書籍・雑誌

Place: a short introduction

Tim Cresswell 2004. Place: a short introduction. Blackwell, Oxford, 153p.

ティム・クレスウェルは地理学者。1996年の著書『In place / out of place』で有名だが,はじめから「place=場所」という概念にこだわっている。というのも,彼は1990年代に盛り上がってきた「新しい文化地理学」の流れにいながらにして,かれらが批判の対象としていたトゥアンの教えを直接に受けていた人物だからである。1970年代に『トポフィリア(場所愛)』および『空間と場所』によって「場所」という概念を地理学のなかで復活させたのがトゥアン。もう一人,場所の復権の立役者としてレルフという人物がいるが,1980年代には主にマルクス主義の立場からトゥアンやレルフのような人文主義地理学は批判にさらされた。そして,1990年の『the power of place』という論文集で,その批判的な立場からの論考が収録された「場所」を関した著書が数多く出版される。しかし,それらの多くは場所の概念について議論するものではない。私は1997年に「A note on the concept of place」という論文を所属していた教室が発行している紀要にかかせてもらったが,その時にplaceを関する著書にいくつか目を通したものの,実際に場所概念自体に関して議論しているものはほとんどなく愕然としたものだ。つまり,場所概念を使いたがる多くの地理学者は単に便利だから使っていたにすぎない。まあ,その後著名な地理学者であるハーヴェイとマッシーが場所の概念化を行い,事態は多少変わっていくが,ずーっと一貫して場所について議論してきたのはこのクレスウェルであるといってよい。そんな彼の論文も,1本だけ日本語に翻訳されている。

ティム・クレスウェル著,日比野 啓訳 2004. ナイト・ディスコース――ストリートにおける意味の生産と消費.10+1 34: 137-148.

なので,彼の論文はけっこう好んで読んできた。『In place / out of place』のもとになる論文をいくつも読んでしまったから,この本自体は買っていないくらいだ。しかし,1997年の論文を読んで以来,私が大学を出てしまったこともあるし,彼の研究をフォローすることはなくなってしまったのだが,最近発表された福田珠己さんの論文に本書が文献リストにあり,出版から既に5年が経過していたけどAmazonで早速購入し,ほどなくして読み始めた。「Short introduction to Geography」のシリーズということで,確かに読みやすく,辞書なしで読んだけどあまり困らなかったし,1週間弱で読み終えることができた。さて,内容は以下のような5部構成。

1. はじめに:場所を定義する
2. 場所の系譜学
3. 「グローバルな場所感覚」を読む
4. 場所とともに研究する
5. 場所に関する研究資源

序章は14ページととても短く,2章を先取りするような内容ではあるが,より一般的な議論として,関係する概念との関係について論じている。関係する概念とは,空間や景観である。2章はすでに書いてしまったが,地域地理学から始まり,1970年代のトゥアン流の現象学に基礎を置く場所論,マルクス主義地理学における場所の政治学,場所の社会的構築などの系譜が語られる。そういえば,「場所の系譜学」という表現は同世代の地理学者である加藤政洋君も使っているが,その意味合いはかなり違う。
さて,3章だが,「グローバルな場所感覚」とは1991年に初めて発表されたドリーン・マッシーの論文である。これと類似した論文として,1993年の論文があるが,これはその加藤政洋君によって翻訳されている。

ドリーン・マッシー著,加藤政洋訳 2002. 権力の幾何学と進歩的な場所感覚.思想 933: 32-44.

この論文は『Mapping the future』という論文集に掲載されたのだが,この論文集にはハーヴェイも『ポストモダニティの条件』(翻訳1999年,青木書店)以降の場所論が掲載されている。これも翻訳がある。

デイヴィッド・ハーヴェイ著,加藤茂生訳 1997. 空間から場所へ,そして場所から空間へ――ポストモダニティの条件についての考察.10+1 11: 85-104.

このハーヴェイの議論を読んだとき,確かに同様のことはジャクリン・バージェスという地理学者も論じていたが,巨視的な視点のなせる業だと妙に納得した。しかし,それに対して上のマッシーはハーヴェイ批判としての場所論を展開するのだ。それにも妙に納得したりして。まあ,そんな論証を詳細に紹介するのが3章。マッシーの文章は8ページにわたってほぼ前文掲載し,ハーヴェイのも12箇所にわたって引用している。まあ,クレスウェルの結論としては,マッシーのハーヴェイ批判の後のメイという地理学者の詳細な実証研究に基づく議論を紹介して,どれも正しく,場所というものを一義的に捉えることはできないということになりそうだ。そもそも,ハーヴェイもマッシーも自らが生活の場を事例に論を展開しているので,それぞれの場所の性質によって,そこから導かれる一般的含意も異なるのは当然という感じ。まあ,私的にも分からないでもないですが,ちょっと物足りない感じ。
続いての4章は,ビッグネームによるそんな論争以降にさまざまに展開している研究の紹介。しかし,正直いって4章の前半はイマイチ論点がつかめない。読みどころは後半だ。自らのかつての著書のタイトルを使った「In Place/Out-of-Place: Anachornism」という部分,Anachronismといえば,時代錯誤のことだが,時間を意味する「chro」を空間を意味する「chor」に換えているところが味噌で,つまりout of place=居心地の悪さを「空間錯誤」と表現するのだ。そこで,中心的な議論が「ホームレス」をめぐるもの。ホームレスをめぐる研究が地理学でなされていることは知っていたけど,それを場所概念と結びつけた議論がなかなか魅力的。homeという概念は場所の概念に安定性とか共同性とかというイデオロギーを付与するのに役立っているわけだが,まさにhomelessという言葉そのものに,人間は所属すべき家=場所が必要不可欠であるという前提が込められているということになる。多くの事例は英国から取られていますが,もちろんホームレスに関しては日本でも論じるべきことは多い。
5章は著書や文献,さらなる研究トピックの紹介。最近,私は新しく教科書として使える本を考えているが,やはりこの本も地理学専攻の学生ならともかく,非常勤先では使えそうもない。まあ,残念だ。

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リウスのパレスチナ問題入門

エドワルド・デル・リウス著,山崎カヲル訳 2001. 『新版 リウスのパレスチナ問題入門』第三書館、115p.,1000円.

リウスはメキシコの漫画家。本書は第三書館から出版されたが、私は晶文社による「リウスの現代思想入門」を3冊持っている。『フェミニズム』と『資本主義とは何だろうか?』、そして『チェ・ゲバラ』。ラテンアメリカは長い間アメリカ合衆国に虐げられてきて、反米的思想家が多いのかもしれない。アリエル・ドルフマンという思想家の著書『ドナルドダッグを読む』(マトゥラールとの共著)と『子どものメディアを読む』も晶文社が翻訳を出していて、『ドナルドダッグを読む』は山崎カヲル氏の翻訳だ。その思想的立場にはマルクス主義が大きく関っているが、リウスの『資本主義とは何だろうか?』も山崎氏の翻訳。山崎カヲル氏は私が非常勤講師で通っている東京経済大学の教授だが、まだ一度もお会いしたことがない。私自身は私の論文を読んで面白いと思ってくれた学生には気軽に連絡を取ってきてほしいと願っているが、自分が尊敬する研究者にはおいそれと連絡を取ることができない。その人の著作を読み込んでいれば質問とかもできるものだが、そういう人に限って著作が多く、とても全部は読みきれないのだ。
まあ、そんな個人的なことは置いておいて、最近サイードの『パレスチナ問題』をようやく購入したので、その事前勉強として読むことにした。もちろん、リウスは漫画家だから、漫画である。日本でもよく、学校で学ぶような歴史や社会問題を漫画で分かりやすくという試みはある。それらをきちんと読んだことはないが、大抵はきちんと登場人物が出てきて、物語的な内容に脚色されたものだと思う。しかし、本書は違う。イラストと写真と文章の貼りあわせから構成されたコラージュだ。だから、イラストや写真は参考程度で、結局は文章を読むことになるのだが、その文章も手書き。でも、決して文字数にして多くないその文章による説明が端的にテーマに関る事項をまとめていて、分かりやすい。
パレスチナ問題。私は1970年生まれだが、正直いって大学院に入学するまで「パレスチナ」という言葉すらろくに知らなかった。本書の出版社である第三書館が「おわりに パレスチナ問題は私たちの問題になった」という2ページの文章を寄せているが、それを読んで私の無知は恥ずかしいものではなくなったような気もする。つまり私が幼い頃から続いていたイラン・イラク戦争やクウェート、湾岸の石油に関る問題などは、全て「アラブ世界」の問題として一括りにされ、どこか遠くの世界の出来事とされてきたのだ。第二次世界大戦下のナチスによるユダヤ人迫害のことは詳しく学んだくせに、そこから生じる現代まで起こっている問題についてはろくに教わった記憶はない。サイードを読むようになって少しずつ関心を示し、最近ではいくつかのドキュメンタリー映画で現実味を持って理解するようになってきた。もちろん、テレビのニュースでは昔からアラファトPLO議長は出ていたし、最近ではパレスチナ人による自爆テロなどのニュースが伝えられる。しかし、根本のそのパレスチナ問題とは何かを教えてくれる場には出会わなかった。果たして大人たちにとっては周知のことだったのだろうか。
本書から学ぶことは非常に多かった。私は浅はかな理解では、歴史的に長く迫害されていたユダヤ人が、第二次世界大戦で決定的にその存在を危機にさらされ、戦後彼らのための国家を樹立するためにアメリカ合衆国が協力してイスラエルという国家を作ったということ。当然そこに以前から住んでいたパレスチナ人たちが今度は迫害されるようになる。しかも、そのやり方は非常に暴力的で、いまだに暴力のやり取りが続いている。その程度の理解だ。しかし、そもそものユダヤ人のための国家作りという発想は古代の神話に基づいているということ、その実現にはアメリカ合衆国の前に英国が主導していたということ。その背後には潤沢な資金源としてのユダヤ人資産家がいて、それは欧米の国家のあり方に大きく圧力をかけていること。もちろん、その政治力と資金源は現在の暴力の応酬にも直接的に関っていること。まあ、本書に書かれていること全てを鵜呑みにするのはどうかとも思うが、ともかくサイードの『パレスチナ問題』を読む前に、本書を読んだのは非常によかったと思う。
いやいや、改めて世界は広く、問題は山積みだと思い知らされる。

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資本論を読む

アルチュセール, L.・バリバール, E.著,権 寧・神戸仁彦訳 1974. 『資本論を読む』合同出版,433p.

アルチュセールはいわずと知れたフランスの哲学者だが,有名な「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」という濃密な論文に衝撃を受け,何度か読み返したものの,『マルクスのために』でつまずいてしまった。この本は若きマルクスの著作を検討したものだが,半ばで読むのを諦めてしまった。私にしてはとても珍しいことだ。なので,この『資本論を読む』もマルクス『資本論』を読まずして読むことはないだろうと思っていたが,なんと初版の本書が古書店で600円で売っていたために,購入はしていたのだ。
まあ,なかなか『資本論』を読破する勇気もなく,ついにこちらに先に手を出したという次第。本書のフランス語初版は,アルチュセールとバリバール以外にも数名の論文から成り立っていたらしいが,新しい版ではそれらが削除されたらしく,日本語訳でもアルチュセールによる第1部「『資本論』からマルクスの哲学へ」と第2部「『資本論』の対象」,およびバリバールによる第3部「史的唯物論の基本概念について」から構成されている。1日数ページずつ読み進み,2ヶ月くらいかかって読んだので,正直いって読後に記憶に残ったものはそう多くはない。しかし,読んでいる時点では非常に刺激的で面白かった。特にアルチュセールによる部分のはじめの方は。アルチュセールの議論をよく,「ポストマルクス主義」とか「構造主義的マルクス主義」などと呼ぶが,なぜ「構造主義」なのかは,本書を読むとよく分かる。そもそも1980年代の地理学における主体と構造,あるいは主意主義と決定論という二元論論争において,両者は19世紀の思想家を代表して,前者をフロイトが,そして後者をマルクスが代表していた。あるいは,1970年代のアンチ計量地理学としての2つの潮流としては,前者が人間主義地理学,後者がラディカル地理学に結び付けられた。それらは現象学とマルクス主義というよってたつ学説にも対応している。つまり,マルクス主義的な社会の捉え方では,社会構造が主体の意思や行動を決定するという,非常に単純化した説明だ。
しかし,それとは距離をおいたにしても,本書においてアルチュセールは「社会構成体」という言葉や,「構造」という言葉をよく使っている。しかも,それは地理学の概説書が説明しているような単純な決定論的議論ではなく,とても説得的だ。この点についてはどちらかというと,バリバールによる再生産論で詳しく解説されているのだが,経済理論としての『資本論』だが,よく説明されるように,より専門化していく近代経済学に対して,前近代的な「政治経済学」を強調し,資本主義という経済現象を社会構造との関連で捉えるというマルクスの姿勢は,土台上部構造という経済決定論という説明とはちょっと矛盾するような気もするが,まあ,私の理解の浅はかさなのかもしれません。前半のアルチュセールの議論で面白かったのは,マルクス経済学がスミスやリカードの古典派経済学に対して何が新しいのかということを証明する部分だ。アルチュセールがいうには,「剰余価値」にしても,マルクスが新規に発見した概念は何一つないという。マルクスの発明物だと思われているもののほとんどは,違う形で前人の発明物であった。しかし,「歴史」や「労働」といういくつかの概念の組み合わせ方と,そこからもたらされる同じ概念の違った解釈の仕方,そこにマルクスの重要な独自性と真なる資本主義の理解ということが論証される。といっても,ジジェクがラカンを絶対視しているように,アルチュセールはあくまでもマルクスの正しさを証明しようとしている印象は否めない。
さて,一方バリバールはなんと23歳にしてこの文章を書いたらしい。そう,彼の娘ジャンヌ・バリバールはフランスで女優・歌手として活躍するくらい,エチエンヌ・バリバールは若い。近年でもけっこう彼の単著が翻訳されている。実は本書を読もうと思ったきっかけは,アルチュセールの文章よりも,史的唯物論について説明しているこのバリバールの文章であった。これまでも唯物論について書かれているものをいくつか読んだものの,なかなか納得するようなものには出会えていない。唯物論は先ほどの二元論的な捉え方では,観念論と対立させられる認識論的立場だといえる。私は基本的に観念論的な立場に立っていると思うのだが,言葉通りに理解する限りにおいて観念論というのは比較的分かりやすい。しかし,一方の唯物論は字義通りに理解してもなんのことやらという感じでイマイチしっくりこないのだ。英語で表現するところのmaterialismは直訳するなら物質主義だが,どうなのか?そもそも経済は物質的な現象か?特に,観念論的立場に立って発展してきた1990年代の文化地理学は最近,物質性をしつこく強調している。それはかつてレイモンド・ウィリアムズがマルクス主義の立場から提唱した「文化唯物論」の立場から文化を捉えることなのか。でも,それは決して物質文化を強調するわけでもない。まあ,その辺を知りたいと思ったのだが,残念ながらこのバリバールの文章も史的唯物論について解説してくれるものではなかった。要は,アルチュセールの目的に従って,マルクスが『資本論』で展開した内容を,生産様式や所有,再生産や本源的蓄積という概念を中心に解説しているものにすぎない。「すぎない」と書いたが,もちろんその記述内容は私の理解をはるかに越える刺激的な内容で,それを私はそれなりに楽しんで読んだわけだが,タイトルから期待するものの理解を深めることはできなかった。でも,この説明とその前のアルチュセールの文章のなかには,マルクスにおける歴史の捉え方についても解説も含んでいたので(それこそが古典派経済学とマルクスを分け隔てるものだ),得るものは大きかった。ちなみに,この歴史に関しては,それが社会ダーウィニズムの影響であるという文脈のなかで,マルクスの議論を同時代的にやはりダーウィニズムの影響下にあった思想としてフロイトに関する議論をアルチュセールが展開しているのもけっこう面白かった。

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愛と偶然の修辞学

加藤幹郎 1990. 『愛と偶然の修辞学』勁草書房,244p.,2060円.

映画研究者,加藤幹郎氏の2冊目の著作。青土社の雑誌『ユリイカ』に書かれた文章を中心に集めたものだが,不思議な統一感がある。しかも,映画論のみならず,本書は3部構成となっていて,1部が映画論,2部は小説論,3部は漫画論とされている。まあ,映画というものが,いかにも近代的な表象形態(ベンヤミンの言葉を使えば複製技術時代の芸術)である写真に動きと物語を追加し,台詞がつき,音楽がつく,といった具合に,初期のマルチメディアといってもいいものだから,それを論じることができれば大抵のメディアは論じられるし,逆にいえば芸術的・文学的素養がないと表面的な映画論になってしまう。だから,本書でアガサ・クリスティやジェイムズ・ジョイス,サミュエル・ベケットについて,短い文章で見事に論じていたとしても驚くべきことではないのだが,やはりこの文章が30歳台はじめに書かれたというのはすごいとしかいいようがない。そして,1部の映画論が相変わらず見事なこと以上に驚くのが,3部の漫画論だ。本人はそれほど漫画について詳しくないとはいいながらも,その本質を見抜くその洞察力は非常に刺激的である。「漫画は時間芸術にほかならない」と断言し,その根拠集めに論を費やしている。ある種演繹的な論証のようにもみえるが,まあ多少のこじつけはあるものの説得的だから仕方がない。
そして,その文体は全体的に威圧的な印象を与えるのも否定できない。まあ,研究者である限り自分が正しいと思っていることしか書かないし,ましてや加藤氏ほど優れた研究者であればその自負は当然の権利でもある。しかし,やはりどこかマスキュリニティを感じざるを得ないのは,自分自身にも返ってくる批判だろうか。私も人間的には自分のことをフェミニンな人間だと思っているのに,書いた文章からマスキュリニティを感じたと聞かされた時はショックだったものだ。でも,断片的な記述が続き,それぞれの文章を関係付けようというクロスリファレンスの手法を試みた本書はその軽さとゆるさで,とても魅力的なものであることは間違いない。でも,一つだけ加藤氏に不満をいうのなら,タイトルのつけ方だ。本書はまだいい方だが,もう少し洒落を効かせた書名にしてくれたらいいかな。でも,毎回本の内容が多岐に及ぶので難しいのかもしれない。

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封建社会

マルク・ブロック著,新村 猛・森岡敬一郎・大高順雄・神沢栄三訳 1973, 1977. 『封建社会 1, 2』みすず書房,260+184p.,2266+2884円.

大学院に入学した頃からのにわか歴史ファンの私。しかし,一方では高校まで世界史もそんなに好きじゃないし,日本史にかけては嫌いな部類。まあ,とにかく基礎知識が少ないわけです。大学院を通じて好きで詠み続けていた歴史的な話題を,大胆にも非常勤先の大学で教えることにして早9年目。基本的に私の歴史的な関心はヨーロッパのルネッサンス以降にあったわけだが,大学で教えるようになって,旧約聖書やプラトン,アリストテレスも読むようになったものの,古代と近代の中間,すなわち「中世」という長い歴史に関する知識があまりにも欠けていたので,どうにかしたかった。そんな時に知ったのが本書。古書店には結構上下巻揃って置いてあったのだ。でも,上下巻揃えて買うと結構な値段になるし,重たい荷物にもなる,という適当な理由をつけて,本当のところは読むのが面倒だっただけだ。しかし,覚悟を決めて読むことにした。
しかし,やはりそう甘いものではなかった。マルク・ブロックのことは当然知っていた。フランスでリュシアン・フェーヴルとともに,アナール学派の創始者といわれる人物であり,また『フランス農村史の基本性格』(1931)は当時のフランス地理学にも多大な影響を与えたという。この本も翻訳が出ていて,それを幸運にも入手したのだが,彼の遺作といわれる『歴史のための弁明』も読んだが,どうにもブロックの文章は難解なわけではないのに,頭に入ってこない。
さて,中世=封建社会,という私の短絡的な理解ももちろん問題だ。そして,浅はかな私は,未だに講義で,中世という時代はヨーロッパの歴史のなかでも比較的安定していた長い時代で,みたいなことをいって,キリスト教と封建制度で特徴付けられます,などと恥ずかしながら説明している。まさに,そんな私をあざ笑うかのように,その単純な理解をより複雑化しようというようなのが本書なのかもしれない。1940年に出版され,その後まもなく戦争中に殺害されてしまうブロック。本書は日本語版も2冊になっているように,1巻と2巻は内容的にも大きく分かれる。第一巻は「従属の紐帯の形成」と題される。「紐帯」とは聞き慣れない言葉だが,私は社会学者が使っているのでその意味合いを知った。人々の結びつきのことで,英語でいうところのbondだ。また,第一巻で本文中に目に付いた言葉は「オマージュ」。私たちはけっこうこのフランス語を用いる。特に芸術的な表現において。私もポール・オースターの『ガラスの街』がある意味において,ポーの『群集の人』へのオマージュである,と書いたように「賛辞」のような意味合いで感嘆に使っているが,そもそもフランス語のhommageのhommeは人間=男のことだ。
第二巻は「階級と統治」と題される。より政治的・制度的な側面に議論は移行する。ここでも,私の貴族に関する理解は根底から覆される。そして,聖職者や裁判の話。最後の方に国家の話があり,最後の「社会形態としての封建制とその影響」ではかなり分かりやすく封建社会についてまとめてくれている。でも,その一つの結論は,封建制といっても広いヨーロッパの諸地方でも異なるし,長い中世という時代のなかでも異なる。もちろん,それは同じような順番で推移するものでもない。と,理解は難しいものなのだ,と開き直ってしまったら,それはそれでなんのために読んだんだってことになってしまう。ああ,歴史は奥が深い...

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メタファー思考

瀬戸賢一 1995. 『メタファー思考――意味と認識のしくみ』講談社,210p.,650円.

一応,メタファー=隠喩も研究テーマの一つにしている私。まあ,メタファーに限らず言語表現について,地理学のできる範囲では考えていきたいと思っているが,日本人によるこの手の本は今まで読んでいなかった。本書の著者の瀬戸賢一さんは『空間のレトリック』(海鳴社,1995)という本も出版されていて,『レトリック感覚』や『レトリック認識』を書いている佐藤信夫さんと並んで,言語学を専門としない地理学者には読むべき存在だと思う。
しかし,私はポール・リクールの『生きた隠喩』とかデリダの論文とか,難しいところに手を出して,これらの恐らく分かりやすく書かれているだろう著書には触手が伸びない。これはあくまでも好みの問題と,食わず嫌いな問題だ。でも,先日祐天寺margoのイヴェントの前に立ち寄った,隣の古書店で,この講談社現代新書に入っている本書が100円で売っていた。この日は荷物を軽くするために,本を持参していなかったし,この位軽い本だったら買ってもいいかなと思ったり,3章構成の1章が「空間のメタファー」にあてられていたので,買ってみることにした。しかし,この食わず嫌いはそれなりに正しかったようだ。普通だったらこの厚さだったら1日ちょっとあれば読めるのに,この本は3,4日かかってしまった。確かに,日本語と英語を使って,豊富な事例を語源とともに提示する,非常に説得的な本だし,かといって論理的な誤りも犯していない。字義通りの意味を無批判に仮定して,その上でメタファーを二次的な意味と主張するわけではなく,でもだからといってリクールやデリダほど懐疑主義者にはならないような,前提を自らに課しているだけだ。私にとって本書が読みにくい一つの原因は,新書というスタイルにあるのは確かだ。本書ではしつこく本文中に文献を示すのは避け,参考文献を巻末にまとめている。だから,議論をしているというよりも,解説しているという雰囲気で,読者と一緒に考えるのではなく,読者を説き伏せるような書きっぷりがやはり私には苦手である。
一緒にしてしまうのは失礼だが,やはり佐藤信夫さんの本も読まないんだろうな。

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ムーン・パレス

ポール・オースター著,柴田元幸訳 1994. 『ムーン・パレス』新潮社,443p.,705円.

何度か書いているように,私はポール・オースターにこだわっている。といいながら,ニューヨーク三部作以降の作品にイマイチ手が出せないでいた。しかし,外出先で持参した本が読み終わりそうで,書店で急遽購入したのがオースターの1989年の作品『ムーン・パレス』。手持ちのお金がなかったし,持っていたバッグの容量からしても大きな本は買えなかったというのが正直なところで,文庫版のオースター作品が未読のものはこれしかなかったという非常に消極的な理由。しかし,ニューヨーク三部作のほかに,『最後の物たちの国で』は読んでいたので,一応,長編小説はほぼ年代順に読むことになる。
『ムーン・パレス』はすでにそれに関する論文も読んでいたりしたし,前にも紹介したオースター読本のような本のなかで,本書の概要も読んでいた。全般的に,オースターに限らず,初期には哲学的・抽象的な作品を描く人でも段々ストーリー重視の具象的な作品になりがちだ。オースターもそうだということを知っていたから,とりあえず私のオースター研究書が一段落するまでは,読まないようにとは思っていたのだが,普通に面白かった。
主人公はマーコという名前だが,作品中でもマルコ・ポーロと関連付けられる。そして,彼が通うのはコロンビア大学で,作者のオースターと同じ。マルコ・ポーロ『東方見聞録』における「黄金の国ジパング」を目指したコロンブスがカリブ海に浮かぶ島を発見したわけだが,そのコロンブスにちなんだ名前の大学。まあ,そんな言葉遊びが作品中に多用されるのはオースターらしい。そして,主人公が落ちるところまで落ちるという設定も大好きだな。そして,オースターお気に入りの社会的事実は「偶然」だが,本作における偶然はちょっと度が過ぎているようにも思う。とはいいつつも,そして本書がかなり自伝的な内容を含むといえども,これだけの発想で,それを作品として結実させていくのはさすがだ。
オースターはこの後,映画製作に関わっていく。本作もストーリー展開的には映画化されてもおかしくない内容ではあるが,やはりされないんでしょう。やはり小説には小説の面白さというのがあるというのを実感する作品。

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フォト・リテラシー

今橋映子 2008. 『フォト・リテラシー――報道写真と読む倫理』中央公論新社,256p.,780円.

書店の写真コーナーに行くと最近目に付く著者の名前。『〈パリ写真〉の世紀』や『ブラッサイ――パリの越境者』という分厚い著書の著者だ。本格的な写真研究からはちょっと遠ざかっているので,あまり厚い本は読む気がしなかったが,そんな著者が中公新書を出したので買ってみた。タイトルはイマイチだったが,目次を見たら,彼女の専門のパリ写真の話もあるみたいだし,私が研究した『The family of man』の話もあるという。
なぜ,私にとってタイトルがイマイチかというと,それは明らかに「メディア・リテラシー」からきているからだ。リテラシーとは「読み書き能力」のことで,有名なリチャード・ホガートの著書も『読み書き能力の効用』だったが,なんだか最近のカタカナ表記はどうにも上から目線,教育的な側面が強調されて気に入らない。でも,著者はこの言葉に批評的・批判的な意味合いも込めているというのでよしとしよう。この種の本としては,本書でも言及される,1963年に岩波書店から出版された,名取洋之助『写真の読み方』がある。名取は日本の写真史のなかでも重要な役割を果たした写真家であると同時に編集者であり,批評家というよりは実践家であり,一方で今橋氏は大学の研究者である。しかし,私から見れば,本書の一部分は『写真の読み方』の焼き直しである。また,これも本書で引用されているが,小林美香『写真を〈読む〉視点』(2005,青弓社)もある。小林氏の著書がどちらかというとアート写真に重心を置いているのに対し,今橋氏は報道写真に重心を置いている。が,その両者の境界は曖昧である,というのが2人の著者の共通認識であるかもしれない。
まあ,本書が私のような読者に対して根本的に認識に変更を迫るような刺激はなかったものの,私が知らない事実をいくつも提示してくれたことはありがたい。そう,本書は写真一般論ではあるのだが,その論証のために用いられる事例が限定されていて,それが故にその考察が詳細である,というのが新書でありながら本書が持つ魅力であろうか。それに加え,最終章で「倫理」というものを強調し,晩年のスーザン・ソンタグについて論じたり,同時代的に今日活躍する写真家であるセバスチャン・サルガドを登場させて,メッセージ性の強い写真が世界を変えるか否かという,なかなか研究者という立場では論じにくいテーマを含んでいるのが面白いと思う。

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映画とは何か

加藤幹郎 2001. 『映画とは何か』みすず書房,262p.,3200円.

ベタなタイトルである。しかし,1998年の『映画のメロドラマ的想像力』から,毎年のように著書を発表している著者だから,正直なところタイトルに困ったのかもしれない。本書は,みすず書房の出版案内を兼ねた月刊誌『みすず』に掲載されたものを集めたものである。1994年の第1回から,最後の第6回は1998年。『みすず』に掲載されたものを私はいくつか読んでいたので,本書を購入するのは後回しにしていたのだが,最近加藤氏の著書を中古で買うことが難しくなっていて,たまたま本書を2000円で見つけたために購入した。
加藤氏の著書は今まで,
『映画ジャンル論』(1996年,平凡社)からはじまり,
『鏡の迷宮』(1993年,みすず書房)
『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(2005年,みすず書房)
『映画館と観客の文化史』(2006年,中公新書)
と読み進めてきた。まだまだ執筆の勢いに追いついていない。ここ数年は出版のペースが落ちたものの,1996年から,ウェブの映画批評サイトも管理しているのだから,その執筆量には驚くしかない。そして,量だけでなく,個人的には彼の文章は今私が一番刺激を与えられる内容を持っている。
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO1/NO1HOME.HTM
基本的に彼の研究は映画史であり,いくら映画好きといっても古典作品をあまり観ていない私にとっては彼が取り上げる映画は観たことがないものが多い。しかし,彼の文章はそれでも十分読ませてくれる魅力を持っているのだ。批評というのはその書き方が意外に難しい。割り切って,その批評対象になっている作品を読んで(観て)いるものだということを前提にするのが一番楽。もう一つの割り切りは懇切丁寧に作品を紹介すること。でも,後者はその冗長な説明が時に読者を興ざめさせる。特に映画は,分析対象が物語りだけではないので,文章で説明してもたかがしれてるし,もし観ている作品であっても,分析されているシーンをきちんと映像として記憶しているとは限らない。まあ,ともかくその辺は批評家にとって難しい問題ではあるのだが,加藤氏はその辺りのバランス感覚が素晴らしい。また,分析方法に関しても,単なるテクスト内分析でも,テクスト間分析でもない。かといって,テクスト分析を軽んじるような政治・社会分析一辺倒でもない。表現の内容と,作品の成立する社会状況の両方に目を配り,さらにその両者をうまく結びつけるために,映画の技術史に細心の注意を払うのだ。といっても,単純な映画の撮影技術や編集技術だけではない。映画における編集手法の歴史を最重要視しているところに彼の特徴がある。
本書では第1章で,ヒッチコックの『サイコ』が取り上げられる。この映画は私も観ているし,問題のシーンが絵コンテで再現されていて,非常に分かりやすい。第2章では,『メトロポリス』(1926年)で有名なドイツの監督,フリッツ・ラングの渡米以降の作品が詳細に分析される。戦前にドイツで名を成したラング監督は自らにユダヤ人の血が入っていることを理由に合衆国に亡命する。亡命後の作品はほとんど注目されてない,という前提が本章にはある。私は『メトロポリス』すら観ていないが,その論理的説明には妙に納得させられる。第3章は『みすず』の段階で読んでいた。ホロコーストを描いた映画『ショアー』が取り上げられる。ホロコーストを生き延びた人たちへのインタビュー映像をつなげただけの9時間半に及ぶドキュメンタリー映画だが,それは同時に『シンドラーのリスト』のような,ホロコーストをスペクタクル映画へと仕立て上げたスピルバーグ批判でもあるという。しかし,映画技術史を踏まえた著者の分析によれば,この2つの作品は似たり寄ったりなところもあり,ホロコーストの表象可能性という問題の根本については解決されていないという。続く第4章は結構面白い。映画と列車の関係についての考察だ。もちろん,初期のフィルムが単なる列車の到着場面を撮影しただけのものだったということから始まり,この両者には直接的な関係がある。しかし,本章ではその両者の関係をもっと広く捉え,場合によってはゆるやかなつながりや,強引な関係付けなどで論が展開していくところが面白い。つまり,厳密な直接的関係だけを積み重ねていっても批評というのは面白くはならない。大いなる想像力を働かせた大胆な論というものも期待したいところ。加藤氏の研究が魅力的なのはその辺も豊かだからだ。さて,この第4章から第2部「映画史を書く」に入っているが,最後の2章は私には少々難しい。第5章はD.W.グリフィスという合衆国の監督による,1908年から1913年までに撮影された400本以上もの短編というのが対象となる(実際にはうち20本)。そののちの1915年の『国民の創生』という長編でグリフィスは有名になったそうだが,すっかり忘れ去られた膨大な短編西部劇のなかで,その表現手法を急速に進化させた,というのが映画史上での発見。最後の第6章で取り上げられるのは,1910年代から1950年代にかけて存在していたという,黒人劇場専用映画である。黒人差別が普通だった時代の合衆国では,黒人のための専用映画館があり,そこでのみ上映される映画が撮影されていたという。その事実だけでも十分知的な刺激を得られる内容。
まあ,そんな感じです。思わず,古書店になかなか出回らない加藤氏の本を2冊もAmazonで発見して注文してしまった。またまた読むのが楽しみである。

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都市社会のアウトサイダー

デービッド・シブレイ著,細井洋子監訳 1986. 『都市社会のアウトサイダー』新泉社,271p.,2900円.

