倒的に失われてしまったのだ。ということで、月に一度くらいの頻度の都心への外出の際に読んだという次第。

日本の読者の皆さんへ
1
 政治的フィクションという仮説――規制緩和と格差の爆発的増大と気候変動の否認は同じ一つの現象である
2
 米国がパリ協定の離脱表明を行ったおかげで、私たちはどのような戦争が幕を切って落とされたのかをはっきりと知るようになった
3
 移民の問題はいまやすべての人にとっての問題となった。それが新たな邪悪な普遍性をもたらす。すなわち、誰もが足下の地面を失うということだ
4
 プラスのグローバリゼーションとマイナスのグローバリゼーションとを混同しないように心がけなければならない
5
 グローバル主義者の支配階級は連帯の重荷のすべてを少しずつ投げ捨てていくことに決めた。それはどのように決められたのか
6
 共有世界の廃棄は認識論的譫妄状態を引き起こす
7 第3のアトラクターの登場が、ローカルとグローバルの二極に分断された近代の古典的組織を解体する
8 トランプ主義が発明されたおかげで、第4のアトラクター「この世界の外側へ」の存在を知ることができた
9
 私たちがテレストリアルと呼ぶアトラクターを見出したことは、新たな地理政治的組織を確認することにつながった
10 なぜ政治的エコロジーの成功は、賭金に見合う成功に一度たりとも結びつかなかったのか
11 なぜ政治的エコロジーは、右派/左派の二分法から逃れることがそれほど難しかったのか
12 社会闘争とエコロジー闘争をうまくつなげるにはどうすればよいか
13 階級闘争が地理‐社会的立場間の闘争に変わる
14 ある種の「自然」概念が政治的立場を凍結した。そのメカニズムの理解を、歴史を通る迂回路が可能にする
15 右派/左派を二分する近代的視点によって「自然」は固定されてきた。その呪縛を解かなければならない
16 「物理的対象からなる世界」は「エージェントからなる世界」が備える抵抗力を持ちえない
17 クリティカルゾーンの科学は、それ以外の自然科学とは持っている政治的機能が異なる
18 生産システムと発生システムのあいだに生じる矛盾が増大している
19 居住場所を記述する新たな試み―フランスで実施された苦情の台帳づくりを一つのモデルとして
20 旧大陸を個人として弁護する
訳者解題 架空の物質性の上に築かれた文明

最初に訳者解題から触れるのもなんだが、この訳者解題が非常に親切で、読後長い時間が経ってしまったが、印象として残っている訳者解題から書きたいと思う。訳者の川村久美子さんは環境社会学を専門とするので、本書の訳者としてはふさわしいわけだが、実はラトゥールの『虚構の「近代」』の訳者でもあり、2008年というラトゥール本のなかでも初期の頃に訳されたもの。ラトゥールの訳者は固定されていないなかでも、川村さんの訳が一番多いようだ。そういう意味では、ラトゥールを読む一冊目としてはとてもいい選択だった気がする。
さて、訳者解題にもどるが、本書は前面的にアクター・ネットワーク理論が出てくるわけではない。そういうなかで、この訳者解題はラトゥールの研究者としての足跡をごく簡単にたどり、当然アクター・ネットワーク理論の解説もあり、その全体像のなかで本書を位置付けるという意味で非常に勉強になった。とはいえ、訳者解題だけで60ページ近くあるので、簡単に読み返すことはできないが、機会があったら振り返りたいと思う。まあ、ともかく内容に関しては大して書けない読書日記ですのでご期待はなさらずに。
私でも知っていたアクター・ネットワーク理論の特徴としては、複雑系の流れにはある思想だと思う。ただ、とはいえこれまでは人間主体とそれ以外の物質的客体との区別は取り払われず、アクターといえば人間主体であった。訳者解題でもJJ・ギブソンの文献が挙げられているように、アフォーダンス理論(私はギブソンも読んでいないわけだが)の影響下にもある。アフォーダンス理論では人間主体の意思決定が人間の心理のみに由来するのではなく、その人間が身を置いている周囲の環境からのインプットが重要であるという主張であるから、そもそも人間の意思決定とはその人を取り囲むさまざまな物質に由来するといってもよい、ということでラトゥールのいうアクターは人間主体に限定されず、主体と客体の区別はなくなるということであり、客体である物質により注目すべきだということだ。こう考えると、近年の物質性への注目もその流れにあるのかなとも思う。
ということで、本書についていえば、究極的な物質の集合体としての「地球」を人類社会は大事にしないといけないという前提に立っている。なお、本書の原著は2017年に出版されたもので、米国トランプの第一次政権においてパリ協定を離脱したということが大きな話題として取り上げられている。ラトゥールは2022年に亡くなっているので、第二次トランプ政権とその後の世界については知らない。先にも述べたように、私はラトゥールの研究書を読んできたわけではない。しかし、本書が純粋な研究書ではないことは分かる。目次からも分かるように、本書は社会の本質的な問題を抽象的な次元で論理を積み重ねるようなものではなく、今日的に起こっている社会の表層的な出来事を題材とし、一章が短く、次々と展開している。視野は全世界的なスケールで展開し、視線は将来に向けられている。まさに晩年の仕事としてふさわしく、これまで下記の事例の研究から理論を生みだし、その理論を用いて将来を論じるというのが本書ということだろうか。しかし、ヨーロッパで暮らしてきた知識人として、本書は欧米社会に向けて書かれているように思われる。
なお、本書はグローバルスケールで議論が展開されているとはいえ、意外にも「地理」という言葉が頻出することに驚いた。「いまや、気候変動こそが地理政治的問題の核心であり、それが不公正と不平等の問題に直結していることに誰もが気がついている。」(pp.16-17)の「地理政治」は太字になっている。原著との対比ができないが、地理政治とは地政学のことだろうか?しかし、他の数か所では「地政学」という訳語も登場するのだ。13章の表題にも「地理-社会的立場の間の闘争」なんて表現もある。「階級闘争は地理的論理に依存するのだ。」(p.98
なお、ラトゥールには本書と関連する著作として『ガイアに向き合う』があり、本書でもラブロックの『地球生命体――ガイアの科学』への言及がある。その関連で、19世紀ドイツの地理学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトへの言及もあるのだ。また、後半には「テレストリアル(地上との絆に縛られた存在)」(p.133)という語も頻出し、地理学との深い関連を感じながら読んだ。しかし、久しぶりに読む難解な書であることは間違いなく、これ以上わかったふりをして解説を書くことはやめておきたい。いずれにせよ、ラトゥールが思いのほか地理学と親和性のある思想家であることは分かったので、今後も新しいところから読んでいくこととしたい。

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【読書日記】コールリー『生物学の歩み』

コールリー, M.著、日高敏隆・金谷春夫訳(1957)『生物学の歩み』白水社,147p.,650円.