最近でも,地理学者もよく寄稿する雑誌に文章を書いているシブレイ。社会学者と思っていましたが,訳者あとがきによると,出身は地理学なんですね。本書でも,テーマ的には『アウトサイダーズ』の著者,ハワード・ベッカーなどが引用されていてもおかしくないのだが,むしろハーヴェイやグレゴリー,バッティマー,ノックスなどの地理学者の文献を引いている。もちろん,だからといって地理学どっぷりというわけではなく,ギデンズやハーバーマス,ブルデュー,パーソンズ,セネット,人類学者のダグラスなどなど,幅広い。でも,例えば2003年に『人文地理』に掲載された原口 剛にはシブレイの1995年の著書『geographies of exclusion』が引用されているのに,本書がないってのはあまり知られていないのだろうか(かくいう私も最近まで知らずにいたので,偉そうにはいえませんが)。
そんな感じで幅広い文献に支えられた前半は総論編。正直いってあまり面白くないですね。最近の彼の文章は断片的にしか読んでいませんが,一般論は近年の方が洗練されているのかもしれません。本書の醍醐味はやはり経験的な事例に基づく後半。本書では「トラベリング・ピープル」と名づけられた,都市に住む移動する人々が「アウトサイダー」の一つの例として取り上げられます。本書には実はもう一つ事例があり,それがアラスカのイヌイットだが,ちょっと本書の文脈には強引なような気もする。本書によれば,著者は研究事例として捉える以前から英国の「トラベラー・ピープル」との付き合いがあったという。そういうの,いいですね。前回紹介した濱田君の研究もそうでしたが,私のライヴ通いもそのうちうまいこと研究になればと思う。
さて,この「トラベリング・ピープル」とはいわゆるジプシーを含む人々のことだが,それだけではないところが現代的というべきか。以前,地理学者仲間で翻訳をしていた『cool places』という論集のなかに「ニュー・エイジ・トラベラー」に関する研究があったが,本書のなかにもそういう人たちが入っているのだろうか。もうちょっと最近になれば,「ノマド」というような言い方で,場所に根付かない人のアイデンティティの問題というのも一つのテーマだ。でも,本書の場合,そういういわば反社会的というか,社会通念から外れる人々に対する社会における差別的な問題ばかり扱われがちなのに対し,そういう人々の経済的基盤に着目しているところが面白い。以前,同じ研究会に参加していた下村恭広君が,東京における廃棄物収集者(いわゆるきちんと働かない浮浪者たちが鉄くずなどを集めて換金する)の研究をしていたが,英国におけるトラベリング・ピープルの基幹産業もそういうものらしい。廃棄物というのは重量があり,移動が面倒であるが,ある場所で不要なものであっても他の場所では有用である場合がある。つまり,かれらはその移動性によって,その不要な物資を移動することによって余剰価値を生み出すという非常に面白い活動主体だといえる。そして,もちろんそれは非常に都市との密接な関係を有している。そして,それは近年の社会地理学研究でも重要なテーマであり続けているが,かれらの存在を疎ましく思う地域住民と,それを何とかしようとする行政,あるいは都市計画。そんなことが幅広く事例を集め,論じられている。
一方のイヌイットの事例についても,基本的にかれらの居住地は都市とはいえないのだが,いわば急速な都市化と近代化の波が,一昔前にはそれとは関係の薄かったかれらの生活にも否応なしに影響を及ぼすということが論じられる。そうした事例から,前半部では十分にその含意が引き出されていないように思うが,それは時代的な制約といえるかもしれない。ともかく,荒削りながらなかなかの名著だ。中途半端な翻訳もまたいい。彼の新しい文章も読みたくなった。

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民芸運動と地域文化

濱田琢司 2006. 『民芸運動と地域文化――民陶産地の文化地理学』思文閣出版,290p.,4900円.

著者は1972年生まれの地理学者。関西学院大学出身で,なぜか昔から知り合いです。恐らく,関西学院大学の八木康幸さんが世話人をしていた時代に,人文地理学会の地理思想部会に呼ばれて発表をした時に出会っているのだと思う。でも,私はいろんな院生を紹介されてもすぐ忘れる性質なので,ちゃんと彼のことを覚えたのはいつんことだったのだろうか。本書は彼が2003年に同大学に提出した博士論文がもとになっていて,博士論文自体も彼がそれまでにいろんな場所に発表した論文がもとになっている。私は著者自身から,本書が出版された当時にいただいたのだが,もともとの論文も発表されるごとに送ってくれて読んでいたので,なかなか本として読む機会を逸していた。本書の3章は2002年に『地理科学』に掲載された論文だが,私が査読者として先に読むことになった。その論文には私の1996年の論文も引用されていて,その頃から仲良くなったのかとも思ったが,彼は『人文地理』にも1998年に書いていて,それが本書の5章になっているから,その頃かもしれない。なかなか彼とじっくり話をしたことはないのだが,手紙のやり取りをしたり,学会で私が発表すれば聴きに来てくれたりで,顔を合わせたことも少なくはない。
そういえば,このblogでは,彼が監修した『あたらしい教科書11 民芸』を紹介したこともありましたが,民芸とはプロダクトデザイナーとして有名な柳 宗理氏の父親,柳 宗悦が1930年代初頭に創始したといってよい運動のこと。古ぼけた田舎の職人技による焼き物であり,土産物としてイメージしがちな民芸品という呼び方は,せいぜい80年の歴史しか持たない。しかも,それは柳のような都会人による田舎へのノスタルジックなまなざし,またはこの運動に関わっているバーナード・リーチという外国人による日本へのエキゾティックなまなざしに支えられた美学である,というのが近年の民俗学的な議論であるといえよう。一方,こうした田舎の家族経営的な焼き物産業というのはひっそりと地理学の研究対象でもあった。さまざまな「地場産業」の一つとしてそれなりに蓄積がある。濱田君の博士論文はそんな2つを結び付けようという試みであるといえるかもしれない。なので,地理学系の出版社でもないのに,あえて副題には博士論文のタイトルをいかして,「文化地理学」の語を含めた。もちろん,本文中でも地理学への言及は多く,私の1996年の論文は本書でも引用された。さて,『あたらしい教科書』の時にも紹介したが,この柳率いる民芸運動の主要人物に濱田庄司なる人物がいる。柳がこの運動の思想的・理論的指導者だとすれば,濱田は実際にその理念・美学に沿って焼き物を焼く実践者であり,人間国宝でもあった。本書の著者,濱田琢司君は,なんとこの濱田庄司の孫なのだ。でも,本書のあとがきに書いてあるように,大学進学時まで彼は民芸に何の関心も抱いていなかったらしい。しかし,地理学というある意味なんでもありの学問に所属していて,大学院に進んだ辺りから民族学で研究されていた民芸に興味を持つようになったらしい。そう,上に名前を挙げた彼の指導教官でもあったであろう,八木康幸氏は民俗学的な研究をしていて,今では地理学者というよりも民俗学者といったほうがいいくらいの研究者であることも彼が民芸に関心を持つようになったひとつの理由だろう。
さて,すっかり前置きが長くなっているが,本書は地理学に籍を置きながら,民俗学的な研究対象を持ち,人類学的な文献を多く利用したものであるといえる。本人にも以前伝えたことがあるが,日本の地理学者でこういうバランス感覚をもった人はそう多くはない。私から見て,とても興味深い研究をしている地理学者はけっこう多いが,安心してその文章を読める人はそう多くはない。そういう人として一番に挙げるべき地理学者は福田珠己さんだが,彼女も関西学院大学の出身で,指導も八木さんだったりする。あ,なんかまた前置きになっていますね。ともかく,私のような読者にとってとても読みやすい本です。まあ,私は大学院に入っていろんな分野の研究に触れるまで柳 宗悦の名前も知らなかったくらいの常識なしだから,彼の研究を通して知ることはとても多い。そして,私もいろんな分野の本を読むが,人類学はあまり読まないので,その意味でも学ぶところは多い。
今日ではすっかり観光産業の売り上げを支える土産物と化している民芸品だが,「民芸品」という言葉自体が非常に一般化しているため,本来の意味での「民芸」に関わらず,参照とするべき事例には事欠かない。つまり,観光人類学や観光社会学の分野では,日本の民芸品としての焼き物を研究するのに適した視点を提供してくれる。それは地理学が生産の場として見ている「地場」でもなければ,民族学が見ている個人としての思想家や焼き物作家とも違う。まさに,分野を越えた人文・社会科学的な議論に適した研究対象だと思う。それはグローバル化を踏まえた空間性への関心だ。もちろん,彼は地理学者としての自負があるので,そのスケールはかなり小さなところでも勝負しようと思っているが,もちろん,ナショナルなスケールとしての民芸運動全体も忘れてはいない。本書では,日本全国のナショナルな民芸ブームの話から,リージョナルな九州地方の産地の概観,そしてそのなかでも大分県の小鹿田と小石原というローカルな産地の詳細な検討と前半は展開する。そして,後半は彼の祖父である濱田庄司氏が,自らの作品生産の場として選び,住み着いた栃木県益子についての議論を通じ,最後にはまた運動そのものの考察に戻る。
なんだか,肯定的な解説になってしまったが,もちろん本書にも批判すべき点は少なくない。でも,こういう場でそれを書くのもあまり生産的ではないし,やめておきましょう(というか,ちょっと既に疲れてしまった)。細かい批判点は著者宛に直接メールすることにでもしましょう。といいながら,なかなかそういう時間が取れないんだよな。

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ハッカー宣言

マッケンジー・ワーク著,金田智之訳 2005. 『ハッカー宣言』河出書房新社,248p.,2500円.

古書店で本書を見つけ,著者名で思わず買ってしまった本。この著者の著書は1冊持っているんです。私が東京都立大学に在籍している時,地理学資料室のおばちゃんが「成瀬君,これ買ってくれない?」といわれて引き取った『Virtual geography: living with global media events』という本の著者がマッケンジー・ワークだった。資料室では既にペーパーバック版を購入していたのだが,ハードカヴァー版が出ているということで買い直したということ。図書館的には保存の良いハードカヴァーの方が好まれるらしい。で,その余ったペーパーバックだが,こんな内容の本を地理学教室で買い取るのなんて私をおいて他にはいなかった。といいつつ,じゃあ図書館に入るこの本は誰が読むんだって気もしないでもないが,ともかく1994年に出版されたこの本は,私のところでも読まれずに今に至る。
そもそも,著者は地理学者ではない。1994年時点では,シドニーのマキューリー大学国際コミュニケーション修士課程の講師ということになっている。翻訳本での紹介は文化・メディア研究の教授だという。まあ,基本的にメディアコミュニケーションに関心があるのだが,そのグローバルな展開を視野に入れているようで,「geography」という語をよく使いたがる人らしい。まあ,ともかくそんな1冊の本でしか知らなかった人の本が日本で翻訳・紹介されるというので思わず買ってしまったのが『ハッカー宣言』と題された本書。
タイトルとしては当然,マルクスの『共産党宣言』が念頭におかれているし,389のテーゼ集という構成はドゥボールの『スペクタクルの社会』の影響が大きい。当然どちらも本文中に言及がある。ただし,本書を読んでいても,「ハッカー」という言葉の意味合いはわたしたちが通常理解しているそれとはずいぶん違う。具体的に何をする人たちのことかが述べられていないのは,明らかにわたしたちが理解している通常の意味合いを想起させるのを拒んでいるのだ。わたしたちの理解によれば,ハッカーとはコンピュータシステムネットワークの正常な秩序やセキュリティを破るような人たちのことだ。実際に機密情報を盗み出して利益を生み出すという人もいるかもしれないが,わたしたちが断片的に知る限りでは,都市における落書きのように,愉快犯的な,あるいは自分の存在やその技術を匿名ながらアピールするようなことが,その存在意義だといえようか。ともかく,一般的な社会的通念においては困った人たち,秩序を乱す反乱分子という位置づけになると思う。しかし,それを逆に捉えれば,かれらの存在は既存の秩序を転覆する新しい可能性を有する人たちなのかもしれない。そういう感覚から,ハッカーなるもの共産党員やシチュアシオニストといった新しい社会に導くオルタナティヴな存在として考えようというのが本書の意図するところだ。
もちろん,それを具体的に示すのではなく,非常に抽象的に論じていくことに本書の意義があるのだが,その読者のもやもやした感じを,「訳者あとがき」は見事に具体化して分かりやすく解説してしまっている。これはある意味蛇足だな。本書によれば,ハッカーたちは「ハッカー階級」なるものを築く。そして,その階級は資本家と労働者階級の関係と同じように,「ベクトル階級」なるものと闘争関係にある。この「ベクトル階級」というものについても,訳者あとがきで見事に分かりやすく解説されてしまっている。ベクトルとは数学の代数のなかで「行列」として学んだものだ。n次元空間のなかでの方向を示すもの。ベクトルは方向と大きさを持つ矢印のことだ。つまり,ベクトル階級とは人々の志向や思考,嗜好を強い力で方向付ける人たちのことだ。訳者あとがきには書かれていない例で示せば,メディア産業に従事する人たちも含まれよう。ハッカー階級とはつまり,そうした方向付けられた大衆の感覚を是正する役割を果たす。まあ,文化産業でいえば(音楽や映画など),メジャーに対するインディーズといったところか。まあ,この対立は合法的なものだが,ハッカーという表現をより活かすならば,著作権を無視するような表現主体のこと(あ,この辺は訳者あとがきにも書かれてたな)。
まあ,なにやら解説しようとすると,本書の内容を分かりやすく単純化してしまうが,けっこう古臭いオーソドックスなことも書かれています。『スペクタクルの社会』ほど難しくはなく,読みやすいかな。最後に,本書でも使われている「地理学」が登場する部分を引用しておきましょう。

「運動のベクトルは自然地理学から抽象化され,自然を第二の自然へと変容させる共同的な人間の労働が沿う軸線もたらす。・・・そして,遠隔透視のベクトルは第二の自然を,第二の自然から一層抽象化し,必然性から新しい自由が奪取される――そして新しい必然性が階級支配によって清算される――第三の自然を生み出すのである。だが,ベクトルが一層の抽象化を世界にもたらすとき,ベクトルはまた一層仮想的なものを,仮想的なものに向かって開くのだ。第三の自然地理学は仮想的地理学となるのである。」(p.172)
「この展開のそれぞれの段階において,この空間の抽象性は,コミュニケーションのベクトルについての抽象的地理学を具体的で特殊化された自然地理学と第二の自然地理学上へと負わせることの中から発達するのだ。」(pp.184-185)

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翻訳の思想

柳父 章 1977. 『翻訳の思想――「自然」とnature』平凡社,238p.,950円.

私は2001年の論文で,自然=nature概念を考察に取り込んだ。その論文執筆時に本書を読んでいなかったのは大きな落ち度だと思う。もちろん,そういうことはよくあることといえばそれまでだが,投稿時に編集委員や査読者がそのことについて全く指摘しなかった,この学会の体制はさもありなんという感じだろうか。でも,まあ他人のせいにするのはよくない。そもそも最近本書を古書店で見つけたときに,ようやく感があったのは確かだ。柳父氏の本は既に,『一語の辞典 文化』(三省堂,1995年)を読んでいるし,そもそも著作の多い翻訳研究者として著者は有名である。私のこの論文はもともと修士論文の一部だったが,記憶を辿ると,修士論文執筆中は指導教官に本書について教えてもらったはずである。といっても,その頃は他に読むべき本が山積みだったし,著者名はしっかり覚えていたけど,タイトルまでは覚えていなかったというのが正直なところ。
natureという概念は,cultureとともに,西洋語としてはもっとも複雑な単語の一つではないだろうか。cultureについては,西川長夫『国境の越え方』に詳しいし,もちろん上に挙げた柳父氏の『文化』でも手際よくまとめられている。自然については1999年に出版された,やはり同じシリーズの伊東俊太郎『一語の辞典 自然』で済ませていたようなところがある。しかも,この本にも当然ではあるが,しっかり本書についての言及がある。さらに,本書は1995年にちくま学芸文庫にも入っているくらいだから,私の怠惰ぶりはまずい。と,かなり罪悪感に苛まれながらの読書となった。しかも,それは内容にも,である。
natureの日本での翻訳事情はcultureよりも複雑だということが本書を読んで思い知らされる。cultureはヨーロッパにおいても比較的新しい語であり,日本へも元号としては用いられていたものの,文化と文明という語は,明治期の新しい日本国建国の際に,civilizationおよびcultureの翻訳語として日本語に定着していく。それに対し,「自然」の事情はかなり違う。本書によれば,そもそも,中国語から引き継いだ「自然(じねん)」は日本語体系のなかでも存在していたし,オランダ語のnatuurの翻訳語として,すでに1796年に「自然」が宛てられていたという。さらにいえば,文化や文明が数十年の間にそれぞれcultureとcivilizationの翻訳語として落ち着いていくのに対して,natureに当てられた日本語はなかなか「自然」に固定していなかったようだ。
著者は長年「翻訳」という問題に関わっており,また本書のタイトル自体も「自然」の問題よりも「翻訳」の問題を前面においている。つまり,本書は翻訳の問題を考える一事例として「自然」を取り上げているのにすぎないが,数ある著書のなかで初期の頃の本書で「自然」を,しかも一冊の本で一語を取り上げたということもあり,いかにこの語の事情が複雑かということが分かる。江戸時代の後期から日本にもオランダから西洋近代科学が入り込み(もちろん,自然科学のこと),その後はドイツの哲学が入り込むなかで当然そのなかに自然哲学も含まれる。一方で,明治維新前後に法的・政治的なもの,そして社会思想的なものがやはりヨーロッパから入り込む。日本語体系には存在しなかった意味内容を伴う概念を持ち込むことの難しさはcultureもnatureも同じだが,すでに日本語体系のなかに位置している「自然」を翻訳語としても用いるということはかなりの困難があったといえるし,それは現在まで続いていると著者はいう。まあ,確かにその辺を論じたのが私の2001年の論文でもあるのだが,本書を読んでいればまた違った展開になっていたことは間違いない。かといって,別に自分を否定しているわけではなく,まあ地理学における自然論ってのは,特に日本ではまだまだなので,この貴重な日本人による成果を活かして次の研究へと進んでいこう。でも,ひとまず思い当たる経験的事例はないんだけどね。

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エコロジーの社会理論

二クラス・ルーマン著,土方 昭訳 1987. 『エコロジーの社会理論』新泉社,266p.,1800円.

ルーマンはあまり真面目に読む気はないが,『メディアのリアリティ』だけは読んでおこうと思っているが,たまたま本書を古書店で見かけたので,購入した。1986年の時点でエコロジーを論じているのも重要だし,「訳者あとがき」をさらっと読んだら,どうやら本書はルーマン社会学のエッセンスが詰まったような,入門書的なものだというので読む気になった。本書は最近『エコロジーのコミュニケーション』というタイトルで改訳版が出ていて,このタイトルの方が原題の直訳だが,私はこの初版のタイトルの方が内容にあっていると思う。
本書は決して,現代の日本で多くの人が思い浮かべるような意味でのエコロジーについて論じているわけではない。ひとまず,目次を示してみるが,そこから分かるように,本書は社会全般について論じられていて,エコロジー問題に集中しているわけではないからだ。

序文
1 社会学的禁欲
2 原因と責任?
3 複雑性と進化
4 共鳴
5 観察に関する観察
6 社会的操作のコミュニケーション
7 エコロジーの知識と社会的コミュニケーション
8 バイナリーコード
9 コード,規範,プログラム
10 経済
11 法
12 学問
13 政治
14 宗教
15 教育
16 機能的分化
17 制限と強化――ごく僅かな反響ときわめて強い共鳴
18 代理と自己観察――「新しい社会運動」
19 不安,モラル,理論
20 エコロジー的コミュニケーションの合理性について
21 環境倫理

こんな感じで,各章はとても短く,10ページ足らずのものも多い。だというのに,各章のこの大きなテーマよ!確かに,いかにも入門書的な構成だ。中盤に,経済,法,学問,宗教,教育という社会を構成する一般的な時限の名称が並ぶ。ルーマン社会学を基礎付けているのは「社会システム論」だが,これらは社会という全体システムの下位システム,あるいは機能システムというものである。ルーマンのシステム論にも当然私は初めて触れたのだが,思いの他,独自なものというよりはきちんと自然科学における一般システム論も踏まえているようです。そして,当時流行りだった,オートポエーシスもきちんと取り込まれている。本書では「自己生産」という訳語だが。そうそう,本書は訳語の面,特にカタカナ表記が気になります。「パースペクティーフ」などと馴染みの英語もドイツ語読みをカナにするのはどうなのか?フランスの哲学者ミシェル・セールの『パラジット』に何度か言及があるが,彼の名前を「ミカエル・セレー」と表記するのはさすがにいかなるものかと思う。
さて,全体的にはシステム論に依拠している成果,論理が整然としていて分かりやすいような気もするが,やはりすっと頭のなかに入ってくる感じではない。1980年代中ごろに,「エコロジー」という言葉がどれだけ浸透していたかは分からないが,ウォーラーステインのいう「反システム運動」として,地球環境の危機を訴える社会運動が起こっていたことは確かだ。一昔前には日本のローカルな文脈でも盛んだった「公害運動」がグローバル化とともに運動の規模と目的が大きくなっていく。なので,本書における「エコロジー」ももちろんそうした自然環境という意味合いも含んでいるのは確かだが,ここではむしろ,社会システム論を発展させていくために,閉鎖システムと開放システムの関係,一つのシステムと他のシステムの関係,一つのシステムを構成する要素の範囲,そんな考察のなかで,当然これまではシステムの外部と思われていたものがシステムの重要な構成要素と認識される。そんなところに,「エコロジー」の言葉が利用されているように思う。そして,原著タイトルにもある「コミュニケーション」とは単なる人間主体間の意思伝達というものだけを意味するのではなく,システムの構成要素間のインプットとアウトプットのやりとりのことを意味しているのだろう。私の単純な読みが正しいのかどうかは分からないが,まあ,そんなところだと思う。最後にちょっと長いですが,一箇所だけ下線を引いた箇所の引用で締めくくろう。

観察とは区別することであり,また標記することであるならば,区別する能力においては評価すること,つまり区別を区別しようと申し出ることである。システムと周囲世界とのシステム論的区別は一貫して処理され,まさしくエコロジー的課題を目指している。そのシステム論的区別は再登録の概念の助けを得て,合理性の概念の定式化を許す。そのことでシステムが合理性を入手するのは,システムと周囲世界の差異をシステムのなかに再導入し,それに基づいて(それ自身の)同一性ではなく,差異性に方向をとる程度に相応しているのである。(p.202)

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リゾーム

ドゥルーズ, G.・ガタリ, F.著,豊崎光一訳 1977. 『リゾーム』朝日出版社,113p.,600円.

本当は本書は雑誌『エピステーメー』の臨時増刊号として出版されたものだが,まあ雑誌らしいのは装丁だけで,他の記事は全くないので,単行本として扱ってもよいだろう。しかし,著者たちはそもそもこの文章を単行本での出版を望んでいなかったらしい。そして,この1977年という時点では,ドゥルーズの単著はいくつか翻訳されていたものの,『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などで有名になっているこの共著作品として翻訳されたのは初めてだという。ちなみに,私もこの共著作品を読んだのは初めて。
ケイシー『場所の運命』でも『千のプラトー』が取り上げられ,従来の場所の概念を覆す新しい思想の一つとして捉えられている。そこでは,もっぱら定住と結びつきやすい場所概念に対して,ノマド=遊牧民という定住ではない場所との関わり方という発想のようだ(あまりにも単純化しすぎだが)。でも,ノマドではなく,リゾーム。私はこの言葉を勝手にアメーバ的なものと勘違いしていたが,リゾームは日本語に翻訳するならば,「地下茎」や「根茎」を意味するらしい。これはあくまでも隠喩なのか。ノマドというのを遊牧民と理解するならば,その運動体は家族という社会集団ではあるが,個別な社会集団である。あるいは家族より大きな社会集団であることもあるだろう。しかし,ともかくその集団は独立して空間内を移動する。一方アメーバは連続的に空間に拡散していく。しかし,その連続性は流動的にその形態を変え,分断もする。それに対して,地下茎,根茎というと,あくまでも線上に連続的に伸びるものだ。
さて,著者たちはそんな隠喩を用いて何を論じようとするのか?「樹木はすでに世界の比喩像である,あるいは根は世界として樹木の比喩増である。・・・根それ自体もそこでは直根〔回転する根〕であり,側面的や循環的な,より多数の分岐があって,それは二分法的なものではない。」(p.20)「地下の茎たるリゾームは根や側根から絶対的に区別される。球根や塊茎はリゾームである。」(p.24)「多数多様体はリゾーム状であり,樹木上の擬似-多数多様体を告発する。」(p.26)「すべてリゾームは分節線の数々を含んでいて,それらの線にのっとって地層化され,属領化され,組織され,意味され,帰属され,等々しているものだ,だけどもまた非属領化の線も含んでいてそれらを通して絶えず脱出してもいるのである。」(p.30)
本書も,デリダの『哲学の余白』だったか,『散種』だったかと同様に,いくつかのテクストが同時並行的に進行する。フォントの違いによってそれらは区別され,ページの真ん中だったり,下寄りだったり,上寄りだったりしながら,どこから読んだかよいか読者を困らせながら,「ページの最初から最後まで読まなければならない」という読書の因襲・規則・強制に問いをかけようというものであろうか。他にも「器官なき身体」や「精神分裂-分析」など,後の著作にも続いていく面白そうな概念と発想のてんこ盛りです。
しかし,まあ基本的には抽象的な議論が続き,はっきりと何かの含意が記憶に残っていくわけではない。かといって,かれらが具象と抽象,現実と隠喩などの区別を超越しているのは確かだ。本書を読みながらなにか具体的な事例を想像したりしても面白くないんだろうな。でも,場所研究の新しい方向性のためにはかれらの著作には取り組まなければならないだろう。

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旧修辞学

ロラン・バルト著,沢崎浩平訳 1979. 『旧修辞学 便覧』みすず書房,199p.,2940円.

旧修辞学ってことは,新しい修辞学があるかどうかって話なんだけど,私もまだ未読なグループμの『一般修辞学』が思い浮かぶが,実はこれは1977年の出版。バルトの本書は1970年出版だから,グループμの試みはバルトによる影響が大きいのかもしれない。
などとよく知らない情報を書くのはよくないですね。ともかく本書はかつては主要な学問分野の一つだった「修辞学rhethoric」について,その歴史を概観したもの。基本的には知らないことばかりで,いつものバルト作品の楽しみとは少し違った,「耐えの読み」が続くが,やはりクライマックスは待っていた。「B・1・18 場所,topos,locus」と題された節以降の議論だ。ギリシャ語起源の場=toposと話題=topicが同じ語源を持つことは現代英語圏の地理学者も論じているが,アリストテレスの『自然学』における場所=トポス論と『トピカ』との関連を論じたものはいないように思う。ともかく,ここ以降20ページくらいがメチャクチャ面白く,なぜ本書をもっと早く読まなかったかを公開する次第。でも,アリストテレス全集2巻『トピカ 詭弁論駁論』を読む楽しみができた。こういう議論がさらっとできるバルトの博識と引き出しの多さには驚かされる。未だにバルトを賞賛するような研究者はあまりいないだろうが,そう簡単に彼の仕事を越えたとか,忘れ去るなんてことはできないように思う。
そして,フランス語のできない私にとっては,既に亡くなってしまった(もう20年経ちます)沢崎浩平氏のような訳者の仕事にも多大なる恩恵を被っています。

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シェイクスピアと大英帝国の幕開け

フランク・カーモード著,吉澤康子訳 2008. 『シェイクスピアと大英帝国の幕開け』ランダムハウス講談社,257p.,2200円.

カーモードは今年で90歳を迎える著名な文芸批評家ということで,翻訳も数冊あるが,残念ながらきちんと読んだことはない。しかし,ミッチェル編『物語について』(平凡社)に「秘密と物語のシークエンス」という文章を寄せていて,ちょっと変わったその名前を覚えていた。基本的にシェイクスピア研究には興味があるし,発売されたばかりの本書を古書店で見かけたので買うことにした。
原著のタイトルは『The age of Shakespare』というくらいだから,16世紀末から17世紀初頭にかけてシェイクスピアが活躍した英国の時代背景を見据えた上での作品論ということだが,「大英帝国の幕開け」というタイトルはいささかやりすぎではないだろうか。確かに,シェイクスピア作品には国王の名前をタイトルに冠した政治劇が少なくない。そのことについてかなり紙幅を割いて論じられてはいるが,やはりシェイクスピア作品の批評が中心だ。
先日もグリーンブラットによるシェイクスピア伝記をここでも紹介したが,その翻訳にも本書の監訳者,河合祥一郎氏が関わっていたりする。
まあ,90歳間近で描かれた本書ということなので,そんなに刺激を期待してしまってはいけない。あくまでも教科書的にさらっとシェイクスピア作品をその時代背景とともに評価したものだ。まあ,ともかくこの手の作品各論ではなく,作家総論を読むには多くの作品を読んでいることが必要とされるということを実感させられる。

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ロマン主義の反逆

ケネス・クラーク著,高階秀爾訳 1988. 『ロマン主義の反逆――ダヴィッドからロダンまで13人の芸術家』小学館,428p.,7000円.

美術史,美術批評の成果はなかなか自身の研究に反映するのが難しいが,好きで時折読んでいる。ケネス・クラークは1903~1983という時代の人で,本書は1973年に出版されたもの。例えば,クラークの『風景画論』などはバージャーの『イメージ』で根本的に批判されているが,かといってクラークの数十年前の膨大な業績が無意味になっているわけではない。むしろ,時代的にも,構造主義批評やポスト構造主義批評,ないしはマルクス主義批評などの難解なものとは違い,素朴ではあるが,刺激のある批評だと思う。ちなみに,本書で取り上げられる13人の芸術家とは以下の通り。
ジャック=ルイ・ダヴィッド
ジャンバティスタ・ピラネージ
フセリ
フランシスコ・ゴヤ
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル
ウィリアム・ブレイク
ジェリコー
ウジェーヌ・ドラクロワ
ターナー
コンスタブル
ジャン=フランソワ・ミレー
ドガ
ロダン
18世紀後半から19世紀にかけて活躍した13人の芸術家たち。残念ながらこのなかの4人は知らなかったが,むしろ知らない画家の章の方が面白かったりする。「ピラネージとフセリ」の章,ゴヤにブレイクの章でのテーマは狂気である。19世紀の銅版画家の作品を取り上げた気谷 誠『風景画の病跡学』(平凡社)を思い出す。
アングルとターナーについては2章を割いて論じられる。もちろんこうした著名な画家に関する章も十分に面白い。そう,有名な画家といってもその作品を1,2枚知っているだけで,それが前期の作品なのか後記の作品なのか,その画家は生前に認められたのか,死ぬまで描き続けたか,途中で引退したかなど,ほとんど知らないものばかりだ。ちなみに,アングルという写実主義の最たる画家については,社会的な知名度は分からないが小学生高学年の頃から知っていた。一度私の担任にもなったことのある大人の男性の魅力を振りまく宮崎先生というのがいて,生徒の前でけっこういやらしい話をしていたのだが,その一つがアングルによる裸婦像「泉」という作品については何度か話をしてくれたのだ。その細かいところは覚えていないが,アングルという画家の名前だけはしっかりと記憶に刻まれている。
さて,本書はテレビで放映された絵画教室のようなものらしいが,まさにこの辺は英国の教養の深さを思い知らされる。日本のテレビに登場する研究者とはどうしても大衆に迎合するようになってしまう。でも,そういう教科書的な内容に「ロマン主義の反逆」と大胆なタイトルをつけ,本書では古典主義とロマン主義とが登場する。前者については分かりやすいが,やはりロマン主義ってのが絵画の分野ではイマイチ理解しがたい。まあ,タイトルにこだわらずとも十分に楽しめるけどね。

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自然主義の可能性

ロイ・バスカー著,式部 信訳 2006. 『自然主義の可能性――現代社会科学批判』晃洋書房,187p.,2700円.

著者は「批判的実在論critial realism」を標榜する英国の哲学者。日本ではほとんど知られていないが,英語圏の地理学では有名な人物。というのも,『method in social science』という全く地理学者の著書とは分からない著作で有名な地理学者アンドリュー・セイヤーが哲学的拠り所としたのがこのバスカーなのだ。日本でもほとんど知られていない哲学者に全面的に依拠するなんて,セイヤーがおかしいのか,あるいはそれを誰も紹介しない日本の状態がおかしいのか,と前々からセイヤーをまともに読んだことないながらも疑問に思っていた。といいつつも,日本の地理学者でセイヤーの議論をまともに論じている人もほとんどいないのだが。まあ,そんな前置きはともかく,ということで本書の翻訳が出ていたということを出版後3年経って知ったことに驚いたのだ。
バスカーの議論は1975年に出版された『科学の実在理論』と,1979年に出版された本書によって確立されたようだ。ちなみに,『科学の実在理論』も同じ訳者によって大村書店から出版予定となっているが,3年経っても出ていないようだ。ちなみに,セイヤーの著書が出たのは1984年。そして,前々から思っていた疑問がもう一つあり,昔読んだ竹田青嗣の『現象学入門』では実在論とはサルトル哲学の謂いであり,existentialismのことだと思っていたが,ちょっとネットで検索したらこちらは実在哲学で,実在論はやはりrealismであるらしい。realismはもっと素朴に現実主義ってのもあるし,名称だけでは何も示さないに等しい。一応目次を示してみるか。
第1章 超越論敵実在論と自然主義の問題
第2章 社会
第3章 人間
第4章 哲学批判
第1章では,本書でいうところの「自然主義」がなんであるかが示される。それは冒頭の1文で明らかだ。「社会を自然と同じように科学することは果たしてどこまで可能か」(p.1)というのがそれである。つまり,自然主義とは科学哲学における用語であり,自然科学といった場合の科学と,人文・社会科学といった場合の科学とが同じか否かという立場の問題であり,社会も自然と同様の方法で科学することができるというのが自然主義である。もうちょっと具体的ないいかたでは,自然と社会を同等に科学できるのは実証主義であり,そうではないという立場から社会科学のみに必要だとされるのが,解釈学だという。本書はタイトル通り自然主義の立場には立つが,もちろん素朴な実証主義ではない。「どこまで可能か」というところが味噌で,なんの迷いもなく社会は自然と同等に科学できると言い張るのではなく,また自然と社会は根本的に違うと頭から決め付けるのでもない,ある意味ではとても真っ当な立場のように思える。
そして第2章。これはなんとなく懐かしい社会学的な議論だ。私が社会学的思考方法を学んだ,ピーター・バーガーの議論も登場するし,もちろん古典のデュルケム,ウェーバー,マルクスの議論と立場が整理されて,そして最近の流れ。まあ,ギデンズの『社会学の新しい方法基準』で学んだようなことが本章で復習できる。まあ,結論的には社会構築主義というか,ポストモダン的最近の議論に近いように思う。でも,そうした最近の立場はもっぱら解釈学よりかと思いきや,著者は自然主義を標榜するし,マルクスの引用を肯定的にし,また彼自身マルクス主義系雑誌に論文を書いていながらも唯物論には否定的だ。そもそも基本がなっていない私にとっては,○○主義や△△派,□□論という対比で議論されても分かったような分からないような,そんなストレスが溜まります。しかも,分からないなりに感じた著者の矛盾だが,彼自身は他の著者を論じる際に,首尾一貫性というものを重視しているのだからこれまたよく分からない。
第3章の議論をちょっと先取りしてしまったが,私の理解度はだんだん落ちてくる。議論はより自然哲学に踏み込むようになり,いかに自然主義の立場を正当化するかというところに議論は収斂していく。第3章の各節の副題を並べると議論の流れが分かりやすいかもしれない。
第2節 自然主義に対する反対意見
第3節 自然主義の擁護
第4節 還元主義批判
第5節 超カテゴリー的因果性
著者の議論の仕方は,とても正統派だ。私はこういう積み重ね的な議論の仕方が苦手。AだからB,BだからC。よってこのことは論証された。みたいな調子で,えっいつ論証されたの?という具合。ちゃんと理解しようとするには何度も読み返さないといけないが,そこまでつきあうほど私自身がこの問題に関わりあうつもりはないというのが正直なところ。ということで,本書への無理解は進んでいくばかりだが,本書の批判の仕方と自分の論の押し付けがましい正当化ってのは,いかにも1980年代前半らしいというところなのだろうか。
最終章はギデンズの前掲書でもとりあげられていたウィンチという社会学者の解釈学的立場がことごとく批判されていく。なので,やっぱりついていけない。結局,彼が前書で打ち立てた,本書の基礎ともなる「超越的実在論」が何かが分からないとどうにもならないというところだろうか?なぜ大村書店がその本を出版しなかったかは分からないが,本書だけではやっぱりバスカーの名前が日本で定着することにはならないのかもしれない。

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都市社会運動

スチュアート・ロー著,山田 操・吉原直樹訳 1989. 『都市社会運動』恒星社厚生閣,286p.,3000円.