 

大分前に読み終わった文庫クセジュの一冊。原著の出版年は分からないが、ともかく日本語訳も1957年なので、科学史の進展においても限界があると思うが、私の認識の甘さを痛感させられた本ではあった。とはいえ、読後大分経っているので、詳細には語れないことをまずご了承ください。
私は地理学の歴史を趣味として、大学院時代に学ぶようになった。本格的な地理学史は英語だけでなく、むしろ英語よりもドイツ語、フランス語が必要になるので、とても私にその資格はない。なので、日本語訳のみで勉強していた身だが、非常勤先の講義では、それを題材としてやってきている。化学や物理学についてはあまり踏み込んで学んでいないが、天文学や生物学はそれなりに勉強したつもりでいた。生物学に関してはリンネ関連の本を読んだし、ビュフォンに関してはそこそこ厚い本を、ダーウィンに関しても社会ダーウィニズム関連ではあるが、科学史というより思想史の文脈で学んできたつもりだった。しかし、当然それだけではなかったことを、この薄い一冊でも思い知らされた。

著者まえがき
第一章 ギリシャ科学と生物学
第二章 ルネッサンスと古代科学の復活
第三章 十七世紀および十八世紀における近代生物学の誕生
第四章 十九世紀から現代への生物学の飛躍
 1 形態学
 2 生理学
 3 遺伝の科学、遺伝学
 4 進化
結語

まず、この本では生物学の源流の一つとして医学をとらえている。古代ギリシアでは、ヒッポクラテスやガレノスを挙げている。これはなかなか興味深い。もちろん、現代的感覚では、医学はまさにヒトという一つの生物種に関する生物学だから何の違和感もないのだが、キリスト教的世界観の根強いヨーロッパでは、人類とその他の動物とは別次元であり、だからこそ医学と生物学は別々に発展し、そのつながりが見出され、主張された進化論をもってこの二つが合流するという私は浅はかな理解を持っていた。しかし、本書において進化論は最後に出てくるのであって、生物学の歴史はそれまでに長い変容の経過がある。
第二章のルネッサンス期にはアラビア医学の影響についても記しているし、医学・生物学にとって重要な解剖という技術も教会との闘いがあった。そして、血液循環。ハーヴィーの発見は1628年だが、それも先人による一世紀の前史があったという。そして、医学と並行して、植物学と動物学の進展。
第三章の冒頭ではデカルトが登場する。私は日本語訳だがデカルトの多くの著書を読み、彼が「近代哲学の父」と言われるゆえんについて考えたが、ここでも、デカルトを医学と植物学、動物学を統一するひとつの契機となったと位置付けている。ルネッサンス期の解剖学に続いて、17世紀は顕微鏡の発見によって観察の領域で大きな進展があった。精子の発見と生殖の理解の進展につながる。
第四章冒頭には「いわば十八世紀は生物学にとって、のちに十九世紀が次第に足並みを早めてたどっていった大道の路傍を耕したのだといえよう。」(p.57)とあり、「「生物学(biogogie)」という言葉が、十九世も初頭の1802年、フランスではラマルク、ドイツではトレヴィラヌスによって同時につくりだされた。」(p.57)という。この言葉によって植物学と動物学が同列に扱われるようになり、方法論として形態学と生理学が登場する。そう、形態学はのちに社会学にも(またある意味では地形学にも)使われるようになるもので、ゲーテによる言葉でもある。この辺りは地理学者フンボルトとの関連で、ゲーテの植物形態学については私も学んでいた。ここで、海洋動物学の進展もあったという。そう、リンネとの関係では、やはりヨーロッパ列強による大航海と植民地支配によって、地球上に広がる生物多様性の発見が生物学(当時は博物学か)の発展に寄与したことは間違いない。それから何といっても、この辺りはフランスのビュフォンだが、化石の発掘=古生物学の発展はのちの進化概念へと結びついていく。
そして、本書で改めて認識させられたのが、「十九世紀は「細胞」という概念を得、それによってついに動物・植物にわたる全生物の構成単位にまで到達した。これは「生命」を理解するうえでまず最初の収穫であった。」(p.73)とあるように、細胞の発見はあまりに重要だ。それは化学でいうところの原子の発見に近いといえよう。もちろんそれには、天文学の発展にとって天体望遠鏡の技術が重要であるように、顕微鏡の技術の発展が欠かせない。その後の話は高校の生物学でも学ぶような内容なので割愛しよう。生物体を構成する基礎的な組織とそこでやり取りされる物質にまで考察が及んでいく生理学の進展があれば、おのずから遺伝学や進化論まで導かれていく。ただ、本書刊行以降の話に少し触れておけば、生物学はゆるぎない唯一の学説のたどり着いたわけではなさそうだということだ。進化論も完ぺきではなく、現代でも真面目に疑っている研究者もいたりする。まあ、科学なんてものは観察可能な諸事実を合理的に説明することのできる一つの解釈に過ぎないともいえよう。

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【読書日記】歌川 学『スマート省エネ』

歌川 学(2015)『スマート省エネ――低炭素エネルギー社会への転換』東洋書店,179p.,2,200円.

 

フリーの編集者をしている日野市内の日本共産党員からいただいたもの。本書を含む「科学と人間シリーズ」を手掛けているとのこと。著者は以前、日野市のデータセンター建設問題に関する学習会で講演もしていただいた方で、独立行政法人産業技術総合研究所主任研究員。私は今、『最新図説 脱炭素の論点2025-2026』(旬報社、2025年)という500ページ超の本をとある勉強会で読み始めたが、その本の共同執筆者の一人でもある。月刊誌『地平』がデータセンター問題を特集した時にも執筆していた。

はじめに――低炭素社会への転換、技術的に大きな可能性
第Ⅰ部 エネルギーの環境負荷と化石燃料・原子力依存のリスク
 第1章 各種エネルギーの特徴とエネルギー効率・CO2排出の実態
第Ⅱ部 温暖化対策へ二つの手法と削減見通し――削減対策技術とその適用
 第2章 根本的な省エネ対策技術
 第3章 低炭素エネルギーへの転換――自然エネルギーと燃料転換
 第4章 持続可能な低炭素社会への余裕をもった道筋――無理なくCO2を削減する
第Ⅲ部 地域・産業・家庭での省エネ・温暖化対策
 第5章 省エネ・温暖化対策計画をどう実効的に立て実行するか
 第6章 省エネ・自然エネルギー普及による経済・雇用・地域社会づくり――対策がきりひらく豊かな将来
おわりに