久し振りに面白くない本を読んでしまった。1977年に出版されたマニュエル・カステルの『都市問題』は都市社会学のなかで新しい流れを作り出すきっかけとなった有名な本であり,同じ出版社から同じ山田氏の訳が1984年に出版され,またカステルの主要論文も収録したピックバンス編『都市社会学』も同じ出版社,同じ訳者たちによって日本語訳が出されている。『都市問題』は非常に入手しづらいもので,私はまだ読んでいないが,『都市社会地理学』は以前に読んで面白かったので,本書も古書店で見つけた時に買っておいた。そしてたまたまここ数年共同で論文を執筆していた香川雄一氏の専門が都市社会運動である。
そんなこともあって,結構期待して読み始めた。冒頭では,カステルの『都市問題』を含む3部作,つまり『都市・階級・権力』(1978)と『都市とグラスルーツ』(1983)を詳細に検討している。ちなみに,この2冊はどちらも法政大学出版局から邦訳が出ており,前者は読んだことがある。でも,正直なところではカステルの本はガッツリと私の関心を引くものではないことは書いておいたほうがいいかもしれない。やっぱりそれは,私が狭義の政治ってものに弱いところからくるのだろう。カステルの議論を詳細に検討しているのだが,その詳細さが私にとっては関心を引かず,読んでもなかなか頭に入ってこない。
また,都市社会運動の事例も,カステルが『都市とグラスルーツ』で都市社会運動の原型としているという1960年代のマドリッドの市民運動をはじめ,ヨーロッパを中心にさまざまなものが示されるが,事例自体に馴染みが湧かないだけでなく,都市社会運動が都市自体になにをもたらすのかということについてもさほど興味深い論点を得ることはできなかった。

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万博幻想

吉見俊哉 2005. 『万博幻想――戦後政治の呪縛』筑摩書房,302p.,860円.

吉見俊哉は東京大学の社会学教授だ。都市研究,メディア研究,カルチュラル・スタディーズという分野で数々の素晴らしい功績を残している人物だが,彼の素晴らしい著作として,中公新書の『博覧会の政治学――まなざしの近代』(1992年)がある。新書という一般の読者もかなり意識した出版物のなかであれほどのレベルの文章が書ける人はなかなかいない。この本は基本的にヨーロッパやアメリカにおいて19世紀末から行なわれてきた万国博覧会と,明治以降に日本でも開催された勧業博覧会をたどりながら,一番新しいところでは1970年に日本で始めて開催された万博である大阪万博までを取り上げ,博覧会というものがいかに近代国家と近代都市のありかたを規定してきたかを非常に批判的に論じている。
しかし,こうした一般書を書くと,世間的には彼は「博覧会の専門家」ということになる。一方で研究者としては,一つのテーマで一冊の本を書くということは,そのテーマを一段落することも意味する。本書『万博幻想』で著者が書いているように,吉見氏にとっては博覧会のことは『博覧会の政治学』で終わりにしたのだ。しかし,その後,愛知万博が決定した後,その予定会場を開発から守るために万博反対運動をしていた人から講演を依頼されたという。そして,また一方では愛知万博の検討委員会の委員として依頼を受けたという。結局,吉見氏は反対運動の人々とかかわりながらも,一方で自由な意見を出せるという条件の下で,検討委員会にも参加する。
つまり,吉見は歴史研究という形で,すでに遠い過去に過ぎ去ってしまった「博覧会」の役割を明らかにしてその研究テーマは終わらせたわけだが,今度は社会学者として現実に進行している万博に直接関わることによって,その問題を明らかにしていくことを自分の研究使命と課したのだ。しかし,本書『万博幻想』はその使命を果たすものではなく,あくまでもその前段階だ。前著で最後に取り上げた大阪万博から話を始め,その後日本で開催された数ある博覧会のなかから,主要な四つ,つまり大阪万博,沖縄海洋博,つくば科学博,そして最後が愛知万博を論じる。その方法論は基本的にメディア研究だ。各万博に関する新聞報道(中央紙と地方紙)および,各万博での公式報告書と反対派などによる団体の報告書など。大学に職を得てからさまざまなメディア研究,カルチュラル・スタディーズの紹介を行なってきた著者が1992年に『博覧会の政治学』に出版するためにその研究に取り組んだ時には,既につくば科学博も終了している。つまり,大阪万博は1970年,沖縄海洋博は沖縄本土復直後の1975年,つくば科学博は筑波学園都市の開発の後の1985年。つまり,彼が身をもって体験したのは直接関与した2005年開催の愛・地球博だけである。しかし,アプローチの仕方は前著とはかなり異なっていることは確かだ。前著では,国民国家の成立と資本主義の成熟とに博覧会は寄与する一大国家イヴェントとして,ある種の国家のイデオロギー装置としてとらえるものであったが,本書ではそのイヴェントが,開催までの過程でそのプロジェクトが紆余曲折した過程を描いている。国家の政治的な思惑と地方自治体の思惑,協賛企業の経済的な思惑,そして,愛知万博へと徐々に高まっていく市民たちの希望。特に,最後の下からの勢力は重要で,押し付けがましい開発主義的な万博計画に市民たちが反対運動を起こすところから始まって,徐々に万博のあり方自体に市民が参加していくという,社会全般の傾向を見事に捉えていると思う。
そして,本書のあとには著者も書いているように,その過程に参加した知識人である吉見氏自身の経験を中心とした「厚い記述」によって明らかにされる「ミクロな政治学」が刊行され,「博覧会三部作」が完成するのだろうか。ただ,不満がないこともない。基本的には本書の物語は新聞で報道されたことを事実として進行する。上述したように,彼自身がつくば科学博までは研究対象として同時代的に関わっていないために,それについて知ることのできる資料は活字となっているものしかない。もちろん,当時の当事者に面接してインタビューすることはできるが,本書はあくまでも新書だし,4つもの万博を扱っているために,そこまでやるのはどうかとも思う。しかし,新聞に書かれていることをメディア研究者として意識的に検討しているのは数箇所で,ほとんどが事実そのものとして提示されるのはどうかと思う。まあ,実際にこの作業をしていると,その辺の線引きは非常に難しいところなんですけどね。それにしても,あの膨大な新聞記事はどうやって集めたのだろうか。最近のネットによる新聞記事検索が優れているのか,あるいは自分の研究室の学生によるものなのか。ともかく私のような立場では難しい研究だ。

それにしても,この文脈で,東京オリンピックの誘致問題はどうなるのであろうか。本書を読む限り,愛知では市民の運動がかなり活発になっていることを知ったが,東京では皆無関心で,私の周りに積極的に賛成する人はほとんどいなく,多くの人は消極的な反対だ。しかし,なし崩し的に誘致運動は行政主導で進められ,既にポスターやCMなどで巨額の都民税が使われているのではないか。私は『博覧会の政治学』を書き終えたときの吉見氏と同様に,もうオリンピックという祭典自体が時代遅れはなはだしいと思っているが,なんのためのオリンピックなのか,21世紀に東京で開催することの意味は何かと都民の間でよく考えて決定するようなことになって欲しいと強く願う。もちろん,選考で他の都市に負けることが一番手っ取り早いのだが。

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黒猫・アッシャー家の崩壊

エドガー・アラン・ポー著,巽 孝之訳 2009. 『黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集Ⅰゴシック編』新潮社,207p.,362円.

新潮文庫が「海外名作新訳コレクション」と題し,さまざまな作品がを新訳で発売している。ちょうどエドガー・アラン・ポーは生誕200周年にあたり,アメリカ文学研究者の巽氏が,ポーの短編を,「ゴシック編」と「ミステリー編」に分けて翻訳している。「モルグ街の殺人」を読みたいところだが,私がスデニ持っている,ボルヘス編『盗まれた手紙』に収録された作品ばかりだったので,とりあえず「ウィリアム・ウィルソン」が収録された「ゴシック編」を購入した。収録されているのは以下の通り。

黒猫(1843年)
赤き死の仮面(1842年)
ライジーア(1838年)
落とし穴と振り子(1842年)
ウィリアム・ウィルソン(1839年)
アッシャー家の崩壊(1839年)

私が「ウィリアム・ウィルソン」を読みたかったのは,現在研究中のポール・オースター『ガラスの街』の主人公,ダニエル・クィンのペンネームがウィリアム・ウィルソンというからだ。米国のユダヤ人作家であるオースターはポーから多大な影響を受けている。ポーのデュパンシリーズの舞台はフランスだし,「群集の人」の舞台はロンドン。米国作家であるポーが注目されたのはフランスのボードレールが翻訳・紹介してからであるように,ポーはフランスと関係が深いし,ポーの作品自体,非常にヨーロッパ的雰囲気を持っている。そして,オースターもフランスに行っていたこともあり,彼の作品にはポー的,ボードレール的雰囲気はプンプンだ。実際,『ガラスの街』でスティルマンという老人がニューヨークの街を徘徊する場面は「群集の人」を思い起こさせ,一見,探偵小説の設定を有するところは,探偵小説の祖であるポーへのオマージュといえる。実際に作品中にはポーの名前も登場し,「盗まれた手紙」からの直接的な引用もある。そして,このウィリアム・ウィルソンという名前はポーの分身物語「ウィリアム・ウィルソン」が明らかに意識されている。
残念ながら,巽さんの文章を読んだことはないけど,読みたい本を書いている人なので,かなり期待したが,やはりポー自身の物語展開が非常に奇抜で一読しただけではよく分からないというのが正直なところ。まあ,「盗まれた手紙」も「群集の人」も一読ですっと頭のなかに入ってくる類の短編ではない。まあ,だからこそ面白いのかもしれないが。しかし,そのことは同時に,ポーの恐るべき想像力に感服するしかない。まさに,ゴシックの名に相応しい,おどろおどろしい世界がそこに拡がっています。小学生の時,学校の図書館で借りて一時期はまってしまった江戸川乱歩シリーズのように。いま考えると,江戸川乱歩という作家も相当のものだと思う。ポーの2つの特徴である,探偵ものとゴシック性とを1つの作品に併せ持ったものを日本で作り上げたのだから。といっても,幼い頃の読書経験が記憶で幻想化しているのかも。乱歩の作品も小学生用に書き換えられたものではなく,ちゃんと読んでみたくなった。

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ニューヨーク革命計画

アラン・ロブ=グリエ著,平岡篤頼訳 1972. 『ニューヨーク革命計画』新潮社,211p.,980円.

ロブ=グリエの作品は正直難しい。しかし,性懲りもなく,古書店で彼の作品を見つけると,それほど高価でなければ購入してしまう。『覗く人』『嫉妬』『消しゴム』についで,読むのは4冊目。もう一冊,手元には『快楽の館』が控えている。
本作『ニューヨーク革命計画』は他の作品よりもタイトルも具体的なので,より理解しやすいものを期待したが,そんな凡人の期待は裏切られるに決まっている。そういう作家だ。ニューヨークという都市の特性はほとんど登場しないし,なにが革命かも全く分からない。というか,そもそも人物は限られているが,筋や設定などを追うことは不可能である。それでいて,数ページを読む限りでは,普通の小説と変わらない文体。ともかく断片が緩やかにバラバラになっている感じ。ミラン・クンデラのように明白に書き方を変えたものの組み合わせになっているのではなく,そもそも章や節などの区分はなく,文章はつながっているのに,話をつなげていくことはできない。しかし,最後の方はなにやら女性を性的な暴力でいたぶりながら処刑するという,展開が革命と結びつくらしいということが分かってくる。これまでの作品では,性的なものや暴力というものからはあまり縁のない作家だと勝手に思っていたので,かなりショック。『快楽の館』というのもそういう類の展開だろうか。
ともかく一筋縄ではいかない作家だ。

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隠喩論

久米 博 1992. 『隠喩論――思索と詩作のあいだ』思潮社,206p.,2400円.

著者はもちろんキャスターの久米 宏ではない。フランスの哲学者,ポール・リクールの一連の著作の役者で知られる人物。リクールの本は2冊くらいしか読んだことがないが,私の中ではかなり得意なフランスの哲学者といえる。フランスの現代哲学者といえば,世界的な流行の追随者というより牽引者であり,各自がかなり独自な路線を突っ走る印象がある。特に,フランス人が英語の文献を包括的に参照することは少ないのだが,リクールは違う。まさに博学者の名に相応しい,総括的な哲学者。現代におけるアリストテレスかホワイトヘッドか,ってのは言いすぎですが,もちろんドイツ語などの他のヨーロッパ言語はもちろんのこと,米国における動向にも常に気を配り,哲学以外にも人類学や歴史学にも精通している。
その訳者である久米氏は訳者としては一流だが,著者としての存在はあまり目立たない。しかし,そんなリクールの訳者である限り,リクールのみを読んでいたのでは大した訳はできないはずだ。リクールの読む文献を追随して読む。もちろん,それらに日本語訳が出る前に,というかやはりフランス語で引用されるわけだからそれに近い状態で彼も読むわけだ。必然的にリクールの思考に近づくであろうし,それと同時にリクールと同一思考を持つはずもない。ということで,久米氏自身がリクールと同様の文献を読むなかで,リクールとは違った思考,考察,結論に至ってもいたって驚くべきことではない。
私も自身の隠喩論で検討したリクールの『生きた隠喩』ももちろん彼の訳なのだが,著者自身もその著作を訳したことも,本書を書くきっかけになったようだ。本書は著者が『現代詩手帖』に掲載した10編の文章に,書き下ろしの1章を加えて構成されたものである。一般的に隠喩は,4つの主要な比喩表現(隠喩,換喩,提喩,反語)の一つと見做されるが,私の隠喩論を含む論文でも主張したように,隠喩はそれを越えた存在であると著者も指摘している。がゆえに,本書は隠喩論であると同時に,言語一般論でもある。といっても,一般的な言語学におけるそれではなく,あくまでも哲学・思想における言語論的転回におけるそれである。よって,ソシュールやヴィトゲンシュタインといった教科書的な話から,構造主義や脱構築などを経由しながら,レヴィナスの哲学,そしてかなりの紙幅を割いているのがハイデガーの哲学だ。もちろん,随所でデリダとリクールも登場しながら,最終的に隠喩の議論に収束していくという展開。けっして大著とはいえないが,なかなかコンパクトで刺激的な書である。

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場所の運命

エドワード・ケーシー著,江川隆男・堂囿俊彦・大﨑晴美・宮川弘美・井原健一郎訳 2008. 『場所の運命――哲学における隠された歴史』新曜社,619p.,7245円.

原著が出版されたのは1996年だが,紀伊国屋書店でもその年に店頭に並んでいたと思う。場所の研究をしていた私は「fate of place」と名づけられた本書を無視するわけにもいかずとりあえず,ハードカバーのものを8550円で購入した。購入して満足しているわけにもいかず,結局1998年度に提出した英文の博士論文では本書は引用していないが,博士論文の作成と並行して読んでいたと思う。本にメモしたものによると,1997年6月8日に読み始め,1998年の4月8日に読み終えている。なんと,10ヶ月だ。原著も488ページに及ぶ大著であり,それだけ重いし,当時は辞書なしに英文は読めなかったので,自宅にいる時間だけ遅々として読んでいた。そしてもちろんそんな長い時間をかけて読んだものをしっかり覚えているはずもないが,読みながら下線を引いた箇所だけを見直すことによって,かろうじて『地理学評論』に書評を掲載したのが1999年の3月。とりあえず,本書を日本の地理学に紹介するには私しかいないと義務的に載せたが,中身はお粗末なものだった。
それから10年ほど経って,本書の日本語訳が書店に並んだ時にはかなり驚いた。それと同時に,それを不満足ながら書評として残した自分を誇りに思った。といいながらも,本書は場所について考え続けている私には教科書や索引にもなるべき包括的な本であり,いつもその存在は頭にあった。書評を書いた後に,プラトンの『ティマイオス』やアリストテレスの『自然学』を読み,デリダやクリステヴァ,イリガライのコーラ論やトポス論などを読み進めてきた。そんななかで本書を原文で一通り読み直すのは酷な作業だが,日本語になっていればこれ以上ありがたいことはない。ということで,再び本書に描かれた場所概念の西洋史を時代とともにたどってきたわけだが,これまた長い旅だった。もちろん,日本語訳は2段組で本文450ページ,注だけでも163ページあるのだ。いつから読み始めたかは明確に記憶・記録していないが,どうやら引越しの後であることは確かなようだ。それでも,恐らく3ヶ月弱はかかったのではないだろうか。でも,それだけの価値のある本である。
目次と前半部については書評で書いたので,そちらを参照してもらいたい。本書を改めて読んで,やはり基本的な哲学書を読む必要性を痛感する。なんといっても,まずはカント。まあ,カントの『純粋理性批判』における空間は本書を読まずともよく知られたところだが,意外なところがジョン・ロック『人間知性論』。20世紀に入っても,メルロ=ポンティの身体論を空間論として読むのは必要だとしても,ホワイトヘッドの『過程と実在』や『科学と近代世界』は必読なようだ。本書で意外に面白いのがハイデガーに対して大幅に割かれた部分。他の著書の作品はけっこう淡々と解説,解釈されるのだが,ハイデガーに関してはけっこう感情的に,そして批判的な書き方が面白い。著者の哲学研究の出発点がハイデガーにあるのだろうか。より最近なところでは,先ほどもデリダ,クリステヴァ,イリガライと名前を挙げたが,やはりドゥルーズ・ガタリの『千のプラトー』などは避けられないらしい。本書以上に分厚いあの作品に手を出すのは怖いから,とりあえず買ってある『リゾーム』でも読んでみるか。そして,本書におけるイリガライへの強調もなかなか興味深い。
著者は本書の前に『Getting back into place』(1993)を書き,本書以降にも,『Representing place』(2002),『Earth-mapping』(2005),『The world at a glance』(2007)と,私が論文を書くペースよりもはやく著書を発表しているという。もうすっかり,ひと段落してしまった地理学における場所研究と景観研究はすっかり一人の哲学者に包括的に総括されそうだが,そして同時に私という一人の日本の地理学者がケーシーの後付的研究をしなければならないと思う。
結局,今回の紹介文もまったくその中身については説明しなかった。でも,本書はやっぱり苦労して読むべきであって,読まない人に表面的な理解を提供するものではないと思う。本書のストーリーは比較的分かりやすいものであるが,それを読者の誰かが要約しても,本書の魅力を伝えることにはならない。本書を書き上げた著者の努力と,また12年経って翻訳した訳者たちの苦労を,せいぜいこの600ページを読むという苦労なしに経験するというのは意味のない行為だと思う。ただし,訳語についても素朴な疑問を2つ。1つ目はmodernをなぜか「近世」と訳すセンス。そして,regionを「地域」ではなく,見慣れない「方域」と訳しているのは,哲学の慣習であろうか。

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汝の症候を楽しめ

スラヴォイ・ジジェク著,鈴木 晶訳 2001. 『汝の症候を楽しめ――ハリウッド vs ラカン』筑摩書房,327p.,3200円.

ジジェクの本はそれなりに読んでいる。原著の発表順に並べると,
1988年:『ヒッチコックによるラカン』(トレヴィル,1994年)
1989年:『イデオロギーの崇高な対象』(河出書房新社,2000年)
1991年:『斜めから見る』(青土社,1995年)
1991年:『為すところを知らざればなり』(みすず書房,1996年)
1992年:『汝の症候を楽しめ』(筑摩書房,2001年)

1994年:『快楽の転移』(青土社,1996年)
1996年:『仮想化しきれない残余』(青土社,1997年)

なぜ,空行を入れたかというと,ジジェクの本で私が面白いと思うのは,本書が発表されたところまでだと思っているからだ。私がジジェクを知ったのは確か,大澤真幸氏による紹介だったと思う。それが1995年くらいで,翻訳の出ていた『ヒッチコックによるラカン』を読んだものの,当時ヒッチコック作品をあまり観ていなかったためにちょっとピンとこなかったが,『斜めから見る』がかなり衝撃的だった。まさに私が求めている研究の理想的な姿がそこにはあった。誰にも親しい文化的作品を使って,そこに哲学的含意を読み取り,自らの生の問題とすること。
その衝撃に期待を膨らませて次々と翻訳が出版された『快楽の転移』と『仮想化しきれない残余』を読んでみて「?」。当時はヘーゲルやシェリングといわれてもピンとこなかったし,そこから引き出される哲学的含意ってのも,身をもって理解するには程遠いものであった。しかし,『イデオロギーの崇高な対象』,『為すところを知らざればなり』,および『汝の症候を楽しめ』は時間が経過しても,多くの人が言及するものだったので,この3冊は読むと決めていた。
『ヒッチコックによるラカン』と『斜めから見る』は具体的な作品の分析が魅力だが,『イデオロギー』と『為すところ』はそうではない。非常に抽象的な議論が続くが,これがまた面白い。この2冊は私自身の研究でも利用させていただきました。

さて,当の『汝の症候を楽しめ』ですが,これは副題からも分かるように,またハリウッド映画を中心に文化的作品を取り上げながら論を進めるものです。こう時系列に彼の作品をみてみると,1988年から1992年まで,彼の場合には理論と実証という区別はかなり強引ではありますが,理論へんと実証編とを交互に発表していますね。そして,私が面白いと思う初期ジジェクの最後の作品。やっぱり中ほどに若干中期の作品に共通する雰囲気を持っている。というのも,本書の本当の副題は「ハリウッドとその外部におけるジャック・ラカン」というもので,映画とは無縁な箇所も結構多いのだ。しかし,前半と最後の方は結構楽しめます。ちなみに,本書でもけっこうデリダ批判が多く見られました。そもそも,彼は「脱構築」が嫌いなようです。でも,私くらいの理解力によるとデリダとジジェクの固有名論や言語行為論はあまり分かりません。1997年の私自身の英語論文でも,2人の議論を併記して論じているくらいですから。ちなみに,第1章はラカンの「『盗まれた手紙』についてのセミネール」についての解説でもあるので,最近の一連の私の関心のなかでも参考になりました。

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『ニルス』に学ぶ地理教育

村山朝子 2005. 『『ニルス』に学ぶ地理教育――環境社会スウェーデンの原点』ナカニシヤ出版,166p.,1700円.

先日紹介した,関戸明子『近代ツーリズムと温泉』と同じ,「叢書地球発見」の1冊。著者は現在茨城大学の助教授をされているが,地理教育の専門家で,1995年に『人文地理』に論文を書きながらも中学校で地理教育の実践を行なってきた人物。ちなみに,その1995年の論文はスウェーデンの地理教育に関するもので,かつてからスウェーデンに関心を持ち,実際にスウェーデンを訪れ,また当然だがスウェーデン語も読む。
ニルスとは私もちゃんと知っているわけではないが,日本でもNHKで放映されていたアニメ『ニルスのふしぎな旅』を通して知られる,小さくされてしまったニルス少年がガチョウの背に乗って,スウェーデン中を旅するというお話。本書は,その『ニルス・ホルゲンソンのふしぎなスウェーデン旅行』は1906年に小学校高学年の地理の教材として書かれたものであるという。しかも,作者のセルマ・ラーゲルレーヴという女性作家はノーベル文学賞も受賞しており,スウェーデンの紙幣にも肖像画が描かれるという国民的作家。しかも,学校の教師をしていたという。そして,この『ニルス』は55章からなる2巻本であり,日本でも多くのヴァージョンがある翻訳の多くは抄訳だという。しかも,その多くは地理の教材としてではなく,冒険物語だけを強調した児童文学になっているとのこと。もちろん,それは日本に限られたことではなく,スウェーデンの具体的な地理的記述の部分は大幅に省かれるのは当然のことである。
著者はそんな有名な作品の真の姿を,地理学者として明らかにしたいということと同時に,その地理的記述を解釈するのを目的としている。さらには,20世紀初頭のスウェーデンにおける,新たな試みとしてのこの作品の製作という地理教育的実践から,21世紀の日本における地理教育のあり方を探ろうというのも,重要な目的である。『近代ツーリズムと温泉』の時にも書いたが,B6サイズのペーパーバックである本書は持ち運びにも便利で,ページ数も限られとても読みやすい。それでいて,内容はとても充実していて構成もしっかりしている。大抵,日本の地理学者がこうした作品を扱うとテーマが限定されるのと,その分析の稚拙さに大した研究にはならないが,本書はその地理学的関心を中心に据えながらも,それに限定されることなく,考察が及んでいて,本当に素晴らしい本だと思う。そして,本書は2007年度に人文地理学会の一般図書部門で賞を受けている。
もちろん,自称メディア研究者であり,批判的立場に立つ私からは不満点もなくはないが,ともかくこうした研究が書籍として出版され,それが一定の評価を得ているという事実は手放しで喜ぶべきことだ。しかも,著者はさらにニルス研究を進めているという。次はどんな形でそれを発表するのか,恐らく難しいところだと思うが,大いに期待したい。

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皇紀・万博・オリンピック

古川隆久 1999. 『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』中央公論社,247p.,700円.

中央新書の一冊。本書が発行されたのは私が大学院の博士課程を修了しようとしている頃。ちょうどその頃大学院修士課程に他大学から入学してきた女性がいて,終わったばかりの長野オリンピックを題材に研究をしたいといっていた。彼女の卒業論文は私の論文を参照していたことから,私もそれなりに相談に乗っていたのだが,そんなことでオリンピックの政治性みたいなテーマはちょっと頭の片隅にあった。実際に本書を購入したのは古書店のようだが(巻末に鉛筆で350と値段が書いてある),購入の動機にはそんなことがあったと思う。でも,最終的には彼女の修士論文のテーマは別のものになって,私の関心とは離れたものになってしまったのだが。
さて,本書はタイトルから分かるように,オリンピックといっても,日本のある時期に限定されている。端的にいえば,1940年に計画され,戦争のために幻と消えた東京オリンピックと万国博覧会だ。今日では万国博覧会は,2016年のオリンピック招致合戦のように盛り上がりはしないものだが,20世紀前半は同じような盛り上がりをみせ,万博もオリンピックも同時開催など双方が認めるようなものではなかったが,時代が時代で万博はともかく,オリンピックは開催決定までこじつけたとのこと。もちろん,このことは日本が日中戦争から太平洋戦争へといたる,自信に満ちた拡張政策と無縁ではない。その戦争では天皇が神格化され,思想的な支柱になったのは周知のことだが,本書はそれを「皇室ブランド」と名づける。しかし,一部の研究がそれに大きな影響力を与えるのに対し,本書はそれはあくまでも名目的なものにすぎないという。つまり,万博にしてもオリンピックにしても,運営側も国民も,望んでいるのはそうした天皇を頂点とした国民統合などではなく,それがもたらす経済波及効果だと断言する。戦争ですらも,戦勝によって敗戦国からもたらされる賠償金などを目当てとした金儲けの手段だったという視点はなかなか面白い。そのせいか,タイトルに上げる割には天皇の話が少ないのはちょっと物足りない。
あまり期待しないで読み始めたが,なかなか面白い本。さすがに私には細かい記述が退屈で,いい加減に読んでいると重要な前後関係が分からなくなったりして困りますが,中公新書ものとしてはかなりレベル高いです。しかし,やはり近代日本ものはけっこう論調が似てきてしまうのは避けられないんですかね。

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Nature

Noel Catree 2005. Nature. Routledge: New York, 281p.

以前,『landscape』という本を紹介したが,それと同じRoutledgeの「Key Ideas in Geography」というシリーズのなかの一冊。Castreeは私が『地理学評論』に2001に掲載した論文で引用したが,もう10年以上,人文地理学者として「自然」を研究テーマとしている。つまり,「自然」という概念は単に人間以外の万物であるとか,人間の手が加わっていないものとして理解されることが多いが,そう理解しようとすること自体がいかに人間中心的なものかが分かるというものだ。つまり,Castreeは自然と人間の関係について考えてきたはずの地理学者も含めた多くの人が自然を語るとき,そこには必然的に忍び込むイデオロギーが存在する,といいたいのだろう。と私は理解している。つまり,エコロジーなどといって,自然を大切にし,人間のこれまでやってきた行いを悔い改めようという前に,自身がそこでいっている「自然」という概念がどういうものなのかを考え直すべきだということだ。
まあ,そんな思想の下だが,本書はちょっと変わった志向で書かれている。まずは目次をみてみよう。

まえがき
 議論
 読者
 この本の使用法
 構成
1 奇妙な自然
 自然のお話
  血の結びつき
  ブリテン島の熱帯
  性,暴力,そして生物学
  バイオテクノロジーの「新」と「旧」の自然
  魚は権利を持つか?
  危機,なんの危機?
  より少ない遺伝子しか持たないのはあなたにとって良いことである
 自然の知識
 自然と地理学
 道は作られていない
 自然は死んだ!自然は生き延びた!
 要約
 練習
 さらなる文献
2 地理学の「自然・性質」
 はじめに
 始まり
  ハルフォード・マッキンダー(1861-1947)
  ウィリアム・モリス・デイヴィス(1850-1934)
  アンドリュー・ジョン・ハーバートソン(1865-1915)
  進化論の衝撃
  反省
 20世紀初頭の発展
  「「中間地帯」を占有すべきか,空けておくべきか?それが問題だ。」
  地理学における自然と地理学の自然
 戦後の騒動
  2つの地理学?
  震源
  自然の諸知識
 存在論的分割と人文地理学の脱自然化
  自然から解放された人文地理学?
  環境を強調しない:不自然災害と第三世界の政治生態学
  自然地理学:純粋で応用的な自然の知識
 抑圧された状態に戻るのか?
  1980年代の人文地理学:自然のさらなる消去
  1990年代を通しての人文地理学:自然の再発見
  そして,1990年代を通した残りの地理学?
 要約:地理学の自然
 練習
 さらなる文献
3 脱自然化:自然を「呼び戻す」
 はじめに
 先例
  自然のイデオロギー
  不自然災害:物理的環境を強調しない
 自然の表象
  真実,虚偽,そして自然
  ヘゲモニーと自然の概念
  言説,自然,そして現実の効果
   自然の諸文化
   自然の言説を脱構築する
   言説,規律訓練,自然そしてフーコー
   ハイパーリアリティと仮想自然
 自然の再生
  非人間の物質性
  自然の生産
 なぜ自然は社会的構築物だと論じるのか?
 要約
 練習
 さらなる文献
4 2つの自然?地理学の分裂/統合
 はじめに
 環境現実主義:アジェンダと正当化
 科学的知識の社会的構築
 現実主義的環境知識の生産
  自然地理学における科学的方法
  科学的方法の問題と原則
 生物物理的現実の理解:いくつかの重要な論争
  存在論的問題
  認識論的問題
 分割された学問分野
 練習
 さらなる文献
5 自然のその後
 はじめに
 自然的でもなく,社会的でもない
 相関的に考える
  非表象理論/行為遂行性
  アクターネットワーク理論
  新しい弁証法
  新しい生態学
 自然の後の道徳
 ポスト自然の考え方の動機は何か?
 結語
 練習
 さらなる文献
6 結論:地理学の自然
 さらなる文献

内容を細かく説明するのは面倒だし,詳細まで覚えてないので,詳細目次を記した。このシリーズの本を読んだのはまだ2冊目だが,なかなか盛りだくさんの内容であり,だからといって一つ一つの議論が蔑ろにされているわけでもない。本書の面白いことは,ある種の地理学の教科書として使える内容を持っていること。しかも,自然というテーマに限定しての教科書ではなく,自然地理学・人文地理学を包括した地理学一般論の教科書として使えるし,著者もそのことを意図している。しかし,もちろん単に地理学的方法や知識を身につけようという目的の学生・読者に向けられるようなものではなく,その根本を問い直すように序文で注意書きしている。
つまり,本書は社会一般における「自然」の扱いだけではなく,これまでの地理学者が自然をどう扱ってきたか,どう考えてきたか,どう理解してきたかを考察する。いわばメタ地理学的な研究といえようか。私の関心はせいぜい3章の内容で留まっているが,本書はその先の先にまで話が及ぶ。上の目次でも「社会的構築」という言葉が何度か出てくるが,この思想さえ,本書では寄って立つべきものではなく,多くの考え方の一つに過ぎず,それに対する批判も用意してある。最近森 正人氏の論文「言葉と物」でも紹介されていたスリフトの「非表象理論」とかアクターネットワーク理論とか,どうも英語圏地理学にはまだ「流行」という概念があるらしい。まあ,だからといって,著者は新しいことがいいことだというような論調でもなく,とにかく手持ちの札は全部見せて,判断は読者に任せているようなところがあるのは,やはり本書が教科書的な性質を持っているからだろう。
やっぱりこのシリーズはなかなか面白い。少し版が小さくて持ち運びも便利だし,文章も嫌になるほどは長くない。他のも少しずつ集めることにするか。

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リアリティ・クライシス

神尾美津雄 2008. 『リアリティ・クライシス』英宝社,203p.,2400円.