あとがき

もう10年前の本ではあるが、10年くらいでは日本のエネルギー政策は大きく進展していないことが分かる。薄い本で日本のエネルギー事情が大まかにわかる本だ。タイトルに「省エネ」とあり、副題には「脱炭素」ではなく、「低炭素」とあるように、エネルギーに関して理念的に「かくあるべき」を示すよりは、現実的に「なにができるのか」をさまざまな選択肢とともに情報提供している本。省エネといっても、一般家庭での努力というのは日本社会が消費しているエネルギー量からすればわずかなもので、とはいえ塵も積もればで無駄ではないのだが、生活を圧迫するような形で無理してやってもしょうがない。やはり産業部門での省エネが効果的で「スマート」だという主張。第4章のタイトルにあるように「無理なくCO2を削減する」ということだ。
再生可能エネルギーへのシフトについても同様で、この種の本が掲げがちな「脱炭素」ではなく、「低炭素」を掲げている。また、脱原発を強く謳っているわけでもなく、しかし、原子力の危険性についてはさらっと記載している。また、最後に再生可能エネルギーへの転換という政策・対策の効果についても、ドイツを引き合いに出して、ここはそれなりに強調している。しかし、全般的に文章が「スマート」に書かれていて、納得はできるものの、深く印象付けられたり、切迫感をもって省エネ、低炭素への転換を進まなければならないという意識にはなりにくい本でもある。

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【読書日記】ダバシ『イスラエル=アメリカの新植民地主義』

ダバシ, H.著,早尾貴紀訳(2025)『イスラエル=アメリカの新植民地主義――ガザ〈10.7〉以降の世界』地平社,303p.,2,500円.

 

私は訳者の早尾さんが勤める大学で非常勤講師をしている。今年度の春学期、大学へと向かう道すがらで何度も早尾さんの姿を見かけた。しかし、彼の著書も訳書もちゃんと読んだことがなかったので、なかなか声をかけられずにいた。本書の著者は『ポスト・オリエンタリズム』の著者でもあり、早尾さんの訳で2017年に翻訳が出ており、早尾さんのことを知る前にこの本のことは知っていたこともあり、まずは新しい本書を読むことにした。
なお、出版社のサイトから目次をコピーさせていただいたが、本書は『ミドルイースト・アイ』というウェブニュースの連載から、2023107日以降のものを翻訳出版したもの。日付を書き加えたが、1ヵ月12回の執筆で、1年半の経過を執筆順にたどることができる。

1 欧米はいかにイスラエルを「再発明」しているのか 2023.10.28
2
 イスラエルのプロパガンダ主要10点を論駁する 2023.11.12
3
 「川から海まで」のスローガンを取り戻す 2023.12.2
4
 米国の大学キャンパスにおけるパレスチナ支援活動を弾圧するシオニストの努力が無駄に終わる理由 2023.12.20
5
 イスラエルの対ガザ戦争にはヨーロッパ植民地主義の歴史全体が含まれている 2023.12.29
6
 ガザのおかげでヨーロッパ哲学の倫理的破綻が露呈した 2024.1.18
7
 対ガザ戦争は、パレスチナ解放神学と福音派シオニズムの対立を浮き彫りにする 2024.2.5
8
 評論家たちはいかにフランツ・ファノンの遺産を歪曲しているか 2024.3.5
9
 ヘーゲルの人種差別的哲学がヨーロッパのシオニズムに与えた影響 2024.3.15
10
 米国大統領選:バイデンとトランプは殺人コインの表裏である 2024.4.3
11
 フランチェスカ・アルバネーゼを恐れるのは誰か? 2024.4.10
12
 イランの反撃はイスラエルに警告を与えたが、焦点は依然としてガザにあるべき 2024.4.25
13
 欧米はパレスチナの教育に対するイスラエルの攻撃に直接責任がある 2024.5.9
14
 米国大学キャンパスにおける抗議運動――エドワード・サイードは、この瞬間を大切にしたことだろう 2024.5.20
15
 ヒラリー・クリントンは大学キャンパスの抗議という潮の変わり目がもつ倫理的な力を理解できない 2024.6.10
16
 ガザでのジェノサイドは国外イラン人の反体制派の終焉をいかに決定づけたか 2024.6.27
17
 老化したバイデンとリベラル帝国主義の危機 2024.7.9
18
 ドナルド・トランプ暗殺未遂はアップルパイ並にアメリカ的だ 2024.7.17
19
 バイデンと同じくカマラ・ハリスはイスラエルの大量虐殺に全面賛同している 2024.8.8
20
 コリー・ブッシュが人種差別と植民地主義の勢力に立ち向かった 2024.8.22
21
 ハイファの隠された歴史が、静かで美しいパレスチナ映画のなかに姿を現す 2024.9.11
22
 なぜイランはイスラエルに報復してこなかったのか? 2024.10.1
23
 タナハシ・コーツはいかにしてリベラル・シオニズムから脱却したか 2024.10.17
24
 米国大統領選挙で、なぜ有権者はファシズムと大量虐殺的シオニズムのどちらかを選ばなければならないのか? 2024.10.31
25
 ニューヨーク・タイムズ紙は、反ユダヤ主義を報じても、ジェノサイドには触れない 2024.12.5
26
 ジミー・カーター、歴史の流れを変えたピーナッツ農家 2024.12.30
27
 ガザ・ジェノサイドの余興――テルアビブで『ロリータ』を観る 2025.1.18
28
 仮面は外され、そしてトランプとイスラエルは地球を不動産に変えた 2025.2.10
29
 イスラエルとアメリカの蛮行が歴史の負け組にあることを示す四冊の本 2025.3.10
30
 マフサ・アミーニーの抗議はイラン政権と反対派、双方の失敗を露呈した 2025.4.2
31
 トランプが異常なわけではなく、外国人嫌悪はアップルパイ並みにアメリカ的なのだ 2025.4.21