引っ越して電車通勤になってから,本を読み終わるのが早くなった。
ポール・オースター関係の文献を探している時,この人の論文があった。ニューヨーク三部作に関する文章だったが,掲載されたのが,著者が在籍する大学の紀要,『名古屋大学文学部研究論集』だった。でも,その後その紀要に書かれた4編の論文をまとめて1冊の著書として出版していることを知り,Amazonで購入することにした。というのも,私のように大学に在籍していないと,この手の論文はコピーが容易ではないからだ。
本書のタイトルは,ヴァージニア・ウルフに関する論文のタイトルにつけられたもの。オースター論文は「リアリティ消失」と名づけられていた。ともかく,本書で著者は20世紀になって英米文学上で,これまでのいわゆる近代小説が構築してきたような現実性が崩壊しようとしている一般的事態を4人の作家の作品から確認しようと試みる。4人の作家とは,ウィリアム・ゴールディング,ジョゼフ・コンラッド,ヴァージニア・ウルフ,そしてポール・オースターだ。残念ながら私はコンラッドについてはサイードの影響で『闇の奥』を一読しただけ。ウルフについては『燈台へ』を読んだにすぎない。どちらの作品も本書のなかでチラッと登場するが,コンラッドについては『シークレット・エージェント』が,ウルフについては『ダロウェイ夫人』が中心に論じられている。『ダロウェイ夫人』は映画を観たことがあるが,まあ,ウルフのことだから映像化には相当脚色が必要に違いない。ちなみに,私がウルフを知ったのは学術的な関心よりも先に映画からである。『オーランド』という作品が『オルランド』というタイトルで映画化され,できたばかりの渋谷文化村ル・シネマで公開されていたと記憶している。そのころは妙にヨーロッパ的な雰囲気への憧れがあり,文化村には映画くらいしか用事はなかったのだが,たまにその雰囲気に浸りにいったものだ。ちなみに,ウルフの自伝的作品でもあるらしい『オルランド』に主演していたティルダ・スウィントンは素晴らしい存在感だった。
まあ,ともかく何がいいたいかというと,本書は原作を読んでいないととても読みにくい本だということ。文学研究というのはとても難しいと思う。ある作品について批評する場合,その作品を熟知している同じ作品の研究者を読者として想定するか,有名な作品なので粗筋は多くの人が知っているということを想定して書く場合,あるいは全くその作品を知らないことを前提にして書く場合だ。その3つのどれかによって書き方と分量は全く変わってきてしまう。本書が扱うのは(恥ずかしいことにゴールディングという作家の名前を私は知らないが),英米文学研究者ならばその作品には馴染みのあるような有名な作家ばかりであり,もともと大学の紀要に書かれたこともあり,当該作品を読んだことのない読者を想定していないかもしれないが,やはり一般図書にするにはちょっと不親切な論の進め方なのかもしれない。『ダロウェイ夫人』をモチーフにしたという『めぐりあう時間たち』も観ていたので,ウルフに関する章はそれなりに理解しやすかったけど。
でも,目的だったオースターの章はそれなりに面白かった。本書が単なる人間主体のアイデンティティ・クライシスをテーマとするのではなく,その主体がアイデンティティとの関わりで捉えるべきリアリティの方を問題としているように,オースター作品についても,ルフェーヴル『空間の生産』やハーヴェイ『ポストモダニティの条件』を引くことで,都市空間についても考察に含んでいる。他にも私の知らなかったオースター作品に英文の論集を知ることができたし。本当はやっぱり大学紀要に掲載された論文だけコピーしたほうが安上がりだったが,まあ,著者に印税が入ることだし,よしとしよう。
ところで,本書には少し気になることがある。まあ,英米文学研究者だから原著で研究するのは当然だけど,日本語訳で定訳となっているような人名や単語まで自分なりの表記や訳語で通しているのはどうなのかと思う。こだわらなければならない場合についてはそうすべきだが,そうでなければ既存の翻訳にも敬意を払うべきだと思う。まあ,それは細かいことだが,既存の研究の引用の仕方も含め,ちょっと著者独自のやり方に始めないせいか,素直に頭に入ってこないというのが全般的な印象。まあ,変な批判をしてしまったが,それらが自分自身にも跳ね返ってこないことを気をつけないといけない。

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西欧中世の自然経済と貨幣経済

マルク・ブロック著,森本芳樹訳 1982. 『西欧中世の自然経済と貨幣経済』創文社,143p.,1800円.

創文社の歴史学叢書は4冊目。
ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀』(1968年)
リュシアン・フェーブル『歴史のための闘い』(1977年)
リュシアン・フェーブル『フランス・ルネサンスの文明』(1981年)
その装丁の,簡素だがセンスがいいところと,程よく薄くて読みやすいところが気に入っている。でも,歴史なんてものはそのいわば「厚い記述」が重要であって,この叢書からしっかり学んだことは多くない。
さて,マルク・ブロックはご存知の通り,フェーブルとともにフランスの新しい歴史学,アナール学派の立役者である。まだ読んでいないが,『封建社会』を記した彼による中世論だったら安心できると思い,古書店で見つけて購入した。本書には2編の論文が訳出されている。1つが「自然経済か,貨幣経済か。二者択一図式の陥穽」であり,2つめが「中世における金の問題」である。
私は大学の講義でヨーロッパの歴史的な話をしているが,中世という時代には全く疎い。古代に関してはプラトン全集やアリストテレス全集が面白くて,その話をするだけで十分だし,ルネサンス以降はいくらでも面白い歴史書がある。しかし,中世という時代はいわゆる封建時代として安定したキリスト教的世界と教わっているために魅力的にも思えないし,どの辺から本を読めば良いのか分からない。まあ,本当ならばブロックの『封建社会』から読むべきだが,なかなか古書でも安価で売っていない2冊本を手に入れるのを躊躇してしまう。
また,一方で貨幣制度の問題については中世といわず,全く知識のない状況だ。偉そうに資本主義の起源みたいなことをさらっと話しているのに,そこに至るまでの歴史的経緯を何もわかっていないのが実情だ。ということで,中世の話でも,これだけ限定されれば頭に入ると思った。本書は2編の論文を訳出するだけでは薄すぎたせいか,丁寧に訳者による「西欧中世貨幣制度概観」という文章までつけてくれていて,とても役に立つ。でも,あとがきは少し冗長すぎるような気もする。ブロックの文章の読後に他の文章を読むとなんだかなあ,という気もする。しかも,ブロックがそれぞれ1939年と1933年に書いたこの2つの論文からこのテーマに関しては急速に研究が進み,考古学的な資料も数多く発見され,ブロックの主張の多くが覆されたというのだ。まあ,それはしょうがないが,読後にそんなこといわれてもねえ。
まあ,とにかくブロックがいうにはヨーロッパにおける経済制度は単線的な発展史観では捉えがたい複雑さがあった,ということらしい。ちなみに2つめの論文は「かね」ではなく,「きん」について。といっても,全くもっての金ではなく,貨幣に用いられる金について。現代では紙幣の方が硬貨よりも高価なものになっていますが,紙幣のない時代,特に貨幣経済が当たり前でない時代には硬貨そのものに希少金属が使用されて,それ自体が商品的価値を持っていたということ。要するに,金の含有量とか金ではなく銀とか,それが直接貨幣価値と結びついていたということ。また,金がどんどんヨーロッパでは産出できなくなり,貨幣に金が使われなくなるとか,ヨーロッパ近隣の貨幣を溶かして金を取り出すとか,まあそんなことをしていたらしい。などなど,面白い史実をしることができます。

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近代ツーリズムと温泉

関戸明子 2007. 『近代ツーリズムと温泉』ナカニシヤ出版,206p.,1900円.

ナカニシヤ出版とは,たまに地理学の本を出版している会社で,以前友達の地理学者に紹介されて若い女性の編集者と一緒に呑んだことがある。そんな出版社が,編者に千田 稔,山野正彦,金田章裕を企画委員に迎えて,叢書「地球発見」を出版している。1冊目の千田 稔『地球儀の社会史』を出版したのが2005年の12月。なのに私は全く知らず,先日の日本地理学会に出店していたブースでそれを知った。もうすでに12冊まで出ているそうだ。
本書はそんな叢書の7冊目。叢書名はどうかとは思うが,他にも魅力的な本が並ぶ。思わず2冊買ってきたが,本当はもう2冊ほど買いたかったほどだ。でも,そもそも私が本書を(そして叢書自体を)知らなかったのは,私が所属している学会の雑誌に書評がなかったからだ。そもそも,日本の地理学者は書評に積極的ではない。そのなかでも,既に故人だが,日本地理学会会長もつとめた竹内啓一氏は生涯にわたって数多くの書評を残している。そのうち100編が1冊の本『伝統と革新――私が読んだ99の地理学』(2003年,古今書院)になっているくらいだ。かくいう私も書評は好きでこれまで15編の書評を書いている。しかし,研究者人生15年にして15編だから,竹内さんには到底かなわない。
まあ,書評ってものは新刊を紹介したり,批評したりするべきなので,2007年8月刊の本書を書評するなんて遅きに失するにもほどがあるが,ちょっと書いてみようと思っている。そこで,そのナカニシヤ出版の編集者に本書の書評が出ているかどうか問い合わせたところ,『地理』という月刊誌と,『鉄道史学』に出ていることを教えてもらった。ちなみに,『日本経済新聞』にも紹介記事が出ているとのこと。『鉄道史学』の書評は今年の2月に出ているらしいから,まあ大丈夫かもしれない。
詳細はそちらで書くことにして,端的にいうと書名から私が期待したような内容ではなかった。といっても,簡単に私が批判できるようなものではない。関戸明子氏は私が尊敬する数少ない日本の地理学者だからだ。彼女は当初は社会地理学的な研究(民俗学にも近い)からはじめたが,最近はもっぱら近代期の歴史地理学を専門としている。そういう意味では私の関心と重なる部分は少ないのだが,そして読んだことのある彼女の論文も数本しかないが,彼女の継続的な研究には頭が下がる。大抵は大学院時代に論文を書き溜めて,大学に就職すると学術雑誌には書かなくなり,本数自体も少なくなるのが世の常だが,彼女の場合は堅実な研究を確実に世に送り出している,という印象が私にはある。単著こそ少なく,本書が2冊目だが,編著,そして寄稿した文章の数はどのくらいになるのだろうか。
でも,私にとってはその堅実さが最大の不満につながっているのだろう。確かに本書に整理された,近代期の温泉にまつわる言説の整理は非常に網羅的で私ごときが突っ込むような余地は全くない。しかし,少ない資料から多くを語りたがる私にしてみれば,もっと大胆な解釈をもっと盛り込んで欲しいと思うのは贅沢だろうか。その大胆さは本書の表題にのみ現れている。また,「まえがき」にもその一端は記述されているのだ。そう,温泉というのは日本人にとって近代以前から重要なものであり続けた。日本の近代化は非常に急速で,時代的に明瞭である。しかし,そもそもどの文化にも「旅」を持っているように,近代ツーリズムの浸透は世界中どこでもそう単純ではないはずだ。この「温泉」というテーマはその近代ツーリズムへの移行の複雑さを明らかにしてくれる重要なものだと私は期待したのだ。しかし,実際本書の内容は温泉好きが喜ぶような,日本全国の温泉についての平板な記述が羅列されている。後半では戦争に絡む話で面白くはなってくるが,この辺りのことは散々議論されているもので,それらを覆すような事実を提示しているわけではない。
そんな感じで,けっこう面白そうな書評が書けそうかな。

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トゥルー・ストーリーズ

ポール・オースター著,柴田元幸訳 2004. 『トゥルー・ストーリーズ』新潮社,341p.,590円.

またまたオースターものですみません。こちらもタイトル通り,小説ではなく,エッセイ集。各エッセイは既に書かれたものでありながら,役者の柴田氏がオースター自身の求めに応じて日本で独自に編集されたもの。どうやら,エッセイの類は,著者の意向にかかわらず,出版社によって勝手に編集・出版されたりするらしい。
本書には「赤いノートブック」という,彼の初期の作品であるニューヨーク三部作を髣髴とさせるエッセイもあるが,作品とのつながりはあまりなく,彼が出会った奇妙な偶然の事実が,作品の創作メモのように書き込まれている。実際に作品に利用された逸話も少なくない。オースターの口癖に「事実は小説より奇なり」というものがあるが,確かに彼の実人生はとても面白い。まあ,本書はそのことを実証するような,彼の自伝的なエッセイだ。特に,収められたなかでは180ページと最長の「その日暮らし――若き日の失敗の記録」は,小説家オースターが出来上がるまでの日々が綴られている。1947年生まれの彼が,1985年の初長編小説『ガラスの街』で世に名前を知らしめたのは38歳の時。ちょうど私と同い年だ。しかし,そこまでにいたる彼の波瀾万丈な人生は私とは比較にならない。自らが書いて生計を立てることを信じて疑わず,貧乏暮らしが長かったようです。でも,父親が死んでちょっとした遺産が手に入るってのは,私には到底真似できないので,まあ私は私の人生を歩むしかないのだが,ともかく書くことはもっとできるはずだ。

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空腹の技法

ポール・オースター著,柴田元幸・畔柳和代訳 2000.  『空腹の技法』新潮社,347p.,2200円.

1985年に『ガラスの街』で長編小説デビューした,アメリカの作家,オースターについていろんなことを知ることができる。本書は3部から成っている。一部はエッセイ集,二部は序文集。そして,三部はインタビュー集。私は作品を作家の自伝的情報抜きに読みたい方なので,本書は持っていなかったのだが,最近本格的に彼の作品について研究をしようと,いろいろ関連文献を探していたら,「空腹の芸術」(このエッセイが本書のタイトルになっているのだが訳者は,原語のartをこのエッセイには「芸術」を,本のタイトルには「技法」をあてている),「ニューヨーク・バベル」,「赤いノートブック」の3編を訳出した雑誌『新潮』(1995年12月)をコピーして読んでいたが,この3編は全て『The art of hunger』に収録されている。でも,「赤いノートブック」は1992年のエッセイであり,新潮社が翻訳した版には収録されていない。また,本書に収録されたインタビューのうち,2編は既に先日紹介した彩流社の『現代作家ガイド1 ポール・オースター』に別の訳者により翻訳されている。
まあ,そんなものを読むうちに,この手のエッセイを読まざるをえなくなってきたし,引用する場合に本書からの引用の方が楽ということもあった。ともかく本書を読むと,オースターがどんな人生を歩んでいたのか,どんな文学的影響を受けてきたのか,そして文学に対してどんな考えを持っているのかがよく分かってくる。といっても,よくある作家論のように,フィクションとしての作品を,実人生を生きる作家の個人誌に関する情報で理解の助けにするという関係ではない。オースターはさまざまな意味で,従来の典型的な小説家とは違っている。といっても,近年はそういうのをポストモダン小説(文学)などと呼び,典型的でない作家は少なくはない。しかし,場合によっては難解になりがちなポストモダン作家とは異なり,オースターはとても分かりやすい。インタビューでも包み隠さずなんでも語っているし,作品中に難解な箇所があるのは,物事はなんでも完全に知ることができるという虚偽を彼自身が許さないからだ。自分自身のことですら分からないのは普通だからである。
本書に収められたエッセイも,序文集と同じように大抵は特定の作家や作品についての言及である。ほとんどが文学青年ではない私は全く知らない詩人や小説家だったりする(そもそも私は詩は読まないが)。基本的には自分の感性に近い作家を取り上げ,批判するようなことはない。オースターの評論文を読むとそれらの作品がとても魅力的なものにみえるようになるエッセイである。ところで,『ガラスの街』の理解を助けるもののように思った「ニューヨーク・バベル」というエッセイはタイトルと何の関係があるのかよく分からない。

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郊外の社会学

若林幹夫 2007. 『郊外の社会学――現代を生きる形』筑摩書房,231p.,720円.

先日,難波功士さんの『創刊の社会史』を読んで知った,同じちくま新書の本書を早速BOOK OFFで購入。私は本書を書くきっかけとなった,パルテノン多摩での若林氏の郊外に関する講演を聴いているし,冒頭で取り上げられているドキュメンタリー映画『ニュータウン物語』もしっかり観ている。でも,若林氏の著作は意外にも『地図の想像力』(講談社メチェ 1995年)しか読んでいないんだよな。
さて,一応私も都市研究者の端くれなので,本書の冒頭に繰り広げられる郊外論の基本的なところは知っていて退屈。特に,三浦 展などの話はうんざりだが,もちろん本書は彼の議論に与するわけではなく,そういう言説がなぜ生まれるのかを明らかにしようとする。三浦氏はPARCOが出版していたマーケティング誌『アクロス』の編集長をしていたらしく,だからこそ「第四の山手」とか「ファスト風土化」などとくだらない発想で,あたかもそれが現実を説明しているかのように流布してしまうのだ。私などは感情的になって,(そもそも読書としてそんなものが楽しめるはずがないのだが)彼の著作などとても読めないが,若林氏はあくまでも研究対象の一つとして読み込んでいる。その辺りはさすがであり,そういうことができない私はなかなか多くの人を納得させる研究ができないんだろうな,と反省。しかも,地理学者の業績まで引き出してくるところは彼らしい。
しかし,新書という形をとっているが故に,本書はゆるい部分もある。あとがきで,本書は「私論」であると言い切っているように,町田市で生まれ育ち,つくばエクスプレスが開業し,郊外化した筑波大学に長年勤めていて,現在は流山市に住んでいるという。彼は郊外の問題を上から目線で批判したり,逆に他人事のように賞揚したりするのではなく,自分ごととして捉える。まあ,その辺は東京都心から50km圏で,東京23区内に通勤する父親のもとで20歳まで育った私にとって本書が魅力的なところである。しかし,全般的には,相変わらず著者の器用さが故に物足りなさを感じもする。
まあ,でも郊外の問題はいまさらどっぷり深く突き詰めるものでもないので,この軽い本一冊でかたをつけてしまいましょう,という感じだろうか。

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現代作家ガイド①ポール・オースター

飯野友幸編 1996. 『現代作家ガイド①ポール・オースター』彩流社,213p.,2200円.

この現代作家ガイドは本書の巻末に挙げられている限りだが,オースターを筆頭に,
②スティーヴ・エリクソン
③ウィリアム・ギブスン
と続くようである。基本的にアメリカの作家ということのようですね。まあ,基本的には作品の内容に突っ込んだ批評論集というよりは,作家の解説です。本書は以下のような構成になっています。

Ⅰ オースターとの対話
 2つのインタビュー
Ⅱ オースターを読むためのキーコンセプト集
 オースター作品に関連の深い12つの用語・概念について解説する
Ⅲ オースター作品 梗概と解題
 当時は映画作品の『スモーク』と『ブルー・イン・ザ・フェイス』が公開された時点
ビブリオグラフィ

私は今,オースターの処女長編小説『ガラスの街』の研究をしているので,この本もようやく本格的に読んだわけですが,実はオースター作品は『ガラスの街』を含む「ニューヨーク三部作」といわれている『幽霊たち』と『鍵のかかった部屋』に加え,『最後のものたちの国で』しか読んでいない。あ,それと映画『スモーク』は観ました。
それにしても,オースターは作品のなかで,作者とは何か,フィクションとは何か,書くこととは何か,登場人物とは,などと従来の因習的な小説が自明視していることを問いかけているために,作品と作品外における作者の区別もないようだ。インタビューではあまりにも多くを語りすぎているようにも思う。でも,それだからあの独特の面白さが在るのだろうか。オースターの生き方は,私の望む生き方なのかもしれない。このblogはむしろ,研究者としてよりも映画好きやライヴ好き人物ということで,私のことを認識して読みにきている読者が多いと思うが,あえてハンドルネームなどを使おうという気はない。mixiやアーティストの掲示板でも「ナルセ」で通っている。けっしてよくある名字でもないので,容易に私自身は特定できるはずだ。でも,そもそもこの「成瀬 厚」と呼ばれる名前で存在する人間とはどんなものなのか,私的な側面として守るべきものが自分にあるのか?公的な存在として何かの役割を演じなくてはならないのか?そんなことを問いかけながら,そして私の一部しか知らない人に対して,私とは何なのか,そんなことを問いかけ,その断片でも知ることが私自身が生きる興味であり,存在理由なのかもしれない。
まあ,横道にすっかりそれていますが,そんな感じで,久し振りに別のオースター作品を読みたい,いや読まなければならないと思わせられる本でした。

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『ユリイカ』特集「ボルヘス」

『ユリイカ[詩と批評]』1999年9月号(第31巻第10号)特集「ボルヘス生誕100周年記念特集」,青土社,277p.,1238円.

これは雑誌であって,単行本ではないが,まとめて読んだので,こういう形で紹介しておこう。ボルヘスの本を私は何冊持っているだろう。
『不死の人』白水uブックス(1996年)
『ブロディーの報告書』白水uブックス(1984年)
『砂の本』集英社(1980年)
『伝奇集』岩波文庫(鼓 直訳,1993年)
『伝奇集』集英社(篠田一士訳,1975年)
『七つの夜』みすず書房(1997年)
『悪党列伝』晶文社(1976年)
『パラケルススの薔薇』国書刊行会バベルの図書館(1990年)
『永遠の歴史』筑摩叢書(1986年)
上2つの白水uブックスがとても面白くて少しずつ集めようと思ったのだが,それ以降はなかなか面白いと思えないでいる。でも,現在進行中の研究上,ボルヘスの「バベルの図書館」という発想は無視することができないので,とりあえず,ボルヘスが書いたものを一通り読む前に,ボルヘスに伝かかれたものを読んでみようと,『ユリイカ』という批評雑誌に手を出した。
ちなみに,「生誕100周年」ということで分かるように,ボルヘスはアルゼンチンで20世紀を生きた作家である。書店では通常「幻想文学」のコーナーに入れられる。確かに彼の作品を表現するのにこの言葉は適切だが,実際にこのコーナーに並べられた書物をみてみると首を傾げたくなる。そう,日本ではもっぱら幻想文学というとファンタジーものの暗いほうのもの,場合によってはホラーまがいのものが含まれる。つまり,幻想とはポピュラーなファンタジーがそうであるように,現実逃避による非現実性。確かに,ボルヘスの作品はそれらと類似した独自な世界観がある。しかし,その幻想性は現実逃避ではなく,表層的な事実では捉えきれない現実の真実を捉えるべきときには事実と反する非現実が表現されるのだ。
なんて,偉そうなことはかけなくはないけど,私はボルヘスの世界を十分理解しきれていない。彼は高齢で作品を次々と世に出し,しかもアルゼンチンの国立図書館の館長をしながら,しかもほとんど視力を失って。そして,彼は短編しか書かない。しかも,時には存在するかどうか分からない出典からの引用でありそうでなさそうな話をでっち上げる。私がどっちを先に読んだかは忘れてしまったが,ボルヘスを読むと,芥川龍之介の作品世界を思い出す。といっても,こちらも十分に読んだわけではないのだが。日本にはそういう優れた文学作品があるのに,彼の名を関した文学賞はもっぱらベストセラーのセールスポイントに利用されているにすぎない。
この特集のなかでも,特に気にいった文章を列挙しておこう。
ウンベルト・エーコ「ラ・マンチャとバベルの間」
室井光広「現代文学とボルヘス――あるいはボルヘス付[憑]きの現代文学」
谷川 渥「ボルヘスの地図」
芳川泰久「列挙と代替――世界の大きさを充たす小さなフィクション」
ボルヘスの翻訳もしている野谷文昭氏と高山 宏氏の対談も好き勝手いっていて面白い。

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自然哲学再興/ヘルメス哲学の秘法

ジャン・デスパイエ著,有田忠郎訳 1977. 『自然哲学再興/ヘルメス哲学の秘法』白水社,240p.,2000円.

本書は白水社が全7巻で刊行した「ヘルメス叢書」の第2巻。もともと著者はフランス人のようで,本書に収められた2つの文章は1625年に書かれたものらしいが,現代のフランス人によって編まれた叢書であり,この日本語訳はフランス語訳からの重訳である。そして,フランス版の叢書には,ルネサンス期の原文だけでなく,現代の研究者による研究論文も収められているようですが,日本語訳では歴史的な原典のみを収録している様子。残念ながら,巻末の訳者による解説にはその辺の事情が詳細には書かれていません。
ヘルメス哲学とは,ルネサンス期に流行ったオカルト哲学の一つ。ルネサンスという時代は,ヨーロッパの長く安定した中世を終わらせ,近代という新しい時代を準備する重要な移行期。ルネサンスというのは学校で芸術復興みたいに習うように,新しい考え方をするために古いものを見直す時期でもある。そんなヘルメスとは,古代エジプトのヘルメス・トリスメギストスという人物の思想に拠り所を求める哲学。
「自然哲学再興」は基本的に聖書における「創世記」の新たな解釈だといって良いのだろうか。といっても,創世神話は聖書のみに限定されるわけではなく,ヘシオドスの『神統記』などにもあり,いろんなパターンがある。もちろん,その後のアリストテレス『自然学』を受けてのことでもある。どうやら,ヘルメス哲学には「三位一体」という原則が中心にあるようです。なので,アリストテレスもそうだった四大要素の考え方はこのなかでは厳格には信じられていませんね。第五の要素としてアリストテレスも言及した「エーテル」はよく出てくるし,原子論者とも近い考え方として,第一質料という概念も出てきます。これはどちらかというとプラトンに近いものでしょうか。まあ,アリストテレスが支配的だった中世に対して,ルネサンスにはプラトンが再評価されますから,そうなのかもしれません。でも,アリストテレスの名は原文中によく出てきますが,プラトンは登場しません。創世記にもある早世の7日間によって神の手で宇宙は造られたという点は一緒ですが,なぜか太陽にこだわります。天動説を批判し,太陽を宇宙の中心と見做します。動植物の創造についてはなにも言及がなく,いきなり人間の話です。また,創世の1日(神にとっての1日)というのは,人間の1000年に値すると述べ,創世から既に1万年ほど経過していると考えている点も面白いというか,ルネサンス的というか。三位一体の話は単なる自然を理解する哲学的問題というだけでなく,次の文書における錬金術の技術的問題にも関わります。
「ヘルメス哲学の秘法」という文章は,要するに錬金術の技術についての説明です。しかし,解説にもあるように,これを読んだからといって錬金術が使えるようなものではなく,極めて哲学的なないようです。「賢者の石」出てきましたねえ。『ハリー・ポッター』の第一作のタイトルにも出てきますが,それが何を意味するのかはよく分かりません。この文章を読んでもよく分からないのです。まあ,ともかく万能物質というようなやつでしょうか。その製法について色々書いてありますが,ことごとく概念的で抽象的です。そして突然人間の生殖の話になったりする。「錬金術」というと,なにやら人工的に金を作り出して,金儲けするようなイメージがある。基本的に当時は四大要素論を代表として,宇宙は片手で足りるほどの基本的な要素の組み合わせによって全ての物質ができていると考えられたから,それらを分解して再結合すればどんな物質ても出来上がると考えるのは無理もない。一方では,実際にそうした金を人工的に作ろうとした人もいるでしょうけど,もう一方では,そんな単純の要素から成り立っている宇宙全体と,人間の身体を相似的に結び付けようという宇宙論を展開するのも容易だったのかもしれません。
ともかく,オカルト哲学というくらいだからもっと読みにくいのかと思いきや,けっこう読みやすく,そして面白いです。

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ユートピアだより

ウィリアム・モリス著,松村達雄訳 1968. 『ユートピアだより』岩波書店,392p.,903円.

今、ちょうど「アーツ&クラフト展」開催中で、モリスの作品も展示されていると思うが、19世紀末の英国で活躍した彼は芸術家であると同時に社会主義革命家でもあった。詩や散文といった文学作品も残しているモリス。芸術と科学を分け隔てなく考えた18世紀ドイツのゲーテのように、モリスによる本作は、政治と芸術が、生活者の視点から論じられる。
ちなみに、原題は「news from nowhere」で、トマス・モアの16世紀初頭の作品『ユートピア』とは直接的関係はない。ユートピアとは「どこにもない幸せな場所」といった意味のモアによる造語だが、その後の理想郷を描いたフィクションは「ユートピア文学」と呼ばれ、モリスの本作もその系譜に入れられる。しかし、モアの作品の中ではユートパス王が建国した法律・制度の整った都市国家「ユートピア」は固有名詞でもある一方で、モリスの作品には「ユートピア」の語は全く登場しない。あくまでも、翻訳者が一般名詞としてタイトルにのみ用いたにすぎない。
私は本作を随分前に読んだが、今回、2008年度の東京経済大学「人文地理学」の講義でユートピア旅行記の歴史を取り上げ、最終レポートの課題として、講義では追いつかなかった19世紀末の重要な作品として、『ユートピアだより』を受講者に読んでもらったのだ。そこで久し振りに読み直したという次第。
本作はいわば主人公の夢だ。夢というのは夜中の睡眠中に見るそれであると同時に、そうあってほしいと願うものでもある。ある冬の夜に床に就いた主人公は、目が覚めると初夏の陽気で、見覚えのある土地がどこか違って見える。どうやら、そこは21世紀初頭のロンドンだった、という設定。そこには貨幣もなければ政府もない。人々は活き活きとしていて、ストレスレスな生活で見た目も数十歳若く見える。作者を投影した主人公は19世紀末の現実世界で社会主義運動をしていたが、その自分が理想としていた形が実現している世界に入り込んだ彼は、どうやって百数十年の間に革命が達成されたのかを知るべく、その世界の老人と会話をする。単なる夢物語ではなく、この現実的とは思われない世界がいかに出来上がったかを詳細に記述するあたりはなかなか難しいが、とても丁寧に論理的に書かれている。貨幣や政府、教育もない社会というから、これは決して社会主義国ではない。秩序だった無政府状態という理想の社会だ。

この作品を読んでもらった学生の反応はかなり画一的だ。数人は素直にこの理想社会から何かを学ぼうとするが、多くの学生は、それを夢物語と拒絶している。例えば、犯罪者に刑罰を与える法律なるものがこの社会にはないが、それではまさに無秩序になってしまうという。モリスが法律なしにも秩序が保たれると考える根拠は人間の諍いのほとんど全ては貨幣を含む所有欲にあるというところから、物的所有を撤廃することでそれは解消されるというもの。それに対して、学生たちの根拠には「欲望」という人間の本性がそうはさせないというものだ。人間の悪が避けられないものであるかどうかは、それがあると絶対的に信じる人の心にあるのではないだろうか。そう思って、レポートを読みながらとても寂しい気分になった。まだ20歳そこそこの若者たちがこれほど保守的であると(といっても、受講者の多くが経済学部か経営学部なので、いわば本作はかれらの目標を否定しているようなものだからだが)、未来に希望が抱けないような気もする。前期のレポートでも国家は必要か否かという問いかけをしたが、多くの学生は国がないと秩序が保たれないと言い張った。もっと自由な発想でさまざまな意見を出して欲しかったのに、それがかれらには一番難しいらしい。例えば、身近なところから、携帯電話やテレビのない生活が成り立つかどうかというところから考えてみて欲しい。数十年前の人間はそんなものなしに生きていたのだ。貨幣、国家、犯罪。これらはすべてもちろん古代から存在する。しかし、私たちのその存在に関して持っている知識はすべて近代以降のものだ。つまり、近代資本主義に基づく貨幣価値、近代国民国家、犯罪を取り締まる近代法制度。それらが成立する以前の時代にはそれとは違った、人々の対処の仕方があったはずだ。つまり、近代的な貨幣、国家、犯罪がない社会を想像することは、歴史をさかのぼれば難しいことではない。もちろん、近代という時代が全ての次元においてその前の時代よりも良い制度を生み出して、人間が進化していると考えるのであれば、もちろん歴史をさかのぼることは無意味だが。ともかく、かれらは日常生活において当たり前だと思っている存在がなくなることについて、それを根本的に想像することができないらしい。途方に暮れるように、「なくなると困る」の一点張りだ。

しかし、私にも本作品に対する疑問が一つある。すでに大英帝国による植民地支配が拡大し、その植民地を用いた広域貿易によって資本を蓄積してきた時代にあって、モリスがグローバル化についてどう考えていたかは気になるところだ。物語のなかで、実際には100年以上前の過去のロンドンからやってきた主人公は、「異国から来た人」ということになっている。この社会主義革命によって、グローバル化の波も絶たれたのだろうか。その「異国」がどこかも聞こうとしないし、英国で100年前になされていたような生活様式を保持している国があるのかないのか、その辺りについても詳細さを欠いている。もちろん、21世紀の英国は生活様式が中世的なものに逆戻りしているように、自給自足で、他国に物資を依存するような空間的分業は不要になったのだろうか。それとも、他の国とは経済的にも政治的にも一線を画した英国は鎖国状態に入ったのだろうか。それとも、じわじわと速度を増していたグローバル化の段階を意識的にこの作品に反映することはできなかったのだろうか。

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The tourist

Dean MaCannell 1976. The tourist: a new theory of the leisure class. University of California Press: Berkeley, 231p.