イスラエルとパレスチナの問題はエドワード・サイードの著作を好んで読んでいた1990年代から関心を寄せているつもりだった。しかし、それをオスロ合意までの歴史的問題として理解していたつもりになっていた、ということは以前もどこかで書いたと思う。それがまさに10.7でイスラエルとパレスチナの問題は終わったものではなく、むしろ強度を増して進行中で、もうどうしようもないところまできてしまったと感じる。そして、本書にあるように、それにはアメリカ合衆国の存在があまりにも大きい。
私は本当に本書などを最近読むに至って、自身の認識の甘さを思い知らされることになった。アメリカ合衆国は直接的な植民地支配はフィリピンなど限られた場所にしか展開しておらず、政治的な植民地支配ではなく、一時期「アメリカ文化帝国主義」論が盛んになったように、第二次世界大戦後に経済的、文化的に帝国としてふるまっていたと理解していた(ネグリとハートの『〈帝国〉』はまだ読んでいない)。しかし、それはこれまで私も知っている史実からも明らかのように、19世紀における欧州の政治的帝国主義とは異なるかもしれないが、圧倒的な軍事力をもってまさに帝国としてふるまい、植民地主義の思想で他国に介入してきたことが理解できた。それは本書刊行後のトランプ大統領の振る舞いによって誰の目にも明らかになってきたことではあるが、ちょうど第二次トランプ大統領が選出される大統領選挙を挟んで書かれている本書からは、それがトランプ大統領個人の問題ではないこともよく理解できる。いずれにせよ、正義や良心、正しさが通用しなくなったこの世界で、どのように圧倒的な武力を伴ったこの権力に地球市民が立ち向かっていくのかが問われている。

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【読書日記】志位和夫『Q&A いま『資本論』がおもしろい』

志位和夫(2025)『Q&A いま『資本論』がおもしろい――マルクスとともに現代と未来を科学する』新日本出版社,165p.,1,100円.

 

日本共産党の志位議長は、ここのところ継続的に学生向けのオンラインゼミを行っており、第2回目の『科学的社会主義Q&A学生オンラインゼミで語る』の出版が2022年に、第3回目の『QA共産主義と自由』が2024年に書籍として出版されており、いずれもこの読書日記で紹介している。本書はその第4回目のオンラインゼミということで、下記に示したように、29の質問に答える形で行われ、今回も書籍化された。『QA共産主義と自由』が青色の表紙なので「青本」、そして本書は赤色の表紙で「赤本」と称され、今年7月に参議院選挙が終わったこの時期に、全国の党員はこの青本、赤本をテキストに学習を進めるよう、指導されている。
ということで、私は周りの党員より購入する時期が遅くなってしまったが、読むのは2日くらいで読み終わってしまった。なお、このオンラインゼミのようすはYouTubeでも配信されている。3時間にわたる動画であるが、私の場合は事前にこの動画を視聴していたので、すらすら読めたということになる。また、一方ですでにこの読書日記にも紹介しているように、日本共産党の出版社である新日本出版の『新版資本論』の1冊目はすでに読み終えて、今2冊目に取り組んでいるし、また新日本出版の古典選書の一冊であり、『資本論』のエッセンスが詰まっているという『賃労働と資本/賃金、価格および利潤』も読んでいるので、特に「2、どうやって搾取が行われているのか?」は比較的理解が容易だったともいえる。

はじめに
ゼミナールを始めるにあたって
1
、『資本論』とはどのような本なのか?
Q1
 新入生歓迎運動で対話をしていると、「『資本論』を読んでみたい」という声が、けっこう返ってきます。海外ではどんなふうなのでしょうか?
Q2
 『資本論』はどのような本なのか。その特徴についてお話しください。
Q3
 マルクスは、『資本論』をどうやって書いていったのですか?
Q4
 今回のゼミナールの進め方についてお話しください。
2
、どうやって搾取が行われているのか?
Q5
 まずお聞きしたいのは搾取の問題です。この問題を考える前提として、いまの日本で本当に「搾取」ということが行われているのかどうか。ここからお話しください。
Q6
 どうやって搾取が行われているのかについて、お話しください。
Q7
 マルクスが『資本論』で行った搾取の秘密の「謎解き」とはどんなものですか?
Q8
 そもそも労働者とはどういう人たちを指すのですか? いまの日本では、労働者はどのくらいの搾取がされているのですか?
3
、労働時間を短くするたたかい(「自由な時間」を拡大するたたかい)の意味は?
Q9
 資本家は、どうやって搾取を拡大していくのですか。『資本論』ではどのような解明がされているのですか?
Q10
 そもそも労働時間はどのようにして決まるのですか?
Q11
 「資本の魂」という話がありましたが、マルクスが『資本論』を書いた19世紀のイギリスでは、資本はどういう「吸血鬼」ぶりを発揮したのですか?
Q12
 いまの日本でも過労死や「サービス残業」—「ただ働き」はひどいですね。
Q13
 労働時間短縮=「自由な時間」を増やすことは、みんなの願いです。その大切さについて『資本論』でマルクスが訴えたことをお話しください
Q14
 労働時間短縮は、まさにいまの日本の課題でもありますね。
4
、生産力の発展が労働者にもたらすものは何か?
Q15
 資本家が搾取を拡大していく方法として、「労働時間を長くする」という方法をお話しされましたが、それ以外にはどういう方法があるのですか?
Q16
 「生産力」の拡大ということが言われました。そもそも「生産力」とはどういうものでしょうか? 「生産力」の拡大というと、環境破壊という悪いイメージもありますが。
Q17
 資本主義のもとでの生産力の拡大が、労働者にもたらす害悪について、『資本論』ではどういう解明がされているのですか?
Q18
 いま言われた多くの問題は、そのままいまの日本の大問題ですね。
Q19
 資本主義の発展のなかで未来社会の要素がつくられてくると言われましたが、どういうことでしょうか?
Q20
 『資本論』では、環境問題についても突っ込んだ言及があると聞きましたが?
5
、貧困と格差拡大のメカニズムは?
Q21
 21世紀のいま、貧困と格差の拡大は、どこまできているのでしょうか?
Q22
 『資本論』では、貧困と格差が拡大するメカニズムをどのように解明しているのでしょうか。
Q23
 「産業予備軍」という話は、いまの日本にもつながる話ですね?
6
、社会の変革はどうやっておこるのか?
Q24
 社会の変革はどうやっておこるのですか? 『資本論』でマルクスが出した結論について、お話しください。
Q25
 社会を変えるには、客観的な条件とともに、主体的な条件が大切ということですね?
Q26
 『資本論』では、ここで、未来社会がどんな社会になるとのべているのですか?
7
、社会主義・共産主義で人間の自由はどうなるか?
Q27
 昨年のゼミは、『Q&A 共産主義と自由—「資本論」を導きに』にまとめられ、みんなで学習してきました。どういう点に力を入れてまとめたのか。ポイントを説明してください。
8
、『資本論』をどう学び、人生にどう生かしていくか?
Q28
 今日は、『資本論』第一部のあらましをお話ししていただきましたが、『資本論』をどうやって学んでいったらいいでしょうか?
Q29
 『資本論』を人生にどう生かすかについて、最後に一言お願いします