観光研究の古典。本書は1976年に出版されたものだが、私が購入した版は、Lucy Lippardという人物が序文を書き、1989年半に寄せる導入を著者が書き、1998年に著者自らがあとがきを書き足しているものだ。地理学者でも、荒山正彦や滝波章弘などは決まったように、ブーアスティンの『幻影の時代』とセットで本書に言及する。私は大学院時代の先輩である鶴田英一さんの書棚で本書をみつけた。確かに、本書のなかに「旅行者から観光客へ」という分かりやすいブーアスティンの議論を批判する箇所はあるが、それだけではなく、本書の魅力は多岐にわたっている。ただし、いつもどおり辞書なしで読んだために理解しきれていない箇所も少なくない。まずは目次を示そう。ちなみに、touristという単語は本書以前には一般的ではなかったようだ。tourismを形容詞的に使ったり、その形容詞形を名詞的に用いて「観光客」とする使用法は本書で一般的になったようです。そして、本書では「観光」の直訳に当たるshightseeingとtourismとは区別されて使われている。なお、tourist attractionとは「観光資源」と訳されるのが一般的。authenticityも本書のキーワードの一つであるが、「真正性」と訳す。

1 近代性と観光の経験の生産
2 観光と社会構造
3 パリの事例:代替的余暇の起源
4 その他の観光資源
5 上演的真正性
6 観光資源の記号論
7 観光客のエスノメソドロジー
8 構造、本物らしさ、にせもの
9 理論と方法、応用について

上で本書の魅力は多岐にわたると書いたが、私的に重要だと思ったのは以下の2点。1点目は非常に経済的な次元だ。本書における「近代」とは特別な使用法であるように思い、場合によっては「ポストモダン」で代替できるかもしれない。すなわち、本書においては「ポスト産業時代」が「近代」なのだ。社会が第2次産業から第3次産業へと転換し、第2次産業そのものが相対化され、見世物とされた時に第3次産業の一分野としての観光産業が立ち現れる、とマッカネルは論じている。これが近代の分岐点なのであれば、まさに観光という現象・行為は近代を代表するもので、これを研究することにより、近代性を理解することができるとうのだ。
この近代性の捉え方は面白いが,一般の理解とはかなり異なっているように思う。しかし,きちんと規定されているのでそれはそれで大丈夫。ともかく,この著者のいう近代期には第1次産業,および第2次産業はそれ自体で完結した行為とはならず,それ自体が第3次産業の一部である観光産業へのアトラクションを提供するというのだ。いわば,一般的な近代性の特徴である「万物の商品化」ならぬ,「万物の見世物化」といったらいいだろうか。まあ,ある意味ではドゥボールの『スペクタクルの社会』と似たような主張かもしれない。
さて,もう一つの特徴は,本書が観光研究の先駆的な研究でありながらも,近年のポスト観光やオルタナティヴ・ツーリズムを早くから主張している点だ。そこが,ブーアスティン批判としての「オーセンティシティ」論と関係する。一応社会学者という著者(かなりジャーナリスト寄りだと思うが)が拠り所とするのはデュルケムであり,ゴッフマンである。特に5章は真正性の問題をゴッフマンの上演論的アプローチにしたがって前面frontと背面backの現実性として論じている。観光現象に関わるさまざまな主体の違い,視点の違いを考慮しているが,それらは単に役割が違うだけではなく,複雑に絡み合っている。観光業者は単に産業における商品の生産とは異なる。そして,しまいには9章の最後に「観光世界の終焉」などという節まで書いてしまうのだから,どこまでも先駆的だ。
ちなみに,エスノメソドロジーは言葉だけで,別にガーフィンケルなどが参照されるわけではない。でも,残念なことはやっぱり完全に理解できた部分はそれほど多くないってことだ。誰か翻訳してくれないかな。

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進歩とユートピア

ドッズ, E. R.他著,桜井万里子他訳 1987. 『進歩とユートピア』平凡社,322p.,1800円.

本書は「ヒストリー・オヴ・アイディアズ」叢書のなかの1冊。前にも紹介したことが会ったかもしれませんが、原著は思想史辞典のようなもので、それを邦訳では、テーマごとの項目を集めて30冊で刊行している。私はまだ3冊しか持っていないが、古書でもけっこう高値で売られているものもある。この「進歩とユートピア」は私が講義でユートピア文学の歴史を取り上げていることもあって、購入した。
その講義はもう終わってしまうが、この叢書は版も小さく、持ち歩きやすいので読んでみた。以下のような項目が収録されている。

古典古代における進歩
近代における進歩
新旧論争
人間の完成可能性
ユートピア

予想していたよりもユートピアに当てられたページ数は少ない。進歩や進化の考え方が含まれているジャンルとしてユートピア文学が、一つの事例として取り上げられている(というよりは翻訳の段階で選択されている)にすぎない。
私の大まかな思想史の理解では、基本的にダーウィンの進化論が生まれる19世紀までは、宇宙を構成する万物は旧約聖書の創世記にあるように、神がある時期に一度に全てを多様なものとして作り出して、その多様性は変化せずに歴史は推移してきたと考えるのが一般的だ。しかし、現存しない生物の化石や、人間の思考の変化の観察(学問の発展を代表とする)などから、ダーウィン以前の時代から進歩や進化を謳った作品は少なくないことは理解しているつもり。
それでも驚くべきことかどうか微妙だが,「進歩」という概念については古代からあるというのだから面白い。そもそも,進歩と進化というのはどう違うのか。まあ,辞書の項目にすぎないから詳細な議論がなされるわけではないが,ほとんど何も知らなかった私にとってはそれだけで面白い。でも,キリスト教神学的な考え方が時折終末論や目的論と結びつくことを考えれば,進歩という概念が長い歴史のなかで常にそれなりに重要な位置を占めてきたというのはふしぎではない。その行き着く先としての「人間の完成可能性」という議論もとても面白い。そして,社会の進歩・進化の最果てが「ユートピア」だというわけだ。

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韓国人を愛せますか?

朴 倧玄 2008. 『韓国人を愛せますか?』講談社(+α新書),187p.,800円.

著者の朴さんは人文地理学者。1969年生まれだから,私と同じ時代に大学院を過ごしていた。私も1993年の『人文地理』で論文デビューを果たしてから,毎年とはいわずとも,平均すると年1本以上のペースで2001年くらいまで論文を書いてきた。本数としては比較的多かったほうだと思う。しかし,東京大学大学院の朴さんはそれ以上の論文執筆ペースで驚いたものだ。しかも,私は「論説」の論文をいまだ3本しか持っていなく,『地理科学』のフォーラムという外部査読者を必要としない種別で本数を稼いできたともいえる。それに対して,朴さんは毎年のように論説で論文を発表し,他の種別も利用して年に2,3本のペースだったような気がする。といっても,彼の研究は私の関心とは離れていたので,まともに文章を読んだことがないので内容については評価しかねるが,ともかく論文を書き,編集委員会とのやり取りでそれを掲載にまでこぎつけるというのは相当なエネルギーを必要とする。その論文生産力のおかげでとんとん拍子で就職し,大東文化大学を経て,現在は法政大学経済学部教授という出世ぶり。私はその同じ法政大学で非常勤講師とは雲泥の差だ。ともかく,彼とは結局まったく接点もなくお話したこともないのだが,なんと先日私の好きな脚本家,今井雅子さんのサイトの掲示板に彼の書き込みがあってちょっとしたやり取りをしたのだ。しかも,その書き込みと今井さんとお会いした時の彼女の日記のなかで,朴さんが本書ともう一冊『韓国人は好きですか?』という一般書を書いていることを知る。たまたま,外出先で読むべき本を携帯するのを忘れてしまった時に,ふと思いついて新宿のブック・ファーストで買い求めて短時間で読んでしまった。
韓国で育ち,大学院進学とともに日本に来て,すでに15年ほど経つという彼。その論文生産能力から,私は勝手に学問に対する彼の熱意を想像していたのだが,本書を読むとそれは勝手な思い込みのようだ。初来日した時に親切にしてもらった鹿児島の人の話や,日本で知り合った女性を好きになって日本に住みたくなった話など,かなり偶然と学問とは関係のない動機が書かれている。しかも,ネット上でのやり取りのなかでは,彼はとにかく就職のことだけ考えていたと書いている(まあ,ちょっと動機が不純だといってもそれで簡単に就職できるわけではないので,彼の努力と能力がすごいのは変わりない)。その執筆能力は就職してからも衰えなかったようで,これまでの研究をまとめた研究書がすでに2冊。そして,本書のように,韓国で日本留学の経験を活かした著書も書いている。本書はこの韓国での著書の延長線上にあるようだ。いわば,日本に住む韓国人から見た日本文化論・日本人論である。あるいは,日韓比較文化論であるといえようか。彼が大東文化大学にいたときの所属は国際関係学部だったそうだから,そこで総合教育科目の比較文化論などを担当していたのかもしれない。
まあ,もちろん私は韓国文化には詳しくないので,それなりに本書を楽しむことができる。人文地理学などにまったく関心のない多くの読者も,本書の内容を新鮮さを持って面白く読むことだろう。しかし,私は少なくとも人文・社会科学に携わる人間として書く文章としてはあまりにも軽薄すぎるといわざるをえない。しかも,これから書く私の印象は,学問に携わる立場からの独自のものではない。試しに,Amazonのカスタマーレビューを読んでみたが,面白いという評価から,それほど新鮮味がないというものも含めた好意的な評価のなかで,個人的な経験を日本人と韓国人という次元に一般化するには無理があるという厳しい否定的な意見も少なくない。そう,本書は彼個人の経験が基礎になっているので,その点での特殊性は有しているものの,全般的には巷に溢れている○○人論,○○文化論と同等の,国民国家・国民文化のあり方を自明視して疑うことのない荒っぽい議論である。
多少なりとも,大学で比較文化論なるものを教える身としては,そのバイブルともいえる西川長夫『国境の越え方』を読んでしかるべきだし,読んだならば本書のような強引な一般論は書けないはずだ。あるいはどうしてもこの路線で書くのならば,西川氏の論理を批判するのが先決になると思う。まあ,ともかく彼の人となりを知るには絶好の本かもしれない。近いうちに彼と会うことを楽しみにしよう。しかし,本書に韓国人は呑み会の席は3次会4次会は当たり前で,出席者は途中で退出するなど論外と書かれているので,お酒に弱い私は酒の席をご一緒するのは恐ろしいが...

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シェイクスピアの驚異の成功物語

スティーヴン・グリーンブラット著,河合祥一郎訳 2006. 『シェイクスピアの驚異の成功物語』白水社,583p.,4200円.

本書は新歴史主義を代表する歴史家,グリーンブラットによる,シェイクスピアの伝記的作品分析。訳者あとがきでも書かれているように,ポスト構造主義やポストモダン思想にも含むことのできる新歴史主義は作家論とは縁遠いところにある。フランスの批評家ロラン・バルトが「作者の死」や「作品からテクストへ」という文章を書いて以来,作品の解釈を作家の伝記的記録に基づき,作家のいいたいことを探るような古典的文学研究は時代遅れとなった。
なので,グリーンブラットがこの手の一般書に手を染めるというのはどうしたことか!ということらしい。でも,新歴史主義についてイマイチ分かっていない私にとってはこの辺りはよく分からない。新しい歴史学のあり方は,上で書いた文学批評と同様に,その時代の歴史資料から,説明したい事柄を決定論的に説明する旧来の歴史研究を「歴史主義」と批判したのではないか。そうしたポスト構造主義的な「反歴史主義」の行き過ぎを是正しようという更に新しい歴史研究の態度を私は勝手に「新歴史主義」と呼ぶものだと思っていた。そう考えれば,その代表論者が一見,作家論ともいえる作品を書くのは納得がいかないか。この訳者の解説を読んで,ちょこっと,構造主義論争とは縁遠いところにいるアメリカの批評家,ケネス・バークの議論を思い出した。彼は作家の伝記的記録に頼りすぎるのはよくないが,利用できる資料は何でも使うべきだと書いていたような気がする。
ところで,本書は読んですぐに分かるように,彼自身によるこれまでのお堅い研究所とは異なり,非常に読みやすい。私はそれほど多くシェイクスピア作品を読んでいませんが,引き込まれていきます。グリーンブラットは一般書であるという利点を上手く利用している。もちろん,これまでの歴史でシェイクスピアの伝記というのは無数に書かれた。元々,作品以外には個人的な記録をほとんど残していないシェイクスピアだからこそ,その謎に迫る果てしない努力がなされてきたのだ。
しかし一方で,グリーンブラットはその真面目な探究心の矛先を換える。これまでの伝記はフィクションとしての作品が,どのようなリアルなシェイクスピアという人物によって生み出されたのか,という因習的な認識論だが,グリーンブラットは,実在するリアルな作品から,どんなイマジネイティヴな人物が浮かび上がるのか,そんな謎解きの仕方のように思える。あくまでも,シェイクスピアの実生活については推測の域を超えないのだ。だったら,それを推測であることを前提に,大胆に作品中の記述の特徴を執筆年代ごとに抽出してまとめあげ,確認されている伝記的事実,そして彼を取り巻く社会的状況と結びつけ,新たな作品解釈を試みようとするのがグリーンブラットの意図である。
細かく説明するときりがないが,とにかく読み物としてとても面白い作品です。

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クローゼットの認識論

イブ・コゾフスキー・セジウィック著,外岡尚美訳 1999. 『クローゼットの認識論――セクシュアリティの20世紀』青土社,384p.,2800円.

はっきりいって、最近の読書のなかでは一番苦労した。もともと気になっていた本だし、まだまだホモセクシュアリティの研究書で日本語で読めるものは少ない。かといって、本書が全般的に難解な文章から成っているわけではない。序文の問題設定は非常に明白で、ホモ・セクシュアリティに関する単純化された議論を複雑化しようとする意図は納得。
しかし、1章から始まる具体的な作品を通しての分析・議論は私にはとてもとっつきにくい。前半はそもそも著者名も作品名も聞いたことのないものばかりでしょうがないが、後半ではプルーストの『失われた時を求めて』が取り上げられる。『失われた時を求めて』は数冊呼んだことがあるが、それでもやっぱりついていけない。それはやはりこの日本社会におけるホモ・セクシュアリティの状況、まあそれほど大きくなくても私自身の周囲における状況があまりにも違いすぎるからだろうか。
しかし、本文を読んでいて理解できなかった、ホモセクシュアリティの普遍化の傾向とマイノリティの傾向というテーゼが、役者のあとがきを読んで理解できたってのは、やはり私自身の読解力の問題か。ともかく、これ以上書けないちょっと悔しい読書でした。
セジウィックの前作『男同士の絆』を読むべきか否か。

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プラトン全集3

プラトン著,藤田令夫・水野有庸訳 1976.『プラトン全集3 ソピステス/ポリティコス(政治家)』岩波書店,488p.,4000円.

プラトン全集は,12巻の『ティマイオス/クリティアス』,5巻の『饗宴/パイドロス』に続いて3冊目。「ティマイオス」は「自然について」という副題が,そして「クリティアス」には「アトランティスの物語」という副題があるように,地理学者にとって興味深い内容だ。一方,「饗宴」にも「恋について」と個人的に興味のある題材だった。
実は,本書3巻は自分で購入したものではない。大学院にいた時に,ちょうど私の大学は大学院の定員が毎年増えている時期だった。大学院生には一人一つの机が与えられていたが,増員に対応するために余計なものを処分する必要があり,蔵書の多くを処分していたのだ。この1冊も捨てられようとしていたもの。
当時は地理学専攻でプラトンを読む人などありえず,私自身も読もうとなど思っていなかったが,あまりにも想定が美しくて捨てるのが忍びなく,私が引き取ったのだ。
しかし,卒業論文ではじめた場所研究がエスカレートするなかで,プラトンの「ティマイオス」やアリストテレスの『自然学』は必読文献になってきて,やはり1冊読むと他のも読んだほうがより深く理解できるということで,機会があればできるだけ読んでみるようになってきた訳です。この全集は古書店で購入してもそれなりに高いわけで,そんな意味では大学から引き取ってきたのは今から考えると随分お徳だったわけで。
さて,書名だけでは内容が分からないのがプラトン全集。この3巻は後半の「ポリティコス」は想像できるものの,前半は全く何のことやら分かりません。前にも5巻の時に説明したように,プラトンの著作は対話篇という形式をとっていて,4,5人の登場人物が出てくる。そして,そのなかの主たる語り手の名がそのまま書名になることも多い。「ソピステス」ではプラトンの師,ソクラテスの他,テオドロス,テアイトス,そして名のないエレアからの客人が登場し,主たる語り手はこのエレアからの客人で,彼は「ポリティコス」の語り手でもある。そして,「ソピステス」では全編にわたってテアイトスを相手にしゃべりまくる。「ソピステス」の主題はソフィストとはどんな人たちのことをいうか,という点に絞られている。なので,「ソピステス」とはなんなのか,読み終わっても不明だ。と思ったら,「ソフィスト」のギリシア原語に近い読みが「ソピステス」なのだってよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88
まあ,ともかくこの頃は「修辞学」というのが学問でも重要な一分野であったように,聴き手を納得させる話術ってのがここでも活かされているわけです。ソフィストってのは知識人の一種で,本書ではかなり悪い人物として批判の対象になっている。正確でない知識を他人に与えることで人をだましているような,そんな印象です。さて,この客人はソフィストの特徴を伝えるのに,思考実験のように「魚釣師」を例にしている。魚釣りとは一種の技術であり,技術には自ら作るものと何かを獲得するものとある。魚釣は獲得する技術であり,獲得するもののなかでも積極的に奪い取るものではなく,かかってくるのを待つ狩猟するものであり,狩猟するもののなかでも無生物ではなく生物を対象にする,云々...
とアリストテレスの三段論法ではないが,ひたすら「何であるか」と「何でないか」を区別しながら,対象の定義を徐々に狭めて行くという論法は当たり前のものでもあるが,ここまで極端にしつこくやられると新鮮だ。
そして,実は「ソピステス」で何よりも興味深いのが,ソフィストとは何かという定義として辿り着く結論ではない。「何である」ということと「何でない」ということについての哲学的な議論がメチャクチャ面白いのだ。「何である」と「何でない」の区分をもっと単純に,抽象化させると,「あるもの(有)」と「あらぬもの(非有)」とになる。まあ,簡単にいうと,「あらぬもの」という状態を示しているが,「ない」という状態はそもそも「もの」として指し示すことができるのか,という難癖をつけているのだ。最後の方でエレアからの客人はソフィストの定義を示すに際し,この問題は解決したというようないいかたをしているが,果たしてそうだろうか。いまだにこの問題については哲学的遊戯として楽しまれているように思う。
さて,「ポリティコス」だが,これもまたエレアからの客人の独壇場だ。今度は話し相手を「若いソクラテス(ソクラテスと同名だが別人)」にし,まだまだ語る。話し相手をテアイトスから若いソクラテスに変更したのは,テアイトスの疲労を考慮してだが,自身の方が疲労しているのではないだろうか。しかも,「ポリティコス」は「ソピステス」よりも分量がかなり多い。しかも,「ソピステス」のような文彩上の効果ではなく,なにやら余談が多いような。ただ,そこで示される理想的な政治家像は,同じく理想的な政治体制を論じた『国家』との関連も大きいようで,やはり『国家』を読まねばいけないなあと実感。
ともかく,刺激的な読書です。

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監獄の誕生

ミシェル・フーコー著,田村 俶訳 1977. 『監獄の誕生――監視と処罰』新潮社,318p.,3800円.

いわずとしれたフーコーの代表作。他の主著からすると,本書は後期の著作といえる。私が読んだフーコーは,『これはパイプではない』,『狂気と文化』,『言葉と物』,『言語表現の秩序』,『ピエール・リヴィエールの犯罪』に次いで6冊目。でも皆,薄めのやつだ。本書も主著といわれながら,分量的には薄い方かもしれない。
しかし,後期の著作ということもあり,いわゆるフーコー的議論の多くがそこには含まれている。まずもって,『監獄の誕生』といえば,ベンサムの一望監視方式だ。しかし,そこまでに辿り着く記述が重要なんだろう。とりあえず,目次を示してみよう。

第1部 身体刑
 第1章 受刑者の身体
 第2章 身体刑の華々しさ
第2部 処 罰
 第1章 一般化される処罰
 第2章 刑罰のおだやかさ
第3部 規律・訓練
 第1章 従順な身体
 第2章 良き訓育の手段
 第3章 一望監視方式
第4部 監 獄
 第1章 「完全で厳格な制度」
 第2章 違法行為と非行性
 第3章 監禁的なるもの

そう,これまたフーコー的概念である,規律・訓練=ディシプリン=学問分野も本書に含まれます。他にも文中には微視的物理学とか権力の偏在性とか,へたなフーコー解説書よりもコンパクトにフーコー的エッセンスが学べます。冒頭には現代のわたしたちからみると,おぞましいほどの身体刑の記述があります。人々は刑罰という目的で,平気で他人を苦しめながら死に至らしめ,しかもその様子を見世物として楽しむ。人間がそういうむごたらしいことをせずにすむようになったのは,一方で,罪人に限らず,軍隊から始まり,学校教育における規律・訓練。そして一方では,法律の厳格化と監獄施設の発明により,社会全体がおぞましい刑罰を必要としなくなったということ。しかしそれは必ずしも幸せな社会変化ではなく,近年はこの分かりやすい一望監視方式という特定の施設の形状が,社会全体にいきわたり,最新テクノロジーをともなって「監視社会」などといわれるようになっているわけです。
だから逆にある意味では物足りなく感じたりします。私が読んだフーコーの本のなかでは一番読みやすかったし,他の著書はどこかしら解説書などでは説明しきれない複雑な要素を含んでいたが,本書は解説書からはみ出ることはない内容。まあ,でもまだまだ読むべき本はあります。

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ユートピアの系譜

ルイス・マンフォード著,岡 裕三郎訳 1971. 『ユートピアの系譜――理想の都市とは何か』新泉社,316p,1200円.

都市研究をしながらも,マンフォードの本は1冊も読んだことがなかった。今回の本も都市研究の一環というよりは歴史的な内容の講義用に。ユートピアといえば,もちろん口でゴムをくわえてパッチンするお笑いコンビではなく,トマス・モアによる1516年の著作『ユートピア』で用いられた造語。この作品で描かれた理想郷を,理想との都市との関連で論じたのは,ルイ・マラン『ユートピア的なもの』(法政大学出版局)だが,本書は1922年に発行されたその先駆に当たるもの。しかし,原題には「系譜」という言葉はなく,「The story of utopias」である。なので,一応本の構成は歴史順となっているが,時代が原題に近いほど分量は多く,多くは18,19世紀に当てられている。実際にヨーロッパで近代都市が形を成す頃のことのほうがマンフォードの関心があることは当然といえば当然。しかし,彼はモアをユートピアの起源にするのではなく,紀元前のギリシア都市国家アテネ,プラトンの『国家』から議論を始めているのは意外な発見だった。ちょうど今,並行してプラトンの『ポリティコス』を読んでいて,かなり関わりがあるので,まだ読んでいなかったことを後悔。講義はもう始まるので,時代を下る順番である以上,『国家』を取り上げるのは間に合いません。ともかく,ソンタグやアレントで時折登場した「洞窟の寓話」について知ることも含めて,『国家』は早く読まなくてはなりませんね。
マンフォードは初めてでしたが,やはり研究者というよりは批評家,あるいは作家というべきですかね。久し振りに注のない本で読みやすかったですが,全体的に文章がさらっとしていて,決して軽い内容ではないのですが,軽く読めてしまうことがちょっと物足りなかった。といっても,ウィリアム・モリス『ユートピアだより』(1890)だけでなく(ちなみに,この本の原題は「news from nowhere」でユートピアという言葉は使われていない),『タイム・マシーン』で有名なウェルズにも『モダン・ユートピア』(1905)という作品があったり,学ぶことも多い。今度,違う観点から読み直すのも面白いかもしれない。

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マルコ・ポーロと世界の発見

ジョン・ラーナー著,野﨑嘉信・立崎秀和訳 2008. 『マルコ・ポーロと世界の発見』法政大学出版局,325+67p,4700円.

先日,『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』という本を紹介した。これは基本的にマルコ・ポーロの名を伴った『東方見聞録』がいかに矛盾に満ちているか,という点から,まさにマルコ・ポーロの存在自体を疑ってかかるものだった。読みながら,私も素直に説得されたのだった。
しかし,ジョン・マンデヴィル『東方旅行記』のような,読んでいていかにもインチキ臭いフィクションならまだしも,『東方見聞録』の大半は読んでも面白くない平板な地理的記述である。それが精確かどうかはよく分からないけど,少なくとも,そこに書かれていることが出鱈目だとしても,そのことで著者が得したりすることはまったくないのだ。
そんな観点から,改めて『東方見聞録』について,その前後の歴史的事実も含めて,そして何よりも『東方見聞録』を一種の地理書として読もうとするのが本書だ。『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』の著者ウッドは中国の歴史を専門とする英国人だが,本書の著者ラーナーはイタリアを中心とした中世史を専門とする英国人。ウッドは基本的に中国人の立場に立って,17年も暮らしていたはずの中国についてマルコはほとんど知らないのはおかしい,という立場で,外国人として中国を訪れたマルコ,という前提に立つ。しかし,ラーナーの方は,マルコが中国に滞在したのは本人が17歳からの17年間であり,しかもヨーロッパに戻ったのはもっと後のことだった,という事実を重視している。つまり,マルコ・ポーロは自己の確立したヨーロッパ人として中国を訪問したのではなく,まさにこの東方への旅の途中に自己を確立したといっても良い。だから,成人したヨーロッパ人ならば驚きそうな異文化との接触はマルコには当てはまらない。むしろ,帰国当時はろくに生まれた土地の言葉すらしゃべれなかったというのだ。まあ,そんな感じで,本書の著者は基本的にマルコ・ポーロの東方旅行は事実に即していると考えている。もちろん,印刷技術の発明される前の時代のことなので,おかしなことは一杯あるのは当たり前。この辺りの事情についても,ウッド以上に,残されたさまざまな時代の写本を検討することで,それでも推測にすぎないが,いくつもの可能性を提示している。
また,ウッドの本は基本的に多くの人は盲目的にマルコの中国滞在を信じている,という前提に立っているが,ラーナーの研究は『東方見聞録』をめぐってヨーロッパの人たちがそれをどう評価し,扱ってきたのかの歴史を丁寧に辿っているのだ。早い時代から「ほらふきポーロ」という呼称は定着し,『東方見聞録』の記述内容の真偽は議論されていたという。この書の記述を真面目に取っていたのは地理学者くらいだというラーナーの主張には笑ってしまう。しかも,多くの地図製作者はマルコが残した記述を無視しているのだ。そして,マルコの証言を聞き書きしたというルスティケッロという人物についても,彼の他の著書の文体との比較など,研究には抜け目ない。
つまり,結論としては,マルコ・ポーロという人物が本当に中国に行ったのかどうかと目くじら立てて疑ってかかる必要は全くなく,そもそも『東方見聞録』とはマルコ・ポーロ個人が全責任を負って書いたものでもなんでもなく,長い歴史の産物であり,それと同時にやはり歴史のなかで多くの人に影響を与えたものでもある。

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マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか

フランシス・ウッド著,栗野真紀子訳 1997. 『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』草思社,222p.,1800円.

化粧品のPOLAは「ポーラ文化研究所」という部門を持っていて,どうやら年に2冊,2002年9月の88号まで,『is』という雑誌を発行していた。これがけっこう面白く,私は古書店で数冊買い集めている。そのなかの1冊,1998年の80号は「空想旅行」という特集を組み,そのなかで四方田犬彦が「マルコ・ポーロを讃えて」という文章を書いている。その冒頭に取り上げられたのが本書である。
私はこれからの後期の講義で,グローバル化に絡ませて,歴代の旅行記,空想旅行記,ユートピア物語などを取り上げるつもり。もちろん,ヨーロッパの人々が世界に大きく目を向け始めたきっかけとしてまずコロンブスの『航海誌』を挙げるが,その前に忘れてはならないのが,マルコ・ポーロの『東方見聞録』だ。なぜか,わたしたちはマルコ・ポーロのことを知っている。ヴェネツィアの商人として東方を訪れ,中国にまで達し,当時中国を支配していたモンゴルの王,フビライ・ハーンに使えて17年も滞在し,帰国したのち,牢獄に閉じ込められ,そこで囚人仲間に話し聞かせて記録されたという,東方の旅行記。
しかし,本書の著者も冒頭に語っているように,実際に『東方見聞録』を読んでいる現代人は少ない。私もつい先日読んだばかりで,このblogでも紹介している。そこにも書いたように,『東方見聞録』は旅行記というにはあまりに記述が平板でまったくもってつまらない。なのに,なぜこの書の存在(内容ではなく)は現代まで語り継がれているのだろうか。そんな素朴な疑問から発し,本書のタイトル通り,マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか,という批判的な観点から,歴史を紐解くというもの。といっても,本書が初めて,われわれがマルコ・ポーロについて素直に信じていること,それは「マルコ・ポーロの神話」といってもいいかもしれないが,それに疑義を申し立てたものではない。真面目な歴史研究のなかでは,この『東方見聞録』と当時の歴史について論じている中国やモンゴルの研究との矛盾や,『東方見聞録』自体のテクスト内の矛盾などは既に指摘されている。そうしたものを1冊に纏め上げて,それを一般の読者に提供しようとする目的を有するものである。
著者は中国を専門とする歴史家であるが,研究者というよりも大英図書館の主事ということで,やはり本書も読み物的性格が大きく,その読みやすさは私にはいまひとつ物足りなかったりする。結論として,著者はマルコ・ポーロは実在する人物であり,確かに東方への旅をしたようであるが,「黒海とコンスタンティノープル以東へは行っておらず」,『東方見聞録』とは,彼が見聞きしたもののほかに,当時のアラビア語などの本を流用し,牢獄で聴き書きしたルスティケロの創作なども混じり,さらにはその発見されない初稿から時を経るにつれて,写本の段階でさまざまに解釈され,書き加えられ作り上げられたものであるという。しかし,これは「実は『東方見聞録』とはこうだった!」というような暴露本とは違う。それでもなお,『東方見聞録』は歴史上,非常に大きな意義を持っているし,またこうした形成過程はむしろ,歴史的状況としては非難されるべきものではなく(当然,著作権なんてものはない,印刷技術が発明される以前のヨーロッパの話だ),自然なものだったのかもしれない。
ちなみに,『東方見聞録』における不自然な欠如というのは,中国文化として記述すべきものとしての,茶,纏足,中国語,万里の長城,印刷術などなど。それにそもそも,日本語に翻訳された『東方見聞録』をアジアに住む私が読んでもまったくそれが中国について書かれているものだとは思えないのだ。地名はほとんど他の言語に翻訳されれたものだし,本文の大半は個人の視点から書かれた旅行記ではなく(旅でであった他文化との衝撃的出会いや感動などはかけらもない),無味乾燥な地誌的記述だといえる。
そんな本書は,発行前から話題になり,多くの反響を呼んだらしい。世界中には素朴にマルコ・ポーロが中国に長い間滞在し(しかも,17歳から34歳までですよ!),「黄金の国ジパング」をヨーロッパに知らしめた人物であると英雄視している人が多いらしい。日本ではどうなのだろうか。

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過去と未来の間に

ハンナ・アレント著,志水速雄訳 1970. 『歴史の意味――過去と未来の間にⅠ』合同出版,198p.,680円.『文化の危機――過去と未来の間にⅡ』合同出版,186p.,680円.

ちょうど私が生まれた頃に出版された本。この合同出版のシリーズは青い簡素な表紙で,ペーパーバック。まあ,どこかの本棚に眠っていた期間が長いとはいえ,40年近い月日を過ごしてきたと思うと感慨深い。というより,安かったよな。
さて,アレントは以前『人間の条件』を読んで,本格的に読んでみようと思い,古書店で買ったもの。さすがにそう簡単ではない。なんといっても政治哲学者ですから。本書は1968年に出版された『過去と未来の間で――政治思想における演習』というエッセイ集。副題どおり,8つの論文が収められ,上巻に3つ,下巻に4つとなっている。
上巻
序 過去と未来の裂け目
第1章 伝統と近代
第2章 歴史の概念――古代と近代
第3章 権威とは何か
下巻
第4章 自由とは何か
第5章 教育の危機
第6章 文化の危機――その社会的政治的意味
第7章 真理と政治
第8章 空間の征服と人間の大きさ

多岐にわたる内容だが,本書を読んで,なぜアレントの文章が難解ながらも読みやすいかが少し分かった。当たり前の話だが,タイトルに書かれているテーマに忠実に論が展開されてること。まあ,最近の論者は(私も含め)タイトルなんて関係ないといわんばかりに自由に議論が拡散する。でも,逆にいうと日本語のタイトルはどうだったのかな,って思う。確かに,上巻には歴史論が含まれ,下巻には文化論が含まれるが,あくまでも,本書は原著の副題にあるように「政治思想」の書であるわけだから。
そう,まあ,「権威」はもちろんのこと,「自由」と「真理」がいかに政治と深く関わっているのか,あるいは場合によっては政治とは正反対の位置を占めるものと装おうとするもの。6章の文化の話も興味深かったけど,やっぱりポッブスとかカントとか,基本的なものは読んでいないといけないなあと実感。40歳を前にしても,まだまだ基本的文献の欠如がネックで読みこなせないものが多すぎです。

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視覚芸術の意味

アーウィン・パノフスキー著,中森義宗・清水 忠・内藤秀雄訳 1971. 『視覚芸術の意味』岩崎美術社,443p.

パノフスキーの名前は,英国の地理学者コスグローヴ&ダニエルス編『風景の図像学』の序文で知った。1988年に出版されたこの論文集の翻訳に私も無理矢理参加させてもらった。というのも,編訳者は当時国際に本文化研究センターの千田 稔氏と,お茶の水女子大学の内田忠賢氏だった。またまた,ちょくちょくお茶大に研究会か何かでお邪魔していた大学院の後輩が,そんな翻訳の企画があるという話を知らせてくれたのだ。ちょうど,私はめぼしい論文集の序文を翻訳したりしていて,本書の序文も翻訳していた。ということで,私も参加させて欲しいと内田氏に嘆願したという経緯。
まあ,それはそれとして,まさに「iconology of landscape」というのはパノフスキーから借りているといっても過言ではない。つまり,イコノロジーという表現は,パノフスキーの1939年の著作『イコノロジー研究』からきているし,本書に収録されている1953年発表の論文「イコノグラフィとイコノロジー」も序文で引用されている。イコンとはアイコンのことであり,パソコンのインタフェイスとしてわたしたちも馴染みがある。例えば,インターネットエクスプローラで「家」の絵柄が「ホーム」であるように,ヨーロッパでは古くから宗教画や紋章などで,図柄で記号伝達を行なう伝統があった。そういう,絵柄とその意味を一覧にするようなものがイコノグラフィという。アイコンを記述すること。しかし,そのアイコン=図像というのは常に一義的に意味が決定されるものとは限らない。そうでないものは,そこに不安定な「解釈」が介在するのだ。そうしたアイコンを解釈したり,論理的に分析するのがイコノロジーというわけだ。
この研究はいわゆる美術史という分野になるわけで,英国ではケネス・クラークを代表として長い歴史があるように思っていたが,パノフスキーによるとそうでもないらしい。ドイツ出身のパノフスキーの先人といえば,亜ビィ・ヴァールブルクがいるが,パノフスキーの特徴的なことは,第二次世界大戦直前に彼は渡米し,アメリカの大学で研究を続けたということだ。その辺りのことは,終章の「合衆国における美術史30年」という文章に詳しいが,パノフスキーはいわゆるドイツから亡命した知識人の中の一人ではなく,正式に招待されてドイツの大学から合衆国の大学に移ったらしい。古代から中世,ルネッサンスを経て近代へ,と美術史のフィールドはもちろんヨーロッパだが,美術史の研究については本家ヨーロッパよりも20世紀の合衆国の寄与するところが大きいという。美術品のコレクションから,その学術的な研究まで。大西洋をはさむ両大陸での大学の制度の違いまで,かなり詳しく記述してある終章もなかなか面白い。序章と終章を除いた具体的研究に当てられた章は,特定の時代の特定の絵画,絵画テーマ,題材,というものに対するかなり細かい分析です。人体比例理論,ティツィアーノ,デューラー,アルカディアなどなど。
近年の地理学における景観研究には図像学的分析が欠かせないし,カルチュラル・スタディーズのなかでもヴィジュアル・カルチャー研究ってのが盛んになっている。そんななかで,こうした著作が必読書であるだけでなく,大いに読書的刺激を受けることができる素材はまだまだいっぱいあって楽しみ。でも,この種の図版も含んだ本は大抵高いのが悩みの種。

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お尻に火をつけて

鈴木亜紀 2008. 『お尻に火をつけて』晶文社,252p.,1700円.

鈴木亜紀さんはピアノ弾き語りのシンガーソングライター。今はなき,川越の「鶴川座」という,古い芝居小屋をそのまま利用したライヴハウスで行なわれた,ライヴイヴェントに出演していたのを初めて聴いた。ピアノの鍵盤がお客さんの方を向いていて,「お尻を向けてスミマセン」という一言がかわいらしく,「パン粉で揚げたものをまたパンで挟むなんて」というフレーズのある「ハムカツサンド」という曲が印象的だった。他の出演者はNUU,広沢タダシ,ハンバートハンバート,ハシケン,リクオという私の好きな人ばかりで,そのとき初めて聴いた有山じゅんじさんや,東京60WATTSなどもいたが,なんといっても鈴木亜紀にやられた日だった。
彼女がホームグラウンドとしている外苑前のZ・imagineというお店のマンスリーライヴにはその後4ヶ月連続で通ったような記憶がある。
ステージ上ではかなり素な状態の彼女だが,意外にシャイのような気がする。私はすぐに仲良くなれるミュージシャンと,顔見知りになってもなかなか打ち解けない人といるけど,鈴木亜紀さんは後者。私もなぜか緊張してしまい,未だに上手く話が口から出てこない関係。そんな彼女は以前,開演を待つお客さんに「さくらえび通信」という,誰もが小学校の頃に作ったような,手描きの新聞のようなものを配っていたらしい。旅行好きな彼女はそんな旅行記をまとめて書いていたのが「さくらえび通信」。残念ながら私はそれをもらったことはなく,もう作らないのかなあ,と寂しく思っていたら,過去のものがまとめられて一冊にされたのが本書。しかも,私もけっこう持っている晶文社から出版というから驚きだ。亜紀さんは以前にも自らの写真集を出版しているし,CDの方は10年間で3枚半というからのんびりだが。ちなみに,「半」というのは,本書と同時期に発売されたのは中ムラサトコさんとやっているイヴェント「鍵盤女」のライヴ盤であり,また自主制作盤であるから。
さて,本書の内容ですが,以下のような感じ。
i
惑星リリアナ(アルゼンチン)2004年5月
ii
Mの帰郷(愛知県湯谷温泉)2000年5月
北の冬(青森)200年3月
みんな中国へ行く(中国西安)1999年9月
もの思い(沖縄)1999年11月
ここは地の果て(スペイン)2001年11月
はずれの旅(島根県出雲)2001年4月
ただよう正月(沖縄)2001年1月
お尻に火をつけて(スペイン)2003年5月
iii
果ての海(アルゼンチンウシュアイア)2007年10月

1章はけっこう長い。1章分が1回に配られた「さくらえび通信」だったのだろうか。まあ,シンガーソングライターというのは詩人でもあるわけだから,こうしたちょっとした文章でもつまらないわけがない。ただ単に旅の行動が臨場感溢れて伝わってくるだけではなく,亜紀さんの心情の動きがよく分かるところが面白い。それに,そもそもが旅先での珍事がなんといっても素敵だ。上に,単なるお客さんとは誰とでも打ち解けるわけではない,と書いたが,そういう人ほど旅先での一期一会の度胸が素晴らしい。私なんて,そもそも人見知りだが,旅先での出会いなんて未知数なものに気体はできないタイプだ。そもそも,それが不安で旅はあまり好きではない。でも,他人の旅日記を読むのは好き。
さて,そんな旅日記だが,なんといってもシンガーソングライター鈴木亜紀として読み応えがあったのが,冒頭の「惑星リリアナ」。リリアナとは亜紀さんが惚れ込んだアルゼンチンのシンガー,リリアナ・エレーロのこと。亜紀さんは10年前にリリアナを知り,来日公演を待ち望んだが,日本では一部でしか知られない存在であり続け(まあ,CDは置いてあるくらいだが),一向に来日する気配がないので,アルゼンチンまで聴きに行った。この旅日記はその時のもの。そして,日本の人にもリリアナを知ってもらうべき,リリアナのCDの日本盤を,亜紀さんの解説付きで発売し,そして昨年はついに亜紀さんが企画してリリアナ来日公演まで実現したのだ。私もその話は亜紀さんのライヴでよく聞いていたので,吉祥寺star pine's cafeで行なわれたライヴには足を運んだ。そのライヴは満員御礼,大盛り上がりで大成功に終わったわけであるが,私的にはリリアナの偉大さをそれほど実感したわけではなかった。しかし,この旅日記を読んで,いかに初めてリリアナに会いに行ったときの亜紀さんの旅が面白いもので,また亜紀さんを迎え入れるリリアナファミリー(本当の家族という意味ではなくスタッフや周辺ミュージシャンなどのこと)の暖かさなど知り,その旅がいかに愛に満ちたものかを知ることができる。そんなこともあって,できれば,昨年のリリアナライヴの前にこの文章を読んでいれば,より楽しむことができただろうと思う。

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トニオ・クレエゲル

トオマス・マン,実吉捷郎訳 1952. 『トニオ・クレエゲル』岩波書店,98p.

『魔の山』などで知られる,トオマス・マンの1903年の自叙伝的作品。28歳の時に執筆。私はマンの作品は初めて読みましたが,単に先日鎌倉に出かけたときに手持ちの本が読み終わりそうだったので,小町通の古書店で買い求めたもの。マンの作品を読んでみたかったが,薄かったのが決めて。
巻末の解説で,ゲーテの『若きウェルテルの悩み』と並べているように,本作は若き主人公トニオ・クレエゲルの恋の苦悩を描いている。トニオは男だが,美少年の同級生,ハンス・ハンゼンのことが大好きだった。それは別に同性愛を強調するような物語ではない。以前にも紹介したように,プラトンの時代には愛といえば美少年に対する男性の感情だったのだし,同性愛が文学の主題となるのは同性愛が禁じられる時代においてである。といっても,本作が書かれたのはまさに同性愛が禁じられた時代だと思われる1903年であり,プラトンの時代よりはまったくもってわれわれの時代に近いのだが。まあ,ともかくやっと実現したハンスと2人きりで帰る下校の道が,インメルタアルという男の子に邪魔されてしまう。
そして,突然話は16歳に飛ぶ。その頃トニオが恋したのはインゲボルグ・ホルムという女性だった。しかし,彼女はクアナク先生に憧れているようで,そもそもインゲには大して近づけはしないのだ。
そして,また突然話は変わる。彼はそんな思い出の詰まった幼少期を過ごしたその町を離れて,一人旅を始める。ミュンヘンからコペンハーゲンまで,自分の家系を辿る旅。しかし,奇妙にも,その地でハンスとインゲがカップルでいるのに出くわす。結局,トニオはその2人に接触することはないので,なぜその2人が一緒なのか,そしてなぜそこに来ているのか,ということは全く分からない。ひょっとしたらそれはトニオの幻想なのかとも思える。
まあ,ともかく短いのに,なんともよく分からない物語だ。別に哲学的な内容が含まれているわけでもないのに。それは単純に私の物語解読能力の問題か。

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隠喩論

久米 博 1992. 『隠喩論――思索と詩作のあいだ』思潮社,206p.,2400円.

隠喩論については2004年の『地理科学』掲載論文「場所の文法」で一通り論じたし,その際にそれなりの著書には目を通したはずだが,この本は知らなかった。今更感もあったが,たまたま外出先で持参した本が読み終わりそうで,本書は比較的薄かったので,予備のつもりで買ったもの。しかも,上記論文でも大いに役に立ったポール・リクール『生きた隠喩』の訳者による著書ともなれば読んでおいても損はない。
そう,本書の著者はもちろんキャスターの久米 宏ではない。ポール・リクールのほとんどの著書を翻訳している人だ。しかし,訳者としてあまりに有名なので,本人がどんな研究をしているかは謎。そんな好奇心にも答えてくれる一冊になるだろう。予想通り,翻訳が中心の研究者であるから,自分自身の独自の論の展開は少なく,他人の議論の紹介が中心であるため,文章はだらだらと長くはならない。でも,200ページという短いなかでも非常に充実した内容となっている。一応,私の論文と同様に,一通りリクールやデリダ,デイヴィッドソンなどの議論を踏まえることで,隠喩というものを比喩表現の一つとしてのみ考えるのではなく,言語の本質的な存在として隠喩を捕らえていることがわかる。故に,隠喩論にとどまらず,アリストテレスにまでさかのぼり,ヴィトゲンシュタインを経由し,ハイデガーがかなり詳しく検討される。要は,言語一般論が多くの紙面を割いて論じられるのだ。しかし,一方では隠喩と換喩,提喩などについて細かく論じられる箇所もあり,なぜだか私には退屈だったりする。
まあ,ともかくリクールほどの人の著作を多く訳す人であるから,もちろんリクールだけ読めば言い訳ではない。私自身,実はリクールをあまり読んでいないが,わずかに読んだなかでも,フランス人であるリクールだが,英語圏の動向などもかなり丁寧に辿る人であることは知っているし,何ヶ国語できるか分からないほど博学である哲学者。その訳者である久米氏も,相当の読書家であることがうかがえる一冊であった。
本書を直接参照するということはないと思うが,更なる読書への良質な案内書となるだろう。

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薔薇十字の覚醒

フランシス・イエイツ著,山下和夫訳 1986. 『薔薇十字軍の覚醒――隠されたヨーロッパ精神史』工作舎,440p.,3914円.

イエイツの本は以前にも紹介したと思う。『ヴァロア・タピスリーの謎』や『世界劇場』,『記憶術』など一風変わった歴史記述はいつも刺激を与えてくれる。アラン・コルバンなどのアナール派とは全く異なるアプローチで,ルネサンス期の科学と地下文化について深い洞察を与えてくれる。
「薔薇十字団」は種村季弘が『薔薇十字の魔法』(1986年,青土社)でも取り上げているが,なかなか実態がつかめずに終わっているような気がする。そして,真面目な歴史家ではなく,読み物として面白い種村氏の歴史記述で取り上げられるような特徴を持っている。つまり薔薇十字団は正史に登場するようなものではなく,いわゆる存在したかどうかも分からない地下組織であるところに特徴がある。実際にこの組織は一般的に「薔薇十字宣言」と呼ばれてる2つの文書,「友愛団の名声,および薔薇十字のもっとも気高き結社の友愛団の発見」および「友愛団の告白,あるいはヨーロッパの全学者に宛てて書かれた,薔薇十字のもっとも立派な結社の称えられるべき友愛団の告白」という,それぞれ1614年と1615年に出版された小冊子によってのみ,その組織の確実な存在がほのめかされているにすぎない。そして,この2つの文章は本書に収められているわけだが,そのなかに,団員は団員であることを公言してはならないということが記されているために,いまだに薔薇十字団は謎なままであり,著名な科学者もその団員だったのではないかと噂されもしている。
しかし,ロッシによるベーコンについての研究書の邦題『魔術から科学へ』という時代に現れた怪しげな宗教団体として簡単に済ませることはできないというのがイエイツの主張だ。本書はまさしく正史である,英国王女エリザベスとファルツ選帝侯フリードリヒとの政治的戦略結婚の話から始まる。一見,かなり薔薇十字団とは無関係と思われる同時代的なヨーロッパの国境を越えた政治的動向が,ドイツで出版された上記「薔薇十字宣言」と緩やかなつながりを持ってくるということを一つ一つ丹念に辿ってくれるのが本書である。
これまでのイエイツ作品にも登場しているさまざまな科学者,哲学者が本書にも登場する。英国の数学者,ジョン・ディー,ロバート・フラッド,フランシス・ベーコン。ベーコンと並んであまりにも有名なフランスのルネ・デカルト,イタリアのカンパネッラ,果ては物理学者アイザック・ニュートンまで。近代的な思考の発端となったとされているベーコンやニュートンが,その裏では魔術的な思考の愛好者だったこと。ベーコンの遺作『ニューアトランティス』というユートピア物語の設定は薔薇十字団を知っていた可能性十分。もちろん,カンパネッラの『太陽の都』も。
この薔薇十字宣言は独自のオカルト思想というわけではなく,やはり当時のヨーロッパ社会に広く関連性を持っており,体系立って論証できないその残された断片のさまざまな象徴を読み解き,それをさまざまあ資料と結び付けていく,正攻法は現代文化を研究する私のような者にも学ぶところは非常に大きい。まあ,その博識には驚く他ないが,こういう刺激的な読書を経験させてくれる著書を自身でも書いてみたいものだ。

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恋の形而上学

マルシーリオ・フィチーノ著,左近司祥子訳 1985. 『恋の形而上学――フィレンツェの人マルシーリオ・フィチーノによるプラトーン『饗宴』注釈』国文社,336p.,3500円.

フィチーノは1433年,イタリアはフィレンツェの生まれ。本書は1469年にラテン語に書かれたとされています。本書の前にギリシャ語のプラトンの著作を翻訳した人物で,ネオ・プラトニズムの代表的人物。ルネサンスは私が中学校くらいで習った時には「文芸復興」と教わったが,最近はこういう日本語表記はしないそうだ。そんな中学校の世界史ではレオナルド・ダ・ヴィンチくらいしか習わず,「文芸」っていうくらいで,ルネサンスは芸術運動だと思わされている。しかし,もちろん科学や哲学が一新して近代期へと突入する時代。
もちろん,「復興」という日本語は間違いではなく,古代ギリシア時代のさまざまなものが再評価され,それが新しい思想へと展開していく。フィチーノによるプラトンの見直しとその後のネオ・プラトニズム,そしてオカルト宗教などへの関心は重要な通過点である。中世において凝り固まったアリストテレス哲学と厳格なキリスト教への信仰,それらを解きほぐす役割を持っていると思う。
さて,副題にもあるように,本書は以前このblogでも紹介した,プラトン『饗宴』への注釈である。そこにも書いたが,この対話篇は愛の神エロースについての議論であり,映画『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』の元ネタにもなっている。なので,それを踏まえたこのフィチーノによる議論は,原著のタイトルとは全く関係ない邦訳タイトル「恋の形而上学」なのである。序文を書いた斎藤忍随氏の言葉通り,この訳文は「スラスラとして実に読みやすく,流麗と言っても言いすぎではないほどの出来映である」。もちろん,私はラテン語など全く持って分かりませんから,例えまずい翻訳であろうが,文句をいう権利などないのだが,どう考えたって500年以上前に別の言語で書かれたものを現代の日本語に翻訳したものがそう簡単に読みやすくなるはずがない。
といっても,プラトンの時代からすれば,フィチーノの時代もやっぱり500年以上経っているのだから面白い。本書ははやり「注釈」というだけあって,『饗宴』を当時において分かりやすく解説したものだといえるのだろう。といっても,扱っている対象は「恋」といっても,今日的な意味で,しかも日本語で「恋」と表現したものとamorが一致するはずもない。いくらスラスラ読めるからといって,その内容を分かりやすく私が解説できるわけでもない。逆にすらすら読めるからこそ,内容が頭に残らなかったのかもしれない。
まあ,ともかくやはりそれなりに15世紀っぽくはあり,物質の話や天体の話などを交えて面白かったのは確かです。

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モダン都市の系譜

水内俊雄・加藤政洋・大城直樹 2008. 『モダン都市の系譜――地図から読み解く社会と空間』ナカニシヤ出版,335p.,2800円.

またまた,著者の水内さんにいただいてしまった本。実は今月27日に大阪で開催されるかなり少人数の研究会にゲストスピーカーで呼ばれていて,水内さんや大城さんにもお会いするので,そんなこともあって読んでみた一冊。おそらく,自分で積極的には買わないし読まない本。
著者も前書きで書いているように,元来地理学とは地図という表現手段に非常に固執してきた学問である。そしてその地図はまさに旧来の地理学の象徴であるかのように,近年の新しがっている地理学研究は地図表現を用いないことで,古臭い研究から脱却していることを宣言しているような節がある。しかし,いくら新しさを強調しようが,私の知っている多くの地理学者は旅行好きであり,鉄道好きであり,高みからものを眺めるのが好きなのだ。まさに,高みからの視線の象徴が地図。少なからず私も地図が好きだった。
まあ,著者たちはそんな古くから地理学者がこよなく愛してきた地図を武器に,一般読者に地理学の魅力を知ってもらおうと意図している。しかも,旧来の地理学がやってきた地図の読み方ではなく,より深みのある地図の読み方を提供すると書いている。まあ,ここでいう一般読者というのが具体的にどのような人々を想定しているのかはなはだ疑問ではあるが。そんな目的にしがたって,著者の一人,水内氏が現在勤める大阪市立大学の院生であった,現在神戸大学に勤める大城直樹,そして同じく大阪市立大学の院生だった京都の立命館大学に勤める加藤政洋,その3人が大阪を中心に,神戸と京都の事例も加えて,関西3都市の近代以降の歴史を読み解こうとする。
本書は非常に読みやすく,私の知らなかった史実が山ほどあって,それはそれでとても勉強になる。しかし,それ以上ではない。本書の方法や文体は,これまで主に加藤が書いてきた学術論文のスタイルに似ている。しかし,学術論文はそうした史実の整理の先に議論するテーマがあるが,本書はそういう議論を極力省いている。参照されている文献は最小限に抑えられ,本文中に組み込まれているだけで文献表はない。もちろん,地図も多用されているのだが,地図以外に空中写真や風景写真も多い。地図そのものを読み解いている場面はとても少なく,むしろ写真や文字資料などを駆使して歴史復元をするなかの一つの資料として地図は位置しているにすぎない。まあ,著者の言葉を使えば「地図的表象を超えたところに空間-社会の構制を嗅ぎ取る感性」(p.1)ということになるのだろうか。
ともかく,本書は読みやすいが故に私にとっては退屈だった。といっても,史実を丁寧に説明していくような歴史書が全般的に苦手なわけではない。まあ,そのことはこのblogの読書日記を読んでいる方にはわかるだろうが,私は読書としての歴史ジャンルはとても好きなのだ。しかし,本書はちょっと苦手なタイプ。だからこそ自分自身に危機感を感じたりもする。もちろん,私は地理学研究としての歴史研究はしていないが,比較的方向性としては近いものを感じる著者たちの関心と私の関心とがまったく相容れない部分もあることを痛感させられる場面は少なくない。
まあ,ともかくまだ著書を1冊も書いていない私にとっては,確実にこうして形にしていくかれらに文句をいう資格など全くないのだが。

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フロイト著作集6

フロイト, S.著,井村恒郎・小此木啓吾他訳 1970. 『フロイト著作集6 自我論・不安本能論』人文書院,460p.

私が人文書院の『フロイト著作集』を読み出したのは何年前だろうか。この著作集がどのように編集されているのかも分からず(未だにわかりませんが),とりあえず1巻から読んだほうがいいだろうと,読み始めた。といっても,急いでいるわけでもなく,古書店でせいぜい2000円くらいで売っていたら買って,気が向いたら読み始めて,次の巻を古書店で買う,といった感じで,もう10年くらい経っているのではないでしょうか。
しかし,3巻まで読んで,今回は飛ばして6巻。正直いって,読むには読んでいるけど理解度はイマイチってところ。第1巻が『精神分析入門(正・続)』だから読みやすいかというと必ずしもそうではない。第2巻が有名な『夢判断』だが,もちろん難しい。でも,記述が濃くて頭を使うという感じではなく,なんか散漫で集中できないんだよね。第3巻が『文化・芸術論』。けっこう有名な「トーテムとタブー」とか,最近注目されている「無気味なもの」とか収録されていますが,ちゃんと印象に残っているのはあまりないんだよな。
ということで,あまり関係ありませんが,1巻から読むという方針はやめにして,なんとなく読むべきだと思うものを買って読むことにした。小此木氏の解説によれば,「本巻は,S・フロイトの精神分析の基礎理論に関する諸論文を,発表年代順に編集したものであり,その意味でおそらく,本著作集の中で,もっとも専門的な諸論文からなる一巻であろう。」という。そのせいだとは思わないが,今回はそれなりに面白く読むことができた。ともかく,フロイト理論として知られる用語がいっぱい出てくるのだ。それらはもちろん,『精神分析入門』にも出てきたとは思うのだが。リビドー,エス,超自我,抑圧,エディプス・コンプレックス,無意識などなど。といっても,それによって理解がすすむわけではない。なにやら余計こんがらがってくるのだ。そもそも,フロイトの執筆人生とはどんなんだったんだろう。私がわずか著作集の4冊読んだだけでは,フロイト学説の進展過程などは全く分からない。特に本巻はどの論文を読んでも,他の論文を参照しているのだ。語彙の定義とか症例への参照など,時間の軸がごっちゃになって円環を描いているような。まあ,だからこそフロイト研究に一生を費やすような人が何人もいるわけだ。
ちなみに,本書ではじめて知ったのは,フロイト流の同性愛の理由付けだ。もちろん,それはエディプス・コンプレックスの理論の延長線上にあり,父親殺しとか去勢の恐怖とかそんな論理だ(該当箇所を探せないんです)。まあ,要するに同性愛も異性愛も,先天的なものではないという主張は重要だと思う。それから,もう一つ気になったのは,サディズムとマゾヒズムについて。私はサドもマゾッホもろくに読んだことない人がSだのMだのいって喜んでいる人の気が知れないと思っている。しかし,まさにフロイトはそのノリでサディズムだのマゾヒズムだの書いているのだ。ひょっとしたら,単純化されたSM論の起源はフロイトなのか?

それにしても,私が意を決してこの著作集を読み始めたのに,岩波書店が改めて「フロイト全集」を手がけたってのはどういうこと?しかも,こんな時代に。ちなみに,岩波版はさすがに全集というだけあって,年代順に書かれた作品を全て収録するようですね。そして,人文書院のは関連する文章を1巻ごとにまとめているようですが,どんな基準で巻の順番が決められ,収録されている文章とされていないものとの違いはなんなのか。

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消費の政治学

スチュアート・ユーウェン著,平野秀秋・中江桂子訳 1990. 『消費の政治学――商品としてのスタイル』晶文社,364p.,3600円.

私にとってはいまさら感のある消費社会論の1冊。消費社会論とは,先進資本主義経済が生産業中心からサーヴィス業を中心に移行し,それを産業主義から消費主義への移行ともいう。フランスの社会学者(日本的な感覚ではとても彼を社会学者とは呼べない)ジャン・ボードリヤールで有名だが,日本ではそれらの翻訳と消費社会の到来が一致した1980年代に随分流行ったようです。
ちなみに,本書の原書は1988年に出版されているから,この手の本としては新しい方です。
原タイトルは「全てのイメージを消費する――現代文化におけるスタイルの政治学」というもので,邦訳のタイトルは表題と副題とをごっちゃにした感じ。本書の中心は「スタイル」のようですね。前作は夫婦で書いた『欲望と消費』という本で翻訳もありますが(私は未読),本書はその取り扱う対象も多様化しているようです。前半はファッションの話や広告の分析などで新鮮味がありませんでしたが,建築物からデザインの話,広告もかなり古い歴史的な話,人間工学の話,などなど,なかなか飽きさせない内容でした。
私の読書はこういう感じで,常に新しいものではなく,ある意味では出版業界の「消費期限切れ」のような作品を読むのもけっこう好きなんですよね。

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幾何の発想

矢野健太郎 1976. 『幾何の発想――ギリシア』朝日出版社,244p.,880円.

「エピステーメー叢書」の1冊。朝日出版社によるこうした思想系の本は1980年代に終わってしまったようですが,この「エピステーメー叢書」は装丁も素敵なので,思わず買い揃えてしまいそうになる。今まで持っているのは,

デリダ『尖筆とエクリチュール』(1979年)
ドゥルーズ『ヒュームあるいは人間的自然』(1980年)
細川周平『ウォークマンの修辞学』(1981年)
プーレ『炸裂する詩』(1981年,未読)

けっこう小さな版の冊子だし,ページ数も300ページ未満。でも,けっこう充実した内容なのがこの叢書の特徴。でも,例外だったのが本書。そもそも私は幾何学に歴史的な興味を持っている。幾何学とは英語でgeometryといい,地理学geographyとは親戚のようなものだ。metryとはメートルと同じ語源であり,「測定する」のような意味。つまり,幾何学は土地を測定するものであり,地理学は土地を記述するものである。英国の地理学者デニス・コスグローヴもルネッサンス期に復興したユークリッド幾何学が透視画法という絵画技法,そして風景がというジャンル,ひいてはデカルト的な空間の考え方に導かれると同時に,地理学とも深い関係があることを論じている(『風景の図像学』地人書房)。
ということで,私はこうした「幾何学の起源」に深い関心を持っていて,以前もミシェル・セールの『幾何学の起源』の書評なども書きました。でも,やはり日本人の数学者が書いた本書はそういう歴史的な関心に対しては物足りない。やはり幾何の定理や法則の解説と,それが当時どのような形でどこまで明らかにされていたかという解説に終始します。そのなかのいくつかは本当に難しくて私には理解できないし。まあ,でも基礎的な知識を持っておくことは必要ですからね。

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東方見聞録

マルコ・ポーロ著,愛宕松男訳注 1970. 『東方見聞録1』平凡社,358p.,2940円。

いわずと知れた歴史的作品。私がこの本を初めて意識して見たのは,確か大学生協の書籍コーナーにおいてあった,平凡社ライブラリー版だった。そのころは,そんな本を読んでみようとはまったく思わず,むしろ「あー現代日本語で読めるんだ」って感じだったが,大学で教えるようになって,大学院の頃から本格的に好きになった歴史の話をし始めて,ちょっとマルコ・ポーロの話などもしていた。『東方見聞録』も読まずにだ。
というのも,とある日,入手したPOLA化粧品のポーラ文化研究所が出している雑誌『iS』という雑誌に四方田犬彦氏の「マルコ・ポーロを讃えて」という文章が載っていて,これがひどく面白かったので,原著も読まずにそんな話を講義ではしていた。ところで,この雑誌,すでに2002年に廃刊になっているがなかなか面白い。四方田氏の文章が掲載されているのは「幻想旅行」という特集で,谷川 渥氏などが寄稿していて,他にも古書店で6冊買い求めたこともある雑誌です。ちなみに,他には多木浩二や高山 宏,富山太佳夫などの名前もある。
さて,この四方田氏の文章では,ある一冊の本が取り上げられる。日本語訳も出ているフランシス・ウッド『マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか』(草思社)という1冊。まあ,タイトル通り,もしあの時代にマルコ・ポーロが中国に17年滞在したという事実がなかったとして,あの本が書けたかどうかを検証するのだ。といっても,そもそも1295年までの旅の記録をその3年後から,獄中で後述し,同室の囚人に書き写させたというが,原本が失われたこの書が現代に至るまでどんな道筋を辿ったのかは想像に難くない。つまり,その後の紆余曲折で加筆・修正された可能性は大いにあるというのだ。そもそもヨーロッパではまだ印刷技術が発見されていない時代にあって,私たちが著書とみなすものと同じと考えることにちょっと無理がある。
まあ,ともかくそんな疑いの目を持って本書を読み始めたのだ。ちなみに,私が手にしたのは平凡社ライブラリー版ではなく,同じ平凡社の「東洋文庫」のなかの一冊。まだ下巻は入手していませんが,上巻を先に読みました。同じ「東洋文庫」には同じ時代の英国人ジョン・マンデヴィルによる『東方旅行記』もある。こちらは訳書のなかでも,著者自身が実在の人物であるか疑わしいとされ,その記述は実在しないものばかり書かれていると位置づけられている。
このたびの発端はマルコ氏の父,ニコロ・ポーロとその弟マテオ氏による2人旅である。彼らが先にフビライ・カーンの宮廷に出かけたのだ。そして,一旦帰国し,今度は息子のマルコを連れて再びカーンの元へ。そのあたりのことが序章に書かれているが,本文に入ると,まさに「見聞録」に終始し,この3人のことはほとんど書かれていない。また,それは訳者の解説にも書かれているように,この時代にはまだ旅行記というジャンルも確立していないし,当然小説なんてものもない。そもそも,本書がどの程度読者のことを念頭においていたか分からず,その記述は平板で退屈なものである。おきまりのくだりは「○○の話はこれくらいで切り上げ,次には△△について述べることにしよう」というものだ。確かに,200年後の『コロンブス航海日誌』も似たようなものかもしれない。でも,あれはあれで毎日その場でつけることが,航海において重要な意味を持っていた。
そしてなによりも読んでいて私が思ったのは,この本から中国の雰囲気は何も伝わってこない,ということだ。わたしたちは学校教育でそれなりに中国の歴史を学んでいて古い時代からそれなりの印象を持っているが,それに合致するような記述は極めて少ないのだ。むしろ,中央アジアといった印象を受ける。そもそも,地名は現在の地名ではなく,また写本によってその綴りは異なっているらしく,一応訳者が同定はしているものの,そして,主要都市の分布は現在とは違うだろうが,わたしたちの知っている主要都市はほとんど登場しないのだ。まあ,下巻には黄金の国ジパングも登場するらしいから,期待したい。
古書店で見つかるのを待っているわけにもいかないので,Amazonで下巻とその『マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか』という本を注文してしまいました。

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視線の権利

ジャック・デリダ著,プリサール, M-F.写真,鈴村和成訳 1988. 『視線の権利』哲学書房(『哲学』特集号II-3),199p.,1900円.

古書店で見つけるまで知らなかったデリダの本。でも,一度見つけるといろんな古書店で見かけるようになった。けっこう出回っている本でしたね。訳者あとがきにはこの本がどういう類のものか詳しくは説明されていない。想像するには,いきなり単行本として出版されたものというよりは,以前に紹介した『盲者の記憶』のように,写真展という形で発表されたのではないかと思う。しかし,この「視線の権利」というテーマはどの段階であったのか?
本書の100ページは写真によって占められる。ページによっては1ページに6枚の写真が掲載されているから,写真の枚数はそれより多い。そしてこの組写真は物語になっている。「シナリオとモンダージュ ブノア・ピーターズ マリ=フランソワーズ。プリサール」と書いてあるから,写真家と共同してストーリーを構成した人物がいる。その写真は2人の女性の性交シーンから始まる。一人が服を着て豪勢な屋敷から出て行く。噴水の前で別の女性が登場し,この屋敷から出てきた女性を撮影する。モノクロ写真だが,白い服装に黒い服装。ショートヘアにセミロング,女性のスキンヘア,1箇所だけ男性も登場する。そして,突然厚化粧をして大人の真似をした少女2人。鏡,写真,そして最後は再び同じ2人の性交シーン。
なにやら意味深な象徴体系のありそうな物語。しかし,デリダによる解説文はまったくもって解説文ではない。もちろん,この写真群に,そして時には具体的な個別の写真に言及するが,なんと男性と女性の対話篇になっているのだ。といっても,男性と女性と解釈したのはあくまでも日本語訳者である。それにしても,今回もよく分かりません。といっても,難解なのではなく,なんか引き込まれない。確かに改めてペラペラめくってみると,デリダ的な言葉がちりばめられて入るんだけど,なんかその議論の重要さに気づかずに読み飛ばしちゃうような文体なんです。まあ,そんなところが狙いなのかもしれませんが。
訳者は本書をデリダの他の著書と共通した「翻訳」の問題を扱ったものとしているが,私にはどの辺が翻訳と関係しているのか,よく分からなかった。要は写真という視覚的表現を用いて,なにか言語を用いて議論すべき論点を表現しているというのか。あるいは自身のこの文体のことか。同じ内容をいわゆる哲学的な文体と,こうした演劇的文体と,どう伝え違えるのか。そもそも,内容と形式の問題,そんなことを議論そのものではなく,行為遂行的に伝えようとしているのか。

まあ,私の書評は全般的にいえることだが,今回も相変わらず本の内容をまったく精確に伝えようとはしていないな,と反省します。

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World hypotheses

Stephen, C. Pepper 1942. World hypotheses: A study in evidence. University of California Press: Berkeley, 348.