当然のように、日本共産党で長らく委員長を勤めた志位さんが出版する本は、党内部では基本的に称賛される。私は党歴が浅いので偉そうなことは言えないが、歴代の委員長は数多くの著作を発表している。日本共産党は科学的社会主義を党の理論的支柱とし、その科学的社会主義は単なる経済学や政治学の理論ではなく、社会変革のための運動も含むものであるがゆえに、聖書のような一冊の書物に集約はされていないが、「科学的社会主義」(まあ、マルクスの『資本論』が聖書のような存在と言えるかもしれない)を日本共産党は心のよりどころにしているといえる。
世界を見渡してもこういう政党はあまりないと思うが、少なくとも日本においてはこれほど徹底している政党は他にない。とはいえ、私は曲がりなりにも学術の世界に身を置いたものなので、日本共産党のこうしたマルクスに対する態度をまるごと受け入れるのは難しい。もちろん、マルクスのような19世紀の古典に直接あたることは非常に重要だと思う。日本共産党も『資本論』を聖書として扱っているわけではない。その辺りは以前紹介した不破哲三さんの著作のなかでもマルクスを神聖化しないように戒めている。しかし、なんだかんだいって学術の世界では、マルクスの古典を読むのは、その後のマルクス主義の文脈で「読み直す」というのが基本であり、またマルクスの真意を読み取る的な目的もやはり違和感を抱かざるを得ない。
まあ、それはともかく本書は初めてマルクスの思想、資本主義分析に触れる者にとっては学ぶことが多いだろう。目次に示したように、そもそもマルクスが生きたヨーロッパはどんな世界でどんな時代だったのか。そのなかで『資本論』はどのような意図で書かれたのか、本書は『資本論』の第1部のみを扱っているが、そこではどんな主題が扱われているのか、経済理論としての『資本論』とマルクスが参加していたインタナショナルを中心とする社会運動との関係はどのようなものか、そしてそうしたマルクスの教訓を現代社会にどのように活かしていくのか、という事柄が分かりやすく解説されている。
とはいえ、マルクス主義に先に接した私が一番魅力的に感じた「物象化論」にはほとんど触れていないのが残念である。以前紹介した斎藤幸平氏の『大洪水の前に』でも物象化論はかなり重要なものとして論じられていた。資本主義システムの浸透によって、人間の社会関係の在り方が根本的に変化させられた、というのがマルクスの商品論の重要なところで、まだ私は『資本論』のさわりしか読んでいないので、正確かどうかは分からないが、そうした社会思想的な意味合いについては、マルクス以降のマルクス主義者によって豊かに展開されるようになったのかもしれない。そういう意味で本書は、論の展開上、物象化論には触れず、搾取の仕組みに議論を集中させ、搾取を是正する過程で、労働時間の短縮と賃金の上昇という、日本共産党の政策に結び付け、さらには搾取をなくすという究極的な目標に向かって、資本主義から社会主義・共産主義へという未来社会への道筋を示す、という構成にしている、といえるのかもしれない。

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【読書日記】加藤直樹『九月、東京の路上で』

加藤直樹(2014)『九月、東京の路上で――1923年関東大震災ジェノサイドの残響』ころから,215p.,1,800円.

 

2023年91日、私は東京都庁の前にいた。関東大震災から100年目のこの日、都庁前で「小池百合子、東京都知事は関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送れ」デモに参加したのだ。関東大震災100年ということで、東京都の「東京都人権プラザ」で開催された企画展で飯山由貴さんの映像作品『In-Mates』が上映中止となったことを受けて、東京都の人権に対する姿勢、そして関東大震災の朝鮮人虐殺についての小池都知事の理解などに対して抗議するという意味でも、単に100年ということ以上に大掛かりなデモだった。
その頃は、この飯山さんをめぐるすったもんだに関するNoHateTVなどのYouTube番組をよく見ていたが、なかなか関東大震災の朝鮮人虐殺に関する書物を読むところまではいけていなかった。本書についても、そうした番組でも本当に基本的な文献として触れられていたのに、入手することもしていなかった。今年に入って、またまた古書で見つけ、そんなに安い値段にはなっていなかったが、状態も良かったので購入しておいた。これまた読む機会がなかなか訪れなかったが、今年(2025年)の91日は意を決して、両国にある横網町公園で開催される関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に参列することとしたのだ。そして、まさに読むのはこの日だろう、と久しぶりの電車での遠出となることもあって、本書を往復の電車で読むこととなった。

まえがき 新大久保の路上から
年譜
本書に登場する事件の現場地図
凡例
1章 19239月、ジェノサイドの街で
2章 19239月、地方へと拡がる悪夢
3章 あの9月を生きた人々
4章 90年後の「9月」
参考文献一覧
関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺をもっと知るためのブックガイド
あとがき

本書は私が普段読んでいるような、そしてそうした日常的な読書から想定するような構成ではない、とても凝った作りになっている。巻末の著者プロフィールには本書が初の著書であるとあるが、肩書に「ジャーナリスト」という言葉はない。「フリーランス」とは書かれているが、安田浩一さんのように、ジャーナリストと多少活動を狭めるのではなく、もっと広く「ライター」というような位置づけなのだろうか。ともかく、本書は綿密な取材に基づいたルポルタージュとはいいがたい。しかし、読者のことをよく考えて構成されていて、そしてこの事柄、関東大震災時に起きた朝鮮人等に対する虐殺に関して、それほど知識がない読者に対しても、また私のようにある程度知識を持っている読者に対しても興味深く読めるような、そして多くの学びと気づきを得られるような本となっている。また、一度読んですっと頭に入るような形での「読みやすい」構成になっているとは必ずしもいえない。とはいえ、読みにくいわけではなく、読むたびに味わえる、なんとも不思議な構成だというのが私の印象である。
1章はおそらく、関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺に関する具体的な資料を手に、その出来事が起こった現場を訪れ、当時のようすに想いを馳せながら現在の風景を眺める、あるいはその事件にかかわる痕跡を見出す、そういうフィールドワークを基に執筆されていると思われる。そして、それを192391日から時系列的にたどっていくような構成で配置している。場所としては、92日の品川警察署前から始まり、旧四ツ木橋付近、神楽坂下、亀戸駅付近、千歳烏山、3日に入って上野公園、東大島、永代橋付近、4日に入って京成線・荒川鉄橋上、亀戸署といった具合。
2章では、それが地方に広がる様子を同じようにたどっている。94日熊谷、5日江東区旧羅漢寺付近、6日寄居警察分署、9日池袋、12日逆井橋、など。第3章は朝鮮人虐殺を当時記録したものを、文学者や子どもたち、ノンフィクション作家、国会議員などの言葉・絵画表現などをたどる。そして、第4章は現代のようすを伝えている。一つには「ほうせんか」のような、この出来事を市民の手で明らかにし、風化させないような活動。一方では、この現代において同様の朝鮮人差別を行う人々。そして、2005年の米国でもハリケーンという自然災害において黒人に対するヘイトクライムが発生してしまう。最後の文章は「「非人間」化に抗する」と題されている。まさにこの一言に尽きる。人権の問題はもちろん難しい問題だが、究極的に単純化すれば、他人を自分と同等の人間とみなす、ということに過ぎない。もちろん、なかには自分の命を粗末にする人、自分の存在を肯定できない人もいるが、自分が傷つけられたり卑しめられたりするのが嫌だという人は、他人が自分と同じ人間存在であると考える以上、その他人を傷つけたり卑しめたりはしないはずだ。

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【読書日記】ヴァンダン『地図とデータで見る移民の世界ハンドブック』

ヴァンダン, C. W.著,太田佐絵子訳(2022)『新版 地図とデータで見る移民の世界ハンドブック』原書房,177p.,2,800円.