本書は,1973年に発表された歴史学者ヘイドン・ホワイトによる大著『メタヒストリー』のなかで大々的に取り上げられて有名になったが,1942年というかなり古い作品なので,もともとどんな文脈で描かれて,そして当時の哲学界にどんな風に受け入れられたのかはよく分からない。そもそもホワイトの取り上げ方はやはりかなり恣意的なのだ。ホワイトは新しい歴史研究のあり方を模索するなかで,カナダの批評家,ノースロップ・フライの『批評の解剖』(1957),米国の批評家,ケネス・バークの『動機の文法』(1945),そしてドイツのカール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』(1929)。どれも日本語訳が出版されているし,それぞれの著者の本はその多くが日本語訳されているので,それぞれの作品の位置づけも理解しやすい。それに対し,この『世界仮説』と題されたそして裏表紙には「Philosophy」とのみ分類のためのジャンル名が書かれている本書はやっぱり読んでみないと分からない。
そもそも,私は上記3冊を日本語で読んだが(実は日本語訳『動機の文法』にはホワイトが利用している部分は収められておらず,別の日本語訳『象徴と社会』に収められている),ホワイトのかなり図式的な利用は,その3冊を読んでもピンとこないのだ。つまり,ホワイトが各著書から引き出した図式的な内容というのはホワイト自身の都合の良い解釈によって引き出されたものであるといえる。
と『メタヒストリー』の話ばかり書いているが,実はこの本も『現代思想』のミシュレ特集の時に,ミシュレに関する箇所が一部分だけ翻訳されたにすぎない。数年前に翻訳が出るという情報もあったがまだ出ていない様子。私も実は50ページほど必要な箇所を拾い読みしただけだったりして。
ともかく,どこかの洋書コーナーで本書を見つけて思わず購入したものの,なかなか手をつけなかったわけだが,思い切って外出先に持ち出して読み始めましたが,辞書なしで哲学の洋書をそう簡単に読めるはずがありません。理解度は2割ほどのまま1ヶ月近くかかってしまったようだ。
ちなみに,実は本書で展開されるペッパーの「ルート・メタファー」理論は日本語でも若干紹介されている。1968年と1973年に『思想史事典』というのが刊行されているが,そのなかの「哲学におけるメタファー」という項目が1987年に翻訳されているのだ。そこから考えても本書の中心は「ルート・メタファー」論であり,ホワイトが引き出したものは本書の場合,かなり原著に忠実だといえる。この「ルート・メタファー」とは①形式論,②機械論,③有機体論,④コンテクスト論,の4つにまとめられているのだが,この説明に入る前の論述は馴染みがなくとても難しい。
とりあえず,目次を示しておこう。

第1部 ルート・メタファー理論
I. 絶対的懐疑論
II. 教条主義
III. 証拠と確証
IV. 仮説
V. ルート・メタファー
VI. 世界における不適切の事例
第2部 相対的に適切な仮説
VII. 諸仮説の一般的見解
VIII. 形式論
IX. 機械論
X. コンテクスト論
XI. 有機体論
第3部 要約,批判,回答
XII. 回想と結論

やはり,ヨーロッパでは真理に関する哲学の歴史が深く,懐疑論や教条主義など,あるいは真理の対応説など,漢字を見てもピンと来ない哲学的な思考形態がある。そう,『メタヒストリー』に影響を受けた地理学研究でアン・バッティマーの『地理学と人間精神』(1993)というのがあるが,そこではホワイトの説をそのまま利用するのではなく,改めてペッパーの本書を地理学の観点から読み解くことで,真理に関する諸説を説明していたが,その時からチンプンカンプンだった。この辺は改めて西洋哲学史を勉強しなくちゃなって思います。4つのルート・メタファーについてもやはりホワイトが論じるほど図式的ではなく,また具体的な歴史的な論者の事例が詳しく挙がっている訳でもないのでやはり理解には程遠い読書でした。でも,部分的にはとても面白かったことも確かだし,何らかの訓練になるだろう。

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メディア政治時代の選挙

飽戸 弘 1989. 『メディア政治時代の選挙――大統領はこうしてつくられる』筑摩書房,238p.,1230円.

本書は1988年のアメリカ合衆国大統領選挙の解説本だ。なんと,20年前で現大統領のブッシュの父親が当選した時の選挙。ちょうど今は大統領選挙真っ最中なので,ちょうどいいと思って取り出してきた。多分私が大学4年生の頃,メディア研究ってのが面白いって思い出して,就職活動や教育実習もしていたのに,同時に大学院受験もして(理学研究科だったので試験は9月),一社内定が出ていたのを蹴って大学院進学を決めた頃です。
なんでも,メディアとタイトルにつく本を気にかけていました。といっても,手当たり次第に買ったり読んだりしたわけではなかったのですが,この本だけは政治の分野で珍しいなと思って購入した。その後,学生の頃の気の迷いで買って,どう考えても読まないようなものは処分したりもしたけど,この本はまあ軽く読めるだろうとおいておいたのだ。「ちくまライブラリー」はあまり持っていないけど,前田 愛『文学テクスト入門』も山中速人『イメージの〈楽園〉』も,ただ読みやすいだけでなく,かなり専門性を有しているので,本書にも少し期待をかけたりして。確かに,著者はこの選挙の間,米国に滞在し,かなり密な調査を行なったらしい。しかし,彼の根底にある意識は,私が期待したような「メディアの存在によって民主主義の根底が揺るがされる」というような危機感ではなく,むしろ逆に「日本の選挙制度は米国に30年遅れている」という認識の下,進んでいる米国の状況を把握し,それを今後の日本の選挙に活かしたいという意識である。
ということで,本書の目的は,断片的にかつ表面的にニュースなどで伝えられる米国大統領選挙について,より詳しく深く知らしめること,そして同時に小難しい学術書ということではなく,読者により容易に理解してもらうような内容になっている。といっても,私はそういう文章を読むのが苦手なので,逆に断片的にしか大統領選挙について知ることができなかった。こういう文章苦手なんです。とても,一字一句丁寧に詠むには退屈すぎたので,思わず斜め読みでした。私は斜め読みってほとんどやったことがありません。そんなのをするくらいだったら読むのをやめますが,それでも箇所によっては得ることがあるのではないかと,読み進めましたが,やはりそれほど多くのことはありませんでした。
というか,やはり本書は私が求める「メディア研究」ではなかったのです。そこには「批判的立場」はなく,本書自体がメディアに組み込まれているという印象です。

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覗くひと

アラン・ロブ=グリエ著,望月芳郎訳 1970. 『覗くひと』講談社,288p.,650円.

『嫉妬』,『消しゴム』に続いて,ロブ=グリエの作品を読むのは3作目。相変わらずわけが分かりません。あらすじを書けば,なんてことはない。マチアスという男性の主人公がいる。彼は生まれ故郷に行商のために帰ってきた。彼は腕時計の行商で,週に数往復しかないこの島を訪れる。朝について夕方に帰る船に乗る予定。この島の世帯数は限られているので,港町で自転車を借りれば回るのはたわいない。しかし,実際に回ってみると,思うようには売れず,またたまにはかつての知り合いに出会って引き留められたり,自転車が故障したりで,結局寸でのところで船を逃してしまい,数日宿泊するはめになる。その数日間の1日に,どうにも行商を諦めたっぽい怪しげな空白の1日がある。しかし,翌日になるとそのことを忘れたかのようにまた時計を売りに歩く。そんななか,ある少女が一人行方不明になるのだが,なんだかんだ町は騒いでいる間に,次の船に乗ってマチアスは島を後にする。そんな物語。しかし,その一つ一つの出来事の描写が曖昧で,主人公の記憶も曖昧で,錯綜していて,記述は繰り返す。どうやら,その行方不明の少女は,マチアス自身が暴行をし,殺害してしまったということになるらしい。しかし,それにも明白な動機もあるわけではないし,そもそもそれは計画的なものなのか,衝動的なものなのか,サッパリ分からない。
まあ,恐らく1955年に原著が出たときにはそのこと自体が意義があったんだろう。もちろん,有体の誰にでも理解可能な事実の羅列のような退屈な小説と比べて面白いのは間違いない。はやく,『去年マリエンバードで』を手に入れたい。

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エッフェル塔

ロラン・バルト著,宗 左近・諸田和治訳 1979. 『エッフェル塔』審美出版,100p.,890円.

1969年に「記号学と都市の理論」と題した講演を行なった(1975年の『現代思想』に翻訳あり)ロラン・バルトだが,日本について論じた1970年の『表徴の帝国』(翻訳1974年,新潮社)とともに,本書は都市の記号学的解釈の書といえる。
実は本書の翻訳にはみすず書房から,エッフェル塔の写真を散りばめたちょっと大判のものが出ていて,学生時代に大学図書館で借りて,バルトの文章部分だけをコピーして持っていた。しかし,数年前に古書店でこの審美出版のを見つけて購入しておいたのだ。こちらも,最近話題にしているバベルの塔論の延長線上で読む時期がきたと思い,読んだ。本書でバルト自身の文章は約半分で,残り半分は訳者によるバルト論になっている。発行当時はバルトを理解する助けになるだろう文章だが,今日読むには逆に本文の印象を薄めてしまうような気がして残念。
一般的にバルト前期と呼ばれる時期の作品で,構造主義的思考として特徴付けられる。確かに,ちょっと押し付けがましい断定的な解釈が多いが,やはりそれは非常に魅力的でもある。例えば,『象徴の帝国』を日本という国を日本語も読めない著者が面白おかしく論じたオリエンタリズム的なものにすぎない,という批判もあるが,あくまでもバルトは彼自身に現前する記号としての「日本」を論じ,しかもその記号が「中心の空虚」というまさに記号の本質を体現している記号であることを強調したにすぎない。本書のような小文はパリ全体ではなく,それを象徴する一つの記号要素であるエッフェル塔を取り上げたものにすぎないが,やはりそこには記号としての都市パリが念頭に置かれていて,パリを表現する中心でありながら記号内容に満たされていない過剰な記号表現としてエッフェル塔を捉えている。そうなると,同じ時期にデリダによって論じられたポスト構造主義的記号論に近い主張がすでに含まれているようにも思える。
まあ,今日でも「都市の記号論」が成立するかどうかは疑問だが,そのことを考えるためには必読の書だ。

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ピエール・リヴィエールの犯罪

ミシェル・フーコー編,岸田 秀・久米 博訳 1975. 『ピエール・リヴィエールの犯罪――狂気と理性』河出書房新社,291p.,1800円.

本書は以前の日記でも紹介したように,フランスのドキュメンタリー映画『かつて,ノルマンディーで』に登場する30年前の映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』のもとになった作品。編集といっても,フーコー自身の文章は7ページの「まえがき」と,「物語られる殺人」という10ページにすぎない。そもそも,本書は当時の訴訟記録,新聞記事,被告自身による手記,法医学的鑑定書などが半分を占める。そして,後半がフーコーの文章を含めた現代のさまざまな立場の人による評論文,そんな構成になっている。
さて,この犯罪。1835年に当時20歳だったピエール・リヴィエールが,妊娠中の母親,18歳の妹,そして8歳の弟を殺害したというもの。本人は事件後,1ヶ月ほど近くを放浪生活して,ようやく逮捕される。裁判における地域住民の証言によると,ピエールは以前からその素行により住民たちには狂人と見做されていたことが分かります。今回の犯罪に関してもそのことが原因だろうと。ちょうどこの時代に法医学が確立しつつあり,精神科医によって,犯罪者の精神状態が診察され,その結果によっては犯罪の責任を問えない,というあれですね。しかし,ピエールは鑑別所で自らの生い立ちと,殺人に至る経緯,そして殺害後の行動についての詳細な手記を作成します。そもそも読み書きすら十分に学んでいないただの農夫がです。ここがこの事件の特殊性です。
今日,子どもが親を殺すことは現代的な病だなんていわれるけど,19世紀ではこの種の犯罪は珍しいものではなかったようです。よって,この犯罪が現在でも関心を引く点は,犯罪者自身によるこの手記の存在である。しかし,本人によればこの手記はそもそもは殺人実行前に書かれる予定であったし,実行後はそんなことは忘れてしまったかのように放浪し,予審が始まった拘留中に書き出す。しかし,この手記もその後の裁判で,雑誌で,新聞で正当には扱われなかったようである。もちろん,本人は死刑を望んでいたわけだが,この理性に満ちた手記はむしろ,被告を極刑にするの有利な資料だったのに,そうはならない。原告や陪審員たちは結局,どんな刑を望んだのだろうか。結局,裁判では死刑が決定するのだが,その後陪審員たちの働きかけによって,国王への嘆願で恩赦が下り,終身刑に減刑になる。しかし,最終的にピエールは独房で首を吊って自殺してしまうのだ。
まあ,ともかく現代的な感覚では意味不明なことが多いこの犯罪ではありますが,資料の提示から時代的な背景の分析など,非常に丁寧に編集された本で,とても読みやすくて面白かったです。
ちなみに,この本を読み終えようという時に『接吻』という映画を観ました。

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テクストの出口

ロラン・バルト著,沢崎浩平訳 1987. 『テクストの出口』みすず書房,256p.,2400円.

ロラン・バルトは1980年に亡くなっている。彼の著作はほとんど翻訳されているし,さらにはそのほとんどを出版してきたみすず書房により,「ロラン・バルト著作集」として新訳が次々と出されている。自分の仕事を自ら否定してるってどうなの?って思うからってわけじゃないけど,私はこの著作集は買わずに旧版を集めます。
この本はちょっと色々あって,読み始めから随分時間が経過してしまってあまり覚えていないので,詳細目次を書くことにしましょう。本書はさまざまな媒体に書かれた小文を寄せ集めたものです。遺稿も収録されているので,本人の意図に基づいた論集というわけではないようです。そして,すでに翻訳されていた『言語のざわめき』と本書は,原書では1冊に収録されているとのこと。

第1部 レクチュール
1 削除(1964)
2 ブロワ(1966)
3 今,ミシュレは(1972)
4 ミシュレの現代性(1974)
5 ブレヒトと言述――言述研究のために(1975)
6 F・B(1964)
7 バロックな面(1967)
8 「能記」に生ずること(1970)
9 テクストの出口(1972)
10 研究の構想(1971)
11 《長い間,私は早くから床についた》(1982)
12 ルノー・カミュ『トリックス』への序文(1979)
13 人はつねに愛するものについて語りそこなう(1980)
第2部 イメージの周辺
14 作家,知識人,教師(1971)
15 ゼミナールに(1974)
16 周期的に行なわれる訴訟(1974)
17 イメージ(1977)
18 省察(1979)

このように,発表された年もまちまちで,長さもまちまち。構成も発表順とは違います。まあ,そもそもバルト自身が「作者の死」を主張したり,「断章」という手法を多用して,テクストの時間的つながりを否定した人物ですから,まあ,読者の好きな解釈で理解したりしなかったりして,楽しんだり貶したりすれば良いのではないでしょうか。まあ,私の場合もある文章は集中して読んだり,その他の文章は気散じながら活字を読んだりした感じなので,うまく説明はできません。
ともかく,バルトは小説の型にはまらない小説的な作品を作ろうと構想しながらも1980年に事故で亡くなってしまうわけですが,晩年にはその構想の一端を読み取れる小文があったり,日記的な文章があったりと,本書はエッセイ集ではありますが,ジャンルというものを実践的に解体しようとしていたようなことが訳者あとがきに書かれています。まあ,本当のところは私には分かりません。

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ことば,この未知なるもの

ジュリア・クリステヴァ著,谷口 勇・枝川昌雄訳 1983. 『ことば,この未知なるもの――記号論への招待』国文社,512p.,4500円.

クリステヴァの本は,『テクストとしての小説』(原著1970年),『ポリローグ』(1977年),『セメイオチケ』(1969年)に続いて読むのは4冊目。どれも分厚いんですよね。でもとっても面白い。
前にもちょっと書いたように,今私が執筆しようとしている(といいながら,最近サボり中)テーマは「バベルの塔」。本書の存在はもちろん知っていたけど,先日早稲田の古書店で本書を手にしてビックリ。表紙をめくると,ヴァルケンボルグのバベルの塔の絵画が図版でついていました。まあ,ことばをテーマにした本書でそんな話があっても不思議じゃないな。
ということで,早速読まなければならなくなったわけです。『セメイオチケ』がクリステヴァの処女作だと思っていましたが,本書と同じ年に出版されています。どうやらついになっているようですね。テーマは同じでも内容はかなり異なっています。かなりオリジナルな議論が展開する『セメイオチケ』に対して,第一部が「言語学入門」というタイトルで始まる本書はかなり教科書的な内容。けっこう読むのが辛いです。第一部はソシュールから始まって,「ことばの物質性」,すなわち音としてのことばに関する議論を細かく紹介しています。どうしても私の関心は意味論なので,音韻論の議論はついていけません。
第二部は「歴史のなかのことば」と題して,人類学研究から,古代文明以降の歴史が辿られます。ようやく面白くなってくるのは第三部「ことばのいろいろ」のなかの精神分析に関する議論。
クリステヴァはブルガリア出身で主にフランスで活動しているフェミニストでもありますが,バフチンを再評価した初期の人物でもあります。こうして考えてみると,現代思想と呼ばれる分野での著作家のなかでもフランスの人たちは言葉にこだわるなあと思います。人類学のレヴィ=ストロースや,歴史のミシェル・フーコー,ロラン・バルトやジャック・デリダは当然のこと,精神分析のジャック・ラカンも。まあ,現代思想というもの自体が,言葉の捉え方から新しい方向性を見出しているわけではありますが,どこまで探求しようともいつまでも「未知なるもの」であり続ける,本質的なテーマなんでしょうね。

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記憶/物語

岡 真理 2000. 『記憶/物語』岩波書店,123p.,1200円.

実はロラン・バルトの『テクストの出口』を読んでいた。しかし,思わず吉祥寺stringsに忘れてきてしまい,帰りの井の頭線でその日吉祥寺の古書店で購入した本書を読み始めた。本書は岩波書店の「思考のフロンティア」というシリーズの1冊で,上記のように薄くて安い。内容的には重いものでしたが,かなりさらっと読むことができた。
岡 真理はアラブ文学研究者だが,ポストコロニアル・フェミニズムという,現代思想の流行のテーマを扱っているため,『現代思想』などにも寄稿していて,いくつか文章を読んだことはあったが,著作を読むのは初めて。
彼女の文章は少し不思議なところがある。もちろん,テーマ的にも難解な箇所があるのに,さらっと読めるのだ。まあ,それは小冊子で書き下ろしという,このシリーズものだからこそかもしれませんが,女性的なのかもしれません(などとフェミニストに対して書くのはどうかとも思いますが)。
本書の中心にはパレスチナ問題がある。はっきりいって私は戦後60年続いているこの問題について知るようになったのは,研究を始めて少し経ってからだ。さすがに,今日だとその問題がどういうものかは知らなくても,パレスチナという言葉は誰でも知っていると思う。しかし,私が高校生の頃,その名前はどこに登場しただろうか。しかも,最近よく聞くようになってからも,なにが問題何かも基本的に知らないのに「パレスチナ問題」というものが自明のように,ニュースでイスラエルの映像が流される。でも,本書はその基本的な知識も省略せずに書いてくれる。ヨーロッパの長い歴史のなかで迫害されていたユダヤ人は,第二次世界大戦でナチス・ドイツの「ホロコースト」に遭ってしまうわけですが,そんなユダヤ人を保護するために建国されたイスラエル。もちろん,米国が主導だったわけですが,今度はもともとその地に住んでいたパレスチナ人が迫害に会うことになったわけですね。もちろん,いきなりここに国を作るから転居してくださいといわれても,そんなことはできません。それが可能になるのは強制的な暴力を除いてありえません。詳細はまだ知らないことばかりですが,想像も及ばないすごいことですよね。
本書ではこの問題そのものを扱うのではなく,そういうことが(パレスチナ問題に限らず),映画や小説などに描かれることを深く考えようとしています。誰によって語られ,それを受け取る人たちはどのように受け取るのか。なかには是枝監督の『ワンダフルライフ』なども取り上げられていて,私では思いつかない視点が新鮮だ。私はこれは日本映画なのだからという前提からそんなことは自明なこととして観てしまったが,恐らく国境などない死後の世界のはずなのに,登場人物が全て日本人であるということは実は不自然なのかもしれない,ということだ。この物語に登場する老人には戦争の記憶があるが,この全て日本人であるということと,戦争を語るナショナリスティックな物語。これが本書で問われる,この映画の問題だ。
まあ,ともかくさっと読めて刺激がある,そんな魅力的な本です。

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パラケルススの薔薇

ボルヘス, J. L.著,鼓 直訳 1990. 『パラケルススの薔薇』国書刊行会,174p.,1800円.

ボルヘスについてはもう説明は要らないだろう。そして,彼の『伝奇集』には「バベルの図書館」という小文があり,またイタリアの出版社が同名のシリーズを刊行する企画の編者にボルヘスを選んだということもすでに述べた。
そして,この「バベルの図書館」シリーズの1冊として,このシリーズの企画者フランコ・マリーア・リッチの計らいにより,ボルヘス自身の短編集もこのシリーズに加えられたというわけだ。本書に収められた短編は以下の通り。

1983年8月25日
パラケルススの薔薇
青い虎
疲れた男のユートピア
等身大のボルヘス――マリア・エステル・バスケスによるインタビュー

訳者は『伝奇集』と同じ鼓氏なので,私がボルヘスの作品にも好き嫌いがあるというのは,やっぱり訳のせいではない。ともかく,この短編集はとても面白かったのだ。ボルヘスの作品を,初めて『不死の人』を読んだときの驚きをもう一度味わうことができた。そして,本書には貴重なインタビューと,そしてボルヘス年譜・書誌までついているところが嬉しい。
パラケルススとは16世紀前半に生きた錬金術師であり医者である。天文学から物理学,化学に生物学と,緩やかに近代科学へと移行する時期です。大学における文献医学を批判しながら,ヨーロッパ各地を遍歴しながら民衆たちの医療行為を行った人物。日本語でも『奇蹟の医書――5つの病因について』(工作舎)が読めます。それからも分かるように,パラケルススはルネサンス期の科学的思考を受け継いでいて,医学は天文学と密接な関係があります。そんなこんなで,パラケルススは奇怪文学のジャンルにも入れられるボルヘスの物語に相応しい人物。「1983年8月25日」では年代の違う自分自身がであったり,「青い虎」は未開の地での伝説の動物と,そして現地の人びととのやりとり。うーん,素晴らしい想像力です。

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悪の華

ボオドレール, C.著,鈴木信太郎訳 1961. 『悪の華』岩波書店,480p.,500円.

実は私は詩を読むのが苦手。まあ,そもそも想像力や創造力が欠けている私ですから,少ない言葉から自由に想像して楽しむってことができないんですね。しかし,本書はベンヤミンのフラヌール論を考えるのに重要なので,読むことにしました。ベンヤミンのフラヌール論は,著作集の6巻『ボードレール』で展開されるわけですが,そこに収録された「翻訳者の使命」という文章は,ベンヤミンが『悪の華』の第2章「パリ風景」をフランス語からドイツ語に翻訳したときの序文として書いたもの。そんなことで,とりあえず第2章を読んでみた。
ちなみに,『悪の華』は堀口大學訳でよく知られるが,私は岩波文庫版。そして,私は今回初めて詩を読んで面白いと思ったわけだが,詩の歴史についても何も知らないし,他の詩篇を読んでいるわけでもないので,ボードレールの特徴など何も分からない。でも,何も分からないなりになんだか書いてみよう。
ボードレールの詩については,本書に収められたポール・ヴァレリーの「ボードレールの位置」という文章や「年譜」,訳者の「後記」を読むだけでもいろいろ分かる。現代の詩をはじめとするさまざまな表現に対するボードレールの影響の大きさ,同時代的な批判の多さと社会的反響。発禁になったりしたこと。
そもそも,この「悪の華」というタイトルが象徴的だ。私が想像するに,詩というのは基本的には言葉の美しさによって世界の美しさを賞賛するようなもの。それに対して,ボードレールは汚いもの,醜いものに眼をやり,美の価値観を反転する。例えば,件の「パリ風景」には,ベンヤミンをして「19世紀の首都」といわしめた,大都市パリがその過密さゆえに生じるさまざまなほころびを描き出している。乞食,老爺,老婆,盲人,賭博といったタイトル。売春婦,酒,死,憂鬱,などなど。
その詩線は決して世界を美化しようとする理想的なものではなく,現実を見据えるものである。そんな,社会に向けられた批判的な視線がゆえに,私はこの詩篇を面白いと感じたのであろう。

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伝奇集

ホルヘ・ルイス・ボルヘス著,鼓 直訳 1993. 『伝奇集』岩波書店,282p.,560円.

珍しく定価で買った岩波文庫版。私はほとんど書籍は定価では買わない。古書店で多少なりとも安く買いたい。特に普通の書店で売っているような岩波文庫は古書店でも手に入りやすいが,この本はちょっと早めに読まなくてはならなかったのだ。というか,このボルヘスの主著を私が読んでいなかったというのは怠惰です。
下北沢にある書店「フィクショネス」は本書の原題からとられている。ここはHARCO「お引越し」のPVにも使われているように,HARCOもお気に入りのお店。HARCOと顔見知りになって間もない頃,私は彼に「1分の1の地図」という曲があることから,同じテーマを持ったボルヘスの「学問の厳密さについて」のコピーを上げたことがある。その時に,フィクショネスの話をしていたのだ。HARCOは読んだことがないものの,その書店の店長からボルヘスのことは聞かされていたとのこと。
さて,脱線しましたが,私は今文章を書いている。詳細はまだ明らかにできませんが,目下のところの小テーマは「バベルの塔」。その議論のなかで重要な作品であるポーの「盗まれた手紙」と「群集の人」を私が読んだのは,ボルヘスがイタリアの出版社の企画に応じてセレクトした短編集シリーズ「バベルの図書館」の11巻目,「エドガー・アラン・ポー」でだったんです。で,この「バベルの図書館」というタイトルは,この『伝奇集』に収められている短編のタイトルでもある,というわけで,本書を読まなくてはならなくなったのです。
ボルヘス作品の特徴を知っている人には冗長ですが,本書に本人の言葉で書いてあったので引用すると,「長大な作品を物するのは,数分間で語りつくせる着想を500ページに渡って展開するのは,労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は,それらの書物がすでに存在すると見せかけて,要約や注釈を差し出すことだ。」まあ,基本的にはオリジナルなフィクションなんだけど,ボルヘス作品を読む限りではそれがオリジナルなのか引用なのか,要約なのか,はてまたフィクションなのかノンフィクションなのか,よく分かりません。そもそも,そんなことをこだわることの無意味さを思い知らされます。
しかし,と偉そうに書きましたが,ボルヘスの作品を何冊か読みましたが,「面白い!」と思うものはそう多くありません。まだまだ,私はボルヘスを理解していないし,ボルヘス好きをも胸張ってはいえないくらい。本書も彼の代表作なので,かなり期待したのですが,やはり引き込まれる感じではありませんでした。

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Television

Raymond Williams 1974. Television: technology and cultural form. Wesleyan University Press: London, 153p.

テレビ研究といえば,日本ではジョン・フィスクの翻訳に偏っている。ハートレーとの共著『テレビを〈読む〉』(1978,未來社),大著『テレビジョンカルチャー』(1987,梓出版社),テレビ研究に限定されないが,『抵抗の快楽』(1989,世界思想社)。翻訳されているフィスクのテレビ研究は,基本的に記号論の枠組みに依拠している。それに対し,テレビ視聴者の問題を探求した社会学者にデヴィッド・モーレーがいるが,管見の限り彼の翻訳は1編の論文に限られている。それが収められたのが,テレビ研究の多様性を日本語で確認できる論文集,『メディア・スタディーズ』(せりか書房,2000)である。モーレーの「テレビジョン,オーディエンス,カルチュラル・スタディーズ」の他に,イエン・ヤング「経験的オーディエンス研究の政治性について」,リン・スピーゲル「家庭の理想型と家族の娯楽」が含まれ,その他日本人研究者のオリジナル論文も掲載されている,なかなかいい論文集です。
1992年に再販されたウィリアムズの本書には,このスピーゲルが序文を寄せている。この序文がけっこう難しい。ここで,ウィリアムズの説明もしておこうか。ウィリアムズは1980年代後半に亡くなってしまったが,英国批評の伝統を受け継ぎながらも,マルクス主義的新左翼の立場から批評の対象を文化的作品一般に拡げるとともに,それを独立して論じるのではなく,常に社会のなかで,その政治性をにらみながら,社会学に近いものとして,「文化唯物論」を主張した人物だ。翻訳には,私でもいまだに入手していない『文化と社会』,『長い革命』を代表作として,その後に名著『田舎と都会』,『コミュニケーション』『文化とは』『キーワード辞典』などがある。
『コミュニケーション』は英国の印刷メディアの状況を,具体的な内容分析を通じて論じたもの。本書『テレビジョン』はその続編ともいえる。しかし,本書の特徴はその副題「技術と文化形式」にある。この時代のテレビ論といえば,『メディア論』のマーシャル・マクルーハンであり,この技術決定論をウィリアムズは本書で批判している。マクルーハンの本は1960年代に発表されたが,その時代に新しく登場した電子メディアとしてのテレビにマクルーハンは大きな社会変革の期待をかけ,有名な「地球村」という概念まで生み出したのだ。
それに対し,ウィリアムズはテレビという新しい技術に基づく新しいメディア形式は,それまでいくつかあった古い技術と古いメディアの組み合わせにすぎないと主張している。それは視覚的な写真であり,それに運動を与えた映画であり,聴覚的なラジオであり,また,伝えるべきメッセージ次元での技術としては新聞や雑誌といった印刷技術である。もちろん,それらを組み合わせ電波によって広範囲におよび視聴者に同時間的にメッセージを伝えるのはテレビだけが用いる新しい技術であることも確認しての上だが。
ともかく,これまで社会のなかに浸透した古いメディアに対し,テレビのどんな部分が新しいのかを詳細に論じているのが本書との特徴といえる。なので,読んでいてもテレビに関する議論であることをあまり実感しないまま進んでいく。やっぱり微妙なニュアンスは英語では読み取りにくいです。
そして,中盤に「flow」という概念を導入して,具体的な番組プログラムの分析に移ります。この辺が『コミュニケーション』の続編という感じのするところです。英国と米国,国営放送と民放,5つの放送局を取り上げて,それぞれがどんなジャンルの番組を放映しているのか,そしてそれらの番組の連続性が時間帯とともにどう組織されているのか,そんな分析です。続いてはニュース番組の会話まで引用して分析していますが,この辺はサッパリ分かりません。日常会話的英語って苦手なんですよね。
そして,最後にはテレビの代替的利用と題して,テレビという新しいメディアの新しい可能性について議論されています。1974年に書かれた本なのに,1980年代のこととか書かれていて不思議。

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においの歴史

アラン・コルバン著,山田登世子・鹿島 茂訳 1990. 『においの歴史――嗅覚と社会的想像力』藤原書店,390p.,5000円.

コルバンの本は4冊目。読んだ順とページ数,値段を示してみましょう。
『浜辺の誕生――海と人間の系譜学』752p.,8800円
『人喰いの村』261p.,2800円
『音の風景』460p.,7200円
まあ,『人喰いの村』は小さい版で薄いのですが,とにかくコルバンの本は分厚い。なので,まずは購入するまでに勇気がいります。藤原書店の本は装丁も素敵なのでその分割高なんです。そして,本棚の肥やしになってから,ようやく意を決して読み始めるという感じです。まあ,長距離走を走り出す感じですか。
コルバンの本には毎回驚かされるのですが,この本は本当に素晴らしいです。読み物としても面白いし,学問的にも刺激的です。原題「瘴気と黄水仙」を「におい」と平仮名表記で別の表題にしたのは,「臭い」と「匂い」,つまり臭い匂いといい香りの双方を扱っているからだ。といっても,前者の方が強いのはいうまでもない。ヨーロッパで香水が生まれたのは,白人の体臭の強さを隠すためだ,と日本人はよくいいますが,まあ正しくはあるけど精確ではない。まあ,その辺の事情を詳しく書くことはできませんが,最近映画化された『パフューム』の原作が本書をネタにしているといわれるくらいですから,あの映画を観れば本書のエッセンスがいくつか出てきます。
もちろん,本書にはこのフィクションに含まれない要素が他にも沢山。本書が私にとって魅力的なのは,なにか一つのテーマに絞って議論を集中していくようなスタイルではなく,「におい」という一つの事柄を出発点に,さまざまなテーマが発掘されて論じられていくということ。一応,舞台はヨーロッパで,しかも英国とフランを中心にそれほど範囲は広くない。そして時代的には18世紀と19世紀に限っている。しかし,においに関する資料は膨大にあるのでしょう。それらを前に,本書自体も日本語で400ページに近い内容がどのように,コルバンの頭のなかで作られていくのか。歴史小説とは違って時代順に事柄を並べていけばいいのではない。上に書いたように,いくつものテーマに沿って資料を集め,そのテーマ同士の関連がなくては話になりません。もちろん,フィクションではありませんが,ストーリー性たっぷり。
しかも,コルバンの著作が地理学者の私にも興味を持って読めるのは,彼の研究がいつも地理学的テーマに直接関連しているから。『浜辺の誕生』はまさに海浜リゾートが成立する過程の調査だから,ある種の美的風景を,そしてその土地での経験を求めて人々が地理的移動を行う。『音の風景』で中心的に扱われるのは鐘の音ですが,その音は空間的な広がりを持っている。『人喰いの村』は人類学的調査ともいえますが,もちろん地理学的なモノグラフともいえる。
それらはタイトルから地理学的テーマを予想できますが,さすがに本書『においの歴史』まで,こんなに地理学的だとは思いませんでした。音と同様ににおいも空間的な広がりを持つものですが,特に本書で話題となっているのが,都市中心部の悪臭。コルバンが目指す歴史学は「感性の歴史」といわれ,上記の作品でも視覚や聴覚がテーマになっているのが分かりますが,本書ではもっとも歴史学者が取り組んでこなかった臭覚。しかし,それを生理学や心理学の立場からのみ接近するわけではない。感性そのものというよりも,感性を規準に人々が何かを決定して,それが物質的な実行に移されたり,社会的な制度が成立したり,ということです。なので,においをめぐる言説は『浜辺の誕生』に引き続きまずは医学。医学の一般化された言説ってのはいつでも大衆に強い影響力を持っているんですよね。最近でも,水を常温で大量に飲むことは美容にいいとかいって,皆ペットボトルで飲んでいますが,一昔前には運動中でも水分を摂ることは身体に悪いとか考えられていたんですから,いい加減なものです。
そして,この時代に急展開を遂げた科学としての,ラボワジェの化学やパルトゥールの免疫学なども,においというものの正体が科学的に解明され,それが身体に及ぼす影響に対する人々の恐怖。それを除去しようという権力者の意図。差別される人種,階級。衛生思想の普及。刑務所や病院で人々の規律=訓練。それは後に学校に普及する。ブルジョアの衛生観と,行政の政策に抵抗する民衆たち。
まあ,ともかくこんなところじゃ語りつくせません。こんな面白い歴史地理学の本を読んでみたいなあ。地理学者頑張れ!