 

先日紹介した『地図とデータで見る気象の世界ハンドブック』と一緒に購入したもので、同様に非常勤先の授業で用いた。そこでも書いたように、通年で担当している「人文地理学」を春学期は日本地理、秋学期は世界地理でやろうとしている。基本的に日本の地理学における人口地理学は国内問題を扱っているのでどうしようかと考えたが、素直に考えたら人口地理学とは地域ごとの人口の増減、および人口移動を扱う学問なので、世界的な人口移動といったら移民となる。移民研究を人口地理学だという人はあまりいないが、素直に考えれば移民研究は人口地理学だと思う。という、個人的な理屈で、秋学期は移民問題を扱うことにした。いずれにせよ、移民問題は社会科学全般として間違いなく重要な分野であり、また地理学においても、一般的には社会地理学に含まれるが、重要であることは間違いない。
以前から読みたいと思っていたのは、本書に挙げられているそれほど多くない参考文献のなかで、さらに少ない日本語訳のある文献のひとつでもある、コーエン, R.著,小巻靖子訳『移民の世界史』東京書籍、だったがおそらく読むのもそうたやすくはないと思い、この原書房のシリーズを読むことにした。

はじめに
さまざまな移住、要因と展望
ヨーロッパ、世界のおもな移住先のひとつ
激動する途上国――アラブ世界、アフリカ、アジア
新世界――移住の地
未来に向けた政治的課題

移民の話は以前、別の大学で社会学の講義を担当した際にも取り上げていたが、その時から心がけていたことは、移民という現象はグローバル化によって登場したものではないということ。いわゆるグローバル化とはコロンブスの大西洋横断に始まる、ヨーロッパ列強による植民地支配をベースにしていると私は考えている。植民地支配もそれ以前からあったものだが、近代以降の問題としてとらえている。しかし、移民自体は民族大移動も含めて近代以前からあるもので、時間のスケールは変化したが、人類史において移動というのはかなりの規模で行われてきた。コーエンの図書は書名からして、そうした歴史も踏まえて移民を考えるものだと思うが、本書は残念ながらそうではなかった。
とはいえ、目次からも分かるように、移民地誌ともいえるような構成で、地域別の問題を丁寧に扱っている点で学ぶことが非常に多かった。まず、前半は世界的な移民の状況とその原因について説明する。国際移民の要因と題して、いくつか挙げている。まずは経済発展と政治危機、次いで人口動態と急激な都市化と題し、貧富の差と連動して人口の増減の地域的偏りがある。さらには環境要因として温暖化の影響で居住地を離れざるをえない人たちも移民となる。また、数としては限られてはいるが、人身売買や密入国斡旋の問題も一つの単元をとって説明する。難民と避難民についても一つの単元。そして、私が知りたかったことは「ディアスポラとトランスナショナルなネットワーク」と題して、中国とインドからの世界中への労働移民について一つの単元で説明している。個人的にはこの問題を「ディアスポラ」として扱うには違和感があるが、とはいえこの問題の理解は非常に浅いので何とも言えない。本書では、「中国系ディアスポラ(華僑)」と表記され、5000慢人という数字が挙げられ、「歴史の古い」(p.30)とされるが、この数字がどのくらいの歴史的期間で推計されたものかは分からない。そして「インド系ディアスポラ(印僑)」は3700万人とされる。本書ではその歴史の説明もないし、別の表現では「クーリー(苦力)」と表現されると思うが、その言葉も使われていない。なお、Wikipediaによれば、「苦力(クーリー、くりょく、タミル語: கூலி、英: coolie)は、19世紀から20世紀初頭にかけての、中国人・インド人を中心とするアジア系の移民、もしくは出稼ぎの労働者。」と説明されていて、比較的歴史の浅いものとされている。Wikipediaの参考文献では「ディアスポラ」とタイトルにあるものもあるので、私の理解が誤っているようだ。一冊くらい本格的な著書で学ぶ必要があるようだ。ともかく本書では、分布図が掲載されているので、それは頭に入れておきたい。なお、この単元の最後に、「トルコ、マグレブ地域、ロマ」についての若干の記述もある。続く単元は、留学生と頭脳流出、そして観光、巡礼、陽光を求めるシニアたち、という単元があるのも面白い。そして前半は環境移民で閉められている。
地域別の説明はヨーロッパから始まり、「世界のおもな移住先のひとつ」と表現される。ヨーロッパで移民の話と言えばEUのことを知らなければならず、その過程で定められたシェンゲン協定だが、協定を結んでいる国々のメンバーとEUのメンバーが完全に一致しているわけではないということは知らなかった。そして、この各論は国別の説明に入り、ドイツ、フランス、イギリスとアイルランド、地中海ヨーロッパ、東ヨーロッパ、ロシアとそれぞれの抱える事情が説明されている。
続いて、アラブ世界、アフリカ、アジアと移る。アラブ世界の説明で用いられている地図は、なぜかアラビア半島が一部しか含まれておらず、アフリカ大陸北半分とヨーロッパが入っている。中近東ということで別の単元があるので、ここでは移住というものが特定の地域単体の問題ではない、複雑な問題であることを意識させる。アフリカ大陸全体の難民送り出し国と受け入れ国の地図が掲載されているが、お互いに難民を出しているし受け入れてもいることが分かる。国内も地域によって安定している場所と不安定な場所があるのだろうか、この地図からは判断できない。また、東西南北それぞれ接している国との関係は異なることがよくわかる。中近東についてはクルド人やイスラム国など、国境を越えた存在が移民・難民にとって重要なので、国内の差異も意識した地図になっている。そして、トルコやイスラエルについても別単元として詳しく説明されている(データと地図は詳しいが文章はそれほどでもないのがやはりこの本全体を通じての印象で、残念ではある。)アジアについても、「中国、インド、パキスタン」、「東南アジア」と別れている。アジアにもロヒンギャという国境を越えた難民となる民族が説明される。それから、アジアで興味深いのは労働移民が本国にもたらす「仕送り」の存在だ。歴史的な移民の多くは、本国を捨て、文化や習慣は移住国でも維持するものの、本国との関係が希薄になる場合が多い。しかし、現代の東南アジアから排出される移民の多くは(日本で働く東南アジアの人々も典型的だが)本国に住む家族や親類に送金することがベースとなっている。
続いて南北アメリカ大陸とオーストラリアの章だが、「新世界――移住の地」と題されているのが興味深い。移民大国であるアメリカ合衆国については、まず全国の出身地分布が掲載されている。そして、今日の状況だが、「警察の暴力に対する抗議運動」の分布図が載っているのがすごい。今日の移民問題とは関連性は薄いと思うが、人種差別と移民排斥運動とは地続きだということか。同様に移民の国であるカナダは、英国のみならずフランスからの移民も多く、多文化主義の政策がとられていることでも知られ、また数的には思ったほど多くはないが、移民の受け入れもある国である。
続く中央アメリカもまさにコロンブスがたどり着いたという意味で移民の地域であると同時に、黒人奴隷貿易の中心でもあり、今日においても人の流れは絶えない。南米大陸の移民の流れも複雑で、経済発展も遂げながら貧富の差も激しく、移民の排出も受け入れもあり、隣国同士でも流れがあるという。オーストラリアについては、「世界の十字路にある歴史」(p.146)と表現される。ニュージーランドと人の流れの特徴は多少異なるが、よりよい住環境を求めて日本からの移住も少なくない。
最終章では、グローバル・シティの議論あり、アフリカの都市化の議論は非常に興味深い。日本の技能実習制度も基本的には二国間協定だといえるが、移民政策の主要なものとして二国間協定を挙げている。東南アジアの事例で登場した海外送金の問題も世界地図で示され、グローバルな現象として把握されている。移民政策は一つのガバナンスとして、気候危機もんだなどとともにグローバル規模で国際社会全体で取り組まなければならない課題であり、その一例として新型コロナウイルスのパンデミックの例も挙げられている。
なかなか説明文が不十分なところは否めないが、読者に対してボールが投げられたという感はある。読者は問題視式をもって、さらなる学びを進めていく必要があろう。

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【読書日記】斎藤幸平『人新世の「資本論」』

斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』集英社,375p.,1,122円.

 

先日、斎藤幸平さんの『大洪水の前に』の読書日記を書いた。この本は2014年に提出された博士論文を基にしたものなので、本書『人新世の「資本論」』まで6年の歳月がある。『大洪水の前に』は博士論文ということもあり、本格的な学術書である。斎藤氏にとっての次の学術書は『Marx in the Anthropocene』という書名で2022年に英語で出版され、『マルクス解体』として日本語版が2023年に出版されている(Wikipedia情報)。ということで、本書は『大洪水の前に』による徹底的なマルクスの再解釈を土台とし、次なる『マルクス解体』の作業として進められていたエッセンスを新書用に盛り込んだものだと思う。
私は斎藤氏が本書で有名になったとき、ひそかな期待を抱いたものの、あまりにも大きく取りざたされていたこともあり、ちょっとした違和感を抱き、本書を手に取ることはなかった。その後、私は日本共産党に入党するのだが、斎藤氏が自分のマルクス研究をもって日本共産党と議論したいと望む一方で、日本共産党側はそれを拒み、『しんぶん赤旗』で彼の著書を紹介することもない(赤旗は書評欄が充実しているにもかかわらず)。実際に読めば斎藤氏の研究と日本共産党のマルクス理解との違いが分かるかなと思ったが、その前に率直に身近な党員に尋ねてみた。お一方は、まさに本書の後半で議論されているように、「脱成長」を訴えているところが日本共産党の政策と異なっているという点、そして斎藤氏が脱成長の主張にいたるマルクス理解のなかに、これまでのマルクス研究者の理解と異なり、マルクスは社会の発展史観を晩年には自己否定したというものがある。社会の発展史観というのは、マルクスが依拠する「史的唯物論」の根幹をなすもので、そういう意味では斎藤氏の理解はかなり斬新なものともいえる。もう一人の方は、斎藤氏は資本主義を乗り越える方策として「コモン」を訴えるわけだが、斎藤氏の議論にはいわゆる「階級闘争」的なものが欠けている、という点を指摘していた。
そんな意見を聞きながら『大洪水の前に』を読んだわけだが、そこではまだ史的唯物論に関する議論までは到達していなかった。私自身も「脱成長」には大きな期待を持っているので、本書は読むべきだと思っていたのだが、そんな時に、上記党員の一人の方が「買ってはなくし、また買っては見つかって」を繰り返して手元に数冊あるということで、1冊いただいたので、さっそく読むことにした。

はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第一章 気候変動と帝国的生活様式
第二章 気候ケインズ主義の限界
第三章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
第四章 「人新世」のマルクス
第五章 加速主義という現実逃避
第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う
第八章 気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために