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盲者の記憶

ジャック・デリダ著,鵜飼 哲訳 1998. 『盲者の記憶――自画像およびその他の廃墟』みすず書房,189p.,3600円.

デリダの本は何冊目だろうか。
フッサール『幾何学の起源』(デリダによる序説,せりか書房)
『声と現象――フッサール現象学における記号の問題への序論』(理想社)
『根源の彼方に――グラマトロジーについて』(上下巻,現代思潮社)
『エクリチュールと差異』(上下巻,法政大学出版局)
『ポジシオン』(青土社)
『尖筆とエクリチュール――ニーチェ・女・真理』(朝日出版社)
『シボレート――パウル・ツェランのために』(岩波書店)
『コーラ――プラトンの場』(未來社)
あまり読んでないなあ,と思いながらビックリするのは,全て出版社が違います。この手の人の翻訳本って,例えば,バルトならみすず書房とか,フーコーなら新潮社とか,セールなら法政大学出版局とか,ブルデューなら藤原書店とかけっこう固定しているんだけど,デリダはこれだけばらけていたんですね。
さて,余談はよして,本書はルーヴル美術館で開催された展示会のカタログです。さすがルーヴルといべきか,この展覧会は「偏見/決意」と題された一連の企画展で,直接芸術には関係ない人が,ルーヴルの所蔵作品から選び出してあるテーマのもとに展示をするというもの。その第1回がデリダだったようです。デリダが選んだのは表題にあるように,盲者が描かれているもの,もしくは自画像。特に素描画が多く選ばれていて,本書にも71の作品が掲載されています。なぜ盲者と自画像なのか。そのことは本書の前半部に説明されていますが,明確には理解できません。まあ,デリダの場合には常識では結びつかないようなものを語源や感覚的なもので結びつけるってのが普通のなので,その理由を追求しては面白くありません。その,結びつきそうにないものを結び付けて考えた時に新しい発想が生まれればよいのです。まあ,自画像を描くには視覚を必要とせず,記憶さえあればよいのだ,そんなことも書かれていたような気がします。それにしても,盲者が描かれた絵画作品(その多くが17世紀から19世紀までのものですが)がけっこう多いことに驚きます。単に盲者であるだけでなく,目隠しをして手探りで歩く人なども含めて。
デリダには少ないながら,『絵画における真理』などの芸術論がある。芸術論の中心は絵画であり,絵画は視覚芸術の代表的なものだが,それを論じるということは人間の視覚について論じることでもある。という具合に,本書は視覚芸術のなかに視覚にかかわる要素を含んだ作品を論じることで,視覚芸術の根源を見据えているのかもしれない。自画像も視線の方向性という点では特異なジャンルである。自らの視線を向けて自らを描く。鏡で自分の顔を写実的に描けば自ずから描かれた顔とそれ観る人は目が合うわけだけど,自画像というものが必ずそうした視線を持っているわけではない。
まあ,そんなことは決して書かれていないのだが,私の勝手な解釈で書いてみました。そもそも,本書はやはり他のデリダ作品に比べると読みやすいとは思う。実際に前半部では図版を解説しながら,時代背景なども考慮しつつ論を進めていて読みやすい。しかし,途中からは図版を参照することもできずにどんどん読者を置いて進んでしまう。まあ,それがデリダ読書の面白いところではありますが。
そんな感じでデリダの本にしては珍しく3日で読み終えてしまった作品でした。

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恋愛論

竹田青嗣 1993. 『恋愛論』作品社,273p,1890円.

学部生の時,阿部 一という地理学者の論文を読んだ。その当時は私は現象学など名前すら知らなかったが,英語圏の地理学ではすでに1970年前後に「現象学的地理学」なるものがあって,日本でも早くにその紹介はあったんだけど,その英語圏地理学を経由しながらも独自に現象学を取り入れようとしたのが,阿部 一の論文だった。これが私には非常に刺激的で,そこに引用されていた竹田青嗣氏の『現象学入門』(NHKブックス)を読んだわけだ。そこでは,デカルトからカント,ヘーゲルからフッサール,ハイデガーにサルトル,メルロ=ポンティといった,名前だけ知っている(フッサールとメルロ=ポンティは知らなかった)ビッグネーム哲学者たちが非常に単純明快に解説されている。それもとても面白く,当時新刊書として出版された本書を購入し,竹田氏の入門書ではなく自身の哲学書を読んでみたかったのだ。
しかし,本書を読む前に,私はバルトやデリダと読み進み,自分の研究も進めていった。そんなことをしているうちに,『現象学入門』はあまりにも分かりやすさを優先するばかりに表面的な議論が並べられているに過ぎないことが分かってくる。だからといって,上であげた哲学者の原著(もちろん翻訳ではあるが)を読むこともなく,私はいわゆる現代思想と呼ばれるジャンルの本を読み漁っていた。
しかし,そんななかでももう一度竹田青嗣に出会うときがきた。博士課程に入ろうとする頃,私は1970年代の日本のポピュラー音楽を研究対象にしようと考えていたのだ。ポピュラー音楽の研究は英語圏の地理学でもまだ2本くらいしか論文がなく,また日本の地理学以外でも社会学者の小川博司氏くらいだった。まあ,私の場合は音楽理論などできるはずはなかったので,音楽の研究といっても,歌詞の分析と音楽をめぐる社会的な問題を考えていたが,歌詞の分析をした本が竹田氏にあったのだ。井上陽水の初期の作品を分析した『陽水の快楽』(河出書房新社,1986)だ。歌詞の分析というよりはかなり意味不明な陽水の歌詞から,勝手にハイデガー流の哲学論を展開するというものだった。ある意味ではヒッチコックの映画の細部からラカン流の精神分析論を展開するジジェクの『ヒッチコックによるラカン』に似ていないこともない。ともかく,初めて読んだ時にはけっこう意味不明だったがかなりの刺激を受けた。
しかし,相変わらず『恋愛論』の方は本棚の肥やしだった。むしろ,以前の恋人が先に読みかけてしまったくらいだった(読了したかどうかは不明)。ともかく,当時の私は新刊でも購入するとすぐに髪のカバーを捨ててしまう癖があったので,読んでいないまま古書店に売ってもはした金だ。なので,すぐ読めるだろうと,洋書が読み終わるだろうと思ったときに一緒に持って行った。
案の定,とても読みやすいものだった。『陽水の快楽』の方は難解で面白かったのだが,こちらはかなり軽い。前者が哲学書だとすると,こちらは批評書だ。まあ,本人は批評書だと明確に書いているので問題はないのだが,後半はヨーロッパおよびロシアの文学古典作品を使ったもので,前半はプラトンなどを取り上げながらプラトニズムとエロティシズムの対比について論じ,中盤にはフーコーなどを持ち出し,ヨーロッパ人の恋愛の歴史まで参照する。竹田氏の本をそれまで2冊しか読んでいない私だが,勝手に彼は自分独自の哲学論を展開するためにさまざまなテクストを利用するタイプの書き手かと思っていたので,かなり肩透かし。けっこう堅実な批評書です。しかも,改行が多い。
やっぱり私が好きな恋愛論はなんといってもロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』だ。竹田氏はあとがきで,恋愛の謎とは,恋愛の経験は客観化された理性的観点では理解できないことにある,といいながらもやはり本書は理性によって成立しているようにしか思えない。バルトのような詩的な方法がはやり最適ではないか。

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post-structuralist geography

Jonathan Murdoch 2006. Post-structuralist geography. Sage: London, 220p.

『ポストモダン地理学』というのは地理学者ソジャの主著であり,青土社から翻訳も出ている。確か,この『ポスト構造主義地理学』はネットではなくて,日本の書店で見つけたような記憶がある。まあ,地理学に「ポストモダン」という形容詞がつくのは十分理解できるが,「ポスト構造主義」ってのは正直驚いた。というのも,私は自分の論文で「ポストモダン」なんて言葉は滅多に使わないが,「ポスト構造主義」という言葉は苦し紛れに最近よく使っているからだ。しかし,もうちょっと驚くことは,すでに1999年にMarcus Doelという人が『Poststructuralist Geographies』という本を書いていること。でも,Geographiesと複数形にするのは十分にありえる。
そんなことで,なんとなくへんな期待を込めてペーパーバックながら日本で販売される値段はそう安くない(5000円弱だったと思う)のに購入してしまった。そして,昨年から始めた「洋書を辞書なしで気軽に読もう運動」の一環として読むことにした。読むべき洋書はそれこそ山のようにあるのだが,新刊書ほど読むんだったら先に読んだ方がよい。
ソジャ流のポストモダン地理学を考えれば,私が本書に込めた期待は容易に裏切られるのは分かってたんだけど,結論からいうと,「ポスト構造主義」という形容詞は私が期待するようには「地理学」という名詞にかかってくれなかった。そもそも,私の場合利用しているのはポスト構造主義的記号論であって,それはテクスト解読に用いるものであって,地理学的主題に直接関わりがあるわけではない。つまり,私の研究はポスト構造主義地理学ではなく,地理学におけるポスト構造主義的研究であるからだ。こんなことを書いても,このblogの読者でこの両者の違いが分かってくれる人は皆無だとおもうけど。とりあえず,目次を。なお,本書ではほとんどpost-structuralismとハイフンが入ります。

1 ポスト構造主義と関係空間
第1部 諸理論
2 規律=訓練と統治の空間
3 異種混交的連関の空間
4 ネットワークトポロジーにおける空間
第2部 諸事例
5 空間の脱/秩序化 I:自然の事例
6 空間の脱/秩序化 II:計画の事例
7 空間の脱/秩序化 III:食物の事例
8 ポスト構造主義的生態学

こんな感じで,1章は序文,8章はあとがき。1部の理論編と2部の事例編とに分かれていますが,理論と実証を分けるというのもポスト構造主義的でないところが面白い。もちろん,理論と実践なんて区別が明確というわけではないし,有効でもないことはきちんと書かれている。また,実際に内容的にも1部と2部は便宜上の区別でしかない。
それにしても,地理学者が書く本は日本語でもそうだが,英語でも相対的に理解しやすい。日本語の場合は退屈だが,英語の場合には読みやすくて良い。でも,個々の文章が理解できるからといって内容を全て把握したわけではない。やはり読む期間が相対的に長くなるため,はじめの方をどんどん忘れてしまうのだ。でも,この日記に書くくらいだったらその方がいいし,読了してそれほど刺激的だったという本でもなく,主張は一つだったように思う。要は,空間にある種の秩序を求めたり,ある大きな理論によって普遍的な真理や法則を見出すようなことではなく,重要なのは多様性とか複数性,複雑性をそのまま理解することだ。日本の地理学者山野正彦さんも,かつての地理学の多くは構造主義的であると書いたことがあった。それは,レヴィ=ストロースなどの議論を参照することなしにも,因果論的な思考のなかで,結果として現れる現象を調査して,そこから背後に隠れた原因を探るという研究はいかにも構造主義的だ,というわけです。本書の発想もそれに近いところがあり,そういうかつての思考法ではなく,新しい思考法を地理学に,という感じでしょうか。なので,研究対象としての現代社会自体の新しさも含んだポストモダン運動としてではなく,認識論的な新しさということで,ポスト構造主義的,ということになるのでしょうか。
参照されるのは,まずはフーコー。2章はほとんどフーコーの解説に当てられています。いまさら1章も使って解説してどうすんの?って感じです。3章はアクターネットワーク理論について解説されます。これはブルーノ・ラトゥールという人物による科学史における理論とされています。私は全然知りませんでしたが,ラトゥールの著書はすでに翻訳されていますし,実はアクターネットワーク理論を参照した日本の地理学論文も一つあったんです。そして4章ではそこから発展して,理論編の最後にジル・ドゥルーズとミシェル・セールの名前が出てきます。ドゥルーズは1冊,セールも2冊しか読んでいませんが,その研究が多様すぎてそんな簡単に言及できるようなものではないと勝手に思っている。でも,それを可能にするのは,かれらへの言及が孫引きであり,実際には仲介者の解釈が介在していて,すでに自らの目的のために方向付けられているということです。しかし,フーコーをポスト構造主義的思考の基礎として,そこからアクターネットワーク理論,そしてそれを空間の解釈につなげるための触媒としてのドゥルーズとセールという形で,空間の捉え方へと発展していくのだが,そのやり方にあまり素直に説得されない。このアクターネットワーク理論がどうフーコー理論と関わりがあるのか。ネットワークという考え方は私の拙い理解ではシステム論とあまり変わりないように思うが,自然科学における複雑系の議論も,ルーマンの社会システム論も参照されないし本書を読んだ限りでは,あくまでも因果論の延長線上にしか理解できない。トポグラフィとトポロジーの対比もまあ,多少は明確な区別ではなく流動的な概念対比として捉えようという意図は伝わりますが,有体のものにすぎない。パノフスキーによるイコノグラフィとイコノロジーの区別の方がよっぽど刺激的だ。
さて,第2部の事例だが,議論としてはとても興味深いような気がするんだが,説明が冗長な箇所があったり,私の言語的制約もあっていまいちはっきりと分からないところもある。そういうところが事例編でありながらポスト構造主義的なのだとしたら評価するべきかも知れない。5章と6章はかなり関係がある。事例編から,徐々にエコロジーへと議論が収斂していく。もちろん,ここでいうエコロジーとは一般社会の理解における運動としてのそれではない。生物学の一分野としての生態学。そしてそれを戦前に社会学に持ち込んだ人間生態学,および近年の政治生態学。なお,政治生態学はラトゥールとも関係が深いらしい。計画=Planningとは人間による空間デザインだから,地理学も関わりたがる分野ですが,どうしても建築畑が強い。そこで,地理学が強い人間-自然関係を取り込んだ議論をすれば独自な色を打ち立てられるということだろうか。でも,実は事例編のなかでも一番短い7章がけっこう面白い。というよりか,分かりやすいのだ。食物の問題を取り上げているが,グローバル化のなかで生産者から消費者までのプロセスが複雑化していく2つの対極の分野として,マクドナルドとスロウフードを取り上げるのだ。私の講義の受講者のなかでは,レポートの課題としてマクドナルドを取り上げる学生もいるが,まあ当然ではありますが,議論には天地の差があります。でも,もうちょっと面白くなる素材のような気もします。スロウフードも日本ではこの言葉はまだそれほど一般的ではなく,むしろ自然食品などの話と思って読んだわけですが,それほど説明が少ない。英語圏ではスロウフードといったら一定の具体的なものが思い浮かぶのだろうか。
最後の方にはフェリックス・ガタリの『3つのエコロジー』におけるエコ主体性からヒントを得て,ジオ主体性なんて概念を提示してみるけど,イマイチ中途半端だ。

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デリダ論

ガヤトリ・C.・スピヴァク著,田尻芳樹訳 2005. 『デリダ論――『グラマトロジーについて』英訳版序文』平凡社,251p.,1100円.

大晦日に帰省した。帰省といっても埼玉なので普通列車で2時間もかからない。実家では退屈なのでパソコンを持って行くが,それに気をとられて車中で読む本を忘れてしまった。今回は一人で帰らずに母親を日比谷まで呼び出して映画を観て,2人で帰ることになっていたので,銀座で急遽本を買う。そんなことで購入したのが本書。
といっても,本書の存在は知っていた。しかも,日本語訳が出る前からこの文章の存在はしっていたのだ。私は1997年に,当時大学院生として所属していた東京都立大学理学部地理学教室が発行している英文紀要に短い論文を載せたことがある。というのも,理学部なので人文地理学をやっていても,博士論文は英文で書かなくてはならず,それに加え,博士論文を受領してもらう条件ってのがあって,その一つに英語の論文を持っていることってのが含まれていたのだ。それはさまざまな固有名論を参照することで,地理的な名詞,すなわち地名について考察したものだ。有名な固有名論にはいくつかあるが,私がかなり参照した本にデリダの『グラマトロジーについて』(邦題は『根源の彼方に』)がある。当然,私は日本語訳を読んでいたわけだが,英文の論文に引用する場合はやはり英語訳を参照する必要がある。さすがに,フランス語を日本語に訳したものを,フランス語も分からずに日本語から英語に翻訳するのは気が引ける。それに第一デリダの難解な文章を英訳するなんて。
そこで,スピヴァクが1974年にフランス語の原著を英語に翻訳したものを購入していたのだ。スピヴァクはその後,1987年の『文化としての他者』で知られるようになるわけだが,実はこのデリダの訳書にはスピヴァクによる序文がつけられていたのだ。354ページの本文に対して,なんと80ページの序文がつけられているのだ。でも,これは驚くべきことではない。なんと,翻訳されたデリダも同じことをしているのだから。1967年の『声と現象』でデビューしたデリダは,その以前,1962年にフッサールの『幾何学の起源』をドイツ語からフランス語へと翻訳し,それに本文より長い序文をつけているからだ。この本は日本語にも翻訳されているが,むしろフッサールよりもデリダの文章を読むために翻訳されているようなものだ。320ページ中,デリダの序文は256ページに及ぶのだから。

なので,このスピヴァクによる序文の存在を知ったとき,ある意味心躍った。せっかく私の手元にあるのだからそのうち読んでやろうと。といううちに8年が経過し,日本語訳が出てしまった。でも,原著は1974年のものだから,ある意味では今頃翻訳されるのはおかしな話だが,私のように最近この文章に出会って衝撃的に翻訳してしまったのかもしれない。ちなみに,役者は1964年生まれ。
訳者解説によると,デリダの著作の英訳はこのスピヴァクによるものが初めてであり,またスピヴァクは米国でデリダ流の脱構築を広めたポール・ド・マンの下で学んだというくらいだから,このスピヴァクの序文が英語圏での本格的なデリダ論の初期のものだといえる。しかも,デリダばりの序文であるから,単なる読者に優しい分かりやすい説明文では決してなく,むしろデリダを解釈しているのだ。この『グラマトロジーについて』を中心としつつも,もちろん『声と現象』,『エクリチュールと差異』,インタビュー集である『ポジシオン』,そしてこの訳書が発行される年に原著が発表された『弔鐘』のすべてについて検討しているのだから,今読んでも全く遜色のない前期デリダ論だ。
といっても,これから脱構築を米国で盛り上げていこうという意気込みが感じられる文章は,もう「脱構築」という概念をすっかり死語にしてしまった21世紀の日本においては古臭くみえるのは否めない。といっても,私個人としては脱構築という言葉に出会い,デリダの著書を読み始めて十数年。いまだ私の思考にとってデリダの思想は,この前期に限っても十分に理解できていない未知の領域が広がっているし,単に40年前に書かれたものだからというだけの理由で引用するのは恥ずかしいと思うような人とは違う。なので,本当に十分に刺激的なないようでした。でも,やはり脱構築を批評に応用しようというような内容はちょっとあれですが,ニーチェやハイデガー,フロイトなどとの関連付けは全くその考察に古いものは感じさせません。

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一般言語学

ローマン・ヤーコブソン著,田村すゞ子・村崎恭子・長嶋善郎・八幡屋直子訳 1973. 『一般言語学』みすず書房,317p.,3000円.

ソシュール『一般言語学講義』と並んで,構造主義的言語学の古典。以前,自分の論文で勝手に「ヤコブソンモデル」などと言及したことがあったが,ようやく読むことができました。前半の「第一部 一般問題」はとても素朴な言語の問題を論じていて,とても面白い。ハヤカワ『思考と行動における言語』並みに面白いです。ちなみに,このハヤカワの著書は本当にお勧め。別に学問を志す人でなくても,目から鱗の知識が詰まっています。
さて,ハヤカワの著作に比べ,こちらはやはり言語学の専門書。「第二部 音韻論」辺りからかなり訳分かりません。確かに,言語学においてはこの言葉の音の側面は重要です。それは後半にも関わってくるのですが,そもそも言語学を専門にしてない私にとっては退屈極まりない内容。まあ,ソシュールにも「音声学の基礎」が含まれていますから,しょうがありません。「第三部 文法」もかなり難しい。そもそも,著者のヤーコブソンはモスクワ生まれでチェコに移り,ナチスに追われデンマークとスウェーデンに滞在し,最終的にはアメリカに渡るという経歴で,本書で引用される文献も何ヶ国語に及んでいることか。さすが言語学者といった感じで,せいぜい英語くらいしか分からない私にとっては,文法の話はチンプンカンプンです。
ようやく「第四部 詩学」に入って,例のヤコブソンモデルが登場します。以下のようなコミュニケーションのモデルですね。

       コンテクスト
発信者   メッセージ   受信者
        接触
        コード

本書は言語の問題を非常に広く捉えています。それこそ,動物行動学なども参照しながら,動物の間で交わされるコミュニケーションと人間の言語の本質的な共通性と違いについて。はたまた,レヴィ=ストロースの人類学への言及もあります。物理学や生理学への参照もあり,人間の言語交換における物質性の問題も視野に入れています。
ともかく,内容盛りだくさんの必読書。

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二人であることの病い

ジャック・ラカン著,宮本忠雄・関 忠盛訳 1984. 『二人であることの病い――パラノイアと言語』朝日出版社,232p.,2100円.

ラカンの業績は1932年の学位論文『人格との関係からみたパラノイア性精神病』から始まると一般的にいわれているようですが,本書に収められたのはほとんどその前後に書かれた文章である。

症例エメ(1932年)
《吹き込まれた》手記――スキゾグラフィー(1931年)
パラノイア性犯罪の動機――パパン姉妹の犯罪(1933年)
様式の問題――およびパラノイア性体験形式についての精神医学的考想(1933年)
家族的複合の病理(1938年)

訳者まえがきにあるように,ここに収められたどれも短めの文章は症例の説明部も少なくなく,どちらかというとその分析や解釈に物足りなさを感じるくらい。逆にいうと,抽象的な議論が少なくて読みやすい。
「症例エメ」では突然女優にナイフで切りつけたという女性の事例である。「《吹き込まれた》手記」では精神病院に入院して1年の34歳女性の手記の分析。「パパン姉妹の犯罪」では,とある裕福な家庭で女中奉公をしていたパパン姉妹が特に対して理由もなくその家の奥さんを残忍な方法で殺害してしまったという事件。本書のタイトルはここからきているようだ。このパラノイア性犯罪はこの姉妹が2人そろっていたからこそもたらされたとのこと。残り2編の文章は一般論になっている。
ちなみに,最後の文章のタイトル「複合」はコンプレックスのこと。フロイトの有名なエディプス・コンプレックスも同じ。マザコンのコンもコンプレックスのことです。シネコンのコンも同じ。コンプレックスとは複雑という意味もありますが,この語自体複雑な複数の意味を持っています。

うーん,やっぱり書かれていることは難しくなくても,これをどう消化したらよいのか,ということになるとやっぱり難しいな。この辺で勘弁させていただきます。

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プラトン全集5

プラトン著,鈴木照雄・藤沢令夫訳 1974. 『プラトン全集5 饗宴・パイドロス』岩波書店,314p.,3200円.

本書に収められているのは「饗宴――恋について」と「パイドロス――美について」です。
以前『ヘドウィグ・アンドアングリーインチ』という同性愛の映画があった。劇中のアニメーションと,主題歌の「the origin of love」の歌詞がこの「饗宴」をモチーフにしているというので,非常に読みたかったのだ。「饗宴」は岩波文庫でも出ているけど,ゆくゆくのことを考えるとやはり全集が欲しくなって,古書店で見つけるまで待っていたのだ。また,これは手元にあるフィチーノの『恋の形而上学』のネタ本でもあるし。
さて,ところで『ヘドウィグ』に登場する物語は以下のようなものである。そもそも人間は手と足を4本ずつ持ち,頭を2つ持っていた。そんな人間は3種類いて,男と女,そして両性具有の男女である。その後,ゼウスがこの人間を全て2つに切ったのだという。その切り口を縫い合わせたのが臍になった。2分された人間たちはそれぞれの片割れを捜し求めるというのが恋の始まりだというのだ。
と,このアリストパネスによる説明によれば,3種類の人間がそれぞれ均等に存在したとすると,異性愛は,もともと両性具有であった場合にしか成立せず,1/3。人類の2/3は同性愛者だということになる。これは美しい物語であると同時に『ヘドウィグ』のなかではとても都合が良い。でも,「饗宴」を読み進めると(実はその前に訳者の解説がついているのだが),このギリシャの時代に,「恋」といえば男性が若い男性に対して抱く感情のことであるのが普通であったらしい。

「饗宴」というタイトルは,話の内容には全く関係ない。単に,設定が10人以上の人物が集まる呑み会の場で議論される,ということからきているにすぎない。プラトンの著作にプラトンは登場しない。プラトンの哲学の師匠であり,自ら著作を残さなかったソクラテスが登場することが多く,また複数の人物が議論を交わして結論へと導かれる「対話篇」という形式で知られる。
私が読んだことのある「ティマイオス」と「クリティアス」ではさほど登場人物が多くなく,どちらかというとそのなかの一人が語る部分がほとんどだったが,「饗宴」はあまりに登場人物が多いので,なかなか本題に入らないし,また多くの人が自分の主張(あるいは他人に聞いた話)をするのが珍しく,シェイクスピア作品を読んでいるような面白さがある。
でも,その議論には主題があって,それは副題にあるように「恋について」であり,エロースという神をたたえることにある。エロスという言葉は皆さんご存知のように,性愛に関わるものとして理解していますね。2年前には『愛の神,エロス』という映画もありました。まあ,ともかく,ここでの話し合いの趣旨は「これまで人々はエロースという素晴らしい神についての賛辞を怠ってきた。皆で讃えようではないか」というものです。そんなものでもちゃんと哲学になるんですからすごいです。

さて,「パイドロス」はその名の通り,パイドロスという人物が,なんとソクラテスと対峙する対話篇。でも,パイドロスは自らの持論を展開するわけではなく,知り合いのリュシアスから聞いてきた話をソクラテスに知らせ,ソクラテスが長々とした持論を展開する。そのテーマは副題にもあるように「美」であるが,その副題自体はいくつかの説があるようで,「恋について」とか「魂について」とか。
まあ,ともかくテーマ的には「饗宴」と通じるものがあります。わたしたちの恋愛観なんてどうせ近代以降に作られたものですが,ここでは平気で同性愛的傾向が表明されます。それから,そのテーマに沿ってどのように話をするかという弁術論にも話が及び,こちらはずいぶん哲学的に難しくなってきます。弁術論とか修辞学とか,当時においては非常に重要な学問分野であったわけですから。

ちなみに,「プラトニック・ラヴ」とはもちろんプラトン的哲学に基づく恋愛観のことだが,面白い一節を引用して終わりにしよう。
「恋する者の多くは,恋人の性格を識ったり,またその他一般に恋人の身の上の事柄に通じたりするより前に,まずその肉体を欲しがるものだ」(p.145)。

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地理学を学ぶ

竹内啓一・正井泰夫編 1986. 『地理学を学ぶ』古今書院,378p.,3200円.

本書は,編者の2人が16人の地理学者にインタビューをした記録である。
日本の大学に地理学の講座が設置されたのは,京都大学が明治40(1907)年,東京大学が明治44(1911)年。本書の刊行年にはもちろん,当時の地理学者はこの世にいない。著者たちは日本の地理学を立ち上げた人たちのことを「第一世代」と呼び,かれらから学んで後の地理学を盛り立てた人たちを「第二世代」と呼ぶ。もちろん,この世代の人たちの多くも亡くなっているが,幸いこの頃に存命だった16人にインタビューをしている。
私の記憶では,同様の試みが英語圏でも活躍していたフランスの地理学者アン・バッティマーによってなされ,彼女とそれなりに親しかった地理学史研究者である竹内啓一氏がその研究の一環として行ったものである。インタビューを受けた人たちは既にこの頃80歳以上の高齢。もちろん,従来の学史研究であれば,かれらが残した研究業績を丹念に読み解くことが重要であるわけだが,この頃英語圏や仏語圏で登場した「コンテクスチュアル・アプローチ」をも念頭において,文献研究では得られない情報を得ることが目的であるように思われる。大学や学会といった,学問を支える社会制度的なもの,そして何よりもそれに先立つ人的関係。

といっても,このインタビューはある意味非常に形式的である。出身地や生い立ち,いつ頃地理学を志したのか,就職のこと,研究のこと。でも,やっぱり老人の話はある意味面白い。そして,大学への就職や,大学での講義など,いまほど格式ばっていないところがよく分かり,意外にも今日よりも自由な研究環境だったようにも思う。そして,そのアグレッシヴな人生。とてもかないませんな。
地政学の研究もしている竹内啓一さんが聞き手の一人だったわけですが,本人は期待したほど戦後タブー視されてしまった日本の地政学については得るものがなかったとのこと。まあ,やはり本人たちの口からそうしたことを聞き出すのは容易ではないし,そこにこだわりすぎると他のことが聞き出せなくなる危険性もある,ということなのでしょうか。
でも,当時のことをほとんど知る由もない私からすれば,いかに日本では地理学が弱小学問であるといえども,戦争への関与がけっこう垣間見ることができました。とにかく,読み物としても面白い。

それにしても,編者の一人である竹内啓一氏は2年前になくなってしまった。久武哲也氏も今年7月に,そして本書にも数枚の写真を提供している石井 實氏がつい先日,他界してしまった。まだ地理学に足を突っ込んで十数年だが,こうして少しでも関わりのあった方々が亡くなると寂しいですね。

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The language of landscape

Spirn, A. W. 1998. The language of landscape.Yale University Press: New Haven, 326p.

久し振りの読書日記です。
先日神保町にいったらすっかり様変わりしてしまった北沢書店で10年ほど前に購入したと思われる本。まだ10年前は,買っておけばそのうち読むだろうと思ってけっこう洋書を買っていた。神保町の北沢書店は品揃えがなかなか渋く,地理学のコーナーはないんだけど,たまに地理学者の本も置いてあったので,前はよくチェックしていたのだ。
著者について,あまり書かれていないのだが,1947年生まれの女性であることは分かる。著者の専攻はlandscape archtectureであり,日本語で造園という。購入する際に目次を読んだときには,単なる学術書ではなく,実際の地域計画にも関わるようなものでありながら,自ら撮影した写真を掲載するなど,芸術実践的な側面もあると思って,若い著者かと思いきや,読み進めるうちにけっこう考え方が古いことに気づく。

コスグローヴなどの最近の地理学者の批判的な景観研究も参照しているんだけど,結局はトゥアンのような,そして同じ建築畑ではノルベルク=シュルツのような博学的ヒューマニズムが根底にあるように思われる。先人の知恵を学び活かすことですぐれた景観設計をしていくことで明るい未来がやってくる,というような,景観は社会のなかで重要な役割を果たす,的な結論だったように思います。
本書の文章はとても読みやすいところとそうでないところが明瞭なものでした。まあ,それだけ多岐に及ぶ内容でしたから,細かくみると面白いところもありました。一応,「景観の言語」というタイトルをつけているくらいですから,言語の意味体系と同じように,景観を捉えることができる,というのが本書の主張です。同じような発想は地理学のなかにも構造主義的記号論を参照しながら「テクストとしての景観」という議論がありましたが,それをさほど参照していない著者は,より素朴に景観要素を分解してそれぞれの関係性を考察するところなどはなかなか面白い。しかも,人間が作り出した文化景観のみならず,自然景観までをも,気候学や地質学を参照しながら考察しているところはあまりにも素朴で新鮮です。ある意味環境決定論的な議論でもありますが。
そんな考察は,先ほど「博学的」という表現をしたように,世界中から事例が参照されます。しかも,日本の事例がとても多い。表紙に使われている写真が京都の西芳寺(苔寺)になっているくらいですから。そして,当然のことのようにそこで参照される日本の景観は「わび」「さび」の世界です。しかも,自然決定論的に景観の説明がなされ,そこに日本精神が宿る,というような論調。一応,後の考察では日本では新旧が一体となり,特徴的な都市景観も存在するっていってるけど,結局は伊勢神宮とか,そんなものの建築景観が愛でられるというわけです。

かなり批判的に紹介してきましたが,本書はとても珍しい構成をしています。注の後に,「資料」というのがかなりのページを割いています。実際に現地調査に行った場所と時期,地図や資料,博物館の所在について,出版物については文献表として。著者が「景観作者」と呼ぶ人には芸術家や建築家,庭師などが含まれますが,その人たちに対するインタビューのこととか,出版されたものからされないものまでの資料について。そんな感じで,本書が出来上がるまでの過程が少しでも垣間見れるような資料がついているのは,とても親切だと思います。

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