私は『大洪水の前に』を読んで斎藤氏を信用できる研究者だと思ったが、本書は冒頭から少し不信感を抱いてしまった。「はじめに」のタイトルにもあるが、「大衆のアヘン」というのは宗教に関してマルクスが発言した有名な言葉だが、日本共産党の志位さんはこの有名な一説もしっかりと文脈で読まないと誤解を生むと論じている。にもかかわらず、斎藤氏は「かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。」(p.2)と分かりやすい説明で断言している。まさに、「新書」とは短めの分かりやすい言葉で断言することが必要な形式なのかもしれない。正確さを優先して回りくどい言い方だと読者を混乱させる、と編集者がいうのだろう(本一冊も書いていない私が書いても説得力はないが)。斎藤氏にとっては初めての新書であり、本書は編集者の指南のもとに書かれたのかもしれない(とはいえ、「おわりに」にたまにある編集者への謝辞はない。一方で、『大洪水の前に』では元の版元である堀之内出版の編集者だった小林えみさんへの謝辞はある)。いずれにせよ、本書のベストセラー化をきっかけにテレビやラジオにも出演するようになった斎藤氏の一側面は早速垣間見える。
第一章は『大洪水の前に』をベースとしつつ、21世紀のこのグローバル社会において本格的に問題となってきた環境問題(斎藤氏によれば19世紀後半でさえ、マルクスは資本主義がもたらす環境負荷に大きな危機感を持っていたという)を議論している。それはサスキア・サッセンの『グローバル資本主義と〈放逐〉の論理』(明石書店、2017年)のような形で、読者にその深刻さを感じさせる。そういう意味では、文献研究を中心とする斎藤氏のような研究者の情報処理能力には感服するしかないが、サッセンの書と比べると、やはり記述の薄さは感じてしまう。そして第二章では、この環境危機に対してどういう対策が考えられるか、国際機関や政府機関、研究者などのさまざまな提案を紹介しつつ、評価をしている。ここからも学ぶことは多く、最後に「脱成長という選択肢」として、次章に続く。
脱成長という議論は、2010年にセルジュ・ラトゥーシュというフランス人の著書『経済成長なき社会発展は可能か?』を中野佳裕さんが訳し、それ以降もラトゥーシュの議論を積極的に紹介していた時に非常に関心を持ったが、結局日々に追われ、読むことがなかった。本書でも当然、脱成長論の先駆的存在として紹介されているが、「脱成長は、リベラル左派の立て直しを目指す試み」であり、「資本主義の超克を目指してはいない」(p.127)らしい。しかも、斎藤氏によれば、脱成長論はラトゥーシュだけでなくいろいろあり、それが第三章で検討されていて、とても興味深い。新しい脱成長論としてなんとジジェクが挙げられる。私が読んでいたころのジジェクはなんといってもラカン派の精神分析的社会批評だったので、「スロヴェニアのマルクス主義哲学者」(p.130)という紹介には違和感を抱くが近年はそういうことらしい。p.131の見出しには「「脱成長資本主義」は存在しえない」とあるが、個人的には素朴に脱成長というのは資本主義をやめることだと思う。まあ、ともかくこうして読書日記を書きながらざっと振り返ると、本書の構成はよく考えられている。事象から本題のマルクスへと移行する。
『大洪水の前に』で知ったことではあるが、現在ドイツで新しいマルクス・エンゲルス全集の編集が進んでおり、なんと斎藤氏もそのプロジェクトに加わっているのだという。志位さんも紹介しているように、マルクスはパリ・ノートやロンドン・ノートというものを残し、例えばロンドンでは毎日のように大英博物館に通い、所蔵する図書を読み漁っては抜き書きをするという形で研究を進めたのだという。そうしたマルクスが残したノートを整理して活字にするというプロジェクトのようだ。そうして、それまでなかなか陽の目をみなかったマルクスの記述を使って、新しい解釈を試みるというのが斎藤氏の本職的な仕事。『大洪水の前に』の時点ではたどり着かなかったものとして、生産至上主義を乗り越えてマルクスは晩年に、『大洪水の前に』で検討された「エコ社会主義」から、さらには進歩史観を放棄し、「脱成長コミュニズム」へとたどり着いたという。なお、ツイッターで「斎藤氏は共産主義の言葉を使っていない」という観点で批判する人がいたが、斎藤氏はおそらく、旧ソ連などを彷彿とさせる「共産主義」ではなく、「コミュニズム」という語を選んだと思う。それは、本書で大々的に主張された「コモン(共有財産や共有地)」とも相性が良いのだろう。いずれにせよ、日本共産党は旧ソ連や中国の社会主義・共産主義は十分に発達していない状態から社会主義・共産主義を始めたから失敗したのであって、高度に発達した資本主義社会で社会主義・共産主義移行することが必要だといっているので、それに逆行する脱成長論は受け入れられないかもしれない。ただ、脱成長論が否定しているのは「成長growth」であり、「発展development」ではないところが難しい。
第五章では脱成長の意味をもう少し深掘りする。資本主義は確かに多くの富を生みだし、豊かな社会を築いた。しかし、そこには大きな格差があり、生活で消費するレベルではない富を保有する一握りの人間と、食うにも困る大量の貧困層という格差を生じさせている。世界や社会をよくしようという呼びかけであるSDGsでも持続可能な開発=発展を謳っているので、社会がなんとかやっていけるという意味での持続ではなく、これまで通りの発展を解け続けるものではならないという意味では、著者にいわれずとも私は国連が言う前から否定的だ(私が大学院にいた1990年代後半に、私の研究室の教授がサステイナビリティをやたらと使いたがっていた)。斎藤氏は第五章のタイトルにあるように、「加速主義は、持続可能な成長を追い求める。」(p.207)と批判する。まあ、資本主義を支えるほとんどの企業が、例えば製造業であれば、常に商品開発・技術発展を続けることで、いくらいい製品であっても時間が経てはより良い製品がつくられ、前のものは廃棄され、新しいものが購入される、そういうサイクルを消費者に強要している。
資本主義の枠組みでも、人間の幸せはお金だけでは測れないなどといって、さまざまな指標が登場しているが、同様の議論をより学術的に展開し、第六章は「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」と題し、資本主義をやめて成長から脱しても、決して貧しくなるわけではないと主張する。むしろ、資本主義体制の方が食うに困るような貧しい人を大量に生み出し、質素な生活をしていても食うには困らず、自由な時間があるのであればその方が潤沢だ、という議論。ここで、マルクス主義地理学者のデイヴィド・ハーヴェイが登場する。とはいえ、1980年代から丹念にマルクスを読み込み構築した地理学理論には触れず、『ニュー・インペリアリズム』の本源的蓄積論を、ハーヴェイがその頃積極的に取り組んでいた新自由主義論の文脈で取り上げて、批判している。「ハーヴィーは、「本源的蓄積」のポイントを完全にとりそこなっている。」(p.249)と全否定だ。ハーヴェイは本源的蓄積を「略奪による蓄積」と定義し、新自由主義の本質だというが、斎藤氏によれば本源的蓄積とは「コモンズの解体による人工的希少性の創造」(p.249)だと定義する。まあ、近年「コモンの復権」ということは結構いわれるようになったので、斎藤氏の議論が全く新しいというわけではなく、杉並区長となった岸本聡子氏の水道再公営化、ミニシュパリズムも本書では大いに参照されている。第六章の後半からはそうしたコモンの復権運動の事例が紹介され、バルセロナの話はけっこうな字数を用いて説明されている。登場する事例は自治体レベルで取り組まれていることがほとんどで(国レベルで達成されていればすごいことだ)、読者としては市民としてやるべきことを考えることができる。しかし、やはり国レベルで資本主義を乗り越えることは非常に難しいことで、それこそ日本共産党が訴える多数者革命のような道筋を示す必要がある。しかし、一方で斎藤氏は一国レベルでは、このグローバルな気候危機にとっては意味がないようなことも言っていて、やはりコミュニズムの世界の実現は本書だけではその道筋は全く見えない。じゃあ、一方でマルクスが実践していた階級闘争でどうやって資本主義を乗り越えるのか、まだまだ考えていかなければならないことは多い。

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